脱藩する龍馬の顔を隠した「まんじゅう笠」が今、人々の生活に戻ってきた理由

1862年 (文久2年)、土佐藩脱藩を決めた坂本龍馬は、高知から下関への道を進んでいました。脱藩するということは、追われる身になるということ。人目につかないよう移動する坂本龍馬の顔を隠したと言われているのが、頭をすっぽりと覆う「まんじゅう笠」です。

まるで饅頭のような曲線が特徴的なまんじゅう笠
まるで饅頭のような曲線が特徴的なまんじゅう笠

まんじゅう笠は、すべて竹の素材で作られている「竹の子笠」の一種。そのふっくらした形から「まんじゅう笠」と名前がつきました。大変軽く、当時は多くの人が使っていたもの。

しかし現在では、専門の作り手は高知県にただおひとりです。実生活では、ほとんど見かけることがなくなったまんじゅう笠ですが、実は近年、ある趣味の人々に重宝されているのだとか。

まんじゅう笠づくりの技術を唯一受け継ぐ宮崎直子さんを訪ねて、高知県芸西村(げいせいむら)をおとずれました。

大きく軽く、ぷっくら丸い「まんじゅう笠」

「昔はね、みんな自分の被るのは自分で作りよりましたので」

坂本龍馬のイメージが強く残り「脱藩笠」とも呼ばれるまんじゅう笠ですが、実はかつては誰もが手作りしていた一般的なもの。特別な笠ではなく、一家にひとつはあるような、日常に溶け込んだものだったと宮崎さんは言います。

宮崎さんがまんじゅう笠を作っているのは『芸西村伝承館』という、芸西村の伝統を残し伝えていくための場所です。平屋の日本家屋で、芸西村の名産である「白玉糖」の製糖体験などが催されており、宮崎さんが作るまんじゅう笠の制作見学や体験もそのひとつです。

芸西村伝承館
芸西村伝承館の開館日は、水・木・日曜日の週3日

「被ってみられたら」

そう手渡されたまんじゅう笠の、なんと軽いこと。大きいものでは直径46センチもあるまんじゅう笠は、手に取ると大きく感じますが被ってみるととても軽いのです。いわゆる現代のハットのように斜めに被るのではなく、すとんと上から落とすようにまっすぐ被ります。「五徳」と呼ばれる籐製の枠がついており、紐を結べばしっかりと頭にフィットする感覚です。

まんじゅう笠の内側
笠のサイズは38、42、44、46センチの4種類。内側の五徳は、現在は既製品を使用しているそう

「雨よけや日よけに、今の帽子のようなものでね。ふんずけさえしなかったら、何十年も持ちます」

現在、まんじゅう笠づくりの技術を唯一受け継ぐ宮崎直子さんが、まんじゅう笠づくりを始めたのは30年前。54歳のときです。

テキパキと手を動かす姿が印象的な宮崎直子さん
テキパキと手を動かす姿が印象的な宮崎直子さん

「両親がずっとまんじゅう笠を作っていましたが、私はちゃんと習ったことはなかったので、見よう見まねですよ」

「門前の小僧習わぬ経を読む」、しっかり教えてもらったわけではなくとも、まわりの環境から自然に吸収して身につけること。そんな意味のことわざを用いて、宮崎さんはご両親の話をしてくれました。

「いごっそう」な父が残した技術

「他の家は辞めていくのに、うちではずっと笠を作り続けていました。そんな両親が、ずっと恥ずかしかったんです。父と母が国道沿いで笠をつくっているところを遠足で通らなければいけないことがあって『何時頃に来るから隠れておいてよ』なんて言ったこともありました」

昭和42年頃には民芸ブームが巻き起こり、バスが何台も見学に訪れるほど注目された宮崎さんのお父さんのまんじゅう笠。昭和45年(1970年)の大阪万博でも紹介されました。

これまでの表彰された歴史や新聞記事、見学申し込みの手紙などが丁寧に保存されています
これまでの表彰された歴史や新聞記事、見学申し込みの手紙などが丁寧に保存されています

しかし、戦前は120軒ほどあった笠づくりをしていた家々も、戦後に東南アジアからビニール傘などの安い傘が輸入されたことにより減少。同業者が次々と廃業していくなか、宮崎さんのご両親だけはまんじゅう笠を作り続けたといいます。なぜなんでしょうと聞いてみると、宮崎さんの口からは聞き慣れない言葉が。

「うちの父、土佐の『いごっそう』でしたので」

「いごっそう」は、土佐弁で「融通のきかない人」という意味。一度作り始めたまんじゅう笠を宮崎さんのお父さんは亡くなるまで作り続け、その後はお母様が技術を引き継ぎました。もし、宮崎さんのご両親がまわりと同じように笠づくりを辞めていたら、今、この世にまんじゅう笠の技術はなかったかもしれません。

その後、平成元年(1989年)に芸西村伝承館がオープン。村長からの「まんじゅう笠づくりを伝承してくれないか」と依頼を受けた宮崎さんは、家に残っていた父の道具を使って笠づくりを始めました。それまで、両親の笠づくりを見たり手伝ったことはあっても、習ったことはなかった宮崎さんは、お母さんと一緒にお父さんの記憶を頼りに笠を作っていったといいます。

工房内の壁
工房の壁には宮崎さんやお父さんが作った笠や写真が飾られ、これまでの歴史がよくわかります

「伝承館ができた頃は、母もここへ来て手伝ってくれてね。工程はわかるけど直接習っていないから、ああでもないこうでもないと試行錯誤」

こうして宮崎さんに笠づくりの技術が受け継がれ、伝承館では実際に笠づくりを見学できるようになったのです。

3種の竹を組み合わせて

ひとつの笠を作るのに必要な時間は、およそ150時間。ずっと作り続けたとしても、1ヶ月に作れるのは平均2枚だそう。そんなに時間がかかるのは、すべてが手作業なのに加えて材料の調達から始まるためです。

「30年前は、自分で全部の竹を切りに山へ行っていました。自転車でね。切って置いておいたら、役場の方が取りに行ってくれよりました」

一言で「竹」と言っても、まんじゅう笠には3種類もの竹の、あらゆる部分が使われています。

笠の全体を覆う部分は、ハチクという種類のタケノコの皮。一般的によく見られる黒い斑点が、ハチクにはなく美しい笠になるといいます。タケノコの食べごろが過ぎた6月頃に、皮を山へ拾いに行きます。

ハチクのタケノコの皮
「斑点がない」という理由でハチクの皮を使うところに、見た目へのこだわりを感じます

骨組みに使うのはマダケと呼ばれる別の竹で、10月頃に竹を切るために山へ。骨組みの太さに割ったマダケを火で炙って曲げ、笠の形に組んでいきます。

「マダケは節が長くて、ねばいんです。どういうことかと言うと、他の竹は穴を開けると開いたままなんですけど、マダケはじわっと締まってくる。だから骨組みにちょうどいい竹なんです」

マダケ
「昔の人はちゃんと向き不向きで竹を決めていたんでしょう」と宮崎さん

さらにもう一種類、夏にタケノコが生えることから通称「土用竹」と呼ばれるホウライチクを竹ひごにして、笠の表面に糸で縫い付けていきます。

土用竹の竹ひご
これは土用竹がこんなに細いのではなく、宮崎さんが竹ひごにしたものです

この土用竹の竹ひごの細いこと。細く割った土用竹を「ヒゴ通し」という特別な道具に何度も通すことで糸のような細さになっていきます。見せていただいた竹ひごは9回ほど繰り返し通したものだそう。

ヒゴ通し
1本1本、「ヒゴ通し」の小さな穴に通していきます
ヒゴ通しに竹ひごを通す宮崎さん
ヒゴ通しに竹ひごを通す宮崎さん
長い竹ひごを穴に通しては引く作業を、理想の細さになるまで繰り返します

「こんな道具は、今はどこにも売っていないからね。30年前にここで笠づくりを始めるときに、父が作ったものを鍛冶屋さんに持って行って、同じものを作ってくれって無理に頼んだんです」

ヒゴ通し
目で見てもわかるほどに、細く繊細になった竹ひご
目で見てもわかるほどに、細く繊細になりました

竹ひごは、つなぎ目を少なくするためにできるだけ長く。竹を細く割っていく段階から、長さを保ったまま細い竹ひごにするのは難しく、多くの人が1メートルくらいの長さしかできないといいます。

「難しい、だけどあれが面白い」

手間暇は昔から続く美しさのため

宮崎さんのまんじゅう笠を見ていると、「美しさ」を求めてほどこされる細かいひと手間が多くあることに気付きます。

そのひとつが、竹ひごを表面に縫い付けていく糸。買ってきた白の木綿糸をそのまま使うのではなく、染め粉で染色しているのです。昔はクチナシの実で染めていましたが、色があせてしまうことが多いため、市販の染料に切り替えたそう。

やさしい黄色が、竹に合って上品な印象
やさしい黄色が、竹に合って上品な印象になります

糸以外にも、宮崎さんのまんじゅう笠の表面は、他のものに比べて繊細で装飾的。多くの人が笠づくりをしていた頃は、竹ひご同士の間隔や留め具合が粗いものが一般的だったそうですが、宮崎さんのご両親を含めた数軒は装飾的な技術を磨きました。

粗い見た目の笠
宮崎さんの笠に比べて粗い見た目の笠は、強度も弱いそうです

「笠づくりは習わなかったけれど、この部分だけは習っていたから役に立った。これがなかったら、もうまんじゅう笠やないからね」

そう言って宮崎さんが見せてくれたのは、まんじゅう笠の中心に取り付ける円型のパーツ。薄く板状にした竹を27枚組み合わせ、美しい円にしたものです。

中心部のパーツ
持ち帰って、夜なべして作ることもあるそうです。「テレビなんかつけておったら、間違えてね」

「竹を削ったり、竹ひごを縫い付けたりすることは稽古をすればできますけどね、この部分だけは習っておかんといかん。私は花瓶敷きを作ろうかと習っておいたんが役に立った」

昔は、このパーツだけを作って販売している人もいたのだとか。ただでさえ根気がいるこのパーツ。宮崎さんのまんじゅう笠は、さらに大小の円が二重になっているこだわりようです。ここでも美しさのため、細かいところまで気を使います。

中心部分のパーツ
単体で見ると、まるでコースターのよう
笠の中心部の装飾
「ひとつだけだったら、ただの大きい丸で芸がない。こっちのほうがきれいでしょ」

そして特徴的なのが、笠それぞれの個性が出る裏地です。

「うちの父がね『表は一緒やし、裏だけ見て好きな色を取ってください』と、よく言ったわけですよ」

宮崎さんのなかで、裏地を選ぶときに特別決まりはないそう。昔はわざわざ購入することもなく、お母さんの破れたエプロンや壊れたこうもり傘の生地を使っていました。

また笠の内側に見える竹は、布との配色が考えられ水彩用の塗料で黒く塗られています。このような小さな一手間が散りばめられていることが、まんじゅう笠をさらに美しくしていることは間違いありません。

笠の裏地
かつては、裏地にも凝った素材や柄をあしらい、おしゃれを楽しんだといいます

人々の身近に戻ってきた笠

「なかなかね、あんなふうに丸くならんのよ」

壁に飾られたまんじゅう笠のなかから、お父さんが作った丸みのある笠を指差して宮崎さんは言います。まんじゅう笠の特徴である、ぷっくらとした丸みを出すのがやはり一番難しいのだそう。

お父さんが作った笠
真ん中がお父さんの作ったまんじゅう笠。中心に向かって美しい曲線続いています

現在、宮崎さんにはお弟子さんが6人います。それでも材料の調達や細かい手作業、すべてを任せるのは「まだまだやね」と宮崎さん。まんじゅう笠の技術が受け継がれるのは、もう少し先のようです。

まんじゅう笠の唯一の作り手である宮崎さんのもとには、高知に限らず全国から注文が入ります。ドラマ『水戸黄門』などの時代劇にも使われ、民芸好きの人が観賞用に購入することもあるといいます。しかし近年注文が多いのは、意外な方々。

「鮎捕りさんから注文をいただきますね」

強い日差しのなかでも顔が隠れ、涼しい。さらには両手が塞がる釣りをしながらでも、しっかりと頭に固定できるまんじゅう笠は、鮎釣りをする方々から人気なのです。着脱のしやすい「サンカク笠」という別の種類の笠を注文する人も多いそう。

その他にも、公園の清掃時にまんじゅう笠を被ったことで話題になったお客さんもいます。笠のおかげで涼しく草むしりを続けられたことで、市長から表彰されたという嬉しい報告を受けました。

まんじゅう笠
いつかお弟子さんも増え、みんなが当たり前にまんじゅう笠を被る時代が、またくるかもしれません

昔は多くの人が気軽に被り、一般的に使われていたまんじゅう笠。それが今の時代にまたこうして人々の生活に戻ってくることができたのは、一途な両親が守った技術を、ひとりの女性が受け継いできたからなのです。

<取材協力>

「芸西村伝承館」宮崎直子さん

安芸郡芸西村和食甲4537-イ

0887-33-2400

文:ウィルソン麻菜

写真:尾島可奈子

日本で唯一の「杼」職人に、世界中から依頼が舞い込む理由

人間国宝級の織物作家、伊勢神宮への奉納品、さらにはフランスの文化財修復プロジェクト。世界中から依頼が舞い込む「ある道具」の職人さんがいます。

それは「杼(ひ)」という織物を織るときに欠かせないもの。

長谷川製作所の杼

機織り機にぴんと張られた経糸(たていと)のあいだに緯糸(よこいと)を通すときに使われます。

英語では「シャトル」と呼ばれ、手織り職人の手と緯糸のあいだを行き来することから「織る人の手の一部」などと表現されることもあるんだとか。

長谷川杼製作所の杼
これが「杼」。織物を織っていくうえで欠かせない道具です
西陣織会館の織物実演
杼を使って、機織り機に張られた経糸のあいだに緯糸を通して織っていきます
杼
こんな風に色ごとに使い分けます

今、この杼を作る職人さんが、日本にはたったひとりしかいません。その工房を訪ねて京都に向かいました。

織物の産地、西陣にひとり残る杼職人

最後の杼屋、長谷川杼製作所があるのは、京都市内の金閣寺や北野天満宮にもほど近い町の一角。3代目杼職人の長谷川淳一さんは、国選定保存技術「杼製作」保持者に平成11年に認定された、現在の日本に残る唯一の杼職人です。

60年以上ものあいだ、杼を作り続けてきた長谷川さん。やはり作務衣が作業しやすいとのこと
60年以上ものあいだ、杼を作り続けてきた長谷川さん。やはり作務衣が作業しやすいとのこと
長谷川杼製作所の入り口
長谷川さんのお父さん・繁太郎さんが結婚を機に新築したという、住まいと工房がひとつになった京町家

表戸口を開けてすぐのところにある店の間で、杼の仕上げをしながらお客さんの対応をします。座布団のまわりには、ヤスリや金槌、カンナなどの道具がたくさん。

杼職人さんの道具
金槌、ノミ、カンナ、ヤスリ…。その他にも聞いたことがないような道具もたくさん

「ちょっと動かすと『あら、どこいった』って言うから、掃除ができないんですよ」

奥さんの富久子さんが言うと「このほうが『あれ持ってきてくれ』言わんでも、自分でできますやろ。それに、気分が乗らしませんしね」と長谷川さん。

引き出しに手をのばす職人さん
仕事場にある古い箪笥は80年ほど前にあつらえたもの。なんでもすぐに手が届く

「100とおりの形」がある杼づくり

長谷川さんの仕事場を見渡すと、さまざまな大きさや形の杼が目に入ります。

うすい作りで経糸をすくいやすくした「すくい杼」や、先端が角ばった「縫取杼」、最も一般的な手織りで使われる「投げ杼」、そして「バッタン」と呼ばれる装置がついた織り機で使われる「弾き杼」など、それぞれ形や重さが違います。

西陣織会館の杼の展示
織物の種類や機織り機に合わせて使い分けられるという杼は、大きく分けて5種類ほどの基本の形があるといいます

西陣の特産品であるつづれ織りは太い糸を扱うことが多いですが、繊細な細い糸を扱う織物もあります。また同じ織物のなかでも、部分によって杼を使い分けたり、複数の杼を使って同時に織っていくこともあるそう。

「まあ、お客さんが100人いれば100の手がありますわな。そしたら『私はちょっと軽いのにしてくれ』とか『私はもうちょっと短いのにしてくれ』とかね。

お客さんに合わせてアレンジして作らなんので、お客さんが100人いたら100とおりの形があるわけですわ」

引き出しに入っている完成した杼
引き出しにはさまざまな形、大きさ、種類の杼がびっしり
お客さんの名前がつけられた杼
お客さんが気に入った杼には、お客さんの名前がつけられて「その人の杼」になります

ひとりのお客さんから一度に受ける注文は、一度にだいたい1丁から2丁。価格は小さいもので2000円から8000円ほどですが、オーダーしたものは4、5万円です。

「何十年、百年と持ちますから」

1丁の杼を、3代に渡って、100年以上使い続けているお客さんもいるそう。そのようなお客さんの杼を修理したり改良したりしながら、長谷川さんは杼職人としての技術を磨いてきたのです。

「使われるほど、その方の手に馴染んで使いやすくなるようです」

長谷川杼製作所の表戸口
店を訪れたお客さんと、この棚を挟んで話をします

作り続けた理由「それしか私はでけへんのです」

長谷川杼製作所は、長谷川さんのお祖父さん・辰之助さんがはじめ、およそ120年ものあいだ西陣の織物文化を支えてきました。

太平洋戦争中は、国から許可があった唯一の杼屋として、シャトル工場組合を作って他の杼屋を雇っていました。パラシュート用ベルトの杼を作っていたこともあったそう。

長谷川杼製作所の作業場
戦前に建てられたこの家。畳や棚など部屋の隅々からも、長い歴史を感じます

長谷川さんは子どものときから家業として杼作りを身近に見て育ち、高校卒業と同時に本格的に杼作りを始めました。

修行を始めた1950年代はちょうど杼の生産のピークとなり、年間の注文数が千丁も入っていたといいます。着物や帯用の杼に加え、当時流行していた起毛型のパイル織物「ビロード」用の杼を多く生産していました。

1970年代にも帯の人気により注文が増えますが、それ以降は徐々に減少。需要の変化や後継者不足から、西陣の杼屋は少しずつ姿を消していきました。そして最盛期の20年前には10軒あった杼屋が、今では長谷川杼製作所の一軒だけに。

杼の職人さん
「戦争中に許可を得て一軒やったんが、70年経って、また一軒に戻った」

また杼の材料となる部品にも、需要減少や高齢化の影響が出ています。「糸口」と呼ばれる糸が通る穴に使われている京都の伝統工芸品、清水焼です。

「この方ももう辞められてね、職人さんが年がいきましたやろ」

清水焼で作られた糸口
現在はもう作られていない清水焼の糸口。辞めると言われたときに何千個という在庫をまとめて買ったそう

同業者が次々と店をたたんでいくなか、長谷川さんが続けてこられた理由を伺いました。

「それしか私はでけへんのです。織物界でしか、仕事がでけしません」

作業場で杼を作る職人さん
「これしか私にはできない」と何度も繰り返す長谷川さんからは、杼づくりに捧げてきた覚悟を感じました

世界中の織物作家を魅了するこだわり

長谷川さんに、注文がどこから入るのかと伺うと「世界中」との答えが返ってきました。

「フランスのお城でタペストリーを復元している方がおられましてね。日本の技術が向こうで花咲いてるわけです」

フランスのみならずイギリスやドイツなど、まさに世界中で長谷川さんの杼が「織る人の手の一部」として活躍しているのです。

その他にも、伊勢神宮の御神木である桜の木を使っての杼の注文があったり、人間国宝の染織家、志村ふくみさんや北村武資さん、そのお弟子さんなどからの注文が絶えません。長谷川さんの杼を使った織物で、伝統工芸展に入選した方もいます。

着物の写真
長谷川さんの杼が活躍し、多くの人々を虜にする織物になっています

世界中、国内中から織物作家たちが注文に訪れる長谷川さんの杼。一体、何がお客さんを惹きつけるのでしょうか。

「織る人が希望する杼と、私が作る杼の寸分が合ってるんですね。相性がええわけです。だから私の杼を使うてはる人は、スムーズに織れて量産できるんです」

一点ずつ丁寧に織っていくからこそ、美しくスムーズに織り上げられることが重要な手織りの世界。引っ掛かりのない滑らかな長谷川さんの杼は、本当に「手の一部」のように経糸のあいだをくぐり抜けるのでしょう。

ヤスリで杼を磨いている
銅や紙のヤスリを使って、すみずみまで手を使って磨く作業は奥さんの富久子さんの仕事

また、織る人の握力や紐を引く力なども考慮して、杼を作っていくといいます。女性は弾く力が弱いため、軽い杼を。力の強い男性であれば、赤樫の中心部であるより固くて黒い木材を使います。

杼の材料になる宮崎県の赤樫
宮崎から取り寄せている、まっすぐで丈夫な赤樫。ようやく杼の材料として使えるようになるのは、20年ものあいだ自然乾燥させたものだけです

赤樫を板状の角材に切り出す製材、機械や小刀を駆使した穴開け、そしてなんと、おもりの鉛を溶かして流し込む作業まで、長谷川さんがおこなっています。

「これも、してくれるところがなくなって。しょうがなく自分でやってるんです。杼だけ作ってるわけじゃなし、鍛冶屋もしんならんし、大変です。後が続かへんわけですわ」

杼の鉛が入っている部分
おもりが入っている部分。長い年月をかけてしっかりと自然乾燥させた赤樫でないと、鉛を流し込んだときに割れてしまうそう
杼の中に流し込まれた鉛
七輪で鉛を溶かして杼の中に流し入れることで、適度に重く安定感のある杼になります

織物がある限り、杼はなくならない

最後の杼職人である長谷川さんには、お弟子さんはいません。どういう人が杼職人に向いているのかを聞くと、長谷川さんと富久子さんから出てきた言葉は「1に辛抱、2に辛抱」。

「ひとつ完成させるだけでも、根気がいりますさかいね」と言う長谷川さんを、富久子さんは「強情なんです」と言って笑います。

「このあいだテレビ局の方に『どんなご主人ですか』て聞かれたとき、とっさに『強情です』って言うてしもうた。そこカットして下さい言うたんですけどね」

「絶対に作り上げる」という信念があるからこそ、硬い赤樫から滑らかな杼が作り出せるのです
「絶対に作り上げる」という信念があるからこそ、硬い赤樫から滑らかな杼が作り出せるのです

杼の品質を決める、一番のポイントにも「辛抱」の言葉はつうじています。それは角度。木材それぞれが持つ角度に合わせて、杼として使う部分や穴を開ける場所を決めるのです。

「角度が命綱。直角ではあきませんのや」

木材の角度を測る
定規で見て、ようやくわかるような小さな角度。長谷川さんが木材を見ただけでわかるのは、小さい頃から杼を作るお祖父さんやお父さんを見てきたから

ひとつひとつの木材を見て、その角度に合わせて削っていく。それも、お客さんの持つ機織り機や、手に合わせて。聞いているだけで、根気のいる作業だということがわかります。

杼をつくる職人さん
効率よく作っても、完成させられるのは一日に1丁か2丁

また杼の材料である赤樫も、後継者が見つからない理由のひとつ。

「箪笥とかって桐の木でされますやろ。赤樫は硬くて全然違いますから」

大工さんや家具職人さん、樽職人さんなどが杼の技術を受け継ぎたいとやってきても、赤樫にさわるとあまりの硬さに断念して帰っていくそうです。

原材料の赤樫の木材
板にした状態で20年寝かせた赤樫は、他の木材と比べものにならないくらい硬いといいます

それでも、杼がなくなることはないと長谷川さんは信じています。

たとえば、機織り機の部品のなかで経糸の密度を決める「筬(おさ)」と呼ばれる部分。以前は竹が原料の「竹筬」が主流だったものの、今では主にステンレスを使った「金筬(かなおさ)」が使われています。

それと同じように、赤樫とは違う材料でも杼を作る人が現れるかもしれません。これから、硬い赤樫から杼が作りたいという「強情な」人も現れるかもしれません。

「きっと、どなたかがされると思います。全国に織物がある以上ね」

織物がこの世界にある限り、「織る人の手」となる杼はなくなることはない、いえ、なくなっては困るのです。

硬い赤樫を削り続ける、固い意志。きっとそれを受け継ぐ人がやってくると信じて、長谷川さんは世界中の織物作家さんへ、杼を届け続けます。

<取材協力>
「長谷川杼製作所」

上京区千本西入風呂屋町55

075-461-4747

文:ウィルソン麻菜

写真:尾島可奈子