愛しの純喫茶 〜鎌倉編〜 イワタ珈琲店

こんにちは。さんち編集部の井上麻那巳です。
旅の途中でちょっと一息つきたい時、みなさんはどこに行きますか?私が選ぶのは、どんな地方にも必ずある老舗の喫茶店。お店の中だけ時間が止まったようなレトロな店内に、煙草がもくもく。懐かしのメニューと味のある店主が迎えてくれる純喫茶は密かな旅の楽しみです。旅の途中で訪れた、思わず愛おしくなってしまう純喫茶を紹介する「愛しの純喫茶」。第1回目はたくさんのカフェがある駅前でもひときわ目立つ老舗、鎌倉のイワタ珈琲店です。

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鎌倉駅東口を出てすぐのにぎやかな小町通り、可愛らしい食品サンプルにレトロなタイポグラフィで「イワタ珈琲店」のサイン。これは名店の予感しかしないと迷わず店内へ入ると、そこは分厚いホットケーキが評判の有名店でした。満席の店内の中、入ってすぐに人数とホットケーキの注文があるかどうか聞かれます。聞けば焼くのに20分ほどかかるとのこと。何の前知識もなく、ランチを食べたばかりでおなかはいっぱいだったけれど、好奇心には勝てずホットケーキとコーヒーをオーダーしました。

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開店前の様子。10時のオープン後は常連さんと観光客の方々で賑わいます。

創業71年の風格はありながら、きれいに手入れされた店内は清潔で、品が良い。その秘密を、3代目店主の岩田亜里紗さんにうかがいました。お店は、形あるものは、どうしても朽ちてしまう。でもお店は変わらないでほしいという昔からのお客さんからの声を受けて、ソファをデザインそのままに復刻したり、テラスを建て替える時になるべく以前の雰囲気を残したりと隠れた努力をしているそうです。昭和23年から働いているスタッフと家族同然に働き、常連さんを大切にする店主の気持ちがお店のひとつひとつを形づくっていました。

そうこうしているうちに、念願のホットケーキが運ばれてきます。60年ほど前から看板メニューのホットケーキは、銅板の上、当時から変わらぬレシピでじっくり焼くこと20分。熱々のホットケーキに大きなバターとたっぷりのシロップをかけて、いただきます。

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ホットケーキばかりに目がいってしまいがちですが、コーヒーは横浜のキャラバンコーヒーによるイワタ珈琲オリジナルブレンド。期待通りの苦味とコクです。

ショーケースに並ぶケーキも懐かしい味でおいしい。
ショーケースに並ぶケーキも懐かしい味でおいしい。

ついさっきランチを食べたことも忘れ、分厚い2枚のホットケーキをペロリ。変わらないために変わっていく老舗の味は、おなかのキャパシティなんてものともしないのでした。


イワタ珈琲店
鎌倉市小町1-5-7
0467-22-2689

文・写真:井上麻那巳

「工芸と歴史」松岡正剛と中川政七が語る工芸の変遷

2016年に創業三百周年を迎えた株式会社中川政七商店。その十三代当主である中川政七と、各界を代表するゲストが互いの専門分野をクロスさせて語らう対談企画。

第1回のテーマは「工芸と歴史」。”知の巨人”として名高い日本文化研究の第一人者、松岡正剛氏をゲストに迎えます。事前に寄せて頂いたコメント冒頭の一文は、「今、工芸の半分が、死んでいる」。いきなり核心に迫る幕開けです。

(以下、松岡正剛氏発言は「松岡:」、中川政七発言は「中川:」と表記)

バックミラーで歴史を映す

中川:今年、中川政七商店は三百周年を迎えたのですが、様々な角度から工芸を捉え直してみたいと考えました。そこで、各界で活躍されている方と対談をして知見を深めていこうというのが、今回の企画の主旨です。

第1回は、未来を考えるにはまず過去を知らなければいうことで、工芸×歴史をテーマに選びました。工芸も含めた日本の文化の変遷を紐解くなら、この方以外にはまず考えられないだろうと思います、記念すべきお一人目のゲストは“知の巨人”、松岡正剛さんです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

松岡:今日はよろしくお願いします。三百周年、おめでとうございます。

中川:ありがとうございます。実は正剛さんとお会いするのはこれが初めてではないんですね。そもそも三百周年を機に、社史をちゃんと整えようと思ったのですが、自社の資料がたいして残ってないので、どうせならもうちょっと広げて工芸の歴史全体を読み解きたいなと思ったのです。

ちょうどその時に松岡さんの『情報の歴史』(NTT出版)がイメージに浮かんで、松岡さんをたずねました。最初にお会いした時に松岡さんが言われた「歴史というものは未来を作るためにある」という言葉が、いまでも印象に残ってます。

情報の歴史 対談
対談のきっかけとなった『情報の歴史』(NTT出版)

松岡:最初に中川さんと交わした時の歴史と未来というのは、「バックミラーで歴史を映しながら前へ進む」ということです。そのバックミラーは一個である必要はない。いくつものフィルターやミラーで歴史をセレクトするのがいい。歴史を選定して前へ持って行くということです。その装置さえあればどんな未来へも進めます。その場に応じたものに歴史を持ってくることができるのは、未来が先行しているからです。

中川さん独特のセレクト感覚のもとで、立体的で不思議なバックミラーが作れれば面白いなというのが、僕が最初にあなたと会った時の「歴史は未来」と言った意味なんです。

中川:なるほど、今伺うと、よりはっきりとわかります。

松岡:そもそも中川さんが自分の会社の「のれん」に歴史を感じたのはいつ頃からなんですか。ビジネスコンサルティングという手法とシナリオと戦略を持って工芸の業界に入って、それが元々の家業とも重なっているわけだから、とてもユニークなケースだと思います。変なニュータイプ。「のれん」にこだわりがあるような、ないような。必然性があるような、ないような、ね。どの辺からそういうことをした方がいいと思い始めたんですか。

中川:変なニュータイプですか(笑)。工芸メーカーへのコンサルに関して言うと、何か戦略性が先にあったわけではなく、もう必要に迫られてなんですね。この仕事に入った頃、世の中ではファストファッションがどーんときている時で、要はたくさん作ることで安く作れる。それもあるかなと思ったのですが、こと工芸に関していうと、1000個作るから安くしてって言いに行ったらそもそも断られる。「いや、うち1000個も作られへん」って。

対談 中川政七商店

松岡:なるほど、工芸の特殊性に気づいたわけだね。小さなロットの注文生産だからね。

中川:1000個作るために100個作れるところを10軒探すのはすごく大変です。そして毎年のように廃業の挨拶に2、3軒来られる。このままいくとまずいなと思いました。それで、「日本の工芸を元気にする!」というビジョンを掲げました。元気にするには彼らが自活していく道を考えなきゃいけない。そうすると経営に直接手を入れるしかないって思ってやり始めたんです。戦略的にというよりは、生きるためにスタートしたんです。

松岡:工芸や民芸を支える文化や基盤が今の日本にしっかりあるかっていうと、無いと思います。例えば、言葉の歴史を見てみるとよく分かります。言葉は当初、非常に意味が多様なんです。「自由」という言葉でいうと、日本では「自由狼藉」のように「勝手気まま」という意味があった。

しかし、明治維新後に「リバティ」という言葉が入ってくると、西洋の価値観も流入してくるわけです。単なる「勝手気まま」ではなく、民主主義や自由主義を含めた「自由」という言葉に変わっていく。次第に、リバティ的「自由」の意味が主流になっていくんですね。そうすると、「自由」の意味の多様性が少しずつ失われていく。本来言語は正反対の意味を内包するほどに多様です。日本でいうと江戸の粋(イキ)に対して京都の粋(スイ)、公家の「あはれ」に対して武家の「あっぱれ」。

中川:確かに、「あはれ」と「あっぱれ」では全く意味が変わってきますね。

松岡:そこが言語の面白さなんですが、リバティだけになってしまうと価値観が単一になっていくんですね。これは「工芸」に関しても言えることです。一時期は多くの人が「工芸」はこれでいいのか、「民芸」と言う方がいいのか、という風に向き合った時期があった。けれど、主流に対する反対・アンチが出にくくなっているのではないかと思います。

かつて、工芸の中には信仰も祈りも縁起物も、たくさんの意味と価値観が含まれていたけれど、もうそれは細かく散ってしまっている。お土産品とか民芸品とかは一体何に使うんだろうとみんな思い始めています。そこにきて、中川さんが話したように、メーカーが非常に少ないロットの中で戦っているということは、中川政七商店だけが抱える問題というよりも日本全体がそろそろ考えなければいけないことでしょうね。もしこれから新しい工芸を作り直すのだとしたら、今言ったようなことを一挙に起こしていった方が面白いと思います。

中川:そのためにもきっと「バックミラーで歴史を映しながら前へ進む」ことが大事なんですね。

弁慶の七つ道具と工芸の意外な関係

中川:改めて工芸の歴史を振り返ってみると、工芸とは、そもそも自分たちが使うものを自分たちの手で作るところから始まっていると思います。そこから始まって、権力者がお抱えで作らせていた時代がある。利休の黒楽茶碗みたいに、自分で作るのではなくプロデューサー的な人が出てくる。

さらに時代が進んで一般庶民も工芸品を買うようになって、量が必要だから効率的に作るようになる。それが商売になると思ってだんだん産地が形成されて流通も発達してくる。時代背景が変わるとそれに応じて工芸を取り巻く環境も変わる。だからその度に工芸のあり方も変わってきたのです。

松岡:工芸はいつでもその時代の長所と短所を技術面と意匠面の両方で抱えながら生まれ育ってきています。ただ生活技術やファインな表現技術にくらべると、少し遅れてセットされていく。

中川:それが遅れると衰退になるし、遅れなければ常に産業として成立していく。ここ30年のことを言うと日本の産地の出荷額は1/4以下になってるわけで、間違いなく工芸の世界は衰退しているんですよね。衰退の理由ははっきり分かっています。それは物を作ってる人と使う人の間が、時代と共にすごく遠くなってしまったことです。その時期に商売として栄えたからこそ人が集まってくるんでしょうけど、結果的には距離ができてしまって衰退の時代を迎えて今に至っています。それが未来への一つの示唆でもあると思うんです。

松岡:そこを中川政七商店はどうしようとしているの?

中川:当たり前のようですけど、距離が近くなればいいんじゃないかって思いました。とはいえ、自分で作って自分で使うわけにいかないので、今の時代における近くなるって何なのかを考えました。

その一つの解答は、「産業観光」なんじゃないかと思っています。産業観光というと世界遺産に認定された富岡製糸場のような産業〈遺跡〉を見学に行くものを思い浮かべがちなのですが、僕の言う産業観光は、生の産業を見に行く観光です。

対談 中川政七

現在進行形で動いている工芸の現場を見るのは刺激的だと思います。その兆しは既に出ていて、新潟の燕三条地区が年に1回だけ「工場の祭典」というオープンファクトリーを開催しています。ふだん稼働している生の職人の現場を開放しているのですが、扱うものが金属なので火もあって派手なんです。見たら誰でも「おー」ってなるし、そこで作られた物が横で売られているとやっぱり欲しくなる。全国から3万5千人を超える人が来ています。そういう作る人と使う人の近さが、もしかしたら一つの未来像なんじゃないかなと思うんです。

昔は流通が発達して物を動かしたけれど、今は人を動かしてそっちへ寄せていく。そうするとその現場だけじゃなくその周辺の土地性も含めて楽しめる。産地に来て見てもらうことが工芸の未来だと思うんです。

松岡:そういう意味では、歴史の中にも産業観光的なことはあったと思います。例えば奥州平泉で秀衡椀という器が作られる。そこには金が関わりますね。産業があるレベルに達すると、「奥州でなぜかおもしろいものが出来上がって都にまできた」と伝播します。するとどんなものだろうとみんなが見に行くんですね。奥州街道をずっと越えて、未知のものを見に行く。 義経の奥州下りに出てくる金売吉次(かねうりきちじ)は金の商人だし、弁慶が持っていた七つ道具は鉱山開発の道具です。そのうち義経と弁慶の物語がそうだったように、工芸だったものがお芝居になり、技術だったことが謡曲にもなる。これも観光であり、文化なんです。

対談 松岡正剛

中川:弁慶の七つ道具も、実は土地の工芸と関係していたんですね。

松岡:奥州に不思議なものがあるというのが噂になって、メディアが伝える。物がいいということだけではなく、たくさんの物語がくっついて、進化するんです。これらがいずれ浮世絵にもなり、最後には童謡のようなものにもなる。メディアを次々と乗り換えながら工芸がアートや物語になっていきます。「工芸の復活」ということが我々の一つの目標だとして、そこに何が足りないかというと、もちろん投資や職人さんの力などもありますが、こういった「変換」が必要なんだと思うんです。

中川:変換というのはどういうことですか?

Historyから新しいStoryを生み出す

松岡:お茶を例にすると、お茶摘み自体の観光力も多少はありますが、それが茶の湯に変換されたことが大きかった。「ちゃっきり節」という民謡になったり、それが鉄道唱歌になったりした。そのうち駅弁とお茶がワンセットになっていった。そういう変換が起きていくことが重要なんです。 ありとあらゆるものがかつては工芸品にくっついていたんですね。これらの変換によって次々と観光の資源が生まれていたんです。

最近の浴衣にしても、夜店や花火に着ていく人は増えていますが、それだけでは物語の数が少なすぎる。もっと祭りやコンサートやスポーツ観戦にも結びつくべきです。 産業観光というものが起こるんだとすれば、もっといろいろなものが変換され、転用され、転写されて増えていった方がいい。

中川:なるほど。松岡さんが本で書かれていた「物語を構成する5つの要素」を思い出しました。 物語の舞台となる「ワールドモデル」がまずあって、そこで「ストーリー」が繰り広げられる。「ストーリー」を進めるのは物語を生きる「キャラクター」と象徴的な「シーン」、そして読み手と物語の世界をつなぐ「ナレーター」、でしたね。

僕は、そういう物語をちゃんと作って多くの人が興味を持ってくれれば結果的に生き残っていけるし、商売として成り立つと信じています。僕らはたまたま工芸にいるからそれが起点、「ワールドモデル」になるわけですが、それだけじゃ物語は起こらない。だから昔のことを調べるんです。あるいは職人さんに専門的なことをいっぱい教えてもらう。彼らが「キャラクター」になることもある。 昔からのいろんな面白い話があるわけじゃないですか。それがまさに文化だと思うんです。それらをていねいに勉強しながら、その中にある面白いタネ、「シーン」や「ストーリー」や「キャラクター」を見つけ出してきて、変換する。僕らが「ナレーター」になるんです。

変換してたくさんの物語にすることでそれは伝わるし、伝わるとそこに物が売れるということも付いてくる。それが膨らんできて、ある一定の膨らみになると人が来始めるんだと思います。それは、ずっと中川政七商店がやっていることです。だから工芸じゃなくても実はできると思うんです。お酒であっても農作物であっても。

対談 工芸 歴史

松岡:そうそう、そういうふうになった方がいいですね。今の日本を面白くするには、工芸もお酒も書も花も全部が一斉に立ち上がらないと駄目なんです。 今の日本の多くの企業のように、グローバルで勝ち組になるしかないっていうロジックだけではいけません。だって勝つのは少数だから。勝っても負けても成立する物語がもっと増えないといけません。 Historyという言葉にStoryという言葉が入っているように、歴史をめぐる面白さはやっぱり物語性なんですよ。

中川:歴史や背景をきちんと見ない限り新しい物語は紡がれないと思っています。創業三百周年という節目は、まさに歴史をバックミラーで見ながら未来に向けた物語を考える、ちょうど良い機会だったと思います。歴史の中から工芸や産地の新しい物語を紡いでいくことを、ひたすらずっと、やっていくのが僕らの生業なのかなと思います。

松岡:ぜひそうして下さい。これからの活躍を楽しみにしています。

対談 工芸 歴史

話者紹介

松岡 正剛(まつおか せいごう)
雑誌『遊』編集長、東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を経て、現在編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。日本文化、芸術、生命哲学、システム工学など多方面におよぶ思索から情報文化技術に応用する「編集工学」を確立。日本文化研究の第一人者として「日本という方法」を提唱。システム開発、企業プロデュース、地域文化再生など多彩なプロジェクトを手掛ける。

中川 政七(なかがわ まさしち)
中川政七商店代表取締役社長 十三代。京都大学法学部卒、富士通株式会社を経て中川政七商店へ。「遊 中川」「中川政七商店」「日本市」などのブランドで直営店出店を加速させ、工芸をベースにしたSPA業態を確立。「日本の工芸を元気にする!」をビジョンに掲げ、業界特化型コンサルティングを各地で行う。2016年11月、十三代政七を襲名。

中川政七と松岡正剛

写真:井原悠一

柔らかな鴨と季節の野菜を贅沢にいただく加賀料理 治部煮

こんにちは。さんち編集部の西木戸です。
突然ですがみなさん、玉子焼きは何派ですか?私は、甘めの出汁巻きが好きです。二番だしを多めに入れて焼いた分厚い玉子焼を、粗めにおろした大根と一緒に食べるのが我が家の定番です。
地域によって、味付けや調理法が違うのは日本料理の面白さ。食べ親しんだ味もいいですが、旅に出て食べたいのはやはりその土地ならではの料理です。今まで食べたことのない素材や、いつもと違う食べ方に出会いは、とてもウキウキするものです。 また、料理が違うとなればそこに使う器も違ってくるはず。もしかすると料理の進化に合わせて、それを盛る器だって、料理にいちばん似合うよう形を変えたり、新しく作られてきたかもしれません。
かつて、芸術家であり料理人・美食家でもある魯山人氏は、「美味しい料理にふさわしい器が必要だ」と料理に合う器を作り始めました。「うまく物を食おうとすれば、料理に伴って、それに連れ添う食器を選ばねばならぬ」と言い残しています。工芸の産地で料理をいただくときには、それが盛られている器にも注目して、目でも楽しみたいものです。

加賀料理 治部煮

石川県金沢市をはじめとする加賀地方で発展してきた郷土料理である加賀料理。 今回ご紹介するのは、その代表格である「治部煮」です。
江戸時代から伝わり、加賀藩の武家料理が起源とされる料理なのだそう。輪島塗の美しいお椀の蓋を開けると、湯気と共にお醤油のいい匂いがします。さすが武家料理、贅沢に鴨肉が使われていました。加賀名物のすだれ麩、里芋、椎茸などのお野菜と一緒に煮込まれています。お砂糖のきいた甘いお醤油味の日本らしい味付け。もちろん合わせるのは日本酒です。地酒「常きげん」。しっかりとお米の香りがし、少し濃いめの治部煮にもよく合います。美しくとても美味しい加賀料理に、お酒も一合、二合、三合、、とついつい進んでしまったのは言うまでもありません。ご馳走さまでした。

ここでいただけます

源左ェ門
石川県金沢市木倉町5-3
076-232-7110

文:西木戸 弓佳
写真:林 直美

京都・茶筒の開化堂の140年続く茶筒づくりに迫る

京都市下京区に「茶筒の開化堂」を訪ねて

「開化堂」の茶筒をご存知でしょうか。

蓋を茶筒の口にそっと合わせれば、すーっとなめらかに落ちて蓋がおのずとぴったり閉まる。細密な職人仕事に思わずため息が出る、佇まいの美しい茶筒。

手づくりならではつくりの良さや、使い込むほどに変わる色の変化も楽しみのひとつで、長く一生ものとして使える茶筒は、日本だけでなく海外でも人気です。

京都市下京区河原町、鴨川が流れるほど近くの茶筒司、「開化堂」を訪ねました。

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140年の年月を越えて続く茶筒づくりの現場へ

明治8年に創業した「開化堂」。イギリスから仕入れたブリキの板を、それまで日本になかった丸缶にしようとしたのは初代でした。以来140余年もの間、その技で茶筒を作り続けているのだといいます。

茶筒づくりは、まず素材を切るところから。ブリキ、銅、真鍮などの板を大きな押し切りでカットします。ここでほんの少しでもずれると茶筒の上下がうまく合わなくなってしまうという、大切な作業。

ちょっとしたクセも響いてしまうので、いつもひとりの職人さんが担当するのだそう。

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蓋の高さや胴の高さが台に印されているものの、少しのズレも許されない。
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大切なブリキの型。昔から、「火事になったらこれだけでも持って逃げろ」と言われていたそう。

断面の表と裏の微妙な歪みをとったり、丸めた時の合わせ目に段差ができないように板の端を木槌で叩いて薄くしたりと、板の段階でていねいな準備が必要。丸めた時に重なるのりしろに筋を入れるのも、かなりの精密さが求められます。

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うっすら入ったのりしろの線が見えるでしょうか。

裁断した材料を1枚1枚、「三枚ロール」という道具で真円になるように丸め、「ハッソウ」と呼ばれるクリップのようなものでのりしろを止めてはさみます。

この「ハッソウ」は昔から開化堂で手づくりされているもので、ピアノ線を曲げてつくっているそう。なんと常に3000個もあるんですって!

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真円に丸めた筒を「ハッソウ」ではさむ。
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これが「ハッソウ」。1年使うとバネの力が弱るので消耗品。

130以上の工程の集大成として生まれる「開化堂」の美しい缶

底入れ・ハンダづけの作業は、2人で向かい合って。下から火で温めているので、向かいの人に丁度良いタイミングで筒を置いてもらわなければ温度の管理が難しいといいます。

「昔、親父と母親がふたりでこの作業をしてたんですが、夫婦ゲンカしたら微妙に母親がタイミングをずらしていたんですよ(笑)」

とおっしゃるのは6代目の八木隆裕さん。昔は家族だけの工房でしたが、今は若い職人さんがたくさん増えて賑やかです。

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隆裕さんも毎日工房に入り、いろいろな作業を担当します。
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今はガス火だけれど、おじいさんの頃は炭火。毎朝おばあさんが火をおこす係だったそう。
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ハンダづけに使うコテも年季が入っています。
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胴に合わせる相方を決めて、調子を合わせていきます。
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わずかな調整は隆裕さんが経験で覚えてきた技術です。

磨きの作業でようやく終盤。との粉と菜種油をつけて、磨きすぎず絶妙なタイミングを見極めて磨き上げるといいます。細かな作業工程は、130工程以上。全ての作業に細密さが求められ、その集大成として「開化堂」の美しい缶が生まれます。

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磨き作業。昔は足踏みで回転させる装置を使っていたそう。

手しごとを堺の街から。関西を代表するクラフトフェア「灯しびとの集い」

こんにちは。さんち編集部の井上麻那巳です。
全国各地で行われるいろいろなイベントに実際に足を運び、その魅力をお伝えする「イベントレポート」。今回は、大阪府堺市で、11月12日 (土)・13日 (日) の2日間にわたり開催された「灯しびとの集い」に行ってきました。

気持ちの良い秋晴れの中、会場内にはたくさんの人が。
気持ちの良い秋晴れの中、会場内にはたくさんの人が。

関西を代表するクラフトフェア「灯しびとの集い」

「灯しびとの集い」は2009年からスタートしたクラフトフェア。今年で8回目を迎えました。出展するつくり手の質と運営スタッフの意識の高さから評判となり、関西をはじめ全国からたくさんのクラフトファンが訪れるイベントとなりました。会場は大阪府堺市の大仙公園。刃物の産地として知られる堺は、歴史的に見ても、日本の工芸を育てた「茶の湯」に縁が深い街。その堺に、日本全国のつくり手と使い手が集まってきます。

会場の大仙公園はちょうど紅葉を迎えていました。
会場の大仙公園はちょうど紅葉を迎えていました。

様々なプロの視点で選ばれる出展作家たち

500組あまりの応募がある中、実際に出展できるのは100組。約5倍の倍率の中、毎年異なる選考委員がその年の出展者を選びます。今年の選考員は小林和人さん(Roundabout/OUTBOUND店主)、塚本カナエさん(商品開発ディレクター)、堀あづささん(dieci店主)、正木なおさん(ギャラリスト)、柳原照弘さん(デザイナー)、辻野剛さん(fresco /灯しびとの集い実行委員会会長)の6名でした。「ものに対する立場の違いから、それぞれで全く目線が違って面白い」と自身も作家でありながら実行委員長を務める八田亨さんは語ります。必要事項と小さなコメント欄、決まったレイアウトによるたった3枚の写真で選考は行われ、出展作家のジャンルは陶磁、ガラス、木工、金属、染織など多岐にわたります。やはり圧倒的に多いのは陶磁ですが、革や布といった素材を扱う作家さんも多くいました。

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ここで、個人的に気になった作家さんを写真でご紹介。 1組目は岐阜県の林志保さんです。作品シリーズによって異なる特徴的なマテリアルが印象的。

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2組目は埼玉県の鳥居明生さん。これまで様々な陶磁器の器をつくられてきたけれど、数年前より「かたまりをつくりたい」と思い現在のスタイルになったそう。ペーパーウェイトのようでもあり用途が無いオブジェのようでもある「かたまり」たちは、ユニークな世界観をつくっていました。

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3組目は大阪府のefusaさん。2016年に活動を始めたばかりだそうですが、張子の技法でつくられる紙のプロダクトは独特のオーラがあり、一目で釘付けに。

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青空の下、ここでは紹介しきれないほどたくさんのクラフトが並びます。

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会場には厳選された飲食店のブースも並びます。南大阪を中心に、どこも関西では知る人ぞ知る人気店ばかり。その中でもいくつかのお店は朝から行列ができることもあるのだとか。また、音楽ライブやトークショーも行われ、クラフト以外でも楽しい時間を過ごせる工夫があちらこちらに。

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クラフトブームの、これから

「灯しびとの集い」を立ち上げた当初の志は今でも全く変わらないと語る実行委員会会長の辻野剛さん。この言葉の一方で「クラフトを “ブーム” にはしたくない」と言っていた辻野さんは、2015年の開催後にこう語っています。

この「流行」を皆さんはどんな風に捕らえますか? “本当にクラフトとして秀逸な生活の道具という作品を、人々の暮らしに滑り込ませる。” そんな狙いを持って始めた「灯しびとの集い」は、単純に手作りの物が市場に氾濫する様子に危惧を感じながら、クラフトフェアを開催してきました。しかし、実際にその現実が目前に広がり、多くの人がそれらに関わるようになりました。ところが、その事実は直面してみればそれほど怖いことではありませんでした。公園というバブリックな場所での開催は、作品(作家)と使い手の偶然の出会いを期待した故。本当に優れた物を紹介することで、目利きを育み、次代のクラフト振興や豊かな生活環境を牽引する目的を持って続けてきました。今実際に目前に起こっている現象は、人々に多様で豊かな「選択肢」が育ち、多くの人がそれを楽しめるという状況ではないでしょうか。

第7回 灯しびとの集いを終えて」より一部引用

目利きを育てること。実際に、8年間毎年ここで器を買うことが習慣になった人もいます。当たり前にクラフトが生活に溶け込み、百貨店やオンラインショッピングと同じように、選択肢のひとつとしてクラフトフェアがある。旅の行き先のひとつに工芸産地を選ぶことも、こうして当たり前になっていけたらと、身の引き締まる気持ちになりました。

灯しびとの集い公式ウェブサイト

文・写真:井上麻那巳

真っ黒で、美しい手。墨師の命を吹き込んだ「古梅園」の奈良墨

こんにちは。さんち編集部の杉浦葉子です。
日ごと秋も深まり、肌寒い日が多くなってきました。私の住む奈良盆地は冬の時期、近畿の他の府県と比べて(おそらく)うんと底冷えします。寒いです。でも、そんな寒さがあってこそできるものづくりも、日本にはたくさんあります。
ここ奈良で寒期に行われる墨づくりは、10月中旬から翌年の春までがその季節。約440年の歴史を誇る奈良墨の老舗「古梅園」を訪ねました。

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暖簾をくぐると敷地が奥へと広く続きます。

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敷地の端から端まで敷かれた長いレールは、トロッコで墨を運ぶため。今も毎日使われています。

奈良で墨づくりが栄えたのは寺社のおかげ

日本へは飛鳥時代の610年、高句麗の僧である曇徴(どんちょう)が墨づくりを伝えたといわれています。仏教が盛んになった奈良時代には、たくさんの写経がなされ墨は貴重品に。寺社が多くあった奈良では、主に僧を中心に多くの墨が作り続けられたといいます。室町時代には一般庶民も墨を作って売るようになり、安土桃山時代の1577年に墨屋「古梅園」が創業。1739年には古梅園の6代目にあたる松井元泰氏が、長崎で清人と墨づくりの交流をしたことで、より一層品質のよい墨を作れるようになり、代々の墨師によってその技術が受け継がれてきたのだそうです。

——と、歴史の話をお聞きしている間にも、ふんわりと墨のよい香り。子どもの頃、書道教室で墨を黙々と磨っていた記憶がよみがえります。誰もが馴染みのあるこの墨の香りに誘われて、墨づくりの工程を見せていただきます。

煤を集めて、墨をつくる

墨の原料は、油煙や松煙という煤(すす)、練り合わせて固めるための膠(にかわ)、そして香料。墨づくりが寒い季節に行われるのは、膠を腐らせないようにするためだそう。油煙は上質な純植物性油を燃やして作り、松煙は生きた松の幹から出た脂(やに)を燃やして作ります。香料は竜脳を中心とした天然香料を使用。墨を磨るときに気持ちを引き締め、安らぎを与えるためだそう。

約450年前と変わらぬ姿の採煙蔵は、中に入ると真っ暗。四方の壁に油を燃やすための素焼きの皿と、取っ手のついた覆いがずらりと並び。皿の中で菜種油を燃やしています。この覆いについた煤を少しづつ少しづつ集めたものを、墨づくりに使用するのですって。

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1部屋に100個。職人さんは1人で2部屋、つまり200個の炎を同時に管理します。

煤が覆いにまんべんなくつくように、20分ごとに覆いを少しづつ回転させ、煤をていねいに掃き落として集めます。この炎は、い草で作った灯芯で灯明のように油を燃やしたもの。より細い灯芯で燃やすと炎も小さくなり、時間はかかれどキメの細かい粒子の煤が取れるのだそうです。
なんだか、気の遠くなるような作業ですね。

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灯芯を巻けるようになるのも、この採煙蔵を任される職人さんの仕事。

墨づくりの一部始終を描いた『古梅園墨談』

ここで突然ですが「古梅園」の6代目である松井元泰氏がまとめた『古梅園墨談』をご紹介。「どんなに言葉で説明するよりも、絵で墨づくりの道具や技法がわかる」と、この本の冒頭にあるとおり、こちらを見れば墨づくりの様子がわかる興味深い絵図です。煤を集める採煙蔵の作業はどこに描かれているでしょう。昔も今も、同じ道具。見比べてみてください。

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右が油煙である煤をとっているところ。左では墨を形づくっています。

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右が墨を灰の中で乾燥させているところ、左上は墨を吊るして乾燥、左下では灰を落として墨をきれいにしています。

つやつやの墨玉づくり

墨づくりの寒い季節、朝一番の作業は墨玉をつくること。
膠を湯煎で溶かし、煤と香料を混ぜ合わせます。これを幾度も幾度も練り合わせると、真っ黒で艶やかなお餅のようなものになります。これが墨玉です。
墨玉は、少し時間をおくと硬くなってしまうので、墨師が体重をかけて全身を使って練り直します。小出しにして少しづつ使うのですが、残りの墨玉は墨師の体の下に敷いて温めておくのだそう。まるで鶏が卵をあたためるみたいに、大切に守っているんですね。高級な原料を使うほど墨玉は固まりやすくなるため頻繁に練らなければいけませんが、これも質のよい墨を作るため。練るほどになめらかで光沢が出てくるのがわかります。

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職人さんの大きな足で、力強く練られます。

続いては「型入れ」の作業です。
木型は、硬くて歪みがこず長持ちする梨の木を使うのだそう。文字や模様は、この木型に細かく彫られています。

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上蓋・下蓋・ちぎり・胴でワンセットの木型。

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重さ15gの一丁型の墨を作るには、乾燥を考えて生の墨玉25gを天秤で計ります。