継ぐだけが家業を助ける手段ではない。 200年続く和紙メーカーの娘は、「女優業」で伝統を活かす

そこに映し出されているのは、儚さなのか、悲しみなのか、それとも怒りなのか。
このコンテンポラリーアートを目の当たりにした人々の声はこうだ。

営々と築いてきた土佐の文化、土佐和紙の基本概念を裏切り、新たな価値を孵化させ、見事な舞台表現として見せた。人の体温とリズミカルな動きの風に、和紙が生きて揺らめき、踊り、歴史と現代、和と洋の癒合した不思議な空間を生み出した。楽しいひとときであった。
— 俳優 北村総一朗

変幻自在な和紙にそれぞれのニュアンスをにじませて若いアーティストたちの思いが錯綜する。あの日、舞台と客席が共有したのは、古から今に続く和紙と風のサステイナブルな歌だった。
— 企画・編集 亀山和枝

和紙を散らしながら舞うダンサー
光に照らされたダンサーの影を映す和紙

はらはらと舞う紙吹雪。
ぼうっと影を写す白い幕。
照明の落ちた舞台で、ほのかに発光する物体。

これらを構成しているのは、伝統的工芸品として名高い高知県の土佐和紙だ。

福井の越前和紙、岐阜の美濃和紙とともに、日本三大和紙のひとつとされている高知の土佐和紙は、古くから日本の紙産業を支えてきた。

「大事な和紙を、乱暴に扱われて悲しい」

そんな伝統工芸品を用いた作品たちの中には、思わず息を呑む場面も。

そのひとつが、2015年に上演された「一枚の怒り」という作品内にある、和紙をぐしゃぐしゃに引きちぎりながら、役者が怒りや葛藤をあらわにするシーンだ。

女優 浜田あゆみさん

土佐和紙の産地である高知県で行われた初公演では、上演後の挨拶をしているとき、急に来場者から批判の声が上がった。

「大事な和紙をあんな風に乱暴に扱われて、悲しい」

その言葉を発したのは、農家の苦労をよく知る地元の人だった。

――アートとしてのダイナミックな表現を、伝統工芸は受け入れることができるのか。

「継承のあり方」への問いを、如実にあらわした出来事でもあった。

プロデューサーの浜田あゆみさん

「私だったんですよ、その演技をしたの」

そう真摯に語ってくれたのは、土佐和紙の老舗である鹿敷製紙(かしきせいし)株式会社の娘、浜田あゆみさん。このプロジェクトの発起人でもある人物だ。

決してそのつもりはないにしても、家業の土佐和紙を「粗末に扱っている」とも誤解されかねないダイナミックな演技を取り入れたのは、なぜなのか。

そこには、役者を志して故郷を離れた彼女にしかできない、伝統の「新たな継承」への想いがあった。

ここを継いだら私の人生は暗い!
とにかく飛び出したかったふるさと

浜田さんの一家が代々経営してきた鹿敷製紙は、株式会社化した1950年より更に前から、200年以上にもわたり、100%国産の楮で質の高い和紙を漉いてきた老舗だ。

「子どもの頃は、工場へ視察に来た海外の人たちの似顔絵を書いたり、休みの日に草花を混ぜて和紙を漉いて遊んでみたりと、和紙は限りなく身近にありました」

そんな天真爛漫な少女は、「将来は家業を継ぐ」と言う兄とは裏腹に、演劇に没頭していく。

いつしかプロを目指すようになり、本格的に演劇を学ぶため、高校を卒業するとカナダのヴィクトリア大学へ進学。卒業後は、東京でアルバイトをしながら舞台のオーディションを受ける日々を送っていた。

都内を歩く浜田さん

「とにかく東京にいたくて、地元に帰ろうなんて思いもしませんでした。正直、役者として売れたいのに夢破れて戻ってきたなんて思われたくなかった、というのもあったのだと思います」

そんな彼女のもとに届いた知らせは、かつて家業の工場でバリバリと働く姿を見てきた祖父の、余命3か月という宣告だった。

「せめて、おじいちゃんが生きている間は高知に戻ろうって思ったんです。東京での生活は役者としてのチャンスがたくさんあるけれど、決してうまく行っていたわけではなかったし‥‥。でも、悔しかったですね」

これまで敬遠し、きちんと直視してこなかった地元。しかし、いざ戻って目の当たりにしたのは、想像を超える和紙産業の衰退だった。彼女の目に最も深刻に映ったのは、和紙の原料となる楮の木を栽培する農家の高齢化と後継者不足だった。

このままでは、土佐和紙の伝統がなくなってしまうかもしれない。その危機感が、幼少期に敬遠してきた家業に関心を持つきっかけとなった。

土佐和紙の現状を伝え危機を感じてもらい、更に人々に和紙への興味関心を向けてもらうには‥?

そこで浜田さんはあることを思いつく。

「自分がこれまでやってきた演劇に、和紙を使った演出を掛け合わせることはできないだろうか」

‥‥すべては、こうしてはじまった。

「和紙 ✕ アート」でできることは?伝統産業の課題をユニバーサルな問題提起に

和紙のパフォーマンスをするダンサーたち

もともと、浜田さんは高知でも演劇をやろうと思っていたわけではなかった。

しかし、地元に暮らしながら東京でのオーディションにも足を運ぶ生活をしているなかで、「高知でも演劇をやらない?」といった要望を受けることも増えてきた。

そんな折に知ったのが、高知県の文化財団が用意している助成金制度の存在だった。

「和紙とアートとをかけ合わせた企画を申請すれば、もしかしたら通るかもしれない」

幸運にも、家業の鹿敷製紙を経営する母と兄は「やりたいなら、やってみれば?」と背中を押してくれた。

そしてこれが、『Washi+Performing Arts? Project』誕生のきっかけとなる。

『Washi+Performing Arts? Project』について語る浜田さん

「『Washi+Performing Arts? Project』は、“和紙と舞台芸術をコラボレーションさせたら、どんなケミストリーが生まれるの?”といったテーマで活動しています。

和紙づくりの衰退で最も深刻なのは、原料である楮の栽培農家の高齢化と後継者不足。この事実をアーティストたちに感じ取ってもらい、国内外で活躍する舞台芸術家によって、和紙という素材を活かす『芸術としての和紙』の魅力を再発見することが目的なんです」

土佐和紙の産地で畑作業をするアーティスト
産地で作業をするアーティスト

2015年に始まったこのプロジェクトの第一弾では、国内外から揃ったパフォーマー6名が、日本の三大紙産地である高知県のいの町に2週間滞在。

地域の人々と交わり、楮の栽培、産地の現状把握、紙漉き体験などを経験したのち、最終日に10分間程度の作品を制作した。

もちろん、浜田さん自身も役者として参加。全体の指揮をとりつつも、ひとりの表現者として取り組んだ。

このときに生まれた作品が『一枚の怒り』だ。

そして翌年、このメンバーに加え、気鋭のダンサー・振付家の鈴木竜さんを演出に迎えて発表したのが、冒頭のパフォーマンス『風の強い日に』である。

紙漉きの様子を視察する鈴木竜さん
紙漉きの様子を視察する鈴木竜さん

ダンスと演劇をかけ合わせた新たな取り組みであるこの作品は、「伝統産業」の四文字とはあまり縁のない人々の心をも動かした。

会場に来た人は、こんな風にも言った。

「伝統工芸はいいものだ。自然は大事にしないといけない。といった説教じみたメッセージがあるのかと思って観に来たら、嫌悪感や葛藤など、人間なら誰しもが抱く感情を表現していた。だからこそ、伝統の大切さが分かった」

長く続いている産業だからこそ、嫌悪感も葛藤も避けては通れない。

良くも悪くも、さまざまな人間ドラマがある。

しかしそれを、演劇というひとつのアート作品にアウトプットしていくことで、産地を取り巻く負の面ですらも、人々の心に訴えかけるエッセンスへと昇華されていく。

これは、『Washi+Performing Arts? Project』を始めてこその発見だった。

地元の新聞などでプロジェクトを取材された記事は、大事に保管してある
これまでに取り上げられた新聞記事などは、全てこうして保存している浜田さん

うわべを知っただけでは決して生まれなかったアート表現

「このプロジェクトに参加してくれているアーティストたちはみんな、楮の苗植えや収穫などを肌で感じて、作品に落とし込んでいます。ときには、母と私が喧嘩しているところも見せてしまったり…。

でも、『継承』のなかにはそんな親子の軋轢とか、楮農家の苦悩とか、決してきれいじゃないものも含まれているんですよね」

『Washi+Performing Arts? Project』にとって、和紙は単なる演劇・アート表現のための「ツール」ではない。

伝統工芸を伝えるためのプロジェクトとして動いているからこそ、表現者であるアーティストたちに現状を体感してもらうことを、何よりも重要視している。

だからこそ、『風の強い日に』では、テーマを「紙」だけで終わらせることなく、産地を取り巻く負のエピソードをも取り込むことで、作品の持つメッセージをもっとユニバーサルな問題に変えることができたのだ。

しかしきっと、自分の故郷の産業を悪く見せかねない演出にはためらいもあったことだろう。

『Washi+Performing Arts? Project』での演出が、家業の鹿敷製紙の名を汚すようなことにならないか。

浜田さんの迷いを払拭してくれたのは、社長である兄だった。

女優浜田あゆみさん

「せっかく新しい取り組みをするんだったら、あれがだめ、これがだめと言って制限をかけては意味がない。好きにやっていいよ、と言ってくれたんです。

そういう意味でも、『Washi+Performing Arts? Project』は家族の後ろ盾があってこその作品だと思っています」

実は、冒頭で紹介した「大事な和紙をあんな風に乱暴に扱われて、悲しい」というメッセージには、辛い一言が更に続いていた。

――長い間和紙を作ってきた鹿敷製紙さんなら、その大切さが分かっているはずなのに、なぜあなたはあんなことをするのか。

演技で何かを訴えている浜田さん

浜田さんが、家業の和紙をあえてくしゃくしゃにちぎり、和紙業界の辛い現状を語る例のシーン。しかしそこには、彼女の実体験に基づくエピソードがあった。

鹿敷製紙の社史
ていねいに歴史がまとめられた、鹿敷製紙の社史

「小さい頃、和紙の工場から聞こえてくる“ダーン、ダーン”という打壊機の音が大嫌いで。それに、職人気質だった祖父は、従業員たちをよく怒鳴り散らしていたし。そんな頑固なおじいちゃんの声も、大っ嫌いだったんです」

照れくさそうに笑う浜田あゆみさん

「だけどね、おじいちゃんが『あゆみ、この紙きれいやろ?』って和紙を透かして見せてくれる姿は大好きだった。その両方を、演劇で表現したかったんです。

でも、批判の声が出ることは仕方なかったとも思っています。使った和紙はもちろん再利用しているけど、そんなことはきっとどうでもよくって」

「和紙だから」感情が動かされる

しかし、観る側にそういった感情が湧くのは、「和紙だから」なのではないか。
浜田さんはそんな風にも思った。

優しい風合いや、楮ならではの繊維が入り混じった質感に、光をたたえたようなあたたかさ。

日々私たちが触れている洋紙では表現しきれない唯一無二の「和紙」という存在に、人々は心を動かされるのかもしれない。

和紙を舞台演出に取り入れる目的で『Washi+Performing Arts? Project』を立ち上げた浜田さんの読みは、きっと正しかったのだ。

継承するためには、対象物に関心を持ってもらうための発信が必要だ。

そしてそれは、未来を担う子どもたちに対しても同様に。

和紙のまちで育ったことを子どもたちに伝えていく『未来Project』

『Washi+Performing Arts? Project』と平行して、2年目の2016年から始動したのが、子どもたちを対象をした『未来Project』だ。

このプロジェクトでは、初年度はからだを使って表現するパフォーマンスチームと、舞台上に和紙を使って別世界を作り出す美術チームに分かれてワークショップを行い、公募で集まった小中学生と一緒に舞台芸術作品を作った。

ステージで発表する子どもたち
和紙にくるまる子ども

子どもたちと和紙に触れていくと、大人が気が付かないような視点や感性がどんどん出てくるという。

「和紙って、かぶるとあったかいんだね」

「破いてみようと思ったんだけど、丈夫でなかなか破れなかった!」

単純な感想だけれど、子どもたちが和紙を通してその時に感じたこと、経験したことが未来につながっていくと考えれば、それは大きな価値だ。

ペイントが施された和紙

子どもたちと一緒に龍のオブジェを作ったアーティストは、「舞台美術に関してはまったくの初心者の私たちが、こんなに生命力溢れるモノを作れるなんて‥‥」と感動したという。

和紙でパフォーマンスをする子どもたち

和紙でモノを作ると、それだけで力強さが表現できる。

ちぎっただけの質感や、風になびく様子だとか、どんなに素人が作っても、何かパワーを感じる。

これができるのは、和紙だからなのかもしれない。

「和紙だから」。それが分かった先には何が残るのか

爽やかに微笑む浜田さん

「伝統だからといって、そのまま継承することだけが必ずしもいいわけではないと思うんです。時代に合った形で、人々の記憶に残し、継承されていったらいいな」

それを聞いて感じたことは、“工芸で一番怖いのはそこに人々の興味関心が向けられなくなってしまうこと。”

例えばそれが負の感情だったとしても、人々の関心が和紙という工芸に向くうちは、きっと生き続けることができるのかもしれない、とも思う。

その点で、『Washi+Performing Arts? Project』の活動は、まさに「新たな継承の形」ともいえる。

『風の強い日に』のフライヤーには、印象的なコピーがひとつ添えられていた。

— 明日、そこに風は吹いているか。

産業の衰退は今も刻々と続いている。

「よく、仲間と話すんです。これほど厚い和紙を、演出でこんなにたくさん使えるのは、もう今後5年、10年だけかもしれないねって」

残したい技術を、未来へどう引き継いでいくのか。

それは浜田さんたちだけではなく、作品を観る側の私たちにも問いかけられているかもしれない。

<取材協力>
浜田あゆみ / 女優
Washi+Performing Arts? Project
090-9775-9504
futarikkoproduce@gmail.com

鹿敷製紙株式会社
高知県吾川郡いの町神谷214
088-893-3270
HPはこちら

文: 山越栞
写真: 池田こうき

デザイナーが話したくなる「拭き漆のお箸」


私たちの食卓に欠かせない道具、お箸。
自分にぴったりのお箸ってなんだろう?毎日使っているのに、あらためて見つめ直してみても、これといった正解がなかったりしませんか。
そんな思いから、壮大な試行錯誤の旅がはじまってしまったデザイナーの渡瀬さんに今回は話を聞きました。




まずお箸選びの基準を調べていくと、世のお箸屋さんが唱える「長さ」という考え方があることにたどり着いた渡瀬さん。
親指と人差し指を直角に広げ、その両指を結んだ長さを「一咫 (ひとあた) 」といいます。この1.5倍にあたる、「ひとあた半」が基準のひとつになるのだとか。

ただ、この「ひとあた半」で選んだ長さのお箸が渡瀬さんにはフィットしなかったのだそう。。。




そこで、こうなったら自分でお箸の構成要素を整理した表を作って研究をすることに!
「長さ、素材、先端の形状(四角・八角)、重さ、太さ」と項目を洗い出し、それぞれの要素がどのように働いているか調べていきます。実際に比べてみると、長さ・太さ違い、形や素材違い、サイズ感と重さの違い、などによって使い勝手が変わります。
 
たしかに、私も飲食店などで出してもらうお箸が「長いな」と感じるよりも、「太さ」が気になることが多いかもしれません。持ちやすい!と思ったものに出会うとちょっと感動してしまうほど、お箸って自宅のものでもなんとなく使っているかもと気付かされます。




そうして、渡瀬さん実際に長さ・太さ違い、形や素材違い、サイズ感と重さの違いを比べてみました。
実験したサンプルってあるんですか?と尋ねたら、出てくる出てくる。
なんと!!驚きの254本です!!!目の前に並んだ量に圧倒されました。
もちろん、使い心地を検証していくうえで、実際使ってみたそうですが、その内容ももはやストイック。。
わざわざ箸使いに少し手間がかかる食材を選んで検証したとのこと。食材は、あずき、焼き魚、しらたき、うずらの卵、高野豆腐。。
毎日毎日掴んでみては、データを取り整理していく長い旅のはじまりです。




そして長い長い旅が終わり、渡瀬さんの結論がでました!
まずわかったことに「長さ」は、ほとんどの人は22センチメートルがちょうど良かったのです。実は、この22センチメートルは夫婦箸の間をとった長さであるという興味深い結果。ということで長さは一定としました。
反対に、人によって大きく好みが分かれて集約しきれない、選ぶ余地として残したほうがいい要素も見つかりました。それは、持ち手の「かたち」と「太さ」。
最初に私も書きましたが、使う前でも持った瞬間「持ちやすい」って思うんですよね。

 


そうして渡瀬さんは、自分にぴったりの「持ちごこち」を選べるお箸をつくりあげました。
「持ち手のかたち」 は「四角」「八角」「削り」の3種類から、「持ち手の太さ」 は太め・細めの2種。
素材はほどよい重量があり質感や耐久性に優れている「鉄木」
 
中川政七商店が考えるお箸選びの基準は長さではなく「持ちごこち」。
 
太さといってもよーーく見ないとわからないくらいですが、持ってみるとやっぱり違うんです。
日本一の箸の産地である福井県若狭で、職人の手によって0.1ミリ単位にまで気を配って作られています。
 



中川政七商店の店舗には、お箸のマンションのような什器に、考えぬかれたお箸たちがずらっと並んでいます。塗装も拭き漆で3色ご用意しています。
 
1、持ち手の太さを選ぶ。
2、持ち手の形を選ぶ。
3、色を選ぶ。 (拭き漆 赤・茶・黒) 
 
この中からご自分にぴったりのお箸をぜひ見つけてください。




毎日使っているお箸のことをこんなに考えつくした話を聞くと、あらためて毎日の道具だからこそ、自分の気に入ったものを心地よく使う大切さを考えさせられました。それでも、渡瀬さんは「もっともっと考えることがあったかも。」と、探究心は尽きません。
 
ちなみに渡瀬さんのお気に入りを聞いてみると「八角・太め」とのこと。
私は「八角・細め」を毎日使っています。
 


<掲載商品>
拭き漆のお箸 四角
拭き漆のお箸 八角

自転車をこぐと、靴下ができる。出張型の工場体験「チャリックス」

「自転車をこいで自分だけの靴下がつくれる、チャリックスです!」

日本各地の工芸メーカーが集まる合同展示会「大日本市」を訪れたときのこと。不思議な組み合わせを耳にして、思わず足を止めました。

「え‥‥?自転車でソックス??」

振り返ると、今まさに自転車をこぎ出そうとしいる人の姿が。

自転車をこぐと、お隣の機械が動き出しました!
自転車をこぐと、お隣の機械が動き出しました!
どうやら、こちらの機械が織り機。編まれた靴下が少し顔を出しています
どうやら、こちらが「編み機」のよう
編み機にはたくさんの糸がかかっていました
編み機には、たくさんの糸がかかっています
編まれた靴下の先が顔を出します
編まれた靴下の先が少しずつ顔を出します

糸をセットして、自転車を漕ぐこと約10分。編み上がった靴下を裏返したら、つま先を縫って完成です。

できあがった靴下。タグの「Made by」の欄には自分の名前を入れられます
できあがった靴下。タグの「Made by」の欄には自分の名前を入れられます。これは嬉しい!

自転車をこぎながら、実際に機械が動く様子が見られるチャリックス。たくさんの糸から好きな色を3色組み合わせ、長さ、サイズを選んで自分だけの靴下をつくることができます。

チャリックスの靴下織り機

靴下のつくり方、知っていますか?

この活動を行うのは、株式会社創喜 (そうき) さん。靴下の一大産地である奈良の老舗靴下メーカーです。

同社ではこども用からおとな用までさまざまな靴下をつくってきました。たっぷりの糸で編む、柔らかな感触のローゲージ靴下が看板商品。履き心地の良さもさることながら、冬は暖かく夏はムレにくい機能性の高さが大きな魅力です。

そんな実力派のメーカーが、なぜ自転車でワークショップを?

自転車で靴下を編むブランドチャリックス 奈良

「靴下がどうやってできるか、知ってますか?

すべて機械でできると思ってる方も多いようですが、実は人の手が入らないとつくれません。

まず、デザインや組み合わせる糸の種類によって、職人が機械のオリジナルのプログラムを設計します。その機械を操る人のほか、靴下を裏返して整え、つま先を縫い合わせて、アイロンをかけて整えるそれぞれのパートで専門の技術を持った職人が必要です」

そう語るのは、創喜3代目の出張康彦(でばり やすひこ)さん。

複雑なつくりの編み機を全て分解して、自分で組み直せるようになってやっと一人前の職人なのだそう
複雑なつくりの編み機を全て分解し、自分で組み直せるようになってやっと一人前の職人なのだそう
靴下のデザインに合わせて、編み機を組み替えたり、メンテナンスも自身で行うのだとか
靴下のデザインに合わせて、編み機を組み替えたり、メンテナンスも職人が自ら行います

「チャリンコをこいでソックスがつくれるので、チャリックス。実際に工場で使われている編み機でオリジナルの靴下をつくれます。

チャリックスでは、靴下をつくる経験とでき上がった靴下の両方を楽しんでいただけるんです。活動を通じて、ふだん何気なく履いている靴下のことや、ものづくりの現場に興味を持ってもらえたらと考えました」

なんだか楽しそう!そんな気持ちで覗いたら、思いがけずものづくりの奥深い話が聞けました。身近な存在の靴下ができるまでのこと、全然知らなかったなぁ。

出張して、工場を開く

一方で、現在、日本国内で靴下が生産できる工場は減少し続けているそうです。大量生産の安価なものが増え、履き心地の良い靴下を編む技術が、いま失われつつあります。

「もっと、靴下の良さを知ってもらいたい。広めたい!」そんな想いのもと、工場を飛び出し各地で開催できる出張型の体験ワークショップが生まれました。

チャリックス

体験を通してファンが生まれる

この活動、いまではファンが多いのだとか。靴下が気に入ったり、愛着が湧いたり、もう一度自転車での靴下づくりを楽しみたいとリピートする人が何人もいるのだそう。

編み機の構造やものづくりに興味を持って色々と質問されることも多いそうです。

「まずは楽しんでもらえたらいいんです。それで靴下作りのことを知っていただくきっかけになったらと思っています」

チャリックスには、ふつうのワークショップとまた一味違う新しい発見がありました。あなたも自転車をこぐと、靴下の見方が変わるかもしれません。

 

<取材協力>
株式会社創喜
http://www.souki-knit.jp/

文:小俣荘子
写真:菅井俊之
画像提供:株式会社創喜

三重のイガピザで過ごす、米粉ピザとツリーハウスのある週末

忍者の里として知られ、「忍びの国」と言われる三重県伊賀市。

中心地から少し外れたところに、ナポリの本格窯で焼いた米粉ピザを食べられるお店ができたらしい。四方を緑で囲まれたのどかなウッドハウスのピザ屋さんには広いテラスがあり、ゆっくりと寛ぐことができるそう。おまけに、裏山にはツリーハウスやハンモックがあって、自然の中で遊ぶこともできるのだとか。

そんな話を聞いて、行かないわけにはいきません。

伊賀の中心地から車で約20分。本当にこの先にお店があるのだろうかと少し不安になるような田舎道を進み、ナビに指定された通り脇道へ入っていきます。四方を山と畑で囲まれたその先に、一軒の建物。入口の「山本工房」と書かれた看板の下に「iga piza」と書かれたピザ屋さんの看板を見つけました。

「iga piza」への入口。木工工房の「山本工房」さんの奥にピザ屋さんがあります

ちょっと急な坂を登り木工工房になっている大きな平屋を抜けて奥へ進むと、きれいなウッドハウスが出現。ここが目的のピザ屋「iga piza」さんです。

大きな窓が気持ちいいウッドハウス

「iga piza」さんは、ボタン作家の長瀬清美さんが始められた週末だけのピザ屋さん。
この建物はなんと、セルフビルド。清美さんのご主人であり木工作家の山本伸二さんが裏山の植林を切って一から作られたのだそう。驚きです。(まだ驚くのは早かったことを後に知ることになります)

田んぼに面した開放的なテラス
思いっきり深呼吸したくなる空気です

薪の窯で焼く、米粉のモチモチピザ

ピザを焼くのは、本場ナポリから仕入れた本格的な薪窯。火をおこす薪は、近くで取れたものを使います。

ナポリの老舗メーカー、アクント・マリオ社の薪窯

地元伊賀米の米粉と三重の小麦をブランドして発酵させた生地に、地元で採れた野菜や自家製ベーコンを乗せて焼き上げます。500度の薪窯で一気に焼き上げるピザは、新鮮な具材の味をそのまま感じることができ、その美味しさは感動もの。ピザはジャンクフードだなんて誰が言ったんだろう。ここのピザは、体に優しい味がしました。

外側はぱりっと、中はもちもちの生地がたまりません
人気の「ナポリピザ」。小さめに作られたピザは、何枚でもいけそう

裏山は、大自然の遊び場

「裏山行くよー」と、山本さんが案内してくださったお店のすぐ裏に広がる森。
出てすぐのところに吊るしてあるハンモックを横目に、緩やかな階段を登るとすぐにツリーハウスが出現しました。

高さ3メートルほどのところに作られたツリーハウス

私、生まれてはじめて自然のツリーハウスを見ました。「子どもだけじゃなくって、ここに来ると大人も少年少女に戻って遊ぶんですよ」と山本さんがおっしゃるように通り、無性に心がワクワクして、目の前に広がる光景に自動的にテンションが高まっていくのを感じます。

ツリーハウスへは、ロープで登ります

「友だちの子どもと約束しちゃったから作った」というツリーハウス。作る約束をしたらツリーハウスの絵を描いて持ってきたから、作らなきゃいけなくなっちゃったのだそうです。そこで本当に作ってしまうのがすごいところ。気候のいい日は、お客さんが泊まったり、山本さんやお子さんの寝室になったりしているそう。誰にも邪魔されず、風の音や木の揺れを感じながら静かな時間を過ごせる木の上の空間。なんて素敵なのだろう。

ツリーハウスの近くにあったハンモック
お手製の吊り木

他にも、お手製のブランコやハンモックのある裏山は、近所の子どもや大人がやってくる遊び場になっているのだそう。近くにこんな自然を満喫できる遊び場があるなんて本当に羨ましい限りです。(忘れそうですが、ここはいわゆる自然体験場などの営業施設では無く、あくまで個人宅の裏山。豪華な遊び場です。)これから、裏山から道路側に抜ける大きなウッドデッキを作る予定なのだそう。ますます人が増えそうです。

平日は、ボタン制作

清美さんの本業は、ボタン作家さん。
ピザ屋さんの隣にある母屋が、木工作家の山本さんとボタン作家の清美さんのご自宅兼アトリエになっています。(なんと母屋も10年かけて山本さんが建てられたのだそう!)
工房には、清美さんの作られたボタンがたくさん並んでおり、そこで作品を買うこともできるそうで、伺った時もちょうどピザを食べた後のお客さんがボタン選びを楽しまれていました。

清美さんが作られたボタンのストックが並ぶ
木工作家の山本さんとボタン作家の清美さんご夫婦の共同のアトリエ
工房で見つけたお二人の結婚式のお写真

大学卒業後、ボタン問屋さんでずっとボタン作りをされていたという清美さん。独立後は、ハンドメイドでしか作れないオリジナルのボタン作りを続けられています。木、鹿角、象牙、陶器、ポリエステル樹脂、貝などいろいろな素材で作られる、清美さんのボタンはとても人気で、普段はボタンを使った製品を作るメーカーや手芸屋さんからの依頼が絶えないそうです。(さんちの運営会社である中川政七商店も、鹿角や漆のピンバッジや楓の木の指輪などを作って頂いています。)
型取りをして、穴を開けて、絵を書いて、削って、磨いてと、ひとつひとつの工程が手作業によって作られる手の込んだボタンには、機械には出せない温かみがあります。

ポリエステルを何度も流し込んで層にしたボタンの素材
スライスして、穴を開けて、削って、磨いて、ようやくひとつのボタンができる

平日はボタン作家さんとして忙しく活動をされている清美さん。伺った週末、たくさんの受注表を前に「ピザ焼いている場合じゃない。ボタン作らないと!」と笑われます。

ボタン作家・長瀬清美さん

そんな清美さんが、ピザ屋を始めた訳を聞くと、「兼業農家さんの実家に戻ってきた友人の娘さんの元気が無く、何か米粉を使って楽しいことをしようとなったのがきっかけ」だと教えてくださいました。ひとりの人の元気付けるために始めた大掛かりな事業。「飲食店をやるなんてこれまで思ってもみなかった」とおっしゃる思いがけないピザ屋さんも、素敵な空間を一から作り、薪窯を取り寄せ、素材を厳選して作るこだわりようは、物づくりをお仕事にされているお二人らしいなと思います。

週末はピザ職人に

そんな週末のピザ屋さんは、今ではかなりの人気店。地元の人を中心にたくさんのお客さんで賑わいます。平日にはヨガや英語教室など、ご近所の方たちが使うスペースとして活用されています。ウエディングパーティーなんかも行われたのだそう。

清美さんと山本さん。仲のいいご夫婦

友だちのお子さんや農家さんなど、誰かのために作られた遊び場やピザ屋さん。元々ものづくり工房だった場所は今、たくさんの人が集まる伊賀の新たなスポットになっていました。旅の目的として、わざわざ行きたくなるような気持ちのいい場所です。ぜひ足を運んでみてください。

iga piza (イガピザ) / 山本工房
三重県伊賀市上友田2216-1
0595-43-2121
営業時間:
土・日・祭日 / 12:00-18:00

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ボタンズファクトリーHP

こちらでボタンを購入できます
長瀬清美さんiichiショップ

文: 西木戸弓佳
写真: 菅井俊之

ただ一人の職人が受け継ぐ竹細工。「1年待ちの竹かご」が生まれる沖縄の工房へ

那覇市の市街地から車で30分ほど。沖縄市八重島に、県認定工芸士の津嘉山寛喜 (つかやま かんき) さんの工房があります。津嘉山さんは沖縄本島でただひとり、沖縄の竹細工を受け継ぎ生業とする職人。

工房には、沖縄の日常道具として使われてきた大小様々なかごが並びます
工房には、大小様々なかごなどの竹細工が並びます
津嘉山 寛喜さん
津嘉山寛喜さん

戦前、竹細工の一大産地であった沖縄。竹の工芸品は、沖縄の人々にとって生活必需品でした。工業化の波で、プラスチック製品などが台頭するなか、その手作りの技術を継承し、時代に合わせた竹細工を生み出している職人が津嘉山さんです。

日本の津々浦々のかご産地を訪ね、そのかごが生まれた土地の風土や文化を紹介していく「日本全国、かご編みめぐり」。今回は津嘉山さんが作る、沖縄の竹かごを見せていただきました。

沖縄の暮らし、ならではの形

沖縄の日常道具として使われて来た様々なかごが並びます
沖縄の言葉で、かごはディール、ざるはバーキといいます。棚には小さいものから特大な竹かごや椀かごが並んでいました
「サギジョーキ」と呼ばれるこちらは、ご馳走を入れて保管するための竹かご。蓋がぴっちりと閉まります。取っ手部分を張った紐などに吊るして、ネズミなどの被害似合わないようにした、天然の冷蔵庫だったそう。現在は料亭などで器として使われています
「サギジョーキ」と呼ばれるこちらは、冷蔵庫がなかった時代、ご馳走を入れて保管するための竹かごでした。蓋がぴっちりと閉まります。取っ手部分を紐などに吊るして、ネズミの被害から食材を守る役割を果たしました。現在は料亭などで盛り付け用の器として使われています
こちらの美しいかごは布バーラ (ウーバーラ) 。芭蕉布を織るために、割いた繊維を入れ、糸を紡ぐ際に使われます
この美しいかごは「布バーラ (ウーバーラ) 」。芭蕉布を織るために割いた繊維を入れ、糸を紡ぐ際に使われます
布バーラの縁
縁はなめらかで、撫でてもつるりとしています。糸となる繊維を取り出す際にからまってしまわないための工夫なのだそう
「銭ディール (ジンディール) 」
こちらは「銭ディール (ジンディール) 」。軒先で商いをする時にお金を入れておくためのかごでした。ちょこんと尖った四つ足が独特です
風で紙幣が飛ばないように入り口がすぼまっています
風で紙幣が飛ばないように入り口がすぼまっています

「かつて沖縄の人々は、軒下や道端で市場のようにお店を広げていました。元気なオカー (お母さん) たちが、商品の入ったかごを頭の上に乗せて運びます。かごにしっかりとした足がついていると邪魔だったんですね。

編む時に底の角を少し尖らせて、道端に置いた時に安定するけれど、頭に乗せても邪魔にならない形にしたんだと思いますよ」

かごの底の四隅に少しだけ尖った部分がつくられています

この尖った部分が生まれたのには、原料の竹の影響もあるのだとか。

「沖縄の竹細工でよく使われる蓬莱竹 (ほうらいちく) は、節までの間隔が長く、しなやかで曲がりやすいので形が安定しました。他の竹では、ここまで急な角度で尖った部分を作ると割れてしまうんじゃないかな」

節が長くて、凹凸も少ないので使いやすいそう
津嘉山さんが採ってきた蓬莱竹。節の凹凸が少なく、わずかに削るとなめらかに
編む時は、水につけてしなやかさを高めることもあります
編む時は、水につけてしなやかさを高めることも
口がすぼまっています
出来上がった銭ディール。理にかなった作りです。今では、茶椀かごや花器として使われているそう

竹細工の需要が減る一方で、津嘉山さんの作るものは、早くとも半年〜1年以上待ちという人気。どのようにして盛り立ててこられたのでしょうか。

生活用品から、工芸品、装飾品へ

「私の祖父の時代。1879年、廃藩置県の折に一族が北谷町 (ちゃたんちょう) という竹細工の一大産地へ引っ越し、家族総出で竹細工を生業とするようになりました。当時は多くの生活用品が竹でできていて、作れば売れるという状況。

様子が変わったのは戦後のことです。工業化の影響で竹製品の需要がグッと下がりました。加えて、米軍基地の人手不足による求人が出回っていて、お給料が良かったこともあり、みんなそちらに勤めるようになりました。町で竹細工を続けたのは、私の父ただひとりとなったのです。

『作っても売れない』と嘆いていた父のことを覚えています。あるとき私の思いつきで、『実用品は売れないから装飾品として小さなかごを作ってはどうか』と提案したことがありました。

昔ながらのやり方を大切にしていた父でしたので、すぐに首を縦に振りはしませんでしたが、しばらくして装飾品に挑戦してくれました。やはり需要があったようで、その後は注文も多くなり、忙しそうに働く父の顔は生き生きとしていました」

津嘉山寛喜さん

「作れば売れる時代が終わった後は、工芸品としての価値を高めて美しいものを作っていかないと売れないと思うんです。当時の沖縄の竹細工にはそれが欠けていました。‥‥と語りつつ、私も40歳になるまで、竹では稼げないと米軍基地で働いたり、建築の仕事をしていたんですけどね (笑) 。

付き合いの飲み会も多くて体が辛かったこともあり、次の仕事を考えた時、頭に浮かんだのが父の姿でした。初心にかえる、というわけではないですが、子供の頃から慣れ親しんできた竹細工に本気で取り組んでみようと考えたんです。

相談したとき、父は何も言いませんでしたが、目で『継いでくれ』と言ってくれているように感じました」

仕上がりにこだわる、時代にあったものを作る

1989年、竹細工の仕事を始めた津嘉山さん。お父様から手ほどきを受けながら、ひたすらに編んではほどき、編んではほどきを繰り返して商品作りに勤しみます。

その努力の甲斐あって腕前が認められ、1993年には、全国植樹祭で天皇皇后両陛下がお使いになる「お手植え苗木入れかご」の製作を依頼されるまでになりました。

修行する津嘉山さんが特に力を注いだのは「美しい形」づくりと、時代に合わせた商品づくり。

「生活用品としては、機能性と強度が担保されていれば良いのですが、竹製品以外の選択肢がある今の時代、それだけではダメだと思いました。選んでもらうための工夫が必要です。

そこで、編み目の均一性やなめらかさを従来のものより磨いていきました。形の美しさを評価してもらえると、雑貨入れや花器などの見せるインテリアとして使ってくれる方も増えますからね。また、照明器具など、現代の暮らしで使う道具も新しく作っています」

こうして津嘉山さんのつくる竹細工は評判を呼び、人気を獲得していきました。

竹細工を広めるための体験教室に、新しい技術習得も

また、テレビ取材を機に、学校、公民館、博物館などから竹細工の体験教室の講師の依頼が舞い込むようになります。

「竹細工を広める仕事ができるのは嬉しいことでした。製作活動と講師業をこなしていくためには、作業を効率化する必要がありました。そこで、製作の一部を機械化することにしました。

手作業では10日かかったひご作りが、機械を使うことで半日でできるようになりました」

皮と身をスライスして分ける工具
皮と身をスライスして分ける工具
ひごを均等な幅に削る工具
ひごを均等な幅に削る工具

「竹細工では、ひご作りが70%、編むのが30%と言われます。それくらいひご作りに時間が取られるんです。適切なひごの厚みや幅がわかるようになるまで3年かかる、とも。体得しないとまともな製品が作れないのです。ひごのことがわかった上で機械が使えると、グッと時間が短縮でき、綺麗に編むことに専念できるんです」

津嘉山さんの竹編みは本当に美しいものでした
編むところを見せていただきました。均質な間隔で編み込まれた竹はつるりとなめらか。するすると仕上がっていきます
ひごだけでなく、津嘉山さんは道具の改良を日々行なっています。こちらは、立ったままかごが編める道具。かごの型を高い位置に取り付けました。ずっと座っていると腰を痛めるので立った状態で作業できるようが良いのだとか
ひごだけでなく、津嘉山さんは道具の改良を日々行なっています。こちらは、立ったままかごを編める道具。かごの型を高い位置に取り付けました
ずっと座っていると腰を痛めるので、立った状態で作業できる方が良いのだとか
ずっと座っていると腰を痛めるので、立ったままで作業できる方が良いのだとか

精力的な製作活動に加え、後進の育成にも取り組まれている津嘉山さん。各地の竹細工工房と交流し、情報交換や研究にも余念がありません。他に何か新しく考えていることはありますか?と伺うと、「いっぱいありますよ」とニヤリ。

「沖縄の竹細工を伝えるミニ博物館を作ろうと思ってるんです。工房の2階にその用意をしています。なかなか忙しくて進んでいないのですが、昔からの竹細工だけでなく、竹で作れるものの可能性を広く伝えられたらと、新しいものも作っています」

2階への階段の壁には、小学生向け講座で作る昆虫作品なども飾られていました
2階への階段の壁には、小学生向け講座で作る昆虫作品なども飾られていました
沖縄のお祭りの様子を竹細工で作ったもの。知花花織を着た竹の人形が楽しませてくれます
沖縄のお祭り「エイサー」の様子を竹細工で作ったもの。知花花織を着た竹の人形が楽しませてくれます

一度は途絶えそうになった沖縄の竹細工。楽しんで立ち向かう津嘉山さんによって、新しいアイデアを次々と生かしながら次の時代へ受け継がれていこうとしています。その様子には、竹のようなしなやかさがありました。

<取材協力>

北谷竹細工

沖縄市八重島3-4-7

098-937-1474 (FAXも同じ)

※商品の注文は電話・FAXでも受け付けています。

文:小俣荘子

写真:武安弘毅

こちらは、2018年6月29日の記事を再編集して掲載しました。見た目も涼やかな竹細工。何を入れるか考えるだけでもワクワクしますね。

京都の夜を照らす「京提灯」とは。老舗「小嶋商店」で知る、かたちの理由

「京都はずるい!」

この街を訪れるたびに、そう口にしてしまいます。

古くから残る寺や街並み、京料理、器、四季折々の景色。色濃く残る日本文化が今もなお紡がれる京都の街並みは、歩くだけで心踊ります。

そんな京都を歩くときに、必ず目にするのが「提灯」です。和紙に包まれた京提灯の温かい光は、この街の文化を形づくるものでもあります。

京都のことを思い出せば、かならずあの温かい灯が旅の記憶を彩っています。神社に奉納されたもの、料亭の軒先、何気なく通る小路で足元を照らしてくれるあかりにも、京都の職人たちの技術が込められています。

今回は、江戸・寛政(1789〜1801年)から続く、京提灯の老舗工房「小嶋商店」を伺い、京提灯の制作現場を見せていただきました。京都の夜をほのかに照らす美は、どのように生み出されているのでしょうか。

京提灯の老舗、小嶋商店の工房へ

京都市東山区、今熊野椥ノ森町にある「小嶋商店」。

「さぁさぁ、入ってください」

と、小嶋商店10代目の小嶋俊さん、諒さん兄弟が迎え入れてくれました。

暖簾をくぐり工房へ入ると、竹やのり、和紙の香りをふわっと感じたと思えば、目の前に巨大な提灯が。

耐震補強工事のため2年前から休館していた「京都四條南座」は、2018年11月からの営業再開が決まっています

「いま、『南座』の大提灯の制作の佳境なんです」と小嶋俊さん。

日本最古の劇場「京都四條南座」の大提灯は、多くのかたが目にしたことがあるのではないでしょうか。南座が年の瀬に行う「まねきあげ」の日に合わせた、「年に一度の、年を締めくくる大仕事」なのだそう。

お伺いしたときは、まさに最後の一枚の和紙を大提灯に貼り付ける最中でした。

小さな工房が作り続ける、「京・地張り提灯」とは?

提灯には大きく分けて2種類の提灯があります。

竹ひごを螺旋状に巻く「巻骨式提灯」と、竹ひごを一本ずつ輪にして平行に組む「京・地張り提灯」です。

「巻骨式」は催事用や装飾に多く、提灯づくりで有名な岐阜県の「岐阜提灯」に多く見られる作り方です。彫刻家・デザイナーであるイサム・ノグチの代表作「AKARI」も、岐阜提灯から着想を得ていることで知られています。

一方、京都の提灯は「地張り式」が特徴。社寺仏閣や花街、料亭など、屋内外で提灯を使用することの多い京都では、丈夫で長持ちする地張り式が多く作られています。

しかし、職人が手作業で作る地張り式はとても手がかかるため、京都市内で地張り式提灯を作製する京提灯の工房は,いまではわずか数件まで減ってしまいました。そのうちの一軒が小嶋商店です。

職人がひとつひとつ丁寧に作り上げる京提灯ができるまでを見せていただきました。まず、竹をそれぞれの提灯に合わせて細く切っていく【竹割り】です。

よくしなって折れない、皮付きのほうを使うそう。

「産地にはこだわっていませんが、強くて、しなやかな竹を使います。いい竹がないときは作れませんし、竹の質はもっとも重要な要素です」と俊さん。

丁寧に竹の節も削いでいきます

竹に細かく切れ目を入れ、あっという間に提灯の骨となります。

写真は<もみ割り>という小さい提灯のための割り方

年季の入った定規に骨をあて、提灯用の長さに切る【骨切り】。よく見ると一段一段ミリ単位で長さが異なり、1mm違うだけでも全く合わなくなるのだそうです。

切った骨を、輪っかにし、和紙で固定する【骨巻き】を行ったのち、【骨ため】という骨を真円にする作業を行います。

真円にした骨を提灯の木型にはめ込む【骨かけ】を行い、ようやく提灯の形になってきました。

京提灯の強度を左右する【糸釣り】。一本一本丁寧に糸を竹にかぐらせ、骨と骨を繋いでいきます。

素材提供:小嶋商店

骨組ができると、和紙を糊で貼り付ける【紙張り】の作業。今回は製作中の南座大提灯、最後の1枚を貼るところを見せていただきました。

最後に【字入れ】【塗り】の作業。提灯に魂を吹き込む作業です。

近年ではモダンなロゴなどを書くこともありますが、一般的な提灯には家紋を描きます。

昔はどの家庭にもそれぞれ家紋があったそうですが、「10人聞いて1、2人わかるかわからないかでしょう。年配の方でも知らない方が多いですよ」と、字入れを担当する9代目の小嶋護さん。

「家紋は何万種類とあります。いまでも知らないものがたくさんありますよ」と護さん

家紋ーー。僕も自分の家紋はどんなものか、見たことがありません。しかし、知っているだけで誇らしい気分になれる気がしませんか。すぐに自分の家紋を調べることにしました。

驚いたのは、絵だけでなく、プリントしたかと思うほどに正確で、さらに力強い文字を、護さんが手で描かれていること。

「提灯づくりを息子たちに教えたのが私なんですが、竹割りはもう私の倍の速さでやりますし、次男にクレームつけられるくらいです。ありがたいことですね。

でも字とか絵を描くのはね、息子たちには任せられない。まだまだ私がやりますよ」

護さんは嬉しそうに話します。

実は、提灯の形は綺麗な丸ではないのだそう。

「提灯って、下の方が尻すぼみに作ってあるんです。提灯って見上げることが多いので、上と下で同じ膨らみにしてしまうと、下が膨れてぼてっと見えてしまうんです。綺麗なまるっとした見栄えを出すために、わざと必ず下が細くなっていってるんですよ」

と、護さん。もちろん、字を書くときもそれを考慮して描くのだそう。

最後に提灯の上下に枠をはめ、完成です。

小嶋商店、兄の小嶋俊さん

「巻骨式と、地張り式には両方にいい部分があって、弱い部分があります。ある程度量産がきく巻骨式と比べ、僕らの地貼り式はびっくりするくらい効率が悪いものなんです。100個作ってくださいと言われるとかなり厳しいですし、それが課題でもあります」と俊さんは話します。

小嶋商店の一躍人気商品となった、地張り式で作られたミニ提灯「ちび丸」。現在、小嶋商店での体験提灯づくりで手に入れることができます

「親父も、小さい頃からそれを見ていた兄弟も、ただ地張り式が好きだったんですね。だからいまは、それをどうかっこよく見せるかを常に考えています。その方が楽しくてやりがいがありますよね」

京都の足元を照らす、京提灯。力強さが持ち味の地張り式の提灯をひとつ作るにはこれだけの手間がかかっていました。ひとつひとつの灯に作り手の思いがあり、それが京都の道を彩っているとわかると、京都の夜を歩くのがより一層楽しくなります。

何気なく通る小路の灯に京都の温かさと力強さを感じるのは、そのせいかもしれません。

 

<取材協力>
小嶋商店
〒605-0971 京都府京都市東山区今熊野椥ノ森町11-24
075-561-3546
http://kojima-shouten.jp/

取材・文:和田拓也
写真:牛久保賢二

こちらは、2018年11月2日の記事を再編集して掲載しました。