中川政七商店のものづくり実況レポート。 「さんち修学旅行」奈良のふきん

 

残暑厳しい8月某日、私たちは「ふきん」を知る旅に出かけました!

中川政七商店の看板商品である「花ふきん」「かや織ふきん」はどのように作られているのか、生で見たい!どんな職人さんがどんな想いで作られているのか、生で聞きたい!そして見聞きしたものをお客様にも伝えたい!ということで、中川政七商店のふきん作りに関わっていただいている3軒の作り手さんを訪ねました。


そもそも「花ふきん」「かや織ふきん」とは?

訪問記をお伝えするその前に!まずは、中川政七商店の看板商品である2枚のふきんについて、ご紹介させてください。

「花ふきん」「かや織ふきん」はどちらも奈良県の特産品「蚊帳生地」で作られています。「風は通すが蚊は通さない」という蚊帳(かや)に使われる目の粗い薄織物を使った綿100%のふきん。

その素材を生かした大きな特徴は「よく吸って、すぐ乾く」ことです。

中川政七商店のふきんは「よく吸って、すぐ乾く」魅力的なふきんなのです!
大切なことなので、2回言いました(笑)

花ふきんは、その蚊帳生地を2枚重ねの大判に仕立てています。

薄手なので細かい部分も拭きやすく吸水性に優れ、目が粗いため速乾性にも優れています。
大判なので、お弁当包みなど拭く以外の用途に使うのもおすすめです。

かや織ふきんは、花ふきんよりも小ぶりなサイズで、5枚重ねで縫い合わせています。
使うほどに柔らかくなり、吸水性に優れ丈夫で長く使うことが出来ます。様々な柄があり、各地域限定のご当地ふきんなども人気商品の1つです。

どちらも魅力的で、中川政七商店に来ていただいたらとにかく1番におすすめしたい「花ふきん」「かや織ふきん」。

実はこの2種類のふきんは、サイズや重ねの枚数以外に、作り方にも違いがあります。

下図をご覧ください。



それぞれのふきんに合わせた、最適な工程を経て、形となっていくのです。

全ての工程を詳しく知りたいところですが、今回許された時間は1日のみ。

全工程の見学は泣く泣く諦めて、今回は「織り」「プリント」「縫製」の3つの工程を見に行かせていただくことにしました!


まずは、織りの「大和織布」さんへ

1軒目にお伺いしたのは、「大和織布」さん。

奈良の大和西大寺駅から歩いてしばらくすると、静かな住宅地の中から「カシャンカシャン」と音が聞こえてきます。

音の正体は、こちら。


▲大きな機械で織られていく生地

近づいてみると、みるみるうちに生地が織られていく光景に目を奪われました!

中川政七商店の「花ふきん」や、春夏の大人気商品「かやストール」等の生地は、こちらの「大和織布」さんでお願いしています。

工場の中には所狭しと織機が並んでいて、絶え間なく動いています。
代表の野崎さんから蚊帳の特徴や織り方をお伺いしました。


▲代表の野崎さん

かつて「蚊帳」は夏の夜に蚊を避けて快適に寝るために、欠かせないアイテムでした。

しかし近年は生活様式の変化で、蚊帳はほとんど使われなくなってしまったそうです。(確かに、私も写真で見たことはあるけれど、実際使ったことはありません…。)
そこで蚊帳生地の製造技術を他のものに生かそうと、考えられた製品のひとつが「ふきん」。

蚊帳生地独特の目を粗く織る技術のおかげで、速乾性のあるふきんが出来上がるというわけです。でも、この目の粗さを一定に保ちながら織るのが難しいのだとか。

レピア、エアー、ウォータージェット等いろんな織機がある中、「花ふきん」はシャトル織機という機械で織られています。

これらの機械の違いは、簡単に言うと緯糸の挿入の仕方の違い。

シャトル織機では、経糸が張られた織機に、緯糸が巻かれたシャトルが右から左、左から右へと、目にもとまらぬ速さで動いて、生地が織られていきます。


▲シャトルが左右に動き生地が織られていきます。(左上を通過中で細長く映っているのがシャトル)

ただ、このシャトル織機は、エアー織機など他の織機に比べて4分の1のスピードでしか織ることができないとのこと。(こんなに早いのに?と思いましたが…)

でも、他の織機に比べてゆっくり織られるからこそ、機械的で平面的な風合いにならず、ふくらみのある生地を織ることができるそうです。

またシャトルが左右を往復することで耳ができ、ほつれにくい丈夫な生地に仕上がるという特徴もあります。


▲シャトル織機で織られた生地には左右の端に輪になった耳ができます

1本でも経糸が切れたら止まってしまう機械を、職人さんが細やかな調整をしながら動かしておられます。

熟練の職人技がふきん作りを支えてくださっているんですね!ありがとうございます。

カシャンカシャンという心地よいリズムを聞きながら、大和織布さんを後にしました。


2軒目は、プリントの「松尾捺染」さんへ

みんなで美味しいランチをいただいた後、電車に揺られて次にやってきたのは大阪の高井田駅。

ここから次にお伺いしたのは「松尾捺染」さん、1926年創業の様々な捺染技術を持つ作り手さんです。

「かや織ふきん」のプリント等、様々な商品の染めの工程を行っていただいています。

こちらの工場の中もかなり暑い!染色した後に色を安定させるために蒸し工程があり、その工程の周りは特に暑いそうです。またお水を使う作業も多いことから、冬は寒いとのこと…このような環境で、染めあげていただいている職人さんに感謝です。

蚊帳生地は、薄手で目が粗いため非常にゆがみやすい生地なのだそうです。

そのような生地に柄をゆがみなく染めるのは非常に難しいとお伺いしました。

また細かい柄は染料だとぼやけてしまうので、かや織ふきんには、小さな柄も綺麗に表現するために顔料を使って染めていただいています。

顔料ははっきりと柄が表現出来るうえに、発色も良く色落ちもしにくいんですって。

生地や柄に合わせて、最適な染めを選んでくださっている、ここにも職人さんのこだわりを感じることが出来ました。ありがとうございます!

さて、実際染めている工程も見せていただきました。

まずは大量の染料が作られている場所へ。


▲様々な色が入った大きなバケツのような容器が沢山。

ここでは、オーダー通りの色になるように細かな調整とチェックが行われています。


▲背丈を超える長いロールが沢山。

こちらの長い棒は何でしょうか・・・。

実はこのロールこそが型なのです!

ロータリースクリーンプリントでは、このロールの下を生地が通過することで染め上がっていきます。

この染め方はロールがくるくるまわって柄が続いていくため、連続柄の大量生産に向いているそうです。


▲ロール捺染の機械。

お次は、大阪の店舗限定で販売している「大阪ふきん」の型も見せていただきました!


▲大阪ふきんの型。2つの別々の型があり、色柄が染め分けられます。

「大阪ふきん」の型は先程の型とは異なり、平らな型。
こちらには、フラットスクリーンプリントという染色技術が使われています。

型を分けることで多色染めが出来る染め方ということでした。

「大阪ふきん」は2つの型を使って2色に染め分けられていきます。
確かに型からは「大阪ふきん」お馴染みの大阪城やたこ焼き柄が見えてきます…!


▲これが大阪ふきん。赤青と黒黄の組み合わせで2種類あります。

他にも「かや織ふきん」お馴染みの柄の型や染め上がりをたくさん見せていただき、私たちが普段お店で販売しているふきんが、本当にここで作られているんだなぁと実感しました。

ちなみに次のお正月の新柄ふきんの染め上がりも見ることが出来ました!
これまた可愛いんです!店頭で皆様に見ていただく日が楽しみです。


最後は、縫製の「ホトトギスさん」へ

さて、ここからまた電車で移動して、3軒めの会社を訪ねます。
またもや住宅地の細い路地を抜けて到着したのは、何やら可愛らしい看板の前。


▲ホトトギスさんのドアに掲げられた看板。

中に入らせていただくと、倉庫のような天井の高い空間に、ロール状の蚊帳生地と、出来上がったふきんが、山のように積み上げられています。

こちらの「ホトトギス」さんでは「かや織ふきん」の縫製から検品まで行っていただいています。

織り、染め、糊付け等たくさんの工程を経てきた蚊帳生地が、ここでついに1枚のふきんとして形になるのです。

生地の周りには、見たことのないような機械がたくさん!

なんでもこの機械、ふきんの縫製にあわせて「ないものは作る!」と独自に作られているものが多いそうです。

企業秘密が詰まった機械は撮影NGとのこと。なので、この目にしっかり焼き付けておくことにしました!

中川政七商店の「かや織ふきん」は綿100%の生地を5枚重ね合わせたもの。

それぞれロール状に巻かれた長い5枚の生地が一気に縫われて、さらにいくつかの工程を経ていきます。

染めの工程でもお伺いしましたが、蚊帳生地は柔らかくてゆがみやすい為、縫製もやはり難しいそうです。

縫製の前に糊付けという工程があるのは、柔らかくて縫いにくい生地を綺麗に縫製するために考えられた、ものづくりの知恵なのです。

とはいえ、糊付けされても地の目が真っすぐになっていない為、真っすぐ美しく仕上げるためには縫製にも高度な技術がいるとのこと。

1つ1つの工程に「おぉっ!」と思っていたら、あっという間に1枚のふきんが出来上がりました。

知っています、あっという間に出来る簡単そうに見えることこそ、実は難しく、プロだからこそなせる技が詰まっているということを。

こちらの職人さんたちは、元々ベビー肌着の縫製のお仕事をされていたとのことで、丁寧な縫製や検品などに、並々ならぬ工夫とこだわりを持っていらっしゃいます。

例えば5枚の生地がしっかりと縫い込まれるように、端を縫う針目の数へのこだわり。

端の糸がほつれて出てきにくいように伸縮性のある糸を独自にオーダー等々。

お話しをお伺いしながら出来上がったふきんを見てみると、本当に綺麗な縫製になっているのです。

だからこそ、丈夫で長持ちするふきんになるんですね。


▲出来上がったかや織ふきん、細部まで丁寧に縫製されています

かや織ふきん、正直なところ今まで柄ばかりに目がいって、縫製にこんなにもこだわりがあるなんて知りませんでした。(すみません、本当に…。)

縫製という工程においても、職人さんのプロフェッショナルな技と心配りに感動しっぱなしでした。ありがとうございました!


ふきんを知る旅を通して、感じた想い

ホトトギスさんを後にする頃には、外はもう暗くなりかけていました。見たり聞いたり熱中しすぎて、気づけば終了予定時間を大幅に過ぎてしまいましたが、とても充実した1日となりました。

ふきんが出来上がるまでには、多くの職人さんの技術やこだわりが沢山込められていることを、今回学びました。

ふきんにすることが難しい蚊帳生地を、あえて使うことによって「よく吸って、すぐ乾く」ふきんが出来上がっているんですね!

今回作り手さんたちからお話しを聞かせていただき、私たちも今まで以上に「ふきん」に愛着がわいてきました。

職人さんがお客様に直接伝えられない熱い想いを、私たちが代わりにお伝えしていきたいと思います。

より多くのお客様に、ふきんの魅力を知っていただき、そして使っていただきたい。そうすることで、お客様に喜んでいただき、心を込めて作っていただいている作り手さんにも恩返しすることが、私たちの使命なのです。

技術とこだわりがたくさん詰まった中川政七商店の「花ふきん」「かや織ふきん」、まずはぜひお手に取ってみてください。

触っただけでも良さが分かります。

皆様のご来店を心よりお待ち申し上げております!!

 

【わたしの好きなもの】麻之実油のスキンケア

繊維から実に至るまで、無駄のない「麻」


中川政七商店と言えば「花ふきん」や麻生地製品などの雑貨が看板商品ですが、
知る人ぞ知る優れもの「麻之実油」を使用したスキンケア用品をご紹介いたします。 
私もその実力を知ったのはつい最近の事、 店頭サンプルの香りにハマったのがきっかけでした。 
何とも表現し難い、清々しくも甘い香り。 
即座にハンドクリームとリップクリームを愛用品に追加致しました。




ハンドクリームは手のひらで伸ばしながらよく温めると、何とも言えないあの香りがふんわり漂います。
その後丁寧に手の甲や手首、指先まで塗り込んでいくと、香りもさる事ながら潤いも満ちてきます。
至福のひとときです。
しかしハンドクリームにありがちなベタつき感は全くなく、潤いは保たれたままつるりとした仕上がりに感激!
此れはもう、手放せません。




リップクリームは保存料・着色料無添加、麻之実油配合で、唇に乗せると体温で優しく溶けて、
こっくりとした潤いをもたらしてくれます。
ドライリップの方は何度か重ね塗りをして頂くと、より麻之実油の濃厚さを実感して頂けます。
重すぎず軽すぎず、程よい心地よさにうっとり。


侮る事なかれ、麻之実油。 
繊維から実に至るまで「無駄のない完璧さ」は、 まるで芸術品並みの出来映えです。 
ハンドクリームもリップクリームも、特にこれからの季節の必需品。老若男女問わずお使い頂ける逸品です。
使って頂くときっと解る麻之実油の良さ。みなさまの「欠かせない物」になるはずです!


中川政七商店 渋谷スクランブルスクエア店 工藤
 

いま大牟田が面白い。「IN THE PAST」で感じた、魅力的な街に必要なもの

人は「そこでしかできない体験」を求めて旅をする。

たとえば、ローカルショップでの買い物やその土地の食材をを楽しむ食事。豊かな自然や歴史ある文化遺産巡り。

でも、それは本当に「そこでしかできない」ことなのだろうか。

各地の郷土料理を出す店は東京にもあるし、土地ならではの特産品はネット上で簡単に買える。

その場所でしか買えない、食べられない、見られないものは、どんどん少なくなっている。もちろん、どんな場所に住んでいても欲しいものが入手できたりするわけで、それ自体悪いことではない。ただ少し、世界が狭くなってしまったような寂しさを覚えてしまう。

そんな折、取材で訪れた福岡県の大牟田という街で、旅に出ること、ある場所に「もの」や「人」が集うことの価値や可能性を再認識する機会に恵まれた。

“食”を扱う「PERMANENT」と、“もの”を扱う「みんげい おくむら」

「僕がここで展示会をやりたいと思えたのは、定松さん夫妻のやってきた『PERMANENT(パーマネント)』が前提にあったからなんです」

そう話すのは、世界中の民藝や手仕事の器、生活道具などを扱うwebショップ「みんげい おくむら」の店主、奥村忍さん。今年8月、大牟田市内で企画展「民藝奥村“Unknown”展」を開催した。

in the past

会場となったのは、2017年に誕生したばかりの多目的スタジオ「IN THE PAST(イン ザ パスト)」。リトルプレス「PERMANENT」の発行などをおこなうグラフィックデザイン事務所「THIS DESIGN」の定松伸治さん、千歌さん夫妻が運営する空間だ。

基本的には「THIS DESIGN」のオフィス兼お二人の自宅でありつつ、今回のような企画展やポップアップストア、トークショーなどのイベントも開催している。

「PERMANENTは、“食”が取り上げられている雑誌で、とても興味深く読んでいました。一方で僕は食の周辺にある“もの”を集める活動をしている。

たとえば『PERMANENT』を読んでいる方が会場に来た時に、その考えが増幅されるような展示にしたいなと思いました」

おくむらさん
奥村忍さん

「PERMANENT」は、“つくる、たべる、かんがえる”を掲げる季刊誌。生きる上で最も根源的な営みの一つである「食べること」について考え、発信する媒体として、丁寧な取材に基づいた記事で構成されている。

リトルプレス「PERMANENT」
リトルプレス「PERMANENT」

同紙のステイトメントには、“「食べること」への認識を肥やす”とある。すぐに答えを出すのではなく、考え続け、肥やしていく姿勢が印象的だ。

養鶏場での鶏捌きの生々しいレポートや、子連れで入れるレストランがなぜ少ないのかといった社会的課題への取り組みなど、様々なテーマに真摯に向き合う。読者も自分の頭で考え、肥やすことが求められるが、そこには前向きに行動するヒントが散りばめられていて、背筋が伸びる。

「用」がないものを集めた“Unknown”な品々

そんな「PERMANENT」を通じた定松さん夫妻の活動が前提にある今回の展示。

「いろんな意味で、ほかの展示会ではやらないことをやっています。特に用途がないものを持ってきたりとか。

『用』がないものってやっぱりあるわけなんです。『用』はないけれど、家に置いておきたくなるような、ただ、美しいもの。

暮らしの中で『用』があるものだけになるとちょっと窮屈に感じる部分もあって、それを和らげてくれる気もします。

そういった観点で、いつもより枠を広げて持ってきました」

in the past

定松さんは今回の展示会について、告知の中で以下のように説明している。

表題の「Unkown」は不明、不詳、名も無い…という意。また、「Unkown」には、日本語の「安穏(あんのん)」という〝音〟が隠れていると考えました。安穏とは〝…心静かに落ち着いていること。また、そのさま。平穏無事…〟これも今回の企画展のテーマであり、今の時代、重要なキーワードだと思います。作者や年代が不詳なもの。用途が不明なもの。だけど、ただただ美しい…。そういう『もの』を観ることで、『もの』の価値や、『もの』の本質の在り処を探して頂きたい。

何か答えを提示するのではなく、「もの」の本質の在り処を探して欲しいとする姿勢。「PERMANENT」にあった“認識を肥やす”という言葉がここにも通ずる。

サダマツシンジさん
定松伸治さん

「奥村さんが言っていたように、『PERMANENT』は“食”なんです。

暮らしを構成する衣食住をどう扱おうかと考えたときに、その中で本当に無理なく続けていける“食”が残りました。

でも、それだけを大事にしているわけじゃなくて、暮らしにまつわる他のことも付随してきます。

考え方のベースは『PERMANENT』に置きつつ、そこではできないことを、『IN THE PAST』でできれば」

と千歌さんは話す。

定松千歌さん
定松千歌さん

「IN THE PAST」は、“過去には”という意味を持つ。

定松さんたちは「過去」を、様々な“出来事と経験”が集積した時間と捉える。その「過去」を現在に呼び出し、“出来事と経験”を集った人たちとともに“肥やす”。そんな時間をこの場所で持ちたいという。

 in the past
「IN THE PAST」とはどのような場所なのか

そこに今回展示された「用」にしばられない「もの」たち。

たとえば何に使うのか分からないハンマーのような「もの」は、「PERMANENT」を通じて暮らしを真剣に考えている人たちの目に、どんな風にうつるのか。

in the past

「食べること」や暮らしについて普段から考えている人たちだからこそ、肩の力を抜いて「用」のないものたちを楽しめるのかもしれない。

実際に手に取り、定松さんたちと話したり、奥村さんから直接説明を聞いたりすると、Web上で情報を見るだけでは得られない、体感に紐づいた知識の習得もできる。

様々な文脈を持った「もの」や「人」が「IN THE PAST」に集まり、「そこでしかできない」経験がうまれ、肥やされていく。

in the past

なぜ大牟田なのか

大牟田に人々が集える場所をつくった定松さん夫妻。

二人はもともと福岡市内で活動していたが、やがて、千歌さんの故郷でもある大牟田にやってきた。「IN THE PAST」の建物自体も、千歌さんのご両親がかつて調理器具の専門店と生活雑貨店を営んでいた場所だ。

ルーツがある。それもひとつの判断材料になった。加えて、二人のやりたいことを実現できる環境を探した結果、たどり着いたのがこの場所だった。

in the past
商店街入り口、白い扉の建物に「IN THE PAST」は入っている

千歌さん曰く、アクセスがしやすい場所であることが、大牟田の持つポテンシャルのひとつなんだとか。

「福岡や熊本の中心部に電車一本で行けるし、佐賀空港も使えるし、バスも出ている。意外と交通の便がいいと気づいたんです。

自分が外に出やすいということは、人も来やすいってことかなと思って、サダマツに相談したら『確かにね』って」

人口でみると福岡市の10分の1にも満たない大牟田市だが、実は人の行き来が起こりやすく、福岡や熊本へ1時間程度で出られるため、ベッドタウンとしての可能性も秘めている。

変わりゆく大牟田の街

「IN THE PAST」のようなパブリックな特性も持った場所を運営していると、いわゆる「地方創生、まちづくり」といった文脈の相談もやってくる。私自身も、ローカルで活動している人たちに話を聞くとき、そういった質問をしてしまうことが多い。

しかし定松さん夫妻はそういった考えはまったく持たず、あくまで自然体だ。

「まちづくりとか、考えてはないですね。自分たちが住む街で、いかに二人で楽しく過ごすか。それだけです」と、千歌さん。

「やりたいことがある人たちが街に来て、やりたいことをやって、元気に過ごす。そのうちに色々とコミュニティができて、気づいたら10年後、街ができていた。

それが、持続するまちづくりだと思うんです」

やりたいことの実現がまず最初にあるので、たとえこの場所が福岡であってもどこであっても、基本的には変わらない。我が道を行く二人ではあるが、「IN THE PAST」ができる少し前から、大牟田の街自体も少しずつ変わってきていたという。

「それまでも、近くの窯元との付き合いがあってこの辺りには来ていたんですが、寄りたいと思える場所があまりなくて、滞在せずに通りすぎてしまう街でした。

取引先の窯元のご実家が元々やっていた『博多屋』というビアガーデンがあって、そこは本当に素晴らしい場所なんだけど、夏しかやっていないし。

そんな中、美味しいイタリアンのお店『nido(ニド)』がオープンし、その後、同じ並びに『IN THE PAST』もできた。

『nido』が食材を仕入れている生産者さんたちと、たまたま定松さんたちも『PERMANENT』で繋がっていたりして、俄然面白くなってきました」

と、奥村さん。

大牟田駅の近くには、「taramu(タラム)」というモーニングも提供するユニークな本屋さんができて、朝の時間を有意義に過ごせるようにもなったのだとか。

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大牟田駅近くにある「taramu books & cafe」。本・雑貨の販売に、カフェスペースも併設されている

「『nido』の食材にしても、『taramu』で朝出てくるローカル新聞(有明新報)にしても、ほかの街では体験できないことなんです」

taramu
taramuで本棚を物色する奥村さん

「本当に(大牟田は)変わったと思う。Facebookとか、SNSの影響も大きいです」と、定松さんも話す。

情報格差が薄まって、東京が文化の発信地だと特に意識しない世代が増えてきたとも感じている。SNSの情報が思いがけず拡散し、それを見た人が足を運ぶ。

千歌さんは、「Webですべて見れてしまう、完結してしまう場合もあると思います。でも、今回の奥村さんの商品とか、やっぱり直接見るとより感じる部分があるし、在廊してもらって直接お客さんに説明しているのを聞いていて『へー』っていう面白さはすごくある。

そこまでの経験をSNSではなかなか伝えられないんじゃないかな」と、リアルな場所で「もの」や「人」と接する意義を実感している。

in the past

意識はするが、依存はしない。ゆるやかな共存

大牟田に来てからの2年間、実感としてはどうだったのか。

「『PERMANENT』をやっていたから、たとえば『nido』の人たちと距離が縮まるのも早かった。生産者さんのところに一緒に行ったりとか、好きなワインも似ているので分けてもらったりとか(笑)。

他にも面白い人たちが点在していて、ラッキーでしたね。

あとは、今回のような展示会をやると福岡からも友達が来てくれるし、僕たちはあまり大牟田から出なくなりました。人に来てもらえるのかどうかは、ずっと続く課題ですけど、今は上手くバランスがとれているような気がします」

と、定松さん。

in the past
「時々可否」と銘打たれた期間限定のカフェもオープン。定松さんが自ら焙煎し、淹れてくれるコーヒーはとにかく飲みやすく美味しいの一言

「nidoの田中くんも、taramuの村田さんも、博多屋のるいさん(※奥村さんの取引先でもある、小代焼 瑞穂窯の福田るいさん)も、みんな切磋琢磨してるとは思うけど、依存しあっているわけではなくて。

世代もばらばらで幅があるけど仲が良く、でも、べたべたしているわけじゃない。ちょうど良い感じで、ゆるやかに共存しているんだと思います」

in the past

街から街を訪ね、新たな“出来事と経験”を運ぶ奥村さん。“出来事と経験”を共有し、肥やす場をつくった定松さん夫妻。

運ぶことと肥やすこと。この循環が心地よい空間を生み、街自体の魅力にもつながっている。

東京に戻ってからも、千歌さんが言う「ゆるやかな共存」がしばらく頭から離れなかった。すぐにでもまた大牟田に行きたい。

それは、「博多屋」のハーフ&ハーフビールがあまりに美味しかったからか。それとも食べ逃した「taramu」のモーニングが気になっているからか。いつの間にか自分も「ゆるやかな共存」の輪の中に入ったような、そんな気分になっているからなのかもしれない。

<取材協力>
「IN THE PAST」
https://inthepast.jp/
「みんげい おくむら」
http://www.mingei-okumura.com/

文:白石雄太
写真:中村ナリコ

そろばんがなくなる?日本一の産地・兵庫県小野市に生まれた「新たな可能性」

かつて、計算の道具として人々の生活に欠かせなかった「そろばん」。

最近では計算力や集中力を高める効果があると注目を集め、あらためて習い事としての価値も見直されているところです。

しかし、長く続いた需要の低迷を受けて、つくり手である職人の数も少なくなり、このままではそろばんづくりが続けられない、という危機的な状況も生まれています。

そんなそろばんの「今」を知る人を、生産量日本一の産地に訪ねました。

生産量日本一「播州そろばんの町」兵庫県小野市

大きなそろばんのモニュメント
大きなそろばんのモニュメント

そろばんの二大産地の一つ、兵庫県小野市。

ここで安土桃山時代から製造が始まったとされるのが、生産量で日本一を誇る「播州そろばん」です。

昭和35年の最盛期には、年間360万丁もつくられていた「播州そろばん」。

その現状について、明治時代に創業し、そろばんの製造販売を手がけてきた株式会社ダイイチの宮永 信秀社長に聞きました。

株式会社ダイイチ 宮永 信秀社長
株式会社ダイイチ 宮永 信秀社長

習い事としてのそろばん・珠算の可能性

「最近は、そろばんを習いはじめる子どもたちの年齢がどんどん下がってきています」

以前であれば、小学校3年生ごろに受ける珠算の授業が、そろばんに触れるはじめての機会という子どもがほとんどでした。

今は、年齢が小さいほど力を引き上げてやれる。と考える親が多いのか、3~4歳くらいからはじめる子どもが増えたんだそう。

ワークショップでつくるカラフルなそろばん
ワークショップでつくるカラフルなそろばんは子どもに人気

「脳や学力への影響を実証するのは難しいですが、そろばん自体はさておき、珠算教育の効果は確かにあると個人的には考えています。

珠算では、問題を読み、読み上げた数字を指で弾き、出てきた答えを紙に記入する。これを決められた時間の中で完結させることが求められます。

一定時間、座ってしっかりと集中する。それが習慣となれば、そのほかの勉強の場面でも集中力が発揮できる。ということは実感しています」

電卓の登場。全国の珠算塾の減少。さらに子どもの数自体も少なくなっている。

こうした状況にありながら、そろばん・珠算教育の価値が見直されてきた関係で、再びそろばんの需要が増えている地域もあるとのこと。

「弊社の実績としても、わずかではありますが、増えつつあります。

ただし、子どもの数自体は少なくなっているので、大幅な増加は見込めないと思っています。

この技術をきちんと守りながら、海外輸出なども少しずつ始めているところです」

ダイイチ 宮永社長

計算の道具から教育に欠かせない道具へ。

一度は役目を終えたかに思えたそろばんが、再び脚光を集めようとしています。

そろばんは、四分業制でつくられる工芸品

道具としての役目を変えつつあるそろばん。しかし熟練の職人が手作業でつくり上げる工芸品は今、存続の危機を迎えています。

工芸品としての美しさもある「播州そろばん」
工芸品としての美しさもある「播州そろばん」

「播州そろばんは、四分業制でつくっています。

そろばんの珠(たま)を削る職人。削られた珠に染色して竹ひごが通る穴をあける、珠仕上げの職人。竹ひご自体をつくる職人。そして最後に組み立てる職人。

それぞれ専門の職人の力が合わさってそろばんが完成します」

と宮永さんが言うように、一人だけでは完結しないのがそろばんづくりの難しいところ。

ダイイチも、社内にいるのは「組み立て」の職人のみで、その他の工程はそれぞれ外部の職人にお願いしてつくっています。

ダイイチの組み立て職人さん
ダイイチの組み立て職人さん
珠を竹ひごに通していく作業
珠を竹ひごに通していく作業

「各工程、使う道具や機械もことなり、それぞれ熟練した感覚と経験が必要です。

過去を遡っても、全工程をひとりでまかなった職人は、いないと思います」

たとえば、珠を仕上げる職人が担当する染色と穴あけ。

なんとなくシンプルで簡単そうにも思えますが、寸分違わず綺麗な穴をあけていくには相当の技量が必要。一朝一夕には身につきません。

そろばんは、珠が動き過ぎても、逆に動かなすぎても使い勝手が悪くなるもの。

播州そろばんでは、理想の使い勝手を追求した結果、珠の穴の直径は3.05ミリ、そこに通す竹ひごの直径は2.95ミリと明確な基準が定まっています。

この穴を開けるのが、難しい
この穴を開けるのが、難しい

「年間に360万丁をつくっていた時代には、四分野それぞれに何十軒と会社があり、競い合っていました。

大量につくりながら、品質も高めていくには、分業が理にかなったやり方だったのだと思います」

需要の高まりを受けて確立されていった分業制。専門の職人の技能は向上しましたが、今では後継者不足という大きなリスクを抱えることになりました。

竹ひご職人はあと一人。危機的な状況

四分野の職人は、どれくらい残っているのでしょうか。

「珠削りは60代と80代が1名ずつ。珠仕上げも同じく60代と80代が1名ずつ。竹ひごづくりは70代の職人があと1名だけ残っています。

組み立ての職人は12〜13軒前後と、比較的多く残っていますが、法人として運営しているのは弊社のみで、あとは個人でやられている方たち。正直、危機的な状況です」

ダイイチ 宮永社長

どこかひとつでも倒れてしまうと、製品自体がつくれなくなってしまう分業制。

播州そろばんにおいては、四分野のうち、三つの分野がいつ無くなってもおかしくない状況となっています。

なお、もう一つのそろばん産地である島根の「雲州そろばん」に関しては、すでに「組み立て」以外の職人が断絶しており、材料を播州から供給している状態なんだそう。

前例はないものの、いずれは自社で四分野すべてをまかなう必要があると、宮永さんは考えています。

「私自身、36歳で小さい子どももいます。まだまだそろばんで飯を食べていかないといけない。当然、先祖代々つないでくれたものを次の世代に残していきたい気持ちもあります」

引退された珠削りや珠仕上げの職人さんから機械を譲り受けるなどして、自社でできる範囲を広げていこうと挑戦している最中とのことでした。

つくったものに名前が残る仕組み

従来のそろばんは、組み立てた職人の名前だけが枠に彫られて商品となっていました。

「作者として、一人の名前しか入っていないので、すべてその職人だけでつくっていると思われがちです。

四分業でやっていることをもっと知っていただきたいし、全員の名前を出すことで、自分の仕事に誇りと責任がうまれるのではないかと思っています」

ダイイチでは、左端の珠に四分野の職人すべての名前を彫った商品を発売しています。

関わった職人の名前を珠に刻んでいる
関わった職人の名前を珠に刻んでいる

やはり自分の名前が残る分野に人が集まりやすく、それが、組み立ての職人が多く残っている要因のひとつ。

現状では後継者不足の解消に直接つながることは難しいかもしれませんが、少なくとも今残っている職人たちのモチベーション向上につながる取り組みです。

使わない人が買うそろばん

その他、ダイイチでは本来のそろばんだけでなく、そろばんの技術や素材をいかした商品の開発・販売も積極的におこなっています。

ストラップや時計、知育玩具にアクセサリーまで。社内の意見を吸い上げつつ、まずは形にしてみることを大事にしているそう。

さまざまな商品を開発・販売している
さまざまな商品を開発・販売している
そろばんの珠をつかった時計
そろばんの珠をつかった時計

「そろばんの珠、竹ひごなど、そろばんのパーツを使う前提ですが、なにかそろばん以外の可能性があるんじゃないかと考えています。

売れる商品が増えれば職人の仕事も増やせますし、後継者育成にもつながるかもしれません」

5と9しかあらわせない、合格祈願のストラップ
5か9しか示せない、合格祈願のストラップ

「使わない人がそろばんを買う時代がくる」

宮永さんの父で、ダイイチの現会長はよくこんな風におっしゃっていたそう。

計算の道具としての役目が終わっても、きっとそろばんを必要とする人、魅力に思う人が出てくるはずと、考えられていたのかもしれません。

播州そろばんのこれから

喫緊の課題である後継者不足の問題は非常に大きく、その解決は一筋縄ではいきません。

それでも、少しずつ糸口は見えてきています。

ダイイチには、20代と10代の職人が一人ずつ入社しました。

2人の若い職人が働いている
2人の若い職人が働いている
ダイイチのそろばん職人
ダイイチのそろばん職人

今は「組み立て」を学んでいる彼らが、いずれはほかの工程にも習熟していけるかもしれない。

「仕事が楽しい」と話す彼らの後に続く若者がまだまだいるかもしれない。

若い職人がいきいきと働く姿を見ていると、そんな明るい可能性を感じずにはいられませんでした。

<取材協力>
株式会社ダイイチ
兵庫県小野市垂井町734
http://daiichi-j.com/

文:白石雄太
写真:直江泰治

*こちらは、2019年3月1日の記事を再編集して公開しました。そろばんに長けた人は、10桁以上の暗算もできるそうです。絶やしたくない道具ですね。

「穴太衆」伝説の石積み技を継ぐ末裔に立ちはだかる壁とは

戦国時代に名を馳せた伝説の石積み職人「穴太衆」

自然にある石を加工しないままに積み上げ、石垣をつくる。

この「野面積(のづらづみ)」という技法を得意とし、戦国時代、日本中を席巻した職人集団がいました。

現在の滋賀県大津市坂本 穴太(あのう)地区に暮らしていたことから、「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工(いしく)職人たち。

彼らがつくる石垣は非常に堅牢だと評判になり、織田信長が安土城の築城時に穴太衆を召し抱えるなど、全国の城づくりに大きな影響を与えたとされています。

ただ無秩序に積まれているように見えて、比重のかけ方や大小の石の組み合わせに秘伝の技が潜んでおり、地震にはめっぽう強く、豪雨に備えて排水をよくする工夫も備わっている。

坂本の石積み

自然のままの石を使いながら、どうしてそんなことができるのか。その驚異の技を現代の生活にいかす道はあるのか。

現代において唯一、穴太衆の技を継ぐ株式会社粟田建設 15代目の粟田純徳さんに話を聞きました。

石積みの里で穴太衆の技を継ぐ、粟田建設

比叡山の門前町である大津市 坂本。かつての穴太衆が携わったとみられる石垣が町のそこかしこに点在しており、「石積みの里」としても知られています。

石積みの里として知られる坂本
石積みの里として知られる坂本

琵琶湖を望む
琵琶湖を望む

この地で会社組織として存続しているのが株式会社粟田建設です。

最盛期には300人を超えたとされる穴太衆の石工職人ですが、伝承する家は今や粟田家ただ一軒になっています。

粟田家
粟田家

「需要の問題が大きいですね。徳川の時代になって、一国一城令ができてからは新しくお城を建てることもなくなって、メンテナンスくらいしか仕事がなくなり、ほとんどの家は職を変えるしかなかったんだと思います」

粟田建設 15代 石頭の粟田純徳(すみのり)さん
粟田建設 15代 石頭の粟田純徳(すみのり)さん

新規の仕事が減少し、そもそもが丈夫で長持ちであるがゆえにメンテナンスも滅多に発生しない。そんな状況ではほかに仕事を探すほかありません。

一方の粟田家は、比叡山延暦寺をはじめ、近隣の神社仏閣の仕事を引き受けながら今日まで存続してきたそう。

「穴太衆は、石積みだけでなく今でいう土木作業も一手に引き受けてきました。うちの家は幸い、そのあたりも含めてやらせていただきながら技術をつないできました」

自然石をそのまま使い、美しく丈夫に積み上げる「野面積」の秘密

土木作業全般に通じている穴太衆ですが、やはり一番の特徴は「野面積」。自然石をそのままのかたちで使い、堅牢で美しい石垣を積み上げる技です。

粟田建設の周囲には石積みが多く残っている
粟田建設の周囲には野面積の石積みが多く残っている

石積みの技には、「野面積」のほかに、綺麗な形に石を加工して使う「打込みハギ」や「切込みハギ」といった方法もありますが、地震や豪雨への備えを考えた時「野面積」がもっとも耐久性にすぐれていると粟田さんは言います。

「たとえば、穴太衆には『石は二番で置け』という教えがあります。

これは、荷重がかかる位置を必ず石の面(つら)から少し奥のところに持っていきなさいということです。

切込みハギの場合、石の表面をピタッと揃えるので、一番前に荷重がかかってしまう。そういった積み方では、地震などが起きた時に石が滑る可能性があります」

石の表面がピタッと合っている方が、外から見た時にはなんとなく綺麗で、丈夫に見えます。しかし、様々な方向から力が加わったとき、石の面同士がくっついていて遊びがないと、力が分散されず崩れる可能性がある。

話を聞くと、なるほどと感じます。

穴太衆にはこのように、やってはいけない積み方がいくつか伝えられていますが、それ以外にマニュアルなどは存在していません。

形と大きさが異なる自然の石をそのまま使うため、マニュアルに残しようがないのです。

洲本城 南の丸 石垣修復の様子
洲本城 南の丸 石垣修復の様子

「石の声を聞く」穴太衆の真髄とは

学ぶべきマニュアルがない中で、どのように石工として習熟していけばよいのか。

粟田さんの祖父で、13代目だった万喜三さんは「石の声を聞く」と言い残しています。

「要するに、石を見る目を養う。どれだけ石を観察しているかが重要だと思っています」

現場に出て仕事をするうちに、万喜三さんの残した言葉をそう解釈するようになった粟田さん。

粟田純徳さん

「僕らの仕事はまず“石選び”なんですわ。

実際に石垣をつくる現場を見て、そして山へ行って石を選ぶ。自然石なので図面には起こせないし、同じ石はひとつもありません。

自分の頭の中で組み合わせをイメージして、買ってきて現場で置いていきます」

この石選びの段階で、穴太衆の石積みの仕事の八割は終わったと言われるほど、重要な作業です。

穴太衆の秘伝にも「石の声を聞く」とある
穴太衆の秘伝にも「石の声を聞く」とある

「石屋の上手い下手は、残った石の量を見ればわかる。とお祖父さんには言われていました。自分の頭の中で組み立てたものと、実際に現場で積んだものとが、どこまで合うのか。

僕たち穴太衆にとっての究極は、たとえば100個の石で完成する石積みがあるとして、山で100個の石を買ってきて、その全てを積み切って最後にひとつも余らないこと。

それが、石積みとしても理想だし、会社としても余計な石を買わずに済むから望ましいですよね」

頭の中で石垣の完成図をイメージし、そのイメージに合った石を山から持ってくる。そしてそれがピタリと合い、ひとつも余らせない。神業のように聞こえます。

個人宅の石垣修復工事の様子
個人宅の石垣修復工事の様子

「もちろん、石がひとつも余らないなんて、不可能なんです。でも、その不可能に近づいていくっていうのが、修行ですよね。

それが、石を見る目を養う、石の声を聞く、っていうことやと思います」

経験を積む機会が減っている

そういった面で、祖父の万喜三さんは本当にすごかったと、粟田さんは振り返ります。

「僕や親父と比べて、石を見る目がかなり長けていたと思います。

ほとんど石を残さなかったですし、指示するところにピタリと石が入りますし。

規格が存在しない自然石を組み合わせるって、やっぱり難しいんですよね。何年もやってきて、今あらためて当時のお祖父さんのすごさがわかるようになりました」

粟田純徳さん

そんな祖父や、祖父とチームを組んでいたベテランの職人たちに、穴太衆の一から十までを教わってきた粟田さん。今、下の世代にどう技術を引き継いでいくのか、悩ましい状況であるといいます。

「自然石を相手にする、マニュアル化のできない仕事なので、基本は現場に出てやってみるしか上達する術がないんです。

特に、石を見る目を養うためには新規の石積みに関わって、石を選ぶところから経験しないと腕が磨けない。

それが、今は新規の工事が少ないのでなかなか教えられない。そこは本当に厳しいと感じています」

個人宅の注文も、かなり減少してしまったといいます。

「今は、石垣を家の前に積もうという方はなかなかいないですし、そもそも新築の日本家屋自体が減ってきているので難しいです。

お城や寺院の修復については、無くなりはしないでしょうが、一度修復すると長持ちしてしまうので、需要自体が増えてきません」

穴太衆の石積みを海外へ

国内の需要拡大を待っていては埒が明かないと、近年、粟田建設では海外での施工に活路を見出しています。

ポートランド日本庭園拡張工事
ポートランド日本庭園拡張工事

「新規の大きい工事として、ポートランドの日本庭園の仕事をやりました。庭園の管理をされているのが日本の方で、その方から声をかけていただいて。

庭園の拡張工事でしたが、建物の方を設計されたのが建築家の隈研吾さんで、ちょうど現場でお話しする機会があり、『今度ダラスで別のプロジェクトがあって、石積みも取り入れたい』とお話しいただいて、そちらもやらせていただくことになりました」

ダラスではビルの外構工事を全て請け負ったそう。現地で取れる花崗岩を使い、スタッフも現地の土木作業者を雇いながら3〜4ヶ月の施工をやり終えました。

「こういった外構工事で、石積みが日本でも多く採用されるようになれへんかなと。アメリカで評判になってくれると、日本でまた流行る可能性も上がるかなと期待しています。

今回のように建築家の方やデザイナーの方と仕事をすると、今までになかった石積みの活かし方に気づきますし、刺激をもらえますね」

シアトルのクボタガーデン
シアトルのクボタガーデン

法律の壁

石積みを取り巻く大きな課題として、海外でも国内でも、建築にまつわる法律の問題が付いて回ります。

たとえ、400年の間風雪に耐えてきている実績があっても、新規で建造物を作る際には、耐震基準をクリアしていると数字で証明しなければなりません。

その都度で異なる形・大きさの石を組み合わせる穴太衆の石積みにおいて、現代のフォーマットに沿った数字を提出することは現実的でなく、実質、ある程度の規模を超えると新規施工ができない状況になってしまっています。

竹田城 石垣の修復工事
竹田城 石垣の修復工事

いくつかの実証実験や、京都大学の研究グループによるシミュレーション等で良好なデータが出ているものの、現行の法律が変わらない限り、状況は大きくは変わらないようです。

ダラスの外構工事では、本来穴太衆では小石を詰めるような部分にコンクリートを使用し、その合わせ技で建築許可が下りました。

石の組み合わせだけでつくる方が丈夫であると確信を持ちながら、それでも、「許される範囲の中で最大限丈夫に、美しく仕上げるしかない」と粟田さんは言います。

石積みと人間社会。今後の穴太衆

「僕らの石積みは人間社会と一緒なんです。大きい人もいれば小さい人もいる。

性格のいい人も悪い人も。それらが組み合わさったのがこの世の中で、だから面白い」

穴太衆 粟田さん

そう聞いてから眺めてみると、確かに一つとして同じ石が使われていない穴太衆の石垣は、とても個性豊かで味わい深く見えてきます。

「個性があればあるほど、それが生きてくる。あえて悪い石を使うこともあります。

大きい石はより大きく見せてあげる。そのために、まわりに小さい石を配置する。すべてに役割があって、大事なんです。

『綺麗な石ばかり使ってなにがおもろいねん!』とお祖父さんはよく言っていました」

そんな多様性を大切にする石積みだからこそ、職人ごとの個性も出てくるのだとか。

石積みの里 坂本

「僕の積んだ石垣、親父が積んだ石垣、お祖父さんの石垣。昔からうちの家のことを知っている人が見たら、すぐにわかるって言いますよね。性格が出るんで。

お祖父さんは、繊細で優雅な感じ。親父は荒々しい。

僕は、そのどちらも。両方を見てるんで良いところを取りたいと思ってやっています」

粟田さん

そんな、穴太衆の石積みならではの魅力を残したまま、どうにか生き残る手立てを考え、既存技術との共存や海外への進出を考えている粟田さん。

「理想は、昔ながらの技、工法をそのままに残っていきたいんです。

ただ、実際の話それでは残れない。そこは、コンクリートとの兼ね合いなんかも含めてやるしかないと思っています。

並行して、実証実験や土木学会での発表を通してアピールは続けます。

なんとか、昔の伝統技術に関しては、法律の緩和を訴えていきたいですね」

現在、粟田建設には粟田さんを除いて3名の従業員が働いており、そのうち一人はまだ10代の若者。

「石の仕事、職人の仕事がやっぱり好きなんやと思います。やっぱりきつい仕事ですんで、そうじゃないと続きません。

そんな若者もいてくれてますし、僕も息子がいるんで、つないでいきたい。

現状では、本当に胸を張って継いでくれって言うのは厳しいですけど。なんとか、生きる道を探してあげたいと思っています」

自然の石をそのまま用いて、数百年の時を耐える石垣をつくる。その石垣は地震にも、豪雨にも強く、そして美しい。

この驚異の技が、現代に新たな形でいかされた時、どんな姿を見せてくれるのか楽しみでなりません。

<取材協力>
株式会社粟田建設
077-578-0170

文:白石雄太
写真:直江泰治

*こちらは、2019年7月16日の記事を再編集して公開しました。これから石垣を見るときは、一つひとつ積み上げられていく光景を想像しながら、思いを馳せてみたいと思います。

中川政七商店が残したいものづくり #06染物

中川政七商店が残したいものづくり
#06 染物「注染手拭い」


商品三課 村垣 利枝


てぬぐいは、ハンカチより大きなキャンバス一面に大胆に絵を描くことができ、毎日持ち歩くことも、飾ることも、ちぎって使うこともできる自由な布です。
そういったところが好きで、私もてぬぐいに絵を描いて染めてみたいと考えていました。
有難いことに夢が叶い、現在てぬぐいのデザインに携わっています。
 
中川政七商店ではいろいろな技法の手ぬぐいを企画しますが、多くは「手捺染」と「注染」で作っていて、中でも注染は染めの理屈が分からないと図案を描くこともできません。
注染てぬぐいのデザインの初めの一歩は工場見学に行くところから始まります。
 
私も手拭いの産地、大阪堺の工場に見学に行きました。
 

そもそも「注染」とは20数メートルほどの生地をジャバラ状に重ね合わせ、その上から染料を注ぐことで1度に約25枚のてぬぐいを染めることができる、大阪でうまれた技法です。
工程は複雑で、大まかに説明すると以下のようなことが1工程1工程職人の手作業によって行われていきます。
 
生地の上に型紙を置き、その上から染まって欲しくない部分に防染糊を置く「糊置き」

染色台(せんしょくだい)にのせて調合した染料を注ぎながら染める「注染」

防染糊を落とす作業「水洗い」

天井の高い屋根のあるところで干す「乾燥」
 
例えばこの干支のてぬぐいもシンプルな絵柄ですが、生地を紺色に染め、ねずみのシルエットの外側紺色部分に糊をつけ、ねずみの体部分の色を白く抜きながら耳や鼻は広く染まりすぎないように境界線を糊で引き、慎重に注ぎ染めていきます。
 
どこを白く抜くか、どれくらいの幅の線で描けばいいか、色が混ざらないようにどう配色を考えるか。逆に色が混ざった美しさをどこで出すか。
技法を知りはじめて「どうやって描こうか」わくわくすることができました。
 


今お話しした工程は染めだけの話で、染める前には生地を織る人、生地を染められる状態に整える人、生地に色をつける場合は生地を染める人がいて、染める型を作る人がいます。
染めた後は洗ってしわくちゃの生地を伸ばして、カットする人。商品になるように折りたたむ人。
1枚の布はたくさんの人の手を渡り、てぬぐいとなりお店に並びます。
また、殆どの工程が分業で行われているため、一社廃業してしまうと他を探すか、自分たちでその工程を担わなければならなくなります。
先日も整理加工(生地を染められる状態に整える人)業者が1社廃業されたそうです。
てぬぐいのさんちには作り手が減りつつある危機感もあります。
 
なんとなくてぬぐいが好きだった私ですが、注染がどれだけ貴重なものか、どれだけ奥深いものか。
そのものを深く知ることでもっと好きになり、てぬぐいの見え方が変わりました。
 
注染に注ぎ込まれた思い、技術をこれからも伝えていきたいと思います。
 
商品名:注染手拭い 干支玩具 子
工芸:注染手拭い
産地:大阪府堺市
一緒にものづくりした産地のメーカー:株式会社協和染晒工場
商品企画:商品三課 村垣利枝