青森生まれの「りんごかご」は業務用なのに愛らしい。唯一の作り手、三上幸男さんを訪ねて

「りんご王国」青森は、「かご王国」でもあった。

先日は代表的なかごの一つ、あけびかごをご紹介しました。

そして青森のかごと言えばやはり、こちらを抜きには語れません。

りんご王国が生んだ「りんごかご」。

三上幸男竹製品販売センター

その名の通り、りんご農家さんが収穫のために使ってきたかごです。

しかし現在では農家さんに代わって、全国の一般のお客さんから「使ってみたい」と注文が舞い込みます。オーダーしてから3、4ヶ月待ちは当たり前という人気ぶり。

一体、人気の秘密はどこにあるのでしょう。現在、唯一りんごかごを作り続ける、三上さんを訪ねました。

あけびかごの工房を訪ねた記事はこちら:「あけびかごを探しに青森の宮本工芸へ。選び方やお手入れ方法を聞きました」

一軒だけのりんごかご工房、三上幸男竹製品販売センターへ

弘前駅から車で20分すこし。「三上幸男竹製品販売センター」に到着です。

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター

かごを作る工房と販売所が一緒になっており、一般のお客さんでも立ち寄って直接かごを購入することができます。

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター

「昔はこのあたりに100軒近くかごを編む家があってね。そういうところを車で回って集めてたの」

かごを編みながらそう答えるのは、センターの名前にもある三上幸男さんです。

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター
作業は奥さんと二人で
作業は奥さんと二人で

センターがあるのは、市街地から弘前のシンボル 岩木山に向かう道の中ほどに位置する、愛宕という地区。向かう道の両脇には、りんご畑が広がっていました。

農地のそばで収穫を支える道具作りが盛んになったのは、ごく自然なことと言えそうです。

三上さんもかご作りを生業とする家に生まれ、自身は出来上がったかごを集めてりんご農家さんへ卸す仕事を思いつき、専門に行なってきました。

最盛期には年間10万個も運んだとか。遠く長野のりんご農家さんまで届けたこともあるそう
最盛期には年間10万個も運んだとか。遠く長野のりんご農家さんまで届けたこともあるそう

りんごかごの素材は竹。中でも近くの山々に多く生えている、根曲がり竹という種類を使います。

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター
三上幸男竹製品販売センター
三上幸男竹製品販売センター

軽くて丈夫、さらに抗菌作用があると言われる竹は、ずっしり実ったりんごを入れるのにぴったり。竹特有のしなりで、商品である大切な果実に傷をつけません。

底の部分を編んでいるところ
底の部分を編んでいるところ

サイズはちょうど、りんご箱に入る大きさ。

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター

持ち手はりんごをゴロゴロ入れても持ちやすいよう長めに作られています。

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター

本体の縁の部分は特に、りんごに傷がつかないよう、やわらかい1年目の竹が使われているそうです。

やわらかい内側は傷んでしまうため、全て取り除き、皮だけを使います
やわらかい内側は傷んでしまうため、全て取り除き、皮だけを使います
当日制作中だった小さめサイズのかご。肌あたりが痛くないよう、節や余分なヒゲはバーナーで燃やして取り除いていました
当日制作中だった小さめサイズのかご。肌あたりが痛くないよう、節や余分なヒゲはバーナーで燃やして取り除いていました

どこを取っても、仕事の道具として考え抜かれた機能的な作り。

「だけど今は、りんご農家の99%は竹のりんごかごは使っていないからね」

幻のかごになる前に

りんご王国の発展とともに青森で育まれたりんごかごは、新たに登場したプラスチックかごに次第に取って代わられることに。

需要が減れば供給側も減ってしまうもので、みるみる作り手が減っていくのを前に、三上さんは配送の仕事をやめ、それでも竹製のかごを使ってくれる農家さん分は確保できるよう、30歳ごろから自分も作る側に回るようになったそうです。

ついにほとんどの農家さんが竹製を使わなくなった頃には、りんごかごの作り手も三上さんの一軒のみに。

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター

あわや幻のかごに‥‥と思いきや、

「注文こなければ、ぱっとやめるんだけど。ずっと来るから、かご作るの、やめられないんだ」

三上さんは今年で90歳。今も全国からやって来る注文をこなすために、土日も休みなくかごを作り続けています。

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター

業務用だったりんごかごを、全国から人が買いに来る理由

今では3、4ヶ月待ちという人気ぶりを支えるのは、その企画力。

業務用としてのりんごかごの需要が減っていく中、三上さんは周囲からの「こんなかご、作れる?」「もうちょっと小さいサイズはない?」といった声を聞き逃さず、りんごかごを応用した様々なかごを創作。

農家さんからの注文に代わり、少しずつ一般のお客さんからの注文が増えていったそうです。

同じ形でも、網目の大きさを変えるだけで雰囲気がガラッと変わります
同じ形でも、網目の大きさを変えるだけで雰囲気がガラッと変わります。サイズも大きな1サイズのみだったのを、現在では大中小と用意
当日作っていたのは、りんごかごより小ぶりな「椀かご」。一番人気だそうです
当日作っていたのは、りんごかごより小ぶりな「椀かご」。一番人気だそうです

「数えたことないけど、40種類くらいかな。色々あるので見てみてください」

促されて向かった工房の奥の販売所は、さながら「かご天国」でした。

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター
いざ、工房の奥の「かご天国」へ!

どれにしようか、迷う時間も楽しいかご天国へ

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター
りんごかご_三上幸男竹製品販売センター
自分だったら何に使おうか、とじっくり考えてしまいます
りんごかご_三上幸男竹製品販売センター
こちらはもともと、漁師さん向けに売っていたというかご。右はイワシなど小さな魚も入るように、網の目が小さくなっています。50歳ごろまでは、北海道まで売りに出かけていたそう
こちらはもともと、漁師さん向けに売っていたというかご。右はイワシなど小さな魚も入るように、網の目が小さくなっています。50歳ごろまでは、北海道まで売りに出かけていたそう
りんごかご_三上幸男竹製品販売センター
長年使っていくと、こんな色合いに
長年使っていくと、こんな色合いに

「他にも色々なかごを作ろうとする職人はいたけれど、みんな途中でやめてしまった。

今も土日関係なく作っているけれど、全然苦じゃない。結局、面白いんだよ。気晴らしになるでしょ。休みなしさ」

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター

三上さんの柔軟な発想力で仕事の道具から暮らしの道具へと変身し、消滅の危機を乗り越えたりんごかご。

技術は今、娘さんが引き継がれていると聞いて嬉しくなりました。

「こないだは大阪からわざわざ飛行機とレンタカーを使って買いに来た人がいたよ。交通費の方がずっと高くついちゃうのに、面白いよね」

りんごかご_三上幸男竹製品販売センター

そうまでしてでも買いに来たくなる気持ちはよくわかる、と思いながら、私も早くお買い物がしたくてたまりません。

<取材協力>
三上幸男竹製品販売センター
青森県弘前市愛宕山下71-1
TEL:0172-82-2847


文:尾島可奈子
写真:船橋陽馬

*こちらは、2019年7月19日の記事を再編集して公開しました。

香道を京都で体験。日本三大芸能のひとつ「香りを聞く」習い事の魅力に迫る

様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」。今回は茶道、華道と並ぶ日本の三大伝統芸能「三道」のひとつ、「香道」の体験レポートをお届けします。

香道とは?日本最古の御香調進所「薫玉堂」で学ぶ

JR京都駅から北へ徒歩15分ほど。浄土真宗本願寺派の本山、西本願寺前に本日体験にお邪魔する薫玉堂 (くんぎょくどう) さんがあります。

お店に入った瞬間から全身を包むやわらかなお香の香り。

お香のいい香りが立ち込める店内

桃山時代にあたる1594年創業の薫玉堂さんは、本願寺をはじめ全国の寺院へお香を納める京都の「香老舗」です。

お店の様子

店内には刻みの香木 (こうぼく) やお線香、匂袋をはじめ、お寺でのお勤めに使う品物まで、ありとあらゆる種類の「香りもの」が並びます。

お店の様子2

そもそも「香道」とは、室町時代の東山文化のもとで花開いた茶道や華道と並ぶ日本の三大伝統芸能のひとつ。薫玉堂さんでは香道を気軽に親しめるようにと、定期的に体験教室を開かれています。

教室はまず座学からスタート。お店の方が直接講師になって、お香の種類や歴史を学ぶことができます。

お香の歴史は4000年前のエジプトから?

伺ったお話によると、お香のもっとも古い記録は4000〜5000年前のエジプト文明までさかのぼります。出土した当時のお墓の中に、遺体の保存状態をよくするためのお香が敷き詰められていたそうです。

現代ほど入浴の文化も設備もなかった時代には、香りはいわばエチケット。香木 (こうぼく。芳香成分を持つ樹木) を粉末にしたものを体に塗る習慣もあったそうです。仏教が広まると、その修行やお勤めの中で用いられるようになりました。

日本で初めて文献に登場するのは、なんと日本書紀。590年代、推古天皇の時代に淡路島に流れ着いた香木が聖徳太子に献上された記録が残されています。

そもそも、香木とは?

一般的に言う「香料」には、植物の花、実、根、葉、樹を用いるものからじゃ香 (ムスク) など動物由来のものまで幅広い種類があります。

香木の見本

中でも樹木から採れる「香木」は原産地が限られ、古くから珍重されてきました。

白檀 (びゃくだん) や沈香 (じんこう) という名前を聞いたことがある人は多いかもしれませんが、どちらも香木の種類を指します。

沈香はジンチョウゲ科の木が熟成されたものですが、特定の地域にのみ繁殖するバクテリアが偶然に作用して初めて香木になるため、白檀も沈香も、日本では産出されないそうです。

沈香の中でも有名な伽羅 (きゃら) は、なんとベトナムでしか採れないのだとか。現代でも価格が金よりも高いと聞いて驚きました。

現存する日本最古の香木、蘭奢待 (らんじゃたい) は現在も奈良・東大寺の正倉院に保存され、国宝を超える宝として「御物(ぎょぶつ)」とも呼ばれています。実物には織田信長や明治天皇が一部を切り取った跡が残されているそうです。

なぜ香りは「聞く」のか?

座学の最後に講師の方から伺ったのが、なぜ香りを「聞く」というのか、というお話です。

「香道では香料の中でも香木の香りを聞きます。聞香 (もんこう) とも言います。

『聞く』という言葉には、身体感覚を研ぎ澄まして微妙な変化を感じ取る、聞き『分ける』という意味合いがあります。心を沈めて、瞑想し、思考する。そうして香りを楽しみます。

今日体験されるのは香りを聞きくらべる『組香 (くみこう) 』のうち、3種の香りを比べる『三種香』です。

3種類の香木をそれぞれ3つずつ用意して打ち混ぜて、取り出した3つの香りがそれぞれ同じものか違うものか、当てていただきます。

聞香を行う部屋を香室 (こうしつ) と言います。部屋に入ったら心を落ち着けて、聞いた香りを頭の中で具体的にイメージに起こすことが大事ですよ。『ああ、一昨日食べたプリンに似ているな』とかね (笑)

こうしたゲーム的な要素を持っているのは、三大芸能の中でも香道の特徴です」

最後には楽しみ方のアドバイスもいただいて、いよいよ体験に向かいます。

三種香の体験へ

体験が行われるのは1階のお店の奥にある「香室」。

体験の場所、養老亭

「この部屋は『養老亭』という名がついています。お茶室には小間、広間と種類がありますが、香室は10畳と決まっているんですよ」

部屋はなんと江戸時代から200年以上現存しているものだそうです。体験全体の案内をしてくださるのは薫玉堂ブランドマネージャーの負野千早 (おうの・ちはや) さん。その隣にお手前をする2名の方が並び、参加者は壁に沿ってコの字型に並んで座ります。

「お手前は2人でします。1人は香元 (こうもと) と言ってお香を出す人、もう1人が執筆といって皆さんの出された答えを書く、いわば記録係です」

今回の体験教室は略盆席と言って、四角い「四方盆」を使うお手前でしたが、飾り棚にはまた違う形式のお手前に使われるお道具も飾ってありました。

こちらが体験で使われる四方盆のお道具。左奥の「志野袋」の中に、聞香に使う香木が入っています
こちらが体験で使われる四方盆のお道具。左奥の「志野袋」の中に、聞香に使う香木が入っています
また違った形式のお手前に使われるお道具「乱れ箱」
また違った形式のお手前に使われるお道具「乱れ箱」
火道具と呼ばれる香を立てるための道具も美しいです
火道具と呼ばれる香を立てるための道具も美しいです
飾り棚の掛け軸にも、聞香の様子が描かれています
飾り棚の掛け軸にも、聞香の様子が描かれています

それぞれの参加者の前には硯が置かれています。

「体験でははじめに答えを記入する記紙 (きがみ) にお名前をお書きください。女性で名前に『子』とつく方は、『子』を抜いて、濁点のある方は濁点をとってひらがなで書いていただきます」

小さな紙に名前を書く様子

筆を取ることも硯をすることも普段なかなかなく、やや緊張しながら名前を記していきます。

「書き終えたら筆は硯箱にかけておいてください。あとで3つの香炉が全て回ってきたら、再び筆をとって答えをお書き下さいね」

「では、総礼いたします」

全員で礼をした後、香炉が香室内をめぐっていきます。香元さんから向かって左の角に座っている人がその会でもっとも格式の高いお客さん、お正客 (しょうきゃく) 。香炉は必ずお正客から順に回っていきます。

三種香では3種の香木を各3つ、合計9つを打ち交ぜた中から選ばれた3つの香木で香炉が用意されます。

答えの組合せは、3つとも同じ香り、ひとつ目とふたつ目が同じ香り‥‥という具合に全部で5通り。香元さんも、香木が入っていた包みの端を最後に開けるまでは、どの香木が選ばれたかわからない仕組みになっています。

香炉を出す際には「出香(しゅっこう)」という声がかかります。「出題ですよ」の合図です。

香炉が自分のところに回ってきたら、香炉の正面を避け、しっかりと器の足に指をかけ、香りを集めるように手で覆います。

1つの香炉につき、3回ほど、息を吸うように香を聞きます
1つの香炉につき、3回ほど、息を吸うように香を聞きます

「香りはわずかなものですので、しっかり香炉の上から蓋をするように手で覆って、隙間から香りを聞いてください」

香炉が回るにつれ、室内が静かになっていきます。意識を香りだけに集中していく様子がひしひしと伝わってきます。

いよいよ自分の番。鼻先の小さな空間で、そっと香りを確かめます。かすかなのにとても濃厚。何かを思い出すような、初めて知った香りのような。

線を景色に見立てる「香之図」

3回聞き終えると、いよいよ答えを書きます。その答えの書き方がとても素敵です。

「香之図」と言って、三種香なら3本の縦線を右から順に書き、それぞれに同じ香りだと思うものの線の頭を横線でつなげます。組合せてできた図には「隣家の梅」「琴の音」など美しい名前がついています。

こちらは琴の音の図。下に図の名前を続けて書きます。
こちらは琴の音の図。下に図の名前を続けて書きます。

5種の香木で行う「源氏香」では、それぞれ5つ、合計25の中から5つを聞きます。答えの数は52通り。源氏物語54帖に見立てて、桐壷と夢浮橋を除く52の帖の名が答えにつくそうです。

源氏香の香之図
源氏香の香之図

「いかがでしたか?今日は私の席でははっきり聞こえました」

負野さんが嬉しそうに語られます。

「季節やお天気によって、香りが立ちやすい日、立たない日があるんです。ちょっと曇っている日や雨がしとしと降っている日は、よく香りが聞こえますね」

伺うと、席によっても香りが変化していくそうです。お正客が聞くのは香りとしてはまだ立ち始めの、一番フレッシュな香り。はじめの頃しか聞けない香りだそうです。香炉が次の方へと回るうちに、より濃厚な、はっきりした香りになっていくのだとか。

「ですから席ごとにお答えが2、3人まとまって同じ、ということがよくあるんですよ。どこかでフッと香りが変わる瞬間があるのですね。今回は、たくさんの方が正解されていらっしゃいますね」

そうして見せてくださったのは、全員の答えを写し取り、答え合わせをした記録紙。

披露された記録の紙

3つとも合っている人には、答えが叶ったということで一番下に「叶」の文字が記されています。

私は残念ながら外れてしまいましたが、隣同士であれはどうだった、最初はこう思った、と言葉を交わすのも楽しい時間。

全体に得点が高い場合は、記録はその中で1番高い席の方に渡されます。とても素敵な記念ですね。

最後にはお茶とお菓子と、可愛らしい香袋のお土産もいただいて本日の体験も終了。目の前の香りに向き合い、隣の人と体験を分け合い、自分の記憶と格闘し、名前を書く手が震え、頭も体もフル回転させて楽しんだ時間でした。

秋は空気も澄んで聞香にはちょうど良い季節。一度やってみると、次は5種で、今度は季節を変えて、書道も上手くなりたいな、と次の楽しみを思い浮かべる帰路でした。

<取材協力>
薫玉堂
京都市下京区堀川通西本願寺前
075-371-0162
https://www.kungyokudo.co.jp/

文:尾島可奈子
写真:平井孝子
着付け協力:大塚呉服店

*こちらは、2017年11月4日の記事を再編集して公開しました。

今年は東京でも見られる!「正倉院宝物」入門をプロに教わる

秋の奈良の風物詩、正倉院展。

正倉院に収蔵され、厳重に管理される「正倉院宝物 (しょうそういんほうもつ) 」が年に一度だけ一般公開され、毎年全国から多くの人が詰めかけます。

その盛況ぶりが毎年ニュースで取り上げられるので、「行ったことはないけれど知っている」という人も多いはず。

特に今年は、御即位記念特別展として東京国立博物館で「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」が開催中 (11/24まで) 。東京でも宝物の数々を鑑賞できる貴重な機会として話題になっています。

実は、こうして展示される正倉院宝物は、「世界的にもありえない」ものばかり。

「1200年以上たっているのに、木工品や染織品が朽ちずに姿を留めて、香木 (香料になる香りのよい木) などは未だに香りを残している。これは、ちょっと尋常ではないですね」

そう語るのは東京国立博物館 学芸企画部企画課 特別展室長の猪熊兼樹 (いのくま かねき) さん。

猪熊さん

「正倉院宝物」とは実際どんなもので、どうすごいのか?をプロの視点で解説いただくと、別世界と思っていた宝物の数々が、グッと身近になりました。

正倉院宝物=聖武天皇のご遺愛品、ではない

正倉院宝物の起源は奈良時代。

756年 (天平勝宝八歳) 、東大寺建立を指導した聖武天皇の供養のために、光明皇后が天皇の御遺愛品などを東大寺の本尊盧舎那仏 (大仏) に奉献されたのがはじまりです。

奉献に当たっては品目リストである『東大寺献物帳』が添えられ、そこに記された名称、寸法、材質、由緒などはの宝物と並んで貴重な史料となっています。

その数は600点以上と膨大ですが、実は現在の正倉院宝物の数はさらに多く、なんと約9,000点。種類も古文書などの文書類、服飾品、調度品、楽器など様々です。

平螺鈿背八角鏡 唐時代・8世紀 正倉院宝物 【後期展示11月6日~24日】
平螺鈿背八角鏡 唐時代・8世紀 正倉院宝物 【後期展示11月6日~24日】

「光明皇后が奉献された品々は多くが失われ、現存するのは100数十点です。

ここに東大寺の重要な法会に用いられた仏具や、平安時代中頃に東大寺羂索院の倉庫から移された什器類などが加わり、また明治に宝物の範囲が確定されるまでに献上された品などもあって、整理済みのものだけでも9000点にのぼっています」

戦乱のあった時代には宝物の中から武器が実用に持ち出され、そのまま戻ってこなかったケースもあったそう。

正倉院宝物=聖武天皇のご遺愛品というイメージがありましたが、実はもっと幅広いものだったのですね。

他にも、伺うほどに意外な事実が。

実は90%以上が日本製。舶来品のイメージがあるのはなぜ?

現在宝物を管理する宮内庁では、正倉院宝物のことをこう示しています。

「ほとんどのものが奈良時代,8世紀の遺品であり,波濤をこえて大陸から舶載され,あるいは我が国で製作された美術工芸の諸品や文書その他」(宮内庁公式HPより)

実は特別展を鑑賞して気になったのが、出処を「中国・唐または奈良時代 八世紀」のように示した展示品の多さでした。

唐からやってきたものか、日本で作ったものなのかわからない、ということでしょうか?どちらかというと、海を渡ってきた舶来の品々、というイメージが強かったのですが‥‥

「これは正倉院宝物の特徴と言えるかもしれませんね。

実は最近、宮内庁正倉院事務所は、宝物の90%以上が日本製であると発表しているんです。ところが姿かたちは、唐のものか日本で作ったのか、見分けにくいものが多い。

例えば『鳥毛篆書屏風 (とりげてんしょのびょうぶ) 』という宝物は、君主の座右の銘を記した屏風ですが、文は楷書と篆書で交互に配した漢文で、文字は鳥の毛を使って装飾されています」

図録収録の、文字部分のクローズアップ。羽の様子が見て取れる
図録収録の、文字部分のクローズアップ。羽の様子が見て取れる

「唐か日本かといえば、まず唐のものだろうと思わせるような佇まいです。

しかし使われている鳥の毛を分析すると、日本のヤマドリの羽毛が使われていました。他の調査した結果をふまえても、これは日本で作られたものだと特定されたんです。

こうした『唐風』を完全再現したような宝物は、当時の日本の事情をよく表していると言えます。

つまり、国は中国の唐そっくりの文明国になりたかった。その思いが、唐の様式を忠実にコピーした工芸品の数々を生み出しているのです」

「唐になりたい!」日本の時代背景

奈良時代には、例えば織物の見本を全国に配り、同じように作れる職人を募った記録も残っているそうです。

当時の最先端を行く唐に追いつくため、殖産興業の一環として行われていたものと猪熊さんは語ります。

「一方で文明のお手本であった唐も、東西の文化交流の中でペルシアの影響を受けたりしています。ただ、日本の場合と受け止め方が違うんですね。

例えば正倉院宝物のひとつである『漆胡瓶 (しっこへい) 』は、形はササン朝ペルシア風、技法は東アジア独特の漆などの技巧が用いられた、唐時代の製作と思われる水瓶です」

漆胡瓶 唐または奈良時代・8世紀 正倉院宝物 【後期展示11月6日~24日】
漆胡瓶 唐または奈良時代・8世紀 正倉院宝物 【後期展示11月6日~24日】

「ペルシアの文物をただコピーするのではなく、自前の文化の中で昇華させている。そんな唐に日本は憧れ、お手本として様々な文化・様式を忠実に採り入れた。

この宝物を見ると、当時の唐と日本の関係性や他文明の受け止め方の違いがよくわかります。

毎年の正倉院展にも唐時代の宝物がよく出陳されますが、これらは単純にきれいだからと趣味で集められたものではなく、文明国になるための『道具』として国が積極的に海の向こうから集め、時に国内で作らせていたものであるわけですね。

このことを知っておくと、宝物の見え方も変わってくるかもしれません」

圧倒的な数と良好な保存状態の理由

それにしても驚くのは、そうした1200年以上も前の品々が、色彩や技巧の跡がわかる状態で今の時代に残っていること。

紺夾纈絁几褥 奈良時代・8世紀 正倉院宝物 【後期展示11月6日~24日】
紺夾纈絁几褥 奈良時代・8世紀 正倉院宝物 【後期展示11月6日~24日】

現存する宝物の数は、他の時代よりも奈良時代が突出して多いと猪熊さんは言います。

いったい何故、これほどまでに正倉院宝物は無事が保たれてきたのでしょうか?

「最も重要な点として必ず上がるのが、天皇による勅封 (ちょくふう) です。天皇の許可がなければ、どんな宝物も倉から出すことができません。この制度は今も受け継がれています。

さらに、平城京から平安京へ都が移ったことも影響していると思います。

都市部は建物が密集してどうしても火災が多くなりますが、遷都によってそうした被害を受けるリスクも減りました。

また、現地で宝物を管理し続けた東大寺の存在はとても大きなものです。

1254年には聖武天皇の御遺愛品を収めた正倉院北倉の扉に、雷が直撃する事故がありましたが、衆徒の必死の消火活動で宝物は焼失を免れたといいます。

お寺自体が戦火に見舞われた時にも幸い正倉院に被害が及ぶことはなく、数十年に一度は倉の修繕も行われ、宝物は守り継がれてきました」

正倉院正倉
正倉院正倉

さらに江戸時代に入ると、徳川家康が正倉院の修理を指示。宝物を保管する櫃 (ひつ) を献納するなど、この頃から文化財保護の意識が生まれていると猪熊さんは指摘します。

その後1875年 (明治8年) に正倉院は政府の直轄管理に。のちの正倉院展にもつながる年に一度の宝物点検や、鉄筋コンクリート製の宝庫が導入されました。

正倉院御物修理図 稲垣蘭圃筆 明治22年(1889) 東京国立博物館 【通期展示】。明治の修理の様子が描かれている
正倉院御物修理図 稲垣蘭圃筆 明治22年(1889) 東京国立博物館 【通期展示】。明治の修理の様子が描かれている

「例えば中国で出土している唐時代の文化財は金属のものが多いですが、正倉院宝物のように織物や木工品が原形を留めて現存しているケースは、世界的にもなかなかありません。

宝物のひとつである蘭奢待 (らんじゃたい) という有名な香木も、1000年経っていたら、さすがに香りが揮発して抜けているのが自然ですが、それが21世紀の今になっても香りを残しているというのは、とんでもないことです」

黄熟香(蘭奢待) 東南アジア 正倉院宝物 【通期展示】
黄熟香(蘭奢待) 東南アジア 正倉院宝物 【通期展示】

「今のように正倉院宝物の価値が世間に知られていない時代にあっても、人知れず倉庫を守り続けてきた人たちの努力があってこその宝物だと思います」

模造は「楽器の形をした論文」

宝物は過去の遺産として保護されるだけでなく、今のものづくりに刺激を与える存在でもある、と猪熊さん。それを物語るのが、正倉院宝物の模造です。

「今回の特別展の前期展示に、世界で唯一現存する五絃の琵琶である「螺鈿紫檀五絃琵琶 (らでんしたんのごげんびわ)」とその模造品が展示されました (現在は終了)。

模造品と聞くと、なんだレプリカか、と思うかもしれませんが、あれは楽器の形をした論文、研究成果の発表なんです。

元の姿から素材や技法を読み解き、作った当初の意図を汲んで、蘇らせ今に投げかける。

今回の琵琶に関しては完成まで8年、素材や工具の調達を含めると15年の歳月がかかっています。

長い期間のうちに作り手は腕をさらに研鑽し、手伝う次の代に技術や考え方を継承していく機会にもなる。

1000年も昔に最高峰の技術で作られて今なおハイクオリティな正倉院宝物という存在には、『自分もこういうものにチャレンジしてみたい』と今の工芸作家さんの気持ちを奮い立たせる、何かがあるんだろうと思います」

「事件」ではない、歴史と私の共通点。

最後に、今まであまり正倉院展に縁がなかったというビギナーの人向けにおすすめの見方を、と伺うと、正倉院宝物がぐっと身近になるこんなお話を聞かせてくれました。

「実は私自身、小学校の頃奈良に住んでいて、学校行事で正倉院展に連れて行ってもらった思い出があります。

小学校も高学年になると日本史を習うわけですが、当時は摂関政治とか律令制とか、そういう政治経済の歴史は面白みが全く感じられませんでした。

ところが正倉院展に行って、同じ奈良時代に作られた宝物を見ると、子ども心にもきれいだなと感じる。

今でも使い方がわかるようなものもあるから、昔はこういうものを使った人がいたんだとわかります。

そこに並ぶ品々は教科書に載るような『事件』ではないけれども、昔の人が実際に自分のそばに置いていた、生活感という歴史ですよね。

正倉院宝物は、たからものと書いて「ほうもつ」と読ませていますが、いわゆる金銀財宝をいたずらに見せびらかすのではなく、世界中から集めてきた材料を、上手に調和させながらデザインに仕立てています。

だから見たときに、大人も子どもも素直に美しいと感じるんでしょうね。鳥の毛で文字を飾ったり、琵琶の表面をこんな風に装飾したり、よく思いつくなと思います」

図録に収録されている「紫檀木画槽琵琶」の背面は、象牙や緑に染めた鹿角などで豪華に飾られている
図録に収録されている「紫檀木画槽琵琶」の背面は、象牙や緑に染めた鹿角などで豪華に飾られている

「そうしたデザインをきちんと造形物に仕上げる技術も、はじめは見よう見まねで、少しずつ国内で培ってきたのでしょう。

正倉院宝物は絵画や彫刻ではなく、人が実際に使う工芸品が多いのが特徴のひとつです。

その分、教科書に載る事件や年号よりも生々しい、昔の人と自分が通じあう何かを感じられるのが、大きな魅力じゃないでしょうか」

最高峰の素材や技術が使われているものであっても、本来の姿は日用の道具。

そう思うと、別世界と思っていた宝物の数々が一気に身近になり、それを手に取り使ってきた人の気配まで、そこに感じられるように思いました。

今年、奈良の正倉院展は閉幕しましたが、東京の特別展は11月24日まで開催中。

1200年前のデザイン美を目撃しに、また1200年前に確かにそこにあった生活と出会いに、足を運んでみては。

<取材協力>
東京国立博物館
東京都台東区上野公園13-9
03-5777-8600 (ハローダイヤル)
https://www.tnm.jp/

【2019年11月24日(日)まで開催中】
御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」
https://artexhibition.jp/shosoin-tokyo2019/
*月曜は休館

<参考>
図録『御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」』
宮内庁公式サイト

文:尾島可奈子

茶道の帛紗が正方形でない理由

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。

着物の着方も、お抹茶のいただき方も、知っておきたいと思いつつ、中々機会が無い。過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、半年後にはすっかり忘れてしまっていたり。

そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。第一弾は茶道編です。30歳にして初めて知る、改めて知る日本文化の面白さを、習いたての感動そのままにお届けします。

◇帛紗 (ふくさ) が正方形でない理由

5月某日。

今日も神楽坂のとあるお茶室に、日没を過ぎて続々と人が集まります。木村宗慎先生による茶道教室7回目。床の間には「青山青転青」との掛け軸。

「せいざん あお うたた あおし」と読んで、 (雨の後で) 青山の青がなお一層青い、という意味だそうです。新緑の風がさぁっと吹いてくるようです。

「今日は帛紗のお話をしましょう」

先生が一枚一枚、帛紗を畳の上に並べていきます。一体何が始まるのでしょうか‥‥?

「お茶をするということは、自分なりにお茶事をして、人をもてなすということです。ですが往々にして、お茶のお点前の型 (かた) の習得に努めることが、茶そのものであるかのように思われがちです。

それが嫌で、お点前の煩雑な型には、さほど意味がない、茶の湯の本質ではない‥‥と、ある種のカウンター、聞いた人が茶の湯の他の側面に気づいてもらうための表現として、あえて乱暴に言い切っていた時期もありました。

大切なのは、型通りにお点前をやって満足するのではなく、棗 (なつめ) や茶杓のただ一本、もてなしの場に持ち込まれるツールひとつひとつの取り合わせやお点前のひと手ひと手に、『あなた様のため』という素朴な想いをのせていくということ。

そしてできることなら、のせた想いが全てでなくとも相手になにがしか伝われば嬉しい。そのためであるならば、一見煩雑で面倒なお点前の手順や作法も、意味のある大事なことだと、今では思うようになりました。むしろ、もてなしの表現の本質がある、と。勝手なものですね、われながら。反省しています。

そんな、お点前の意味を象徴するツールが帛紗です。どうぞみなさん前に来て見てみてください」

ずらりと並んだ帛紗を、一枚一枚手に取って見せていただきました。

帛紗は生地の重さによって規格が分かれます。10号、11号と号数が増えていくほど織り込まれている絹糸が撚りの強い、太い糸になり、その分生地も重みを増します。

手に取ってみると、1号違いではさほど違いがわからないものもありますが、確かに号数が離れるほど、その重みの差がはっきりとわかります。

普通のお点前は重たい方が所作が格好よくなるそうですが、細かく帛紗をたたむお点前の場合は薄手のものを選ぶなど、使い分けをされるそうです。

カラフルな染め帛紗。流派によってお点前に使う帛紗の色は定められていますが、紋様の入っているものはお香を置いたり、飾りに用いるそうです

大きさはどれも同じようですが、ここにお点前をする上での大きな意味が込められていました。先生のお話に耳を傾けます。

「お茶席でお点前をする、その最も重要な意味は、人の見ている前でものを清めるということにあります。この器が清まりますように、その器を使う相手も私も美しく保たれますようにという願いが、実は帛紗の寸法にも込められています。

帛紗は一見正方形に見えて、本当は長方形です。寸法は元々『八寸八分の九寸余』と決まっていて、利休の教えを100の歌にまとめたというかつての利休百首にもそのことが書いてあります。

なぜこの寸法になったのか。昔の人は言霊と同じように、数字に力があると信じていました。奇数は『陽』、おめでたい力のある数字。偶数は『陰』、陽に準じる数字。

つまり『九』という数字は、陽の極まる数字というわけです。“苦しむ”につながるから縁起が悪いとするのは、近代になっての語呂合わせなんですよ。昔の人は九は高貴で力のある数字だと考えました。

古くは、皇室に関連する表現に九という数字が大切に扱われていました。御所をあらわす別の表現は九重 (ここのえ) 。別に、本当に御所の屋根が九層というわけではありません。最高に立派な建物、というニュアンスを伝えるのに九が用いられているのです。

さらに御所の宮殿の宮 (キュウ) と九は同じ音でしょう。漢字で音が重なる場合は相通じる意味をもたせてあることが多いんです。究極の究もキュウ。また、9月9日は重陽の節句です。陽の極まった数字が2回重なるから重陽なんです。

だから帛紗一枚の中にも、九という数字を閉じ込めたかった。手に使いやすいハンカチくらいの大きさを保ちながら、九という数字をまたいだ九寸余を寸法に用いることで、高貴な数字の持つ力をこの帛紗の中に閉じ込めようとしたんです。もう一辺は、対になる陰の力の偶数で最も大きい八を2回重ねて、八寸八分に。

こうして最も高貴な数字を閉じ込めた布で清めるからこそものが清まると、昔の人は信じたのです。

これは、帛紗にまつわるひとつの説です。時代や流派や茶人の考え、扱う道具の大きさによってもまちまちであった帛紗の大きさが定められていく時の、ひとつの考え方です。

普段の生活で使うことのないような絹の布一枚を、なぜお点前で大事そうに取り扱うのか。小さな布切れ一枚に、怯えるほどハイコンテクストな世界が広がっているのです。

何事もていねいすぎるのは考えものですが、相手を想ってこその道具、所作ならば、安易にカジュアルにくだけさせることは、その人を軽んじていると思われても仕方のないことです。儀式は、祈りなんです」

お点前に想いを込める、とは所作をていねいにすることかとばかり思っていましたが、道具である帛紗がすでに、祈りを目に見える姿で表していました。

「帛紗は未使用の状態では裏表がありません。ですがお点前の際に一回折ると、跡がついて二度と使用前には戻りません。だから本来はお点前ごとにまっさらの帛紗を下ろします。

茶筅 (ちゃせん) も、未使用の状態だと穂先の中心(泡切り)が閉じていますね。これも一度お湯をくぐらすと穂先が開いて戻らなくなります。一度きり、ということがもてなしの印にもなっているのです。

無垢なるものをお客さんのために使い下ろすということと、器など人間よりもはるかに長生きするものの時間とを交錯させているところが、道具の取り合わせの面白さでもあります」

器のお話に触れたところで、5月らしい菓子器で今日のお菓子が運ばれてきました。

◇今日の日のためのお菓子

兜鉢( かぶとばち )という、伏せると鉄兜の形に見える器で運ばれてきたのは、葛の羊羹ちまき。葛にこし餡を練り込んだものを蒸しあげて作るそうです。

ちまきのガラ入れとして横に添えられていた黒塗りの器は、元は接水器(せっすいき)という、禅寺でお坊さんの食事の際に使われる水入れ。

よく見ると蓋の表面に水滴が見られます。こうした塗り物の器は、5月から10月までの風炉(ふろ)の時期は露を打つのだそうです。

「8月はしっかり水滴がわかるように打ったり、10月はまた量を減らしたり。季節によって量や打ち方を変えるんですよ」

茶会で触れるほんのささいにも思える物事にも、「あなたのために今日のこの日を」という想いが感じられて、改めて嬉しく、ありがたく思います。

ここからは自分たちで二手に分かれてお茶を点て、運ぶところも実践していきます。先ほどその意味を教わった帛紗を、早速腰につけて。

二服目のお茶と一緒にいただいたお菓子は紅蓮屋心月庵の「松島こうれん」というおせんべい。お米そのままのような素朴な甘さです。

お菓子に用いられていた器。江戸時代の茶人が中国の古くからの窯業都市、景徳鎮(けいとくちん)で焼かせたもので、あえて下手に作らせているそう
今日の菓子器をずらりと並べてくださいました。左上が先ほどの兜鉢。いずれも同じ景徳鎮で作られた器だそうですが、時代や発注者によって趣が異なるのが面白い、と先生

◇マンションの一室で開くお茶会

そろそろお稽古もおしまいの時間が近づいてきました。

「時折、ワンルームのマンションでお茶会を開く、というたとえ話をします。

いつも以上に家の掃除をし、コップでもいいから花を一輪生けて、チョコレートでもマカロンでもいい、相手の好みそうなお菓子を用意する。掛け軸がなくても、共通の話題になりそうな画集や雑誌をテーブルにさりげなく置く。

口にするものは、抹茶であれば嬉しいけれど、コーヒーでもいいんですよ。相手の趣味趣向を知っているならば相手の好みそうなコーヒーを用意して、ちょっと上等なカップを用意して、訪(おとな)いを待つ。そうして空間全体に、『あなたのために』とわかる一気通貫のストーリーが敷かれてあれば理想的です。

茶室で、抹茶茶碗を使い、掛け軸が掛けられて花が生けられていれば茶会、とは限りません。お茶会の根本は、相手のために時間をとって用意をし、あれこれ段取りをすることにあるのです。

—-では、今宵はこれぐらいにいたしましょう」

なぜお点前をするのか、なぜ帛紗は正方形ではないのか。その意味をしっかりと心得ていたら、マンションの一室で親しい人とコーヒーを楽しむ時間もひとつのお茶会になる。いつか自分でもできるだろうかと思いながら、今はまず、帛紗さばきの稽古です。

お話の合間に先生が披露してくださった、帛紗のお雛様。お茶が発展する中でこうした遊びも生まれたそう

◇本日のおさらい

一、道具一つひとつにも祈りにも似たもてなしの想いが込められている
一、ただお点前の型を覚えていくのが「お茶」ではない。大切なのはそのひと手ひと手に、相手への想いをのせていくこと


文:尾島可奈子
写真:山口綾子
衣装・着付協力:大塚呉服店

*こちらは、2017年6月28日の記事を再編集して公開しました。

プロが愛する京都の仏像6選。東寺や平等院鳳凰堂など、それぞれの楽しみ方

秋の京都で、仏像めぐり

四季折々に違う表情を持つ京都の街。秋には、紅葉を楽しみにお寺めぐりを計画中、という人もいらっしゃるかもしれません。

今年はプロおすすめの京都の仏像めぐりもプランに加えてみてはいかがでしょうか。

おすすめを教えてくれたのは河田喜代治 (かわた・きよはる) さん

仏師 河田喜代治さん
撮影:山口裕朗

滋賀に工房を構える仏師さんです。

「仏師」とは造仏師の略で、仏像を作る仕事。修復も行います。例えば東大寺の金剛力士像で有名な運慶さんも、仏師です。

河田さんは千葉のご出身ですが関西の仏像の魅力にひかれ、修行時代に移住されたそうです。

「修行時代にお世話になった方はみんな、仏師の仕事をするには『とにかくいいものを見ないとだめだ』と。それしかない、と言ってました」

そんな河田さんが「僕個人の好みですけど」と控えめに教えてくれた、京都でおすすめの仏像6つをご紹介します。

「思い出すだけで素晴らしい」東寺 講堂「五大明王」

実は京都の6選の他に、関西5選も伺ったのですが、どちらにも名前が挙がっていたのがこの東寺の五大明王像でした。(関西編はこちら!)

*明王とは‥‥大日如来 (だいにちにょらい) の命によって、悪を退治し仏法を守る諸尊。中でも五大明王は、不動明王を中心に四明王が東西南北を守る。

五大明王といえば東寺、というほど有名なもので、やはり河田さんも仏師の仕事を始める頃からずっと心惹かれていたそうです。

「何度か拝見しましたが、思い出すだけで素晴らしいですね。

講堂の空間そのものや、他の像もまたとても良いんですが、五大明王の中でも不動明王像は、ちょっと何かを超越してるという感じがあります。

静かな怒りの表情と、それを支える体幹は、仏師の仕事をすればするほど、すごさを感じます。

お顔に静かな怒りがうまく存在するように、全体のシルエットの作りが絶妙に調和されてるんですよ。

その表情が引き立つ作りをしてるというか。見事だなと思います」

「仏の理想像」がここに。平等院鳳凰堂「阿弥陀如来坐像」

事前に伺ったアンケートで河田さんが「仏の理想像」と書かれていたのが平等院の阿弥陀如来です。

「平安後期に活躍した定朝 (じょうちょう) という仏師の作とされている像です。

定朝さんは寄木造 (よせぎづくり) という技法を確立させた人と言われていて、彼の作る仏像は、その時代から今に至るまで、理想の仏像とされているんです。

定朝様(じょうちょうよう)といって、仏師は彼の仏像を手本として作りなさいという、型になっているんですね。

実際手がけた仏像を見ていただくと、誰が見ても仏様だなと思うような、とても馴染みのあるお顔をされています。

平等院は建築自体も素晴らしいので、空間との関係性の中でお像を見ていただくのもおすすめです」

怖いけれどもどこか愛らしい。醍醐寺「仁王像」

「今挙げた二つは空間との関係性も気に入っているところですが、こちらは像そのものに注目しています。

平安時代の仁王像ってなかなか残っていないんですよ。木彫って野外に出ているから、傷みも早いし、全国的に平安時代の仁王さんは少ない。

この像は、残っている中でも特殊なんです。仁王像というと怒りの表情のイメージですが、こちらは怖いんだけど愛らしいような、ちょっと笑える、愛嬌のある仁王さんだなと感じます。

また全体の形がいい。平安時代の終わりの頃の作ですが、その頃独特の軽やかな感じが反映されていますね」

端正な顔つきが美しい、清凉寺「阿弥陀如来」

「ここは光源氏ゆかりのお寺です。

平安時代の作ですが、同じ時代の他のお像と違ってちょっと男っぽいというか、力強い感じがあるんですよね。

端正な顔つきも見どころです。お顔立ちが格好いいですね」

中国の色香と祈りの形を体現した姿は必見。宝菩提院「如意輪観音」

「このお像はちょっと特殊で、この6つの中では一番技巧的な感じですかね。中国の色気がけっこう強いんです。

例えば衣紋の作りを見ていただくと、ヒダが本当にふっくらと細やかで、木であるのに布のやわらかさが伝わってきます。

手もとてもきれいですね。

国宝になっていますが、まさに国宝にふさわしい祈りの形という感じです」

花のお寺、勝持寺の小さな小さな「薬師如来座像」

「勝持寺は宝菩提院のお隣なんです。ぜひ合わせて参拝されるのをおすすめします。

花の寺としても知られる勝持寺さんには、素朴な優しさを感じられる白檀の薬師如来座像がいらっしゃいます。像高約9センチほどの小さなお像です。

桜や紅葉を愛でながら勝持寺を拝観し、お隣の宝菩提院の如意輪観音像にも手を合わせ挨拶する。

もちろん仏像がお寺の心なるものですが、それをいろどる境内の自然と花々も、総合芸術として安らぎ与えてくれると思います」


 

東寺の五大明王さまや平等院のお像は空間のなかでの姿の素晴らしさ、醍醐寺の仁王像や宝菩提院の阿弥陀如来は表情に注目。

宝菩提院の如意輪観音は大陸の雰囲気が珍しく、お隣の勝持寺は境内の花々とともにお像に向き合うのがおすすめ。

お像によって見どころが違うのも面白いですね。

仏師さんによっても好みは全く違うとのこと。

皆さんも巡ってみて、ご自分の好みのお像を見つけてみてはいかがでしょうか。

<取材協力>
河田喜代治さん


文:尾島可奈子
メイン写真:清水寺 © ganden クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)
河田さん肖像:山口裕朗

*こちらは、2019年9月3日の記事を再編集して公開しました。

幻の布なんかじゃない。沖縄で途絶えた「桐板」を、ある母娘が8年かけて復元した情熱

*こちらは、2018年8月31日に公開した記事です。首里城のこれからの再建と、首里の織物文化の復元に尽力され昨年末に逝去されたルバース・吟子さんのご冥福をお祈りし、再掲いたします。

沖縄のルバース・ミヤヒラ吟子さんの工房を訪ねて

こんにちは。沖縄在住で、テレビのフリーディレクターをしている土江真樹子です。

今日は、わたしが20年余り前に出会って以来、その不思議な魅力に心を奪われて取材を続けてきた沖縄の幻の布、「桐板」のお話です。

幻のような、夏の首里だけの衣装文化

「桐板」とは、沖縄の首里では「トゥンバン」、それ以外では「トゥンビャン」「トンビャン」と呼ばれる織物のことです。

琉球王府があった那覇市首里で、「桐板」は士族の男女の夏の礼装として重宝され愛された貴重な布でした。

首里城
首里城正殿。首里城跡は2000年に世界遺産にも登録されました

庶民は手に入れることができない「憧れ」の織物。それどころか、那覇以外の農村部では、その存在すら知ることもありませんでした。幻のような夏だけの布、首里の衣装文化だったのです。

忘れ去られた布の正体

けれど日本軍の司令部があった首里城周辺は沖縄戦で破壊され、桐板の着物も焼けてしまいました。

戦後には想像を絶するような努力で「紅型」や「琉球絣」「首里織」「芭蕉布」などの染織が復興されてきましたが、その中で忘れられていったのが「桐板」でした。

これまでも多くの調査研究が行われたにもかかわらず、原材料は沖縄の離島に自生する竜舌蘭 (りゅうぜつらん。数十年に一度だけ花を咲かせる植物) か、麻の一種の苧麻 (ちょま) かと、長年の論争を引き起こしてきた不思議な布です。

琉球絣の産地、南風原町にある「大城廣四郎工房」には、戦後、琉球絣を復興させた故・大城廣四郎さんが本土で買い求めたと言われる桐板の着物があります。

アップ:大城拓也さんの祖父が本土で買い求めてきたという桐板の着物

光沢がある白い生地に藍染の糸で柄を入れたその布は、空気のように軽く薄手で着心地が良さそうな着物です。

大城拓也さんの祖父が本土で買い求めてきたという桐板の着物

近年、やっとこの布が桐板であると証明されたそうです。それだけ桐板は長い間、ミステリアスなものだったのです。

わたしは20年余り前に桐板の話を聞き、その不思議な魅力に心を奪われたひとり。

首里織をはじめ、かつて琉球王府のあった首里の織物はどれもとても美しいのですが、話を聞いたわたしは、幻の布、と聞いて好奇心でいっぱいになりました。「一度でいいから桐板を見てみたい」と。

その手触りを知りたい。できれば一度でいいから袖を通してみたい。そんな好奇心から取材を始めました。

首里で出会ったひとりの女性の証言

調査を始めたものの、当時でさえ桐板の着物を知る人を探すのは簡単ではありませんでした。数ヶ月かけてやっと首里に住むご高齢の女性に辿り着きます。

所作がとても優雅で美しいその人は、暑い夏の昼下がりに微動だにせず、汗をかくこともなく2時間あまりも、話を聞かせてくださったのです。「首里の士族」の高貴さを思わせる凛とした姿。今も忘れることはありません。

「それはもう白くて美しいお着物でした。父が嫁入り道具として家の織り子に織らせて持たせてくれました。

那覇の市場に買い物に行くとみんなの視線を集めたものでしたが、新婚の時期が過ぎると染めてしまったのです」

当時の沖縄で祭礼用以外に白の着物はなく、白い着物を身につける、それは首里の士族の特権だったようです。

「軽くて爽やかな着物でしたよ。戦争で全て焼けてしまってね。もう一度あの白い桐板のお着物の袖に手を通してみたいと思っています」

沖縄県立博物館・美術館所蔵「桐板白地総絣着物」
沖縄県立博物館・美術館所蔵「桐板白地総絣着物」

この桐板を8年もの時間をかけて復元した人がいます。沖縄県立芸術大学の名誉教授で首里織の第一人者、沖縄県無形文化財保持者に認定されたルバース・ミヤヒラ吟子さんです。

ルバース吟子先生

母娘ふたりで取り組んだ桐板の謎

首里城近くの「アトリエ・ルバース」を訪れると、新しい布が織りあがったところでした。

アトリエ・ルバースの様子。織り機が整然と並ぶ
アトリエ・ルバースの様子。織り機が整然と並ぶ
機織り機には織りあがったばかりの布がかかっていました。近づいてみると‥‥
機織り機には織りあがったばかりの布がかかっていました。近づいてみると‥‥
息をのむような美しさです!
息をのむような美しさです!

沖縄の海の深い藍にひとひら緑の葉が浮かぶような色合い。トンボの羽のように光を通すとキラキラと。首里花倉織と呼ばれるとても繊細で手の込んだ美しい織物にはしばし言葉を失うほど。

透かしてみたところ

ルバースさんは母親の宮平初子さんと桐板の謎に向かい合ってきました。

宮平初子さん
宮平初子さん (提供:ルバース吟子さん)

宮平初子さんは戦後、首里の織物の復興に尽力した人間国宝です。なぜ母娘で桐板に取り組むことにしたのか、そこには首里の人たちの思いがありました。

昭和56年、沖縄で日本民藝館所蔵の桐板が展示されました。そこで多くの女性たちに混じって多くの首里の男性たちが、懐かしそうに桐板を長い間眺めている姿を見たのだそうです。

「懐かしい、懐かしいと男性も女性も桐板の着物に見入っていましたよ。もう一度着たいと。みなさん口をそろえてささやきあっていました」

ルバース吟子さん

桐板を愛する人たちの思いに心が動き、それからルバースさんは桐板を調べ始めたのです。

幸運なことに母、初子さんはかつて桐板を知っていた貴重なひとりでした。

「幻、幻というのが母に言わせればちゃんちゃらおかしいわけですよ。幻の布なんかじゃないのよ、って。母が元気なうちにちゃんと作ってということでふたりで始めたんです」

8年を費やした幻の布の復元

ところが桐板の素材、これが一番の難関となりました。

前述のように、桐板の素材は諸説あり、長い間不明とされていました。それも無理もありません。桐板そのものが、ほとんど残っていなかったのですから。

復元にあたり参考にした、桐板の断片
復元にあたり参考にした、桐板の断片
断片のアップ

「沖縄の苧麻で織った布はベージュっぽい色。ところが桐板は青い。青白くて透き通った繊維。それがまた美しいの。だから海外の苧麻だと考えていました」

「糸は中国からの輸入品だった」という初子さんの記憶を辿り、2年かけて中国各地で調査。

手に入れた糸を研究機関に持ち込み、科学的に繊維の分析などを経て、ついにルバースさんは桐板が中国製の苧麻であったことを証明したのです。

戦後の首里の織物の復興に力を注いだ初子さん。その初子さんが織り上げたのが、この写真の着物です。

初子さんが復元した桐板 (提供:ルバース吟子さん)

そしてルバースさんが織った桐板(サンプル)がこの写真です。

ルバースさんが復元させた桐板

織りあがった布を見たルバースさんは感動したと言います。首里で生まれ育った2人の女性。母と娘の首里への愛と桐板への思い。それが「桐板復元」だったのです。

幻の布の復元、その後

サンプルといえ、今回見せていただいたルバースさんの桐板は薄く、さらりとした手触りで清々しい布でした。首里の人たちが愛した桐板を手にする喜びと感じつつ、ルバースさんの執念に心が震えました。

桐板

「よっぽどやりたかったんだろうと思いますよ。今だったら怖いですよね。ゼロから調査、証明しなければいけないのだから」

ところが、桐板はもう織ることができないのだそうです。

中国でやっと見つけた桐板の苧麻の畑は、ほんの数年後に全てが工業地帯へと変わってしまっていたのです。ようやく復元できた桐板は、またも幻の布となってしまいました。

今では沖縄県立博物館・美術館に数枚の桐板が収蔵されているので、展示される機会があれば誰もが見ることができます。

幻の布、桐板。

ぜひとも沖縄を訪れて、「幻の布・桐板」を目にしていただけたら、と思います。

そしてかつての琉球王朝の栄華の時代に生み出された桐板と宮平初子、ルバース・ミヤヒラ吟子というふたりの女性にも思いを馳せてみてください。

<取材協力>
アトリエ・ルバース


文:土江真樹子
写真:武安弘毅、土江真樹子
画像提供:大城廣四郎工房、沖縄県立博物館・美術館