あおい海や川、あおい山のような、徳島の暮らし “あおあお”

こんにちは。さんち編集部の井上麻那巳です。
旅をするなら、よい旅にしたい。
じゃあ、よい旅をするコツってなんだろう。その答えのひとつが、地元の人に案内してもらうこと。観光のために用意された場所ではなくて、その土地の中で愛されている場所を訪れること。そんな旅がしてみたくて、全国各地から地元愛をもって発信されているローカルマガジンたちを探すことにしました。第3回目は徳島の当たり前を伝える文化情報誌 “あおあお” です。

“あおあお” は徳島県が発行する無料の情報誌。フリーペーパーというよりは無料の情報誌という言葉が似合うしっとりとした佇まいです。2013年の秋に1号が発刊されてから約3年、最新号は10号まで刊行されています。毎号変わる巻頭特集は水上の道、町の小さな工場、汽車、県境など多岐にわたり、どこにでもありそうで、でも徳島ならではのローカルな目線で語られる文章はどこか詩的で物語のよう。

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「徳島の観光名所や伝統文化を取り上げているものではなく、徳島に普通に暮らす中で “当たり前にあるもの” を綴っていく冊子」と言われているものの、ここにはリアルな今の徳島がぎっしり。それらは下手な観光名所や伝統文化よりももっと魅力的に、まだ徳島を知らない私たちの興味と関心を掻きたてる力があるようです。

毎号変わる表紙が美しい。
毎号変わる表紙が美しい。

これが無料とは信じられないほど安定したクオリティの紙面は地元徳島の制作メンバーで作られているそう。写真、デザイン、文章どこをとっても素晴らしく、しっかりとした世界観を10号続けている紙面からは暮らしや仕事へのていねいさと徳島への愛が溢れています。「ていねい」という言葉が広く使われるようになり久しいですが、この小さい冊子に本当のていねいさを感じずにいられません。

ここにあります。

徳島県内の施設、ショップ、カフェなどのほか、県外でも一部配布。郵便での送付申込みも行っています。
詳しくはこちらのページから。
aoao-tokushima.com/haifu/


全国各地のローカルマガジンを探しています。

旅をもっと楽しむために手に入れたい、全国各地から発信されているローカルマガジンの情報を募集しています。うちの地元にはこんな素敵なローカルマガジンがあるよ、という方、ぜひお問い合わせフォームよりお知らせくださいませ。
※掲載をお約束するものではございません。あらかじめご了承ください。

文・写真:井上麻那巳

【堺のお土産】 奥野晴明堂のお香「利休」

こんにちは、さんち編集部の井上麻那巳です。
わたしたちが全国各地で出会った “ちょっといいもの” をご紹介する “さんちのお土産”。第3回目は戦国時代に貿易港として栄えた商いの街、大阪は堺のお土産です。

堺は戦国時代に対明貿易や南蛮貿易など海外との交流拠点として発展、堺の職人・商人が多くのものを全国各地に広げていったと言われており、なんでも堺がはじまりだというのが堺の人たちは自慢だったそうです。その時代、堺はものだけでなく多くの文化も生み、わび茶も堺の地で完成されたとされています。わび茶の父として知られる千利休は、もとは堺の商家の生まれ。小学校の教科書にも載っているその名は、「茶の湯」という言葉とともに誰もが知る名となりました。今回のお土産はその利休の名を冠したお香を選びました。

堺が貿易港として栄えた戦国時代、各国からの珍しい香木も、例にもれず堺の港へやってきました。そうしてお香の文化はお茶文化とともに堺の商人たちにもてはやされ、発展したと言われています。実際に、現在の堺では線香が刃物に次ぐ伝統産業として特産品に。

この「利休」のお香は享保元年(1716年)創業の奥野晴明堂によるもの。堺の地で創業300年を迎えた老舗と、堺の茶人、商人である千利休。沈香の上品で控えめな香りとともに歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
さて、今日はゆっくりお茶でも点ててみましょうかね。

ここで買いました

奥野晴明堂
大阪府堺市堺区市之町東6-2-15
072-232-0405
www.osenkou.com

文・写真:井上麻那巳

奈良吉野のとろけるあんぽ柿に濃厚バター、一期一会の小皿料理

こんにちは。さんち編集部の杉浦葉子です。
旅先で味わいたいのはやはりその土地ならではの料理です。あとは地酒と地の器などがそろえば、もうこの上なく。産地で晩酌、今宵は古都奈良で晩酌を。

奈良を味わう、たったひと言の注文。

「奈良の美味しいお酒とお料理を。」

注文はこれだけで、あとは店主におまかせ。旅先ではきっと、こんなお店が良いのです。

———熱燗でいいかしら、それともぬる燗?

店主がすすめてくれた奈良の地酒は、豊澤酒造の「豊祝・上選」。大吟醸だとお酒だけで満足してしまうから、うちのお料理と一緒にいただくならこれがちょうどいいの、と。

それもそのはず。こちらのお料理は店主が同じお酒を味わいながらこしらえたもの。お酒とお料理が合わないはずがないんです。

いつも決まったお品書きがあるお店ももちろん良いけれど、その季節に愉しめるその土地のお料理をちょこちょこといただけるお店も嬉しいもの。奈良でいただける小皿料理がつぎつぎと運ばれてきます。

つやつやトロリとした吉野のあんぽ柿にコクのあるバターをはさんだ一品は、奈良の作家・久岡冬彦さんのお皿で。こっくり深い色あいの釉薬に、はっとするような柿色が美しく、目でも愉しめます。

小ぶりでやわらかな茄子にはたっぷりのもろみ味噌。こちらのお皿も奈良の作家で、勝尾孝子さんのもの。お料理とうつわの雰囲気がなじむのは、奈良でつくられたお皿が多いからでしょうか。しっくり。

奈良漬とクリームチーズの和えものも間違いなくお酒にぴったり。お料理をちびちび、お酒もちびちびと。至福です。

ひと皿ひと皿、この時この場所でしか味わえないのだと思うと、旅の醍醐味、一期一会を感じます。

そして、いっしょに旅する相手はきっと気のおけない間柄。この日の旅のあれこれから昔の懐かしい話まで、話の尽きない晩酌に。訪れた季節、一緒に味わったもの、話したこと、まるごと全部が旅の記憶になるはず。

よい奈良旅になりますように。ごちそうさまでした。

こちらでいただけます

お酒と小皿料理 元林院 京富
奈良県奈良市元林院町8
0742-22-8681

文・写真:杉浦葉子

願いを結ぶ水引 〜自分で作るお正月のぽち袋〜

こんにちは。さんち編集部の西木戸弓佳です。
早いもので、今日から12月。そろそろお正月の準備をしなければと、今朝、酉のこけしを飾りました。新しい1年、おめでたく迎えたいものです。
全国各地で行われるいろいろなイベントに実際に足を運び、その魅力をお伝えする「イベントレポート」。今回は、お正月に使える「水引」のアレンジを学びに、福岡・茅乃舎(かやのや)さんで行われたワークショップにお邪魔してきました。

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和文化や暮らしをテーマに毎月開催されている茅乃舎さんのイベント。今回は講師に水引デザイナーの長浦ちえさんを迎え、水引アレンジを学びました。枠に対して倍以上の応募があり、抽選となった人気ぶりなのだそう。近年、街中やメディアでもよく見かけるようになった「水引」。注目の高さが伺えますが、そもそも「水引」とは何なのでしょうか。その起源から教えてもらいました。

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水引とは、ご祝儀袋や贈答品に結ばれている赤白・黒白などの帯紐のこと。歴史は古く、飛鳥時代、遣隋使の小野妹子が帰国の折、答礼品に結ばれていた麻紐が起源と言われているそうです。「結び」は昔から、相手を思う所作として大切にされてきた文化。「おめでとう」や「ありがとう」を結びに込め、相手に伝えるという、日本の美しい習慣です。広く庶民に行き渡り始めた江戸時代には、有力な家庭にはお包みのための和紙と水引が常備されていたとか。最近では家庭で水引を結ぶ風習も少ないと思いますが、昭和初期頃までは学校でも教えていたほど、出来て当たり前で身近なものだったそうです。

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水引の結びは大きく分けると「蝶結び」と「結び切り」の2つ。何度あっても嬉しい出産や進学などお祝い事は、結び直せる「蝶結び」。一方、婚礼や弔事では “一度きりであってほしい” という願いを込め、「結び切り」で解けないよう結びます。「アレンジして使う上でも、この基本を守ることが大事」と、長浦さんが教えてくださいました。結びもモチーフも伝統のルールに沿った上で、アレンジをしているのだそう。

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今回は、結びきりの1つである「あわじ結び(あわび結び)」を応用した「梅結び」を教えてもらいました。 必要な道具はハサミとラジオペンチだけ。特別なものを使わず、身近なものだけで出来ることも、文化に根付いていた理由かもしれません。

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ぽち袋にする紙を選んだら、まずはあわじ結びを作ります。あわじ結びは、左右の輪に繋がった両端を引っ張ると、その結びがさらに強くなることから縁起のよい結びと言われているそう。

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あわじ結びを更に結んで、梅に展開。5つの花片を作ります。

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不思議と姿勢を正して向き合いたくなる、ピンと張った水引。そしてキュッと結ぶ瞬間がとても気持ちいいのです。本当に願いが封じ込めれるような気がして、逃げないようしっかりと結びたくなります。

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祝儀袋やお正月のお飾りとして、実は目にする機会も多いはずの水引。学んでみるとそこには日本の粋な文化がありました。個人的には、昔から続いているものだからという理由だけで伝統的なものはすべて残すべきとは思いませんが、贈るものにきちんと気持ちを込めるという風習だったり、相手を思ってものを作るという素敵な時間そのものが、無くなってしまうのは寂しいなぁと思います。文化も技術も、残るためには、伝統的な型を頑なに守るのではなく、今の暮らしに合うよう形を変え進化していかなくてはいけない、と伝統的な「水引」を使って作られた、カラフルなぽち袋を見ながらそんなことを改めて考えさせられた時間となりました。

文・写真: 西木戸弓佳

わたしの相棒 〜手槌は折れても魂折れず〜

こんにちは。さんち編集部の庄司賢吾です。工芸を支える職人の愛用品をご紹介する「わたしの相棒」。普段は注目を浴びることが少ない「職人の道具」にスポットを当て、道具への想いやエピソードを伺います。今回は三条で今でも唯一、「鉈」を専門にすべての工程を手作業で作り続けている日野浦刃物工房の、日野浦司さんにお話を伺いました。

日野浦司さんの「わたしの相棒」は『手槌』。槌は槌でも、手仕事の意味合いを強く持つ鍛冶屋では『手槌』と呼び、昔から鍛冶屋の魂として受け継がれてきています。この手槌には、単なる道具ではない、鍛冶屋の歴史と未来を想い続ける職人の心が詰まっていました。

100年受け継がれる鍛冶屋の魂

「鍛冶屋はまず、自分の手槌を自分でつくることからはじまるんだ」

日野浦さんは相棒の手槌を握りしめ、昔を思い出すように話をしてくれました。鉄を打つその道具づくりから職人として自分で責任を持ち、決して妥協しない。一番使いやすい柄の長さや木の素材、頭部の大きさや重さ、そして全体の重心のバランスを見極めながら、世界で一つの自分だけの手槌をつくるということです。鍛冶という手仕事のために、まずはその道具を鋼材屋と木工屋で材料を仕入れてつくるのが、昔ながらの鍛冶屋の自然な在り方。日野浦さんも先代の手槌を見ながら試行錯誤して自分の手槌をつくった若き日を、今でも昨日のことのように思い出せるそうです。
その当代専用の手槌の横に、炎の熱で頭部や柄が黒ずんでいる、ずいぶんと年紀の入った手槌が並んで置かれていました。

2つ並んだ、当代専用の手前にある手槌と、先代から受け継がれた奥の手槌。
2つ並んだ、当代専用の手前にある手槌と、先代から受け継がれた奥の手槌。

「これは100年以上に渡って三代受け継がれてきた手槌。力尽きて柄の部分が折れてしまって。柄だけ新しく付け替えたけど、折れた柄には先代の指の形がくっきり残ってたんだ」

先代の指の跡が刻まれるほどに強く握られ、鉄を打ち続けてきた年代物の手槌。確かに、時間の経過を感じさせる黒ずんだ頭部に対して、折れて付け替えたという柄の部分はまだ新しい印象を受けました。持たせていただくと見た目以上にずしりと重く、その道具としての重さ以上に、そこに込められた歴史や鍛冶屋の想いの重さを感じさせられます。木材は粘り気と強度がある桜の木を重用しているということですが、それでも三代使い続けるうちに折れてしまったことからも、鉄を打つ瞬間にこの手槌にどれほどの負荷がかかっているのかが想像できます。

鉄に力が伝わりやすい角度に、ほんの少しだけ先端が下向きに曲がっています。
鉄に力が伝わりやすい角度に、ほんの少しだけ先端が下向きに曲がっています。

かつて鍛冶屋では鉄を打つための金床の片側に親方、その反対側に弟子が2・3人並び、交互に手槌を打ち付けていたとのこと。だから、昔の手槌を見てみると、親方のものと弟子のものとで、頭部の先端が曲がっている方向が逆を向いているそうです。弟子の手槌は上向きに少しだけ反っていたので、親方の手槌が打った同じ場所を弟子が叩く時に、同じ角度で鉄に力を加えることができます。協力して1つの鉄を打つための工夫が、道具自体に施されていたのです。

「その名残のわずかな角度の変化が今でも残って、大きく降り下ろさなくても鉄に力を伝えやすくしてくれているんです」

数人がかりで打っていた行程は、今ではスプリング・ハンマーという機械化されたハンマーが代わりに担ってくれていますが、それでもやはり最後は人間の手で手槌を振り下ろし、鉄の感触を直に確かめながら成形し、刃の質を丁寧に丁寧に高めていきます。大きく振りかぶるのではなく細かく狙いを定めて打ち下ろし、正確に力を伝え形を整えていくために手槌の曲がりが役立っているのです。

工房には手槌意外にも、鉄を掴むハシなど、手づくりの道具が所狭しと並びます。
工房には手槌意外にも、鉄を掴むハシなど、手づくりの道具が所狭しと並びます。

「打つたびに鉄や鋼は良くなる。だから、こいつが無くては仕事にならないんですよ。相棒でもあり、私が鍛冶を守り続ける誇りの形でもあるんです」

先代から受け継がれてきた手槌は折れてしまったけれど、受け継がれてきた鍛冶屋の魂は日野浦さんの中に力強くたぎっています。そしてまた次の世代へと、この手槌とともに日野浦さんの決して折れない魂が受け継がれていく。日野浦さんはそう願いつつ、若い人たちに鍛冶の素晴らしさを伝え続けています。

〜「日野浦刃物工房」が登場する『「工芸」の起源は鍛冶にあり?」』の記事はコチラからご覧いただけます。合わせてご覧ください〜

文:庄司賢吾
写真:神宮巨樹

神さまに捧げるものづくり

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
初詣に縁日、修学旅行に縁結び。子供の頃から神社やお寺は身近な存在ですが、行事の意味や成り立ちの詳しいところは、知っているようで意外と知りません。そんな神聖な場所に、38年つとめられた方のお話を伺うことができました。

訪ねたのは11月に行われた工芸の祭典「奈良博覧会」でのトークイベント、題して「奈良の工芸」。語り手は世界遺産、春日大社で昨年まで権宮司(ごんぐうじ)をされていた、岡本彰夫さん。聞き手は以前から岡本さんの私塾の塾生でもあった、奈良の工芸メーカー、中川政七商店代表の中川政七。遷宮はなぜ20年に一度なのか?造替(ぞうたい)との違いは?身近なようで意外と知らない神事のお話から、土地のものづくりとの密接な関係、日々の暮らしに活かしたい心がけまで、盛りだくさんでお届けします。

以下、岡本彰夫氏発言は「岡本:」、中川政七発言は「中川:」と表記)

トークイベント当日は、20年に一度の式年造替、中でも本殿遷座祭(正遷宮。神様が御仮殿から本殿へ戻られる儀式)が春日大社で執り行われている日。そもそも、遷宮は聞いたことがありますが、造替ってあまり耳慣れません。一体何が違うのでしょうか?

遷宮と造替の違い

語り手の岡本彰夫さん。時折ホワイトボードを使いながら解説くださいます。
語り手の岡本彰夫さん。時折ホワイトボードを使いながら解説くださいます。

岡本:お伊勢さんは遷宮、春日さんでは造替と言います。遷宮というのは宮ごと遷(うつ)るんです。
お伊勢さんの場合は御敷地(みしきち)という本殿をお建てする場所が東と西に二つございまして、今回の御遷宮では東の御敷地から西の御敷地へお遷りになる。
東の御殿にいらっしゃる間に西の御殿を建てて、完成したら西の御殿にお遷りいただく。お遷りになられたら東の御殿を完全に撤去します。宮ごと遷るから遷宮と言います。春日さんは、御敷地が一つなんです。御殿の位置を変えずに建て替えるので、造替と言います。

中川:20年に1度というのは、何か意味があるのですか?

岡本:それはしっかり言うとかな、いかん話でね。20年で神様の力が衰えるから作り変えるという説がありますが、それは間違いです。人間だって80歳でかくしゃくとした方がおられるのに、20年で力が衰えたら、神様とは言えませんわね。20年というのは、人間の寿命に合わしてございます。

建て替えに、20歳の息子が初めて携わる。これは初めてで何もわからない。2回目の親父が40歳。過去1回の経験を踏まえて本番を迎える。それで、3回目の経験になるおじいさんが監督しはる。

これで1200年、無事に技術が伝承している。ようは人づくり、人を残すための、20年なんです。企業も人を作らないかん。おうちも人を残しとかんと跡形もなくなりますよ。

そして御殿を新しくすると、お仕えしている我々が、神様は本当においでになるな、と肌で実感させていただけるんです。本当に神様のお力というのは偉大やな、と胸に刻みます。それを、自分の子や孫に伝承していくんです。建物を遺すのみではなく、神の尊さ素晴らしさを伝承する、ということです。

中川:工芸の世界でも、お父さんと息子さんとか、家族でやられているような小規模なところが多いですね。たまにおじいちゃんが元気だと3人でやってはりますけど。今のお話を聞いて、最低3人という単位が、技術を継承していくには大切なんやなと思いました。

聞き手の中川政七。日頃から岡本さんを師と仰ぐ。
聞き手の中川政七。日頃から岡本さんを師と仰ぐ。

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技術と精神の継承に最低3代必要、と言う神事とものづくりの共通項が見つかったところで、岡本さんからもう一つ、神事において「人の顔を立てる」ことの大切さ、が語られます。神様のための儀式なのに、人の顔を立てるって、どういうことなのでしょう。二つの儀式を例にお話が進みます。

世界遺産・春日大社が1200年続いた理由

岡本:昨年、退任前に仮殿遷座祭(本殿修復のため、神様に西隣の『移殿』へ一時お遷りいただく儀式)だけはご奉仕したんですが、その時に確信を得たことがあります。「人の顔を立てる」ということが、この儀式に散りばめられているんです。

例えば、神宝検知之儀(じんぽうけんちのぎ)というのがあるんです。
御神宝(ごじんぽう)というの神様のお使いになるお調度と宝物(ほうもつ)を、200点くらい新調するんです。それを出来上がりますとね、一同に並べて検分する儀式なんです。検分した後に、職人さん全員に装束をつけて並んでもろうて、挨拶をします。

新調するものは、例えば塗り物ですと、塗師(ぬし)の名前で発注して、塗師の名前で納入されます。ところが塗師一人でできるわけではない。

中川:漆は分業ですからね。

岡本:まず木地師が要ります。その上で塗師がいる。金具を付ける場合は金具師がいる、
蒔絵をする場合は蒔絵師がある。ところが、納めるときの名前は塗師しか出ません。
出したらいかんということになっている。なんぼ一所懸命やっても、名前すら遺らない人がたくさんいるわけです。

感心したのは、神宝検知の時に、木地師も塗師も金具師も蒔絵師も、全員装束つけて並ぶんです。そのあと宴会を開いて、そこで褒美の品も渡します。ちゃんと顔を立てるんです。そうするとね、職人さんがやっててよかったと思ってくれはるんです。自分の作ったものが神様の宝物になったんやという誇りになる。

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中川:ものを作る人が誇りを持てる状況をつくる、というのはすごくよく分かります。
例えば後継者問題というのは当然工芸の世界にもあるんですけど、食えるようになったら後継者が出てくるかというとそうでもない。プラスそこに誇りがないと、できないことかと思います。

岡本:おっしゃる通りですわ。他にも例がありまして、御殿奉磨之儀(ごてんほうまのぎ)という儀式があります。神様が御殿に入られる時に床が汚れていたらいけないので、直前に大工さんがカンナをかけるんです。御清鉋(おきよかんな)という。それがささくれていたらいけないので、さらにトクサで床を磨くという儀式です。

昔は身分制度が厳しくてね、神主というのは二段階になってて、まず社家(しゃけ)というのが16軒あります。この人達だけが、御殿の階段を上がることができます。その下に、80〜100人の、下級神職がおるんです。神の人と書いて神人(こうど)といいます。この人たちは生涯、御殿の階段を上がれません。

ところが、御殿奉磨の時は神様が仮殿にお遷りになっていて、御殿におられないでしょう。その時だけ、神人は御殿の中に入れるんです。20年に1回だけ、この人達は、御殿の中に入って床を磨くんです。これね、全部人の顔を立てるっちゅうことです。

春日大社が1200年、なぜ続いたか。もちろん神様が第1番だけれど、2番3番には人を大事にすることです。会社でも同じです。全員桧舞台に上げてあげるということです。

中川:全員を桧舞台にあげる、というお話ですけれど、うちでもある神社さんの遷宮に、60年前の遷宮まで関わらせていただいていました。馬の形をした彫馬(えりうま)という神宝の鞍の裏に張る生地が、うちの麻生地だったんですね。鞍の裏じゃないですか。でも、うちも名前を残してもらってたんです。

遷宮を手伝っていたことは知っていたのですが、ある時お参りにいらっしゃいませんかとお声がけいただいた際に、神宝(じんぽう)に関わりのある身分として、普通の人が入れるところよりちょっと奥まで入らせてもらって、お参りさせてもらったことがあるです。やっぱりそういう体験をすると、いい仕事せなあかんなと思いますね。

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携わる人を大切にすること。「ものづくりは人づくり」「会社は人である」といった格言を耳にしますが、すでに1200年前の昔から続く神事の中に、その答えが込められていました。つまり、それだけ神事の周りには多くの道具と、それを作る人が存在していたということ。話は続いて、具体的な神事に使われていた工芸品の話題に移ります。