何はともあれ、牧野植物園へ行こう。“植物愛”が深まる高知の名所へ

高知の旅は牧野植物園へ

こんにちは。BACH (バッハ) の幅允孝 (はば・よしたか) です。

さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する不定期連載、「気ままな旅に、本」。今回は高知の旅へ。


幅允孝 (はば・よしたか)
www.bach-inc.com
ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。

植物の愛人、牧野富太郎

人は観光というと、アミューズメントパークや動物園などに惹かれるようです。

比べて、植物園と聞けば「なんか地味?」と思ったあなたこそ行くべき場所があります。それは、高知県立牧野植物園。

高知県立牧野植物園

高知の偉人といえば坂本龍馬や岩崎彌太郎、いやいや、アンパンマンのやなせたかしだって高知だぞという方もいるでしょう。

けれど、僕の個人的な高知の素敵な偉人ランキングでは、これまでもこれからもずっと牧野富太郎が不動の1位です。

彼の本を通して伝わって来る、人として、植物研究者としての魅力をぜひ誰かに伝えたいのです。

比較的裕福な造り酒屋の息子に生まれたものの小学校の授業に飽きて2年で自主退学。野山で草木に囲まれながら独力で植物学に取り組み、日本の植物分類学の基礎を築いた高知人、それが牧野富太郎です。

彼はのちに東京帝国大学植物学研究室に出入りするようになり、講師を務めながら論文を提出して植物学博士になりますが、「学位など無くて、学位のある人と同じ仕事をしながら、これと対抗して相撲をとるところにこそ愉快はある」 (『牧野富太郎自叙伝』より) と、のたまうところが既にユニークですよね。既成概念にとらわれない高知人気質とも言えます。

人が生涯追い求める社会的地位やお金になど目もくれず、学歴も勲章も金銭も持たず丸腰で悠々と94歳まで生きたのが彼でした。

そんな生き方がなぜ可能だったのか?という問いの答えは簡単で、彼には植物があったからです。

74歳のとき書いたエッセイには「私は植物の愛人としてこの世に生まれてきたように感じます。あるいは草木の精かも知れんと自分で自分を疑います。ハヽヽヽ。」 (『植物と心中する男』より) と記しています。

「飯より女より好きなものは植物」と断言し、寝ても覚めても夢中になれるものが傍らにあること。結局、仕事は朝起きる理由づくりだと僕は思っているのですが、彼の場合、生涯を通して植物を学び遊んだという生き方がとても素敵だと思うのです。

そんな牧野富太郎の植物の見方を感じるために、牧野植物園に行きましょう。

いざ、牧野植物園へ

1958年に高知市の五台山に開園したこの場所は、約6haの園内に3000種類もの野生植物が四季を飾っています。常設展だけでなく企画展も充実し、フラワーショウや音楽イベントなども催されている国内でも有数の植物園です。

設立当初から植物園に従事されている鴻上さんに園内を案内いただいた
設立当初から植物園に従事されている鴻上さんに園内を案内いただいた

今回も含め何度も僕は牧野植物園を訪れたことがあるのですが、その魅力は園内に漂うきもちよい空気感と、ゆったり流れる時間の心地よさが他のアミューズメント施設とは明らかに違うことです。

高知市内を臨む広々とした園内
高知市内を臨む広々とした園内

大きい昆虫に受粉をしてもらいたいチューリップやバラは花が大きく、小さな昆虫に花粉を運んでもらいたい桜や梅は花が小さい。

ツツジの花が横を向いているのは虫が入りやすくするためで、上側の花弁の中央に胡麻をまいたような印があるのは、蜜の位置をしらせるため。

僕が知っている何気ない植物の美しさや性質 (牧野風にいうなら生き様でしょうか) は、ぜんぶ彼の書物から教えてもらったことです。

初版の植物図鑑に書き込まれた膨大な赤字
初版の植物図鑑に書き込まれた膨大な赤字

しかも、彼の文章は本当にわかりやすい。

例えば、松や杉など風で花粉を飛ばす植物のことを「きれいな色や匂いで花の存在を広告する必要がないのです」(『なぜ花は匂うか』より)と語り、松や杉の花が人目に触れないわけを伝えてくれます。

生粋の植物狂で先鋭の研究者なのに、誰にでもわかる姿勢を決してなくさないのが、牧野の本当に偉大なところだと僕は思います。

そして、そんな彼の視線に誘われるよう、すべての植物に様々な面白さや意味を感じることができるので、この植物園ではあっという間に時間が過ぎてしまうのです。

小学校を辞めたあとに野山にいた牧野も、きっと同じ時間体験をしていたのかもしれません。

正門からエントランスまでの道は高知の植物生態が再現されている。ぜひ先を急がずゆったり歩きたい
正門からエントランスまでの道は高知の植物生態が再現されている。ぜひ先を急がずゆったり歩きたい
温室でやっていたラン展にて。これはチョコレートに似た香りを放つ品種
温室でやっていたラン展にて。これはチョコレートに似た香りを放つ品種

また、牧野植物園で見逃してはならないのが、彼が描いた「牧野式」植物図です。

牧野富太郎記念館展示館で何枚も鑑賞できる彼の作品は、植物分類の研究用に描かれたものです。が、芸術の域に達していると僕は思います。

園内にも「牧野式」植物図の解説板が立つ
園内にも「牧野式」植物図の解説板が立つ

鉛筆と筆で陰影をつけ、丁寧に描かれた植物たち。花弁の先端の柔らかさまで再現するような筆さばきによるニュアンスは、写真では表現できないものです。

また、植物画というのは、1つの画面の中に植物の全体とパーツをかき分け、成長過程などの差異も記さないといけないのですが、牧野はその辺りのエディトリアルデザインのセンスが抜群です。

花の生涯を絶妙な筆さばきでかき分ける
花の生涯を絶妙な筆さばきでかき分ける
左隅に小さく牧野のサインが記されていた
左隅に小さく牧野のサインが記されていた

植物研究誌の表紙レタリングも自ら手掛け、特製の名刺をつくるなど、研究内容の伝達までしっかりと吟味した現代型クリエイターの感覚を持ち合わせていたと思います。

疑いなく牧野は実地調査の鬼 (生涯40万枚の植物標本を作り、蒐集しました) でしたが、その差し出し方にも考えを巡らせていたのですね。

ちなみに牧野が植物採集に出るときはいつも三つ揃えのスーツを着て、特製の胴乱 (植物採集用のカバン) を持ち歩く洒落者だったようです。

牧野特製の胴乱。展示室内でレプリカを見られる
牧野特製の胴乱。展示室内でレプリカを見られる

また、今回の訪問では特別に牧野文庫の閉架図書 (通常非公開) をみせてもらい、牧野が実際に持っていた書物を何冊か拝見しました。

そのコレクションの中でも、1603年に中国で発行された季時珍の『本草綱目 (ほんぞうこうもく) 』(世界記録遺産にも登録されています)という自然界に存在するあらゆる漢方の素材を記した薬学本や、杉田玄白の翻訳した『解体新書』を見て、手描きの視覚表現を用いながら専門的な内容をわかりやすく伝える「牧野式」植物図の原点を垣間みたような気持ちになりました。

本草綱目
『本草綱目』
解体新書
『解体新書』

自由闊達な精神を持ちながら、自身の研究の届け方にも気を配る牧野富太郎。「1枚の葉も無駄にくっついてはいないのです」とわかりやすく植物を教える彼の名を冠した植物園は、いつも眺め通り過ぎてしまう草花の奥行きを伝えてくれる場所でした。

《まずはこの1冊》

『牧野富太郎 なぜ花は匂うか』(平凡社)

書影:『花はなぜ匂うのか』

『牧野富太郎 蔵書の世界』(高知県立牧野植物園)

書影_蔵書の世界

<取材協力>
高知県立牧野植物園
高知県高知市五台山4200-6
088-882-2601
http://www.makino.or.jp/index.html


文 : 幅允孝
写真 : 菅井俊之

*こちらは、2018年6月1日公開の記事を再編集して掲載しました。身近な植物でも知らないことがたくさん。散策しながら発見を楽しみたいですね。

土佐ジローは生きて死ぬ

こんにちは。BACHの幅允孝です。

さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する不定期連載、「気ままな旅に、本」。高知の旅もいよいよ最終回、5話目になりました。

幻の地鶏を食し、谷川俊太郎の詩を噛み締める

谷川俊太郎さんの絵本に『しんでくれた』という1冊があります。

うし
しんでくれた ぼくのために
そいではんばーぐになった
ありがとう うし

という文章から始まる短いストーリー。

「うし」や「ぶた」や「にわとり」や「いわし」は(それを食べる)人のために死んでくれるけれど、「ぼくはしんでやれない」から、屠った生き物の分も生きる!という少年の表情が印象的な絵本です(「そいで」の使い方なども絶妙ですね)。

高知の旅では美味しい食べ物にたくさん出会いましたが、僕は幻の地鶏といわれる「土佐ジロー」を食した時に上記の『しんでくれた』を急に噛み締めたくなりました。

幻の鶏「土佐ジロー」を育てている「はたやま憩の家」

高知が生んだ幻の地鶏、「土佐ジロー」

「土佐ジロー」と呼ばれる地鶏は、一般的な養鶏とはまったく違った育て方をしているそうです。

通常の養鶏は鳥の増体率を増やすことが最優先。24時間光を浴びせ続け、屠殺するまでの40-50日間に急激に大きくするそう。けれど、「土佐ジロー」の飼育はまず鳥の健康を考えます。そして、肉の旨みを引き出す育て方を追求し、ゆっくりと究極の鶏肉をつくっているのです。

高知龍馬空港から車で90分。なんども「この先に集落なんてあるの?」と同行スタッフに問い続けるくらい細い山道を抜けた先に「土佐ジロー」を育てる「はたやま憩の家」はありました。

はたやま憩の家
細い山道を抜けた先にある「はたやま憩の家」
テストテスト
「土佐ジロー」を紹介した雑誌や新聞記事
「土佐ジロー」は多くの雑誌や新聞記事で紹介されています

遥かなる山道の先に。「はたやま憩の家」で幻の地鶏と対面

なんでもこの場所、以前は800人程いた集落が今では40人以下になっており、何か産業を興こさない限り村は消滅してしまうという危機に瀕していたそうです。


だから、「土佐ジロー」の養鶏を中心に、それが食べられる食堂や宿泊設備といった複合的な「地場」をつくり、トライ&エラーを繰り返して現在に至ります。

「土佐ジロー」は通販でも買えますが、せっかく遥かなる山道を登ってきた僕たちは、ここ「はたやま憩の家」ならではの食べ方で鶏をいただきます。強めの炭火で肉を転がしながら焼くのです。

養鶏場だからこそ味わえる食べ方で「土佐ジロー」を食す
炭火でいただく幻の地鶏「土佐ジロー」
「はたやま憩の家」を切り盛りする小松圭子さん自ら焼いてくれる
「はたやま憩の家」を切り盛りする小松圭子さん自ら焼いてくれる

正直、ひとくち目を口に入れて肉を噛むまで、普通の鶏肉とそんなに違うものだろうかと訝しく思っていたことをここに告白しておきます。


ところが、ひと噛み、ふた噛みして、これはすごいものを頬張っているのだと確信しました。鶏肉特有のゴムっぽい食感など皆無。溢れる肉汁も口の中での広がり方が尋常ではありません。

もも肉、胸肉、首皮と続いてゆき、僕らはだんだん無口になりました。皆、目の前の鶏肉を味わうことに集中してしまうのです。

土の上で育てる鶏の砂肝の弾力と瑞々しさ。通常の養鶏では生える前に出荷してしまうトサカを僕は初めて食べましたが、なんですかこれは。コラーゲンの塊です。ハツも印象的で血の味はしっかりするのに臭みがない。心臓を捧げてもらっている味がします。

なんでも急激に太った動物は人間であれ、鶏であれ臭くなるそうです。ほかにも育ちきった「土佐ジロー」だからこそ食べることができる鶏のシラコや卵焼き、親子丼などなど「土佐ジロー」の隅から隅までの滋養をいただきました。満腹です。

土佐ジローの白子焼き
「土佐ジロー」だからこそ食べられる鶏のシラコ
新鮮な「土佐ジロー」の卵
「土佐ジロー」の親子丼

年一回、土佐ジローを食べることができれば。

谷川さんの絵本では、死んでいった動物たちがどんな飼育をされたのかまで描いていませんが、少なくとも「はたやま憩の家」で食べた「土佐ジロー」は、存分に生きたあとで「しんでくれた」鶏たちだったと思いました。

もちろん、土佐ジローは皆が毎日食べるほど出荷できないし、値段も少しだけ高い(ブランド牛肉と比較したら随分値打ちだと思いますが…)。けれど、山道を登った先にある鶏肉体験が、その人の鶏肉のモノサシを変えることが大事だと思いました。

この良い定点を思い出し、年一回でも「土佐ジロー」を食べることができれば、(社会構造の中で)必要に迫られ追求した通常の養鶏と、こういった地鶏の違いを体感することができます。それが分かれば、時と場合に応じてちゃんと自分で選ぶこともできますものね。

「土佐ジロー」たち、「しんでくれて」ありがとう!

《まずはこの1冊》

『しんでくれた』 (佼成出版社)

谷川俊太郎「しんでくれた」

〈 合わせて読みたい : BACH幅允孝の高知旅 〉

さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する不定期連載、「気ままな旅に、本」。ブックディレクター幅允孝といく高知の旅。

高知・梼原町で見る「負ける建築」家、隈研吾。

BACT幅允孝 高知・梼原町で見る隈研吾

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君は「土佐源氏」を読んだか?

BACT幅允孝 土佐源氏

→記事を見る

何はともあれ、高知県立牧野植物園へ行こう。

BACT幅允孝が行く高知県立牧野植物園

→記事を見る

<取材協力>
はたやま憩の家
高知県安芸市畑山甲982-1
0887-34-8141
http://tosajiro.com/


幅允孝 (はば・よしたか)
www.bach-inc.com
有限会社BACH(バッハ)代表。ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「神戸市立神戸アイセンター」「JAPAN HOUSE LOS ANGELES」など。その活動範囲は本の居場所と共に多岐にわたり、編集、執筆も手掛けている。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)、監修した『私の一冊』(弘文堂)など。早稲田大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。


文 : 幅允孝
写真 : 菅井俊之

7月、謎の天才絵師「絵金」が高知の夜を彩る。

こんにちは。BACHの幅允孝です。

さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する不定期連載、「気ままな旅に、本」。高知の旅も4話目になりました。

7月の高知を彩る「絵金」とは?

高知の夏は「絵金」に彩られる。といっても、何のことだか分からないかもしれません。

「絵金」というのは、幕末から明治にかけて高知で活躍した、独自の芝居絵屏風で知られる画家のこと。絵師・金蔵の名をとって「絵金」と呼ばれているのです。

高知県香南市赤岡町にある須溜田八幡宮で毎年7月の14・15日に行われる神祭。そこでは、神社に伝わる18点の芝居絵屏風を暗闇のなかロウソクの灯りだけで鑑賞する風習が続いています。

しかも、それらの絵は神社近くの商店街にある氏子たちの家に点々と置かれ、町全体を使ったインスタレーションのよう。

その日だけは街灯や自動販売機の電気も消し、当時と同じ光で闇に浮かび上がる絵金の作品をみるのです。

祭りの夜の雰囲気を再現した施設「絵金蔵」の様子
祭りの夜の雰囲気を再現した施設「絵金蔵」の様子

残念ながら、僕らは神祭のタイミングとは合いませんでしたが、その絵金の作品と祭りの文化を伝える「絵金蔵」を訪れ、この謎の多い絵描きについて詳しく知ることができました。

絵金
絵金

髪結いの子から土佐藩御用絵師に

まずユニークなのが絵師・金蔵の来歴。

1812年に髪結いの子として生まれた彼は幼い頃から画才を認められ、土佐藩御用絵師の前村洞和に学び狩野派を叩き込まれます。

通常、狩野派の修行期間は10年ですが、彼はわずか3年で免許皆伝。洞和から一字を拝領し、洞意の号を受けました。

髪結いの子が名字帯刀を許される御用絵師、林洞意にまで上り詰めたのです。

絵金
絵金蔵の中の展示資料を見学中

ところが、そんな順風満帆の彼を待ち受けていたのは突然の悲劇。33歳のとき狩野探幽の贋作事件に巻き込まれた彼は、お城下追放になってしまいます。

その時、彼が林洞意として描いた作品のほとんども焼き捨てられました。

後年描かれた狩野風の白描からはその天才的な筆力をうかがい知ることができますが、その優れた筆力が仇となって御用絵師・林洞意は闇の中へと姿を消すことになってしまったのです。

それからの10年間。失意の金蔵が一体どこで何をしていたのかは、未だに謎のままです。

絵金

ところが10年後、土佐に戻った彼は御用絵師の堅苦しい裃を脱ぎ、庶民の中で描きたい絵を自由に描く町絵師として復活します。

当時人気のあった歌舞伎や浄瑠璃の演目を脚色して芝居絵屏風を描き、廻船問屋や商工業が栄えた赤岡の町で庶民の熱狂的な支持を集めました。

それが、絵師・金蔵が誕生したきっかけです。

闇夜で目撃する絵金の筆致

弟子たちの作品を含め「絵金」風の芝居屏風絵は、1枚の絵の中に芝居のストーリーが幾重にも表現されているのが特長です。

絵金の弟子は「絵金さん」と呼ばれ親しまれた
絵金の弟子は「絵金さん」と呼ばれ親しまれた

二曲一隻屏風には赤や緑の鮮やかな色彩が踊り、大胆な構図の躍動感がみる人に「これでもか!」と迫ってきます。

紆余曲折を経た絵師・金蔵の絵にかける執念と描く悦びが屏風に叩きつけられているようなのです。

そんな彼の怨念にも似た筆致が暗闇のなかから浮かび上がる迫力は、実に見応えがあります。

絵金

というのも「絵金蔵」でも神祭の夜に倣って展示室を暗くし、ほのかな光のみで「絵金」を鑑賞できる仕組みがあるからです。
できれば、次回は本当の闇で彼の執念を目撃したいものですが‥‥

展示室では提灯を手に、祭りの夜さながらに暗闇の中で絵金の屏風絵の複製を見学できる
展示室では提灯を手に、祭りの夜さながらに暗闇の中で絵金の屏風絵の複製を見学できる

ちなみに絵金についてもっと詳しく知りたい方は高知県立美術館が発行する『絵金 極彩の闇』がおすすめです。

絵金蔵で関連書籍を手に取ることもできる
絵金蔵で関連書籍を手に取ることもできる

2012年に絵金生誕200年を記念して開催された展覧会図録ですが、大衆芸術として学術的には陽の目をみなかった「絵金」の価値を再認識させるきっかけになりました。

祭りの道具だった「絵金」が芸術として見直され、地域の活性化にも役立っているのです。

《まずはこの1冊》

『絵金 極彩の闇』 (高知県立美術館)

絵金 極彩の闇

<取材協力>
絵金蔵
高知県香南市赤岡町538
https://www.ekingura.com/


幅允孝 (はば・よしたか)
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ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。


文 : 幅允孝
写真 : 菅井俊之

君は「土佐源氏」を読んだか?

こんにちは。BACHの幅允孝です。

さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する不定期連載、「気ままな旅に、本」。2018年の春は高知の旅へ。

「土佐源氏」のふるさと

高知の梼原 (ゆすはら) を訪れることになって何が一番嬉しいかというと、宮本常一が『忘れられた日本人』で書いた「土佐源氏」のふるさとに来ることができたことです。

宮本常一とは日本の民俗学者で各地の農村、漁村、島を踏査し独自の民俗学を築いた人といわれています。民俗学というと何やら難しそうに聞こえますが、要は人の暮らし、習慣、生活道具、儀礼などずっと伝わる人間の営みを調べ、現在の生活文化との違いを相対的にみる学問のことですね。

「山口県須防大島の百姓」という出自を生涯誇った宮本は、社会の底辺を支える同胞として様々な人の話を聞くため日本中を巡りました。フィールドワークのために歩いた距離は16万キロ (地球4周分) 。泊まらせてもらった民家は1000軒以上。師匠の一人である柳田國男と比べても、宮本はつねに足で稼ぐ実践派だったのです。

民俗学を「内省の学」とし、人の暮らしの祖型を探ったのは柳田。一方の宮本は人の暮らしに統一された文化があったのかと常に疑問を持ち、農村と漁村の差異や、西日本と東日本の違いを大切にしました。そんな彼が日本全国の辺境の地で黙々と生きてきた古老たちの話を聞き、それを生き生きとした筆致でまとめた本が『忘れられた日本人』というわけです。

宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫
宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫

冒頭で挙げた「土佐源氏」は、四万十川の最上流部の橋の下に住む盲目の乞食から聞いた話を宮本が書き記したもので、文庫本でもわずか27ページの短い文章です。ところが、名も知らぬ高知・梼原の翁が語るオーラルヒストリーが、世に溢れるラブストーリーを凌駕するとは!

梼原の老人はもともと馬喰といって馬の世話などをしていた身分の低い男でした。みなしご同然だった彼は幼い時に奉公へ出て、そのまま馬喰になったのですが「わしは八十年何にもしておらん。人をだますことと、女をかまうことで過ぎてしまうた」と本人がいうように、特別なことは何ひとつ起こらず貧しいまま人生を過ごし挙句は乞食として橋の下で暮らしていました。

ところが、昔むかしに自身が経験した上流階級の人妻たちとの「色ざんげ」へと話が及ぶと、これが愁いを感じる恋物語として読み手の心をつかんで離さなくなるのです。特に、文庫版P.181の「秋じゃったのう。〜」の部分からは出色の出来映えで、語り部は急に饒舌となり身分違いの2人の逢瀬に読者はどきどきしてしまうことでしょう。

ここでは内容までは書きませんが、男が捧げた思いやりと女が抱えた悲しみが交錯する寓話のようなお話です。 (その物語としての完成度から宮本による脚色を考察する本も出ているぐらいです。) ちなみに、この「土佐源氏」の話を町の方に聞いたところ、知っている人は僅かで知らない方も多いようでした。確かに「色ざんげ」の話は教科書にも載せられませんからね。

宮本は、泥にまみれた庶民の生活の中に、人が生きる続けるたくましさを見出しました。昔から民衆は理不尽を押し付けられ、しかも、それが無残な忘却の上に組み立てられているという世界の残酷さを承知の上で、彼は人の明るさを見ようとしたともいえます。そんな彼が残した名もなき人の声として、ぜひ『忘れられた日本人』を手に取って、できれば梼原を訪れてほしいと思います。名もなき誰かが確かに存在し、彼らの屍の上に僕らが生きていることをこの橋の下で感じることができますから。

《この1冊》

宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)

宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫


幅允孝 (はば・よしたか)
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ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。

一緒に立ち寄った木造の芝居小屋、ゆすはら座
一緒に立ち寄った木造の芝居小屋、ゆすはら座


文 : 幅允孝
写真 : 菅井俊之

高知・梼原町で見る「負ける建築」家、隈研吾。

こんにちは。BACHの幅允孝です。

さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する不定期連載、「気ままな旅に、本」。2018年の春は高知の旅へ。

雲の上の建築群

2020年に向けて建築中の新しい国立競技場はふんだんに木を使ったデザインが特徴的ですが、その設計に携わる隈研吾さんが木造建築を手がけるようになったきっかけが高知県の梼原町にあるといったら驚く人も多いでしょう。

町内のホテルにある回廊
町内のホテルにある回廊

愛媛との県境にある人口わずか3600人の小さな町、梼原町。この地にまだ若かりし頃の隈さんが「雲の上のホテル」の建築を手掛けることになったのは偶然だったといいます。

山道を抜けて突如現れる雲の上のホテル
山道を抜けて突如現れる雲の上のホテル

観光にも力を入れようと町が考えていた1990年代、第3セクター方式でのホテル運営の話が持ち上がり、「雲」と「棚田」といった梼原の自然をモチーフにした「雲の上のホテル・レストラン」が完成しました。

案内いただいた梼原町役場の上田真悟さんと
案内いただいた梼原町役場の上田真悟さんと

それを皮切りに「雲の上のギャラリー」、特産品販売所とホテルの融合した「まちの駅 ゆすはら」、「梼原町総合庁舎」、そして今春は「梼原町立図書館」の建築を隈研吾さんが手がけました。小さな町の小さな領域内には町産、県産の木材を優雅に使った隈建築がいくつも立ち並び、まさに彼の建築アーカイヴを見るようです。

まちの駅ゆすはら
まちの駅ゆすはら
まちの駅ゆすはらの内部
まちの駅ゆすはらの内部
梼原町総合庁舎
梼原町総合庁舎
開放的な庁舎内部
開放的な庁舎内部

なかでも個人的に印象的だったのは、ホテルと温浴施設を結ぶ「雲の上のギャラリー」の橋梁部分。

大樹を思わせる外観
大樹を思わせる外観
内部は渡り廊下になっていて、ホテルと温浴施設を結ぶ
内部は渡り廊下になっていて、ホテルと温浴施設を結ぶ

寺社仏閣のように幾重にも組みあわされた「斗栱 (ときょう) 」という木の組み方は、この辺りで昔から使われている工法だといいます。大樹が枝葉を伸ばすようなデザインの根っこには、総面積の91%が森林という町で培われた技術があったのですね。

随意契約で何代もの町長と直接対話を繰り返しながら計画されたこの建築群。「隈さんが町の意向を把握していて想いが形になりやすいので、一貫してお願いしています」と町役場の上田さんは言いますが、議会の理解を得続ける手腕もお見事。

上田さんが持っていた建築に関する分厚い資料
上田さんが持っていた建築に関する分厚い資料

また、設計/施工一体型の契約が多い地方の土木事業において、「設計にもきちんとコストをかける」という概念をつくりだした点が、このプロジェクトが成功している理由なのではないでしょうか?

なぜなら、これからの公共建築は風雨を凌ぐ丈夫な「箱モノ」ではなく、「メディア」として機能していかなくてはいけないのですから。

「負ける建築」家、隈研吾

隈さんには15年近く前に書いた『負ける建築』という本があります。彼は、そこで都会に屹立するビル群や周囲の環境を圧倒する20世紀型の「勝つ建築」はその強さゆえに人から離れてしまっていると書きました。

書影

そして、21世紀の建築はもっと弱く、柔らかく、様々な外力を受け入れる「負ける建築」になっていくと訴えています。

思えば、若かりしときにはコンクリートを使った建築が多かった隈さん。そんな彼が木材と出会い、その良さを受け入れ、今では自身の色を示す武器にしてしまっているしたたかさと受動の効用を感じます。

また、変容を恐れず与えられた状況に対応し続ける「負ける建築」家だったからこそ、問題の多かった国立競技場問題も落ち着いたのかもしれませんね。

梼原町の人々はそんな隈さんを「すごい人になっちゃったなぁ」と驚いているそうですが、それでも隈さんや隈事務所の所員は年に何度もこの地を訪れ、昔と変わらず町の新しいメディア=建築を企画しているそうです。

5月開館予定の図書館。ご厚意で覗かせていただいたオープン前の様子
5月開館予定の図書館。ご厚意で覗かせていただいたオープン前の様子

5月からは新たに「雲の上の図書館」がオープンし話題になることでしょう。あとは、ここに素敵な本が入り、司書さんたちが丁寧に楽しく運用していくことを期待します。いずれは建築だけでなく、そこで働く人たちにも光が当たるようになるといいですね。

雲の上の図書館前にて
雲の上の図書館前にて

<取材協力>
雲の上のホテル
http://kumono-ue.jp/

梼原町役場
http://www.town.yusuhara.kochi.jp/kanko/kuma-kengo/


幅允孝 (はば・よしたか)
www.bach-inc.com
ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。


文 : 幅允孝
写真 : 菅井俊之

伊賀で目にうつる全てのことはメッセージ

こんにちは、BACHの幅允孝です。
「さんち」の不定期連載も4回目。今回も中川政七さんと日本全国の工芸産地を巡ろうと旅に出たのですが、訪れたのは三重県伊賀市でした。
のっけから伊賀牛に舌鼓を打ち、まさかの忍者修行もこなし、苦労性の松尾芭蕉を知り、突然坂倉準三建築に出会いと、あいかわらずの行きあたりばったりの愉しい旅路で。是非ゆるりとご覧ください。

伊賀って、行かないよなぁ。これが比較的近所(愛知県西部にある津島市)で生まれた僕の、伊賀に持つインプレッションである。三重県には伊勢神宮もあれば、松阪牛もいるし、真珠も黒アワビも志摩の方では獲れるし「何とも贅沢な県」というイメージがあるけれど、海側のそれらとは逆サイド、内陸の伊賀には行ったことがなかった。多分、忍者になりたいと願ったことがなかったからだろう。
しかし、「いや、伊賀はめっちゃいいとこですよ」という中川政七さんの言葉に釣られ、今回は伊賀ヴァージンにさよなら告げることを決意。新幹線を降りた名古屋駅からレンタカーで90分、伊賀市内の芭蕉街に到着したのである。
当日は本社のある奈良から車で向かった中川さんが随分早く到着。なんでも奈良市内から50分車を走らせたら直ぐについてしまったのだという。実は8年前の市町村合併で奈良市と伊賀市は隣接したのだが、その事実を知らなかった中川さんの驚きに僕らも驚きつつ(知らなかったの!?)、京都や奈良からもかなり行きやすい立地に伊賀があることが判明した。

さて、というわけで最初は伊賀牛である。三重には松坂牛という世界的に有名なブランド牛が存在するけれど、伊賀牛も侮ってはいけない。濃厚でサシのたっぷり入った松坂牛と比べ、伊賀の牛は肉質が細く柔らかいことが特徴なのだとか。今回は、そんな伊賀牛を真昼間から堪能するため100年前から伊賀牛を扱う「金谷本店」を訪れた。ここは4代に渡って優れた血統を持つ伊賀牛をさらに改良、吟味したエリート伊賀牛たちを販売する精肉店であり、一方で老舗店舗の2階に上がれば肉料理が愉しめる。

しゃぶしゃぶ、ステーキ、バター焼きなど伊賀牛料理なら何でもござれの老舗店。しかしながら、一番の名物は「寿き焼(すきやき)」というから僕らは迷わずそれを注文。割り下を使わず、砂糖と醤油のみで炊くスタイルの関西風すき焼きが登場したのだが、その様子に驚愕したのが関東地方生まれの同行スタッフだった。

オーケイ、ここで整理してみよう。鍋を熱し、牛肉を焼くところまでは関東風も一緒。ただ、この後にネギを投入、割り下をひたひたになるまで注ぎ、順次ほかの野菜を加えながら煮えたところから溶き卵につけて食べるのが東のすき焼きである。(これではすき「焼き」ではなく、すき「煮」ではないか? というのが生粋の奈良人中川さんの疑問。)
しかし、ここ伊賀を含む関西風は、焼いた肉の上にどさっと砂糖を直接かけ、ひと呼吸おいたら醤油をちょろり。その濃厚な1枚の肉を頬張るところからスタートする。その最初の一口は「1枚目の喜び」という至福なのだ!と僕や中川さんなど関西風に慣れ親しんだ者はご満悦だが、同じ料理でもここまで調理方法が違うのも確かに妙な話である。

さて、「金谷本店」では一頭買いした雌牛しか使わないのだが、盆地で寒暖差が大きく水の綺麗な伊賀の牛様は、僕らの想像をはるかに超える味わいであった。脂の旨味で舌を唸らせる肉ではなく、淡白な赤身がじんわり尻上がりに口内に広がってくる肉とでもいおうか。正直なところ、人も40歳を超えると胃腸が脂をそんなに受け付けてくれなくなるのだが、この伊賀牛こそが上品な大人が食す三重の肉なのかもしれない。

小豆島の「まるきん醤油」をちびりとかけ、野菜も少しずつ足していく。金谷本店のスタッフの方にはこんな声を掛けざるを得ない。
「おかあさん、白めし先にください!」
関西風は、徐々に出てくる野菜の水分に合わせ砂糖と醤油で味を調整するから、家庭によって味もさまざまになる。かつて中川家では親父さんが砂糖を入れすぎるのを息子が嫌がっていたというエピソードも聞こえてきたが、それ、幅家も一緒だったなぁ。

というわけで、のっけから第4楽章を聴いたような伊賀牛祭を満喫したのだが、旅はまだエンディングではない。ここで終わってもいい!というぐらいお腹いっぱいだったのだが、腹ごなしに散歩すると伊賀の城下町では、つどつど面白いものを見つけるではないか。

いかにも老舗という出で立ちの井本薬局のショーケースには猿頭霜( えんとうそう )と呼ばれるタイワンザルの頭を黒焼きにした漢方薬が飾られている。

町の広報看板には「第9回伊賀流手裏剣打選手権大会」のポスターが貼られている( どんな大会だ!? )。

ある月極駐車場の看板は立派すぎるくらいで、一方踏切の片隅に置かれている手描きの交通看板にある「とまり、きき、みて、とおれ」という文字は味がありすぎて微笑んでしまう。

さらに歩くとザ・モダニズムという体の建築物が現れたのだが、その伊賀市役所は何と坂倉準三の名作建築というではないか。

玄関に飾られた「伊賀市は『忍者市』を宣言しました」という横段幕の言葉に「後悔はないのだろうな?」とひとつ突っ込みを呈したあと屋内に入る。

思った以上に広々とした空間が気持ちよい。4〜5メートルはあろう天高の下でもらう住民票は格別なものなのかもしれない。
2階に登ると差し込む光が実に美しく、細やかな採光ひとつとっても坂倉の腐心が伺える。

そして、この場所でまさかこの人に出会うとも思っていなかった。知る人ぞ知る前衛画家であり絵本作家の元永定正( もとながさだまさ )の作品が階段の踊り場など数カ所に展示されているのである。受付の方にお聞きすると元永はなんと伊賀出身。世界的に再評価が高まる日本の美術運動「具体」の中心的人物の抽象絵画が、市役所で観れるとは思いもよらなかった。元永は作品づくりのテーマで「未知」というコンセプトを掲げ( 1955年刊『具体』誌 第3号 )、初めて世界と向き合うような生々しい驚嘆を描こうとした人。だから、大人も子どもも彼の作品に対峙した時、頭ではなく五感に響いてくる何かがある。実際、彼はジャズピアニストの山下洋輔と共作した不思議すぎる絵本『もけらもけら』や、この連載の豊岡回で紹介した決して大人には決して理解できないカニ絵本『カニ ツンツン』を生み出した人なのだが、いやはや伊賀で出会うとは驚いた。

伊賀の町を歩くと、なんだかすべてが引っ掛かる。これぞ荒井由美がかつて唄った「目にうつる全てのことがメッセージ」状態ではないか。さすが、日常の機微を詠み詩人としても世界中で賞賛される松尾芭蕉を生み出した伊賀である。

という流れで、次に(伊賀の)上野公園内にある芭蕉翁記念館を僕らは訪れた。1959年に城戸武男によって建てられたこれまたモダンな平屋建築には、芭蕉筆による様々な作品や手紙が収蔵されているという。俳句というと、なんだか縁遠いと感じる読者も多いかもしれないが、記念館の情熱的な学芸員・馬岡さんの説明を聞き、僕は俳句の面白さや松尾芭蕉という人物に俄然興味を持つことになった。

まず驚いたのが、芭蕉がとても苦労しながら俳諧師として成長していったことだ。彼が生まれた1644年の当時、伊賀の農家の次男坊が江戸に出て俳諧師として食べていくのは只事ではなかった。芭蕉は北村季吟( きたむらきぎん )の弟子として、やっとのことで免許皆伝ともいえる「俳諧埋木」を受け取ったそうだ。しかも、上京後も「業俳(職業俳諧師)」として食べていけないうちは神田上水道の工事に従事しながら機をうかがっていたともいう。あの松尾芭蕉が水道工事ですよ、すごい根性である。

また1675年に初めて使った号「桃青(とうせい)」は、尊敬する中国の詩人・李白に影響を受けたものだが、「李(すもも)」が白い先人に対して、自身はまだまだ青い「桃」だとへりくだっていた点も彼の人となりを想像させる。

もうひとつだけ芭蕉の俳句のイメージを覆された話をしよう。俳句といえば花鳥風月を詠むものとあなたは思うことだろう。だが、松尾芭蕉(桃青)の作品に今回触れて、彼が詠みたかったのは民衆という人だったということが実によくわかったのだ。風景よりも庶民の喜怒哀楽を詠む松尾翁。例えば、「夕顔に米搗き( こめつき )休むあはれ哉( かな )」という句をむかし本で読んだことがあったのだが、実のところそれは労働歌だったと学芸員の馬岡さんに教えられ目から鱗が落ちる思いをした。

ちなみに少しだけ基本を整理しておくと、「俳諧」と「俳句」は別のものである。俳諧は「俳諧連歌」ともいう歌を連ねる世界。その始発点となる句を「発句」と呼び、芭蕉の登場以降は発句のみを鑑賞することも多く、それが近代文芸における「俳句」となっていく。松尾芭蕉の作品としては現在では、彼の書いた発句が有名になっているが、本当のところ彼は俳諧の方を好んだということも教えてもらった。そして、自分の発句に付句をする弟子たちと連歌を通して心を通わせたのである。
実は、当時の俳人の多くがそうだったように句集、文集、伝記は自分では出版せず、弟子たち周囲が書くことによって伝承される。松尾芭蕉はそんなに多くの弟子を取ったわけではないが、当時としては珍しくたくさんの女性の弟子も取り、富める者も貧しき者も分け隔てなく接したといわれている。実際、芭蕉庵が火災で焼失した時は、お金だけでなくモノを寄付する現物支給の弟子もいたのだとか。松尾芭蕉は愛されキャラだったのである。

さてさて、初日最後は同じく伊賀上野公園内で忍者体験である。冒頭に書いたように忍者に対する憧憬がまったくなかった僕は、まさか40歳を過ぎて忍者衣装に袖を通すことになるとは思いもしなかった。先輩忍者に促されるまま着付けが始まり、思ったよりもたくさんのパーツが次々に体へと貼り付けられる。オーバー40のルーキー忍者2人の姿には失笑していただくしかないが、ここで僕と中川さんが感銘を受けたのが手裏剣打ちだ。

先ほど町中で見かけた「第9回伊賀流手裏剣打選手権大会」。これこそまさに伊賀流忍者博物館が仕掛けた大会なのだが、ずっしりとした手裏剣を打つのは、なかなか得難い体験だった。だって、普通は刃物なんて投げちゃいけない!

僕たちは手裏剣大会でも使う「公式球」ならぬ「公式手裏剣」を使ったのだが、それは岐阜県の関市で作られひとつひとつにナンバリングが施された工芸品としての手裏剣。その重みのある凶器を7メートル離れた畳に向かって投げると、ぷすりと畳に綺麗に刺さる感触がだんだん癖になってくる。実際の忍者たちはその刃先に毒を塗り、徐々にターゲットを死に至らしめたようだが、こんなものが飛んでくる時代に生まれなくてよかったとしみじみ感じてしまった。

ちなみに中川政七忍者はどうも手裏剣打ちの筋がよいようで、次々と的に手裏剣を打ちつけていく。最後は先輩忍者からしきりに大会出場を勧められていたけれど、まさか中川政七商店の経営者から華麗なる転身ということもあったりして‥‥

旅は2日目を迎え、翌日は伊賀焼の窯元 長谷園へ。中川政七商店でも扱っている長谷園の土鍋「かまどさん」、愛用している読者も多いのではなかろうか?

伊賀焼には1300年の歴史があるが、その中で長谷園は185年続いている窯元だ。現在伊賀には19軒の窯元が存在し、そのうち15軒が作家活動をしているというが、そのなかでも長谷園は最大の規模を誇る。今日は、そんな長谷園の8代目当主・長谷康弘さんに話を聞いた。東京で働いていた長谷さんが地元に戻ったのはちょうど20年前の1997年。伊賀という産地が本当に落ち込んでいた時だったという。そこからどのように復興を遂げていったのかを静かに丁寧に長谷さんは語ってくれた。

伊賀の土の特徴は、高い温度で長時間焼かないと焼き締まらないのだが、その耐火性を生かした土鍋が今は大人気だ。なんでも元々は琵琶湖の底だったこの辺りの土には当時の地圧に耐えた微生物や植物が土のなかに堆積しており、火を加えたときにそれらは気泡になるという。その気泡を含んだ陶器は蓄熱しながらゆっくり均等に熱を伝える特性があり、まさに土鍋のような作り物が向いているのだ。当時の微生物に大感謝である!実際、天然素材で鍋がつくれるのは現在のところ伊賀焼しかないらしい。

かつて、この辺りでは近隣の大産地である信楽焼や京焼の下請けをする業者も多かった。陶器の産地には質のよい粘土と腕のいい職人の他に、できあがった陶器を売る商人がいて産地が形成されるのだが、残念ながら伊賀にはその商人が育たなかったのだという。ゆえ、伊賀焼の知名度は他の近隣産地に比べ低い時代が続いていたが土の特性を見抜き、向いている用途を絞った方向性が功を奏し伊賀焼の復活に至ったのだという。

現在の伊賀では土鍋などの雑器とお茶道具の2本を柱としながら、伊賀焼でしかつくれないものづくりを目指している。近年は毎年ゴールデンウィークに開かれる窯開きに3万人もの人が訪れ、最寄りのインターから窯開き渋滞ができる程になった。長谷園の長谷さんは「うちの窯だけがうまくいっても仕方がない。産地全体で盛り上がっていかないと」というが、伊賀焼がいま善き流れにあるとは感じている。昔は何をやっても見向きもされなかったが、いまは自分たちのアクションがきちんと世の中に届いている気がするという。

最近、長谷園は土鍋のパーツ販売を始めた。例えば、上蓋だけが割れてしまって使えなくなってしまった土鍋が1割程あるという声を聞いての英断だった。正直、窯元としては新しいものを売ったほうが利益になるわけだから、発送の難しさも含め大変なことのほうが多いという。けれど、長谷さんは買ってもらうことよりも、使い続けてもらうことの方が大切だと力説する。自分たちの伊賀焼が本当に喜んで使ってもらっているのか?その心持ちを忘れなければ、伊賀焼という産地から生み出されるものは、もっともっと広がっていく気がした。

さて、この旅の最後に訪れたのは長谷園から車で数分「ギャラリーやまほん」である。ギャラリーの主・山本忠臣( やまもとただおみ )さんが田んぼの真ん中につくったこのギャラリーからは不思議な引力と放熱が感じられた。
ものすごく長閑な田園風景の中に、よく手入れがなされたシンプルなエントランスがゲストを迎え入れる。ギャラリーの中に入ると、外の暑さと比べて少しだけ温度が下がったような気がする。

僕らが訪れた日は伊賀・丸柱で作品づくりを続ける作家・植松永次( うえまつえいじ )さんの展覧会をやっていた。1949年生まれの植松さんは、土と火を素材にして作品をつくる人。焼成されたそれは器としての機能を持つものもあるが、空間のなかに息づくインスタレーション作品をつくったりもする。本人は「陶芸家の人から見たら、“なにしてるんや”となるし、現代アートをやってる人からみたら“陶芸やろ”となる」と別のインタビューに答えているが、既存の枠組みに当てはまらない彼の創作には確かに観る者を魅了する力が感じられる。

この植松さんに代表されるように、「ギャラリーやまほん」で扱われている作品や道具には、自然の根っこみたいなものを直感させるオブジェが多い。「器好き」に付随する世のステレオタイプが「ほっこり」とか「あたたか」だとしたら、「ギャラリーやまほん」にある物ものは、もう少し剥き出しで、でも嘘がない作品が多いというのだろうか。

元々、実家が伊賀焼の窯だった山本さんは家業を手伝い、つまり土を触りながら自身の「ものの見方」をつくりあげてきた人だ。兄が美術の道を選んだのとは対照的に忠臣さんは建築の道を目指すのだが、17年前に故郷に戻りギャラリーを開いた。今では約1ヶ月ごとのインターバルで展覧会を開いているが、最初の何年かは事業として継続していくのが大変だったという。

確かに20年近く前には、地方で高価なアートピースを買うというアイデアなど存在していなかった。各地域の産地では安価な伝統工芸品をお土産として売っていくしか道がないと思われていた。そんな中でも山本さんは長く付き合える作家を見極め、然るべきタイミングを探し、工芸とアートの間を縦横無尽に行き来する猛者たちを愚直に紹介し続けてきた。それが長い時間をかけて実を結び、今では展覧会初日に100人ものゲストが並ぶ人気展もあるそうだ。

「ギャラリーやまほん」で紹介する作り手たちは一様に「自然の素材と真摯に向かい合っている」者たちばかりだが、この伊賀の磁場で作品を鑑賞することで、その魅力は間違いなく増していると僕は思う。季節によって風景が移りかわる田んぼの真ん中では、自然の力を吸いあげてつくられる作品にエネルギーが充ちる。東京銀座の小さなホワイトキューブで鑑賞するのとは、随分違った体験ができる。それは現代においては忘れられがちな、プライマルな自然感覚を呼び起こすことかもしれない。

実際、山本さんも東京だとノイズが多く目移りしてしまうという。確かに、東京は街を歩くだけで様々なものが目につき、無意識にインプットされる。けれど、伊賀に暮らしていると、向き合うのが情報ではなく自然なのだと山本さんは説いてくれた。しかも、Natureの「自然」だけではなく、あるがままの「自然(じねん)」が伊賀にはあるという。

ギャラリーを出ると、そよ風が気持ちいい。そういう些細なものを受け止めることと、「ギャラリーやまほん」にある作品を見ることは、ほとんど同じことのような気がしてくる。「自然」の場所で「自念」する山本さんが、次に何を紹介してくれるのか愉しみで仕方がない。

今回の本たち

ぷくぷくお肉

32篇のお肉にまつわるアンソロジー。阿川佐和子や開高健、村上春樹がすき焼きについて語ります。ちなみに阿川家のすき焼きは「けっこう甘い」そう。

 

すきやき / はらぺこめがね
すきやき / はらぺこめがね

ちいさな女の子(はらぺこちゃん)とちいさないきもの(ぺろ)がすき焼きができるまでを冒険。鍋に具を投入する臨場感がたまりません。

 

大きな声 ― 建築家坂倉準三の生涯
大きな声 ― 建築家坂倉準三の生涯

ル・コルビジェの弟子から1937年のパリ万博における日本館設計、そして戦後のモダニズムを牽引した坂倉準三の全記録。

 

もこもこもこ / 著:谷川俊太郎 絵:元永定正
もこもこもこ / 著:谷川俊太郎 絵:元永定正

詩人の谷川俊太郎さんと共作した絵本。「もこもこ」「にょき にょき」「ふんわふんわ」…元永さんのアートと谷川さんのオノマトペが、子供達の心を離しません。

 

もけらもけら / 著:山下洋輔 絵:元永定正
もけらもけら / 著:山下洋輔 絵:元永定正

ジャズピアニスト山下洋輔さんとの異色のコラボレーション絵本。言葉のリズムに合わせて心地よく展開する元永さんの絵は、まるで2人のセッションを聴いているよう。

 

とっぴんぱらりの風太郎 / 万城目学
とっぴんぱらりの風太郎 / 万城目学

伊賀出身の「ニート忍者」風太郎。京の都でなぜか育てる羽目になったひょうたんを機に壮大なスケールの物語に飲み込まれていきます。

 

忍者の里を旅する / 産業編集センター
忍者の里を旅する / 産業編集センター

忍者をテーマに日本全国に点在する「忍びの里」(伊賀、甲賀、戸隠、雑賀、甲斐、風祭)を紹介。周辺のみどころや忍者グルメ(!?)の紹介も。

 

忍者の兵法 / 中島篤巳
忍者の兵法 / 中島篤巳

『万川集海』『正忍記』『忍秘伝』という三冊の秘伝書を紐解きながら、今まで知られていなかった忍者の実像に迫ります。忍者好きにはたまりません。

 

月とお日さまの間 / 植松永次
月とお日さまの間 / 植松永次

ギャラリーやまほんで見た植松永次さんの作品集。収録のエッセイでも、日々作陶を続ける植松さんの真摯な人柄が滲み出ています。


幅允孝( はばよしたか )
www.bach-inc.com
ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。

文 : 幅允孝
写真 : 菅井俊之、幅允孝( 猿頭霜・元永定正 )