「対」で知る、弾丸函館

こんにちは、BACHの幅允孝です。
「さんち」の旅も今回が3回目。毎度、忙しい中川政七さんと日本全国の工芸産地を巡る旅ですが、今回の行き先は函館でした。本の紹介をしなきゃと思いつつ、何故かいつも食レポ色が強くなっているのはご愛嬌。さてさて、今回はどんな旅になることやら‥‥。

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まさか、大寒波が来るとは。1月の中旬、近年まれにみる寒波が日本北部を覆っていた。ニュースでは今年一番の寒さだと宣言しているのに、僕らはなぜか北海道に向かう。正直いって、寒いのは嫌いだ。寒さと、空腹と、荷物が重いことが、僕の三大苦痛なのだが、その中でも特に寒さには滅法弱い。なのに僕が北海道に向かったのは「熊」のためだ。そう、昭和の応接間には必ず鎮座していた「木彫り熊」の取材をしようと誘われ北海道に渡ったのである。
今回の旅は1泊2日の強行軍。しかも、夜着いて翌日午後帰るという若手お笑い芸人(勝手なイメージです)並みのハードな移動である。羽田空港から出発すること1時間半。夜の函館空港にランディングする際、イカの模様をした地上絵が僕らを招き入れた。函館は、何よりもイカ推しなのだろうか? 出口ゲートまで迎えに来てくれた函館空港ビルデングの方々に「なぜイカなのか」と尋ねたら、「そんなことも知らないのですか?」と驚かれた。函館は五稜郭も函館山も赤レンガ倉庫も北島三郎記念館もあるが、まずはイカ。年中食べられる美味と、毎年秋に行われるイカ祭りが実に盛大なのだという。果たして、今回の旅ではどんなイカにありつけるものなのか?も僕のミッションのひとつに加わった。

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函館の街を車で走る。印象的なのは建物のちぐはぐさだ。コントラストといえば聞こえがいいのかもしれないが、実際は1階が日本建築なのに2階が洋風といったようなユニークな建物がたくさんある。なんでも、1854年に米国と交わされた日米和親条約がきっかけで開港された函館の街は急速に近代化が進んだらしいが、「1Fは雪で隠れるからいい」という理由でそのまま日本風が残っているのだとか。本当なのか?
じつのところ函館の街は「対」というコンセプトで考えてみると面白いという話も聞いた。
先ほどの「日本風建築と西洋風建築」だけでなく、「北島三郎とGLAY」、「ラッキーピエロ(通称ラッピ)とマクドナルド」(ラッピは、ご当地ハンバーガー屋さん。日本で最初に「マクドナルド」が一時撤退したのは函館なのだが、それはラッピの人気が高すぎたゆえという噂もある。函館の子供達はラッピが日本中にあると信じて疑わず、老若男女に愛されている。一番人気はチャイニーズチキンバーガー。)など、一見すると対極にあるように思える存在がユニークに同居する場所が函館なのだ。

ちなみに中川政七商店は函館空港内に雑貨のお店をプロデュースしているのだが、その店舗の名前も「函と館」。函館空港に勤め、今回の旅のアテンドをしてくれた佐藤さん、吉村さんが中心になって進めたプロジェクトなのだが、キックオフとなった中川政七さんのワークショップから『「対」のまち函館』のコンセプトが出てきたのだという。

左から中川政七さん、函館空港ビルデングの佐藤さん、私、函館空港ビルデングの吉村さん
左から中川政七さん、函館空港ビルデングの佐藤さん、私、函館空港ビルデングの吉村さん

そんな話を聞いているうちに、僕たちは今日の夕飯を頂くフレンチ「唐草館」に到着した。大正後期に建設されたという洋館を使ったこのレストランは、じつに清廉。加えて、雪に慣れ親しんでいない東京人は新雪を踏むだけでも興奮する。車から店の入口まで僅か数メートル、ざくりざくりと雪国を足元で感じながら僕らはワクワクと玄関の扉を開けた。

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ドビュッシーのピアノ曲「喜びの島」が流れる店内は、とても居心地の好いリビングルームのような空間。畏まりすぎず、砕けすぎず、絶妙なバランスの店内で頂く料理はオーナーシェフの丹崎仁さんとマダムの文緒さんの人柄が表れた優しい味が特徴的だった。

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前菜の盛り合わせも「まだらを昆布でしめ梅のビネグレットをかけたもの」や「桜のチップでスモークしたサーモン」など北海道らしい魚介が中心で、道産小麦の「春よ来い」を使用したパンも実に美味。そんな中、皆がそのおいしさに唸ったのが、「イカのリエット」だった。早速でました、イカ。通常「リエット」といえば豚のバラ肉や肩肉をみじん切りにして作るものだが、唐草館ではイカでそれをつくる。豚肉ほどラードが気にならず、それでもイカの内臓の濃厚さや、口の中で弾むようなイカ独特の歯ごたえが新鮮。これだけで、白ワインが何杯でも飲めそうである。

右上がイカのリエット
右上がイカのリエット

その後も「地元の6種類の野菜を使ったスープ」や「カリフラワーのムースにカニとオマール海老のジュレを加えたもの」、「ヤギと羊のチーズ」など函館ならではの食材を生かしたコースが続く。

野菜のスープ
野菜のスープ
カリフラワーのムースとカニとオマール海老のジュレ
カリフラワーのムースとカニとオマール海老のジュレ

どれも素晴らしかったが、その中でもうひとつだけハイライトを挙げるなら福田農園の「王様シイタケ」だろうか。びっくりするほど肉厚なシイタケはひと噛みすればジュワッと旨味が染み出してくる、キノコ類の常識を覆す潤い。これを同じ皿にある鴨のローストと併せて食べれば、もうこれだけで函館に来て良かったと勝手に納得してしまったのである。函館空港到着からわずか2時間半、ああ〜いい旅だった!

鴨のローストと福田農園王様シイタケ
鴨のローストと福田農園王様シイタケ

ちなみに「王様シイタケ」は大沼国定公園近郊の横津岳山麓にある七飯町の福田農園で栽培されているという。道南地方独特の寒暖差や横津岳の天然伏流水という自然環境に加え、菌床に使うチップも菌糸を伸びやすくするため形状に工夫を凝らした100%道産のミズナラを使用。寒い寒いこの地でしか栽培できない「王様シイタケ」にスタンディングオベーションを送りながら、僕らは唐草館を後にした。

 

時計も22時を過ぎると気温もますます下がってくる。だが、「唐草館」のホスピタリティですっかり心身ともに温まった僕らは「杉の子」という店を訪れることにした。すっかり元気になってきた。

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「杉の子」は「舶来居酒屋」という不思議な名で呼ばれているのだが、訪れてその意味がわかったような気がした。バーといえば確かにそう。美味しいカクテルもサーヴしてくれるのだが、居酒屋の気楽さも持ち合わせているし、舶来文化を紹介する昭和モダンの風情も漂う。
1958年に函館市若松町にオープンした「杉の子」。当時最もモダンだったバー文化を函館に伝える一方、さまざまな人の人生が交錯する函館のサロンだったともいう。お店には今でも「杉の子」を愛した地元の画家や写真家、漫画家の作品が所狭しと並んでいる。

ここを開いた先代マスターの杉目泰郎さんは2007年に他界されたが、娘の青井元子ママが現在もお店を切り盛りしている。函館駅からわずか数分の現在のお店は、2014年に移転してきた新店舗だというのに、まるで何十年も前からそこにあるような安心感。寒い外とは打ってかわって、地元の人に混じって観光客も暖かいストーブを皆で囲む。来る者を拒まぬ港のような心地よいお店が「杉の子」なのだ。

青井元子ママ
青井元子ママ

僕は1杯目にホットバタードラムを頼み、次の一杯を考えようと初めてメニューに目を通した時、こんな言葉がとびこんできた。「オリジナルカクテル 海炭市叙景(ホワイトラム・映画・スモーキーブルー)850円」。

『海炭市叙景』といえば…。ものすごく久しぶりに触れたその漢字の連なりは、函館生まれの小説家 佐藤泰志の代表作のひとつだったことを僕は思い出した。

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ものすごく乱暴な括り方をするなら、1949年は函館と神戸という2つの港町で2人の小説家が誕生した年だ。1人は佐藤泰志、そしてもう1人が村上春樹である。作風も小説に対する態度もまったく異なる2人だが、海の町で青春を過ごした彼らは同じ年に学園紛争真っ只中だった東京の大学へ進学。
佐藤は芥川賞に5度ノミネートされ、村上も2度同賞の候補になったものの、2人とも結局受賞することはなかった。2度目のノミネートだった『1973年のピンボール』以降は長編小説にフィールドを移した村上が、その後活躍の場を世界中に広げていくのとは対に、佐藤泰志は1990年に41歳で自死をした不遇の書き手である。

オリジナルカクテル 海炭市叙景(ホワイトラム・映画・スモーキーブルー)
オリジナルカクテル 海炭市叙景(ホワイトラム・映画・スモーキーブルー)

以後、佐藤泰志の作品は全て絶版となり、知る人ぞ知る小説家となってしまった。ところが、2007年に『佐藤泰志作品集』が発刊されてから急に再評価が進む。そして、『海炭市叙景』の舞台、架空の町「海炭市」のモデルとなっている函館の有志たちがこの作品の映画化に取り組み、熊切和嘉監督によって2010年秋に公開。その後、同じく佐藤泰志が書いた『そこのみにて光輝く』も2014年に呉美保監督によって映画化され、モントリオール映画祭最優秀監督賞を受賞し、米国アカデミー賞外国語映画部門でも日本代表作品に選ばれた。

さらには佐藤泰志の小説家人生を追ったドキュメンタリー映画「書くことの重さ」も公開され、函館を代表する小説家の言霊が2010年代に蘇ったのだ。
佐藤が小説で描く普通の人々の代わり映えのしない日常。その中に在るひりひりとした痛みや孤独、そして光。1980年代のバブル真っ只中にこの哀切を書き切るのは圧倒的な絶望と対峙していたか、疲弊してゆく地方都市の未来を見据える目を持っていたに違いない。ともあれ、佐藤泰志の小説世界は現代を生きる人々の心をつかみ、多くの有志を生み出した。

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カクテルの名にもなっている『海炭市叙景』は、1988年から始められた彼の最後の連載。「海炭市」=「函館市」に生きる36人の人生を描く短編で切り取ろうとし、結局半分の18人の物語しか佐藤は描くことができなかった。自身をモチーフにした職業訓練校に通う中年男や定年間近の路面電車運転手、炭鉱を解雇された青年と妹など、登場するのは市井の人々。そして、誰もがどこかに痛みや苦しみを抱え悶々としている。佐藤が書いた誰かの感情は、20年以上の時を超えて人の胸にやっと届いた。

バカルディのホワイトラムにレモンジュースやヒプノティック、サンブーカを混ぜた「杉の子」オリジナルのカクテルは『海炭市叙景』の物語と同じで複雑にほろ苦く、けれど優しい味のする1杯だった。なんでも、ママの杉目千鶴子さんも佐藤泰志作品の映画化に奔走した一人だったそうである。

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翌日、車の温度計はマイナス10度の外気を知らせる。寒いというより、外気に触れた皮膚が痛いという感じだが、僕たちは急がねばならない。函館から車で2時間ほど北上し、「木彫り熊」発祥の地といわれる八雲町に向かうのだ。

「木彫り熊」の出自をめぐっては、旭川派と八雲派に分かれるらしいが、それについては別の記事に譲ることにしよう。僕は八雲町の「木彫り熊資料館」を訪れ、1人の「木彫り熊」作家のファンになってしまったのだ。

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1878年に徳川慶勝によって進められた旧尾張藩士の集団移住。その開拓先だった八雲町には「徳川農場」ができあがった。その後の1922年、第19代徳川義親が欧州周遊中にスイスのベルンで見かけた農村美術品を持って帰り、その中のひとつが「木彫り熊」だったといわれている。義親は開墾の難しい冬季の収入源としてペザントアートの紹介をしたが、1928年の八雲農民美術研究会設立に合わせ「木彫り熊」を主軸に民芸品制作を進めることに決定。八雲町には様々な「木彫り熊」の名人が生まれることになった。

「木彫り熊」と単純にいっても、大きく「毛彫り」と「面彫り」に分かれることすら僕はこの旅で初めて知った。毛の1本1本を丁寧に彫り、肩の盛り上がった部分から放射状に熊の毛が流れる彫り方。皆が「木彫り熊」といってイメージするこれは、上から見ると菊の花に見えることから「菊型毛」と呼ばれ八雲の「木彫り熊」を特徴づける彫り方らしい。だが、僕が魅力的に感じたのは実のところ「面彫り」の方である。これも八雲町オリジナルの表現らしいが、熊の毛をほとんど彫らずにカットした面で熊の造形を表す抽象的な彫り方。その面彫り作家の中でも柴崎重行という名人の作風に僕は心打たれた。

柴崎重行の面彫りが特徴の木彫り熊
柴崎重行の面彫りが特徴の木彫り熊

1905年、柴崎は八雲町の鉛川で生まれる。家業の農業を手伝いながら木彫りをしており、農民美術研究会に参加して熊の木彫りを始め、初期は毛彫りの熊を制作していたそうである。ところが、彼は農閑期の収入源といった副業意識の強かった八雲の「木彫り熊」のあり方に疑問を持ち、自身の表現として「木彫り熊」を捉えるようになった。柴崎の「木彫り熊」の魅力は、斧を使った大胆な切断面を生かした作風。見方によっては、現代彫刻のようにも見える柴崎の作品は「柴崎彫り」とも呼ばれ、唯一無二の存在感を示すが、中でも僕が好きだった作品が「這い熊」という1932年に制作されたものである。

柴崎重行と根本勲の合作「這い熊」
柴崎重行と根本勲の合作「這い熊」
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これは柴崎と根本勲の合作だが、ぱっと見たところどこが熊の頭や胴なのかもわからない。けれど、よくよく鑑賞していると自然と木塊から熊の姿が浮かび上がってくる不思議な彫刻なのである。「山越郡中の沢」でみつけた木の根に「若い情熱をぶつけて制作」したという「這い熊」。東京の美術学校で彫刻を学び、のちに北海道教育大学函館分校で彫刻を教えることになる根本の影響を受けながら、柴崎の「木彫り熊」が未踏の境地に踏み出した第一歩目といえるのかもしれない。
最終的には「珠(たま)のようになった」、「熊らしくない熊を作りたい」と独自の道を歩んだ柴崎重行の「木彫り熊」。王道の「毛彫り」の対となる場所に敢えて自ら進み、独特の美意識を発揮した彼に出会えただけで、今回の函館旅の意味はあったのかもしれない。

様々な「対」を通して見た函館の18時間、有名な観光名所は周れなかったかもしれないが、僕の中では確かな手応えと、寒さに対する耐性をつかんで帰路につくことになった。今度はもっとゆっくり訪れます!

《今回の本たち》

『函と館』
『函と館』
『海炭市叙景』
『海炭市叙景』
 『そこのみにて光輝く』
『そこのみにて光輝く』
『カレーライス』(木彫り熊ページ)
『カレーライス』(木彫り熊ページ)

<取材協力>
RESTAURANT 唐草館
八雲町木彫り熊資料館

幅允孝 はばよしたか
ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。
www.bach-inc.com

文:幅允孝
写真:菅井俊之

ハロー、松葉ガニ & 永楽歌舞伎

こんにちは、BACHの幅允孝です。
さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する「気ままな旅に、本」のコーナー。前回は「奈良にうまいものはない」と言い放った志賀直哉の呪い(?)を取りあげたが、今回は兵庫県豊岡市への旅である。そう、そこは志賀直哉が『城の崎にて』を書いた城崎温泉などがある町。あまり彼ばかりを引っ張るので、読者の皆さんには「どれだけ好きなん?」と思われているかもしれない。(実際、志賀直哉はいいんですよ。特に短編が本当に。)けれど、この時期に豊岡を訪れる理由はたくさんあるのだ。
まずは、11月7日に解禁となる松葉ガニ。これは関西圏の人にはおなじみだろう。毎年、「かにカニ日帰りエクスプレス」という謎の臨時特急列車が増発し、温泉に浸かり新鮮な蟹を食べる悦楽に身を委ねる方が多いという。そして、もうひとつは毎年この時期に豊岡市出石にある永楽館で開催される「永楽歌舞伎」である。片岡愛之助を座頭として9年前から始まったこの定期公演。2016年は11月4日から11日までの公演だったのだが、蟹も食べられ、歌舞伎も見られる11月7、8、9、10、11の5日間のみが、豊岡で味わえる贅を凝縮した究極の数日といえるだろう。というわけで、煩悩と食欲を否定しない我々は行ってまいりました。究極の豊岡を味わいに。  

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東京 羽田空港を7時半に出発する便に乗り、伊丹空港で乗り換え。そこから日本エアコミューターの小さな機体に30分ほど揺られ、9時40分に但馬空港へと到着した。関東圏からは、断然列車よりも飛行機の方が早いのである。空港からJR豊岡駅まで車で20分ほど走り、奈良からやってきた中川政七氏をピックアップ。さらにそこから20分ほど運転し、出石の町に到着した。

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室町時代は山名宗全らが治めていたというこの周辺。豊臣秀吉の弟・秀長によって山名が滅ぼされた後は木下昌利、青木甚兵衛などが城主を務めたが、結局、播州竜野にルーツを持つ小出吉英が平山城を新しくつくり、いまの出石の前身となる城下町づくりが行われたという。「但馬の小京都」といわれる町並みは実に風情があり、ぶらぶら目的もなく歩いていても愉しいのだが、せっかくだから何軒か訪れるべきお店を紹介しよう。

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まずは、町を歩いていてもひときわ目に入る、赤土でできた土蔵。これは、1708年(宝永5年)に創業した「出石酒造」の酒蔵だという。ここではお酒の販売だけでなく、気軽に試飲もできるとのことなので、蔵を代表する「楽々鶴」(ささづる)の上撰原酒をちびりいただく。アルコール度数は高めだが、案外するりと喉を通る。ほんのりとした甘みは透明感もあり、なんだか急に気分もあがってくるではないか。やはり、いい旅に地元の酒は欠かせませんな。

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と、昼から呑んでいる言い訳もほどほどに、次に紹介したいのが「出石皿そば」である。この蕎麦、小さな出石焼きの小皿に盛り付けられ、それを何枚も食べる独特のスタイルなのだが、薬味が実にユニーク。ねぎ、大根おろし、わさびは定番だが、ここに玉子ととろろが加わるのが出石皿そばである。

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訪れた「たくみや」は若き蕎麦職人 宮下拓己さんが営むお店で古民家を改装した町家風の内装が心地よい。僕たちは、いろりを囲んでゆったりしていたのだが、なによりも蕎麦が美味で驚いた。なんでも、麺棒一本で延ばす「丸延し」や「手ごま」で蕎麦を切るなど、出石皿そばの伝統をしっかりと守った丁寧な蕎麦づくりを心掛けているそうだ。そんな蕎麦に、これまた出汁にこだわったつゆをつけて、ちびりと一口。鼻腔を蕎麦の薫りが駆けのぼる。さらに、ねぎやわさびに始まり、玉子やとろろなど多様すぎる薬味をどんどん加えていけば、自分ならではの蕎麦を味わえるというわけだ。ちなみに、僕は愛知の出身。「ひつまぶし」文化に慣れ親しんでいた者としては、この「自分で味を創っていく」出石皿そばは、なんとも愉快な蕎麦だと思えた。

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他にも、出石には見所と思える場所がたくさんある。コリヤナギで編んだ豊岡杞柳(きりゅう)細工の「たくみ工芸」では、伝統的な柳行季(やなぎごおり)のトランクを物色。驚くべき技術と忍耐で、コリヤナギの栽培から加工、製作まですべて手作業で行う職人の気概に触れ、大きなものだと1年以上待ちという人気の理由を知る。

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また、「永澤兄弟製陶所」では、透き通るような磁肌の出石焼を拝見。柿谷陶石という純白の原料からつくられる静謐な磁器は、出石蕎麦の小皿もいいが、緊張感のある花器や大きめの皿だと特性がより生きるように感じた。窯元五代目永澤仁さんは、出石焼の伝統を守りながらそれをどう越えていくのかを日々考えているそうだ。

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グッバイ、志賀直哉

こんにちは、BACHの幅允孝です。
さんち編集長の中川淳さんと旅をし、そこでの発見や紐づく本を紹介する「気ままな旅、本」のコーナー。
第1回目は中川さんのお膝元、奈良県編をお送りします。ほとんど食レポになっておりますが、ご愛嬌。
奈良の「うまいもん」を探す旅をおたのしみください。

奈良にうまいものはない。小説家の志賀直哉が随筆『奈良』の中でぽつりつぶやいた一言が、現代まで奈良県民を苦しめることになろうとは、彼自身も想像していなかったに違いない。
そもそも『奈良』とは、1938年に奈良県が発行した冊子「観光の大和」創刊号に志賀が書いた僅か4ページほどの短い文章。一読すると、たしかに「食ひものはうまひ物のない所だ」という記述がある。ふうむ、原稿を受け取った県の職員もなぜ訂正をお願いしなかったのか。しかし、よく読んでみると奈良のわらび粉や豆腐、がんもどきを褒めている。牛肉もいいと書いている。そう、このエッセイは奈良を離れる直前の志賀直哉が奈良愛を綴ったものなのだ。つまり、志賀が書いたとされる「奈良にうまいものなし」は、前後の文脈から外れ、残念な一人歩きをしてしまっているわけだ。

というわけで、今回の旅のテーマは志賀直哉の言説におさらばしたくなるような奈良県のおいしいものを紹介することに急遽決定。まず訪れたお店は「清澄の里 粟」である。
市内から15分ほど車で走り高樋町に。大和盆地を見渡せる小高い丘の上にあるレストランへ到着した。少し息を切らして坂を登るとお出迎えしてくれたのは、ヤギのペーター。彼は放牧中というか、店の周辺をうろうろし、草などをもぐもぐしておる。僕はかなりびっくりしたのだが、やはり奈良の人は鹿で慣れているからか、動物がその辺りをのそのそ歩いていても驚かない。ちなみにペーターは人が食事を始めると、物いいたげな顔で店内を覗き込んでくる茶目っ気たっぷりの牡ヤギ。そして、彼らの暮らすこの場所が、大和伝統野菜とエアルーム野菜が食べられるレストラン「清澄の里 粟」だ。

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ペーターは人の言葉がわかっている賢くチャーミングなヤギでした。

少しだけ説明すると、大和伝統野菜とは戦前から奈良県内で栽培をしている野菜で「味・香り・形態・来歴」に特徴があるもの。一方、エアルーム野菜とは、世界中の様々な地域・民族間で受け継がれてきた伝統野菜で「家宝種」などと訳される。ここ「清澄の里 粟」は、そんな貴重な野菜を地元農家と連携しながら栽培し、調理、提供するお店。そして、オーナーの三浦さんが大事にする「不易流行」の言葉通り、変えてはいけないものを大切にしながら、未来の伝統野菜を考える場でもある。
靴を脱ぎ、机がいくつも並ぶ店内にあがると、卓上には見たこともない野菜がごろごろ。その中でも最もインパクトのあった隕石のような野菜について聞いてみると、何でも「宇宙芋」と呼ぶのだとか。実のところ、これは巨大なむかごで、15センチほどにもなって蔓にできるのだという。他にも、ズッキーニの一種である「ジャンヌ・エ・ベルテ」や、「はやとうり」、瓢箪のような「バターナッツ」という甘みのあるカボチャや「スター・オブ・デイビッド」というオクラなど、普段なかなかお目にかかれない古来から伝わる野菜を、少しずつ60種類も食べられるのである。

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不思議な野菜に囲まれる筆者。真ん中にある隕石が宇宙芋。
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ポケモンGOのスターミーにしか見えないジャンヌ・エ・ベルテ

前菜から始まり、小さな鍋、季節食材の煮物、てんぷらなどなど、ゆっくりじっくりと味わう野菜料理は、まさに土地の滋養。味付けも尻あがりというか、噛めば噛む程じわじわと旨味がにじみ出る。また、個々の野菜がそれぞれ持つ細やかな違いにも敏感になれるのもこのお店の特徴。例えば、「ジャガイモ」と僕らは大まかに呼ぶけれど、ここで食した「ノーザンルビー」と「野川芋」は同じジャガイモながら全く異なる味わい。小さな単位で野菜について考えるきっかけになる。
「むこだまし」というこの地の特有の粟を使った和菓子「粟生」まで、たっぷり3時間の昼食。気持ちよくゆったりしていたら、いつの間にか午後も深くなってしまった。大和伝統野菜を中心とした土地の滋養と、ゆるやかに流れる時間と、ペーターとの触れ合いが愉快な「清澄の里 粟」は、時空がすこし歪んでいる心地よい場所だった。奈良の自然を愛した志賀直哉に彼らの活動は響くと思うのだが、いかがだろうか。

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この暖簾の向こうに驚きの蕎麦が…

さて、次に訪ねた一軒は、蕎麦の名店として奈良で名高い「玄」。日本酒「春鹿」で知られる今西清兵衛商店所有の書院の一角にある木造平屋建築に店を構えている。夜は「蕎麦遊膳」という懐石のみだが、ここの蕎麦を志賀が食べていたら、『奈良』の原稿も少し違った表現になっていたかもしれないと思えた。
食事は蕎麦豆腐から始まり、水蕎麦、田舎蕎麦、焼き物、ご飯、水菓子などが続く。なかでも僕が驚いたのが、ふわふわの蕎麦がきである。ほのかに温かい「玄」の蕎麦がきは、まるで赤ん坊のような柔らかさ、ぬくもり。まさに生まれたての蕎麦がきである。まずは何もつけずに一口。素朴な味わいの奥に蕎麦という植物の甘みがじんわり浮かび上がってくる。二口目は塩をはらはらと振っていただくと、円みのある甘さが際立ち、三口目に醤油とワサビで食せば、今度は蕎麦の香りが引き立つ。
そもそも蕎麦を食べるのに、麺状にするようになったのが600年ほど昔。それ以前は、殻を外して手で挽いて、つなぎなしでかき混ぜて作る蕎麦がきか、米の代用品としての蕎麦雑炊が、蕎麦の主な食べ方だったとか。「玄」の蕎麦がきは、ちゃんと手間暇をかけているのに、昔から連綿と続く原初的な味がする。蕎麦とはこういうものなのだと感じさせる清らかな体験である。

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柔らかく、温かい蕎麦がき

ちなみに、その次に登場した水蕎麦も驚くほど素の蕎麦。余計なものを削ぎ落とし、裸になった十割蕎麦である。玄蕎麦を石臼で挽き、ひとり分ずつ茹で締めて出される。茹で上がりから口に入れるまでの時間がとても重要らしく、仲居さんが早歩きで蕎麦を運んでくるのもこだわりの一部。あのきびきびした給仕は見ていて気持がよい。その水蕎麦、まずは何もつけずにそのまま口に入れると、ふむむ、透明な味がする。続いて(名前の通り)軟水が入る蕎麦猪口に浸して蕎麦をすすると、今度は蕎麦の甘さとさらさらした喉越しがよくわかる。その後、塩や梅肉でいただくのだが、時間や食べ合わせと共にくるくると味が変容する。感動は言葉を超えているが、頭のなかで音楽が鳴り出すような蕎麦である。この晩は、蕎麦に合わせ日本酒とのマッチングも提案してもらったのだが、春鹿の純米超辛口のような旨くてキレのある辛口の酒も蕎麦のソースのように愉しめた。そして、その後も続く蕎麦と日本酒のめくるめく邂逅にふらふら、くらくらしたのは言うまでもない。奈良の夜では素晴らしい酩酊が味わえると志賀先生の墓前に報告したくなってきたぞ…。

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これが水蕎麦です。まずは左端の軟水につけて食べます

ほろ酔いの奈良の宵を締めるのは、この人しかいないだろう。奈良ホテルのヘッドバーテンダーを務める宮崎剛志さん。僕は以前、対談のお仕事でもご一緒している。彼は奈良ホテルにバーテンダーとして就職したものの、なぜか案内係、ソムリエ、総務企画の担当に。けれど、バーテンダーの夢を捨てきれず独学で修行を続け(家にバーカウンターをつくり「ラボ」と呼んでいたそうです)、2013年に開かれたバーテンダーの世界大会で入賞。その技と努力が認められ奈良ホテルのメインバーに返り咲いた人である。
久しぶりにお会いした彼は、相変わらずのカクテル狂。様々な実験を繰り返しながら、新しい味わいについて考案しているのだという。「以前に比べてオーソドックスなカクテルを大切にしています」といい、実際に一杯目でいただいたマティーニは威風堂々といった風情。甘み、酸味、苦味、渋味といった味の構成要素を想像しながら理詰めでカクテルをつくるという宮崎さんらしいニュースタンダードである。
一方、バーカウンターには数々のスピリッツに混ざってなぜか「九重桜の本みりん」が置いてある。突っ込まないわけにいかないので尋ねると、最近は日本酒を用いたカクテルをいくつか考えているのだとか。本みりんはメキシコのプレミアムテキーラ「Don Julio」のレポサドと合わせたり、奈良県橿原市にある河合酒造「出世男」の蔵出しにごり酒とオランダで造られる小麦100%のウォッカ「Ketel One」を組み合わせてみたりと、宮崎さんの探求はとどまるところを知らない。日本酒を味の中心に据えすぎると外国人など日本酒を飲みなれていない人には難しいカクテルになってしまうが、メインのお酒を後ろから支え、ほのかに米の旨みが下から浮かんでくるような宮崎風日本酒カクテルは実に面白い発想。縁の下の力持ち的な存在が、世界のカクテル界で戦う日本酒には似つかわしいのかもしれない。まあ、そんなこんなで飲み食いばかりの奈良旅の初日は幕を閉じるのだった。

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宮崎さんのあくなき探究心。日本酒カクテルをあなたも試してみては?

翌日、二日酔いもなく元気に僕が訪れたのは奈良市高畑にある志賀直哉旧居。430坪の大きな敷地に建つ実に優雅な邸宅である。小説家は当時そんなに儲かる仕事だったのか? と素朴な疑問を持ちつつ眺めるそれは、隅々まで志賀直哉の美意識が行き届いた贅沢な家。ここは1929年に志賀直哉自身が設計し、13年間住み続けた場所だ。じつのところ、志賀はとにかくひと所に居続けられない性分で、人生で28回も引越しをしたといわれている。そんな彼が13年間も住み続け、3人だった子供が6人にもなった奈良を愛していなかったはずがないではないか。
入館して最初にあがる2階の客間から見える庭は見事。窓際の畳に座り、外から吹く風を感じると自然に歌でも詠みたくなる。(やったことはないけれど。)「こりゃ、いいものが書けそうだ」と文才をうっちゃり環境を羨むが、実際に志賀はこの旧居で代表作の『暗夜行路』を脱稿したらしい。
そんな中、この志賀の旧家でもっとも印象に残ったのが、食堂(ダイニングルーム)と台所だった。実は家の中で最も大きな部屋が家族みなで食事をとるダイニングルーム。しかも、部屋の角には革張りの大きなソファーがしつらえられており、志賀直哉がこの食堂を自由な団欒の場所として設計していたことがよくわかる。『衣食住』という本で、志賀は食について「毎日三度、一生の事だから、少しでもうまくして、自分だけでなく、家中の者までが喜ぶようにしてやるのが本統だと思う」と書いている。また食堂のすぐ隣には和風のサンルーム(瓦敷のヴェランダと呼ばれていた)と台所につながり、この一帯が家内サロンとして賑わっていたという記録も残っている。

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この広々とした食堂で志賀家の人々は何を話していたのか
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食堂はサンルームにつながっている

もうひとつこの志賀直哉旧居で忘れてはいけないのが台所だ。1930年前後では画期的なことにガス、水道、電気、氷冷式冷蔵庫といった当時の最新設備が揃い、食堂と直につながっていた。しかも、引き出しは台所、食堂の双方から引くことができる機能的なものだったようだ。ダイニングキッチンが第二次世界大戦後に普及したことを考えると、志賀直哉の合理的でモダンな考え方はずいぶん早かった。しかも、住み込みの女中たちがきっと必死で調理を日々していたのだろう。なにせ、先述の『衣食住』で志賀はこんな言葉も残している。「私が一番不愉快に思うのは一寸気をつければうまくなる材料を不親切と骨惜みから不味いものにして出される時である」。なかなかのプレッシャーのかけ方ではないか。

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この冷蔵庫にはどんな食材がはいっていたのでしょう?

僕は志賀直哉の旧居を訪れ、この食堂や台所をみて、彼がずいぶん長い時間をここで過ごしていたのだろうなと想起した。妻や6人の子供との時間。「高畑サロン」という名が残っているように白樺派の文人や、異分野の文化人もずいぶんこの家に押しかけ、志賀を囲んだに違いない。そうすると、そもそも志賀は家以外の場所で奈良のご飯を食べることが少なかったのかもしれない。だからこその、あの言葉である。「食ひものはうまひ物のない所だ」。
女中たちの料理に厳しかった側面も垣間見えるが、それでも志賀直哉は奈良の自分のおうちが大好きだった。ゆえに、今回の旅で僕が経験したような、奈良に息づく食を探す必要もなかったのかもしれない。もし、もっと積極的に志賀が外食をしていたら、きっと彼はこう言ったはずだ。「奈良にはうまいものしかない」。そう確信するほど、おいしい奈良を満喫した竜宮城コースの旅だった。

《今回の本たち》

yagi

『ヤギ飼いになる』
美味しいミルクを提供する家畜であり、ペットとしての愛くるしさも併せ持つ、ヤギ。そんな彼らの魅力や飼育方法を、ヤギ飼いの先輩たちの声も拾いながらじっくりと紹介していきます。
yamato_yasai

『家族野菜を未来につなぐ』
「清澄の里 粟」のオーナーである三浦夫妻が記した1冊。大和伝統野菜のエッセンスである「家族野菜」という考え方について、レストランオープンまでの道のりと一緒に丁寧に語ってくれます。
irohakaruta

『大和の野菜 いろはカルタ』
44枚の絵札に大和の伝統野菜をあしらった、思わずお腹が鳴ってしまいそうなカルタ。制作のきっかけは、三浦さんの取り組む家族野菜でした。読み札には、調理方法もしっかり書いてあるので安心です。
sobanojiten

『蕎麦の事典』
簡潔なタイトルの通り、1155項目に渡る蕎麦の用語を50音順に網羅した、まさに蕎麦の読む事典。原材料から行事、蕎麦にまつわる諺まで、蕎麦への愛が十二分に詰まった1冊です。
sobatowatashi

『そばと私』
1960年の創刊以来、「蕎麦の文化誌」として親しまれてきた季刊『新そば』。そこに寄せられた蕎麦好き67人の声をまとめたアンソロジー集には、独特の熱気が詰まっています。
ishokujyu

『衣食住』
志賀直哉の作品から随筆28篇、短篇5篇を選び再構成した1冊。作家らしい日常生活への鋭い観察眼とともに、合間に挟まれる「城の崎にて」などの小説が小気味良いリズムを生み出しています。
kyuteinofukugen
『志賀直哉旧居の復元』
2008年、志賀直哉が建築した当初の姿に修復された、彼の旧邸。その過程をまとめたこの本は、志賀直哉旧居でのみ販売されています。志賀の暮らしぶりを堪能した後は、本書もぜひ。
zenshu
「奈良」(『志賀直哉全集 第6巻』収録)
「東京人の方が好きだ」「奈良の欠点は税金の高い事」などの手厳しい言葉が続きますが、最後には「兎に角、奈良は美しい所だ」と締めくくる。忌憚のない物言いは、長く奈良を愛した彼だからこそのものですね。

幅允孝 はばよしたか
ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。
www.bach-inc.com

文:幅允孝