徳島に伝わる、小さな小さな手提げ重箱。
その名は、「遊山箱 (ゆさんばこ) 」。
三段のお重が入った箱には、様々な絵柄が施されています。
この可愛らしい遊山箱。実は、子どもの節句で使われるお弁当箱なのです。
男の子も女の子も、みんな持っていた遊山箱
かつて徳島には、旧暦のおひな様の頃に春の節句がありました。毎年4月3日になると、このお重にご馳走を詰め込んで、子どもたちは野山へ遊びに出かけていきます。男の子も女の子も一人ひとり自分の遊山箱を持っていたのだそう。
「それぞれの家にカラフルな遊山箱がしまってありました。一年に一度、とっておきの時に使うものでした。毎年、私はこの日が楽しみでたまらなかったんです」
そう語るのは、徳島市内で漆器店を営む市川貴子さん。核家族化などが進行し、高度経済成長期の頃から次第に使われなくなっていった遊山箱を復刻し、現在に広める活動をされています。
塗りのお重を持って遊びに出かける子どもたち‥‥、なんとも雅やかな風習です。どんな様子だったのでしょう。市川さんが当時の情景と共に聞かせてくれました。
支度で家が華やぐ、特別なご馳走
「徳島の中でも、街中、海辺、里山と住んでいる地域によって少しずつ習慣は違ったようです。私は山の子だったので、野山でのお話です。
4月3日が近づくと、家の中で少しずつ節句の支度が始まります。採れたもち米を石臼で粉にしたり、小豆をさらしあんにしたり。
ちょっと家の中が華やいでくるんです。いつもは畑仕事で忙しい両親が家にいる、私のためにご馳走を作ってくれている。それがすごく嬉しくって。鮮やかに色付けされた寒天をちぎったりお飾りになる葉っぱを採ってきたりと、私もお手伝いをしていました。
前夜には、ういろうを蒸します。甘い香りが部屋中いっぱいになって幸せでしたね」
日本三大ういろうに数えられる、徳島のういろう。かつては各家庭にせいろがあり、それぞれの「家の味」があったのだそう。特別な日に登場する身近なお菓子だったといいます。
「4月3日の朝が来ると、母が作ってくれたご馳走を遊山箱に詰め込みます。巻き寿司にお煮しめ、ういろう、寒天。それから、ゆで卵に食紅で目を描いて葉っぱで耳を作った『雪うさぎ』もありましたね。普段は構ってくれない親がこの日ばかりは色々としてくれるんです。
ご馳走いっぱいの遊山箱を持って、お友だちと野山を駆け上がっていきました」
遊山箱片手に春の景色を
「高いところまで登って行って、万国旗を立てて陣地を作るんです。見下ろすと小学校への道が見えて、遠くには徳島港が広がっています。青紅葉、れんげ畑、タンポポ、菜の花と春の色を探したり、草すべりをしたり、野山を駆け回りました。
小さな谷を挟んだ反対側の小山にも同じように遊ぶ子どもたちがいるのを見つけて声を張り上げると、向こうからも反応があるんですよ。楽しかったですね」
「途中でお重を開いて、ご馳走を食べてはまた遊ぶ。遊山箱は小さいですから、すぐに空っぽになってしまいます。そうすると家に帰ってまたご馳走を詰めて戻ってくるんです。
巻き寿司なんて、普段は食べられないご馳走中のご馳走でしょう。みんな何度行き来していたかわかりません (笑) 」
実は、田に神さまを迎えるお祭り
それにしても、ご馳走はたっぷりでも遊山箱は小さい。なぜなのでしょう?
「春の節句は、農業が始まる時期をひかえ、田の神さまを迎えるお祭りだったんです。子供たちが山と里を行ったり来たりすることで、神さまが一緒に里に降りて来ると言われていました。なんだか可愛らしいですよね」
なるほど、田畑を耕す大人たちにとっても大事な日だったのですね。
地域の大工さんによる手仕事
この遊山箱のルーツは、江戸時代に使われていた大人数で使う大きな手提げ重箱。徐々にサイズが小さくなり、子どものものとして定着したのは大正期と考えられています。大工さんが端材を使って手頃な価格で販売したこともあり、広く浸透しました。
子どもが生まれたお祝いに、雛人形と一緒に贈るという地域もあったそう。
「地域によっては堺の商人が注文を取りに来ることもあったと聞いています。中には、お飾り用の越前漆器や輪島塗、螺鈿の施された見事なものもありました」
経済成長につれて消えていった遊山箱
各家に子どもの人数分そろっていた遊山箱。その後、高度経済成長期の頃から次第に使われなくなっていきます。
「核家族化が進む中で、兼業農家が増えていきました。お祭りもそうですが、準備に携われる人がいなくなってしまったんですね。遊山箱を作れる職人さんも次第にいなくなり、街の雑貨屋さんで時折見かける遊山箱は、昔の売れ残りばかりとなりました。
コレクターの方にお話を伺うと、建て替えや引っ越しをする古い家に『遊山箱を譲ってもらえないか』と訪ねていくと、快諾してもらえることが多かったそうです。遊山箱は高級な工芸品ではなく、お弁当箱です。思い出が詰まったものではあるけれど身近な存在だったが故に、守らねばという意識が働かなかったのかもしれません」
復活への原動力は、幼少期の幸せな記憶
幼い頃の春の思い出がいつも胸にあった市川さん。「いつか遊山箱を復活させたい」と願っていました。嫁ぎ先の漆器店でも「遊山箱はありませんか?」というお客さんの声を耳にします。
「お店が代替わりして、夫が経営を任されることになった時、これまで温めていた思いをぶつけました。今の時代に売れないのでは?という意見もありましたが、なんとかして実現させたかったのです」
市川さんの熱い思いが通じて、復刻への取り組みが動き出します。まず苦心したのは作り手探し。
「昔の遊山箱を集めることはできても、作る技術を持っている人がなかなかいなかったんです。各地の木地師さんや塗師さんに相談して‥‥助けてもらいました」
やっと復活にこぎつけた市川さん。かつてのデザインを元に、その柄も復刻させていきます。
「コレクターの方を見つけて昔のものをお借りしたり、思い入れのある方々の話を聞いてオリジナルの遊山箱を作りました。柄を鮮明に覚えている方も多いんです。それだけ思い出に残っているということなんでしょうね」
ギフトや体験と組み合わせて
願いが実り、復活した遊山箱。現在はどのように使われているのでしょう。
2018年に発足した遊山箱文化保存協会の理事を務める島内陽子さんに伺うと、時代にあった使い方も生まれているようです。
「ギフトや体験との組み合わせで遊山箱に触れてもらえる機会を増やしていければと考えています。
かつての遊山箱も、初節句のお祝いに贈ることがありました。他県に行かれる方への贈り物、お子さんの誕生祝いなど節句に限定しない使い方も提案しています」
もう一つの提案が、体験との組み合わせ。
「ホテルや飲食店と一緒にイベントを開催しています。ひな祭りやクリスマスなど季節ごとの行事で遊山箱を使ってお料理を提供したり、お菓子やお料理の盛り付けワークショップを開いたり、実際に遊山箱の魅力を体験できる場を設けています。3段重を生かしたアフタヌーンティーには、海外からの参加者もいらっしゃいました。
元々は春の節句に使うものですが、調べているといろんな使い方に出会います。お正月に、姉妹3人でそれぞれ自分の遊山箱におせちを詰めてもらって嬉しかったという思い出を持っている方もいらっしゃいました。食事の席が華やぐ器なんですよね。様々な使い方を提案して、興味を持ってもらうきっかけづくりをしています」
「遊山箱は単なるお重の名前ではなく、体験も含めた文化のことだと思っています。旅行で訪れた徳島の楽しかった思い出の中に、遊山箱が登場したら嬉しいですね」と市川さん。
遊山箱は、自然と人のおつきあいから生まれた文化。厳格な定義はない自由なものなのだそう。地域によって大きさや細工も様々。でも、共通しているのは、特別な気持ちで食事が楽しめること。
徳島の野山の景色に思いを馳せながら、自分たちの思い出を作っていきたくなりました。
<取材協力>
漆器蔵いちかわ
徳島県徳島市籠屋町1-1
088-652-6657
遊山箱文化保存協会
徳島県徳島市南昭和町1-39-1(オンザテーブル内)
088-625-3099
参考書籍:「遊山箱もって」 (やまざき じゅんよ 2019年 教育出版センター)
文:小俣荘子
写真:直江泰治
画像提供:テーブルコーディネートスタジオ ON THE TABLE
*こちらは、2019年4月1日の記事を再編集して公開しました