金魚が泳ぐ江戸切子。但野硝子加工所の進化する職人技術

先日、こんな美しいグラスに出会いました。

涼しげに泳ぐ金魚が描かれたオールドグラス
涼しげに泳ぐ金魚が描かれたオールドグラス

動植物や景色を切子で描く

作っているのは但野硝子加工所2代目、伝統工芸士の但野英芳 (ひでよし) さん。但野さんが作る江戸切子には、動植物や水など自然界のモチーフが写実的に描かれています。従来の幾何学模様のイメージとは、ずいぶん違う印象です。

直線を中心とした伝統的な文様と、やわらかな曲線が組み合わさった斬新なデザイン。うっとりと見とれてしまいました。

四季の景色をモチーフとしたぐい呑。春 (左手前) 、夏 (左奥) 、秋 (右手前) 、冬(右奥)
四季の景色を表現したぐい呑。春 (左手前) 、夏 (左奥) 、秋 (右手前) 、冬(右奥)
竹林をイメージした器
竹林をイメージした器
水の中を泳ぐ金魚
水の中を泳ぐ金魚のグラス
江戸切子の伝統文様「」と但野さん描く水のイメージが融合していました
金魚の後ろでは、江戸切子の伝統文様である「八角籠目 (はっかくかごめ) 」と、但野さん描く水のイメージが見事に融合していました

江戸切子とは

江戸切子とは、ガラスの表面を削って模様を描く東京都の伝統工芸品です。江戸時代の天保年間に、大伝馬町のビードロ屋加賀屋久兵衛が金剛砂を使ってガラスの表面に彫刻したのが始まりとされ、明治期には英国から指導者を招いて技法が確立されました。

一般的な江戸切子イメージ

伝統ある技法に、新たな表現を取り入れた職人が但野さんでした。

新しいデザインはどのようにして生まれたのでしょう。但野さんにお話を伺いました。

江戸切子職人・但野硝子加工所 但野英芳さん

但野英芳さん

「もともとは建築を勉強していましたがデザインに興味があってデッサンもやっていました。一度は設計事務所に勤めましたが、江戸切子職人だった父がコンクールに出品した作品に魅せられて江戸切子の職人を志しました。

父が他界するまで2年半ほど、一緒に仕事をして技術を学び、その後も職人として修行を積むうちに、伝統的なものだけでなく新しいものが作れないかと考えるようになったんです」

お父様が亡くなった後、取引先の問屋の倒産など苦しい時期があったという但野さん。いかに他のものと差別化していくかを考え、研究していたそう。

「エミール・ガレやルネ・ラリックといった西洋の作家の作品も見て回りました。あちこちと出歩いて良い景色を見かけると、これを切子で作れないかな?なんて考えたり、スケッチブックに絵柄を描いてみたり。

一日中試行錯誤していました」

冬の景色を描いたぐい呑。当時の但野さんのイメージが形になった作品のひとつです
冬の景色を描いたぐい呑。研究期間とも言うべき時代を経て、当時の但野さんのイメージが形になった作品のひとつです

従来の道具では難しいこと

「江戸切子が幾何学的な模様ばかりたっだのには理由がありました。道具です。

ガラスは硬い素材なので、ダイヤモンド素材の道具でないと深く彫れません。筆で絵を描くのとは違って、回転する研磨機で図柄を削り出していきます。曲線や細かい表現をするのには道具に工夫が必要だったんです」

江戸切子は研磨機を使って、回転するダイヤモンドホイールにガラスを当て、削り出していきます
江戸切子の「切り出し」という技法。研磨機を使い回転するダイヤモンドホイールにガラスを当て、図柄を削り出していきます
ガラスの内側から覗き込んで、削ります。そのため、花瓶やタンブラーなど細長いものは難易度が高いのだとか
ガラスの内側から覗き込んで削ります。そのため、花瓶やタンブラーなど細長いものは難易度が高いのだとか

切子職人が作る新しい道具

「そこで、新たに道具を作ることにしました。通常は、直径15センチメートルほどのダイヤモンドホイールが基本の道具です。

細かな動きができるように、10センチメートル、7センチメートル、さらには金魚の目やヒレなどを削り出す時に使う5ミリメートル、3ミリメートルといったサイズのものも作りました」

様々なサイズ、太さ、粗さの道具があり、段階や描くもので使い分けるのだそう
様々なサイズ、太さ、粗さの道具があり、段階や描くもので使い分けるのだそう

新しい道具ができたことで、複雑なものや小さな部分が描けるようになった但野さん。表現の幅が広がり、独自の作風が開花していきました。

但野さんの新しい挑戦はガラスのカット方法だけにとどまりません。素材にも独自のアレンジを加えていきます。

2つの色を組み合わせる

「色を増やすことで、より豊かな表現ができればと考えました。それで、素材を特注で作ってもらうようになったんです」

金魚の描かれたの器には、ブルーとオレンジの2色が使われていました
金魚の描かれたの器には、ブルーとオレンジの2色が使われていました。水を感じる青、金魚の赤。たしかに、色数が増えると風景がより豊かなものになりますね

「色のついた江戸切子では、透明なガラスの外側に色ガラスの層を作って削ります。

透明なガラスと色ガラスの2つを合わせるのは比較的たやすいのですが、もう1色加わると一気に難しくなるんです。機械で作ることはできないので、作家さんにお願いして『宙吹き』で作ってもらっています」

宙吹きとは、型を使わずに溶けたガラス種を吹き竿に巻き取って宙空で吹いて成形する方法のこと。各色の面積や色が入る位置を細かく指定することは難しいため、大まかな比率を伝えて吹いてもらうのだとか。

受け取ったガラスを見て、色を生かしながら図柄の構成を調整し、彫っていくそうです。

桜の木が春風に吹かれている風景を切り取った景色。赤と緑が春のイメージを膨らませます
桜の木が春風に吹かれている風景を切り取ったぐい呑。透明なガラスの上に、底から半分が緑、上半分は赤の色ガラスが重なっています。2つの色が春のイメージを膨らませます
秋の景色のぐい呑。赤とオレンジのグラデーションが紅葉を一層引き立てているように感じました
秋の景色のぐい呑。赤とオレンジ重なりが色の移り変わる紅葉の様子を引き立てているように感じました

さらには、削り方でグラデーションや立体感を表現しています。

削る深さで色に変化を

「例えば、金魚をモチーフにした作品では、尾ひれの赤いガラス部分を削る深さを調整して濃淡を作ります。深く削ると赤い層が薄くなるので色も淡くなり、最後は透明になります。このグラデーションで尾ひれに透明感が生まれるんです」

薄い色グラス部分の削り加減を調整することで、色の濃淡を描いているのだそう。金魚の尾びれのグラデーションのなんて美しいことでしょう
赤から透明へとなめらかに色が変化する尾びれ。本当に金魚が水中を優雅に泳いでいるようです

色ガラスの厚さはわずか0.5〜0.7ミリメートル。「少し削るだけで色が取れてしまうので、できあがった時に色がなくならないように気をつけないといけないんです」と但野さん。

50種類の道具を使い分ける

但野さんの作品を見ていると、ガラスのツヤに違いがあり、質感に変化があるところも面白いのです。例えばこの竹林のぐい呑。

窓から眺める竹林をイメージしたぐい呑。全てをツヤ仕上げにしてしまうと味がないと、竹を半ツヤで仕上げたのだそう。朝靄のかかった景色が浮かんでいます
窓から眺める竹林をイメージしたぐい呑。竹の部分はマットな仕上がり、手前中央の窓部分はツヤのある仕上がりです。朝靄のかかった景色が浮かんでいるよう

「全てをツヤ仕上げにしてしまうと味がないと思って、竹を半ツヤにしました。

江戸切子は内側から見たときに立体感を感じるように作るのですが、マットな部分があると奥行きが出るんです。雲の表現などでもこのツヤ消しの仕上げをします。お酒を入れた時の揺らめきにも味わいが出るんじゃないかなと思います」

マットに仕上げた波の立体感と、ツヤ仕上げの幾何学的な伝統文様が合わさった奥行き感のある景色です
マットに仕上げた立体的な波と、ツヤ仕上げの幾何学的な伝統文様「菊つなぎ紋」が合わさったデザイン

「50種類くらいの道具を使って少しずつ削って図柄を完成させていきます。はじめは目の粗いもので摺って、徐々に目を細かくし、磨きをかけます。少しの差でも使う道具が違ってくるんです。削る道具だけでなく、最終仕上げではフェルトやバフなども使います」

初めは粗く削るので、仕上がりもマットです
初めは粗く削るので、仕上がりもマットです
徐々に目の細かいもので削っていくことで、ツヤが出てきます
徐々に目の細かいもので削っていくことで、ツヤが出てきます

従来の江戸切子の技法と、但野さんならではの技術で作られた美術品のような江戸切子。

その作品は、江戸切子新作展、大阪工芸展、全国工芸品コンクールなど様々な作品展での受賞歴多数。受注制で作られる商品は数ヶ月待ちという人気です。

眺めているだけでも十分に楽しめますが、江戸切子は食器として使えるところがまた嬉しい。

暑い日に涼を取り入れる器として、秋の夜長にお酒を美味しくするグラスとして、特別な時間をもたらしてくれそうです。

<取材協力>
但野硝子加工所
東京都江東区大島7-30-16
03-5609-8486
http://tadano-kiriko.com/

文・写真:小俣荘子

こちらは、2018年9月3日の記事を再編集して掲載しました。見ているだけでうっとりするような江戸切子、大切な人への贈りものにもおすすめです。

仏師という仕事の魅力とは。仏像好きのプロボクサーが出会った天職

「ボクシングを始めたのはマイク・タイソンの試合を見て憧れて。若気の至りですよね」

高校2年の終わりに始めて、フェザー級のプロボクサーとしてA級ライセンスを取得。ボクシングの聖地、後楽園ホールでも闘った。

ちょうど10年の節目を迎える前に、迷いが出始める。

「ボクシングってやっぱり若い頃しか出来ないスポーツだと思うんです。そこで花開くか開かないか、だんだん歳を重ねると分かってきますよね。どんなスポーツでもそうですけど」

プロボクサーは17〜36歳までという年齢制限がある。当時25・6歳。20代も半ばを過ぎ、ボクサーとしても折り返し地点。これからを考えるようになっていた。

やめようか。

そんな思いを抱きはじめていたある日、何気なく手に取った新聞の折込チラシが目に留まった。

「そういえば、小学生の頃から好きだったな、と。はじめは全くの趣味で通い出したんです」

仏像彫刻のクラスを開講するという、カルチャーセンターの案内だった。

プロボクサーの転向先は

河田喜代治 (かわた・きよはる) さん。職業は仏師。

ボクサーから仏師へ 河田さん

仏師とは造仏師の略で、仏像を作る仕事。修復も行う。

大きな専門機関もあるが、河田さんのように個人でお寺から依頼を受けて仏像の新作や修復を手がける仏師もある。

工房には修理中の仏像が並ぶ
工房には修理中の仏像が並ぶ
仏師は仏像の素材に応じて専門が分かれる。河田さんは木彫専門。新作を作るときは、こうした像の持つ道具ひとつずつ、木から彫り起こしていく
仏師は仏像の素材に応じて専門が分かれる。河田さんは木彫専門。新作を作るときは、こうした像の持つ道具ひとつずつ、木から彫り起こしていく

現在工房を構える滋賀では「知る限りでは10人、京都なら100人近くいるのでは」とのこと。

「古い仏像の数は、やはり関西が多いですから」

地元の千葉で3年修行したのち、県内の修理所に学ぶため奥さんとともに滋賀に移住。7年の弟子入り期間を経て2012年に独立した。

修行期間を数えれば、ボクシングに夢中になっていた歳月と同じ、およそ10年の月日になる。

きっかけは楽しく通い出したカルチャーセンターの仏像彫刻クラスで、先生からもらった一言だった。

「曲線をみるのが上手いね」

思わぬ才能と蘇る記憶

「仏像って、基本は『丸』で出来ているんです。赤ちゃんの体型を神格化させたような姿というか」

オリジナルで手がけた「誕生仏」。どこをとっても仏像は丸みを帯びている
オリジナルで手がけた「誕生仏」。どこをとっても仏像は丸みを帯びている

「例えば顔のつくりでも、平面のようでうっすら曲線があったり、同じ曲線でも、わずかな角度の違いがあったりするんですね。

特に修復の時は、元々の仏像が持つ曲線にそって直すことが大事になります。それで表情や雰囲気が全く変わってくるので」

そんな重要な曲線を、つかまえるのが上手いと河田さんを褒めた先生は、まさに仏像修復を専門にしているプロの仏師だった。

クラスに1年通ったのち、腕を見込んだ河田さんに先生が「ちょっと手伝わないか」と声をかけた。

なかなかカルチャーセンターから本業にする方も珍しいのでは、と聞くと「運が良かったんですね」と一言。

「あと、タイミングかな」

思い返せば小学生のころから不思議と仏像が好きだった。

修学旅行でお寺に行くと、熱心に仏像を眺めた。時々粘土で手作りして遊んだ。

「例えば室生寺の釈迦如来は、顔と手がとてもきれいなんですよ。お顔で言ったら室生寺のこのお像が、一番好きです。

鼻先から指先、シルエットまで曲線から全てから、すっとこちらの姿勢を正してくれるような佇まいで」

今の河田さんに好きな仏像のことを聞けば、惜しみない賛辞の言葉が溢れでてくる。

高校でボクシングと出会い、夢中になった10年。迷いの中あのチラシと出会うまで、すっかり忘れていた感情だった。

「声がかかった時には迷いなく、是非と答えていました」

ボクシンググローブを外した手に今は、100以上の道具を握る。

仏師 河田さん
ボクサーから仏師へ 河田さん

「これでも少ない方ですよ、200、300持っている人もいますから」

修復にあたる仏像は、一体一体コンディションが異なる。

作られた年代や置かれていた環境、前回の修復の仕方や材料。

その状態に応じて、適切な道具を使い分けなければならない。

壁にずらりと並ぶ道具類
壁にずらりと並ぶ道具類
漆と木屑を混ぜ合わせたもの。乾漆という、表面を布張りで作るお像に用いる
漆と木屑を混ぜ合わせたもの。乾漆という、表面を布張りで作るお像に用いる

「修復の場合は、オリジナルの肌は絶対削らないことが何より大事です。

結局僕たちも、昔のいいものを見て技術を学んでいます。

削ってしまうと、なくなった部分っていうのは二度とわからないわけです。

後世の人たちの研究材料としても、大きな損害を与えてしまうことになる。だから手を入れるのは以前の修復の層だけです。

何より祈りの対象だから、それを削ってしまうというのはとても怖いことですよね」

わずかな力加減が致命傷となる。だからこそ自分の手先となる道具のひとつひとつに神経を使う。

「これだと錆びてる釘もうまく抜けるんです」と東寺の骨董市で見つけ出したという道具を披露する河田さんは、とても嬉しそうだ。

仏師河田さんの道具

ボクサーがカルチャーセンターで出会った、一生の仕事。

仏師としての仕事は、修復所の先生や、仕事でお世話になる道具屋さんなどの紹介で少しずつ実績を積み、今に至る。

まず小さな修復から。納めた先に腕を信用してもらえたら、同じところから次は新作の依頼が来る、というように。

初仕事の思い出をたずねると、控えめな答えが返ってきた。

「僕のものではないですし、やった!とかそういう達成感ではないですね。信仰の対象ですから。

安堵感しかないです。ようやくできたって」

作っている時も、ほとんど何も考えず、無心で取り組んでいるという。

次第に、勝ちをコツコツ積み上げる、ストイックで寡黙なボクサーにインタビューしているような気持ちになってきた。

仏師という仕事の「これがあるから続けていられる」ものは何ですか、と聞いてみると、

「いまの話そのものじゃないかな。自分じゃないものに、無心で向き合えるところです」

最後に見せてもらった現役当時の写真には、今と変わらず目の前の相手に一心に向き合う河田さんが写っていた。

ボクサーから仏師へ 河田さん

<取材協力>
河田喜代治さん

文・写真:尾島可奈子

ハリオのアクセサリーは使い手にも職人にも優しい。ランプワークファクトリーで知る誕生秘話

職人の技術継承のために生まれた、ガラスのアクセサリーがあります。

それがこちら。

HARIO Lampwork Factory

熱に強い「耐熱ガラス」でできています。

手がけたのは、1921年創業のガラスメーカー、HARIO。

日本の耐熱ガラスメーカーとして唯一、国内に工場を持ち、国内生産を続けています。

主な製品はビーカーやフラスコなどの理化学器具にはじまり、今ではティーポットやコーヒードリッパーなどのお茶やコーヒー関連まで。

「熱に強い」という特徴を活かした実用的なものが多い印象です。

どうしてわざわざ、アクセサリーを作り始めたのでしょうか。

そこには老舗メーカーのある思いと、使い手にとっても嬉しい、耐熱ガラスの秘めたポテンシャルが関係しているようです。

HARIO Lampwork Factory

耐熱ガラスとアクセサリーという組み合わせの謎を探りに、東京・日本橋にあるHARIO Lampwork Factory (ランプワークファクトリー) 小伝馬町店を訪ねてみました。

ガラスのアクセサリーが生まれる場所、HARIO Lampwork Factory

東京メトロ小伝馬町駅から歩くこと3分。レンガ造りの可愛らしいお店が見えてきました。

HARIO Lampwork Factory小伝馬町店

店内に入ると、素敵なガラスのアクセサリーがずらりと並んでいます。

HARIO Lampwork Factory小伝馬町店

その繊細なデザインは、ずっと眺めていられそうです。

HARIO Lampwork Factory
HARIO Lampwork Factory
HARIO Lampwork Factory
HARIO
商品棚の片隅にはHARIOらしいビーカーやフラスコの姿も

ガラス張りとなったお店の一角では、職人さんが黙々とガスバーナーで加工していました。

職人さんがアクセサリーを手づくりしている様子を見ながら買い物ができるので、ちょっとした工場見学気分も味わえます。

HARIO Lampwork Factory
HARIO Lampwork Factory小伝馬町店
お店の外から見ると、職人さんの手元がよく見えます

「何秒くらい炎に当てるのかなどは職人の感覚でしかわからない部分でもあるんですよ」

そう教えてくれたのは、HARIO Lampwork Factoryの所長、根本新 (しん) さんです。

HARIO Lampwork Factoryの根本新さん
HARIO Lampwork Factoryの根本新さん

「これも細やかな表現を得意とする、日本の職人だからこそできる技だと思います」

特別に作業場を近くで見させてもらうと、職人さんはガスと酸素の量を調整しながら、バーナーの炎を操り、棒状のガラスを手際よくさまざまな形に変えていきます。その様子は、さながら飴細工のようです。

HARIO Lampwork Factory
HARIO Lampwork Factory小伝馬町店
店舗2階にも作業スペースがあり、工房は365日稼働しているのだそう

「バカラやスワロフスキーなどでもガラスのアクセサリーを作っていますが、それらはガラスを研磨、カットして作っています。ここでは『フォーミング』という、粘土のように形を作っていくやり方です」

世界のガラスアクセサリーに目を向けてもHARIO Lampwork Factoryのアクセサリーは他に類を見ないものだといいます。

「ここはHARIOの原点でもある耐熱ガラスの手加工技術をつないでいくために作られた場所なんです」

原点となるバーナーワークの技術を残すために

日本の耐熱ガラスメーカーとして唯一、国内に工場を持ち、国内生産を続けているHARIO。今でこそ、急須やティーポット、コーヒードリッパーなど主力製品のほとんどは、茨城県にある工場で機械製造されていますが、かつては全て手加工で作っていたのだそう。

多い時には100人ほどいた手加工の職人たちも機械化や高年齢化に伴い、急激に減少していったといいます。今では手加工時代を知るベテランの職人はたった一人だけなんだとか。

企業として、品質や納期の安定化、コストダウンなどを目的に機械化・無人化を推し進めてきた一方で、HARIO創業時を知る幹部は手加工のバーナーワークへの思いを強く抱いていたといいます。

「現会長である柴田は、創業者である父親がバーナーワークで理化学器具を手づくりしていたのを小さい頃から見ていたそうです。さまざまな形が作れるバーナーワークに耐熱ガラスの可能性を感じていたんじゃないかと思います」

そんなトップの強い思いから、手加工を専門とするHARIO Lampwork Factoryは2013年10月に立ち上げられました。

「実は新しいものを作るためにも手加工の技術は必要なんです。既存の機械だけでは作れないものが、職人がいることによって試作ができる。その試作をもとに職人の手作業を機械化して新商品を開発することもできます」

手加工ができることによって、フットワーク軽く商品開発に臨める。ちょっと意外な事実でした。

繊細な手仕事を活かして

Factory立ち上げ当初は、アクセサリーだけでなく、食器やオブジェなども作っていたといいます。

HARIO Lampwork Factory
持ち手部分が個性的なカップ&ソーサー。こちらは現在も販売中

「ですが、売り上げはなかなか伸びませんでした。作ったものがきちんと売れないと職人に仕事を回していけず、技術を守ることができません。そこが苦しいところでもありました」

食器類など単純な形で大きなものに関しては、システマチックな分業制でスピーディーに作って安価で提供できる海外の手加工や、機械を取り入れているHARIO自身の工場がライバルに。

そんな中、アクセサリーづくりへと舵を切ったのは、日本の職人が得意とする繊細な手仕事に価値を見出したからだそう。

「たとえば、『丸いガラスを作ってください』と言って、きれいな丸に仕上げてくるのは日本の職人が多いんですよね。その繊細な手仕事を活かせないかと考えました」

HARIO Lampwork Factory
丸い形はシンプルで簡単なように見えて、実は作るのが難しいのだそう

耐熱ガラスだからこそ叶うこと

耐熱ガラスは膨張しにくいことから、熱に強いだけでなく、伸ばしたり切ったりしても割れにくく、細かい細工がしやすいとのこと。そんな加工性の高さも、アクセサリーに向いていたといいます。

HARIO Lampwork Factory小伝馬町店
原材料となる耐熱ガラス。もとはこんな棒状のものを加工していきます

「いろんな形に加工ができるので、デザイナーは楽しんでデザインしています。花や雫など、通勤中や日常の風景で見たものをモチーフにしているそうです」

毎シーズン、新しいアイテムを作っていき、今では300種類以上のラインナップに。ピアスやイヤリング、ネックレスは金具の種類も豊富に用意されているので、自分に合ったアイテムを見つけられます。

HARIO Lampwork Factory
HARIO Lampwork Factory
こちらは金沢の金箔とのコラボシリーズ「Haku」

また、耐熱ガラスは他のガラスよりも比重が軽いことから、身につけてもストレスに感じることが少ないのだそう。

さらに嬉しいのが、手加工なので人の手で修理ができるというところ。ガラスなので不意に落として割れてしまうことがあっても、修理をすれば末永く身につけられます。

アクセサリー自体が持続可能であり、それを買うことで技術も継承されていく。

そんなHARIO Lampwork Factoryのものづくりの姿勢に、共感するお客さんが増えてきているようです。

「少しずつではありますが、ファンになってくれるお客様もいて、喜んでもらえている感触はありますね。

HARIOはメーカーで基本的には卸売り。自分たちで初めて生産から販売までを手がけたことで、作り手の苦労や思いをしっかりとお客様にも伝えたいという気持ちが以前にも増して強くなったと思います」

HARIOのアクセサリーは、使い手にも作り手にも、新しい買い方、残し方を指し示してくれているようです。

<関連商品>
HARIOのアクセサリー

<取材協力>
HARIO Lampwork Factory 小伝馬町店
東京都中央区日本橋大伝馬町2-10
TEL:03-5623-2143
https://www.hario-lwf.com/

文:岩本恵美
写真:HARIO Lampwork Factory、岩本恵美

「珪藻土バスマット」誕生秘話 「素人には作れん」と言われた左官技術を継承する女性たち

soil「珪藻土バスマット」はどのように生まれたのか?

水をすっと吸収し、いつまでもサラッとした感触で使える心地よさで人気の「珪藻土バスマット」。

珪藻土バスマット

元々はこんな素材から作られています。

珪藻土

珪藻土 (けいそうど) とは「珪藻」という植物プランクトンの殻の化石からなる堆積物(堆積岩)で、調湿性が高いのが特徴。

湿気を吸収、放出するため、部屋の壁材などに使われています。

この珪藻土を活かした調湿剤やバスマットを製造販売しているのは、金沢で左官業を営む株式会社イスルギの子会社、soil株式会社。

soilのDRYING BLOCK
バスマットと同じく人気アイテムの「DRYING BLOCK」。まるでお菓子のような姿の調湿剤です
soilのDRYING BLOCK
このように割って使います
soilのDRYING BLOCK
お塩などの調味料容器に入れると、調味料が固まらずに使えるという優れものです

「DRYING BLOCK」のほか、珪藻土を使った様々な日用品を作っているsoil。

soilではDRYING BLOCKのほか、珪藻土を使った様々な商品を作っています

左官といえば、建物の壁や床の塗りを担う仕事。彼らが日用品を作っているのも驚きですが、さらに商品の作り手は全員が女性だといいます。

いったいどのような経緯から、珪藻土バスマットは生まれてきたのでしょうか。

製作現場を訪ねました。

江戸時代から続く、全国屈指の左官屋さん

金沢城の西側を流れる犀川の近くに本社を置くイスルギは、1917年(大正6年)創業。

主に大きなビルを手がける、全国屈指の左官屋さんです。

東京オリンピックや大阪万博などの国家的プロジェクトに参加し、国から「優秀技能賞」の表彰を受ける職人を数多く輩出しています。

珪藻土商品専門の「soil」を創立したのは2009年。大手の左官屋さんが、なぜ珪藻土商品を開発することになったのでしょうか。

イスルギの3代目で、soil代表の石動博一さんにお話を聞きました。

金沢城の西側を流れる犀川の近くに本社を置くイスルギ

「もとは江戸時代から続く富山の左官屋です。祖父の石動半七が次男だったので家を出て、金沢で創業したのが始まりです」

半七さんは先見の明がある方でした。明治以降、鉄筋コンクリート建造物が多くなると、住宅の左官からビルの左官に転換。

「でも、ビルの仕事をするには職人の数が足りない。これまでの徒弟制では人の養成に限りがあると、日本で初めて左官の職業訓練校(現在のイスルギ付属技能専門校)を設立しました」

他の左官屋さんは職人さんを外注するところ、イスルギは訓練校の卒業生をそのまま職人として雇うため、高度経済成長期は人を集める苦労がなかったそうです。

ところが、バブル崩壊後は職人を抱えていることがネックに。

また、経済成長を優先させるため、安値で手軽な新建材が現れ、昔からの左官技術が衰退していくことにも危機感を持ったと言います。

「景気の波によって左右されない、左官の技術と職人を生かす方法はないかと模索して、左官の仕上げ方法を作品として見せる“左官アート額”をまず作りました」

左官アート額「Yuyake」
左官アート額「Yuyake」

珪藻土バスマットが大ヒット

左官技術の素晴らしさと、「土壁」や「漆喰」の風合いや良さを改めて認識してもらおうという取り組みが石川県デザインセンターの目に止まり、同センターが企画する新規プロジェクトに参加することに。

「県内のデザイナーとものづくり企業をマッチングして新商品を開発するというもの。僕はものづくりをやりたかったので、喜んで参加しました」

数人のデザイナーが商品を提案する中、ひとりのデザイナーが珪藻土に注目。

「他社製品の珪藻土コースターが『水を吸う』というので、どんなふうに吸うのかと。試作したところ好評価となって、そこから1年間かけてブラッシュアップしていきました」

珪藻土のコースターとソープディッシュの開発をきっかけに、珪藻土商品専門の「soil」事業部を設立。

業界に先駆けて珪藻土バスマットを開発し、大ヒット。「soil」の名が知られるようになりました。

珪藻土バスマット。水をすっと吸収するため、いつまでもサラッとした感触で気持ちよく使える
珪藻土バスマット。水をすっと吸収するため、いつまでもサラッとした感触で気持ちよく使える

職人は「素人には作れん」と言った。高度な左官技術を女性たちに伝えるには?

soilでは、珪藻土の特性や左官の技術を生かすため、商品のほとんどを手作りしていますが、作っているのは左官職人ではありません。

現場で見かけるのはほとんどが女性スタッフ。

従来の左官のイメージを覆すものづくり現場は、どのように生まれたのでしょうか?

「当初は職人の空いた時間に作るつもりでしたが、その頃から本業が忙しくなって、退職した職人3、4人でやっていました」

次第に職人さんだけでは数をこなせなくなり、人手を増やすためにパートスタッフの募集をすることに。家事や育児の間に短時間で働きたい人など、女性の応募者が多く集まりました。

ところが、職人さんに相談したところ「素人には作れん」と言われたそう。

「泥状の珪藻土を型に流し、左官のコテでならしていくんですが、素人にはそのコテ使いが難しいと」

泥状の珪藻土を型に流し、左官のコテでならしていく

「たしかに壁に塗るのは難しいんです。でも、型に入れて作るのは訓練すればできるはずだと思って、思い切って募集しました。やってみたら、だんだんできるようになって。それ以降は彼女たちに任せるようになりました。今では現場で働くほとんどのスタッフが女性です」

彼女たちが働く現場を見に行きました。

チョコレートみたいで美味しそう

伺うと、ちょうど女性たちが左官のコテを使って作業していました。

soil

左官屋さんというよりも、お菓子を作っているようにも見えて、なんだか楽しそうです。

soil

仕事は、最初から最後まで一人で全部作る完結型。

出来高制なので、タイムカードもなく、家族や自分の時間に合わせて仕事ができるのもメリットです。

この日もお昼時でしたが、作業途中の人、お昼休憩をしている人、出勤してくる人など様々でした。

珪藻土の粉

材料となるのは、珪藻土を焼成した粉。色は4種類(ピンクと白は珪藻土の自然の色)あります。

珪藻土を採取する場所によって色が違うそうで、どれも自然な色合いそのまま。ピンク色のこちらは石川県産のものです。

この珪藻土の粉に、水を加えて練っていきます。

珪藻土の粉に水を加えて練っていきます

季節によって粘り気が変わるため、慣れるまでは水分量の調節が難しいそうです。

珪藻土の粉に水を加えて練っていきます

こちらは、グラスなどの水切りをする「DRYING BOARD」の型。

コースーターの型

練った珪藻土を型に流し込んでいます。

珪藻土を型に流し込む

あぁ、なんだかチョコレートみたいで美味しそう。

固まったところで型から外し、乾燥させます

固まったところで型から外し、乾燥させます。

乾燥には2週間ほどかかるそうです。

最後に使った型を洗って乾かすところまでが一連の作業になっています。

自分専用の型を使うので、手入れも肝心
自分専用の型を使うので、手入れも肝心

完成すると検品。気泡があるものや欠けているものは弾かれます。

検品

熟練するほど仕事も早く検品も少なくなるので、数をこなすことができお給料にも反映されます。

「最盛期は稼ぐ人で月30万くらい。内職的な仕事としては、ちょっと考えられないですよね」

なぜ珪藻土は水や湿気を吸うのか?左官だからこそ気づけた強み

珪藻土は目に見えない微細な穴がたくさんあり、その穴で水や湿気を吸い取ります。

その特性を損なわないよう焼き固め加工をしないので、機械ではどうしても作れないと言います。

「季節によって水分量も変わってくるし、乾き方も違う。水で練るときも、機械だと気泡ができて空気抜きができません」

そもそも、珪藻土が建築材として使われるようになったのは、シックハウス症候群が注目されたことがきっかけだそうです。

「それまで日本家屋に使われていた土壁(漆喰など)では起こらなかった。つまり、壁が呼吸をしないのがいけないのだということで、調湿ができる珪藻土が使われるようになりました。

左官屋で珪藻土が使われていなければ、soilはできていなかったかもしれませんね」

製作には左官の技術も生かされています。

現在はシリコン型を使っているが、江戸時代は寒天やコンニャクを使った「かたおこし」左官の技法がある

DRYING BLOCKの型。現在はシリコン製ですが、江戸時代の寒天やコンニャクを使った「型起こし」技法が応用されています。

左官の「洗い出し仕上げ」の技法を使った、ソープディッシュ

左官の「洗い出し仕上げ」技法を使った、ソープディッシュ。小石を入れることで石鹸がくっつくのを防ぎます。

soilの立ち上げから10年。

左官の技術と女性の手仕事により、使い心地のよい珪藻土商品は生み出されていました。

次はどんなアイデア商品が生み出されるのか、楽しみです。

<取材協力>
soil株式会社

文・写真: 坂田未希子

こちらは、2018年5月31日の記事を再編集して掲載しました。ジメッとした季節にも重宝する珪藻土、オススメです。

いま、若手陶芸家が京都を目指す理由

説明が難しい「清水焼」という焼き物

京都を代表する伝統工芸品のひとつとして知られる「清水焼(京焼)」。

名前は聞いたことがあっても、どんな焼き物か?と言われるとパッと思い浮かばない人も多いかもしれません。実は、清水焼には決まった技法やデザインがなく、原料の土や石も他産地のものを取りよせて使用しています。

そのため、清水焼と言えば、という共通のイメージが持ちにくい一方で、その多様性こそが特徴とも言える焼き物です。

現場の作り手たちは、どんな思いで清水焼を作り続けていているのか、この先にはどんな展望があるのか、取材しました。

※関連記事:清水焼が清水以外でも焼かれているわけ

五条坂を活動の拠点に選んだ陶芸家・中村譲司さん

「清水坂・五条坂は京焼の“メッカ”」という中村譲司さん。これからも五条坂近くで作陶を続けるために工房を新しくした

中村さんはまだ38歳と、陶芸の世界では若手に入ります。オブジェや器など様々なものを作り、各地での個展を成功させていています。

窯元の家に生まれたわけではなく、大阪出身で実家はおそば屋さんです。大学を出てまずは宇治・炭山で3年、そして山科の清水焼団地で2年働いたのち、五条坂近くに自分の工房を構えました。

「美術系の高校を出て、京都精華大学芸術学部の陶芸学科に入りました。炭山に行ったのも清水焼団地に行ったのも特に理由はありません。まずは、働ける場所があったからです」と話す中村さん。

「ほんの少し前まで、自分では『京焼・清水焼をやっている』という意識はなかったんですよ。オブジェなどのアートにしても器などの実用品にしても、とにかくその時々ごとに作りたいものを作っていました」とのこと。

「やはり京焼・清水焼の“メッカ”を拠点にしよう」と五条坂へ

生地に削りをかける中村譲司さん
生地に削りをかける中村譲司さん

そんな中村さんですが、工房にする物件を探すにあたり、多くの窯元が集まる清水焼団地でも泉涌寺でもなく、清水坂・五条坂にこだわりました。

その名の通り、清水焼は清水寺周辺ではじまっています。清水寺の門前として江戸時代中頃から大きくにぎわい、参拝客などへのみやげ物として焼き物が生産・販売されていた清水坂・五条坂エリアは、まさに清水焼のメッカとも呼べる場所です。

「祖父母の代を考えるとみんな京都出身なので、京都とは縁があったとは思っています。ただ、家系としては陶芸とはまったく関係ありません。何もない自分としては、『せめて陶芸の“メッカ”に行かないといけない』と思っていました」

かつて師匠が工房に使っていた五条坂近くの賃貸物件がたまたま空き家になったタイミングでそこに入り、最近になって、すぐ隣の土地を手に入れて工房を建てました。

ここに来たことはやはり正解だったと中村さんは話します。

「ほかの地域に行っていたら、ここまで色々な作家さんとは知り合えなかったし、お客さんとの出会いやつながりも少なかったでしょう」

京都の精神が焼き物にあらわれる。それが清水焼

「京都の文化や精神を吸収し、身体に染み付いてきたことで生まれる作品が京焼・清水焼だと思っています。そこには、日ごろ触れる京都の風景・空気・人などが影響しているはずです」

18歳から京都に出て、約20年。地元の大阪よりも長い時間を京都で過ごしました。

「2年前くらいから、自分のことを『京都人です』と言っていいかなと思えるようになってきました。

うまく言葉で説明できないのですが、京都に暮らしていると『この人はいかにも京都の作家だな』と思う人たちに出会います。彼らがつくるものには、どこか必ず共通するものを感じるわけです。

特徴が無いと言われがちな清水焼ですが、京都人がつくったのかそうでないのか、明確な違いがあると感じるようになりました」

自身がつくるものにも、そんな「京都の精神」が出てきたような気がするという中村さん。

いまでも『京焼・清水焼』をつくっているという意識はないそうですが、最近になってようやく、自分の作品が『京焼・清水焼』と呼ばれることには、違和感がなくなったそうです。

「五条坂近くに工房を置かなければ、そうはならなかったんじゃないかな」、と話してくれました。

中村譲司さんが、「この5年ほど、特に興味を持っている」という中国茶器。こちらはご自身の作品
清水坂
二年坂(画像提供:PIXTA)

京都陶磁器会館 林大地さんの考える京焼・清水焼の将来と問題点

京都陶磁器会館を運営しているのは、京都の陶磁器産業の振興のために設立された京都陶磁器協会です。

会館のスタッフとして業界全体に目を向けながら、自身も陶芸家として活動する林大地さんに、京焼・清水焼の現状や今後の課題を聞きました。

京都陶磁器会館の勤務の傍ら、陶芸家としての作家活動も続けている林大地さん

手仕事へのこだわりを捨てず、生き残る道を探る

「これまでの伝統は大事に、壊さないようにしつつ、しかし新しいものも作っていかないといけないところに、課題があります」

あまり知られていない京焼の特徴として、轆轤(ろくろ)も絵付けも全部手での作業ということが挙げられます。

「ほかの焼き物ならば生地は機械で作っていたり、図柄はプリントだったりも許されますが、京都ではそれは認められません。

このアイデンティティーを守りながら、価格などでも競争していかなければいけいない難しさがあります」

京都陶磁器会館の1階部分は販売のためだけではなく、そのまま京焼全般の展示スペースにもなっている。

後継者については、少しずつ明るい話も出てきているようです。

「今、京都には陶芸が学べる大学・専門学校が全部で8つあり、新人を供給する環境としては十分です。

これまでは、これらの卒業生を受け入れるべき窯元が、新しい人を採れない状態がずっと続いてきました。

しかし、業界の景気も底を打って、少しずつ上向きになってきています。『まずはアルバイトぐらいからでも、人の採用を再開してみようか』という窯元も増えており、この流れを持続させたいところです」

最近ではインバウンドの需要が急拡大しており、その影響もあるとのこと。

「海外旅行客の影響は明らかにあります。業界の景気が上向いているのも、そのおかげです。

ただ、この先も彼らが京都を訪れてくれるのか、京焼・清水焼といった伝統工芸品を買ってくれるのかは、少し用心しないといけないかもしれません」

インバウンドの好影響がある反面、国内の若者からの認知度が下がっていることに、林さんは危機感を抱いています。

「『清水焼』も、50代以上の人ならば『きよみずやき』と読んでくれますが、10代20代では『しみずやき』と呼ぶ方も珍しくありません。

若い人たちにいかに興味を持ってもらい、価値を知ってもらうのか、作り手の方達と協力しあってチャレンジしているところです」

400年の歴史を持つ京焼・清水焼は、手仕事にこだわり続け、高い技術と京都の精神性、そして多様性を持って発展してきました。時代の担い手たちは今、その魅力をいかに伝え広げていくのか、という課題に取り組んでいます。

<取材協力>
京都陶磁器会館
http://kyototoujikikaikan.or.jp/
中村譲司さん
http://george-nakamura.com/

文・写真:柳本学

わたしの一皿 夏に活躍ツートーンのうつわ

季節ってのは本当に短いものだ。同じ場所にいれば毎年同じ季節を味わえるのだが、こちらは旅人。うっかりしてるとすぐに季節がどこかへいってしまう。みんげい おくむらの奥村です。

GWが終わったころからいつも思い出すのが今日の食材、サワガニ。今はもう閉店してしまったのだけど昔よく行ってた地元の居酒屋で、その時期になるとカウンターに虫かごが置かれ、サワガニが登場していた。

生きたカニをなんと残酷な、と言うなかれ。サワガニは新鮮さが大事なのでこれが普通です。お客さんの目の前に置くかどうかは別としてね。

市場で仕入れた新鮮なサワガニ

今日もいつもの市場で買ってきました。この時期、市場でも何軒ものお店がサワガニを置いています。けっこう地元の居酒屋でメニューにされているんでしょうね。

鳥取県の牛の戸窯のうつわ

今日は鳥取県の牛の戸窯のうつわを用意しました。先月の島根県に続き、今回も山陰のうつわを。

このツートーン。民藝好きの方ならご存知の方も多いのではないでしょうか。先先代、4代目の頃にこのテイストが加わり、現在の6代目の牛の戸窯まで継承されています。

土も釉薬も手作りという昔からのやり方を踏襲し、登り窯焼成。力強いうつわが今も生み出されています。

このうつわ、青緑と黒の色合いがとってもよい。染め分けといって、二色がピシャっと半分に。

それだけを見ると果たして世界中のどこのうつわだろうか、と考えてしまう。このうつわ、世界のどこに出ていっても面白いうつわです。重さも良いのです。しっかりとした重みがあり、軽薄さはない。安心して使える感じがします。

ところが使うとなると案外難しい。何を盛ったら美しいのだろうか。

気にせず使えば、とも言われそうだけど、なんだかビシッとくるものの時以外あんまり使う気がしない不思議なうつわ。

しかしそれが嫌か、というとそんなことはない。何にでも合いますよ、とはお店でよく聞く言葉だが、そんな優等生ばかりが食器棚に並んでいては面白くもない。異端児も必要です。

サワガニを油で揚げている様子

今日もまた料理というほどの料理ではない。素揚げ。このくらいのサイズの揚げ物だと、揚げ油もそんなにいらないし、楽です。

ただし、サワガニの水分をよく拭き取って。油跳ねますからね。

生きたまま揚げるというのはものすごく残酷なことなんだけど、美味しくいただくためには仕方ない。日々、いのちをいただいています。ありがたや。

揚がったサワガニに塩をふる

カラリと揚がったら、塩を振る。こんなもんかな、というよりも少し多めの気分で。味付けはそれだけなので。

敷き紙を敷いて盛り付けをしても、まだこのうつわの個性は健在ですね。おもしろい。今日は結構ビシっと決まったんじゃないかと思います。

 

ところで、今日はうちの坊や(二歳)が面白かった。2月に奄美大島の海岸を散歩した時に出会ったカニは小さかったのに随分ビビってしまって触るどころではなかった。生きたカニにはそれ以来の遭遇。

ほれ、とザルを渡してみたものの、生きたものはやはり触れませんね。遠目で恐る恐る見ています。興味はあるのかな。

鳥取県の牛の戸窯のうつわに盛り付けたサワガニの素揚げ

素揚げになったものもきっとダメだろうなと思ったが、意外や意外、持ち上げて喜んでいます。

食べてみる?と言ったらそれはダメだったけど、大人が目の前でバリバリ食べているのは意外とふつうに見ていた。彼の目には今日の料理はどう映ったんだろうか。

今日のうつわ。難しいとは言ったけど、例えば夏は冷奴とかバッチリです。小エビの唐揚げとかイワシの煮付けとか。

あ、居酒屋の夏メニューばっかりだ。ビールが美味しい時期になってきましたね。それではまた来月。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文・写真:奥村 忍