途絶えてしまうかもしれない鹿沼の組子細工。400年の技を受け継ぐ職人たち

みなさん「組子」をご存知ですか?

私は栃木の工芸品を調べていた時、初めて「鹿沼組子」の写真を目にし、その美しさに惹かれました。

その鹿沼組子は、なくなってしまうかもしれません。

釘を使わず立体的に仕上げる組子細工

組子は、障子や欄間、襖など建具の一部に組み込まれる細工のことで、幾何学模様が特徴です。その歴史は鎌倉時代にまで遡るともいわれています。

漁師が投網をしている様子を描いたこちらは、県の伝統工芸品である「鹿沼組子書院障子」。「曳き網」と言う模様で、漁師や魚、富士山部分には彫刻が組み込まれるなど、見事な職人技と遊び心のあるデザインは、見ていてワクワクします。

鹿沼組子書院障子
「木のふるさと伝統工芸館」所蔵の鹿沼組子書院障子

平面に描くのではなく、立体ならではの美しさ。しかも、小さく切り出した木片を釘を使わずに作られているのだそうです。

いったいどうすればそんなことができるのでしょうか。

実際に見てみたいと、「鹿沼組子」の産地、鹿沼に出かけてきました。

全国の腕利き職人があつまった鹿沼

栃木県鹿沼市は、江戸時代、日光西街道、例幣使街道の宿場町として栄えました。

日光東照宮を造営の折、全国から集められた腕利きの大工職人たちが仕事のない冬場や帰郷の際に滞在し、その技術を伝えたのが現在まで400年続く鹿沼の木工技術のはじまりとも言われています。

鹿沼組子の原点といわれる「花形組子障子」

そんな木工の街で江戸時代に作られたお祭りの「屋台」に、鹿沼組子の原点を見ることができます。

石橋町の彫刻屋台
組子の原点とも言われる、鹿沼市石橋町の「彩色彫刻黒漆塗屋台(さいしきちょうこくくろうるしぬりやたい)」。鹿沼市の「木のふるさと伝統工芸館」で見学できます。色彩鮮やかな花鳥の彫刻が艶やかです

屋台とはお祭りの山車のこと。この屋台の脇障子「花形組子障子」が、鹿沼の組子技術の原点とも言われているものです。現代の、細かいパーツを組んで模様を作っていくものとは違いますが、パーツを組んでいく工法は同じだそうです。

花形組子障子
正面、両脇にある「花形組子障子」

こうした職人の技術が受け継がれる一方、鹿沼では周辺から質のよいスギ、ヒノキなどが切り出されていたことから、江戸時代より戸、障子、雨戸など建具の生産がはじまり、華やかな組子を取り入れた建具が鹿沼で作られていくようになります。

今回は、そんな鹿沼で今も組子を使った建具作りを続ける豊田木工所を訪ね、組子が生まれる瞬間に立ち会うことができました。

模様は200種類以上。スピードが鍵を握る組子づくり

豊田木工所
豊田木工所。一際目立つブルーの外観は、遠方の方が来てもわかるように選んだそう

「組子の魅力は華やかさ。木片に切り込みを入れて組み合わせる技術は日本独特のものです」

と語るのは豊田木工所社長、豊田晧平(とよだ・こうへい)さん。職人だった祖父から数えて3代目。自身は職人ではありませんが商品企画のアイディアを出し、建具だけでなく新しい組子製品を製作、販売しています。

麻の葉模様の組子の建具
麻の葉模様の組子の建具。これだけで部屋の雰囲気が一変する

「組子の技術が発展したのは明治以降、温泉旅館などで高級建具として使われるようになってから。模様は職人たちが腕を競い合って編み出したものです」

模様の数はなんと200種類以上。さらに、模様を組み合わせることで、様々なデザインを作ることができます。

「組子は全国で作られていますが、産地として製作しているのは鹿沼だけだと思います。1本の建具を作るのに、2、3社で分業しているので早くできるのが特長です。そのため、組子職人も技術だけでなく早さが求められます」

ひとつひとつ時間をかけて作り上げていくものだと想像していたので、スピード重視で作り上げるというのは意外なお話でした。

ほんのわずかな厚みを残して切り込みを入れる

豊田木工所
建具や組子の部材を加工する機械がいくつも並ぶ工場

組子職人の伊澤栄(いざわ・さかえ)さんに、組子の代表的な模様「麻の葉」を作る様子を見せていただきました。

材料はヒノキを使用。木目の美しさだけでなく、油分があるため、刃物切れもよく、仕上げが楽だそうです。工場はヒノキのいい香りで包まれていました。

組子は、何千もの細かなパーツで組み立てられているため、作業はパーツ作りからはじまります。

木材を機械で必要な厚さと長さに揃え、組み合わせるための切り込みを入れたり、角度をつけたりしていきます。

組子つくり
一番薄いもので5厘(りん)、約1.5mmの厚さにしていく

切り込みの角度が1ミリでもずれると組み立てられないので正確さが求められます。

現在は機械でできる工程も多くなりましたが、それでも一人前になるには10年はかかるそうです。

組子パーツ
麻の葉模様をひとつ作るのに、6種類21本のパーツが必要。両端や切り込み部分にも角度がつけられている
組子のパーツ葉っぱ
葉っぱと呼ばれるパーツ。中央部にはごくわずかな厚みを残して切り込みが入っている

パーツが揃ったところで、外枠を組み、その中に三角形の地組み(基本の形)を作っていきます。

組子製作風景
基本の形となる地組み

地組みが出来上がったら、いよいよその中に模様となるパーツを組み込んでいきます。

組子の製作の様子
「葉っぱ」を折って組み込む

パーツが隙間なく、気持ちいいほどぴったりとはまっていきます。なるほど、こうやって作っていたんですね。

みるみるうちに模様ができていき、わずか3分ほどで完成。今回は私に説明をしながらだったので、これでもゆっくり作っていただいたようです。普段はいくつも同時に作っているとのこと。

麻の葉模様の組子
完成した麻の葉模様。鹿沼は麻の産地でもあり、「鹿沼組子」は麻の葉模様をシンボルにしています。こちらは食品などを載せるロングトレーに使われます

それにしても、組子がこんなに細かくパーツに分かれているとは思いませんでした。だからこそ、細かい模様が作れるんですね。

「好きな模様?そういうのはないですね。注文がきたものを作るだけですから」という伊澤さん。
職人歴50年、伝統を受け継ぐ数少ない職人の一人です。

中学卒業後、建具屋で10年修行するも、建具だけでは食べていけないと、組子職人の元へ。30歳でようやく一人前になれたと言います。

「自分は今67歳で、後輩が50代、その後はいないので我々で終わりかもしれませんね」

1964年(昭和39年)、鹿沼木材工業団地が造成されるなど、鹿沼の建具は昭和30年代〜40年代にかけ、最盛期を迎えます。組子を使った建具も多く生産されていました。

しかし、時代とともに私たちの住まいも変わり、建具を使った和室のある家が少なくなっていきます。

現代に合った組子のかたちを目指して

このままでは鹿沼の誇るべき伝統技術が途絶えてしまう。豊田木工所では2006年(平成18年)より、東京ビッグサイトで開催されていた「グッドリビングショー」に出展し、鹿沼の建具、組子の技術を紹介するようになりました。

その後、組子を使った現代風の建具、ホテルの客室の照明器具、ロングトレーやコースターなど新しい製品開発に繋げていきます。

2014年(平成26年)に日光オープンした「星野リゾート 界 日光」の「鹿沼組子の間」もそのひとつです。豊田木工所をはじめ、鹿沼建具商工組合に加盟する組子職人たちが腕を振るいました。

鹿沼組子の部屋
星野リゾート 界 日光「鹿沼組子の部屋」。豊田木工所は床の間の飾りなどを制作
ベッドサイドランプ
ベッドサイドランプ
組子コースター
コースター

「今は、設計士さんやデザイナーさんが描いてきたデザインを職人に見せて、どうやったらできるか相談しながら作っています。これからは組子をどう使うか。何かと組み合わせて使うなど、コラボレーションの時代だと思っています」

鹿沼のこと、組子のことを熱心に教えてくださる豊田さん

建具があってこそ活かされる組子の美しさ

江戸時代より職人たちが腕を磨き、競い合って発展してきた組子。

今回、豊田木工所でコースターやロングトレーなど様々な組子製品を見せていただきましたが、一番印象に残ったのが「障子」でした。

「これひとつで部屋がガラッと変わりますよ」

豊田さんも嬉しそうに話していたように、組子の建具のある部屋を想像するだけで気分も華やかになります。

重ね輪胴模様の組子が入った障子
重ね輪胴模様の組子が入った障子

建具でこそ活かされる木目の美しさ、デザイン性、連続する幾何学模様。

いつか組子を使った建具のある暮らしをしてみたい。

すっかり組子に魅了された旅となりました。

<取材協力>
豊田木工所
鹿沼市戸張町2357
0289-65-5333
http://www.toyodamk.com/

木のふるさと伝統工芸館
鹿沼市麻苧町1556-1
0289-64-6131


文:坂田未希子
写真:坂田未希子、豊田木工所、星野リゾート 界 日光

こちらは、2018年7月7日の記事を再編集して掲載しました。

新宿の染物屋が考える着物の未来。なにを本当に残すべきなのか

高層ビルが立ち並ぶ東京・新宿。

多くの外国人観光客も訪れる、繁華街としてのイメージが強い街ですが、実は古くから地場に根付く伝統産業があるのをご存知でしょうか。

それが「染め物」。

神田川流域には、今も染物屋と関連業者が点在し、文化を守り続けています。

染色業は新宿でどのように発展してきたのでしょうか。

流行は京都から江戸へ

神田川が流れる新宿区早稲田。

神田川
富田染工芸

都電荒川線面影橋近く、住宅地の中に工房があります。

1882年(明治15年)創業の富田染工芸です。

富田染工芸
富田染工芸

創業以来、江戸更紗、江戸小紋を専門に着物地を作ってきました。

「うちのルーツは、京都の染物屋です」

そう話すのは、富田染工芸の社長、富田篤(とみた あつし)さん。

富田染工芸
富田篤さん

「長男が京都の店を継いだので、次男の初代富田吉兵衛が東京へ出て、仕事をはじめました」

かつて、着物文化は京都が中心であり、京都で作られた着物が江戸に運ばれていました。

ところが、江戸が人口100万人を超える大都市となり、京都から運ぶのでは流行に間に合わなくなったことで、江戸でも着物が作られるようになりました。

はじめに京都から染物屋が集まったのは、現在の神田紺屋町の辺りや、隅田川に近い浅草周辺。

富田染工芸も最初に工房を開いたのは浅草馬道でした。

大正時代になると、職人たちは清流を求めて神田川をさかのぼり、新宿区早稲田、落合周辺に移転していきます。

富田染工芸が早稲田に移ってきたのは1914年(大正3年)のこと。この地で最初に工房を開いた染物屋です。

大正中頃には、神田川と支流の妙正寺川の流域に染色とその関連業者が多く集まるようになり、新宿の地場産業となっていきます。

糊を使って模様を描く江戸小紋

「はじめは、京都から持ってきた型友禅(刷毛を使って型紙の上から染める)の技法を使って、江戸更紗を染めていました」

江戸更紗のスカーフ
江戸更紗のスカーフ

更紗とは、インドから海のシルクロードを通じて伝わってきた文様のことで、ペルシャではペルシャ更紗、インドネシアにいくとジャワ更紗(バティック)とよばれています。

「『江戸更紗』は江戸時代末期ころからあるもので、型染めと更紗の技術を合わせたもの。多いもので、一枚の布に35枚くらいの型紙を使って色を重ねていきます」

江戸更紗に使う「丸ハケ」
江戸更紗に使う「丸ハケ」。型紙の上から染料を摺りこんでいく

エキゾチックな更紗模様は江戸っ子の人気となり、着物の表地はもちろん、八掛(裾回し)や羽織の裏に使うなど隠れたおしゃれとしても好まれたそうです。

そして現在、富田染工芸で主に作られているのは「江戸小紋」。

江戸小紋のスカーフ
江戸小紋のスカーフ

更紗は型紙を使って直接生地に色を乗せていきます。江戸小紋も型紙を使いますが、色の入れ方が違います。

はじめに「型付け」といって、型紙の上から糊を置いていきます。この糊がついた部分には色が入らず、白く抜かれて模様になります。

富田染工芸
型付けの様子(写真提供:富田染工芸)
富田染工芸
型付けに使う白糊。モチ粉と米ヌカ、塩が入っている
型紙は伊勢型紙を使っている。手漉き和紙を2、3枚、柿渋で貼り合わせ、彫って作る

糊が乾いたら、「地色染め」といって、布全体に地色糊を塗りつけます。

富田染工芸
地色染の機械。地色糊を塗りながら、おがくずを振りかけることで、生地同士が張り付かずに全体に均一に染料を定着させる
富田染工芸
色糊の調合も職人の仕事

次に生地を蒸箱に入れ、摂氏90〜100度で20分ほど蒸して色を定着させます。

蒸し上がったら生地を水洗いし、糊や余分な染料を落とすと、型付けで糊を置いた部分が模様として浮き上がってきます。

富田染工芸
洗う機械。昭和38年までは工房の前に流れる神田川で洗っていた。現在は地下水をくみ上げている

その後、水洗いした生地を乾燥させ、生地を整えて完成します。

着物の未来のために、その“技術”を残す

「多い時はこの辺りで、布の仕上げ加工の業者や、染めた反物に紋を入れたり刺繍をしたりする職人さんも集まって、100軒以上あったんじゃないかな」という富田さん。

富田染工芸だけでも約130人の職人さんが働き、毎日100反もの生地を染めていたそうです。

富田染工芸
今も、作業のほとんどが職人さんの手で行われている

「昔は、3年間隔ぐらいで新しい反物を発表していました。次は紅型風でいこうとか、絞りでいこうとか、流行を発信していくことが会社としても楽しかったですね」

富田染工芸
代々使われてきた張板が天井にたくさん吊られている。張板には、節のないモミの一枚板を使う。1枚35〜40キロある

ところが、昭和30年代をピークに、着物文化に陰りが見えはじめます。

「親父の頃はまだそういう気風も残っていたけど、今はいくら新しいものを考案してもどこも買ってくれない。着物が売れない時代になってしまいました」

かつて100軒以上あった新宿の染色関連業者も、現在は40軒ほど。このまま衰退してしまっていいのだろうか。

そこで考えたのが、着物以外のものに染めの技術を生かす道です。

富田染工芸
(写真提供:富田染工芸)

「子供の頃から、うちの着物で東京の着物文化を引っ張っていく、リーダーになっていくんだ」と教え込まれていたという富田さん。

大学を卒業後に7年間務めた洋服メーカーでの経験を生かし、早くから着物地以外の染色をはじめ、海外展開もしていきました。

それは全て、染色の技術を残していくため。

「全く違う技法で新しいものを作るのではなく、100年以上の歴史がある技術を生かして新しいものを作っていく。それはこの先、着物が復活した時に技術・技法を残していくためです」

富田染工芸
これまでに使ってきた型紙は12000枚以上。戦時中も防空壕に入れられ守られてきた。今も大切に使われている
富田染工芸
型紙の入っている引き出し。ここから職人さんが好きなものを選び、組み合わせていく。色も変えられるので、パターンは無限。世界に1つしかないものができる

「染屋が技術を残していくためには染めなきゃダメ。職人の技術、腕を残していくことを考えています」と富田さんは言います。

富田染工芸では、日本全国の織物屋さんで作られた特徴ある生地を使って染めています。

「材料によって染め方も変える必要があります。研究して、自分たちでノウハウを作っていきます。それをやらなくちゃダメなんです」

富田染工芸
革を染めることにも挑戦している
富田染工芸

今も昔も先駆者でありたい

2012年には、デザイナー南出優子氏とブランド「SARAKICHI」を設立。

蝶ネクタイやスカーフ、日傘など、江戸小紋・江戸更紗の技術を生かした商品を開発し、販売しています。

富田染工芸
2柄2色使いのポケットチーフ「小紋チーフ」(写真提供:YUKO MINAMIDE)
富田染工芸
江戸更紗のスカーフ(写真提供:YUKO MINAMIDE)
富田染工芸
裏と表で模様の違う両面染のスカーフ。江戸小紋の最高の技術であり、今もその技術を持っているのは富田染工芸だけ
富田染工芸

2019年3月には、パリ店を開業。「SARAKICHI」ブランドの販売だけでなく、フランスでも在住の日本人の方に着物を楽しんでもらえるよう、着物のクリーニング・ケアなどの相談にも応じています。

「2代目の富田市兵衛は、シルクスクリーンの原型である『写し絵型』で特許を取っていますが、うちは代々、流行を発信したり、新しいものを作っていく先駆者だったんです」

富田染工芸

「こんなこと言ったらおこがましいけど、伝統工芸の新しいルネサンスを起こさなくちゃいけないと思っています。これまでの技術を使って、お客様に喜んでもらえる、もっといろんな新しいものができるはずです」

染色の技術を残すために、新しいものを開発していく。

なかなかできることではありません。

「全国の伝統工芸に携わる人に、そういう奴がいるんだって伝えてほしい」そう熱く語る富田さん。

常に新しいものを作り、流行を生み出してきた新宿の染色産業の誇りを感じました。

<取材協力>
富田染工芸
東京都新宿区西早稲田3-6-4
03-3987-0701
工房は「東京染ものがたり博物館」としても公開中。見学や染体験(有料・要予約)もできる

文 : 坂田未希子
写真 : 白石雄太

スパイス料理の新名店 三条スパイス研究所に見る、地元で愛されるお店のつくり方

統括ディレクター山倉あゆみさんに聞く、三条スパイス研究所 誕生秘話

工場町・新潟 燕三条の愛される名店を訪ねる連載。

第1回は燕の工場文化を物語る背脂ラーメン、第2回は燕のメディアを目指すツバメコーヒーと、燕エリアのお店が続きました。最終回・第3回は三条の魅力的なお店のお話をご紹介します。

このたび燕三条エリアを取材することになり、「やった〜、この機会にこのお店にも行くことができるかも!」と思ったのが、今回ご紹介する「三条スパイス研究所」です。

以前、東京・押上にあるスパイス料理の人気店「スパイスカフェ」にうかがって、そのメニューの独自性やお店の雰囲気のよさに魅せられた経験があります。

そのスパイスカフェの店主である伊藤一城シェフがメニューを監修したのが三条スパイス研究所です。

この店のオープンには伊藤シェフのみならず、さまざまな分野のクリエーターが関わってきました。新潟の金物産業の街に、なぜこのような店が誕生したのでしょうか?

街に「えんがわ」をつくるプロジェクト

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三条の街で「三条スパイス研究所」への行き方を訪ねると「ああ、『えんがわ』のことね」と言われました。地元ではそう呼ばれているようです。

その建物を一目見れば納得。木造の大きな三角屋根と柱が印象的な建物の側面には、人が腰掛けられる長い長い縁側が付いています。

住宅をはじめとした作品で高い評価を得ている建築家、手塚貴晴・由比夫妻設計の建物は、三条の街角でも断然目立っています。その名も「ステージえんがわ」。

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長い長い「えんがわ」。
長い長い「えんがわ」。

この斬新な建物のなかに入る飲食店として「三条スパイス研究所」ができた経緯を、プロジェクトの立ち上げから統括ディレクターとして関わってきた山倉あゆみさんにうかがいました。

お話を伺った山倉あゆみさん。
お話を伺った山倉あゆみさん

誰でも利用しやすい「カレー店」が当初のプラン。しかし‥‥

「ことのはじまりは、全国各地の自治体が行っている『スマートウェルネス事業』に関して三条市が行っている施策でした。

これは、簡単に言うと誰もが健康に安心して暮せる社会を実現しようというものなんですが、特に『えんがわ』のある北三条エリアは一人で暮しているお年寄りが多く、そんなお年寄りが少しでも外に出て人と交わることができるように、全天候型の屋根付き広場の建設が決まっていました。

足を運んでもらうために建物の中に飲食店を設置する話が出て、高齢の方も受け入れやすい、和食かカレーのお店に絞られた。でも和食は家で食べるから、外食ならカレーの店がいいかな?と話が進んだようです」

「えんがわ」から奥へ広がるスパイス研究所。
「えんがわ」から奥へ広がるスパイス研究所

カレーは日本の国民食であると同時に、新潟県は一時期カレールーの消費量全国日本一だったという土地でもあります。

特に燕三条では家族経営の工場や、女性も工場で働いている家庭が多く、作り置きできるカレーは日常食の主力メニューでもありました。

三条の地元の名物としては、ラーメンの上にカレーをかけたカレーラーメンもあります。これは工場への残業食の出前メニューとして生まれたものでした。

監修を依頼したのは東京の名店「スパイスカフェ」の伊藤シェフ

「えんがわ」に入居する飲食店はカレー屋さんということでプランは進み、東京のスパイスカフェの伊藤シェフがお店を監修することになりました。ここで、地域コーディネーターという形で山倉さんがこのプロジェクトに参加します。

「カレーの店というのは決まっていたんです。だけど、伊藤シェフにご挨拶に伺って瞬時に気づいたんですが、伊藤シェフはみんなが想像している欧風カレー屋さんではなくて、スパイス料理店のシェフだったんですよ!」

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いわゆる日本独自のカレーと、スパイス料理は異なるものです。世界各国のスパイスを用いながら、カレーも含むスパイス料理を提案したのが伊藤シェフの「スパイスカフェ」でした。

さて、どうしたら元々身近なカレーではなく、スパイス料理とこの街を結びつける物語を生み出せるか。

「正直、ハードルは高かったです。でも、不思議と挑戦してみよう!という気持ちになりました。個人的にも、自分がおばあちゃんになった時に暮らしたいと思える街づくりに、興味があったのです」

山倉さんたちはこの施設で提供するものをカレーからスパイス料理へと軌道修正をしつつ前に進んでいくことになります。

「ミクスチャースタイル」のお店を目指して

「スパイスや旬の食材による料理を自分で混ぜながら食べていただく。それを私たちは『ミクスチャースタイル』と呼んでいるんですが、お店では、そのスタイルの定食を出すことになりました。

もともと、インド発祥のカレーは、混ぜ合わせながら食べる料理です。日本の常識ではお行儀が悪いようだけど、混ぜ合わせることによって新しい味が見つかる。

それは、これから作る公共空間にいろいろな人が来ることが、新しいまちづくりにもつながっていくだろうという期待感にも通じるものがありました」

名物はカレーとビリヤニ。合言葉は「にほんのくらしにスパイスを」

「三条スパイス研究所」のメニューは、カレー2種をごはんの上にのった4種類のスパイスおかずと共に楽しめるターリーセット。

もしくは、インド風の炊き込みごはん・ビリヤニにカレー1種とスパイスおかず3種を組み合わせたビリヤニセットが基本になっています。

ターリーセット1,200円(税別)
ターリーセット1,200円(税別)
ビリヤニセット1,500円(税別)
ビリヤニセット1,500円(税別)

カレーやビリヤニには、三条産のスパイスや切り干し大根、打ち豆など新潟の郷土料理にも出てくるような保存食も使われています。スパイスの調合は伊藤シェフが監修。

店内で使われている金属製のトレイやカトラリー、調理器具なども、地元のコーディネーターにより選ばれ、燕三条産のものと世界各地のものとがバランス良く混ざり合う、まさに独自のミクスチャースタイルを表現しています。

売上げ1位のすごいウコンを栽培しているおじいちゃんから教わったこと

木のあたたかみある店内。
木のあたたかみある店内

「飲食店の計画と同時に行われた街の調査で、三条は金物の中小工場がたくさんあるので日本一社長の多い街であること、高齢者になっても自分の持っている知識や技術を大切にしたいと思っている方がたくさんいらっしゃることがわかりました。

その調査中、三条の下田というエリアの直売所に行ってみたところ、ウコン、キハダ、ドクダミなどが販売されていたんです。

そこで一番の売り上げだというウコンを栽培しているのが87歳のおじいちゃんだと聞いて、その方に会いにいってみました」

ウコンはターメリックとも呼ばれるスパイスで、カレー料理には不可欠なもの。カレーの黄色い色は、ターメリックの色でもあります。

「そのおじいちゃんが定年退職後、初めて旅行に行った沖縄で出会ったのがウコン。苗を持ち帰って25年間、土づくりなどさまざまに栽培方法を改良されて、今では売り上げナンバーワンの立派なウコンを作っているというんです」

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「その頃、私たちはこのプロジェクトに関わりながら、『スマートウェルネス』というテーマになかなか答えを見つけられずにいました。

そんな中、そのおじいちゃんが自分の興味のあることを価値ある仕事に変えていく姿をすごくカッコよく、眩しく感じたんです。三条にはそうしたカッコいいお年寄りが多い。

ご高齢の方との関係を、守り守られるという観点ではなく、彼らの持つ知恵や技術をカッコいい、眩しいと感じられる関係性に変えていくこと。

これが、取り組みのあるべき姿と重なりました。お年寄りの『食』の知恵を生かせるようなメニューを作ろうという話になったんです。

考えてみるとショウガやワサビ、シソなど生のスパイスを食べる文化があるのは日本だけなんですよね。

そのユニークさに改めて気がつき、伊藤シェフとともに日本のスパイス料理をここから世界に発信していくプロジェクトとして掲げたのが、『にほんのくらしにスパイスを』というこのお店のコンセプトです」

人も食も「混ざり合う」場所に

2016年3月にオープンしたステージえんがわと三条スパイス研究所ですが、この工場の街ではどのように利用されているのでしょうか。

「ステージえんがわは公共施設なので、この空間にはどんな人が入ってきてもいいんです。建物の外の縁側に座るだけでもいいし、おにぎりを持ってきて食べてもいい」

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「毎月2と7のつく日には朝市が開催されていて、その時にはスパイス研究所では『あさイチごはん』という朝ご飯を500円でお出ししています。朝市では地域のいろいろな食材と出会えるので調理スタッフたちも大いに刺激を受けています。

また、ここは建物の外から内部が見通せるので、それをきっかけに自分も何かしてみようかなと思ってもらえるような空間でもあるんです。

65歳以上の人の劇団を組織して活動していたり、歌詞カードを配って100人以上がみんなで一緒に歌う『歌声喫茶』のイベントが開催されていたり。

地域ラジオ放送局である『燕三条FM』の『さとちん電波』という番組の生放送も毎週行われています。その日には毎回100人近くのお年寄りが音楽に合わせて扇子を持って踊る。本当に楽しそうなんですよ」

三条のローカルな魅力に触れるなら、スパイス研究所へ

「スパ研」は、地元の金物工場で働く人たちにも愛用されているとか。

「燕三条の金物産業は世界レベルで、この街から海外に出張に出かけられる方も多い。仕事で訪れた県外のお客様をお連れになる工場関係の方もたくさんいらっしゃいます。

そういう方にもぜひ、スパイス料理を通じて三条発のローカルの魅力を感じてもらいたいです」

地元の職人さん社長さん、お店のスタッフ、家族連れ、出張で訪れた人、おじいちゃん、おばあちゃん。様々な人が行き交い、混ざり合う研究所の脇には、畑があります。そこに植えられているのは、あの下田のおじいちゃんのウコンです。

「2016年の3月に『えんがわ』と『スパイス研究所』が発足して、5月の末にウコンを植えました。

指導を受けながら大切に育ててきましたが、まだまだ下田のおじいちゃんの育てているウコンとは大きさも何もかも違う。それでも11月には無事に収穫して、スパ研産のターメリック入リカレーが登場しました。ここはスパイス畑の見渡せるスパイス料理店です」

来年のウコンはもっと立派に育つことでしょう。そのウコンの成長ぶりが、三条スパイス研究所が地元に根付いていくことに重なるようにも思えます。

三条スパイス研究所
新潟県三条市元町11番63号
0256-47-0086
http://spicelabo.net/


文:鈴木伸子
編集:尾島可奈子
写真:神宮巨樹

こちらは、2016年12月28日の記事を再編集して掲載しました。

田野屋塩二郎が作る塩は、1キロ100万円の味と輝き。元サーファー塩職人のこだわり

トリュフと同価格の塩

高知龍馬空港から、一路、東へ車を走らせる。潮風が心地いい海沿いの道をぐんぐんと進み、1時間もすると四国で一番面積が小さい自治体、高知県田野町にたどり着く。

総面積がわずか6.53平方キロメートルのこの町に、日本全国にとどまらず、海外の料理人をも惹きつける人がいる。そのなかには、星付きレストランのシェフもいるという。

彼らが訪ねるのは、「田野屋塩二郎」という屋号を掲げている佐藤京二郎さん。田野町で完全天日塩を作っている塩の職人だ。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
東京の広尾出身の佐藤京二郎さん

佐藤さんが作る塩は、最高値のもので1キロ100万円。欧州では「黒いダイヤ」と称されるトリュフが同程度の価格で取引されているそうで、佐藤さんの塩は「白いダイヤ」とも言えるだろう。

佐藤さんは、どんなに有名店でも、有名人でも、田野町に足を運ばない人には塩を売らない。「田野屋塩二郎」の塩が欲しければ、佐藤さんと顔を合わせて、話をしなくてはならない。その時に佐藤さんが「違う」と思った相手には、塩を売らない。それでも引く手あまただから、なんの支障もない。

なぜ、佐藤さんの「白いダイヤ」は、それほどまでに求められるのだろう?

手塩にかける

その話をする前に、少し、塩について説明をしよう。

海水の塩分は約3%で、1 リットルの海水に含まれる塩は30グラム程度。この3%の塩を効率よく回収するために、日本では、99%の塩が機械でろ過した海水を釜で焚き上げ、蒸発させて作られている。

一方、完全天日塩は太陽光と潮風を利用して作る。木箱に入れた海水をビニールハウスに入れ、日々、手作業でかく拌しながら自然に蒸発させるのだ。この方法だと海水から塩になるまでに時間がかかるが、加熱処理した際に失われる海水のミネラルを残したまま結晶化するので、滋味豊かな味となる。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
「田野屋塩二郎」で作られている塩

さらに、完全天日塩の作り方にも違いがあることはあまり知られていない。一般的に、完全天日塩を作る際には予め貯めておいた海水をポンプでくみ上げ、内部にネットを張り巡らせた高さ数メートルのタワーに放水する。海水はそのネットを伝って下に落ちていく。その間に海水が太陽光と風に晒されて、少しずつ蒸発していく。この作業を繰り返して、塩分濃度の高い「かん水」を作る。そのかん水から塩を作る業者がほとんどだ。

しかし佐藤さんはこの方法ではなく、海水そのままの状態から塩を作り始める。

「タワーを使うと、その過程で大事な養分が飛んじゃうし、余計ななにかが加わると思うんですよ。だから、なるべく海水からじかに作るようにしています」

タワーを使うと数週間から1、2カ月程度で塩ができるが、塩分3%の海水をそのまま塩にしようとすると、最低でも3ヵ月はかかる。その間、毎日、一時間から一時間半に一回、100個を超える木箱の海水をかく拌しなくてはならない。

夏場には、ビニールハウス内の温度が70度にも達する。そのなかでの作業だ。気が遠くなるような工程だが、それでも、なるべく自然のままで、丁寧に、時間をかけて塩を作る。これは、よくある職人の「こだわり」とは少し違う。「手塩にかける」という言葉そのままの、塩を育てる男の物語である。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
佐藤さんが「僕の子ども」と称する塩。雪のような繊細な白さ

消去法で選んだ仕事

腕利きの職人というと、寡黙で朴訥な人柄が思い浮かぶが、佐藤さんは全くそのイメージに当てはまらない。

「田野屋塩二郎」の製塩所を訪ねた時、こんにちは~と姿を現した佐藤さんは坊主頭にタオルを巻き、Tシャツに短パン、ビーチサンダルというラフな姿で、第一印象は海の家にいるお兄さんだった。挨拶をしながら、僕はすぐに佐藤さんの耳に、釘付けになった。釘が5本、刺さっていたからだ。もちろん、ファッションである。

佐藤さんは、現在46歳。塩に関係する家に生まれたわけでも、塩が特に好きだったわけでもない男が塩の道を選んだきっかけは、「海」と「日本一」がキーワードだった。

もともと「一番じゃなきゃ嫌」という性格で高校、大学とラガーマンとして全国レベルで活躍した佐藤さん。就活の時期になり、「普通のサラリーマンになるのも嫌」で、趣味だったサーフィンやスノーボード関係の仕事をしながら競技者を志した。

一時はスノーボードで五輪を目指すほど本気で取り組んだそうだ。それもなかなか思うようにはいかず、サーフショップの経営を始めた。ところが、30代半ばで「飽きた」。その時に、残りの人生をどう生きるか、考えた。

「ショップの仕事はもう上が見えないなと思って。人生で働ける年齢が70歳までと考えて、残りの半分、もう一度、日本一を目指して何かやろうと考えたんですよ」

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
高校時代は2度、ラグビーの全国大会に出場したという佐藤さん

サーフィンが趣味だから、海の近くでできる仕事が良い。思い浮かんだのが、塩の職人と漁師。大間のマグロ漁師になってのし上がろうとも考えたが、意外なほど高額な船の価格とサーフィンに向かない寒さなどがネックになり、消去法で選んだのが塩の職人だった。

土下座して弟子入り

その時点で塩についての知識は皆無ながら、日本一になるためには日本一の職人のもとで学ぼうと考え、いろいろと調べているうちにひとりの職人にたどり着いた。

高知県の黒潮町で完全天日塩を作っていた吉田猛さんだ。思い立ったら即行動の佐藤さんは、「電話をしても断わられる」と、黒潮町まで行き、アポなしで吉田さんを訪ねて「弟子にしてください」と頭を下げた。

しかし、吉田さんは佐藤さんを一瞥すると、一言も声をかけずに立ち去った。一度東京に戻った佐藤さんは、最初の接触から三日後、再び黒潮町にいき吉田さんに土下座した。その時は一言、二言、言葉を交わせたが、弟子入りについては無視されたので、翌週、また黒潮町で土下座した。それでも、ダメだった。

そこで、佐藤さんは勝負に出た。黒潮町にアパートを借りたのだ。4回目に土下座した時、「アパートも決まりました。来週、黒潮町に住民票を移して引っ越します」と告げると、吉田さんは渋々と首を縦に振った。

「一番の人に習って自分も日本一になろうと決めていましたからね。本気度を見せたいと言ったらかっこいいですけど、こっちも意地ですよ。10回でも20回でも頼み込もうと思っていたから、4回目でOKが出て、むしろ早いなって拍子抜けしたぐらい」

塩と話す

2007年、修業が始まった。初めてビニールハウスに足を踏み入れた瞬間、鳥肌が立ったという。

「なんていうんだろう、完全に違う世界でした。びっくりしましたね。昔から、塩は殺菌とか浄化に使われてきたじゃないですか。今思えばですよ、例えば悪いものがついていたのが、塩の力でワッと逃げ出したんじゃないかなって思います。別空間でしたよ」

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
ビニールハウスのなかでは、塩がツララ状になっている

この時、佐藤さんは塩が持つ力に魅せられたのかもしれない。佐藤さんは、あえて厳しい修行を自分に課した。

修業の身ということで、給料はいらいないと申し出た。自主的に朝3時半には製塩所に出向き、トイレや部屋の掃除をした。お風呂を沸かすための薪割りも日課だった。日中は吉田さんから完全天日塩の作り方を学び、16時頃、仕事を終えるとアパートで2、3時間の仮眠をとって工事現場でアルバイトをした。夜中の2時ごろに帰宅して、3時半には製塩所にいくという日々が続いた。

お金がなかったわけではない。むしろ、それまでのショップ経営で貯金がかなりあったから、アルバイトをする必要はなかった。ただ、ダラダラする時間を極力なくして自分を追い込み、どこまでできるかを試したかったのだという。そうして1週間が経ち、1ヵ月が経ち、1年が経った頃、塩についてわかってきた。

「教えてもらうといっても、すべてを目で見て覚えるんです。人の手とか体温とか全部違うんで、誰かと同じようにやってもダメなんですよ。だから、吉田さんも何をどう伝えたらいいのかわからないという感じでしたね。とにかく毎日来て、見よう見まねで塩に触る。そうするうちに、塩と喋れるようになってくるんですよ。会話している気になるっていうのが正解かもしれないですけど」

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
365日、毎日1時間から1時間半に一度、海水をかく拌する。この手作業をしている時に塩とを会話をする

塩と喋る。え? と思うかもしれないが、道を究める人に共通の感覚なのかもしれない。パリで自分の店を構え、一着100万円を超えるスーツを作っているある日本人テーラーは、「糸と会話ができる」と言っていた。極限まで指先の感覚を対象に集中することで、わずかな変化を察知し、身体が自然とその変化に対応できるようになる。そういう状態を指すのだと理解している。

「植物に話しかけると喜ぶっていうじゃないですか。そんな変なこと言うやつは気持ち悪いと思ってたんですけど、あながち間違いじゃないなって。もちろん人間の言葉で話しかけられるわけじゃないですけど、感覚的に喋ってる感覚というか、こうしてほしいと思ってるだろうという塩の気持ちはわかるようになりました。だから、テクニックとかではないんですよ。こう味付けたいならこうしなさいって塩が教えてくれる感じですから」

全財産が10万円に

塩の声が聞こえるようになると、試してみたいことが増えていった。そこで、修業を始めてから二年が経った頃、独立を決めた。製塩所を作るにあたり、海沿いの町に片っ端からアプローチするなかで、唯一、「日本一の塩を作りたい」という佐藤さんの言葉に耳を傾けたのが田野町の役場だった。ほかの町では「よそ者には土地を貸さない」と冷たくあしらわれていた佐藤さんは、田野町に製塩所を作ることに決めた。

田野町と隣町の奈半利町の間には、奈半利川が流れている。佐藤さんは、偶然にも緑豊かな山から流れてきた川が海にそそぎ、小魚や貝が育つ栄養豊富な汽水域の水を塩づくりに使うことができるようになったのだった。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
海に流れ込む奈半利川

お金を貸してくれる金融機関もなかったので、4000万円あった貯金をすべて使って、ビニールハウスを2棟建てた。施設が完成した時、全財産は10万円だった。

「逃げ道をなくせば、塩を作るしかないでしょう。それに、施設さえできちゃえば、海水はタダ。僕ひとりだから人件費も必要ないし、あとは塩を作って売るだけですから」

2009年の9月、「田野屋塩二郎」で塩づくりが始まった。この屋号は、師匠の吉田さんが考えてくれたものだった。最初の1ヵ月、佐藤さんはビニールハウスで寝泊まりしていた。寝る間を惜しんで作業をしていたわけではない。

「それまでとは違う土地で、違う海水ですからね。一緒に過ごして会話しなきゃいけない。まず心を許してもらおうということです」

塩のオーダーメイド

寝食を共にすることで、田野町の海水とはすぐに打ち解けたようだ。当時は誰も知らない「田野屋塩二郎」の塩だったが、道の駅などで「どうぞ舐めて下さい」「お弁当にかけていいですよ」と言って観光客に試食してもらうと、美味しい、美味しいと飛ぶように売れた。100グラム1080円と高値ながら、1日に10万円を売り上げたこともあるという。

開業してすぐに「俺の塩は売れる!」と大きな手ごたえを得た佐藤さんは、また飽きてしまわないように日本一ではなく、世界一の職人になるために新たな挑戦を始めた。顧客の注文に応じて味や結晶の大きさを変える塩のオーダーメイドだ。

「誰もやっていないし、誰もできない。そういうことをやってやろうと思ってね。それで店とダイレクトで取引するようになったら面白いなっていうのはありましたよね」

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
佐藤さんは塩の甘さと結晶の大きさをコントロールできる

ちょうど、佐藤さんが道の駅で売っていた塩の評判を聞きつけた東京や大阪などの料理人が、田野町を訪ねてくるようになっていた。話をしてみると、どんな塩を使ったらいいのか迷っている料理人が多いことがわかった。佐藤さんはカウンセリングをするように料理人がどんな料理にどんな塩を使いたいのかを聞き出し、それに合う塩を作るようになった。その細かさは、想像をはるかに超える。

「もし牛肉に合う塩をくれって言われたら、萎えますよね。こいつは料理がわかってねえなって。何の肉か、肉のどの部位か、産地はどこか、食べるのは子どもか大人か、どういう風に調理するのか、調理してから何分でお客さんに出すのか、塩を振るのはシェフなのかアルバイトなのかまで聞きます。それによって、塩の溶けやすさ、いつ香りを立たせるかとか調整が必要ですから。それで、サンプルを出してオッケーならそれを定期的に卸します。文句を言われたことはありません」

料理人の求めに応じて塩を作ることができる職人は、ほかにいない。佐藤さんの存在はあっという間に知れ渡り、注文が殺到した。佐藤さんは難しい依頼があればあるほど燃えるタイプで、相手が本気だとわかればどんな注文も断らなかった。

その結果、飲食店からのオーダーメイドの注文が全体の9割を占めるようになり、売り上げは右肩上がりで伸びていった。今ではビニールハウスが3棟になり、130の木箱で常時100種類以上の塩が作られている。木箱は常に埋まっていて、ひとつの塩が出荷されると、ウエイティングリストの1番目の塩づくりが始まる。その注文が途切れることはない。

塩の職人を目指した当初は、仕事をしながら空いた時間にはサーフィンを楽しもうと思っていたのに、波乗りともご無沙汰だ。

「今は全然やる気が起きないですね。この仕事が楽しいし、まだまだ上を狙えるっていう手ごたえもあります。生産者が上に立つような仕事、商品というのがやっぱり面白いですよね。汗流してるやつが一番上に立たなきゃいけないんですよ」

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
「田野屋塩二郎」のビニールハウス

わが子のように

ビニールハウスをのぞかせてもらうと、そこはまるで実験室のような雰囲気だった。ある木箱には、海水と一緒に藁が敷き詰められていた。塩ソフトクリームを売りにするある牧場から、藁の風味がする塩を作って欲しいという依頼だという。蟹の甲羅が浸してある木箱、たくさんのアーモンドが浮いている木箱もあった。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
同じ藁を食べている牛の乳から作るソフトクリームと合わせる塩
高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎
アーモンドの塩は、アーモンド業者からの依頼

特定の場所で採った海水が送られてきて、その海水で塩を作って欲しいという依頼もある。取材に行った日はプレートに「富山湾」と書かれた木箱があった。ちなみに、1キロ100万円の塩は1年かけてトリュフを浸した海水を塩にしたものだという。

塩の甘みは100段階あり、塩の結晶の大きさは3.0ミリ、0.3ミリと0.2ミリの3種類。これらを組み合わせて、これまでに作った塩は優に1000種類を超える。

36歳の時、「もう一度、日本一を目指して何かやろう」という思いだけで、何も知らない塩の世界に踏み込んだ佐藤さん。今では塩を「作る」のではなく、わが子のように育て上げている。

「塩は生き物であり、僕の子どもです。常にそばにいてやって、何かあった時はすぐに駆け付けるし、夜は静かに寝かせてあげる。喜怒哀楽もあるんですよ。泣いてる時は、優しくしてあげるとかそんなふうに接してきました。だから、気に入らない人には売らない。お前のところにお嫁になんか出すか!と(笑)」」

雪のように真っ白で眩しい塩。この白いダイヤをかく拌するする時、佐藤さんの指先はわが子の頬を撫でるように優しく、繊細だった。

高知県 田野町の天日塩、田野屋塩二郎

<取材協力>

田野屋塩二郎
高知県安芸郡田野町2703-6
0887-38-2028

文・写真: 川内イオ

こちらは、2018年5月8日の記事を再編集して掲載しました。作り手の情熱が溢れるお塩に会いに、ぜひ一度訪れてみたいものです。

【作部さんに聞きました】鹿の家族 お手玉

「これを買う人の気持ちも、あんたたちのことも考えて、頑張ってるつもりやねんで」

中川政七商店を手仕事で支えてくださる「作部(つくりべ)さん」にお話を聞きました。
ちらっと見える親鹿、子鹿の刺繍がポイントの「鹿の家族 お手玉」を作ってくださっている廣瀬さん。



-今は主にお手玉の縫製を担当いただいてますが、中川政七商店でお仕事をはじめて何年くらいになりますか?
2000年にはもうしてたかなぁ。だから19~20年はやってるんちゃうかなぁ。今まで色んなもんさせてもうてたしあんたのところの色んな人と一緒にやってきたなぁ。

-お仕事をする上でご自身のルールはありますか?
縫っていく順番かなぁ。白でしょ、それからお父さん(生成)。あ、「お父さん」て呼んでんねん。それからお嬢ちゃん(赤)、その次が弟さん(水色)、お母さん(黄色)が最後。こう呼ぶ方が何かええやろ? 愛着あんねん。



-廣瀬さんがつくるとお手玉の両端が花みたいに閉じられていて綺麗ですね。一体どうやって作っているのか、近くで見てもわかりません…。
これなぁ(、縫製の)説明書の通りにやってもこんな風には閉まらへんねんで。上手いこと出来へんから自分でも考えなあかんなぁと思って、この方法を編み出した。わたしらの時代は何もなかったからね。布団なんかでも全部自分で縫ったんやで。せやから、これは本当は布団の端を閉じるときの結び方やねん。



-そうだったんですね! 驚きました…ほかには、普段どのようなことを考えながらお仕事をされていますか?
いつもやけど、ほんまに根気がいんねん。ひとつひとつ大切にせなあかんし。せやけどこの仕事が来たら夢中になって何にも手がつかなくなるんよ。毎日、これを買う人の気持ちも、あんたたちのことも考えて、がんばって働いてるつもりやねんで(笑)

-いつも本当にありがとうございます…この仕事をやってて「よかったなぁ」と感じた瞬間はありますか?
やっててよかったこと? そりゃもうみんなええわ。出来上がったときにはものすごうれしいし、「あぁ、出来た!」て思うよ。これで休憩できるから、さ、お家の草抜きしよ! とかね。

-廣瀬さん、働きすぎですよ!(笑)
草抜きするときな、いま指がバネ指(※腱鞘炎の一種)で痛いねん、まだ治ってなくて…でもミシンの返し針はこの指で押さなあかんからなぁ。それでも仕事してんねん、好きやから。
兄弟から電話かかってきたりするやろ? そしたら「あ、姉ちゃん仕事きたな!」ゆうねん。
「なんで?」聞いたら「声がちがう」って。仕事がないときは「今日なんや暗いな。仕事ないねんな」言われんねん。
…ほら色々喋ってる間に色出来上がったで!



-(一同拍手)「ころんと綺麗!お見事です」
せやろ?
これ見て。お母さんの刺繍は、よく見ると振り返ってはんねん。きっと後ろを歩く子供たちのことを気にして…やっぱりお母さんやねんなぁって。
お父さんはぎゅっと前むいてるやろ? ほら、お嬢ちゃんも弟のこと気にして後ろ振り返って…こんな可愛いものよう考えはるなぁ、ええの考えてくれはったなぁ。和むよ、いつも。いつも私がいちばん癒されてんねんで。


お話をうかがっている間、終始にこにことされていたのが印象的な廣瀬さん。
無理なお願いをすることもあり、本当にたくさんのたくさんのお手玉をすごいスピードで仕上げてくださっています。私がいちばん癒やされてると、嬉しいお言葉に、私達が伝えきれない幸せな気持ちをいただいた時間でした。

【わたしの贈りもの】母の喜寿のお祝いに


母の喜寿のお祝いに、何か特別感のあるものを贈りたい。

毎年、母の日や誕生日は兄妹で欠かさずお祝いしてきました。
すでにいろいろ持っているから、お花や季節の果物になることも多かったのですが、
喜寿のお祝いとなると、その日の想い出になる品物を渡したいという想いがあります。

記念になるものとは?花器など飾ってもらえるもの?
それもいいのですが、しまいこまないで、使いながらその都度お祝いの日を想い出してもらえたら、私達も嬉しい。記念の日に似合う、ちょっときちんと感も伝わるものを、考えてみました。




お友達と出かけることが多い母。きれいめで落ち着いているけど、少し遊び心のある「真田紐のファスナートート」。
手織り麻のバッグはとても軽く、ファスナー付きなので安心感もあります。持ち手に真田紐を使用しているので、丈夫で手にも柔らかく持ちやすくなっています。きっと「この持ち手、実はね・・。」と自慢してくれるに違いありません。




家計簿に「食費」とは別に「嗜好品」という欄があるほど、お茶の時間をきちんと?とっている母。
ティーカップや湯呑のセットがいつの間にか数が減って、食器棚の中はバラバラの器ばかりだったり。
せっかくゆっくりお茶を飲める時間ができたんだから、自分専用に特別なカップがあってもいいのでは。
mg&gkの「フィナンシェと紅茶の器」だったら、紅茶はもちろんコーヒーもたっぷり飲めるし、お揃いの小皿にいつものお菓子をのせるだけでも、特別感が増します。吉祥文様が描かれているものなら、おめでたい日にぴったりですよね。




以前、お客様にもお母様の喜寿のお祝いにと、購入されたことを思い出し、一人だと高価だけれど、兄妹みんなで一つのものを贈るなら、皇室をはじめ数多くの著名な方々にも愛されている「前原光榮商店」の日傘も、自分ではなかなか買えない逸品として、もらうと嬉しいもの。麻生地から、少し透けて感じる日差しが、とても美しい日傘です。UVカット率100%ではないですが、顔や洋服が真っ暗にならず、柔らかな陰影になる紗の感じが大人の粋を感じます。


子どもたちと孫たちでお祝いする日を、時々想い出してくれるきっかけになって、気兼ねなくいつも使ってもらえたら、私達にとっても嬉しい贈りものになります。

 


<掲載商品>
真田紐 ファスナートート
mg&gk フィナンシェと紅茶の器 ギフトボックス入り