3年待ちのパン屋「HIYORI BROT」に全国から食材が集まる理由

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)の周辺の景色

リクルート社員からパン職人に

兵庫県丹波市の山間に、周囲を水田に囲まれた小さなパン工房がある。そこには、日本全国から個性的な食材が届く。

ある日は、青森のリンゴ農家さんが作ったライ麦。またある日は、八ヶ岳の標高1000メートルの畑で獲れた無農薬栽培の巨大なビーツ。つい最近は、台風で停電になり、冷蔵庫が使えなくなった千葉の農家から、ニンジン10キロ。

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)へ千葉から届いた人参
千葉から届いた人参

頭をひねり、あの手この手で、これらの食材を使ったパンを創作するのは、塚本久美さん。2016年、丹波市に通販専門のパン屋「HIYORI BROT(ヒヨリブロート)」を立ち上げた、パン職人だ。ちなみに、現在はパンの注文ができない。すでにこの先3年分の注文で埋まっている大人気店なのである。

それにしても、なぜ、塚本さんのところに食材が集まってくるのか? あるいは、集めているのか? これは「パン作りは、材料ありき」「パンはひとつのメディア」と話す、ちょっと変わったパン屋さんの物語である。

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)塚本久美さん
HIYORI BROT 塚本久美さん

塚本さんの歩みは、ユニークだ。明治大学卒業後の2005年、リクルートに入社。そこでは、転職情報誌の商品企画をしていた。企業が求人広告を出したくなる、人を採用できそうな企画を考えるのが仕事だった。

ハードワークだったが、土日はこっそりパン屋さんで、販売のアルバイトをした。学生時代のパンを愛する友人と一緒にパン屋巡りをしているうちに、パンの表現の幅広さと、それを作るパン職人の仕事に興味を持ち、「私もパン職人になりたい」と思ってのことだった。

小学生の頃からNHKの番組『手仕事にっぽん』が好きだったというから、もともと職人気質だったのかもしれない。

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)塚本久美さん

カリスマシェフのもとで修業

リクルートを3年で辞めた塚本さんは、縁あって東京の世田谷区にあるパン屋「シニフィアン シニフィエ」で修業を始めた。このお店のオーナーは、志賀勝栄シェフ。今日のパンブームの先駆け的存在で、パン業界では知らぬ人のいない、カリスマ職人だ。

師匠のパン作りへの姿勢が、塚本さんの原点になっている。志賀シェフは、常に新しいパンを構想していて、様々な食材を試していた。そのアイデアを形にするのが、現場の職人の仕事。塚本さんも、志賀シェフの自由な発想に翻弄されながら、見たことも聞いたこともないパンを作る日々を楽しんだ。

ちなみに、パンは焼き立てが一番!という印象があるなかで、塚本さんが通販専門という道を選んだのも、志賀シェフのもとで修業を積んだからこその決断だった。

師匠は、パンを急速冷凍させることで焼き立ての風味や食感を失わない手法を使い、取引先に冷凍パンを卸していた。そのパンは、店頭に置かれてしばらくすると劣化するパンよりも、明らかに風味が豊かで美味しかった。塚本さんは、「この方法なら店舗は必要ないし、結婚しても、出産しても、子育てしながらでも続けられる!」と閃いたのだ。

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)のパン

もうひとつ、現在の塚本さんのパン作りを方向づけたのは、ドイツでの出会いだった。2011年、師匠から1カ月の休みをもらった塚本さんは、ベルリンを目指した。そこには、学生時代に友人とドイツを旅行した際、一度だけ訪ねたことがあるパン屋さんがあった。

「石臼で小麦を挽いているのを初めて見て、衝撃を受けたんです。今は日本でも石臼で挽いているパン屋さんが少しずつ増えていますけど、当時は日本で見たことがなかったから。しかも、すっごくおいしかったんですよ」

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)塚本久美さん
塚本さんの工房にも石臼があった

ドイツでの衝撃

社会人になってからもこのパン屋さんのことが忘れられなかった塚本さんは、いつしか、ここで修業がしたいと思うようになった。そこで、ベルリンに向かう前に問い合わせのメールをしたものの、返信がない。そこで、アポなしでお店に飛び込んだ。

「この街に一カ月いる予定だから、働かせてくれませんか?」

そのパン屋さんも、驚いたことだろう。ドイツ語もままならない、日本人女性がいきなり働かせてほしいと訪ねてきたのだから。実際問題、労働ビザがなければ就労は不可能なのだが、突撃訪問に並々ならぬやる気を感じたのか、3日間の見学が許された。

そのパン屋さんは、ドイツのオーガニック認証「デメター」の最も厳しい基準をクリアしていた。食器を洗う洗剤でさえ、科学的なものは使えないというハードルの高い認証だ。使う小麦もすべて無農薬、無化学肥料で、天体の運行などによって種を播く時期や収穫時期を決めるバイオダイナミック農法で作られているものに限られていた。

近くの農家から直接仕入れた小麦は、製粉されたものではなく、袋詰めされた麦粒が届く。それを石臼で挽いて粉にする。無農薬栽培なので、袋のなかには虫が紛れ込んでいる。それが飛ぶと、巨大な掃除機で吸い込んでいく。「シニフィアン シニフィエ」でもいわゆる「小麦粉」しか使ったことのなかった塚本さんにとって、すべてが新鮮だった。

後日、ほかのパン屋さんの経営者と雑談をしている時に、日本のパンはなんでそんなに高いの? と聞かれた。「日本は、麦を作るのはあまり適さなくて、材料のほとんどを輸入に頼ってるから」と答えると、驚いた経営者はこう言った。

「うちは、だいたい50キロ圏内で取れたもので作ってると思うよ。みんな知ってる農家のものだし。だって、誰が作ったからわからないものを使うのは、怖いじゃない」

塚本さんの胸には、この言葉がずっと残り続けた。

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)の工房

石見銀山での発見

それから少し時が流れ、「シニフィアン シニフィエ」を辞めて、独立に動き始めた2015年。島根県の石見銀山にあるパン屋さんのオープンに合わせて、3カ月ほど手伝いに行った。その間に、塚本さんあての食材が届くようになった。きっかけは、島根に出向く前に会った、蕎麦屋の友人との会話だった。

「久美ちゃんちょっとさ、この小麦、使ってみてくんない?」

「え?」

「うちで使っている蕎麦の農家さんが裏作で小麦を作ってるんだけど、売り先がないのよ。農協に卸すとびっくりするぐらいの安値でしか買ってもらえなくて、牛の餌になるのが関の山じゃないかって気がするの。けっこう真面目に作ってるのにそれは寂しいから、パン焼いてみて」

はい、とおもむろに渡された小麦を持ち帰った塚本さんは、それでパンを作ってみた。それが思いのほかおいしく、「開業した際にはぜひ使わせて欲しいです!」と連絡をしたところ、その農家さんもよほど嬉しかったのか、手伝い先に小麦を送ってきたのだ。その小包のなかには、小麦を作っている畑のちかくになっていたという柚子も入っていた。

そこで、今度は柚子を使ったパンを作り、友人に送り返した。それにまた大喜びした農家さんは、次に近所中から集めて、たくさんの柚子を送ってきた。手伝い先のシェフも面白がって、一緒に小麦や柚子を使ったパンを焼いた。その時に、ふとドイツでの出来事を思い出した。

「あ、ドイツのおじちゃんが言ってたあの言葉って、こういう感覚かな?」

この時、塚本さんは心に決めた。

「なるべく顔が見える生産者さんのものを使おう!」

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)塚本さんのところに届いたブルーベリー
近所の農家さんのブルーベリーをドライに

値段交渉はしない

2016年10月、ヒヨリブロートがオープンすると、塚本さんは小麦からパンに使う食材まで、できる限り、知り合いが作ったものを仕入れるようにした。それをフェイスブックやインスタグラムで発信すると、そのうちに別の生産者から「これ使ってみてくれない?」と連絡が来るようになった。

塚本さんと生産者とのつながりは、友人知人からの紹介がほとんどで、だいたいは、メインで育てているものとは別に、趣味で、あるいは実験的にユニークな作物をこじんまりと作っている人が多かった。ただ、せっかく作ったはいいけど、売り先も使ってくれる人もいないという場合がほとんどだった。

「私に連絡をくれるのは、他の作物をしっかり作っている人が多いんです。だからポイントをつかんでいるんだと思うんですけど、たいがいすごく美味しいんですよ。それに、パン屋の中でもうちが作っている量は少ないので、少量でちょうどいいんですよね」

食材の仕入れに関して、塚本さんにはひとつルールがある。一度テストしてみて、おいしい、もっと欲しいと思った時に、安くしてほしいという交渉はしないということだ。質の高いものは、それに見合った価格で買い取る。その素材を使ってパンを作り、発信することで、生産者側の意識も変わっていった。

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)塚本久美さん

冒頭に記した、青森のリンゴ農家さんは「遊びでライ麦を植えてみたんだけど」と、最初に獲れた10キロを送ってきた。国産のライ麦は少ないうえに、届いたライ麦でパンを作るとおいしかった。

その感想を伝えて、「次はきちんと購入します」と言ったところ、そのリンゴ農家さんは「買ってくれるんだったら、真面目にやるわ」と作付面積を増やしたそうだ。塚本さんがSNSでこのライ麦を紹介したところ、欲しいという人も現れて、今では塚本さんの友人も購入している。

実験の日々

時には、どうやって使えばいいんだろう? と頭を悩ませる作物も届く。しかしもともと好奇心旺盛で、志賀シェフのもとで7年間修業した塚本さんにとって、むしろ、望むところである。

例えば、八ヶ岳から届いた、無農薬栽培のビーツ。鮮やかな赤紫色が特徴の野菜で、恐らく、パンの素材として使われているのを目にしたことがある人は少ないだろう。塚本さんは、これもしっかりパンにした。

「窯で皮ごと包んで焼いて、それを生地に練り込んでみたら、すごい色になりました。ビーツは砂糖大根の一種なので、甘みがあるんですよ。だから砂糖を入れないで作ったんですけど、すごく美味しくできました」

ほかにも、ヒヨリブロートの工房には普通のパン屋さんでは見ないような食材がたくさん保管されている。

岡山にある気鋭のワイナリー「ドメーヌテッタ」から送られてきた摘果ブドウは、冷蔵庫で冷やされていた。朝イチで近所の農家さんから受け取ってきたというブルーベリーもあったし、無農薬栽培のミカンの皮、いわゆる陳皮も干されていた。

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)にあった「ドメーヌテッタ」のブドウ

これらを使ってどんなパンを作るのか、工房では、日々、実験が行われているのだ。

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)のパンに使われる陳皮
HIYORI BROT(ヒヨリブロート)塚本久美さん

参加型パン屋さん

実験だから、失敗することもある。麹を入れた食パンを作った時には、数日後、耳以外の部分、あの白くてふわふわしたところが溶け落ちるという事態に直面した。

塚本さんは原因がわからず、起きたことありのままをフェイスブックに投稿した。すると、ヒヨリブロートのファンのなかで、麹に詳しい人たちがどんどんコメントを寄せ始めて、ヒヨリブロートのコメント欄は麹の謎についての意見交換会の様相を呈した。

「あれは面白かったですね。私はぜんぶ理解できたわけじゃないけど、味噌麹の熱耐性はすごいなということは覚えておきます(笑)。私は、誰かの役に立つかもしれないし、と思っていつも失敗をオープンにするんですが、そうするとみんなの知恵が集まるんですよね。うちは店舗がないから、フェイスブックページが店舗みたいな感じで、すごく、うまく使わしてもらっている気がします」

ここで、「なるほどそういうことね」で終わらないのが塚本さん。なんと、溶けた食パンを買った人たち全員に連絡を取り、どう保存していたのか、溶けたのか、溶けなかったのか、ヒアリング。さらに、日本酒麹に変えた食パンを送って、全員から溶けていないかどうか、毎日、報告をもらったそうだ。

「全員に実験に参加してもらう感じで、『うちのは今日も大丈夫です』みたいに連絡を取り合いました。そうやって協力してもらいながら、麹を入れた食パンを完成させました」

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)塚本久美さん

もし、僕が自分で購入したパンが溶け落ちて食べられなくなったら、一言クレームを入れたくなる。しかし、そのパンを作った職人さんから原因を探りたいと直接連絡が来て、改善するための実験に巻き込まれると、いつの間にか「一緒に答えを探そう」という気持ちに変わる気がする。そして気づけば、塚本さんのファンになっているのだろう。

ヒヨリブロートを真似してほしい

今や、ヒヨリブロートのSNSは、影響力を持ち始めている。ある日、佐賀のチーズ屋さんがホエーを使って作ったチーズをSNSにアップした。ホエーとはチーズやバターを作る段階に出る液体で、通常だと廃棄されるもので、その試みと美味しさに感嘆しての投稿だった。すると、そのチーズの生産者のもとに続々と注文が入ったという。

その逆のパターンもある。例えば、台風が来ると、生産者は事前に作物を収穫する。台風による被害を避けるためなのだが、そうすると、市場に野菜が溢れかえり、引き取ってもらえなくなる。野菜の鮮度は落ちていく一方だから、最終的には二束三文で買いたたかれるか、廃棄処分をすることになる。

そこで、台風が来ると、塚本さんは予め「うちが定価で引き取ります」とSNSに投稿する。それを見た生産者が、市場に持っていけない作物を塚本さんのもとまで届けに来る。塚本さんはそれを適正価格で買い取り、乾燥させたり、漬け込んだり、ソースにして保存する。ヒヨリブロートは、丹波近隣の小さな経済圏のひとつの中枢になっているのだ。

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)塚本久美さん

「今って、大きいサイクルより、小さなサイクルがいっぱい、いろいろなとこにあるほうが良いような気がしていて。だから、私がやることを真似してくれる人がどんどん出てきて、ライバル店がいっぱいできたらいいなぁと思うんです。

私は丹波の物を使う機会が多いけど、各地にできたら、それぞれの地元の食材を引き受けられるじゃないですか」

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)塚本久美さん

今、塚本さんのような活動をしているパン職人はほかにいないだろう。しかし、少しずつでも増えていけば、それだけ日の目を見る食材も多くなる。

未来のパン職人は、地元の生産者と二人三脚になり、いずれは、ドイツのように50キロ圏内で取れた食材だけを使うパン屋さんが生まれるかもしれない。その小さな経済圏のなかでもずっと、塚本さんは実験を繰り返しているのだろう。

HIYORI BROT(ヒヨリ ブロート)

HIYORI BROT(ヒヨリブロート)塚本久美さん

兵庫県丹波市氷上町
HP:http://hiyoribrot.com/

文:川内イオ
写真:木村正史

今、茅葺き屋根は世界のトレンドに。職人・相良育弥が伝える「茅葺きの魅力」

茅葺きに拾ってもらった男

茅葺き(かやぶき)の屋根という言葉から、どんなイメージが湧いてくるだろう? 千葉で生まれ、東京で暮らす僕の生活の身近には茅葺の屋根を持つ家がないから、思い浮かぶのはアニメ『日本昔ばなし』の世界だ。

でも、ところ変われば景色も変わる。神戸といえばシックな港町という印象があるけど、街の反対側、港を背にして山のほうに目を向けると、神戸市北区には茅葺きの屋根を持つ民家がなんと700軒も残っている。しかも、「旧〇〇邸」のような文化財だけではなく、今も実際に住んでいる人たちがたくさんいる。北区の住民にとっては、茅葺きの建物がある生活が今も日常に溶け込んでいるのだ。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

そこには、「茅葺きに拾ってもらった」という人もいる。北区で生まれ育った、相良育弥さん。今年8月、NHKの番組「SWITCHインタビュー 達人達」で、俳優・映画監督の奥田瑛二さんとの対談が放送されたから、記憶に残っている読者もいるかもしれない。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

淡河かやぶき屋根保存会「くさかんむり」の代表で、神戸市内の茅葺き屋根のメンテナンスや修理、葺き替えを生業にしながら、店舗の壁やイベントの舞台などで現代的な茅葺きを表現する気鋭の茅葺き職人だ。

それにしても、「茅葺きに拾ってもらう」とはどういうことだろう? その人生をたどる前に、そもそも茅葺きの「茅(かや)」がなにか、それすら知らない自分に気が付いた。相良さん、茅ってなんですか?

「屋根に使うことが出来る植物の総称なんですよ。大きく分けると5、6種類くらい。ススキとヨシ、稲わら、麦わらと笹が必要な材料ですね。使われる植物は地域によって違うんですけど、それは人力とか、馬とか牛に乗せて運べる範囲内で調達していたから。茅葺きは世界中にあって、例えばインドネシアに行くと、椰子の葉みたいなものとか、とにかく身近で大量にとれる植物が使われますね」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

‥‥この答えを聞いて、僕は初めて「茅」という植物が存在しないことを知った。茅葺き職人として活躍する相良さんも実は、20代半ばまで茅葺きにまったく興味がなかったという。それがどういう経緯で職人になったのか。その歩みは、意外なところから始まる。

牛小屋で宮沢賢治に出会う

「高校を出た後、2年間、建築デザインの専門学校に通っていたんですけど、その頃、DJをやっていて、そっちのほうが面白かったから、就職しませんでした。でもDJでも食べていけず、どうしようかと悩んでましたね」

専門学校卒業後の20歳から24歳までの4年間は、自分が本当はなにをしたいのか、悶々としながら模索する日々だった。祖父の家の牛小屋を改装して、そこにこもってひたすら本を読み漁った。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

自分の琴線に触れる言葉があると、紙に書きだして、壁に張った。そこには心理学者の河合隼雄、解剖学者の三木成夫、文化人類学者の岩田慶治などの言葉が並んだ。なかでも「自分の腹の底から響く言葉を探してた」という相良さんの心をグっと掴んだのが、宮沢賢治だった。

「『農民芸術概論』という本があるんです。そこには、芸術しようと思って芸術をするんじゃなくて、生活自体が表現であるし芸術である、それが美しくて尊いと書かれていて、確かになあって。じいちゃんが鍬でポクポク土を耕して、暑いなぁって一息ついてる姿とか、めっちゃ美しいですよ。そうか、こういうことかもしれんなぁって思いましたね」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

『農民芸術概論』を読んで、相良さんは思った。生活自体が芸術だとしたら、それを観察して描く芸術家ではなく、描かれる実践者になりたい。フランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーの作品『落穂拾い』なら、落ち穂を拾っている農婦のように、誰かに描かれる美しい景色のなかに存在していたい。この気づきは、「ぐちゃぐちゃだった」4年間を経て、牛小屋を飛び出すきっかけになった。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

百姓を目指して弟子入り

相良さんは、「百姓」を目指すことにした。農民という意味ではなく、農業を含めて「生活に必要とされる百の業(わざ)ができる人間」だ。まずは、農業を始めた。家の裏に農地があって、すぐに始められる環境だったこともあるが、阪神淡路大震災を経験して、「食べるものくらい、自分でどうにかできないと」という思いもあった。

それから間もなくして、運命を決める出会いが訪れる。2005年の晩秋、友人に誘われて、山のなかで開催されたイベントに行った時のこと。そこで知り合ったばかりの人から、「年明けから、茅葺きの現場でアルバイト募集してるから来いよ」と声をかけられたのだ。

「地下足袋を履いてたんですよ、その時。それを見て、こいつは使えるかもしれないと思われたみたいで、スカウトされて(笑)」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

百姓への第一歩として、本格的に米作りを始めようと考えていたが、冬の間は農閑期ですることがない。相良さんは「春まで働くにはちょうどいいや」と腰かけのつもりでアルバイトをすることにした。

正月が明け、神戸の現場に出向くと、「親方」と呼ばれる人がいた。相良さんをスカウトした人は、親方の仕事上のパートナーで、親方は京都に拠点を置きながら、関西を中心に仕事をしていた。相良さんは茅を運んだり、掃除をしたりしながら、初めて目の当たりにする茅葺き職人の仕事を興味深く見ていた。

ある日のこと。親方から「なにになりたいの?」と聞かれたので、こう答えた。

「百の業(わざ)を持った、百姓になりたいんです。でも、まだ駆け出しで3つくらいしかないので三姓なんですわ!」

「それやったら、茅葺きやったら?」

「なんでですか?」

「百のうちの十くらいは、茅葺きの中にあるよ。ロープワークだったり、茅を刈り取って束ねる技術とか。やりたい?」

この時、相良さんは、ハッとした。「米や野菜を作ったりするのが百姓だと思っていたけど、住むところを整えるのも、百姓の業なんや!」。茅葺きも、自分のやりたいことの延長線上にあると知った相良さんの心は決まった。

「茅葺きなら、百の業のうち、十も手に入るんか。こんないい話はねえな!」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

義務感で独立するも‥‥

2006年9月、親方のもとに弟子入り。そこで5年間の修業を積み、2011年に独立した。この間に、茅葺きに惚れ込んだ、というわけではなかった。親方の指導は厳しく、休日は雨の日だけで、何度辞めようと思ったかわからないという。

それでも修業を続けたのは、「それまで、けじめを通してこなかったことが多かったから、もうここから先は逃げちゃいかん」と腹を括っていたからだ。

独立したのも、自分の強い意志ではなかった。修業が終わった頃は、また百姓を目指そう、米作りに戻ろうと考えていた。しかし、相良さんの地元にはメンテナンスすべき茅葺きの建物がたくさんあるのに、それを担う若手の茅葺き職人がいなかった。それで「自分がやらざるを得ないよなあ」という義務感もあって、職人を続けることにしたのだ。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

ところが、仕事を続けるうちに、修業時代にはほとんど感じなかった「楽しい」「嬉しい」という気持ちが湧いてくるようになった。20歳から4年間はほぼ引きこもり、それから5年間、厳しい修業をしていた相良にとって、それは、とても新鮮な感情だった。

「修業している時は、感謝もクレームもぜんぶ親方に言うじゃないですか。独立したら、仕事に対する感想がダイレクトに自分に届きますよね。それは責任にもつながるけど、20代の頃、仕事で誰かに感謝されることなんてなかったから、すごく嬉しかったし、楽しさを感じるようになりました。それで、次はもっと頑張ろうとか、これだけ喜んでくれるんだったらもっときれいに仕上げよう、もっと勉強しようと思えるようになりましたね」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

茅葺きは最先端?

独立してしばらくは夢中で仕事に取り組んでいたが、余裕が出てくると、茅葺きの面白さやポテンシャルを感じるようになった。

日本では1950年、建築基準法で「市街地で新しく建物を建てる時、燃えやすい屋根材はNG」という法律が制定されて、市街地で茅葺き屋根の家を新築することができなくなってから、急速に茅葺きの家が減少していった。

今ある茅葺きの家のほとんどは1950年より前に建てられたものだが、茅葺きの屋根は30年から40年に一度、葺き替えが必要だし、囲炉裏やかまどで火をたく前提なので通気がよく、夏は涼しいけど冬はとても寒いという構造もあり、オーナーの代が変わると建て替えてしまうことも多い。

その結果、1990年、神戸に約1000軒あった茅葺きの建物が、この30年で約700軒に減った。神戸市内だけで1年間に10軒ずつ取り壊されている計算だ。この流れのなかで茅葺き職人の数も減っていき、現在は全国に100人程度しかいない。

しかし、世界に目を転じると日本とは真逆の流れが起きている。オランダやデンマークでは、茅葺き屋根を持つモダンな公共施設や住宅がどんどん増えているのだ。

特にオランダでは、年間2000軒から3000軒の勢いで新築されているという。オランダもデンマークも寒い国だけど、断熱素材や床暖房などを効果的に使って、冬でも快適な茅葺き住宅が続々と誕生している。

なぜか? ここ数年、持続可能性を意味するサステナビリティとか、資源循環型の経済を指すサーキュラーエコノミーに注目が集まっているなかで、相良さんは茅葺きの屋根が「最も環境負荷が少ない素材」だという。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

「茅って、なににも使われない地元の素材を有効活用しているんです。しかも、僕らの作業は編む、組む、結ぶとか、すべて糸偏が付くんですよ。それは、自分で解けるということで、葺き替える時に簡単に取り外すことができるんです。

しかも、茅は土に還って養分になるし、燃やしたら草木灰として肥料になる。世の中を悪くするようなことが一切ない、本当の意味で持続可能な素材なんですよね。大きな地震や災害を経験した日本が、世界に対して提案できる持続可能な暮らし方の答えのひとつは茅葺きだと思っています」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

オランダ人を驚かせた壁面の茅葺き

この説明を聞いて、ノスタルジックな印象しかなかった茅葺きのイメージが一新された。確かに、今の時代の最先端をいくような建築資材と捉えることもできるのだ。日本も70年前にできた法律にこだわっていないで、世界の時流に合った形に変えていったらどうだろう?と思ったら、実は法律を変える必要すらないという。

「建築基準法には『市街地で~』と書かれているので、例えば地方なら、茅葺きの新築一軒家を建てることができる場所がたくさんあるんです。神戸市内でも建てられます。でも、誰も知らないんですよね。

今、マイホームを建てたいという若い夫婦がいた時に、じゃあ茅葺の屋根にしようという発想にならないでしょう。そこで少なくとも選択肢のひとつになるようにするために、これからの茅葺き職人にとって一番大事なのは、正しい情報を世の中に伝えることだと思います」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

「情報発信は、現代の百姓の業のひとつ」と話す相良さんは、ワークショップやイベント、メディアを通して茅葺きの魅力を伝えてきた。

また、2013年から定期的にヨーロッパに渡り、現地の職人たちと交流。オランダで伝統的な手法である壁面を茅葺きにする技術を学び、それを日本に持ち込んだ。神戸市内にある美容院の壁は、相良さんが手がけた見事な茅葺きで覆われている。オランダの手法に工夫を加え、凹凸をつけて葺くことで、装飾性を高めた。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

「これは、オランダの茅葺き職人も驚いてくれましたよ。オランダで学んだ技術をお前はそんな風にしたのかって」

壁面の茅葺きの技術は恐らく日本でほとんど知られていないが、これからの時代の建築デザインとして脚光を浴びるかもしれない。僕が帰京した後、友人の建築家に写真を見せると、「なんですか、これは!すごい!これでなにか作りたい!」と大興奮していた。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

茅葺きの神様の計らい

最近では、東京でも相良さんの茅葺きを見ることができる。今年、恵比寿にオープンした渋谷区の施設「景丘の家」に掲げられているメインのネームプレートに茅葺きを施した。

「看板の場合、面積が10平米までと決まってるんですけど、可燃不燃の指定はないんですよ。そういう意味で、都市部において看板はひとつ可能性があるなぁと思っています。都市部なら10平米くらいでもかなりインパクトはあるので、都市のなかにも茅葺きを知るきっかけを仕込んでいきたいですね」

どうしたら、茅葺きに興味を持ってもらえるか。茅葺きを使おうと思ってもらえるか。アイデアは尽きない。デザイン性が高く、水回りもハイスペックで、断熱や床暖房で現代的な快適性も追求した茅葺きのモデルハウスを作るというのも、ひとつの目標だ。

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
相良さん宅の玄関

今や、茅葺きの伝道師ともいえる相良さんだが、振り返れば13年前、「イベントに地下足袋で行った」という些細な出来事がすべての始まりだった。いや、もっと遡れば、親方の仕事のパートナーがたまたま声をかけたのが、茅葺きの建物が豊富な神戸市北区出身の相良さんだったということも運命的だ。

「不思議なもんですよね。もし茅葺きの神様がおるんだとしたら、ちょっとあいつを茅葺き業界に放り込もうかって、選ばれた気がするんですよ (笑)。本当に偶然の連続で、自分の意志で決めたことあったかなーってくらい。茅葺きに拾ってもらったと自分でも思ってるので、何か返せたらなって」

茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん
茅葺き職人・相良育弥(さがらいくや)さん

取材に伺った日、相良さんは神戸市北区にある小さなお堂の屋根を葺き替えていた。現場には、弟子が3人、助っ人が1人と、定年退職してから手伝いに来ているという相良さんのお父さんがいた。

その日はとても気持ちのいい天気で、広々とした青空の下、それぞれがリラックスした様子で「糸偏の仕事」をしていた。今、その様子を思い出して、ふと思った。相良さんたち6人が立ち働く姿は、まさに絵になるような景色だった。ミレーの作品『落穂拾い』のように。


茅葺き職人・くさかんむり代表・相良育弥さん

相良育弥

茅葺き職人
くさかんむり代表
KUSAKANMURI https://kusa-kanmuri.jp/
1980年生まれ

空と大地、都市と農村、日本と海外、昔と今、百姓と職人のあいだを、草であそびながら、茅葺きを今にフィットさせる活動を展開中。
平成27年度神戸市文化奨励賞受賞


文:川内イオ
写真:木村正史

信楽「油日神社」プロの楽しみ方。アプローチから美しい名建築の魅力

こんにちは。ABOUTの佛願 (ぶつがん) と申します。

ABOUTはインテリアデザインを基軸に、建築、会場構成、プロダクトデザインなど空間のデザインを手がけています。

この連載「アノニマスな建築探訪」では、

「風土的」
「無名の」
「自然発生的」
「土着的」
「田園的」

という5つのキーワードから構成されている建築をご紹介していきます。

文章を書くことを最も苦手とする僕が、どうしてこんな大役を引き受けてしまったんだろうと始めは後悔の念に駆られましたが、引き受けってしまったからには全力で楽しむ!がモットー。

今日はまず、ここ最近で一番現場に足を運んでいる滋賀信楽の近くにある、油日神社 (あぶらひじんじゃ) を紹介しようと思います。

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信楽の里近くの油日神社へ

油日神社は滋賀県甲賀市甲賀町油日に鎮座する神社で、油日大神 (あぶらひおおみかみ) を主祭神とし、武士の勝軍神として崇敬を受け、また、社名から油の火の神としても信仰されている。

様々な食用油が祀られている

かの白洲正子も「かくれ里」や「近江山河抄」の随筆のために幾度となく訪れたという。

交通手段は車をお勧めするが、電車だとJR草津線油日駅から徒歩30分ほど。

僕の経験上、名建築とされるものの多くはかなり不便な場所にあることが多く、それはそこにたどり着くまでの過程も含めて、計画されているのではないかと思うほどである。まず目を引くのがアプローチの灯篭。

リズムよく並んだ灯籠のアプローチ

何十本もある灯篭に沿って歩いていくと、楼門 (ろうもん) が見えてくる。

この楼門の及び回廊の造りが油日神社の意匠の要である。南北に本殿・拝殿・楼門が一直線に並び、楼門の左右から回廊がぐるっと拝殿・本殿を取り囲むように構成されている。

アプローチから楼門と回廊を望む

普通なら塀や生垣のようなもので大切なものは囲いそうなものだが、ここはそうではない。中央にできた広場的空間に身を置くと、周りの山や木々の声が聞こえてくるようなそんな不思議な空間になっている。

広場から楼門と回廊を望む

それは重厚な「楼門~軽い拝殿~山」と一体となった本殿という南北の軸線と、「山~回廊~広場~回廊~山」という東西の軸線のリズムの計画の妙なのかもしれない。「楼門~回廊~拝殿~社殿」と奥に行くに従って意匠の密度が高まっていき、西日に照らされた社殿の菱格子 (ひしごうし) の細やかな陰影は本当に美しかった。

楼門から拝殿を望む
拝殿の内部
社殿前の賽銭箱

ここからは興味がある方は少ないかもしれないが、ディテールの説明を。

楼門は3間1戸 (間口が三間で中央に戸口とした門のこと) で、屋根は入母屋檜皮葺 (いりもやづくりひわだぶき) 、柱は丸柱径尺 (まるばしらけいしゃく) で自然石の上に立つ。東西面及び桁行 (けたゆき) 中央両端に地覆 (ぢふく) 、腰貫 (こしぬき) 、内法貫 (うちのりぬき) を通し、半柄 (はんほぞ) 打抜、頭貫 (かしらぬき) は各隅組合せ木鼻付 (きはなつき) 、嵌板 (はめいた) 四方小穴入という造りである。

楼門 木鼻 隅組合せ
楼門 繋虹梁 (つなぎごうりょう) 及び隅虹梁 (すみこうりょう) にて組上げ、板蟇股 (いたかえるまた) 、小組格天井

回廊は一重切妻 (ひとえきりづま) 、檜皮葺 (ひわだぶき) 、正面は東西とも4間、奥行は東6間、西7間で共に拭板張 (ぬぐいいたばり) 、北端1間は土間になっており馬を繋ぐ空間である。東が西より1間短いのは地山が迫ってきているためである。

回廊 馬を繋ぐ土間
柱スパン三間ピッチの回廊 (1間=1818ミリメートル)
東面からの回廊の軒

拝殿は桁行19尺7寸5分、梁間 (はりま) 19尺5寸で、いずれも3間。正面背面に妻を見せた入母屋檜皮葺で、両面ともに唐破風 (からはふ) をつけている。

軒の出は柱芯より茅負下端 (かやおいしたば) まで6尺7寸6分5厘とかなり深いのだが、床高が高いので印象は軽いままである。また格子戸のみで仕切られるのみである。

拝殿 床下叩き及び亀腹固め、榑縁 (くれえん)
拝殿 6尺7寸6分5厘 (2050ミリメートル) の軒の出
拝殿 内部

本殿は三間社流造 (さんげんしゃながれづくり) 、檜皮葺。身舎 (もや) 平面は外陣・内陣・内々陣の3間に区画され、手前から奥へ順次高い拭板張。外陣は正面、側面とも小振りな菱格子 (ひしごうし) の引違い戸で非常に繊細な造りとなっている。

本殿 外陣の檜皮葺
本殿 装飾的な木鼻
本殿 外陣破風の装飾
小ぶりな菱格子

実はこの地に初めて訪れたのは大学3年から4年になる春休みの時である。日本の現代建築をしらみつぶしのように見ていた頃に、バイト先の建築家・吉井歳晴さんが、油日神社の資料をおもむろに渡してくれた。

「現代建築ばっかり見てちゃダメだよ」と言わんばかりに。目先の派手さはないが、脈々と受け継がれた何かを感じた。

約10年経って改めてこの場を訪れて感じた感想は、「気持ちがいい空間だな」である。

恐らく見方が変わっているだろうと行く前は期待していたのだが、そんな気負いはどこかに飛んで行き、残ったのは「気持ちがいい」という感覚だけであった。

甲賀歴史民族史料館も見学

神社の横には甲賀歴史民族史料館があり、事前に予約しておけば中を案内していただける。

中に展示されているのは甲賀の歴史的な資料と、油日神社に縁のある本殿の棟板や獅子舞、能面などである。

本殿の屋根裏に安置されていた棟板
催事に使われる新旧の獅子頭
室町時代の能面

楼門回廊で囲まれた広場で、獅子舞や能を鑑賞していたのが目に浮かんだ。毎年5月1日に行われる油日祭。ハレの空間を次は体験したくて仕方がない。

建築だけを見にくというのはなかなかハードル高いがご安心あれ。この地は信楽も伊賀も車であれは20分ほどでどちらでも行ける。皆さんもぜひ足を運んでいただきたい。

──────────────────────────

そして、最後に信楽に来たらぜひ行っていただきたいお店を1軒ご紹介します。2017年7月8日にオープンした『NOTA SHOP』。

甲賀歴史民族史料館滋賀県甲賀市信楽町勅旨 (ちょくし) にある信楽の陶器の工場をリノベーションしたという、約500坪の広々とした建物。甲賀歴史民族史料館中には窯や、作業場、フォトスタジオに事務スペース、それに店舗が入っている。

信楽という場所でオーナーの加藤夫妻がこれから何を提案してくれるのかが非常に楽しみです。

<取材協力>
油日神社
滋賀県甲賀市甲賀町油日1042
0748-88-2106
http://www.aburahijinjya.jp

佛願 忠洋 ぶつがん ただひろ 空間デザイナー/ABOUT
1982年 大阪府生まれ。
ABOUTは前置詞で、関係や周囲、身の回りを表し、
副詞では、おおよそ、ほとんど、ほぼ、など余白を残した意味である。
私は関係性と余白のあり方を大切に、モノ創りを生業として、毎日ABOUTに生きています。

文・写真:佛願忠洋

*こちらは、2017年7月22日の記事を再編集して公開しました。

ちそう菰野で、美しい日本庭園と三重のフルコースを味わう休日

ギャラリー・レストラン「ちそう菰野」へ

※現在閉業されております

三重県菰野町で、未来の文化遺産を見つけました。

その場所は、世界的に有名な作庭家、重森三玲(しげもり みれい)が手がけた日本庭園。私邸にあり、今まで家主の親族や近しい友人など以外は、目にすることはできませんでした。

そんな貴重な場所が一般に開かれることとなったのが、2017年9月。

重森氏が手がけた表庭・裏庭に挟まれた邸宅に、新たな息吹をもたらし、「ちそう菰野」というギャラリー・レストランをつくったのが、現代アーティスト田代裕基さん、理恵さん夫妻です。

三重にあるちそう菰野のレストラン。田代夫妻
ドイツから戻ってきた田代さん夫妻。裕基さんは彫刻家、理恵さんは料理家。「ちそう菰野」は夫妻2人で運営しています

五感で感じる、空間と料理

近鉄湯の山線「中菰野駅」からほど近く。自然が広がり、住宅が点在する路地を歩いた先にひっそりと佇む、日本家屋の立派な門構え。ここに「ちそう菰野」があります。

三重にあるちそう菰野
三重にあるちそう菰野の重森三玲が作った庭

「僕たちにとって、ここは表現の場所でもあるんです」

裕基さんの言葉は、室内の奥へと足を踏み入れるごとに実感を増します。
入口すぐの空間は“香りの間”。春夏秋冬、四季の香りにより、1歩1歩、非日常の世界へと誘います。

三重にあるちそう菰野のレストラン
香りを手がけるのは、調香師の沙里さん。自然の植物から採れた天然香料100%にこだわり、「ちそう菰野」のために仕上げた香りは、この敷地内で採取した素材も取り入れています

その先、あえて窓を閉ざし、光を落とした廊下を歩いていると目の前に開けるのが、美しい日本庭園に挟まれたレストランスペース。

耳を澄ますと涼やかな虫の音が聞こえ、嗅覚、視覚、聴覚‥‥と、五感が1つずつ開放されていくような感覚です。

三重県菰野 ちそう菰野

ここで日本庭園の景色とともに味わえるのが、理恵さんの料理。「食材を使ったアーティスト」と裕基さんが称する理恵さんの料理は、素材に手を加えすぎず、その季節の1番おいしい素材を、自然に近しい姿でコース仕立てに。それでいて、突飛な素材同士を見事に融合させるのも、理恵さんの手腕です。

「食材が豊かな菰野町は、贅沢な環境。料理に使うのは、地元で採れたての野菜や、近くで摘んできた山菜やハーブ、県内の漁港で直接仕入れる魚。

お客さまからは、『ここのコース料理は、三重県の縮図みたいだね』って言われることもあるんです」と理恵さんは話します。

三重県菰野 ちそう菰野のキッチン
「四季や時間が移り変わるように、料理も自然な流れに沿って変化させていきたい」と理恵さん
三重にあるちそう菰野のレストランの料理
ランチコース3,500円・4,500円、ディナーコース10,000円(ともに予約制)。旬の素材を使い、料理内容は週替わりどころか、週中でも変わることも!

田代夫妻が、菰野を拠点に選んだ理由

物心ついた頃からものづくりが好きだったという裕基さんは、芸大在学中からギャラリーからのオファーで作品を展示したり、海外のアート展に出展したりなど、実力の持ち主。

卒業後、彫刻家として活動していく中で、文化庁海外派遣制度でドイツのデュッセルドルフ市に渡り、3年半研修したり個展を開いたりと、活躍の場を広げました。

ドイツから帰国後に、理恵さんとともに「ちそう菰野」をオープン。隣の建物で、彫刻制作も行なっています。

三重にあるちそう菰野の田代さん
動物をモチーフにした彫刻作品をつくることが多いという裕基さん。作品からは不思議と包み込まれるような温かさを感じます
三重にあるちそう菰野のギャラリー
ギャラリーは、アーティストの個展を開催していないときは、裕基さんが海外で買い付けたアンティークが並びます。中央には裕基さんの彫刻作品がお出迎え

ドイツから帰国した田代夫妻が、なぜ菰野町を活動拠点に選んだのか?

理恵さんの実家が隣接する四日市市と近いこともあり、また、何より山が近くにあり、田園風景が広がる菰野町の自然が、裕基さんのフィーリングに合ったのだといいます。

「大学で東京にでて、在学中には1年のうち3〜4ヶ月はバックパッカーで世界中を旅して、ドイツに行く前は中国にも住んでいたことも。自分の居場所をずっと探してきました。

自分のまわりの友人たちを見ていて、“自然”と近しい暮らしをしている人ほど、生きることに深く向き合う人が多いなと感じてます。だから自然の多い環境へと、自分のベクトルが向いたのかな。

生き方が、その人の表現につながる。そこで僕たちは、この町を選びました」と裕基さん。

三重にあるちそう菰野のギャラリー
縁があって「ちそう菰野」の花を生けてくれている世界的花匠の佐々木直喜さんや、理恵さんが大好きな酒造メーカーの早川酒造が菰野町にあるなど、住むほどにこの町の魅力が増しているといいます

「ちそう菰野」の「ちそう」は、「地に沿う」ことや、さまざまなクリエイティブが生まれることを願って「千の創造」だったり、新しいものだけでなく古いものから得る知恵も大事にしていることから「知恵の層」だったり。いろんな意味が込められています。

ギター1本で多重演奏をする、日本でも著名な音楽家TAIKIさんを招いてライブイベントを企画したり、理恵さんが働いていたこともある東京のフレンチレストランのシェフを招いて本格的なフレンチを提供する日を設けたり。

理恵さんの四季により移ろう料理だけでなく、「ちそう菰野」としての空間も進化していきます。

「自分たちの表現だけでなく、ほかの誰かの表現に、ここの料理を融合したり。

『ちそう菰野』は、ひとつのイメージだけではおもしろくないので、常に変化しながら訪れる人の心に残る場でありたいと思っています」とおふたりは話してくれました。

三重にあるちそう菰野のレストラン。田代夫妻

この場所に受け継がれる歴史や自然を尊重しながら、新しいエッセンスを加えていく。

田代さん夫妻が織りなす空間は、訪れる人が自然と五感を開放できる場所でした。

<取材協力>
※現在閉業されております
ちそう菰野
三重県三重郡菰野町大字菰野2657
059-390-1951
http://chisoukomono.com/home/

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重森三玲がつくった、枯山水とモダンな庭。ふたつの景色が楽しめる「ちそう菰野」

重盛三玲の庭が楽しめる三重のちそう菰野
ちそう菰野で楽しめる2つの庭をもっと楽しむための見方や作られた背景について、お話をうかがいました

文:広瀬良子
写真:西澤智子

*こちらは、2018年10月3日公開の記事を再編集して掲載しました。

渋谷の「かつお食堂」はここから始まった。「かつおちゃん」こと永松真依さんが出会った天職とは?

人生をかけてやりたいことは何か。

その質問に即答できる人はどれぐらいいるだろう。

自分が本当にやりたいことを見つけた人は、それだけでもう半分勝ちなんじゃないかと思ったりします。

好きなことに突っ走ってる人はとてもキラキラしてるし格好いい。だけど、それはその人の今の姿。

これが天職だと思えることに出会うまではやっぱり、紆余曲折あるものだと思うのです。見つけようと焦ってもすぐに見つかるものでもないし、ふとしたきっかけで見つかるものでもあるのかもしれません。

今日は、「鰹節」に魅せられた女性、“かつおちゃん”の話。

渋谷 かつお食堂のかつおちゃんこと、永松真依さん
かつおちゃんこと、永松真依さん

「昔は真面目に仕事もせずに、毎晩のようにクラブで遊んでばっかりで。やりたいことも特になかったし、趣味がお酒を飲むことみたいな‥‥二日酔いで気持ち悪くって、仕事にならないこともよくありました(笑)」

そんな永松さんの人生を変えたのは、「鰹節(かつおぶし)」でした。

職業:鰹節伝道師

渋谷 かつお食堂のかつおぶし

そんな職業、はじめて聞きました。たぶん、世界にひとりなんじゃないかと思います。

鰹節伝道師の仕事は、その名の通り“鰹節の魅力を伝えていく”こと。ワークショップをしたり、TEDでスピーチをしたり、講師をしたり、イベントで鰹節を使った料理を出したりと方法は様々です。

渋谷の宮益坂から始まった「かつお食堂」

そんな「鰹節伝道師」こと永松さんが、2017年11月にオープンした「かつお食堂」。東京・渋谷の宮益坂近く、もともと夜にバー営業をしている「bar & miiii」さんの場所で、朝からお昼までの営業でスタートしました。 (*2019年8月8日より渋谷区の鶯谷町にお店を移転しています)

かつお食堂
移転前の、「bar & miiii」さんの場所でのお店の様子。この看板が目印

朝ごはん、どうしてますか?

「おいしいご飯と味噌汁が食べられるところが少なかった」

それが、永松さんがこの店を始めた理由です。

「お洒落なカフェやパン屋さんはたくさんあるけど、自分たち日本人の大事な基盤とも言えるご飯とお味噌汁のお店が無いなって。じゃあ鰹節の店をやろうと思ったんです」

それから、この場所“bar & miii”で飲んでる時に店主に相談したことをきっかけに「じゃあウチでやれば?」となったのだそうです。

オープン以来、大きな宣伝も、呼び込みもしませんでしたが、かつお食堂の小さなスペースはいつもお客さんでいっぱいです。みんなこんなお店を求めてたんだろうなと感じます。

かつお食堂

人生を変えた、おばあちゃんのお味噌汁

ここからは時間を少し戻して、永松さんが「鰹節伝道師」になるまでの話。「夜遊びばかりしてた」という数年前に話は戻ります。

娘の生活を心配したのでしょうか。「おばあちゃんのところにしばらく行ってきたら?」というお母さんの勧めもあって、おばあちゃんの住む田舎、福岡での生活がはじまります。

「おばあちゃんはちょっと足が不自由で、普段あんまり料理をしている記憶はなかったんですけど、その時はお母さんから私のことを聞いてたのか、ご飯を作ってくれたんです」

台所でおばあちゃんが取り出したのは鰹節削り器。鰹節を削ってひいたお出汁で、お味噌汁を作ってくれました。

「“おいしい”ということに、もちろん感動しました。だけど、何よりもおばあちゃんの鰹節を削ってる姿が美しかったんです」

“シュッシュッ”いう鰹節を削るリズム音と同時に、削りたての鰹節の香りが広がる

「女の人をはじめて美しいと思った」と、その姿に惚れ込んだ永松さん。

「おばあちゃんが、これは日本の文化で昔はみんなこうやって削ってたんだよって教えてくれました。でも、自分が見たのは初めてだった。

『田舎に行ったら、鰹節を削ってる人がまだいるかもしれない。』そう思って旅に出ました」

その発想もすごいけど、その行動力がもっとすごい。だけど、その時の感動はそれほど強かったんだと思います。

条件は、とにかく田舎

「鰹節を削ってる人」を求めて、すぐに旅がはじまります。適当な電車に乗って景色を眺めながら、素敵だなと思ったところで降りる。降りた駅で、バスの運転手さんに「田舎に行きたい。」とだけ伝えて、とにかく田舎へ、田舎へと向かいます。

その結果、たどり着いたのは日本でも有数の長寿村でした。

山梨県 西原の山村。「90歳を超えたおじいちゃんが、バリバリ山の中でバイクに乗ってるようなところ」だったそうで、元気な高齢者たちが、雑穀を育てて暮らしていました。

「そこで畑仕事を手伝ったら気に入ってくれて、そこに住むようになったんです」と、今度は山で暮らすことに。畑でできた蕎麦の実を摘んで、水車で挽いて蕎麦を打つ。そんな、絵に描いたような田舎暮らしでした。

期待どおり、そこの人たちは鰹節を削って食べていました。「日本の美しい姿が、まだ残っている」と、嬉しかったそうです。永松さんもおばあちゃんから教わった鰹節削りで出汁を取ってみんなに振る舞うこともありました。

そんなある日、「鰹節ってそもそも、どうやって鰹節って作ってるんだろうね」という話題に。「そういえば、鰹節は大好きだけど知らないなぁ」と思った永松さん。

次は、製造現場を求めて旅が始まります。さすがの行動力です。

宮古島から気仙沼まで。太平洋側縦断

太平洋側全域で作られているという鰹節。南は沖縄の宮古島から、北は宮城の気仙沼まで、鰹節の産地をめぐったそうです。「見学をしたい」と造り手さんへ電話をして現地に飛び込む。製造現場で、とことん作り手と話し込み、時には一緒に鰹節作りを手伝わせてもらいながら製法を学びました。

渋谷 かつお食堂の永松さん

「私は本を読むのがあまり得意じゃないので、ほとんどの知識は現場で教えてもらいました」と永松さんは言います。

直接会ってもらえたら分かりますが、永松さんの鰹節の知識量には驚きますし、なんといっても話がおもしろい。

「鰹節にだけしか含まれてない成分があって‥」「旨味の元は‥」 「カビ付きの鰹節の特徴は‥」「花かつおっていうのは‥」と、いろんなことを教えてくれます。

かつおちゃんこと、永松真依さん

きっと、製造の現場まで経験してるからこそ、作り手の思いまで伝えられるんだろうなぁと思います。まさに、鰹節伝道師。ちなみに私は、出汁はずっと昆布といりこ派でしたが、完全に影響を受けて最近は鰹出汁になりました。人の熱量は、味覚にだって影響するのかもしれません。

メニューは、かつお定食。以上

長い旅を経て、東京に戻った永松さん。かつお食堂をオープンします。

鰹節を知り尽くした永松さんの「かつお食堂」は、“鰹節のおいしさを伝えたい”という想いの元、基本的にメニューは1つで「かつお定食」のみ。鰹節ご飯、お味噌汁、だし巻き卵、お漬物の構成です。

渋谷 かつお食堂のかつお定食
鰹節の美味しさだけをそのまま伝えるための、シンプルで潔い構成

使われる鰹節は、日本各地から厳選されたものを使用。出汁に合わせて使うお味噌も変えるのだそうです。

渋谷かつお食堂 のお味噌汁

鰹出汁のよく効いた香り高いお味噌汁。あぁ日本人で良かったなぁとしみじみ感じます。

かつお食堂のかつお節ご飯

そして、眼の前で削ってくれる鰹節がたっぷりと乗った鰹節ご飯。鰹節ってこんなにおいしかったのかと、香り高さと旨味に驚かされます。ふだん食べてる鰹節との味の違いに、削り器がほしくなるほど。コーヒー豆と同じで、鰹節も削りたてがおいしいのだそうです。

渋谷・かつおちゃんこと永松さんが運営するかつお食堂

鰹節伝道師として、かつお食堂を初めて数ヶ月。お客さんも増えて、1日の提供数を早々に完売し、早めにお店を閉めることもしばしば。

「鰹節がこんなにおいしいって、知らなかった」「自宅でも真似したいけど、どうやるんですか?」というお客さんの反応が何よりうれしいのだそう。

永松さんと話しててすごいなと思うのは、聞いているうちに鰹節のことがどんどん好きになっていくこと。

愛しい恋人の自慢話をするみたいに鰹節について話すから、ついつい聞き入ってしまうし、鰹節って本当にすごい」と、鰹節が好きになっていきます。

かつお食堂のかつおちゃんこと

おばあちゃんから受けた一瞬の感動によって始まった、「鰹節伝道師」という人生。「やりたいことも特になかった」という彼女は今、天職を見つけてとてもイキイキとしていました。

「人生にとって一番の幸福とは何か?
それは自分の天職を知ってこれを実行に移すことである。」

そんな、誰かの言葉を思い出しました。

<かつお食堂>

東京都渋谷区鶯谷町7-12 B1
※営業スケジュールはfacebookまたはinstagramをご確認ください
facebook : https://www.facebook.com/katsuoshokudou/
Instagram : https://www.instagram.com/katsuoshokudou/

文:西木戸弓佳
写真:長谷川賢人

*こちらは、2018年7月31日公開の記事を再編集して掲載しました。取材から1年。新天地での活躍とおいしいご飯がますます楽しみです!

国宝「投入堂」の魅力と巡り方。過酷な山道の先にある、自然と一体化した美しさ

こんにちは。ABOUTの佛願忠洋と申します。

今回は、国宝でもある、三佛寺奥院投入堂 (さんぶつじおくのいんなげいれどう) をご紹介します。

この連載は‥‥
インテリアデザインを基軸に、建築、会場構成、プロダクトデザインなど空間のデザインを手がけるABOUTの佛願さんが、『アノニマスな建築探訪』と題して、

「風土的」
「無名の」
「自然発生的」
「土着的」
「田園的」

という5つのキーワードから構成されている建築を紹介していきます。

いざ、三徳山三佛寺 奥院投入堂へ

所在地は、鳥取県東伯郡三朝町三徳 (とうはくぐんみささちょうみとく) 1010。建立 慶雲3年 (706年) 、作者は不明である。

三佛寺奥院投入堂は、鳥取県のほぼ中央に位置する。鳥取県の旧国名は伯耆 (ほうき) の国と因幡 (いなば) の国であり、三佛寺のある三徳山 (みとくさん) はこの国境にある山が西へと伸びた尾根の1つであり、1000~1200メートル級の山々が連なっている。

登山口の看板
三徳山三佛寺の案内図

初めてこの地を訪れたのは約20年前、中学生の頃。家族で三朝温泉 (みささおんせん) に泊まり、父、母、姉とレジャーで登った。2回目は大学1年生の時、これも全く同じシチュエーションで家族と。3回目は大学4年、これも家族と。

そして4度目の今回は‥‥。残念ながら家族ではなく同僚と。前日、米子で仕事があり、しかも金曜日。これは久々のチャンス到来とばかりに、三朝温泉に泊まり、初めてスナックという場に足を踏み入れた。大人になったなぁとしみじみ思いつつ、温泉につかりながらハーと大きな吐息を漏らす。

10年前より錆びれて見えた三朝温泉。それもそのはず、昨年の鳥取中部地震の影響で客足が遠のいてしまったようだ。それから約1年が経ち、ようやく人が戻ってきたとスナックのママが教えてくれた。

夜の三朝温泉街

三徳山の入山は午前8時から。就寝したのは3時前にもかかわらず、朝6時に起床。朝風呂につかって少し残っていた酒を抜き、朝食をいただいてから旅館を後にする。

この日の天気予報は曇りのち雨。実は雨が降り出すと入山できなくなるため、少しでも早く登る必要があった。投入堂の登山口は三朝温泉からは車で約10分ほど。石の鳥居を超えたところが入山口である。

駐車場に車を止めていざ投入堂を目指すわけだが、一瞬足が止まる。あれ?こんな急な階段だったっけ‥‥。しかも石の階段はすり減り、波打っている。

山に続く階段
階段のアップ

普段、全くと言っていいほど体を動かしていないことを早くもこの段階で後悔する。

神社の正面
登山受付所
入山の受付所

階段を登ると境内に到着する。社(やしろ)が点々と配置され奥に進むと三徳山入峰修行受付所が現れる。受付ではまず健康状態を聞かれ、その後に靴のチェック。

なぜかというと、凹凸のないツルツルのソールでは入山できないからだ。その場合は受付で販売されているわらじを購入し履き替える必要があるのでご注意を。入山時間をノートに記入し六根清浄(ろっこんしょうじょう)の印が押された輪袈裟をいただき、いざ入山。

山の中にある架け橋

少し歩いた場所に2本の大木に挟まれた赤い門が見える。普段目にすることのない大木のスケールに圧倒されつつ、門をくぐり湿っぽい石段を降りる。深い谷間に架かる宿入橋を渡り、薄暗い先に見えるのが木の根っこの登山道。

立派な木の根元
根が広がっている
先人の足跡がくっきりと

写真では分かり辛いが、なんと木の根を掴みぐんぐん登っていくのだ。1300年という歳月をかけてできあがった登山道は、木の根がなめらかに、岩肌は人の足型に変形してしまっている。先人の足跡をたどりながら、ただひたすらに登る。

道中に突如現れる文殊堂
道中に突如現れる文殊堂
文殊堂
柵は一切なしの自己責任
文殊堂
文殊堂から、足元を眺める
山々の風景

地面は登るにつれて腐葉土のような土から粘土質、そして砂岩系の岩になる。明るい尾根に出たあとで見えてくるのが崖の上に建つ文殊堂(もんじゅどう)。

細い材で架構され、屋根は単層入母屋杮葺 (たんそういりもやこけらぶき)。周囲は手摺りのない縁(ふち)がぐるっと4周まわっており、しかも水はけが良いように傾斜が付いている。

靴を脱ぎ壁伝いに恐る恐る縁を歩くのだが、清水の舞台が比べものにならないと感じるほど、死と隣り合わせな感覚を覚える。ただ眼下に広がる風景は色づき始めた木々、そして伯耆、因幡の山々の連なり。千丈の谷へと落ち込んでいく風景は何とも美しい。

さらには鎖(!)を掴んでよじ登ったところに見えてきたのは地蔵堂。作りは文殊堂と全く同じ。桁行4間 (約7.2メートル)、梁間3間(約5.4メートル) 、屋根は単層入母屋杮葺。文殊堂も地蔵堂も室町時代に建てられたものだそう。

ここからさらに進むとシンプルな切妻の釣鐘堂。そしてこの先の道は急に狭くなり、小石混じりの凝灰岩の上を綱渡りのように登る。風景ははるか下方に広がり、このころになると、自然と一体化したような感覚になり、自身は透明化しかつトランス状態に近い。

やがて道は平坦となり、凝灰岩の風化した窪みに祠堂 (しどう) があり、その先には洞窟のような空間に納経堂がすっぽりと収まっている。しかも納経堂と洞窟の隙間が経路になっている。であり、光から闇へ、そして光に戻る‥‥という演出は本当に憎い。

岩のくぼみにちょうどよく収まってる祠堂
岩のくぼみにちょうどよく収まってる祠堂
納経堂
納経堂
経路は昼間でもこのとおり
経路は昼間でもこのとおり
絶妙な大きさで埋っている
絶妙な大きさで埋まっている

そしてその先の屏風のような岩を廻ると岩を背に突如として投入堂が姿を現わす。

上部を巨巌で覆われ、足元は急斜面の岩盤にしっかり脚を伸ばして建つこの建築。一見シンプルに見えるが、実は全くそうではない。屋根は重層し、雁行 (鍵型にギザギザと連続している様子) している。

まさに鳳凰が羽を広げ、舞い上がらんばかりの華麗極まりない姿。眼下に広がる風景を呑み尽くして、大自然と響き合っているかのようである。まさに自然と一体化している。

こんな複雑な建築が706年に建立されたという事実に感動しつつも、これを目指して過酷な山道を登って来た人々がいること。そして、入山し、感動するという体験は、今も昔もずっと変わらない気がする。初めて家族で登ってた時にも、建築のケの字も知らなかったが、投入堂ってとにかくめちゃくちゃすごいなと思った記憶は鮮明に残っている。

今回の気分はというと、まさに六根清浄、心が浄化された気分である。大都会東京で気を張らないといけない日常から解放され、大自然の中に身を置いて何も考えることなく、ただひたすら木の根っこを掴み、足元に注意して一歩一歩着実に前へ進む。

帰りは一度足を滑らせ大ゴケしたが、根っこのおかげで大事には至らず。入山受付所まで戻り、袈裟を返し、下山時間を記入する。

往復時間は約1時間半ほど。本当に清々しい気持ちを手に入れる。境内を抜け、階段を降りようとすると、前からビールケースを担いで登ってくるただならぬ雰囲気の男性。もしや、この人‥‥。

住職さんのような気がして、思い切って話しかけてみた。やっぱりビンゴ。住職さんから歴史のことや檀家さんが全くいないこと、そして1年前の鳥取中部地震で登山道はルートを少し変更しないといけなくなったが、建物には全く被害がなかったことなど、いろんなお話をさせていただいた。

お地蔵様

途中、茶屋できな粉餅を食べ、駐車場に着いた途端に雨がザーッと降ってきた。約10年ぶりの投入堂。天候にも恵まれ、心も浄化され、いい記事も書けた‥‥?。三徳山というだけあって徳がありそうである。

佛願 忠洋 ぶつがん ただひろ 空間デザイナー/ABOUT
1982年 大阪府生まれ。
ABOUTは前置詞で、関係や周囲、身の回りを表し、副詞では、おおよそ、ほとんど、ほぼ、など余白を残した意味である。私は関係性と余白のあり方を大切に、モノ創りを生業として、毎日ABOUTに生きています。

文・写真:佛願忠洋

こちらは、2017年11月26日の記事を再編集して掲載しました。登山に危険が伴いながら、人々を魅了する投入堂。参拝後は心も体も清められそうですね。