泡盛マイスターに聞く、美味しい飲み方のススメ

沖縄の代表的なお酒「泡盛」。空港やお土産屋さんにもたくさんのボトルが並んでいます。

泡盛といえば、独特の香りがあり、個性の強いお酒というイメージを持っていました。しかし、「泡盛は知れば飲みやすいお酒」と地元の方に聞き、俄然興味が湧きました。

さらには、飲まずに寝かせておくと、デザートのように甘くまろやかな古酒 (クース) に変化し、違った味わいが楽しめるのだそう。とりわけ、沖縄の焼物である「やちむん」に入れておくと、美味しくなるのだとか。

やちむんの甕に入った泡盛
沖縄のやちむん「荒焼 (あらやち) 」の甕に入った古酒

もしや、泡盛とやちむんを買って帰ったら、最高の沖縄土産が作れるのでは?‥‥と思いつきまして、さっそく詳しい方にお話を伺ってみることに。

訪ねたのは、沖縄県那覇市で人気の「古酒BAR&琉球DINING カラカラとちぶぐゎー」店主で、泡盛マイスターの長嶺哲成(ながみね てつなり)さん。古酒づくりのお話に加え、泡盛を美味しく飲む方法も教えてくださいました。

店主の長嶺さん
泡盛にまつわる古文書や科学的データに基づく知識も豊富な長嶺さん。沖縄県酒造組合からの信頼も篤い、泡盛界の有名人です
店名の「カラカラ」は、泡盛を入れる酒器、「ちぶぐゎ~」は古酒を飲むための小さなおちょこのこと
店名の「カラカラ」は泡盛を入れる酒器、「ちぶぐゎ~」は古酒を飲むための小さなおちょこのこと

本当は飲みやすい?美味しい飲み方のススメ

「泡盛はきつい香りがする、アルコールが強い、といって苦手に思われる方もいらっしゃいますが、適切な方法で飲むと、きっとその美味しさに気づかれると思います。

かつての泡盛は、古酒にするためのアルコール40度以上のものばかりでした。現代では、アルコール度数30度ほどで、さらりとした口当たりのものが一般的で、水割りにして飲むのがおすすめです。水で半分に薄めることで15度前後、つまり日本酒やワインと同じくらいのアルコール度数にすると食事とよく合うんです」

水で割ると、食事との相性も良くなります。冷やしすぎると香りと甘みが消えてしまうので、氷の量で調整を。冬はお湯割も美味しい。
水で割ると、食事との相性も良くなります。冷やしすぎると香りと甘みが消えてしまうので、氷の量で調整を。冬はお湯割も美味しい

たしかに沖縄のお店では、多くの方が水割りの泡盛を楽しんでいました。お酒が得意ではない私も「あ、これは飲める!さっぱりしていて美味しい!」と、料理とともに味わえました。古酒への気持ちもさらに高まります。

「古酒は本来、ウイスキーと同じく香りを楽しみながら舐めるように味わうものなんです。料理と合わせるよりも、チョコレートや黒糖、洋梨、マンゴスチンといったまったりとした甘みのあるフルーツがよく合いますよ」

水で薄めずにストレートで、おちょこなどに少量注ぎます
古酒は、水で薄めずにストレートで。おちょこなどに少量注ぎ、ほんの少しずつ時間をかけて味わい、鼻に抜ける香りを楽しみます。飲んでいて、うっとりするような、そんなお酒です

「荒焼の甕」が美味しさを育てる

「40度以上の泡盛は、置いておくだけで成分が変化し、古酒化が進みます。どんな容器でも変化しますが、釉薬を塗らずにじっくりと焼き締めた荒焼 (あらやち) の甕が特に向いています。

甕に含まれるミネラル分が、高級脂肪酸とアルコールの化学変化による古酒化を促します。また、甕の中の空気量が十分なので、適度に酸化も進んで味が変化するとも言われています。沖縄工業技術センターの調べでは、ステンレス容器やガラス瓶に比べて、甕は古酒化が1.5倍早まったというデータもあるんですよ。

なるべく大きな甕で育てたいところですが、家庭で作るのなら始めやすいサイズのもので問題ありません。部屋の広さやご家族の声も聞いてちょうど良いものを選びましょう。沖縄県酒造組合の基準では、3年以上寝かせたものを古酒と呼びます」

目利きが実践、良い甕は「音」と「色」で選ぶ

「よく焼き締められた甕は、指で叩くとカンカン、キンキンと高い音がします。見た目では、レンガのような色のものより、全体が黒く焼きが入っているものを選ぶと良いです。液漏れが心配なので、表面に凹凸がなく、傷が入っていないものを選びましょう」

同店では、県内全48酒造所の主要銘柄をそろえており、その数100種類以上。飲みやすい新酒から希少性の高い古酒、マニアックな銘柄まで網羅しており、毎晩お酒好きで賑わいます
同店では、県内全48酒造所の主要銘柄をそろえており、その数100種類以上。飲みやすい新酒から希少性の高い古酒、マニアックな銘柄まで網羅しており、毎晩お酒好きで賑わいます

「とはいえ、液漏れに関しては、50年以上古酒づくりをしている名人に聞いても、どんな甕でもお酒を入れてみないと実際にはわからないそうです。

酒造所で販売しているものは、まず水を入れて液漏れをチェックしています。それでも水よりアルコールの方が漏れやすいので、実際に使うと漏れることも。中には、液漏れの1年保証がついたものなどもありますよ。

長い年月をかけて育てるものなので、好きな作家さんの窯元を訪ねて買うというこだわりを持つ方もいらっしゃいます」

定期的に中身をチェック、変化の過程も愛おしい

「古酒でも、特有の甘い香りが出始めるのは10年目くらいになってから。それまでも、1年に1回ほど定期的に中身を確認します。液漏れてしていないか、味見をして甕から土の匂いが移っていないか、などをチェックします。

5年目くらいからは、『仕次ぎ (しつぎ) 』という継ぎ足しも始めます。全体の10%ほどの量のお酒を新しいものに入れ替えるのです。

寝かせていると、泡盛の中にある変化する成分が徐々に使い切られていきます。また、長い年月のなかでアルコール度数が下がることもあるので、それらを新しいお酒で補うのです。この時、優しく混ぜて空気に触れさせることで反応を促す効果もあると言われます。やり過ぎてもいけないので、愛情を込めて丁寧に扱うことが大事です」

甕と蓋の間、蓋の上にセルファンを使って、揮発を防ぐという技もあります
甕と蓋の間、蓋の上にセルファンを使って、揮発を防ぐという技もあります

家宝であり、もてなしに使われた古酒

「一説には泡盛の歴史は約600年と言われますが、琉球王朝時代からお酒は酒造所が作り、そのお酒を育てるのは家庭でした。

現在の価格を見ても、販売されている古酒は50年ものが四合瓶で50万円ほど。なかなか手が出ませんよね。

泡盛は購入して育て始めたところから酒造所の酒ではなくなる、各家庭で異なる味わいになっていく面白みがあります。育てれば育てるほど、その家の味になるのです。

戦前のことが書かれた『泡盛醸造視察記 (昭和元年 大崎 正雄) 』を読むと、泡盛は200年を最高とし、100年、50年のものは稀にあらず、とあります。家庭で100年を超えるお酒を作っていたんです。古酒は、代々受け継いで、子孫に残すものでしたから」

「名家では100年以上のものを家宝として育て、大切なお客さんに振る舞っていたそうです。客人は、主人が出してくれた古酒をありがたくいただく。自分が賓客として良いものを出してもらえるようになったことを喜び、さらに自分を戒めて謙虚にお酒をいただくというのがマナーでした。もちろんお代わりなんてご法度です。

沖縄では『人間関係を大切にしなさい。人として人格を磨きなさい。そうすれば良いお酒に巡り会えますよ』と言われるんですよ (笑) 」

短い時間で泡盛を美味しくする方法

古酒づくりは長い年月をかけて行うものでしたが、最後に長嶺さんから短時間で泡盛の味をまろやかに美味しくする方法を教えていただきました。

30度ほどのアルコール度数の低い泡盛を水割りにして、荒焼の器に入れて冷蔵庫に入れておきます。期間は、1週間ほどがおすすめ。まろやかになり、さらに甘さを感じるそう。その理由は「クラスター化」。

ピリピリと舌を刺激するアルコールの分子を水の分子が包み込む現象によって、お酒の口当たりが変わってくるといいます。

荒焼の器
荒焼の器にいれて冷蔵庫へ

戦前に作られていた古酒や、その資料はすべて消失してしまったと言われています。現代の古酒づくりが始まったのは、1950年頃から。まだまだ数十年ものの段階です。

継承されていない技術もあり、科学的な検証もしながら試行錯誤を続けて新しい古酒が作られています。

「今から育っていく、これからの時代の古酒がとても楽しみなんです」

そう語る長嶺さんの目は、未来 (とグラス) に向けられていました。

<取材協力>
古酒BAR&琉球DINING カラカラ と ちぶぐゎー
沖縄県那覇市久茂地3丁目15-15 やまこ第2ビル1F
098-861-1194
営業時間:18:00~24:00 (L.O.23:00)
定休日:日曜日
http://b-kara.com/

文:小俣荘子
写真:武安弘毅

なぜ、ご当地マンホールは生まれた?発祥の地・沖縄の工場で聞いた、匠の技術

旅先で町歩きをしていると、ご当地デザインが施されたマンホールの蓋に出会うことがあります。地域の草花やお城、特産品などが描かれているものを見つけると、つい立ち止まって眺めてしまうことも。

各地のデザインマンホールの鑑賞や関連品の収集が趣味の方もいらっしゃいますね。

各地でデザインは様々。こちらは沖縄県那覇市のもの。鮮やかな色が目を引きます
各地でデザインは様々。こちらは沖縄県那覇市のもの。鮮やかな色が目を引きます

このデザインマンホール、日本ではじめて作られたのは沖縄県那覇市なのだそう。沖縄では、多種多様なものを目にします。

波をモチーフとしたデザイン
波をモチーフとしたデザイン
沖縄といえば、シーサー!「うふ」は沖縄の言葉で「大きい」という意味なのだそう
沖縄といえば、シーサー!「うふ」は沖縄の言葉で「大きい」という意味なのだそう

今では各地で見られるようになり、旅の楽しみの1つともなっている種類豊富なデザインマンホールは、どのようにして生まれたのでしょうか?

デザインマンホールを国内で初めて製品化した「沖縄鋳鉄工業」を訪ねました。

沖縄鋳鉄工業株式会社
沖縄鋳鉄工業株式会社
エントランスには、鮮やかなデザインマンホールが展示されていました
エントランスには、鮮やかなデザインマンホールが展示されていました
社長の眞志喜 実 (ましき みのる) さん
社長の眞志喜 実 (ましき みのる) さん

「1972年の本土復帰を境に、沖縄にはあらゆる県外製品が流入してきました。沖縄の地元企業は、その波に立ち向かわねばなりませんでした。沖縄企業としての生き残りを賭けて市役所と相談しながら対策を考えました」

下水道への関心を高めた魚のデザイン

当時、那覇市にも悩みがありました。環境美化のため、下水道の普及を進めたかった同市。しかし、市民にとって下水道は「汚いもの」というマイナスイメージがあるのみで、環境への意識に繋がるものではありませんでした。そこで考えられたのがデザインマンホール。

「下水道は縁の下の力持ち。工事が終われば目に触れる機会はありません。表に出るのはマンホール蓋だけです。そのマンホール蓋に地元で馴染みあるモチーフも用いることで目に留まるようにし、下水道に関心を持つ一助となることを目指したのです。

それまでマンホールの凹凸は自動車が滑らないようにするための機能にすぎませんでしたが、目で楽しめるものを考えることとなりました」

そうして生まれたのがこちらの小魚モチーフのデザイン。

中央に入っているのは那覇市の市章。「下水道できれいになった水の中で魚たちが喜び、群れて遊ぶ様子」がイメージされているそう
中央に入っているのは那覇市の市章。周りを囲むのは沖縄で親しまれるガーラ (カスミアジ) という魚です。「下水道できれいになった水の中で魚たちが喜び、群れて遊ぶ様子」がイメージされているそう

このデザインマンホールは評判を呼び、市民の関心を高めることに一役買いました。下水道の普及率が向上し、川や海の環境美化が進むきっかけの一つとなったそうです。そして、40年経った今も街中に残るデザインとなっています。

「デザインで差別化する前のマンホール蓋は、大量生産が可能な大手企業との価格競争が避けられない製品でした。しかし、付加価値の高いデザインを施したマンホール蓋を多品種小ロット生産することで価格競争に陥ることなく受注できるようになりました」

沖縄鋳鉄工業では、モチーフの提案から携わります。地域の文化や歴史、伝統品、年中行事などのイメージをすくい上げて考案しているのだそう。

沖縄県那覇市のデザインマンホール
沖縄県那覇市のデザインマンホール

繊細な絵柄をも形にする「糸のこ使い」

この製品を支えるのは鋳型作りの技術。沖縄鋳鉄工業のデザインマンホールは、図案を元に全て手作業で絵柄をアルミ板から切り出し、鋳型を作り、鉄を流し込んで成形します。

こちらがアルミ型を元に作られた鋳型。マンホールの形をした空洞に鉄を流し込んで成形します
こちらがアルミ型を元に作られた鋳型。マンホールの形をした空洞に鉄を流し込んで成形します
小魚モチーフのアルミ型は全て糸のこで切り出しています
小魚モチーフのアルミ型は全て糸のこで切り出しています
魚と魚の間を切り抜く際には、毎回糸のこを通しなおして切り出すという途方も無い作業がされています
魚と魚の間を切り抜く際には、毎回糸のこを通しなおして切り出すという途方も無い作業がされています
型が抜けやすい様に、断面には傾斜が付いています。傾斜をつけるためにはアルミ板を傾けねばならず、ここが腕の見せ所
型が抜けやすい様に、断面には傾斜が付いています。傾斜をつけるためにはアルミ板を傾けねばならず、ここが腕の見せ所

現代の技術では、型は樹脂などを溶かして作る場合と、機械で削り出して作る場合があります。アルミ板を使って手作業で作ると、平均して1つの型ができるまで1日7時間の作業で4日ほどかかります。樹脂型の方が圧倒的に早いですね。

でも、アルミで作った方が鋭角な型が作れるので、より絵柄がはっきりと浮かび上がります。また、細かなデザインも生み出せます。安全面でも、しっかりと深い溝が作れるので滑り止め効果が期待できるんです。そのため、手作業で切り抜くアルミ板を使い続けています」と眞志喜さん。

最初のデザインマンホール型を作ったのは、同社で昨年88歳まで現役で腕をふるっていた神山寛盛 (かみやま かんせい) さん。2003年には「現代の名工」にも選ばれました。細い線や図案を美しく切り抜く神山さんの磨かれた技術が、今も後輩に受け継がれています。

アルミ板を切り抜く糸のこ。神山さんは0.1ミリメートルの精度で調整を行って作っていたそう
アルミ板を切り抜く糸のこ。神山さんは0.1ミリメートルの精度で調整を行って作っていたそう
この繊細なパーツもすべて糸のこで切り抜かれています。デザイン画の時点で、線が細すぎて切り抜きが不可能な場合はデザイナーと相談を重ねるそうですが、この繊細さは実現可能な範囲。驚きでした
この繊細なパーツもすべて糸のこで切り抜かれています。デザイン画の時点で、線が細すぎて切り抜きが不可能な場合はデザイナーと相談を重ねるそうですが、この繊細さは実現可能な範囲。驚きでした

パズルの様にパーツを並べて生まれる絵柄も

小魚モチーフのデザインのように、すべての図案が一体となっているもののほか、シーサーや市の花の図案のように、いくつかのモチーフが絵画の様に円の中に独立して描かれているものも多く存在します。

「モチーフが切り離されているデザインの場合は、全体の配置やバランスを原画の通り作らなければいけないのでパーツを並べるのが大変なんです。

「おすい」の文字の「お」の点も独立していますが、正しい位置に置いて、アルミ針で1つずつ留めているんですよ」

この細かいパーツはそれぞれ切り出した後に並べて1つずつ貼り付けているそう
この細かいパーツはそれぞれ切り出した後に並べて1つずつ貼り付けているそう
おすいの「お」など文字の点も、もちろん別パーツ。途方も無い作業です
おすいの「お」など文字の点も、もちろん別パーツ。途方も無い作業です
こちらはパーツを切り取った後のアルミ板。細かいパーツをはり合わせる場合は、貼り付ける板の上にこちらを乗せてガイドにしながら、位置を確認して貼り付けていくのだそう
こちらはパーツを切り取った後のアルミ板。細かいパーツをはり合わせる場合は、貼り付ける板の上にこちらを乗せてガイドにしながら、位置を確認して貼り付けていくのだそう

デザインマンホールへのこだわりは型だけにとどまりません。

日々車や人が上を通り、強い日差しの下に晒されるマンホール蓋。安全面での強度はもちろんのこと、同社では美しさを維持することも大切にしています。通常の塗料で着色するとすぐに色が褪せてしまうため、試行錯誤が重ねられました。

色落ちしにくさを研究して作られた「色つき樹脂」を流し込んで着色。色分けを細かく指定されることもあるため、すべて手作業で行われます
色落ちしにくさを研究して作られた「色つき樹脂」を流し込んで着色。色分けを細かく指定されることもあるため、すべて手作業で行われます
防火水槽など緊急時に必要なものは、目につきやすいようはっきりとした色を。色落ちしにくいのは重要ですね
防火水槽など緊急時に必要なものは、目につきやすいようはっきりとした色を。色落ちしにくいのは重要ですね

デザインは100種類以上!

これまで、いったいどれくらいの種類のマンホールを作ってきたのでしょうか。眞志喜さんに尋ねると、「あまりに数がありすぎて把握しきれていないけれど、少なくとも100種類以上じゃないかな」とのこと。

壁に貼られた、デザイン画の一部
壁に貼られた、デザイン画の一部

「それぞれの地域の特色を表現するとその街を歩くのが楽しくなります。古い道路には市町村合併によってなくなってしまった地名のデザインマンホールが残っていたりもするんですよ。安全性を考えて新しいものにする必要がある場合もありますが、珍しいので、古いものを探しながら町歩きをされる方もいらっしゃいます。沖縄をそうやって楽しんでもらえるのは嬉しいですね」

デザインマンホールの生みの親である沖縄鋳鉄工業は、今も沖縄県内のデザインマンホールの9割以上を作り続けています。眞志喜さんの言葉には、デザイン性と安全面を考えて製造を続ける同社ならではの、ものづくりへの矜持がありました。

<取材協力>

沖縄鋳鉄工業株式会社

沖縄県中頭郡西原町字小那覇958

098-945-5453

文:小俣荘子

写真:武安弘毅

沖縄の屋根から生まれた、新垣瓦工場の「赤瓦コースター」

赤瓦コースターとグラス
色も形も様々なバリエーションがあり、好みに合わせて選べます
色も形も様々なバリエーションがあり、好みに合わせて選べます

強い雨から暮らしを守った赤瓦

沖縄を訪れると、赤い瓦を白い漆喰で留めた美しい屋根が目を引きます。首里城にもこの赤瓦がふんだんに使われています。

沖縄の赤瓦屋根
沖縄の赤瓦屋根

この赤瓦屋根は、古くから強い台風やスコール、塩害から沖縄の人々の暮らしを守ってきました。赤瓦は吸水性と速乾性に優れていて、雨水を吸い、晴れた時に蒸発させます。その気化熱によって沖縄の家を涼しく快適にしていました。

建築技術の変化とともに赤瓦屋根を使う家は減りましたが、この赤瓦の特性を活用した製品が暮らしの中で使われています。その一つが赤瓦コースターです。

開発した老舗瓦工場「新垣瓦工場」を訪ねました。

赤瓦の一大産地であった与那原町にある、新垣瓦工場
赤瓦の一大産地であった与那原町にある、新垣瓦工場

飲み会での応急処置から生まれたアイデア

きっかけは、飲み会の席でのこと。

「息子が友人と工場に集まって飲み会をしていました。氷の入ったピッチャーやグラスの水滴がテーブルに流れて、周りに置いてある書類などを濡らしそうになりました。それで、手近にあった赤瓦を敷物がわりに使ってみたら、見事に水を吸って周りを濡らさずに済んだそうです。

もちろん赤瓦の特性は知っていましたが、この活用方法を聞いて、なるほどと」

お話を聞かせてくださった社長の新垣文男さん
お話を聞かせてくださった社長の新垣文男さん

「この特性を生かしてコースターを作ったら喜ばれるのでは?と試作をしてみました。瓦をそのまま焼くと反ってしまうので、プレス機を作ってまっすぐに焼けるよう工夫したり、テーブルウエアとして使っていただけるデザインを試行錯誤しました」

こうして生まれた赤瓦コースター。吸水性と速乾性に加え、表面に凹凸のあるデザインにすることでグラスに張り付かない工夫もなされています。使い勝手が良いのは嬉しいですね。

織物のコースターに着想を得たレースデザインのコースター。人気のデザインです
「赤瓦コースターLACE」織物のコースターに着想を得たレースデザインのコースター。人気のデザインです

ここで買いました

新垣瓦工場

沖縄県島尻郡与那原町字上与那原452−2

098-944-1017

https://kawara.theshop.jp/

工場に併設されたショップ
工場に併設されたショップ
様々なデザインと色とりどりのコースターや鍋敷き、同じく赤瓦の特性を生かしたアロマストーンなどが並びます
様々なデザインと色とりどりのコースターや鍋敷き、同じく赤瓦の特性を生かしたアロマストーンなどが並びます

文:小俣荘子

写真:武安弘毅

使用イメージ画像提供:新垣瓦工場

長崎の知られざる魅力は路地にあり。「さるく見聞館」をめぐるまち歩き

長崎の観光地と聞いて、どこを思い浮かべますか?

グラバー園や眼鏡橋、大浦天主堂や平和公園などが有名ですが、地元の方に尋ねると、おすすめの場所は他にもあるのだとか。

小さな路地を入って見つけるお店や、曲がりくねった石畳の坂道を上りきったところの景色にこそ、長崎の本当の魅力は眠っているといいます。

長崎の歴史や文化を体感できる「さるく見聞館」

長崎では、「長崎の良さを味わうには、まちを歩くのが一番!」という考えのもと、「長崎さるく」という企画が立ち上げられました。

「さるく」とは、長崎の言葉で「まちをぶらぶら歩く」という意味。

特製マップを片手に自由に歩く「遊さるく」、地元の方によるガイド付きまち歩きツアー「通さるく」、専門家による講座や体験を組み合わせた「学さるく」などが用意されていて、観光客だけでなく、地元の方々にも人気があります。

このまち歩きの中でひときわ魅力的なのが、まちのなかに19箇所ほどある「さるく見聞館」と呼ばれる場所。

さるく見聞館のポスター

「さるく見聞館」とは、長崎のまちの伝統や文化、くらしを伝えるスポットです。

長崎のまちに点在する旧家や老舗などの協力のもと、それぞれの家やお店の当主を館長として、仕事場や生活の場などを公開しています。つまり、普段は入ることのできない工房の中や歴史ある建物に足を踏み入れて、見て回ることができるのです。

貴重な古い道具や資料、仕事の様子を見学したり、工房によっては、ものづくり体験のできる場所まであります (要事前連絡) 。

通常の観光では足を踏み入れられない場所での発見や、地元の方とのふれあいをも楽しめることが大きな魅力です。

さっそく私もまちを歩きながら、工芸に関わる「さるく見聞館」をめぐってみました。

今回訪れた3軒を紹介します。

世界で認められたべっ甲作品が鑑賞できる「江崎べっ甲店」

1709年 (宝永6年) 創業の江崎べっ甲店。和洋折衷の建物は、国の登録有形文化財に指定されています
1709年 (宝永6年) 創業の江崎べっ甲店。和洋折衷の建物は、国の登録有形文化財に指定されています

最初に訪れたのは、長崎特産「べっ甲」の老舗「江崎べっ甲店」。

日本でもっとも古い、伝統あるべっ甲専門店です。店内に展示されているべっ甲に関する歴史資料や道具類、べっ甲作品を鑑賞できます。さらには、実際の製作の様子を眺めることも。

べっ甲の詳しい製作工程については、関連記事「長崎特産『べっ甲細工』の工房で、水と熱の芸術を見る」をご覧ください。

江崎べっ甲店9代目当主、江崎淑夫さん
館長は、江崎べっ甲店9代目当主、江崎淑夫 (えざき よしお)さん
べっ甲の歴史をめぐる資料の展示
べっ甲の歴史をめぐ資料の展示
べっ甲の歴史をめぐ資料の展示
素材の解説や、工程見本などが並びます
素材の解説や、工程見本などが並びます
店内には。工房が覗ける大きな窓が設置されている
店内には、工房が見える大きな窓が設置されていて、べっ甲細工ができ上がる様子が眺められます
1937年、パリ万博にて最優秀賞を受賞した作品「鯉」。6代目江崎栄造作
1937年、パリ万博にて最優秀賞を受賞した作品「鯉」。6代目江崎栄造氏作

6代目の故・江崎栄造氏は、べっ甲業界ではただ一人の無形文化財に指定された方。栄造氏の作品は世界で大きな賞をいくつも受賞し、宮内庁御用達にもなりました。同氏の作品も展示されています。

昭和天皇の即位式で使われた御冠台も江崎べっ甲店が手がけました。作成にあたって、試作品として作った茶棚。べっ甲をつなぎ合わせて大きな製品をつくるには手間と高い技術が必要となります
昭和天皇の即位式で使われた御冠台も江崎べっ甲店が手がけました。作成にあたって、試作品として作った茶棚。べっ甲をつなぎ合わせて大きな製品をつくるには手間と高い技術が必要となります

長崎にやってきた海外の人々は、お土産にべっ甲を買い求めて持ち帰っていたそうです。国の要人も訪れたという同店。こんなものも残っていました。

ニコライ皇太子からのサイン
来日中に訪れた、ロシア帝国のニコライ皇太子の直筆サインの展示も。来店をきっかけに親交があり、当時の当主はロシアに招待までされたそう

気さくな江崎さんのお話を伺いながら、じっくりと作品や資料を見られる店内は、まるで博物館のようでした。

長崎くんちを支える「平野楽器店」

続いて訪れたのは、江戸時代から続く和楽器の老舗「平野楽器店」。

平野楽器店の入り口
平野楽器店

江戸時代の三大花街で今も残る長崎丸山の芸妓の楽器や、長崎くんちで使う和楽器の修理やメンテナンスを行っているお店です。

店内には、古くから伝わる和楽器の修理道具が展示されていて、その使い方などを館長が解説してくれます。

館長の平野慶介 (ひらの けいすけ) さん
館長の平野慶介 (ひらの けいすけ) さん
三味線作りの道具。見慣れないものがたくさんありますね
三味線作りの道具。見慣れないものがたくさんありますね
こちらの道具は、三味線の胴に皮を貼る際に使うのだそう
こちらの道具は、三味線の胴に皮を貼る際に使うのだそう。どんな風に使うのでしょうか

ドキドキする?!「三味線の皮貼り」

この日は、三味線の皮の貼り替えをされていました。その様子を間近に見せていただくことに。先ほど登場した、不思議な道具の使い方も知ることができました。

三味線に貼る皮を軽石でこすり、全体の厚みを揃え、表面をなめらかにします
三味線に貼る皮。軽石でこすり、全体の厚みを揃え、表面をなめらかにします
水と練り合わせた糊を三味線の縁に乗せ、その上から皮を貼っていきます。乾燥すると高い粘着性を発揮する糊は、再び水で濡らすと簡単に剥がせるので、貼り替えのたびに楽器を傷つけずにすむのだそう
水と練り合わせた糊を三味線の縁に乗せ、その上から皮を貼っていきます。乾燥すると高い粘着性を発揮する糊は、再び水で濡らすと簡単に剥がせるので、貼り替えのたびに楽器を傷つけずにすむのだそう
木のクリップのような道具で縁に乗せた皮を仮止めします
木のクリップのような道具で縁に乗せた皮を仮止めします
クリップに杭を打って、皮がピンと張った状態で貼り付くようにします
クリップに杭を打って、皮がピンと張った状態で貼り付くようにします

さて、ここで先ほどの道具、四角い木の板と紐が登場しました。

ここで、先ほどの道具が登場します。道具の上に、作業中の三味線の胴を乗せて、紐を掛けます
木板の上に作業中の三味線の胴を乗せて、紐を掛けていきます
どんどんと締め上げていきます。こうすることで、皮にテンションをかけていっているのだそう
紐を締めて、クリップを傾けて引き、皮を張っていきます
紐をかけ終わったら、道具の隙間に杭を打ち、ジャッキの要領で、さらに皮を張っていきます
紐をかけ終わったら、道具の隙間に杭を打ち、ジャッキの要領で、さらに皮を張っていきます

三味線の音をよくするには、皮がピンと張っていることが重要。皮の状態を見ながら、限界まで張りつめさせていきます。

先ほどの道具はこのためのものだったのですね。

紐をねじって固定して、どんどんきつくしていきます
杭だけでなく、紐もねじって引っ張ります
皮の張り具合を指で確かめて、ギリギリの状態まで張りつめさせます
皮の張り具合を指で確かめて、ギリギリの状態まで張りつめさせます

皮には薄いところと厚いところがあるので、場所によって圧のかけ方を変えて調整します。

破れないギリギリのところを見極めるのが職人の腕の見せ所。「黒ひげ危機一発」のゲームを見ているようでドキドキしました。

見学している私の緊張をよそに、余裕の表情の平野さんですが、新人の頃は失敗もしたのだそうです。

「状態を見誤って破いてしまうと、最初からやり直しになるし、皮も無駄にしてしまうので真剣勝負です」とおっしゃっていました。

最後は熱で乾燥させて、貼り替え完了です
最後は熱で乾燥させて、貼り替え完了です

長崎ビードロを現代に伝える「瑠璃庵」

3軒目は、現存する日本最古のキリスト教建築物、国宝「大浦天主堂」そばにあるガラス工房「瑠璃庵 (るりあん) 」。

瑠璃庵の店内。奥に窯があり、製作中はその作業の様子が直接見られます
瑠璃庵の店内。奥に窯があり、製作中はその作業の様子が直接見られます

長崎の伝統工芸であるビードロをはじめとする吹きガラスの専門店です。吹きガラスやステンドグラスの製造工程の見学、製作体験 (要予約) もできます。

関連記事「古文書から『長崎チロリ』を復元した、ガラス職人の情熱」では、館長の竹田克人さんのインタビューがお読みいただけます。

館長の竹田克人さん
館長の竹田克人さん。江戸時代に作られていた瑠璃色の冷酒用急須「長崎チロリ」を復元した方。長崎のガラス工芸の歴史やその技術を詳しく解説してくれます

店内にずらりと並ぶ美しいガラス製品と共に、長崎に伝わるガラス工芸の様子がわかる資料の展示も。

長崎のお祭、「くんち」の山車の装飾にもガラスが用いられている。こちらは竜の目
長崎のお祭「長崎くんち」の山車の装飾にもガラスが用いられています。こちらは竜の目
江戸時代に海を渡ってきたガラスボトル。ロッテルダム (オランダの地名) が書かれている
江戸時代に海を渡ってきたガラスボトル。ロッテルダム (オランダの地名) と書かれています

間近で見る工房の様子

工房の様子ものぞいてみましょう。

1100度以上の高温の窯で溶かしたガラス
1100度以上の高温の窯で溶かしたガラス
窯で1100度以上の熱で熱して溶けたガラスを成形していきます。手で添えているのは濡れた新聞紙
ブローパイプ(吹き棹)の先に付けたガラスを、濡らした新聞紙の上で転がしながら成形していきます
小さい穴に箸を入れてガラスを広げていきます。さらに全体を調整して除冷炉に入れたら完成です
小さい穴に箸を入れてガラスを広げていきます。さらに全体を調整して除冷炉に入れたら完成です

工房の脇には、窯の中での役目を終えた「るつぼ」が置かれていました。

ガラスを溶かす窯の中には、「るつぼ」と言われるガラスの入った器が入っている。毎日使い続ける窯。高熱とガラスによって侵蝕するので1年ほどで交換が必要となる
ガラスを溶かす窯の中には、「るつぼ」と言われるガラスの入った器が入っています。毎日使い続ける窯の中は、高熱とガラスによる過酷な環境。侵蝕するので1年ほどで交換が必要となるのだそう
使い終わったるつぼを割ると侵蝕して薄くなった断面が現れる。たった1年でこんなにもダメージを受けてしまうのだ
使い終わったるつぼを割ると侵蝕して薄くなった断面が現れます。たった1年でこんなにもダメージを受けてしまうのですね

職人と同じ道具を使って体験できる、吹きガラスやガラス細工

瑠璃庵では、吹きガラス、万華鏡、ステンドグラスなど、手づくりガラスの体験学習を行なっています。長崎の地でガラスの魅力を伝えたいという思いから始まり、30年以上続く企画だそうです。

職人さんが普段使っているものと同じ道具で体験できるのが嬉しいですね。

事前申し込みで、吹きガラスを体験することも
事前申し込みで、吹きガラスを体験することも
フュージングのワークショップ
フュージングのワークショップ
自分だけのデザインが作れます
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長崎の人々の気質から生まれた「さるく見聞館」

さるく見聞館は、それぞれ通常の営業をしながら観光スポットとして利用者を受け入れています。どの場所も観光専門の場所ではないのですが、とても気さくに丁寧で詳しい解説を受けられて、実際の仕事場などが見られるのでとても充実していました。そしてなにより、それぞれのお店の歴史や技術に親しみが湧きました。

「長崎は、鎖国時代に唯一世界に開かれていた場所でした。

当時、各地から勉強のために訪れた多くの人を受け入れ、お世話をしていた長崎の人々。外からやってきた人に親切で、お節介気質な人が多い土地なんです。

道を聞かれたら、その場所まで連れて行ってくれるくらいです。 (笑)

寡黙に仕事をしている職人さんでも、尋ねると親切に答えてくれる。お話好きの方も多いんですよ。

見聞館を訪れることで、地域の人と交流しながら、長崎のことをもっと知っていただき、魅力を感じていただけらと思います」

そう語ってくださったのは、「長崎さるく」を企画している長崎国際観光コンベンション協会の的野さん。

私も、長崎の方々のたくさんの親切を受けました。荷物を預けるコインロッカーを探していたら、帰り道のルートを尋ねられ行程に一番向いている場所を教えていただいたり、飲食店を尋ねたらそのお店の一押しメニューについてまで教えていただいたり。

ものづくりの現場でも、職人同士で技をシェアしあって技術を高めていく風土が作られているそうです。海外の文化や技術の発信地であった長崎。江戸を始め、全国にその技術が伝え広まった背景には、長崎の人々の気質によるところが大きかったのかもしれません。

<取材協力>
一般社団法人 長崎国際観光コンベンション協会
長崎市出島町1-1 出島ワーフ2階
095-811-0369
長崎さるく公式サイト

江崎べっ甲店※現在閉店
長崎県長崎市魚の町7-13

平野楽器店
長崎市鍛冶屋町5-4 鍛冶屋町通り 平野楽器ビル奥
095-822-1398

瑠璃庵
長崎県長崎市松が枝町5-11
095-827-0737

文・写真 : 小俣荘子
写真提供:一般社団法人 長崎国際観光コンベンション協会、瑠璃庵

長崎特産「べっ甲細工」の工房で、水と熱の芸術を見る

長崎を代表する工芸品のひとつ、べっ甲細工。

べっ甲細工は、もともとは中国の技術でした。万里の長城で名高い秦の始皇帝がかぶる王冠の一部が、べっ甲で装飾されていたといわれています。

日本におけるべっ甲製作の歴史は、幕府の鎖国政策によって、オランダと中国による長崎一港での貿易となった江戸時代に始まります。貿易で原料を入手できた長崎でべっ甲細工は発達し、花街丸山の装髪具にも用いられるように。その後、京都・江戸へと流行していきました。

耳にしたことはあるけれど、そもそも「べっ甲」とはどんなもので、どのように作られていくのでしょう。300年以上に渡って長崎でべっ甲細工を作り続ける老舗、「江崎べっ甲店」を訪れました。

1709年 (宝永6年) 創業の江崎べっ甲店。和洋折衷の建物は、国の登録有形文化財に指定されています
1709年 (宝永6年) 創業の江崎べっ甲店。和洋折衷の建物は、国の登録有形文化財に指定されています

迎えてくださったのは、現当主の江崎淑夫 (えざき よしお) さん。店内に展示された資料を見ながら、べっ甲細工について教えていただきました。

江崎べっ甲店9代目当主、江崎淑夫さん
江崎べっ甲店9代目当主、江崎淑夫さん

「べっ甲」ってどんなもの?

「べっ甲は、玳瑁 (たいまい) という海亀の甲羅を使って作られています。その美しさから『海の宝石』とも呼ばれます。

背甲は黄色に茶や黒の斑点模様が特徴ですが、黄色部分の多いものほど上物とされています。腹甲と、ツメ (体の縁の部分) の腹側からとれる黄色 (アメ色) 1色の製品は、量が少ないため珍重されています」

甲羅の背中側「背甲」
甲羅の背中側「背甲」。斑点模様が特徴
甲羅の腹側「腹甲」
甲羅の腹側「腹甲」。厚み数ミリメートルの薄さで、希少価値があります

「さて、背甲は斑点模様、腹甲は黄色1色とお伝えしましたが、こちらの製品を見てみてください。

手前の3つめと4つめは、どの部分で作られているかお分かりになりますか?」

4種類のブローチ。1番上は斑点模様の背甲、2番目は黄色1色の腹甲。3番目と4番目は‥‥混ざっている?! 
4種類のブローチ。1番上は斑点模様の背甲、2番目は黄色1色の腹甲。3番目と4番目は‥‥混ざっている?!

「実はこれ、異なる甲羅を合わせているのです。べっ甲細工は『水と熱の芸術』とも呼ばれますが、接着剤を一切使わずに水と熱と圧縮によって甲羅を接着していきます」

こちらのマスクも、異なる色の箇所はそれぞれ別の部分から切り出したもので作られています
こちらのマスクも、異なる色の箇所はそれぞれ別の部分から切り出したもので作られています

削って、重ねて、熱して、接着して‥‥細工が始まるまでの道のり

異なる甲羅を合わせて接着する、どういうことなのでしょう。

「実際に作っている様子をご覧になるとよくわかりますよ」という江崎さんに案内されて工房の中へ。

工房の様子
工房の様子。静かな空間に、ガリガリ、シャリシャリとべっ甲を削る音が響いていました

「べっ甲細工は、図案を元に生地選びをすることから始まります。製品に見合う色や斑点模様の甲羅を選び型を当てて切り出していきます。

数枚重ねて厚みを出すときには、表面をなめらかにして重ね合わせ、熱を加えて接着します」

生地の表面を削り、なめらかにする「きさぎ」と呼ばれる工程
生地の表面を削り、なめらかにする「きさぎ」と呼ばれる工程
薄い甲羅を何枚も重ね合わせて接着し、厚みを出します
薄い甲羅を何枚も重ね合わせて接着し、厚みを出します

「ブローチなど板状の物を作る際は万力を使います。熱した鉄板の間に重ねた甲羅を挟んでプレス。焦げないように柳の木の板を挟んで行います。

万力で圧をかけた時、重ねた甲羅がズレてしまわないように、熱した火ばしを使って先に『仮付け』をしておきます」

仮付けに使う「火ばし」
「仮付け」に使う、火ばし
熱した火ばしで挟んで接着する
熱した火ばしで挟んで接着する
熱が加わった部分は色濃く、透明になります。ミルキーな黄色から、オレンジ味のある透明で濃い色へ。べっ甲らしくなってきますね
熱が加わった部分は透明になります。不透明な原料が少しずつべっ甲らしくなってきますね

「打出の小槌や宝船など、立体的で曲線のある置き物を作る場合は、押し鏝 (おしごて) を使います。

打ち出の小槌の太鼓部分のように、木の上にべっ甲を貼るときは、甲羅と木の間に卵白を使用して接着し、その上から甲羅を貼り合わせていきます」

炭火で押し鏝を熱して使います
炭火で押し鏝を熱して使います
宝船
べっ甲細工の宝船

「かんざしなど、板状だけれども少し反っている製品がありますよね。こういった形状にする場合には、お湯を使うんですよ」

べっ甲を熱湯で煮て柔らかくし、カーブのついた木型に入れてプレスすると、かんざしのカーブができ上がる
べっ甲を熱湯で煮て柔らかくし、カーブのついた木型に入れてプレスすると、かんざしの曲線ができ上がる

「べっ甲細工において、この熱処理が肝心になります。それぞれ大事な行程ですが、職人が一番習得しないといけないのは『熱加減』。

炭火で熱くなった鏝も、使っていると徐々に温度が下がります。熱いうちは短く、冷めてきたら長く当てるなど、体験に基づいた勘で的確な判断をしながら加工していきます」

精巧さと立体感を生み出す彫刻、独特の艶を出す仕上げ

こうして地型ができたところで、彫刻、そして最後の仕上げである磨きをおこないます。

「ブローチなどのレリーフは立体感が大切です。全てフリーハンドで少しずつ彫って、凹凸を作りあげていきます」

べっ甲の彫刻
削りすぎると後戻りできません。小さく精巧なデザインも多いので、少しずつ、少しずつ削っていきます
立体感の出た彫刻

彫刻を終えると、目の細かいサンドペーパーで表面を整え、最後の仕上げに移ります。バフ (木綿の布を百枚ほど重ねて回転させる機械) による摩擦で磨き上げていきます。

木綿の布を数十枚重ねて回転させるバフ。最終仕上げの磨きを行う
最終仕上げの磨き
磨くと、独特の艶が出る (右側)
磨くと、独特の美しい艶が出ます (右側がバフをかけた部分)

「王」が付く漢字の意味

「現在は『べっ甲細工』という呼び名が一般的ですが、本来は原料の名前を取って『玳瑁細工』と呼ばれていました。

『王偏の漢字』と聞いて、どんなものを思い浮かべますか?

珊瑚、琥珀、瑠璃 (=ラピスラズリ)など、王の付く漢字は古来より中国では宝物として珍重されてきたものを示しています。

玳瑁も貴重な贅沢品です。日本最古のものは、約1400年前に遣隋使の小野妹子らが持ち帰った帝への貢物でした。『玳瑁杖 (たいまいのつえ) 』『玳瑁如意 (たいまいにょい) 』『螺鈿紫檀五弦琵琶 (らでんしたんのごげんびわ) 』など。東大寺正倉院の宝物庫で今も大切に保管されています」

べっ甲の歴史を辿る資料の展示
店内に展示されたべっ甲の歴史を辿る資料

「『玳瑁細工』が『べっ甲』と呼ばれるようになった時期は、定かではないものの、江戸時代に贅沢を禁じた『奢侈 (しゃし) 禁止令』が出された頃と考えるのが一般的です。

玳瑁製の櫛 (くし) やかんざし類を、価値の低いべっ甲製 (スッポンなどで作った製品) と言い逃れたためと言われています。役人の目をかいくぐって着飾りたいという人々のおしゃれ心と知恵から生まれた言葉でした」

「べっ甲」という呼び名が一般的になった現在も、献上品等の場合には「玳瑁製」という正式な表現が用いられているのだそう。

昭和天皇御成婚時の献上品目録。「玳瑁装身具」とあります
昭和天皇御成婚時の献上品目録。「玳瑁装身具」とあります

日本のべっ甲を世界に認めさせた長崎の職人

1000年以上の長い歴史を持つべっ甲細工。日本に入ってきてからはまだ300年余りですが、世界にその魅力を知らしめた人が長崎にいました。

江崎べっ甲店6代目当主で、べっ甲業界で唯一の無形文化財に指定された江崎栄造 (えざき えいぞう) 氏。江崎淑夫さんのおじいさまです。

栄造氏は、1937年にパリで開催された万国博覧会に「鯉の置き物」を出品し、グランプリを受賞。その後も数々の賞を獲得するなど、長崎のべっ甲技術を世界に広めました。

パリ万博でグランプリを受賞した「鯉の置き物」
パリ万博でグランプリを受賞した「鯉の置き物」

栄造氏の作品も数多く展示されている江崎べっ甲店の店内。べっ甲細工の歴史や製作工程を辿りながら作品を間近に見られる、今昔のべっ甲の魅力を存分に楽しめる場所でした。

<取材協力>
江崎べっ甲店
長崎県長崎市魚の町7-13
095-821-0328

文・写真 : 小俣荘子

1人のガラス職人の情熱が、古文書から「長崎チロリ」を復元させた

海外との玄関口として古くから発展してきた長崎。多くの海外文化が持ち込まれました。

そのひとつがガラス製品。室町時代末期の1542年に、ポルトガルから伝わったとされています。

ガラス職人の軌跡。江戸時代の人々を魅了した「長崎びいどろ」

長崎奉行の記録によると、江戸時代前期の1670年には、ガラス製法のひとつ「びいどろ吹き」が長崎に存在していたと記されています。それは、溶かしたガラスを棹 (さお) に取り、息を吹いて成型する製法です。

1000度以上の高温の窯で溶かしたガラス
1000度以上の高温の窯で溶かしたガラス

当時、日本でつくられたガラス (和ガラス) は、「びいどろ」と呼ばれていました。ポルトガル語でガラスを意味する“Vidro”が語源です。長崎のガラス職人は、中国の技法も取り混ぜながら日本人の美意識にかなう、ガラス製品を生み出していきます。

そんな「長崎びいどろ」の代表的な製品に、「長崎チロリ」がありました。

美しい瑠璃色と、独特の形状の「長崎チロリ」。エアコンも冷蔵庫もない江戸時代に、色と形で冷涼感を演出した冷酒用の酒器です
美しい瑠璃色と、独特の形をした「長崎チロリ」。エアコンも冷蔵庫もない江戸時代に、色と形で冷涼感を演出した冷酒用の酒器です

「長崎チロリ」を復元したガラス職人の元へ

江戸時代以降、長い間途絶えていた「長崎チロリ」を現代に復元したガラス職人、竹田克人 (たけだ かつと) さんを訪ね、当時のお話を伺いました。

国宝「大浦天主堂」のそばに構えられた工房『瑠璃庵』代表の竹田克人さん
ガラス工房『瑠璃庵』代表の竹田克人さん

ガラス工房「瑠璃庵 (るりあん) 」は、現存する日本最古のキリスト教建築物、国宝「大浦天主堂」の近くに構えられています。

現在は、息子でガラス職人の礼人 (あやと) さんに長崎チロリの制作を引き継ぎ、自身はステンドグラスの研究を行っている克人さん。大浦天主堂をはじめ、全国各地の教会のステンドグラスの修復や制作に携わっています。

吹きガラスには、宙吹き(ちゅうぶき)と型吹きの2種類があり、工房では主に、宙吹きの製法を忠実に守った制作がされています。

宙吹きは型を一切使用せず、空中で息を吹き込んで自由な形に成形する技法です。熱で軟らかくなったガラスは重力によって変形してしまうので、常に吹き棹を回転させる必要があります。難しい技法ですが、自由度が高いため芸術性の高い作品に仕上げることができるのだそう。

熱してドロドロになったガラス。濡れた新聞紙を使って形を整えていきます
熱してドロドロになったガラス。濡れた新聞紙を使いながら棹を回転させ、形を整えていきます
「長崎チロリ」。ガラスをつなぎ、注ぎ口を作ります
「長崎チロリ」。ガラスをつなぎ、注ぎ口を作ります
滑りをよくしてガラス加工をスムーズに行うために、ミツロウが使われます。そのため、養蜂まで行なっているガラス職人もいるのだとか
滑りをよくしてガラス加工をスムーズに行うために、ミツロウが使われます。そのため、養蜂まで行なっているガラス職人もいるのだとか

長崎ガラスに再び火を灯す。ガラス職人の情熱物語

克人さんは、東京の学校でガラス製作を学び、卒業後は生まれ故郷の長崎で工房を立ち上げます。その決意の裏にはこんな経験がありました。

「もう30年以上前ですが、ガラス伝来の地である長崎の現状はどんなものだろう?と、地元で販売されている製品を見て歩き、その職人を訪ねてみようと思いました。

しかし当時、長崎で販売されていたガラス製品やお土産などの多くは海外製のもので、国産であっても100%長崎で作られているものはほぼ存在しない、という事実を知ったんです。

ガラス職人のひとりとして、かつて人々を魅了していた、長崎のガラス工芸に再び火を灯そうと考えました。

そこで、当時の長崎ガラスや職人について調べたんですが、の技術文献は皆無。骨董品店などを回り、古文書の中からその情報を探すことから始めたんです。そうして集めた資料の中で見つけ出し、復元したのが美しい『長崎チロリ』でした」

長崎チロリ
持ち手は、使い勝手も考えて蔓を編んで作られています。また、形だけでなく、独自の原料の調合で鮮やかな瑠璃色を作り出しました

こうして復元された長崎チロリは、大きな反響を呼びました。

「全て人の手で作っているので加工も大変なのですが、お客さんから『やっと欲しいものが見つかった!』と喜んでもらえる時はとても嬉しいですね。

盃が1つ欠けた時などに、『同じものが欲しい』と連絡をくださるお客さんもいます。気に入って大事に使ってもらえていることが何よりのことです」と、克人さん。

技術や情報をシェアしあう、ガラス職人の世界

「長崎のガラス工芸が廃れてしまった背景には、よその地域の人々にも惜しみなく技術を公開する長崎の職人精神があったように思います。

海外からの文化が入ってくるこの地には、幕府や藩の指示を受けて日本中から学びにやってくる職人たちで溢れていました。今でも『長崎の人はお人好しで道を聞かれたらその場所まで案内してくれるほど』なんて言われますが、当時の職人たちも知識や技術を囲い込むことなく親切丁寧に教えてあげるという文化があったようです。

技術流出につながったことは残念な面もあるかもしれません。しかし、そのことで日本中のガラス工芸の技術が高まったことも事実でしょう。

そして今日においても、ガラス職人の世界では技術をシェアしあう関係性が続いています。各地で定期的に勉強会が開かれますし、もちろん、私も尋ねられたら惜しみなく伝えています」

「当たり前ですが、教わった技術でまるっきり同じものを作るのではなく、その技術を生かした独自のものを、各々のガラス職人や作家が作り出します。もし、そのままをコピーしてしまうような人がいたら、せっかくの信頼関係を失いますよね (笑)

各地に仲間がいて、お互い切磋琢磨できる環境が私は気に入っています。仲間が工房を立ち上げたり、窯を作るときなどは、手伝いに行ったりもするんですよ」

職人以外にも知って欲しい。長崎が世界に誇れるガラス技術

職人仲間と切磋琢磨し、助け合う竹田さんと精神を同じくする瑠璃庵には、日々様々な依頼が舞い込みます。

400年続く長崎のお祭り「長崎くんち」の山車の装飾に使われるガラスの修復や制作、「大浦天主堂」をはじめとした教会のステンドグラスの修復、JR九州の「或る列車」でつかうオリジナルの器、高級日本酒の酒瓶、さらにはトロフィーなど新しい分野のものまで。

長崎のお祭り、「長崎くんち」の山車の装飾にもガラスが用いられている。こちらは竜の目
長崎のお祭り、「長崎くんち」の山車の装飾にもガラスが用いられています。こちらは竜の目の部分のガラス 
美しい瑠璃色のトロフィー
瑠璃色のトロフィー。大理石の台の上に立てるガラス部分を瑠璃庵で制作

また、長崎のガラス工芸を伝える相手は、職人などのプロだけに留まりません。

瑠璃庵では、吹きガラス、万華鏡、ステンドグラスなど、手づくりのガラス体験学習も行なっています。長崎の地でガラスの魅力を伝えたい、という思いから生まれた企画です。工房を立ち上げてから、30年以上変わらず続けていて、多くの学生や観光客が訪れています。

一度は廃れてしまった長崎ガラスの職人技術。こうして現代に復活し、次の世代へと紡がれています。




<取材協力>

瑠璃庵

長崎県長崎市松が枝町5-11

095-827-0737

文・写真 : 小俣荘子

写真:山頭範之