東京でふらりと職人体験できる「Hacoa VILLAGE TOKYO」全フロアガイド

東京都心に、“職人”がテーマというユニークな施設がオープンしました。

その名も「Hacoa VILLAGE (ハコアビレッジ)TOKYO」。

hacoavillage

4階建ての建物の中には、木の雑貨が並ぶショップや本格的な工房、ものづくり体験ができるワークショップのフロア、そしてチョコレートショップも?

オープン直後の施設を訪ねて、各フロアを案内いただきました!

東京に突如現れた「職人のビレッジ」とは?

やって来たのは東京茅場町。

目の前を隅田川が流れ、すぐそばにオフィス街があるとは思えないほどゆったりした雰囲気の一角に「Hacoa VILLAGE」はあります。

hacoavillage
オープン直後とあって入口には祝い花が華やかに並んでいました
オープン直後とあって入口には祝い花が華やかに並んでいました

施設名にもなっている「Hacoa」とは、1500年もの歴史を持つ伝統工芸「越前漆器」をルーツに持つ、福井県鯖江市発の木製デザイン雑貨ブランド。

ドアを開けるとふんわりと木の香りに包まれました。1Fは木製プロダクトがずらりと並ぶショップになっています。

とはいえ、直営のお店だけならこれまでも東京に出店してきたHacoaさん。このお店はちょっと様子が違うようです。

まずは1Fを探訪!
まずは1Fを探訪!

まずは1F、木とチョコレートが融合したユニークな店内を散策

よく見ると店内は、商品に限らずあらゆるものが木製。

ハコアビレッジ
お手洗いのサインや
お手洗いのサインや
レジのトレイも木製です!
レジのトレイも木製です!

「作れるものは、できるだけ自分たちで手がけています」

と、フロアを案内してくれたのはHacoaクリエイティブ・ディレクターの木内宏美さん。さすが木のプロならではの内装です。

実はHacoaさんの製品はどれも、職人が自分でデザインから手がけているそう。そうすることで木の特性を活かした製品のアイデアが生まれるそうです。

ハコアビレッジ
ハコアビレッジ
ハコアビレッジ
先ほどのお手洗いマークも購入できます
先ほどのお手洗いマークも購入できます
こちらのメガネケース元々は‥‥
こちらのメガネケース元々は‥‥
このような細かな切込みを入れるアイデアで作られています
このような細かな切込みを入れるアイデアで作られています

人気は腕時計。カップルでお揃いを買ったり、男性用の贈りものに人気だそう。

ハコアビレッジ

もうひとつ、木の専門メーカーらしいサービスがありました。それが商品への名入れ。

サービスの案内板自体が、そのまま名入れ見本になっていました
サービスの案内板自体が、そのまま名入れ見本になっていました

混んでいなければ待ち時間20〜30分ほどで、名前や模様を気に入った商品に入れることができます。

様々なアイテムに名入れが可能。贈りものや記念品に良さそう
様々なアイテムに名入れが可能。贈りものや記念品に良さそう

そして木のプロダクトが並ぶ向かいには、ちょっと違う雰囲気のコーナーが。

ハコアビレッジ

「こちらは、チョコレートショップなんです。わたしたちが立ち上げたブランドなんですよ」

実はHacoaさん、「DRYADES(ドリュアデス)」というチョコレートブランドも立ち上げているんです。

ハコアビレッジ

「わたしたちが作っているプロダクトもチョコレートも、どちらも木の恵みなんですよね。

木の魅力をもっと世の中に発信していきたい想いが高じて、立ち上げました」

ハコアビレッジ
こちらのチョコレートの表面にはわずかな凹凸が。業界では異例だという木製の型をあえて使うことで、木の肌のゆらぎをチョコレートの表面に転写させているそう
こちらのチョコレートの表面にはわずかな凹凸が。業界では異例だという木製の型をあえて使うことで、木の肌のゆらぎをチョコレートの表面に転写させているそう
もちろん木型は、Hacoaさんのオリジナルです
もちろん木型は、Hacoaさんのオリジナルです
ドリンクもオーダーできます
ドリンクもオーダーできます

ちょっと手土産にチョコレートを買いに来た人が、ついでに木のアイテムを手に取ったり、名入れのサービスを待っている人が、合間にチョコレートを買い求めたり。

「ものづくりをもっと身近に」という想いが結びついて、1Fは木とチョコレートのお店というユニークな空間になっていました。そしてHacoaさんの想いは、ショップにとどまらず2Fへと続いています。

2Fはものづくりを肌で感じる絶景サロン

「2Fはワークショップやイベントを開くサロンスペースになっています」

ハコアビレッジ
2F

まず目を奪われたのが見晴らしのいいテラス。隅田川が目の前です。

ハコアビレッジ

「イベントがないときは解放して、1Fで買ったチョコレートやドリンクを持ち込めるイートインスペースにする予定です」

水辺のゆったりとした空気感に木の空間がよく似合います。これは1Fのお買い物と一緒にぜひ立ち寄りたいスポットです。

さらに、土曜を中心にここで行われるというワークショップも本格的。

ペーパーウェイトなど小物のほか、木のスツールまで作れてしまうそうです。

ちょうどワークショップ用の材料が置いてありました
ちょうどワークショップ用の材料が置いてありました
hacoavillage
完成形がこちら。自分で作ると一層愛着が湧きそうです

「スツールづくりでは材の角をやすったり塗装をしたり、最後の仕上げの工程が体験できます。

普段僕らが感じている、製品が出来上がる瞬間の感動をぜひ味わっていただきたくて」

そう語るのは、普段は本社のある鯖江の工房で働く職人さん。ワークショップでは、Hacoaの職人さん自らものづくりを手ほどきします。

3Fには彼らが試作などに使うラボがあり、その様子を見学することができます。

3Fに設置されていたサイン
3Fに設置されていたサイン
職人さんのこんな真剣な表情に出会えるかも
職人さんのこんな真剣な表情に出会えるかも

目指すのは、職人が活躍する未来

ハコアビレッジのテーマは職人。

「職人がもっと活躍する場と未来を」という願いから、木とチョコレートのお店が融合し、すぐ上の階でものづくりに触れられる、ユニークな施設が生まれました。

施設のいたるところには、世界観を伝えるサインが
施設のいたるところには、世界観を伝えるサインが

そんなHacoaさんが大事にしている職人の世界観は、各階をつなぐ階段でも感じることができます。

ハコアビレッジ
実際のものづくりの様子や鯖江の自然など、私たちのルーツや想いを表す写真
実際のものづくりの様子や鯖江の自然など、私たちのルーツや想いを表す写真
3Fから4Fのオフィス階に向かう階段スペースには、未来をイメージした写真を飾っているそう
3Fから4Fのオフィス階に向かう階段スペースには、未来をイメージした写真を飾っているそう
ハコアビレッジ

「今後はいわゆる伝統的な工芸品に限らず、左官や庭師など、各界の職人をお呼びしてのトークイベントやものづくりの塾も開いていく予定です。

東京に限らずこうした発信拠点をもっと増やしていきたいですね」

職人サロンと題したトークイベントなど、今後も参加・交流型の情報発信を充実させるそう
職人サロンと題したトークイベントなど、今後も参加・交流型の情報発信を充実させるそう

お店だけ、工房だけでもなく、作り手も使い手も一緒にものづくりを楽しむ「ビレッジ」。

平日に、休日に、来るたびに違う楽しみ方で職人の世界を味わえそうです。

<取材協力>
Hacoa VILLAGE TOKYO
東京都中央区新川1-20-6
https://hacoa.com/directstore/shopinfo/hacoavillage-tokyo/

文:尾島可奈子
写真:尾島可奈子、Hacoa

ロックの街「コザ」から。自家製ハム・ソーセージ専門店〈TESIO〉によるあたらしい食の提案。

工芸産地を地元の友人に案内してもらう旅、さんち旅。

もともと東京で、ものづくりのディレクションに関わっていた村上純司さん。沖縄に移住したとは聞いていたものの、〈LIQUID(リキッド)〉という少し変わった、「飲む」という行為に焦点を当てた専門店を始めたというお知らせが、編集部に届きました。

というわけで、今回は沖縄を訪ね、村上さんのおすすめを巡る「さんち旅」をお送りします。

沖縄に移住した村上純司さん

「僕も移住者で新参者なので、沖縄の新しい風みたいな、ニューウェーブのお店をおすすめします。ひとつ目は〈TESIO(テシオ)〉さん。沖縄市で、自家製のハムやソーセージを作っています。

ちょっと職人気質のソーセージ屋さんという感じで。オーナーが美術系もやっていたので、サインや内装などもちょうどいい感じなんですよね」

自家製ハム・ソーセージの専門店TESIO

自家製ハム・ソーセージの専門店TESIO

そう聞いて、村上さんのお店・LIQUIDから南に車を走らせること約30分。確かに村上さんの言っていた通り、海外にありそうないい感じのファサード。

教えてもらったハムとソーセージのお店・TESIOは、沖縄市の「コザ」という街の一角に見つけることができました。

1974年、コザ市と美里村が合併して沖縄市に。「コザ」は俗称ですが、現在でも地元の人たちは、市の中心地のことを愛着を持ってその名前で呼びます。

嶺井大地(みねいだいち)さん

もともと、宜野湾市のカフェレストランでお料理を作っていた嶺井大地(みねい だいち)さんは、夢であった創作料理が提供できる自分のお店を作るため、修行で沖縄を飛び出します。

そうした中訪れた京都で、一軒の“シャルキュトリー”(*)専門店に出会います。
(*シャルキュトリー:フランス語で食肉加工品全般を指す総称。ハムやソーセージを始め、パテやテリーヌ、リエットなどがある。フランスの伝統的な食文化のひとつ)

「お店のショーケースに、手作りのものが満載なんですよ。それがすごくキラキラして見えて、とても素敵で。これを学んでもし沖縄でやれたら、僕みたいにシャルキュトリーを見聞きしたことない人がおもしろがってくれるんじゃないかなと。しかも、豚は沖縄の特産だし」

嶺井さんは、肉の加工を学ばせてほしいという想いをオーナーに直談判し、無給で(!)その店で働き始めます。それから半年ほど経った頃、ひとつの転機が訪れます。

“知り合いのお店が、弟子が卒業したばかりで手薄になっているから”とオーナーに紹介され、京都から静岡へ。

自家製ハム・ソーセージの専門店TESIO

静岡で働くことになったのは、幸運にも業界では超有名店である〈グロースヴァルトSANO〉。そこで今のベースとなるドイツ製法の肉加工を一からしっかりと学ばれたそう。

そうした静岡での修行も3年目を迎え、沖縄での立ち上げを具体的に考え始めていた頃、グロースヴァルトSANOと親しくしている精肉店が、ドイツ製法のソーセージ店を立ち上げる話が持ち上がりました。そこに参画することが、卒業の条件とも重なったこともあり、今度は岡山に。

「レシピを落とし込んで、商品のラインナップを決めて、売価も決めてと、全部やらせてもらって。こうやってお店が立ち上がるんだと。売上も当初予定していたところに上がってきて調子よくやっていたら、会社の社長と大喧嘩になって、クビになりました(苦笑い)」

ロックの街「コザ」に〈TESIO〉をオープン。

足掛け6年。嶺井さんは波瀾万丈な県外での修行の後、2017年6月、念願のシャルキュトリー店〈TESIO〉をコザの街に開業します。

自家製ハム・ソーセージの専門店TESIO
自家製ハム・ソーセージの専門店、TESIO
大きなガラスのカウンターショーケースの中は、眺めているだけでワクワク
自家製ハム・ソーセージの専門店、TESIO
予算に合わせた詰め合わせにも対応してくれます
自家製ハム・ソーセージの専門店、TESIO
どこか懐かしくも洗練されたパッケージ
自家製ハム・ソーセージの専門店、TESIO

「スタッフは僕含めて6名いて。皆、それぞれ生業や本業がある中で、順繰り、順繰り回しています。体育の臨時教師がいたりとか、女優業を頑張っている子がいたりとか。この前までタイ料理屋で働いていた料理人がいたりとか、いろいろ。学生もいるし。皆で楽しくやっています」

自家製ハム・ソーセージの専門店、TESIO

顔の見える距離感で作られていく美味しさ。

店のすぐ裏の路地にある〈ゴヤ市場〉には、沖縄県産の肉の仕入れ先である〈普久原精肉店〉も軒を連ねます。不透明な部分が感じられることも少なくない肉の加工品にとって、今のスタイルはとても良いとのこと。

「普通に肉屋のおじさんが肉を抱えて、そこに見える勝手口から入ってくるんですよ。その肉を僕たちは、ここでさばいて、加工して、ここで販売する。その流れがすべてお客さんに見えます。

肉の加工品って、どこで誰が、どう作ってるのか分からないことが多いので、ここでお客さんに説明しながら提案できるのはいいなと。
おいしいものを作って届けようと思うと、通信販売でもいいのですが。日々、お店として営んでいくことの楽しさを、自分でちゃんと営んでいけたらなと思っています」

辿り着いたのは、日本文化とのマッシュアップ。

そんな街の一員としての役目を果たして行く中、LIQUID・村上さんと、あるプロジェクトが立ち上がります。

自家製ハム・ソーセージの専門店、TESIOの嶺井大地さん

「お肉の加工屋しかできないような、おでん屋をやろうと思いまして。僕らは肉の加工品を自家製で作っていますが、それをそのまま販売する以外に、どういう風に提供できるかということを随分考えました。そこにおでんがはまった。

ソーセージやベーコン、ロールキャベツなど、肉の加工品がいろいろ入ったおでんです。日本のおでんスタイルって『これくれ、これくれ』と言われたときに、『はい、はい!』と出せてテンポがいいし、しかも楽しい。

外国の方々が多いこの場所で、日本のこういう文化と、ドイツ製法のお肉の加工品というのがかけ合わさったときに、すごい良い提案ができるんじゃないかなと」

前々からあたためていた構想を村上さんに打ち明けたところ、村上さんも大のおでん好きであることが判明。逆に「魚で作るつみれとか、はんぺんとか、そういうものも肉で作ろう」という逆提案もあり、今年3月に第1回目のイベントを共同開催しました。

ユニット名は「TESIO×LIQUID」の「“適度”なおでん」ということで「TEQUID(テキド)」に。結果的にこの肉おでんの会は、2店の共同イベントとしてだけではなく、日本とドイツの食文化の有機的な魅力を再発見することに。

「ちゃんと、ドイツ製法の肉の加工技術を持って、沖縄の特産である豚肉を使いながら、ここからいろいろ自分たちの感性でもって、他が真似できないようなことをやれるというのは、随分やりがいがあるかなと。おもしろいなと」と次のイベントの企画や、イートインスペースの構想も生まれてきました。

自家製ハム・ソーセージの専門店、TESIOの嶺井大地さん

そんな話題に尽きない活動の反面、街ではようやく2年を迎えたばかりの新顔のTESIO。その上の階には〈JET(ジェット)〉という老舗のライブハウスがあります。実はそこを切り盛りしてきたのは、嶺井さんの叔父さん。

「叔父がずっと続けて、ここで踏ん張ってやってきたということで、地域からリスペクトされているような様子も、こうやって自分が商売を始めるようになってから目の当たりにするから。すごく誇らしかったですね」

「おもしろいものを作って、発信できるんだぜということをおもしろがって、一緒にやろうよと気軽に言ってくれるような仲間たちが周りに増えていけば、お店を構えてこんなに楽しいことはないなと思います」

嶺井さんが始めたTESIOという場所は、関わる人々を増やしながら、この街のあたらしい魅力を奏で始めていました。

 

〈取材協力〉
TESIO
沖縄県沖縄市 中央1-10-3
098-953-1131

 

文:馬場 拓見
写真:清水 隆司

清水焼が清水以外でも焼かれているわけ

清水焼はどこで焼かれているかご存じですか?

そう尋ねると、「京都」、もしくは「清水寺の近く」と答える人が多いのではないでしょうか。

実は清水寺からは山を越えた向こう側の山科区でも焼かれています。歴史好きの人には「『忠臣蔵』の大石内蔵助が隠棲(いんせい)したところ」といえばイメージがわくかもしれません。ほかには平等院のある宇治市でも焼かれています。

清水寺周辺で焼かれていた「清水焼」が、なぜほかの地域へと広まり、そのまま「清水焼」として焼かれ続けているのか。その歴史を紐解きながら、考えていきたいと思います。

「清水焼」はどこから始まったのか?

清水寺の門前から始まって、三年坂を右に折れずに細くなった道をまっすぐ下り、東大路までの約600メートルが「清水坂」です。また、清水坂の途中の三年坂が合流するあたりから始まり、左斜め前のバスも通る広い道を下りて、東大路までが「五条坂」です。

清水坂の1本南の道を「清水新道」といいます。通称は「茶わん坂」です。道自体は大正時代以降にできた比較的新しものですが、このあたりも清水坂・五条坂の一角と考えていいでしょう。

清水寺そのものは8世紀末からあるものの、その門前が遊興地としてにぎわいを見せるのは江戸時代の中ごろからでした。

焼き物も参拝客や遊行客相手にみやげ物として現地生産・現地販売されるようになりました。五条坂の入り口近くにある京焼・清水焼の展示・販売施設「京都陶磁器会館」の林大地さんによると、清水寺の「土」そのものが縁起物として喜ばれたという側面もあったようです。

京都陶磁器会館の林大地さん
京都陶磁器会館の林大地さん

これが後々まで続く清水焼の起こりで、明治から大正初期にはこのかいわいだけで約40基の登り窯があったと考えられています。

清水焼と京焼

過去にさかのぼってみると京都には、清水坂・五条坂かいわい以外にも大きな焼き物の生産地がいくつもありました。その代表をひとつ挙げるとすると、旧・東海道沿いで、山科から京都盆地へと入ってきたあたりの「粟田口(あわたぐち)」でしょう。ここで焼かれたものを「粟田焼」といいます。

しかし、昭和初期以降は清水坂・五条坂の生産量が突出したため、京都の焼き物はどれでも「清水焼」と呼ばれるようになりました。

一方で、「京都で作られた焼き物」と意識しての呼び方もありました。それが「京焼」です。

つまり、厳密にいえば清水焼は京焼の一種ですが、すべてまとめて『清水焼』と呼ぶこともある、といったところでしょうか。

京焼の始まりはいくつか説があり、「桃山時代の末、茶の湯が盛んになり、茶器が必要となって作られるようになった」ともされます。当初は中国からの「唐物(からもの)」や朝鮮半島からの「高麗茶わん」などの影響を強く受けました。

茶の湯自体が当初は武士の文化だったので、京焼の茶器も武士好みの物が作られました。やがて、町人層が新興勢力として伸びてくるに従って、その趣向に合う色彩豊かなものも登場するようになります。色絵磁器はその典型です。

京都で町人層が台頭するに従って、京焼・清水焼もその趣味に合わせるようにきらびやかなものも登場した

大正時代、新たな京焼・清水焼の里となった日吉・泉涌寺エリア

清水坂・五条坂周辺が手狭になり、大正時代に新しい清水焼の里として拡大したのが、南へ約1キロの日吉と、同じく約2キロの泉涌寺です。どちらも、清水坂・五条坂同様に東山の山々のすそに当たります。

これらの土地が選ばれたのは、清水坂・五条坂に近かっただけではなく、登り窯を作るのには傾斜地であることが必要だったからとされます。このエリアにも大正年代には25基ほどの登り窯がありました。

登り窯が使えなくなり移転した?清水焼団地(山科)・炭山(宇治)エリア

実は今、山科区にも清水焼の窯元が集中していて、ここは「清水焼団地」とよばれます。その名前からも想像できるように一種の工業団地として造成されました。また、京都市内からは離れ、宇治市の炭山地区にも多くの窯元があります。

これらの窯元の多くは、1960年代から1970年代にかけて、清水坂・五条坂、日吉・泉涌寺から移転しました。

その理由としては、「大気汚染防止法(1968年)と京都府公害防止条例(1971年)が決定的だった。登り窯から出る煤煙(ばいえん)が公害視された。既に周辺にまで住宅が建て込んでいたため、登り窯を使い続けることができなくなり、郊外に新天地を求めた」と説明されることが珍しくありません。

しかし、一方で、「その時期までには、多くの窯元が登り窯から電気窯・ガス窯に移行していた。煤煙が問題になることはない」との指摘もあります。

実際、移転先のうち、炭山地区では今でも数基の登り窯があるものの、清水焼団地では登り窯は1基も作られることはありませんでした。

それを知ると、やはり「煤煙」の問題だけではなく、窯の新設や作業スペースの拡大など、消費の増大に合わせて生産性を上げたかった、という事情もあったようです。

清水坂・五条坂で最後に登り窯に火が入れられたのは、1980(昭和55)年でした。この時に窯が火元と見られる火災が起き、付近の住民から廃止を求める署名が提出されたことは、廃止の大きなきっかけとなりました。

今、多くの陶芸家が愛用している業務用の電気窯。50〜100万円もあれば購入できる

唯一現役で稼働する「京式登り窯」は宇治に

かつて清水焼で用いられた登り窯には、「京式登り窯」、あるいは「京窯」との名前が付いていました。「傾斜は他地域のものに比べて3分の1程度のゆるさ」「2、3日がかりで焼成するところが多いが、京式の場合は丸1日程度と短い」「焼成室と呼ばれる部屋が他と比較して狭い」といったことが特徴です。

今、清水坂・五条坂エリアでは歴史・文化遺産として5基ほどの京式登り窯が保存されていますが、唯一、現役で稼働しているものが、上述の宇治市・炭山地区にあります。

京式登り窯
京式登り窯

現地で作陶を続けている林淳司さんら4軒の窯元が維持・管理をしながら、年に一度、冬に火入れが行われています。

「コストや制作スケジュールの問題から、商業ベースには乗せられません。おもに、京都府立陶工高等技術専門校など、陶芸を学ぶ学生さんに使ってもらっています。

今でこそ一般的に使われるガス窯も、登り窯の焼成原理を元に開発されました。ガス窯を理解するためにも、登り窯での経験が生きるのです」とのこと。

五条坂の窯元の家に生まれ、跡を継いだ林淳司さん
五条坂の窯元の家に生まれ、跡を継いだ林淳司さん。林さんの父親は1971年、10軒あまりの仲間と共に工房を周辺に住居の少ない宇治・炭山に移した

この年に一度の火入れは、陶芸家を目指す学生への貴重な学びの機会であると同時に、京式登り窯の伝統を絶えさせないための技術継承の役割も担っています。

林さんとともに、窯を管理している龍谷窯の三代目 宮川香雲さんは、登り窯の火入れに欠かせない「窯焚き師」の技術を受け継ぎました。

「窯は火を入れていないと痛むのが早くなります。父たちの代から10年前後、使われない状態が続いていたのですが、技術の継承と窯の保存のために、年に一度、火入れをするようにしています」と宮川さんは言います。

左から宮川香雲さん、林淳司さん、西村徳哉さん
左から宮川香雲さん、林淳司さん、西村徳哉さん。文字通り「京式登り窯の火を消さない」ように活動している

そのほか、自治体の研究施設から、データが取りたいという依頼が来ることもあるそう。京焼・清水焼の歴史を語る上でも欠かせない貴重な登り窯は、今後観光資源のひとつとしての活用も期待されています。

山科や宇治で「清水焼」がつくられ続けているのはなぜ?

山科や宇治に移っても「山科焼」や「宇治焼」という名前にはなりませんでした。陶磁器会館の林さんは、「清水坂・五条坂から離れたあとも、『自分たちは清水焼の伝統の継承者だ』という自負を持ち続けられたのが原因でしょう」と語ります。

先に見たように「清水焼」や「京焼」の定義がもともとあいまいだったり、材料(土や石)の生産地とはまったく関係していなかったりすることも影響しているようです。

全国の焼き物のほとんどは、材料として適した土(陶土)や石(陶石)が採取される土地で発達しました。もちろん、できあがったものの性質は材料によって大きく左右されます。

主に粘土を材料にして焼かれるのが陶器。土の風合いや作者の手のぬくもりを感じるような作品も多い
磁器は長石・けい石といったガラスの材料にもなるような石を粉末にし、それを練り合わせて作る。光沢が美しいだけではなく、強度も陶器よりも高い

現地でとれる土や石で性質で決められてしまっているので、たとえば「唐津焼」といえば陶器、「有田焼」と言えば磁器をイメージするのが一般的です。しかし、これらと同じぐらいに名前を知られていて、陶器も磁器もあり、あらゆる作風の焼き物がつくられているのが京都の京焼・清水焼です。

材料の土や石がとれない京都で焼き物が発展したわけ

陶工も材料も全国の陶磁器の産地から集まって発達しただけに、京焼・清水焼には陶器・磁器を問わないばかりか作風も様々なものが見られる

林さんは「商人が全国より職人を京都へ呼び、各産地の焼き物を作らせたことにより、陶器も磁器もある、作風も様々といった京焼ができあがりました。

陶磁器に使える土や石については、この清水坂周辺でも最初は取れていました。しかし、すぐに掘り尽くしたようです。江戸時代のうちからすでに、信楽(滋賀県)などからは粘土が、天草(長崎県)などからは陶石が運ばれました」と話します。

つまり、京焼・清水焼は全国でも珍しい、「原料が地元にないのに発展した焼き物」なのです。

若宮八幡宮社
五条大橋から東山五条のちょうど真ん中ぐらいある若宮八幡宮社。1949年に陶祖神の椎根津彦(しいねつひこ)を合祀したことから「陶器神社」とも呼ばれる。毎年8月7日から10日の「陶器祭」はこの神社の祭礼でもある

江戸時代終盤ともなると、清水坂・五条坂には陶磁器のあらゆる技法が集まり、名工も輩出しました。また、各地の藩が自領で新たに陶磁器産業を興すようなときには、京都、なかでも清水坂・五条坂から陶工を招くのが常でした。

清水坂・五条坂は陶磁器の技法において日本全体の集散地だったのです。

幕末から明治初期にかけては、ヨーロッパの陶芸技術も積極的に採り入れました。また、輸出用の製品に力を入れた時期もあります。しかし、これらの大きな成功は長続きせず、結局、伝統的な高級品へと回帰しました。以後は、個人作家的な陶芸家も多く出ました。

山科や炭山まで清水焼の産地が広がった今でも、この延長上にあります。ほかの陶磁器の産地では見られないような、窯元や作家ごとの個性の違いを発揮しながらも、全体としては京焼・清水焼として作られ続けています。

※関連記事:若手陶芸家が京都を目指す理由

<取材協力>
京都陶磁器会館
http://kyototoujikikaikan.or.jp/
京焼炭山協同組合「京焼村」

文・写真:柳本学

座って楽しむ民藝「倉敷ノッティング」。70年も愛される理由とは?

一軒家の和室暮らしが当たり前だった時代に倉敷で考案され、マンション住まいが主流となった今も、全国に愛用者が絶えない暮らしの道具があります。

綿やウールで織られた毛足の長い椅子敷き、「倉敷ノッティング」です。

結ぶという意の英語「knot(ノット)」が名前の由来。経(たて)に木綿糸を張り、木綿やウールの糸束を結びつけるという作り方 (ノッティング) からこの名がついたそうです。

作っているのは手織り、手染めの学び舎「倉敷本染手織研究所」とその卒業生たち。

現在、研究所を運営する石上梨影子さんに、倉敷ノッティングの魅力について伺いました。

倉敷本染手織研究所の石上梨影子さん

倉敷ノッティングとは?

座敷に座布団を敷くように、ノッティングは椅子に敷く敷物として誕生しました。

椅子に敷いた敷物がノッティングです

戦前からあったものの、洋風の生活志向から椅子が普及するとともに、需要も徐々に増加。

時代とともに住居が畳の和室からフローリングの洋室中心となり、椅子生活が広まったことから注目されるようになりました。

40センチ四方が基本サイズの倉敷ノッティングは、北欧の椅子にちょうど合う大きさ。日本製では、松本民芸家具の椅子にしっくり調和します。

木の椅子によく馴染み、厚手でクッション性があることから、時代を超えて愛用されています。

ノッティング

倉敷ノッティングの織り方、デザインとも70年以上前に研究所の創設者である外村吉之介が考案。シンプルな幾何学模様のデザインは飽きがこず、時代を経た今も変わらぬ人気を集めています。

では、倉敷ノッティングはどのようにして作られるようになったのでしょう。

残糸を捨てずに活用する、もったいない精神から生まれたノッティング

「研究所では様々な織物の作り方を教えていますが、布を織るとき、織りはじめと織り終わりの端の部分はどうしても織れずに糸が残るんですね。その残糸(ざんし)を捨てずに活用したのがノッティングです」

織り方自体は、ペルシャじゅうたんと同じ手法。

綿かウールの糸160本を1束の緯糸(よこいと)にして、それを経糸(たていと)に結んでいきます。経糸2本にぐるっと緯糸をひっかけて結ぶと、2つの毛足が抜けずにしっかり留まります。これを繰り返していきます。

ノッティングを編んでいく様子

 

「一つひとつ、手で結んでいくので手間がかかりますが、もったいない精神と労を惜しまず作るものづくりの心がけでできたのが倉敷ノッティングですね」

木綿の糸を使うとペタンと椅子の座面に馴染む仕上がりに。ウールの糸を使うと糸自体に復元力があるため、ふんわりとしたクッション感が生まれるそうです。

ノッティング
左上のふっくらしたノッティングがウールで、右下のボーダーのノッティングが綿糸で織られたもの

もともとは夏用に綿、冬用にウールをと想定して作られていましたが、年中調度品を変えず、夏でも冷房が効いている現代の住まいでは、暑い季節でもウールのノッティングの温かみが好まれ、季節を問わず使われるようになっているのだとか。

インテリアとして邪魔にならないデザインを目指して

織り方だけでなく、デザインを考案したのも外村です。

外村が方眼紙を使って描いた50点もの図案が残っており、それが倉敷ノッティングの基本デザインとなっています。

外村が方眼紙に描き残したノッティングの図案
外村が方眼紙に描き残したノッティングの図案

1センチ角に1個のドットで埋めていく極めてシンプルなデザイン。「単純な図案のほうが美しさをそこなわない」という外村の考えを反映し、余計なものをそぎ落としていった結果です。

外村が方眼紙に描き残したノッティングの図案
外村が方眼紙に描き残したノッティングの図案

単純だからこそ、だれが織っても同じ仕上がりとなり、それでいて決して飽きることのないデザイン。室内に置いてもうるさくならないように、という配慮がなされています。

一方で外村は弟子が提案するデザインも、良いものは採用していったといいます。

「織りもデザインも、最終的に良いものしか残らない。使う人の目が確かになると、自ずと選ばれるデザインも決まってくる」というのが不変のデザインに込められた外村の思いなのです。

倉敷本染手織研究所や卒業生の手で織られた証としてつけられているブランドラベル
倉敷本染手織研究所や卒業生の手で織られた証としてつけられているブランドラベル

使う人の個性はあってよいが、作り手の個性は不要

倉敷本染手織研究所では、染め、織りの基本を1年をかけて9人の研究生が学んでいきますが、習得度は人により異なります。

そこで生きてくるのが、共同作業、共同生活の効用です。

研究生たちは、1週間のうち火曜から金曜の4日間が授業のため、研究所内で講義を受けるだけでなく、織る、紡ぐ、染めるといった実技を共同作業で行います。

この共同で作業する時間は、互いに教えあい、学びあい、補い合う時間でもあります。

研究生作業の様子

授業以外の曜日や時間はおのおのが自習に充てていますが、声を掛け合って一緒に練習することも。

授業を終え、くつろいでいるときのちょっとしたおしゃべりもまた研究生同士の心を通わせる機会になっている様子。

外村は、研究所内での共同作業こそが、ものづくりをするうえで重要としました。

なぜなら、研究所が目指したのは個性的な作品を創造する作家の養成ではなく、無名ではあっても確かな技術で暮らしに根付いたものづくりのできる「作り手」の育成にあったからです。

生活に密着し、主張しないものづくりを目指し、願った外村は、使う人の個性はあってよいが、作り手の個性が丸出しになることをよしとしませんでした。

「共同作業は個性を消す作用がある」ことに着目した外村がとった形態が、現在の研究所のスタイルというわけです。

研究所のパンフレットにはこんな一文があります。

「昔から無名の工人たちが素晴らしい美しい物を作ったことは、私達を何時も励ましてやまない。伝統によって祖先の知恵をうけつぎ、協力によって友達の能力をうけた民藝品の美しさは、小さな個人の力をこえた自由で大らかな境地に入れと私達を励ましている」。

倉敷本染手織研究所のパンフレット
倉敷本染手織研究所のパンフレット。研究所は染めや織りの技術習得の場であり、仕事や職業にすることを目指していない

外村の目指したものづくりの結晶ともいえる倉敷ノッティング。時代が変わっても愛される佇まいは、代々大切に受け継がれる作り手の意思によって支えられていました。

<取材協力>
倉敷本染手織研究所
岡山県倉敷市本町4-20
086-422-1541
http://kurashikinote.jp/

文:神垣あゆみ
写真:尾島可奈子