こんにちは、さんち編集部です。
みなさんは、最後に絵を描いたのはいつですか?趣味で毎週末には描いているよ、という方もいれば学生時代の美術の授業が最後、という方もいるのではないでしょうか。全国の作家・アーティストの間で話題の伝統画材ラボが東京・天王洲アイルにあると聞きつけ、早速お邪魔することに。でも、日本の伝統画材ってどんなもの?
天王洲アイルの伝統画材ラボ「PIGMENT(ピグモン)」
伝統画材ラボ PIGMENTは、日本をはじめとするアジアに古来より伝わる4,500色に及ぶ顔料をはじめ、200を超える古墨、50種の膠(にかわ)といった希少かつ良質な画材を取り揃えた画材店。2015年にオープンしました。今までになかった、単なる画材屋さんではなく、画材も販売するけれど知識や技術を提供する「伝統画材ラボ」という形はもちろん、建築家・隈研吾さんによるインテリアデザインも日本だけでなく世界中で話題になりました。取材中も海外からのお客さまがたくさん。
学校の授業で使ったことがあるのは水彩絵の具やボトル入りの墨汁。日本の伝統画材なんて、見たこともさわったこともない!ということで、画材の研究で博士号を取得しPIGMENTの所長を務める岩泉慧(いわいずみけい)さんに日本の伝統画材のいろはを教えてもらうことになりました。教えて、岩泉さん!
すべての色の源、顔料
お店に入ってまず目に入ってくるのが、4,500色に及ぶ色とりどりの顔料たち。この美しい顔料たちが、実際の絵の具の原料になっていきます。
「顔料は主に3つの種類に分けられます。うちのお店でいちばん多いのが有機顔料。いわゆる岩絵具と呼ばれるもので、天然の石や陶磁器で使用する釉薬を焼いたものを砕いてつくられます。それに対して合成無機顔料は人工的に作られた色の物質です。金属を酸化させたり、何かと化合させたり。石油系の染料を化学変化で顔料にさせた有機顔料なんかもあります。合成無機顔料でいちばん有名なのは本朱(ほんしゅ)ですね。硫黄と水銀を加工させたもので、水銀朱とも呼ばれるのですが、神社仏閣や仏像などにも使われている、あの朱色です。最後にパール顔料。キラキラと光るもので、よくお化粧品に使われています」
このグラデーションに並んでいる岩絵具たちは、同じ原料からできているのですか?
「岩絵具はひとつのかたまりを砕いてつくられています。同じ石からできていても、粒子の荒さで分けていて、粒子が大きくなればなるほど色が濃く、小さくなればなるほど色が薄くなっていきます。また、粒子の大きさによって実際の絵の具にした時の質感も変わってきます。特に、天然の石はそのグレード(質)によって色や質感が大きく異なります。同じ粒子の大きさでも、同じ種類でもそれぞれが全然違う。金額も何倍かになったりもしますが、一概にどれが良い悪いではなく、使い手の方が自分の作品にあったものを選んでいかれます」
同じ種類でも、宝石に使われるような質が良いものはキラキラしていますね。
天然の接着剤、膠(にかわ)
次に紹介してもらうのは膠(にかわ)です。えっと、そもそも膠ってなんですか?
「膠は動物の皮を煮出してつくられる天然の接着剤です。つくり方はいわゆるゼラチンと同じですね。魚やお肉の煮こごりで、あれを乾燥するとこれになる。口に入れても大丈夫ですが、お腹の保証はしません」
「多く使われているのは牛や豚ですが、地域によって違います。昔はその地域ごとに膠をつくっていたので、山の地域だと熊、鹿、イノシシとか。逆に海の地域だと魚が多いですね。基本的に食べたものの余った皮を膠にします。なので、ヨーロッパだとうさぎが多かったり。変わったところだと使い古したカバンや靴、和太鼓(!)を膠にすることもあり、それはそれで個性のあるものができます」
どんな風に使うのでしょう?
「画材としては、顔料と混ぜて日本画の絵の具をつくります。絵の具は今ではチューブが当たり前のように流通していますが、本来的には絵の具は油絵の具にしても何にしても自分でつくっていました。ダヴィンチもミケランジェロも、大理石の板の上で顔料を混ぜて自分たちの色をつくっていた。そこに各工房のレシピがオリジナルであったので、同じ顔料でもそれぞれの個性のある絵の具ができたのです。チューブの絵の具ができたのは産業革命以降です。だからといってチューブの絵の具がダメだという話ではなくて、あれができたおかげで印象派の人が外で描けるようになった。チューブがなかったら印象派は生まれなかったともいえます」
ラピスラズリを好んで使ったというフェルメール・ブルーも、そうやって大理石の上で生まれたのですね。
「また、固形の墨には必ず膠が使われています。墨は硯(すずり)でするので、水に溶けなきゃいけない。他の人口的な接着剤では無理なんですね。だからといって他のものだとあの形に固められない。そのふたつの条件を満たすのが、唯一膠だけなのです」
画材以外の使われ方もあるのですか?
「今だと様々な接着剤があるけれど、昔は強い接着剤といえば膠だったので、大工さんや家具屋さんなど幅広く使われていたそうです。ヴァイオリンの製作には今でも膠が欠かせません。ヴァイオリンは、とりわけ質の良いものになればなるほどメンテナンスすることが前提。なので、いつか剥がさなきゃいけない。その時にボンドを使っているとうまく剥がれなかったり、板についたボンドを無理に削ると痛んで音色が変わってしまう。対して膠で接着していると、お湯で溶かして剥がすことができるので、木を痛めずに修理ができます」
水溶性であること。それが膠の弱点でもあり、長所でもあるのですね。
無限の色を持つ、墨
「ところで井上さん、墨の色って何色ですか?」
黒…ですかね。
「そう。そう思いますよね。でもね、ただの黒じゃないんです」
「中国の古い言葉で “墨には五彩がある” という言葉があります。これは5色という意味ではなくて、無限にいろんな色が出せるという意味なのです。そのこころを科学的な視点も合わせてお話していきますね」
「墨には、大きく分けると2つの種類があります。ひとつは油煙墨(ゆえんぼく)。もうひとつが松煙墨(しょうえんぼく)です。このふたつはススの採取方法が違って、油を不完全燃焼させてできたススからは油煙墨、松のチップを燃やしてできたススを集めてつくるのが松煙墨です。それぞれ油煙墨が茶墨(ちゃぼく)、松煙墨が青墨(せいぼく)とも呼ばれるように、色が違います。ススの特性で、粒子が細かいほど赤っぽく、逆に粒子が大きくなると青っぽく見える。なので、油煙墨の方が粒子が細かいというわけです。試してみましょう」(もちろん例外もあります)
実際にそれぞれの墨を試してみると、色が全然違う。この違いが粒子の大きさで生まれた違いなのですね。
「それぞれの方法で採取したススを先ほどの膠と混ぜて墨をつくっていくわけですが、膠はタンパク質なので、食べものと同じように劣化していきます。つくったばかりの墨は、粒子同志がくっついている状態だったものを膠がひとつひとつの粒子を引き剥がしてくれている状態なのですが、それが劣化してくっつき始めると、しだいに粒子が大きくなり、すなわちそれが色が変化を生みます。墨屋さんは、きちんとしたものに限りますが、墨を100年持つように設計してつくっています。100年後にこの墨がどんな色を出すのか、そこまで想定してつくっているのですね。ワインと同じように、寝かせ方ひとつで色が変わる。そこがまたおもしろい」
硯(すずり)と墨の切っても切り離せない関係
「墨には切っても切り離せない重要な道具があります。硯(すずり)です。」
そう言って見せてもらったのはたくさんの硯の原石。こんなに種類があるんですね。
「硯は墨にとってヤスリの役目を果たします。同じ1本の墨でも、硯の目の細かさで、磨(す)った墨の感じが全然違ってきます。また、同じ石の種類でできた硯でも、天然の石を使っているのでそれぞれ個体差がありますね。硯選びは墨を扱うときにはとても重要です」
意識したことはありませんでしたが、硯もこう見ると美しいですね。
「墨とか硯は中国が発祥なのですが、もともとは字を書くための道具です。当時、字を書くことができるのは一部の特権階級の人たちだけでした。字を書く道具を持ってること自体がステータスになる時代ですね。そういった背景から、装飾としての彫り物がある硯ができたり、石の模様にこだわるようにもなりました」
たかが水、されど水
「墨にとってもうひとつ重要な要素が、水です。たかが水ですが、水ひとつで墨が変わります。ちょっと試してみてください」
同じ墨と硯を使って、硬水と軟水、それぞれ磨ってみます。硬水の方は、カリカリと音がして、削れているような感触。軟水の方はヌルッとなめらかな感触です。
「そうなんです。ここでも膠の特徴が影響していて、硬水にはあまり膠が溶け出さない、浸透しないのでガリガリと粒子が立った墨ができあがります。濃い色がはっきりと強く出る反面、薄い色だとすすけた感じになります。それに対して軟水には膠が溶け出しやすく、潤滑油になる。硯とのあたりが柔らかくなり、出来てくる粒子もなめらかです。濃い色はあまり強く出ない代わりに、やわらかく、薄くしていくと透明感のある綺麗な色が出てきます」
「こういったところから、水は文化にも影響を与えました。墨を使って絵を描いていた作家たちは、どういう絵にしようか、色を見て描いていた。中国でも硬水の地域に住んでいた作家は力強い印象の水墨画を描き、湖のほとりに住んでいた作家はやわらかい作品を残すようになった。日本も軟水なのでやわらかい作品が多いです。水ひとつが文化に大きく影響しているとも言えます。」
「これは料理の世界でも同じで、日本でお出汁の文化が発達した理由もそこにあります。実は、同じ日本でも水質は違うのですよ。これは東京と京都を行き来しはじめて改めて実感したことなのですが、関西の方が若干軟水です。昆布だしを綺麗にとって、その旨味を殺さないように薄口の醤油で味をつける。そうして京料理が生まれたのではないでしょうか」
水は文化を考えて行く上で実は結構重要な課題なのですね。
「墨は、ススと膠という単純な組み合わせでできているけれど、条件ひとつで色が変わる、とてもデリケートな画材です。色を出すまでにいろんな要素が関わってくるので、無限の色、五彩があるといわれるようになりました。古代からたくさんの作家たちが、単なる絵の具の黒ではない墨の奥深さに魅せられてきました」
岩泉さん、ありがとうございました。はじめてのことばかりで、とっても勉強になりました。
「せっかく “さんち” ですから、もしよかったらそれぞれのつくり手さんのところに行ってみませんか?顔料と、墨と、日本で特に発達しているといわれている筆・刷毛もぜひ見てもらいたい。ご案内しましょう」
ぜひぜひお言葉に甘えて。ということで、次回はそれぞれの工房へお邪魔することに。日本の伝統画材たちが現代でどのように生まれているのか、とても楽しみです。
伝統画材ラボ PIGMENT
東京都品川区東品川2-5-5 TERRADA Harbor Oneビル 1F
03-5781-9550
pigment.tokyo
文・写真:井上麻那巳