真っ黒で、美しい手。墨師の命を吹き込んだ「古梅園」の奈良墨

こんにちは。さんち編集部の杉浦葉子です。
日ごと秋も深まり、肌寒い日が多くなってきました。私の住む奈良盆地は冬の時期、近畿の他の府県と比べて(おそらく)うんと底冷えします。寒いです。でも、そんな寒さがあってこそできるものづくりも、日本にはたくさんあります。
ここ奈良で寒期に行われる墨づくりは、10月中旬から翌年の春までがその季節。約440年の歴史を誇る奈良墨の老舗「古梅園」を訪ねました。

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暖簾をくぐると敷地が奥へと広く続きます。

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敷地の端から端まで敷かれた長いレールは、トロッコで墨を運ぶため。今も毎日使われています。

奈良で墨づくりが栄えたのは寺社のおかげ

日本へは飛鳥時代の610年、高句麗の僧である曇徴(どんちょう)が墨づくりを伝えたといわれています。仏教が盛んになった奈良時代には、たくさんの写経がなされ墨は貴重品に。寺社が多くあった奈良では、主に僧を中心に多くの墨が作り続けられたといいます。室町時代には一般庶民も墨を作って売るようになり、安土桃山時代の1577年に墨屋「古梅園」が創業。1739年には古梅園の6代目にあたる松井元泰氏が、長崎で清人と墨づくりの交流をしたことで、より一層品質のよい墨を作れるようになり、代々の墨師によってその技術が受け継がれてきたのだそうです。

——と、歴史の話をお聞きしている間にも、ふんわりと墨のよい香り。子どもの頃、書道教室で墨を黙々と磨っていた記憶がよみがえります。誰もが馴染みのあるこの墨の香りに誘われて、墨づくりの工程を見せていただきます。

煤を集めて、墨をつくる

墨の原料は、油煙や松煙という煤(すす)、練り合わせて固めるための膠(にかわ)、そして香料。墨づくりが寒い季節に行われるのは、膠を腐らせないようにするためだそう。油煙は上質な純植物性油を燃やして作り、松煙は生きた松の幹から出た脂(やに)を燃やして作ります。香料は竜脳を中心とした天然香料を使用。墨を磨るときに気持ちを引き締め、安らぎを与えるためだそう。

約450年前と変わらぬ姿の採煙蔵は、中に入ると真っ暗。四方の壁に油を燃やすための素焼きの皿と、取っ手のついた覆いがずらりと並び。皿の中で菜種油を燃やしています。この覆いについた煤を少しづつ少しづつ集めたものを、墨づくりに使用するのですって。

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1部屋に100個。職人さんは1人で2部屋、つまり200個の炎を同時に管理します。

煤が覆いにまんべんなくつくように、20分ごとに覆いを少しづつ回転させ、煤をていねいに掃き落として集めます。この炎は、い草で作った灯芯で灯明のように油を燃やしたもの。より細い灯芯で燃やすと炎も小さくなり、時間はかかれどキメの細かい粒子の煤が取れるのだそうです。
なんだか、気の遠くなるような作業ですね。

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灯芯を巻けるようになるのも、この採煙蔵を任される職人さんの仕事。

墨づくりの一部始終を描いた『古梅園墨談』

ここで突然ですが「古梅園」の6代目である松井元泰氏がまとめた『古梅園墨談』をご紹介。「どんなに言葉で説明するよりも、絵で墨づくりの道具や技法がわかる」と、この本の冒頭にあるとおり、こちらを見れば墨づくりの様子がわかる興味深い絵図です。煤を集める採煙蔵の作業はどこに描かれているでしょう。昔も今も、同じ道具。見比べてみてください。

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右が油煙である煤をとっているところ。左では墨を形づくっています。

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右が墨を灰の中で乾燥させているところ、左上は墨を吊るして乾燥、左下では灰を落として墨をきれいにしています。

つやつやの墨玉づくり

墨づくりの寒い季節、朝一番の作業は墨玉をつくること。
膠を湯煎で溶かし、煤と香料を混ぜ合わせます。これを幾度も幾度も練り合わせると、真っ黒で艶やかなお餅のようなものになります。これが墨玉です。
墨玉は、少し時間をおくと硬くなってしまうので、墨師が体重をかけて全身を使って練り直します。小出しにして少しづつ使うのですが、残りの墨玉は墨師の体の下に敷いて温めておくのだそう。まるで鶏が卵をあたためるみたいに、大切に守っているんですね。高級な原料を使うほど墨玉は固まりやすくなるため頻繁に練らなければいけませんが、これも質のよい墨を作るため。練るほどになめらかで光沢が出てくるのがわかります。

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職人さんの大きな足で、力強く練られます。

続いては「型入れ」の作業です。
木型は、硬くて歪みがこず長持ちする梨の木を使うのだそう。文字や模様は、この木型に細かく彫られています。

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上蓋・下蓋・ちぎり・胴でワンセットの木型。

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重さ15gの一丁型の墨を作るには、乾燥を考えて生の墨玉25gを天秤で計ります。

毎日かあさん、ときどき職人

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。

自分が得意なことを活かして「工芸」を支える人を紹介する連載「毎日かあさん、ときどき職人」。お店で思わず手に取った素敵な商品は、元をたどっていくとどこかの屋根の下、一人のお母さんの手で作られているかもしれません。 どんな人がどんな思いで作っているのか?第一弾の「針子さん」に続いて、第二弾の今回は布や紙に色鮮やかな絵付けをするステンシルのお仕事、「染子(そめこ)さん」を訪ねました

「アトリエ」の看板のかかった扉をガラリと開けると、特大の絵が何枚も壁に立てかけられていて驚いた。部屋の中には背の低いテーブルが二つ並び、周囲を囲む棚には日本画用の画材が、床には子どもが作ったと思える工作作品がずらりと並んでいる。

「年に2回くらい、自分で作品を描いているんです。月3回はここで子どもに教えるお絵描き教室を開いてまして、そこに置いてあるのは子ども達の作品です」

控え目に話すのは京都在住の藤井里さん。18年前から、絵ハガキや部屋に飾るタペストリーに絵付けを施すステンシルの仕事に携わっている。普段仕事をしている現場でお話を伺いたい、とお願いすると、当日案内されたのはご自宅ではなく、お庭に独立して建つプレハブの部屋だった。

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ここでお絵描き教室や自身の創作活動、そしてステンシルの仕事をこなしている。看板の示す通りそこは確かに日々様々な作品が生み出されるアトリエだ。

「はじめは子ども部屋にしようと建てたら、『離れているから怖いし嫌や』と言って。じゃあお母さんが使おうかなって」

高校3年と中学3年の娘さん2人のお母さんでもある。大学で日本画を専攻。後輩を通じてこの仕事を知ったのが18年前、少し始めたところで上のお子さんを授かり、育児に専念するため数年を休んだ。子育ての落ち着いた2006年から再開。はじめは小さな絵はがきから次第に大きなタペストリーを任されるようになり、コンスタントに仕事を続けるうち、復帰からすでに10年がたった。

ステンシルとは、防水した紙などを切り抜いて型をつくり、その上から絵の具を塗りつける彩色手法のこと。この日は桃の節句を祝うお雛様のタペストリーを製作中。そのサイズ、大人の背丈ほどある。生成り色のまっさらな麻生地に、これから絵付けをしていこうというところだ。

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取材時に製作中だったお雛様のタペストリー。

では早速絵付けの様子を、とお願いすると、思いがけず生地を横に広げて自身はその真ん中あたりに座られた。てっきり書道のように生地を縦に置くかと思い込んでいたのでへぇ、と声をあげると、

「お雛さんの顔を描くときは縦でしますが、型があるものは基本横に置いてやっています」

と藤井さん。確かにこれなら生地を動かさずに絵付けでき、効率的だ。

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2の型からでいいですか、とずらりと藤井さんが取り出した型はなんと7枚。パーツや色ごとに型を変え、重ねて絵付けをしていくステンシルでは、図案が複雑なほど型の枚数が増す。番号の若い型から塗り進めていくと、1枚の絵が仕上がる、という具合だ。

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今回作るタペストリーの指示書。細かな指定がびっしりと書かれている。

だいたいこんな感じです、と見惚れている間に2の型の絵付けが1枚終わる。1の型はお雛様の顔や着物の白い部分の絵付け。2の型はそこに組み合わせる赤色の絵付けだ。ペリ、とめくると同行したメンバー全員からわぁ、と歓声が上がった。仲睦まじく並んだお雛様が、先ほどより立体的に浮かび上がっている。

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今回任されているタペストリーの枚数は30枚。×型7枚で、210枚分の絵付けをすると思うと気が遠くなりそうだが、ここにも安定して商品を仕上げる藤井さんのコツがある。

「1枚ずつ仕上げるのではなく、同じ型で30枚なら30枚、一気に進めます。絵の具が乾いたら次の型へ。集中してできれば、だいたい1型1日で終わるかな」

座り方といい絵付けの進め方といい、藤井さんのお話を伺っていると、常に「効率的」で「安定している」印象を受ける。「トントントントン」とスポンジを叩く音以外は静かな空間の中に、藤井さんの編み出してきた様々な仕事の型が存在している。

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さらに型が進んだ、桜のステンシル。ぼかしは高等テクニックだが、上の赤い絵の具がこんな柔らかいピンク色になるから不思議。

机の下にはカラフルに染まったスポンジが大小様々に瓶に入っている。側には絵の具、学生時代から使っているという絵の具用のお皿や、細かなところを手書きする細筆。絵の具に染まったアイスの棒まである。

「お雛さんのほっぺたをするときには、新しいスポンジでないと柔らかくならないんです」

図案によって様々な道具を使い分けていることが伺える。

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息を飲んで作業を見守っていると、どうぞとお茶菓子を進めてくれた。喜んでいただくと、勤めているお店の一押しなんです、とニッコリ。お勤めもされているのですか。

週2回ですし、と何気なく話されるが、家事、お母さん業(しかも受験生2人)、お絵描き教室の先生、ステンシルの仕事、お勤め…5つの仕事の掛け持ちということになる。あらゆることを同時並行で進めながら、どうやってここまできめ細かなものづくりを保っているのだろう。伺うと、

「こういうものって、お客さんも何気に買うんじゃなくて、うんと考えて買ってはるんじゃないかなと思うんです。自分が買うと思ったらやっぱり可愛い顔を選ぶし」

頭がさがるような気持ちになった。掛け持ちで大変ではないかと思ったが、だからこそ家でするこの仕事がいいらしい。

「外に行かなくても自分の時間でできて、子供が熱を出した時にも融通がきくので助かっています。主人や周りも、『いい仕事してるよね』と。外で働くのが好きな人もいはると思いますけど、私は中でする仕事があっているみたい。小さく音楽をかけながらステンシルをしている時は、至福ですよね」

そう話す口元が自然と緩む。

お子さんが小さい頃は珍しがって覗きに来ることもあった。
何て説明されたんですか、と伺うと、

「これはお母さんの仕事やから、見るだけな、って」

談笑しているとただいま、とアトリエの扉が開いた。すっかり大きくなった中学生の娘さんの顔が覗いた。外はいつの間にか暗くなり、そろそろ夕飯時。遅くまですいません、と頭をさげると、今日は鍋焼きうどんです、と笑う顔がお母さんになっていた。

文:尾島可奈子
写真:木村正史

11月11日、くつしたの日。良い原料と良い工場、奈良県がつくる日本一

こんにちは。さんち編集部の杉浦葉子です。
日本では1年365日、毎日がいろいろな記念日として制定されています。国民の祝日や伝統的な年中行事、はたまた、お誕生日や結婚記念日などのパーソナルな記念日まで。数多ある記念日のなかで、こちらでは「もの」にまつわる記念日をご紹介していきたいと思います。
さて、きょうは何の日?

11月11日は、「くつしたの日」です

くつしたを2足並べたときの形が「11」に見えることから、1993年に日本靴下協会が制定した記念日「くつしたの日」。1年に1度「11」が重なる日であることから、ペアーズデイとも呼ばれ、恋人同士 (ペア) でくつしたを贈りあう日ともされています。

古くからの暦では、11月11日のように月と日が重なる日を「節句」とすることが多くありました。季節の折り目である節句にはお供えものをし、それをいただいて健康や息災を願ったもの。3月3日の雛あられや、5月5日の柏餅もこの習慣ですね。11月11日は、くつしたの節句と考えて、家族や大切な人にくつしたを贈ってみるのはいかがでしょうか。

ちなみに、日本でのくつした生産量1位を誇るのは奈良県。奈良県ではかつて慢性的な水不足により、米の生産量が少なかったそうで、それを補うために高品質な綿「大和木綿」を生産していました。その綿を利用した産業として、機織りや、くつした生産が盛んになったのだそうです。良い原料と良い工場が集まって作られている奈良県のくつした、おすすめします。

今日のみなさんの足元は、どんなくつしたをお召しですか?ずいぶん肌寒くなってきたこの頃、くつしたで暖かな冬をお迎えください。

<掲載商品>
飾れる靴下(2&9)
じょうぶなカシミヤ靴下(2&9)
あたたかいくつしたクルー(2&9)
あたたかいくつしたハイ(2&9)

文・写真:杉浦葉子

清流がつないできたもの。吉野の里山を漉き込んだ、手漉き和紙

こんにちは。さんち編集部の杉浦葉子です。
日本で最も美しい村のひとつに認定されている、奈良県吉野郡吉野町。その吉野町で江戸時代から手漉き和紙の技術を代々受け継いできたという「福西和紙本舗」を訪ねました。

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吉野町は奈良県のほぼ中央に位置し、町の中心部を清流吉野川が流れる、水源豊かな里です。広く穏やかな吉野川を眺めながら、国道から逸れたのぼり坂道へ。どんどん細く、勾配が急になっていく坂道に少し不安になったころ、ようやく「福西和紙本舗」の看板が。工房の前には、まぶしいほど真っ白な板がずらり。手漉き和紙の天日干しです。

お話をお伺いしたのは、福西家6代目の福西正行さん。奈良県伝統工芸士に認定された手漉き和紙職人であり、「表具用手漉和紙 (宇陀紙) 製作」選定保存技術保持者です。宇陀紙とは、文化財の修復紙としても使用される質の良い和紙で、現在では日本だけでなく世界の文化財修復にも使われているといいます。

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軒先には「吉野で古くから紙を漉いている家」という意味の額。薬師寺の管主であった高田好胤氏によるもの。

吉野の地では、かつて200軒以上もの家が紙漉きの仕事に携わっていましたが、今では数軒を数えるのみ。和紙に文字を書くことが減り、需要がなくなってしまったという時代の変化もありますが、紙漉きを離れた家の多くは、林業が盛んな時代に、吉野山の間伐材を使った割り箸の加工業へと転向したのだといいます。「うちは、4代目にあたるおじいさんが頑なに紙漉きを続けようとしたんや。だからこそ、今がある。それは感謝してもしきれへんよ。」と、正行さん。お父さんである5代目の弘行さんに弟子入りして33年。「小さい頃から仕事は見ていたけど、材料の調合も時間も、数字なんてない。教えてくれるものではないから、経験と感覚で覚えていく感じやったな。」2年前に弘行さんが他界され、正行さんへと代がわりをしました。

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果てしなく手間ひまのかかる下準備
ひとことに紙漉きといえど、福西和紙本舗では紙の原料になる楮(こうぞ)を吉野のこの地で育てるというところからはじまります。
大きいものでは3mにもなるという楮。何度も芽かきや草刈りをし、秋に葉が落ちた楮を年明け早々に刈り取ります。お正月休みは返上。楮の原木を4時間蒸し、剥いだ樹皮である黒楮(くろそ)から、さらに黒い皮を丁寧に削り取ったものが白楮(しろそ)。この白楮を晴天の日に、凍てつく吉野川の水に浸けてさらすのだといいます。さらに、繊維を緊密にするために2年もの間、天日で干して貯蔵。白楮の傷の部分を取り除いた後、大きな釜の木灰汁で楮煮きをします。楮煮きをしたものは、紙素(かみそ)。水洗いして灰汁を洗い出した後、さらに細かな塵を取り除きます。
————と、ここまででもかなりの時間と手間。「この、原料の準備がとても大変な作業。でもここを手抜きしたら、質の良い紙にはならへんよ」と、正行さん。

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紙漉きをする日には毎朝行われるという作業、紙素打ちを見せていただきました。代々使われてきた広く大きな御影石の上で、樫の棒で紙素を手打ちします。タンタンッ、タンタンッ…リズミカルに、力強く。「寒い季節は、これで身体がぬくもるねん。夏は、さすがに暑いわ。」叩けば叩くほど、楮の繊維が細かくなって絡み合い、強い和紙になるのだそう。

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石の台はずっと使っていけるが、樫の棒はやはり減っていくのでいずれ交換が必要。

「紙漉きに一番大事なのは、水。吉野山の澄んだ水。」
ようやく、紙漉きの作業です。山からひいた軟水を水槽になみなみと張り、そこにやっと準備ができた楮の紙素と、白土、ノリウツギの樹皮を細かく削いだ糊を入れ、ムラのないようによく混ぜます。白土を入れることで紙漉きの技術としては高度になるものの、湿気を吸収して紙の収縮を防いでくれるのだといいます。また、虫が喰わない良い紙になるのだそう。

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まるで生きているように、とろりとまろやかな水。「常に動いてる水を使わんといかん。寒くなるほど、いい紙ができる。水温が低いと紙がキュッとしまって、糊がよく合うんよ。」文化財の修復に使う上質な紙は特に、寒い冬場にしか漉かないのだそう。この地が紙漉きの産地として根づいたのは、吉野の風土が生み出した、澄みきった水があったからこそです。

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漉きあげた紙を重ねるとき、一枚一枚の間に糸をはさむことで後からはがしやすくなる。

漉いた紙は、1日重りをのせて水分を押し出した後、天日干しで干されます。馬の白いたてがみで作られた刷毛を使い、松の木の干し板に撫でつけながら貼るという丁寧な作業。正行さんの奥さん、初美さんは、福西家にお嫁に来てから先代の弘行さんに毎日和紙のことを教わり、今では伝統工芸士に。「お義父さんが優しかったので、大事にしてもらえると思ってここにお嫁に来たんです(笑)。話好きのお義父さんは、お客さんが来たらずっとよもやま話をしているような人でした。私もそれを聞きながら、紙のことを勉強したんですよ」。

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湿気のある、ほどよい状態で板に貼らないと、はがれて飛んでしまう。季節によっても水分の含み具合が変わるので、使う刷毛の柔らかさを変えながら、微妙な水分調節をしているのだそう。1枚の重さが約10キログラムにもなる板を両手に抱えて運ぶ重労働も、初美さんにとっては日々の生活の一部。

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乾いた紙に傷がないか、一枚一枚丁寧に選別作業。

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吉野の草木で染めた和紙、「色宇陀」。サクラ、サカキの実、ヨモギ、ネム、アケビ、藍。
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杉皮と楮で作られた「杉皮和紙」。壁紙などインテリア関係によく使用されるそう。
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出荷の際は、福寅の屋号と、三代にわたり重要無形文化財に認定されているという印を添えて。黒いままの楮をすき込んだ「あて紙」で包みます。

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いい仕事ができるのは、いい道具があってこそ。
紙漉きに使う簀(す)。漉く紙が薄いほど、簀も繊細なものを使います。一般的には竹ひごのものが主流ですが、こちらでは特別に作られた茅(かや)素材。今では、この道具を作ることができる人も少なくなってとても貴重なのだそう。さまざまな道具が、伝統の技を支えています。

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楮を入れる竹籠。籠の作り手も、昔は近所にたくさんいらっしゃったそう。

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紙の耳を切り揃えるための大きな鋏。これも貴重な特注品。
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馬のたてがみで作られた刷毛は、硬さ違い。紙の水分量で使い分けます。
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紙を干す際に使う松板は、江戸時代から何度も修理しながら使っている。もう松ヤニも出ない。

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「伝統の技は、つづけて、つたえて、つなげなくては。」
正行さんは、先代の弘行さんが遺したこの言葉を大切にしているといいます。「伝統の技は、つづけて、つたえて、つなげなくてはあかん」。手漉き和紙の技が他の伝統を支え、他の伝統の技が手漉き和紙を支えている。ひとつの技が消えると、複数の技が消える。だから、途切れさせてはいけないし、次の世代の為にも続けなければならないということ。吉野和紙がなければ、おそらく文化財の修復もできなくなってしまう。そして、道具を作る人が居なくなれば紙漉きさえもできなくなってしまう。すべては、つながっているのだということです。
正行さんの娘さんは「早く紙漉きをしたい」と跡を継ぐ意志があるのだそう。「まだ外で働いてたらええねん」。とぶっきらぼうに言いつつも、「つながる」可能性に、どこか嬉しそうな正行さんでした。
山の恵みがもたらした、吉野手漉き和紙。工芸が育った背景には、その産地の風土が色濃く映し出されています。福西和紙本舗の漉く和紙には、吉野の里山が漉き込まれているようでした。

福西和紙本舗
奈良県吉野郡吉野町窪垣内218-1
0746-36-6513
http://fukunishiwashihonpo.com

文:杉浦葉子
写真:木村正史

北海道の地の果てから届く “シリエトクノート”

こんにちは。さんち編集部の井上麻那巳です。
旅をするなら、よい旅にしたい。
じゃあ、よい旅をするコツってなんだろう。その答えのひとつが、地元の人に案内してもらうこと。観光のために用意された場所ではなくて、その土地の中で愛されている場所を訪れること。そんな旅がしてみたくて、全国各地から地元愛をもって発信されているローカルマガジンたちを探すことにしました。第2回目は北海道は知床(しれとこ)半島の斜里(しゃり)町から発刊されている、 “シリエトクノート” です。

“シリエトクノート” の編集部のある知床は、2005年に世界自然遺産になりました。“シリエトク” とは知床の語源となったアイヌ語で大地の突端、つまり地の果てを意味します。日本最後の秘境とも言われ、原生の自然を残す景観、そしてヒグマやエゾシカなどの野生動物などが有名ですが、その知床を擁する「斜里町」の存在はあまり知られてないのが現状だと編集部の竹川智恵さんは言います。でも、自然とともに、たくましく生活を営む斜里の地域住民も知床の魅力のひとつ。そして、もっと、斜里の “人” にスポットを当てたいという思いで、2011年にシリエトクノートはスタートしました。

最新号は石川直樹さんと奈良美智さんの知床の旅に同行するという豪華な内容。

編集部は3名。3人のうち2人は斜里出身、現在は全員が斜里町在住です。それぞれに得意分野があり、ライター、デザイナー、イラストレーターと、役割分担して作業を進めています。3人は興味の方向も自然、歴史、アートなどバラバラなので小さな町でも意外とネタは尽きず、編集作業では斜里という地域の持つ多様性と、懐の深さにいつも感動の連続だそう。

世界自然遺産だけではない、知床の文化や歴史、産業、ここで暮らす人々の営みを発信することが、この冊子のコンセプトであり目標。「雄大な、地の果ての知床」だけではなく「日常の延長線上にある知床」も伝えたいという思いで第10号まで続いてきました。地域のPRのためというよりは、自分たちが「面白い!知らなかった!」と思ったことを、独自の切り口で発信していくまっすぐなスタンスは、地域住民には新たな発見を、観光客には記憶に残る思い出を与えています。不定期発行だけれど現在次号の制作を進めているとこのこと。地の果ては次はいったいどんな顔を見せてくれるのか、楽しみですね。

かわいいヒグマが届けてくれる。こういったちいさな心遣いがうれしい。

ここにあります。

北海道斜里町内の書店、道の駅、カフェなどのほか、札幌、東京などの書店でもお取扱いがあります。 編集部から直接通信販売も行っています。
siretok.stores.jp


全国各地のローカルマガジンを探しています。

旅をもっと楽しむために手に入れたい、全国各地から発信されているローカルマガジンの情報を募集しています。うちの地元にはこんな素敵なローカルマガジンがあるよ、という方、ぜひお問い合わせフォームよりお知らせくださいませ。
※掲載をお約束するものではございません。あらかじめご了承ください。

文・写真:井上麻那巳

オチビサンと巡る四季の鎌倉 〜木々が色づく文学の秋編〜

こんにちは。さんち編集部の井上麻那巳です。
『オチビサン』という漫画をご存知でしょうか。『オチビサン』は『働きマン』などで知られる安野モヨコさんの漫画作品。安野さんが過労に倒れてほとんどの漫画の連載をストップしたとき、唯一連載をやめなかったのが、実はこの『オチビサン』なのです。鎌倉に暮らす安野さんが、愛する鎌倉の四季や自然と共に描くオチビサンたち。彼らといっしょに潮風香る古都、鎌倉の街を巡っていきましょう。

まずは、「花の寺」として知られる光則寺へ。ちょうど長谷寺と鎌倉大仏のある高徳院に挟まれるような立地の小さなお寺です。江ノ電長谷駅を降り、てくてく歩いて5分ほど。秋の紅葉にはちょっと早いですが、徐々に色づきはじめた木々をゆったり眺めるのもぜいたくな時間。

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住職さんによると、光則寺は四季を通じて花が咲き、訪れる時期によって全く違う表情を見せてくれるそうです。東京よりも少し遅めの鎌倉の紅葉は、11月下旬から12月上旬が見頃だそう。

どんぐり集め。オチビサンのように夢中になって迷子にならないように。
ちいさな秋、見つけた。

ひんやりした空気の中、光則寺を後に鎌倉文学館へ向かいます。

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物語に出てくるような雰囲気たっぷりの坂をのぼると現れる洋館が目的地、鎌倉文学館。旧前田侯爵家別邸であるこの建物は、第16代当主の前田利為氏によって昭和11年に現在の形に建てられました。和洋入り混じる雰囲気たっぷりの建物は、今でもドラマや漫画のモデルに使われることも多いとか。寄木細工の技術を使用した床など、細かいところも洒落ています。

細かい建具のディティールやステンドグラスが美しい。
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「鎌倉文士」と呼ばれた川端康成など、鎌倉ゆかりの文学者たちは今ではなんと340名にものぼるそう。常設とは言いながらも季節毎に入れ替えられている彼らの直筆原稿や手紙などを展示する常設展示を見ていると、たくさんの本に目を輝かせるナゼニの顔が目に浮かぶようでした。

ここでしか売っていないという『鎌倉文学散歩』。お土産によいかも。

建物の外へ出て、バラ園でひとやすみ。三島由紀夫の同名の小説にちなんだ『春の雪』や鎌倉ゆかりの名が付けられたバラはちょうど見頃を迎えていました。天気のよい日はこの香りの中お弁当を広げるのもよいなぁと言いながら、おなかをすかせて鎌倉駅へ移動します。

薄いピンクでちいさな「春の雪」はとっても可憐。
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賑やかな鎌倉駅に戻ると、小町通りを一歩歩くたびによい匂いが…。食べ歩きの誘惑を振り切り、カウンターだけのちいさなお店、穴子ちらし小町にまっしぐら。今なら食いしんぼうのパンくいの気持ちがわかるかも。ここでいただくのはもちろん看板メニュー、穴子ちらし。穴子と言えば夏に旬を迎えるイメージですが、脂の乗った10~12月を好む方も多いのですよ。前のお寿司屋さんから受け継いだという織部焼の丼ぶりには、この器に再会するためにやってくるファンもいるとかいないとか。

穴子ちらし お椀、お新香付き 1,500円。

元編集者のお洒落なお父さんが切り盛りするランチタイムとは打って変わって、夜は東京で修行を積んだ息子さんが自ら釣ったお魚を料理してくれるそうです。

おなかも満たされたところで、文学の秋へ戻りましょう。新しいお店も目立つ小町通りの中で、ひときわ目をひく古い外観。和紙専門店の社頭は1969年創業の老舗です。当時から川端康成をはじめ、鎌倉の文学者御用達の店として続けてきました。店内には所狭しと千代紙や懐紙などの和紙の小物が並びます。

「もともとは母の趣味ではじめたお店で…」と語る二代目当主は、華やかな千代紙よりも白い和紙に惹かれる。同じ白い紙でも紙漉きはもちろん季節によっても全然違うのよと言ってたくさんの白い紙を見せてくれました。中にはピカソやシャガール、ダリが好んで使っていたという貴重な紙も。それらの紙も約60cm×90cmで4,000円ほどから手に入るというので、手が届かなくはないことに驚きました。

オリジナルの葉書は5枚で324円から。葉書によって金額が違います。
鎌倉駅舎もあります。