都立工芸高校では何が学べるのか。授業や学校生活、卒業後の進路を聞いた

JR水道橋駅付近を通過する際に車窓から見える、ガラス張りの大きな建物に覚えのある人もいるのではないでしょうか?

さらには、「工芸高校」と書かれたそのプレートを見てほんの一瞬、興味をそそられたかもしれません。

学校名に「工芸」と名のつく高校は、都内でもただ一つ、この東京都立工芸高等学校のみです。

高校で工芸を学ぶって、どういうことなんだろうか‥‥?

工芸と聞いたら気になって仕方がないさんち編集部が伺ったその場所は、揺るぎないクラフトマンシップに満ちていました。

「工芸」を専門と謳う学校とは‥‥?

東京工芸高等学校

東京都立工芸高等学校(以下、工芸高校)が佇むのは、数々の教育機関がひしめき合う水道橋駅のすぐ目の前。

現在は地上9階、地下2階建ての近未来風な外観が目を引きますが、創立は明治40年と、なんと100年以上の歴史を誇る由緒正しいものづくり専門の高等学校なのです。

東京工芸高等学校

アートクラフト科
マシンクラフト科
インテリア科
グラフィックアーツ科
デザイン科

コースはこの5つが用意され、各学年一クラスずつの少人数制です。

現在は、生徒の約8割が卒業後には進学を選んでいるそう。ものづくりの技術を身に付けた上で、デザイン系の大学や専門学校、美術大学に進む生徒がほとんどだといいます。

分類上は「工業高校」に属する工芸高校。しかし、「全員が図面通りに同じ製品をつくること」を主な目的とする一般的な工業高校と比べ、ここでは「デザイン」というキーワードに大きな存在感があります。

マシンクラフト科キャッチフレーズ 「マシンで創る自分のかたち」

5つあるコースの全てで大事にされているのは、「オリジナル」を生み出せる生徒の育成です。

だからこそ、専門技術の広い知見と高い技術力に加え、デザインのノウハウまでも学ぶことができる環境が整えられています。

では、そんな工芸高校の風景を少し覗かせてもらいましょう!

工芸高校は、熱いものづくりの現場だった

東京都立工芸高等学校 アートクラフト科の実習室

まずは、アートクラフト科の実習室から。

アートクラフト科では、金属・ガラス・宝石などを素材として、手仕事で工芸品を創作しています。

金属・ガラス・宝石などを素材として、手仕事で工芸品を創作

1年生の段階で彫金、鍛金、鋳造の金工技法を身に付け、すぐに実践のものづくりがはじまります。

作業中の生徒のみなさんも、慣れた手付きで鍛金をしていました。卒業生の中には、彫金や鍛金の人間国宝に認定された方もいらっしゃるそう‥‥!

作業中の生徒のみなさんも、慣れた手付きで鍛金

「地下には鍛金室があるのですが、そのちょうど真上が校長室なんです。だから、カンカンと音が響いてくると、『今日も元気にやっているな』と校長先生は思うみたいですよ」

案内してくださった先生がそんなことを教えてくれました。

東京工芸高等学校インテリア科の展示物

こちらはインテリア科の展示物。

学年が上がると、ここまで本格的な模型を作成できるレベルにまで成長していきます。

東京工芸高等学校インテリア科
東京工芸高等学校インテリア科生徒お手製のベンチ

インテリア科の教室には、あちこちに生徒お手製のベンチが配置されています。

こんな風に、それぞれのコースごとの特色が教室にも反映されているんですね。

東京工芸高等学校グラフィックアーツ科では、文化祭で販売するオリジナルTシャツをシルクスクリーンで印刷

グラフィックアーツ科では、文化祭で販売するオリジナルTシャツをシルクスクリーンで印刷しているところでした。

そして‥‥?

東京工芸高等学校 印刷室の奥には大量の活字が

どーん!

印刷室の奥には大量の活字が。活版印刷好きにはたまらない光景です‥‥。

こういった古くからの印刷技術のほか、グラフィックアーツ科には企業が使用している4色フルカラー印刷機も完備されています。

東京工芸高等学校グラフィックアーツ科には企業が使用している4色フルカラー印刷機も完備

ときには、企業や行政から印刷機の依頼で、生徒のデザインを印刷することも! 新旧の印刷技術が充実した環境です。

東京工芸高等学校デザイン科

こちらはデザイン科。

このようなPCを使っての作業はもちろんのこと、より多くの人たちにデザインを通してモノを伝える基盤を幅広く学んでいくことができます。

東京工芸高等学校には、本格的な撮影スタジオまで!

本格的な撮影スタジオまで!

これが公立高校の校舎内だなんて、なかなか想像できません。

東京工芸高等学校マシンクラフト科の作業風景

最後はマシンクラフト科の作業風景です。

作業室に入ると、一瞬「ここは工場‥‥?!」と錯覚を起こしてしまうような本格的な機械がずらりと並んでいました。

先生がそばでマンツーマンで付いて見守る‥‥ということもなく、扱いなれた切削機械で金属を削っている生徒の姿に驚きました。

東京工芸高等学校マシンクラフト科 扱いなれた切削機械で金属を削っている生徒

校舎を一通り見学して感じたのは、私たちがイメージしている高校とはあまりにも違うこと。そして、どこを覗いても、作業服に身を包んでイキイキとものづくりをしている生徒たちの素敵な姿でした。

彼らは、どんな想いで工芸高校での日々を過ごしているのでしょう?

ここで、工芸と直接的に関わりの深い、マシンクラフト科/アートクラフト科の生徒と先生たちにお話を伺いました。

ものを作った経験は、どんな道に進んでもきっと活きるから

東京工芸高等学校マシンクラフト科 左から:池澤来実さん(3年)、小野村実羽さん(3年)、島田先生
左から:池澤来実さん(3年)、小野村実羽さん(3年)、島田先生

まずは、マシンクラフト科のみなさんにお話を伺います。

── なぜ工芸高校に入学したいと思ったのでしょう?

池澤さん:小さいころからものをつくるのが好きで、中学2年生のときに担任の先生に薦めてもらったのがきっかけでした。なかでも高校生のときから本格的な機械を扱えるマシンクラフト科を選んだのは、大学でもここまで本格的な機械を使えるチャンスはあまりないと知ったからです。

小野村さん:私もずっとものづくりが好きで、最初は工業高校に入ろうと思っていたんです。でも、学校見学に行ったら男子ばっかりで、ちょっとこわい‥‥と思ってしまって。
ここを知って、自分らしいものづくりをのびのびできるのって素敵だなと思ったんです。

島田先生:ウチの高校はそれぞれに「これがやりたい!」という気持ちを持って入学してきてくれる子が多いですね。1年生の最初の授業で教えていると、みんな「待ってました!いよいよ機械が触れるんだ!」というワクワク感が伝わってくるんです。

小野村さん:入学してすぐに実習着をもらったときは、みんな「憧れの実習着だ!!」って写真を撮ったりしたよね。

東京工芸高等学校「憧れの実習着」

── 工芸高校の先生は、どんな風に生徒に指導するのですか?

島田先生:私は工業高校で指導していたこともあるのですが、ここは「デザイン」の要素が入ってくるので教え方が全然違うんですよ。

工業高校は決められたモノをいかに早く正確に作るか、というのが求められるのですが、工芸高校は寸法精度よりも「その子が作りたいデザインにどれくらい近づけるか」というのを重視するんです。使っている機械は同じだとしても、アウトプットは全く別物です。

池澤さん:工芸高校には引き出しの多い先生がたくさんいると思います。自分でデザインしてイメージしていたモノよりも良い作品ができるのは、先生たちの技術と知識がすごいからだなぁって。

東京工芸高等学校マシンクラフト科 島田先生

島田先生:変な言い方なんですけど、この子たち、普通の女子高生じゃないですからね。例えば、物に溶接をすると「ビード」という跡が残るんですが、キレイに溶接できるほどキレイなビードができるんです。この子たちはオシャレなカフェの話題よりも「このビードすごくない?どうやって作ってるんだろ‥‥」と盛り上がってるんですよ(笑)。

小野村さん:ウチの高校だったらどの科の子もそうですね(笑)。素材とか加工方法とか、「どうやって作ったんだろう?」ってすぐ考えちゃう。3年間でだんだんそうなっていきました。

── 工芸高校で学んだことを、今後どう活かしていきたいですか?

小野村さん:マシンクラフト科を出たからといって、大学の工学部とかに進学する人はそれほどいません。自分も含めデザインやファッション、美術系志望の人がほとんどなんです。ちなみに私は、機械からは離れますが和裁の世界に進みたいです!

池澤さん:私も、デザインの学科を志望しています。でも、ここで機械のことを経験できたので、それが無駄になるわけじゃないと思ってます。寂しい気持ちや懐かしく思い返すことも多分あるけど、今後自分の好きなことをやっていく中で活きたらいいな。

東京工芸高等学校マシンクラフト科 池澤来実さん(3年)

島田先生:そうですね。マシンクラフト科を出たからといって、機械に関わることを直接やることが全てではないと思っています。自由に、好きにやってほしいです。

大人になるといろいろ出てくるけど、あんまりそういうのに囚われず、今のこの子たちみたいに「作りたいからつくる」という経験ができるって幸せじゃないですか。逆に、ここでいろんなことができるようになったから「その気になれば何でもできるんだな」と思ってくれたほうが嬉しいですね。

それがどうして「良いモノ」なのかを、ちゃんと分かる大人になってほしい

東京工芸高等学校アートクラフト科 左から:矢口鳩望さん(3年)、宇高先生
左から:矢口鳩望さん(3年)、宇高先生

続いては、アートクラフト科のお二人に。

── 進学先にアートクラフト科を選んだ理由を教えてください。

矢口さん:昔からアクセサリー作りなどの細かい作業が好きだったから、自分の手で精密なものづくりができるアートクラフト科を選びました。将来の夢も、今はジュエリー作家になれたら良いなと思っています。

── 生徒たちが手仕事を学ぶ上でどんな授業を行うのでしょうか?

宇高先生:最初の段階から実技の授業があります。道具も最初に揃えるので、美大の金工科と同じようなカリキュラムを学びます。1年生の3回目の授業からは、自分でバーナーを使って銀を溶かしたりし始めますしね。

矢口さん:自分でいろいろ作れるようになると、普段のモノの見方も変わってきました。ショッピングをしていてアクセサリーを手に取ったりすると、「どうやって作ってるんだろう?」って‥‥

宇高先生:あ、裏返すでしょ?

矢口さん:はい(笑)。つなぎ目とか、見ちゃいますね。

── ちょっと意地悪な質問ですが‥‥ものづくりをしていて「もう嫌だ!」と思うことってありますか?

矢口さん:あります。いろんな技術を覚えていく中で、得意不得意も見えてくるんですよね。

よく覚えているのは、2年生の彫金の授業で、ボンボニエール(お菓子入れ)を作ったときなんですけど、私は鍛金がすごい苦手で‥‥。上下のパーツが噛み合うように上手く合わせるのが本当に大変でした。

東京工芸高等学校アートクラフト科 ボンボニエール

宇高先生:制作工程を見守っているので、生徒が苦労しているのは分かるのですが、あえて手出しはしていません。材料と基本的なやり方が分かったら、後は自由に作り始めていって、試しては、うまくいかない、といった経験こそが成長につながるからです。

矢口さん:先生に何回も聞きに行くんですけど、「できるでしょう?」と返されたりして。なかなか教えてくれないときもあるんです(笑)。

東京工芸高等学校アートクラフト科 矢口鳩望さん(3年)

宇高先生:大体は、生徒が作業している音で、うまく進んでいるのかは分かるんですよね。やり方が違っていそうだったら「できてる?」と声をかけるくらいにしています。一番は生徒が自主的に制作できること。手取り足取りしすぎて、二人羽織みたいになっちゃったら生徒の力がつかないでしょう?

── 将来はどんな作り手になりたいですか?

矢口さん:自分の作りたいものをつくるというよりは、自分が作ったものを使ってくれる人たちがどういうものを求めているのかを考えて作りたいです。需要に対して答えていきたい、という気持ちが強いです。

東京工芸高等学校アートクラフト科 宇高先生

── 先生から生徒たちに「こうあってほしい」というのはありますか?

宇高先生:「良いモノ」の本質が読み取れる人であってほしいですね。もちろん作るときもそういう観点でいてほしいし、一流のものを見極める目を持ってもらいたいなと。

良いモノって、それこそ手仕事のような一見するとめんどくさそうな技術があって成り立っていたりするんです。これはどの分野の「一流」といわれるところにも通用すると思うので、その視点をここで育んでいってほしいですね。

ものづくりへの熱意が全ての根底に根付く場所

東京工芸高等学校「ものづくりへの熱意が全ての根底に根付く場所」

「工芸」とは、“実用品に芸術的な意匠を加えたもの”のこと。

作るだけでも、デザインできるだけでも成立しないものづくりを学べるこの場所は、まさに「工芸」の名を冠するにふさわしい高校でした。

そして実は、取材にお邪魔したのは定期テスト直後の放課後だったんです。

普通の高校生なら遊びに行きたいであろうこのタイミングに、多くの生徒が学校の一大イベントである「工芸祭」の準備に夢中になっていました。

「いいものを、作りたいんですよね。」

そう言って、工芸祭で販売する商品作りに熱心に取り組んでいる生徒たちの姿が今も忘れられません。

誰に強制されるでもなく、自ら製作に励む彼ら。

その瞳の奥には、紛れも無いクラフトマンシップがきらりと潜んでいました。

<取材協力>
東京都立工芸高等学校
〒113-0033 東京都文京区本郷1-3-9
http://www.kogei-h.metro.tokyo.jp/
03-3814-8755

文:山越栞
写真:長谷川賢人

こちらは、2018年10月30日の記事を再編集して掲載しました。ものづくりに情熱を捧げる若者たちを、さんちは応援しています!

桂離宮や二条城に使われる「唐長」の京唐紙。12代目が語る100年続く美意識とは

京都の桂離宮に二条城、俵屋旅館。

京都という場所以外で、この3つに共通するものが「京唐紙」です。

襖紙や壁紙などの室内装飾に使われており、和紙から美しい文様が浮かび上がっているような独特の質感や風合いに見とれてしまいます。

唐長
唐長

「もちろん出来上がりもきれいなんですけど、私が作る唐紙の一番きれいな時は、絵具が乾いていく途中。周りから乾きだして、濃淡がきれいなんですよ」

唐長
乾いていく様子は工房でしか見られない貴重なひととき

そう話すのは、日本で唯一、江戸時代から続く唐紙屋「唐長」12代目の千田優希さんです。

唐長だけが現代まで受け継いできたもの。それは唐紙そのものや技術はもちろんのこと、唐紙に宿る美意識ともいえるかもしれません。

江戸時代から続く、唯一の唐紙屋

実は、冒頭で紹介したそうそうたる3カ所の京唐紙は、すべて唐長によるもの。

唐紙とは、字面から想像できるとおり、中国・唐から伝わったもので、日本では平安時代に京都で唐紙づくりが始まったといわれています。

もともとは貴重な紙だっただけに、貴族や高僧が和歌をしたためたり写経をしたりするものだったそう。

それが数百年に渡って技術が磨かれ、鎌倉・室町時代には、襖や壁、屏風などの室内装飾として使われるようになり、江戸時代に入ると一気に普及しました。

唐長の創業もそのころ。琳派の立役者である本阿弥光悦が開いた芸術村の出版事業で唐紙作りに携わり、1624年 (寛永元年) に創業。現在に至るまで、およそ400年間にわたって板木と技法を受け継いでいます。

唐長
何気なく工房で見せてもらった板木の裏には、「天保十三」の文字! 西暦でいうと1842年、約180年前のものです

東西の唐紙の違い

江戸時代、唐紙の人気は京都から遠く江戸にまで及び、京都の職人がその技術を江戸に伝え、「江戸からかみ」という江戸独自の唐紙が生まれました。

「京唐紙は人間の目にやさしく、気持ちをやさしくしてくれるもの。それに対して、江戸の唐紙は粋な感じで、文様の輪郭や色づかいもカチッとしている。その流れを受け継いでいるのが江戸の千代紙なのかな。あまりにも雰囲気が違うので分類しはったんですよ。

京都と江戸では建築の雰囲気も違うので、江戸の建物に京唐紙を貼ったら物足りない、おそらく間の抜けた感じやと思います。逆に京都の建物に江戸の唐紙をもってくると、なんかうるさくなるでしょうね」

いま、職人に求められているものとは

そんな風に空間の中で唐紙がどう生きるのかを考えられるのは、建築士でもある千田さんならではかもしれません。

30年ほど前までは、唐紙を作ることだけが職人の仕事だったそう。注文を受けて期日までに品物を納める。唐紙を注文する人が色や文様を決めるのが当たり前でした。

建築図面を見て空間を立体的にイメージできるのが建築士。だからこそ、空間イメージに合わせた文様と色の組み合わせが提案できるようになった、と千田さんは言います。

唐長
唐長
唐長

「使う場所や使う人に合わせたものづくりを職人は求められていると思うんです」と、俵屋旅館さんとのエピソードを聞かせてくれました。

「あんた、俵屋わかってきたな」

「若いころ、俵屋さんに作った見本を持って行ってもなかなか決まらないんですよ。女将さんに『もっと俵屋らしい色を』なんて言われて、らしさについて考える。

そうやっていくうちに、ある日、女将さんから『任すわ』って言われて。私なりに文様と色の組み合わせを部屋に合わせて考えて持っていったら、女将さんに『あんた、俵屋わかってきたな』って言われたんです。その時、すごい嬉しかった」

唐長
沖縄のアロハシャツブランド「パイカジ」とコラボした際は、シャツを着てくれるであろう人をイメージして、シックな色の長袖シャツに。ジャケットと合わせてフォーマルな場所でも浮かないデザインになっています

引き出しは深さよりも多さが肝心

様々な経験を重ねていくことで、ものづくりの引き出しが増えていったと語る千田さん。

「いまの時代は消費者の感覚を知ることが大事。

自分の仕事以外のところで美意識を多角的に磨いておかないと、ものづくりの引き出しが増えへんですよ」

そんな言葉どおり、千田さんの引き出しはワインやベルギービールにフェラーリなど、バラエティ豊かです。

「時々、お店でワインのレクチャーをするんですよ。といってもソムリエでもないので、専門的なことではなくて、ワインとおしゃべりをする話。

例えば、白ワインでも品種がシャルドネだとオレンジっぽい色を薄めた白、シャブリやソーヴィニヨンは硬い感じの白ということを知ったうえで、『今夜の食事に合うワインは誰?』って、食卓にあがる予定の料理や器の色彩をイメージしながら選ぶんです。

でもそれは唐紙の色選びとの接点でもあるんですよ」

ベルギービールにはそれぞれの味わいに合わせたグラスの形や飲み方があり、フェラーリにもボディの作り方やハンドルの縫い方にもこだわりがある。

それらの美意識を知っておくことが、必ずどこかで唐紙作りに生きてくるのだそうです。

伝えたい人に伝わる言葉で

では、唐長の美意識は何ですかと尋ねると、ちょっと意外な答えが返ってきました。

「誰とでも仲良くなれるということ」

どんな相手にも合わせた会話ができる。唐紙のことを伝えたい相手に伝わる形で言語化できる。

施工では相手の言葉や雰囲気からも望むものを汲み取って、ふさわしい唐紙を提案できる。これが唐長の、何より千田優希さんの強み。

やはり、それは引き出しがたくさんあるがゆえなのでしょう。

取材中も、そんな千田さんの「会話術」が垣間見られました。

それは唐紙作りの工程を見させてもらっていた時のこと。

絵具を載せた板木に和紙をのっけて、手でやさしく撫でて和紙に文様を写していきます。唐紙作りのハイライトともいえる部分で、手の力加減が仕上がりにも大きく影響してきます。

唐長
唐長

この力のさじ加減は、まさに経験に裏打ちされた職人さんだけが知るものですが、千田さんの手にかかれば‥‥

「女性なら、メイクを落とすときと同じ。メイク落としを泡立てて顔につける時に指先に力を込めて肌をこすると、とれへんでしょ。手とほっぺたとの間に泡があって、なんか浮かすようにやる。それと一緒です。

車好きな人やったら、砂利道でコーナーを曲がらなあかんって時に減速するためにブレーキをかける、あの時と一緒。力任せにブレーキを踏んだらタイヤがロックしちゃって滑ってしまうけど、絶妙なところでブレーキを緩めたり加えたりすれば大丈夫でしょ」

素人の私たちでさえ、なんとなく想像がつくものになります。

唐紙を唐紙たらしめるもの

時代のニーズや消費者の感覚に合わせて柔軟に対応する一方で、やはり変わらないものもあります。

「変わらないのは建物が作られた時代。歴史的建造物に収まる唐紙は、ほとんど変わらないです。

瞬間的な美しさというより、100年単位での美しさを持っている建物の色彩感覚は不変なんですよ。

明治大正期に建てられた洋館なんかは、100年くらい経った味わいがある。階段の手すりなんかも、すり減り、磨かれた独特の光沢が出てきて、ああいう感覚に似合う唐紙というのは決まってくるものです。

いろんなものが消費される時代になっちゃっているけど、やっぱり、すごいパワーを持っているものは100年単位で変わらず使えるものです」

だからこそ、千田さんは唐紙に使う和紙に人一倍のこだわりがあります。

「私は楮 (こうぞ) があるからこそ唐紙だと思っています。本来の和紙は、千年前のものでも紙という形が保てるものなんです」

そう言って、千田さんは「破ってみてください」と、楮の入った和紙とパルプの和紙を差し出してきました。見た目にはどちらも和紙のイメージどおりですが‥‥。

唐長
パルプの和紙は簡単に破けてしまいました
唐長
唐紙の方はというと、力をいれてもなかなか破れません。楮の長い繊維が縦横に絡み合って強度を保っているとのこと
唐長
和紙の強さの秘密、楮

「私が楮入りの和紙にこだわるのはこの丈夫さがあるからこそ。

いま和紙といっても、楮が入った和紙はほとんどありません。どうしてもコストがかかってしまうから。

でも、ものづくりを狭くしてでも私は楮入りの和紙を使います。この工房もいまは私一人でやっていますが、ビジネスとしては小さくても、本物であるべきかなと思うんです」

時代を越えられるものづくりを目指して

千田さんの本物へのこだわりは、後世に残すべき文化財を守りたいという思いからくるもの。

京唐紙が使われている歴史的建造物の中には数十年ごとの修復計画があるそうで、例えば桂離宮は64年ごと、二条城は25年ごとと決まっているといいます。

唐長
二条城で使われている唐長の唐紙

「そのサイクルだと多少傷ができても本当は直す必要はないくらい。とはいえ、技術の継承ができるからすごく大切なことやと思います。

国宝の屏風の裏にも唐紙は使われるんですけど、そうした文化財は50年、100年後にきちんと修復できないと守れない。

日本の屏風技術はすばらしくて、掛け軸ひとつとっても、分解して傷んだ部分をきれいに戻すことができるんですよ。

でも、途中で自然素材でないものを使ったがために救えなくなってしまったものもあるんです」

文化財を残していきたくても、必要な技術や素材がなければ守りきれない。

「ものづくりって、自分が作るものをただ作ればいいわけではない。素材や道具、そういうものも守るために、その良さを伝えることも大事なんです」

そんな思いから、和紙職人さんたちを守るためにも、最近では美術大学で和紙や唐紙のことを教えることもしています。

「やっぱり若い世代の人たちにも和紙や唐紙の良さ、美意識を届けたい。できるだけ感覚的にそれらの良さを知ってもらいたいと思っています」

唐長
桂離宮の襖に採用された文様。一見すると水面よりも下に紅葉があるのは矛盾していると思ってしまいますが、こちらは水面に映る紅葉を描いた「うつし紅葉」。千田さんは、こうした唐紙に生きる美意識を感じ取れるような感覚を伝えていきたいと言います

「目先のお客さんだけじゃなくて、数十年後のお客さんも育てていかんと、ものづくりは続いていかへんのです」

そんな千田さんの言葉に、作るという行為だけでは成り立たない、ものづくりの奥深さを改めて感じました。

<取材協力>
唐長
京都市左京区岩倉長谷町650-119
https://www.karacho.co.jp/

文:岩本恵美
写真:木村正史

国宝「投入堂」の魅力と巡り方。過酷な山道の先にある、自然と一体化した美しさ

こんにちは。ABOUTの佛願忠洋と申します。

今回は、国宝でもある、三佛寺奥院投入堂 (さんぶつじおくのいんなげいれどう) をご紹介します。

この連載は‥‥
インテリアデザインを基軸に、建築、会場構成、プロダクトデザインなど空間のデザインを手がけるABOUTの佛願さんが、『アノニマスな建築探訪』と題して、

「風土的」
「無名の」
「自然発生的」
「土着的」
「田園的」

という5つのキーワードから構成されている建築を紹介していきます。

いざ、三徳山三佛寺 奥院投入堂へ

所在地は、鳥取県東伯郡三朝町三徳 (とうはくぐんみささちょうみとく) 1010。建立 慶雲3年 (706年) 、作者は不明である。

三佛寺奥院投入堂は、鳥取県のほぼ中央に位置する。鳥取県の旧国名は伯耆 (ほうき) の国と因幡 (いなば) の国であり、三佛寺のある三徳山 (みとくさん) はこの国境にある山が西へと伸びた尾根の1つであり、1000~1200メートル級の山々が連なっている。

登山口の看板
三徳山三佛寺の案内図

初めてこの地を訪れたのは約20年前、中学生の頃。家族で三朝温泉 (みささおんせん) に泊まり、父、母、姉とレジャーで登った。2回目は大学1年生の時、これも全く同じシチュエーションで家族と。3回目は大学4年、これも家族と。

そして4度目の今回は‥‥。残念ながら家族ではなく同僚と。前日、米子で仕事があり、しかも金曜日。これは久々のチャンス到来とばかりに、三朝温泉に泊まり、初めてスナックという場に足を踏み入れた。大人になったなぁとしみじみ思いつつ、温泉につかりながらハーと大きな吐息を漏らす。

10年前より錆びれて見えた三朝温泉。それもそのはず、昨年の鳥取中部地震の影響で客足が遠のいてしまったようだ。それから約1年が経ち、ようやく人が戻ってきたとスナックのママが教えてくれた。

夜の三朝温泉街

三徳山の入山は午前8時から。就寝したのは3時前にもかかわらず、朝6時に起床。朝風呂につかって少し残っていた酒を抜き、朝食をいただいてから旅館を後にする。

この日の天気予報は曇りのち雨。実は雨が降り出すと入山できなくなるため、少しでも早く登る必要があった。投入堂の登山口は三朝温泉からは車で約10分ほど。石の鳥居を超えたところが入山口である。

駐車場に車を止めていざ投入堂を目指すわけだが、一瞬足が止まる。あれ?こんな急な階段だったっけ‥‥。しかも石の階段はすり減り、波打っている。

山に続く階段
階段のアップ

普段、全くと言っていいほど体を動かしていないことを早くもこの段階で後悔する。

神社の正面
登山受付所
入山の受付所

階段を登ると境内に到着する。社(やしろ)が点々と配置され奥に進むと三徳山入峰修行受付所が現れる。受付ではまず健康状態を聞かれ、その後に靴のチェック。

なぜかというと、凹凸のないツルツルのソールでは入山できないからだ。その場合は受付で販売されているわらじを購入し履き替える必要があるのでご注意を。入山時間をノートに記入し六根清浄(ろっこんしょうじょう)の印が押された輪袈裟をいただき、いざ入山。

山の中にある架け橋

少し歩いた場所に2本の大木に挟まれた赤い門が見える。普段目にすることのない大木のスケールに圧倒されつつ、門をくぐり湿っぽい石段を降りる。深い谷間に架かる宿入橋を渡り、薄暗い先に見えるのが木の根っこの登山道。

立派な木の根元
根が広がっている
先人の足跡がくっきりと

写真では分かり辛いが、なんと木の根を掴みぐんぐん登っていくのだ。1300年という歳月をかけてできあがった登山道は、木の根がなめらかに、岩肌は人の足型に変形してしまっている。先人の足跡をたどりながら、ただひたすらに登る。

道中に突如現れる文殊堂
道中に突如現れる文殊堂
文殊堂
柵は一切なしの自己責任
文殊堂
文殊堂から、足元を眺める
山々の風景

地面は登るにつれて腐葉土のような土から粘土質、そして砂岩系の岩になる。明るい尾根に出たあとで見えてくるのが崖の上に建つ文殊堂(もんじゅどう)。

細い材で架構され、屋根は単層入母屋杮葺 (たんそういりもやこけらぶき)。周囲は手摺りのない縁(ふち)がぐるっと4周まわっており、しかも水はけが良いように傾斜が付いている。

靴を脱ぎ壁伝いに恐る恐る縁を歩くのだが、清水の舞台が比べものにならないと感じるほど、死と隣り合わせな感覚を覚える。ただ眼下に広がる風景は色づき始めた木々、そして伯耆、因幡の山々の連なり。千丈の谷へと落ち込んでいく風景は何とも美しい。

さらには鎖(!)を掴んでよじ登ったところに見えてきたのは地蔵堂。作りは文殊堂と全く同じ。桁行4間 (約7.2メートル)、梁間3間(約5.4メートル) 、屋根は単層入母屋杮葺。文殊堂も地蔵堂も室町時代に建てられたものだそう。

ここからさらに進むとシンプルな切妻の釣鐘堂。そしてこの先の道は急に狭くなり、小石混じりの凝灰岩の上を綱渡りのように登る。風景ははるか下方に広がり、このころになると、自然と一体化したような感覚になり、自身は透明化しかつトランス状態に近い。

やがて道は平坦となり、凝灰岩の風化した窪みに祠堂 (しどう) があり、その先には洞窟のような空間に納経堂がすっぽりと収まっている。しかも納経堂と洞窟の隙間が経路になっている。であり、光から闇へ、そして光に戻る‥‥という演出は本当に憎い。

岩のくぼみにちょうどよく収まってる祠堂
岩のくぼみにちょうどよく収まってる祠堂
納経堂
納経堂
経路は昼間でもこのとおり
経路は昼間でもこのとおり
絶妙な大きさで埋っている
絶妙な大きさで埋まっている

そしてその先の屏風のような岩を廻ると岩を背に突如として投入堂が姿を現わす。

上部を巨巌で覆われ、足元は急斜面の岩盤にしっかり脚を伸ばして建つこの建築。一見シンプルに見えるが、実は全くそうではない。屋根は重層し、雁行 (鍵型にギザギザと連続している様子) している。

まさに鳳凰が羽を広げ、舞い上がらんばかりの華麗極まりない姿。眼下に広がる風景を呑み尽くして、大自然と響き合っているかのようである。まさに自然と一体化している。

こんな複雑な建築が706年に建立されたという事実に感動しつつも、これを目指して過酷な山道を登って来た人々がいること。そして、入山し、感動するという体験は、今も昔もずっと変わらない気がする。初めて家族で登ってた時にも、建築のケの字も知らなかったが、投入堂ってとにかくめちゃくちゃすごいなと思った記憶は鮮明に残っている。

今回の気分はというと、まさに六根清浄、心が浄化された気分である。大都会東京で気を張らないといけない日常から解放され、大自然の中に身を置いて何も考えることなく、ただひたすら木の根っこを掴み、足元に注意して一歩一歩着実に前へ進む。

帰りは一度足を滑らせ大ゴケしたが、根っこのおかげで大事には至らず。入山受付所まで戻り、袈裟を返し、下山時間を記入する。

往復時間は約1時間半ほど。本当に清々しい気持ちを手に入れる。境内を抜け、階段を降りようとすると、前からビールケースを担いで登ってくるただならぬ雰囲気の男性。もしや、この人‥‥。

住職さんのような気がして、思い切って話しかけてみた。やっぱりビンゴ。住職さんから歴史のことや檀家さんが全くいないこと、そして1年前の鳥取中部地震で登山道はルートを少し変更しないといけなくなったが、建物には全く被害がなかったことなど、いろんなお話をさせていただいた。

お地蔵様

途中、茶屋できな粉餅を食べ、駐車場に着いた途端に雨がザーッと降ってきた。約10年ぶりの投入堂。天候にも恵まれ、心も浄化され、いい記事も書けた‥‥?。三徳山というだけあって徳がありそうである。

佛願 忠洋 ぶつがん ただひろ 空間デザイナー/ABOUT
1982年 大阪府生まれ。
ABOUTは前置詞で、関係や周囲、身の回りを表し、副詞では、おおよそ、ほとんど、ほぼ、など余白を残した意味である。私は関係性と余白のあり方を大切に、モノ創りを生業として、毎日ABOUTに生きています。

文・写真:佛願忠洋

こちらは、2017年11月26日の記事を再編集して掲載しました。登山に危険が伴いながら、人々を魅了する投入堂。参拝後は心も体も清められそうですね。

ジーンズに合う雪駄は奈良生まれ。抜群の履き心地を生む秘密の鼻緒

「雪駄 (せった) 」と聞けば、いわゆる草履を思い浮かべる人が多いかもしれません。

もしくは、夏に履くモノというイメージが強いでしょうか。

この従来のイメージを覆し、抜群の履き心地とデザイン性の良さを実現させた雪駄があります。

手がけた工房があるのは、奈良。

雪駄を「一年中履けるものにしたい」と情熱を燃やし、気軽に楽しむファッションアイテムとして使ってほしいと奔走するある人物を訪ねて、履物の産地へ伺いました。

履物の産地 奈良・三郷町へ

訪ねたのは、奈良県三郷町に工房を構える株式会社サカガワ (以下、ササガワ) の三代目社長、阪川隆信さん。

三代目社長・阪川隆信さん

奈良は履物を地場産業とする地域が多く、とりわけ奈良県西部に位置する三郷町(さんごうちょう)では、今でも一つひとつ手作業で雪駄をつくっている工房があり、昔からのものづくりに触れることができます。

取材時、阪川さんが「ジョン・レノンも雪駄を履きこなしていたんですよ」と、写真集を見せてくれました。

株式会社サカガワの三代目社長、阪川隆信さん

確かに、スーツ姿のジョン・レノンが雪駄を履いている写真が掲載されています。さらっと履きこなす感じは、とてもカッコイイ。

「こんな風に雪駄を楽しんでほしい」と語ります。

雪駄は草履の一種で、薄手で裏に革を張り付けてあるのが特徴。一説には千利休が創意したものと伝えられています。

サカガワは、鼻緒や軽装履きの地場問屋として1957年に創業。

かつて三郷町では、多くの農家が副業として雪駄づくりを行っており、サカガワの職人も三郷町に多くいました。

しかし時代とともに服装も西洋化し、雪駄の需要は減少。

職人の数も減り、現在では数えるほどに。

そんななか、「雪駄の伝統と職人の技を未来に残したい」と、2008年にオリジナルブランド「大和工房」を立ち上げたのが阪川社長です。

「職人が残っているうちに、もう一度、雪駄の良さを広めたい」と、職人の手仕事を基本に、現代人のニーズに合った雪駄づくりに取り組みました。

目指したのは、若者が普段着に合わせて履ける、履き心地とデザイン性を兼ね備えた雪駄。

しかし、昔気質の職人たちにとって、現代版の雪駄づくりには少々抵抗があったようです。

「使う素材が難しいとか、手間がかかるとか、職人とのやりとりが大変な時もありました (笑) でもこの技を未来へと残すために、今はこれをしないといけないと、何度も話し合いました」

今の時代に合った雪駄をつくることが、素晴らしい職人の技を残すことになるという確信が、阪川社長にはあったからです。

何度も、何度も。その過程は大変ではあったものの、やはりそこは職人。

社長の理想を形にし、今までにない履き心地と足触りの良さを実現した雪駄が完成しました。

鼻緒の位置に注目

では、その履き心地の良さはどうやって実現させたのでしょうか。

「大和工房」がつくる雪駄の最大の特徴は、鼻緒の位置が親指側にずれていること。

履きやすさを追求し、中央ではなく親指側にずらすことで、足入れの収まりが良く、毎日心地よく履けるように工夫されているのです。

鼻緒の位置が親指側にある

ちょっとしたことではありますが、実際に履いてみると履き心地の違いがよくわかります。

足がすっと入り、小指がはみ出すこともない。

培われてきた熟練の手仕事を根底に、今の時代に合ったエッセンスを融合することで、雪駄の新たな未来が切り拓かれた瞬間でした。

一つひとつ、丁寧に

今の時代にあった提案をする一方で、「大和工房」の雪駄づくりで、機械を使うのは、最初の型抜きと、最後のプレスのみ。

最後に使用するプレス機

型を合わせる糊づけも、鼻緒づくりも、多くの工程が、人の手によって行われています。

鼻緒をすげながら、「もう感覚ですわ」と作業を黙々と続ける職人。

鼻緒をすげながら作業を黙々と続ける職人

そんな熟練の技を見ると、大切につくられていることがよくわかります。

糊づけも一つひとつが手仕事。素材によって糊の種類も異なる

「ジーンズに合わせて履いてほしい」

この雪駄を、「ジーンズに合わせて履いてほしい」というのが阪川社長の想いです。

現代のファッションアイテムの一つとして取り入れやすく、また、メイドインジャパンとしての誇りも伝わるようにと、素材や色の組み合わせも工夫しました。

例えば、岡山デニム、倉敷帆布、阿波しじら織、栃木レザーなど、洋服と合わせやすい素材を日本の伝統産業から採用。

倉敷帆布を使った雪駄。洋服との相性も抜群です

夏向きには、足のあたりが気持ちよい、パナマの素材で作った雪駄を。

さらに、冬でも楽しめるものをと、鼻緒がファーになった雪駄も。

季節を問わず、年中履ける雪駄をつくっています。

また中川政七商店をはじめ、有名デザイナーや大手スポーツメーカーといった多彩な企業とのコラボで、より現代のニーズに応える努力を積み重ねています。

「いろんな服に合わせて、自分なりの雪駄の履き方を楽しんでほしい」と願っています。

その魅力の広がりは外国にも。

国内のみならず、パリやニューヨークといった海外の展示会へ出展し、日本の雪駄を世界にも届けています。

また、奈良市の観光地・ならまちには自社ショップ「大和工房 ならまち店」をオープン。最近では海外からのお客さんも多く、足触りの良さや履き心地はもちろんのこと、外国人向けの大きなサイズがあるということでも人気を呼んでいるそうです。

ジーンズ、スカート、スーツにも。

履きやすさを追求し、毎日でも履けるように。

三郷の雪駄は、新しい履物の未来へ歩みだしています。


<関連商品>
奈良で作った雪駄サンダル

<取材協力>
株式会社サカガワ
奈良県北葛城郡上牧町上牧3439-16
0745-76-8835
https://sakagawa.nara.jp

文:川口尚子、徳永祐巳子
写真:北尾篤司

デザイナーが話したくなる「保存の器」


きっかけは「わがままな思い」とデザイナーの渡瀬さん。
そもそも男性がこういうものが欲しいなと思いついたことが不思議でした。

男性がひとり暮らしで、余った食事をプラスチックの保存容器で保存すると、翌日お皿に移すと洗い物が増えるのが手間だということで、そのまま保存容器からたべてしまうことがしばしば。
なかなか、ワイルドな、、、
しかし、本人もそれはそれでなんだか横着をしている後ろめたさと、きちんと食事をとっている感じがしないと思っていたみたいです。

そこで、食器として使える保存容器があったらそれが一番なのに!と思いついたんです。
ずぼらながらも食卓を充実させたい我儘な思いから、焼き物でつくる「食器としても使える保存容器」の開発が始まりました。


保存容器として、よく見かけるのは、まずプラスチック製のもの、そして琺瑯や陶磁器のもの。
陶磁器なら渡瀬さんが想像しているものに近いのではと思ったのですが、ここで「中川政七商店らしい」暮らしに馴染むデザインをしたいという渡瀬さんのこだわりが。陶磁器のものは、蓋がプラスチックのものが多いのですが、蓋も容器と同じ素材で作ることにしました。


そこで高い気密性を実現するため、選んだ産地は有田。素材には通気・吸水性が少ない磁器を用い、有田有数の成形精度を持つ生地メーカーにて「共焼き」という技術を用いて焼成しました。
急須の製造等で使われる共焼きは、蓋と身を合わせた状態で焼き上げることで、焼成時に発生する土の収縮差を抑えることで、隙間を限りなく小さくすることができます。
実際蓋をしてみると、ピタッと気持ちよくはまります。


共焼を行う場合、身と蓋の接地面の釉薬を剥ぐ必要があります。そのために行うのが蝋引き。蝋を塗ったところは釉薬が弾くことで重ねて焼いても身と蓋が付きません。蝋は筆でのせる為、分厚く塗ると蓋が入らなくなる恐れがある為、神経を使う作業です。


食器として使い、蓋をして冷蔵庫または冷凍庫で保存。翌日にそのまま電子レンジで温め直して、また食卓へ。食器と保存容器の両役を果たしてくれる器は、沢山の容量がありつつ、食卓で馴染む雰囲気にするため、鉢(どら鉢とも呼ばれる)の形に近づけました。
蓋にはリムを設けることで、取り皿として使うこともできるんです。


「日頃、いろいろな産地を巡ってと様々な発見があります。」と感慨深い渡瀬さん。
「共焼き」の事を知ったのは、実は萬古焼。急須を作る窯元で、身と蓋を合わせるためには、結構な手間や技術があることを知りました。
一方、お茶産地に伺ったときには、実は気密性の高い磁器急須が、匂いもつきにくく本来の茶の味を味わうのに適しているので好んで使っていると話を聞きました。
それらの見聞を組み合わせると、今回の保存の器は、気密性を高める共焼と磁器材を用いるのが良いのではと結びつきました。匂い移りも少ないはず。磁器は昔は高級素材で、保存容器としては使われてきませんでしたが、後世になると醤油瓶や酒瓶など保存も兼ねた容器としても活用されるようになります。

私達の仕事は、生活者としての肌感と産地の知恵を結びつけて、今の生活に活躍する道具をつくることです。とは言え、絵に描いた餅を実現するのはいつも大変で、今回も何度も試作を繰り返して完成しました。
おかげさまで保存容器のままでも後ろめたさのない食卓になり満足しています。最後は、とても満足気な笑顔でした。


※2022年4月25日に一部コメントを修正いたしました。  

わたしの一皿 シュッとした琉球ガラスのうつわ

ここ二週間ほどは沖縄や台湾で梅雨明けのカンカン照りをくらいました。真夏の暑さを一気に思い出して、少々ひるんでおります。

年々暑さに弱くなってきている気がする、みんげい おくむらの奥村です。

先々月、香味野菜のことを書いたんだけど、実はここ2年ほどさらにハマってる野菜がありまして今日はその話を。

ここ数年日本の陶芸に大きな影響を与えた朝鮮の焼き物を学びに彼の地に出かけています。そこで、それまでに食べたことがなかったわけじゃないけど、いまいち印象がうすかったそれに見事にハマりました。

シソに似てるけどちょっと違う、エゴマです。エゴマの葉。

えごまの葉

日本でもそれまでに食べたことはあったのだけど、そこまでスイッチが入らなかった。パクチーと同じでしょうか。ある一定量食べたらスイッチ入っちゃう、みたいな。やってきたんですよ。それは突然に。

あの独特の香り、ずっと嗅いでいたい。枕元にも置いておきたい。風呂にも浮かべたい。

あのパンチの強さったらなんでしょうね。シソの爽やかさに対してこちらは野性味が強い、というか。

韓国、朝鮮料理では焼肉の時に肉を巻いてよく食べるのだけど、現地では日本では考えられないぐらいたっぷり出てくるので嬉しい。それすら足りなくておかわりしちゃうけど。

そんなエゴマの葉。この香りを楽しむならタコやイカ、白身の魚なんかと合わせたら面白いだろうなぁと思い立ってやってみたのが今日の食べ方。

琉球ガラスのうつわ

うつわは、沖縄のガラス工房清天の一皿

うつわもこれかな、と思ったものがやっぱりよかった。沖縄のガラス工房清天のもの。気泡が入った面白い表情のもの。ちょっとくずきりみたいでしょう。

ここのガラスの面白いところは再生ガラスではあるのだけど、ちょっとシュッとしているところ。わかりにくい表現ですね。良い意味で沖縄のうつわに見えないところ、とでも言いましょうか。そんなところが気に入っています。

沖縄だけでなく、イランやメキシコ、再生ガラスのうつわはぽってり感が魅力的でもあるのだけれど、分厚かったり、ずんぐりしてたりするだけが魅力じゃない。

琉球ガラスのうつわ

このうつわは色も明るすぎることもないし、雰囲気も涼やかではあるけれど夏っぽすぎることもないし、年中何も考えずに使える。それが好き。

それでも、手に持った感じの心地よい厚みは沖縄の再生ガラスのうつわのよいところをきちんと押さえている。薄いガラスのうつわだとちょっと緊張感があるので怖いけど、これくらいの厚みだと、取り皿にして多少雑に扱っても平気なぐらいだから、この時期特に使い勝手がよい。

エゴマの葉を刻む

さてとエゴマは5ミリちょい幅くらいに切って。もっと細い糸づくりみたいな刺身だったら3ミリくらいでもいいですね。

まあ、この辺は好みです。料理のプロでもありませんから。切ったそばから香ってくるんだな、エゴマ。

エゴマの葉とタコを和える

タコは軽くボイルしたもの。これを切ったエゴマと合えるだけ。ちなみに、この皿自体はどんな刺身にも合います。赤身も、ピンクっぽいものも、白身も。魚のみならず、例えばスライスしただけのトマトでも良いし。使いやすい。

醤油とごま油を合わせたタレをシンプルにかけます。ここに足すなら辛味の刻み唐辛子か、コチュジャンみたいなところでしょうか。とにかく香りが主役なのであまり多くは足しません。

本来ならエゴマ自体も少々で良いんでしょうが、とにかくエゴマをムシャムシャしたいので、エゴマは多め。

エゴマの葉とタコの和え物。琉球ガラスのうつわに盛り付け

さてと食べますか。エゴマの葉の香りとタコの食感、たまらんですよ。エゴマ、なんとなくパワーがあるから夏バテなんかに良さそう、と勝手に思ってます。たぶんそうでしょう。

実は夏バテなんかしていられないんですよ、今年は。本を出しますので、この夏はその原稿をひたすら書かにゃならんのです。

本は旅の本。詳細はまた追って。エゴマをむしゃむしゃ、書きまくります。どうぞご期待ください。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文・写真:奥村 忍