ハロー、松葉ガニ & 永楽歌舞伎

こんにちは、BACHの幅允孝です。
さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する「気ままな旅に、本」のコーナー。前回は「奈良にうまいものはない」と言い放った志賀直哉の呪い(?)を取りあげたが、今回は兵庫県豊岡市への旅である。そう、そこは志賀直哉が『城の崎にて』を書いた城崎温泉などがある町。あまり彼ばかりを引っ張るので、読者の皆さんには「どれだけ好きなん?」と思われているかもしれない。(実際、志賀直哉はいいんですよ。特に短編が本当に。)けれど、この時期に豊岡を訪れる理由はたくさんあるのだ。
まずは、11月7日に解禁となる松葉ガニ。これは関西圏の人にはおなじみだろう。毎年、「かにカニ日帰りエクスプレス」という謎の臨時特急列車が増発し、温泉に浸かり新鮮な蟹を食べる悦楽に身を委ねる方が多いという。そして、もうひとつは毎年この時期に豊岡市出石にある永楽館で開催される「永楽歌舞伎」である。片岡愛之助を座頭として9年前から始まったこの定期公演。2016年は11月4日から11日までの公演だったのだが、蟹も食べられ、歌舞伎も見られる11月7、8、9、10、11の5日間のみが、豊岡で味わえる贅を凝縮した究極の数日といえるだろう。というわけで、煩悩と食欲を否定しない我々は行ってまいりました。究極の豊岡を味わいに。  

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東京 羽田空港を7時半に出発する便に乗り、伊丹空港で乗り換え。そこから日本エアコミューターの小さな機体に30分ほど揺られ、9時40分に但馬空港へと到着した。関東圏からは、断然列車よりも飛行機の方が早いのである。空港からJR豊岡駅まで車で20分ほど走り、奈良からやってきた中川政七氏をピックアップ。さらにそこから20分ほど運転し、出石の町に到着した。

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室町時代は山名宗全らが治めていたというこの周辺。豊臣秀吉の弟・秀長によって山名が滅ぼされた後は木下昌利、青木甚兵衛などが城主を務めたが、結局、播州竜野にルーツを持つ小出吉英が平山城を新しくつくり、いまの出石の前身となる城下町づくりが行われたという。「但馬の小京都」といわれる町並みは実に風情があり、ぶらぶら目的もなく歩いていても愉しいのだが、せっかくだから何軒か訪れるべきお店を紹介しよう。

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まずは、町を歩いていてもひときわ目に入る、赤土でできた土蔵。これは、1708年(宝永5年)に創業した「出石酒造」の酒蔵だという。ここではお酒の販売だけでなく、気軽に試飲もできるとのことなので、蔵を代表する「楽々鶴」(ささづる)の上撰原酒をちびりいただく。アルコール度数は高めだが、案外するりと喉を通る。ほんのりとした甘みは透明感もあり、なんだか急に気分もあがってくるではないか。やはり、いい旅に地元の酒は欠かせませんな。

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と、昼から呑んでいる言い訳もほどほどに、次に紹介したいのが「出石皿そば」である。この蕎麦、小さな出石焼きの小皿に盛り付けられ、それを何枚も食べる独特のスタイルなのだが、薬味が実にユニーク。ねぎ、大根おろし、わさびは定番だが、ここに玉子ととろろが加わるのが出石皿そばである。

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訪れた「たくみや」は若き蕎麦職人 宮下拓己さんが営むお店で古民家を改装した町家風の内装が心地よい。僕たちは、いろりを囲んでゆったりしていたのだが、なによりも蕎麦が美味で驚いた。なんでも、麺棒一本で延ばす「丸延し」や「手ごま」で蕎麦を切るなど、出石皿そばの伝統をしっかりと守った丁寧な蕎麦づくりを心掛けているそうだ。そんな蕎麦に、これまた出汁にこだわったつゆをつけて、ちびりと一口。鼻腔を蕎麦の薫りが駆けのぼる。さらに、ねぎやわさびに始まり、玉子やとろろなど多様すぎる薬味をどんどん加えていけば、自分ならではの蕎麦を味わえるというわけだ。ちなみに、僕は愛知の出身。「ひつまぶし」文化に慣れ親しんでいた者としては、この「自分で味を創っていく」出石皿そばは、なんとも愉快な蕎麦だと思えた。

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他にも、出石には見所と思える場所がたくさんある。コリヤナギで編んだ豊岡杞柳(きりゅう)細工の「たくみ工芸」では、伝統的な柳行季(やなぎごおり)のトランクを物色。驚くべき技術と忍耐で、コリヤナギの栽培から加工、製作まですべて手作業で行う職人の気概に触れ、大きなものだと1年以上待ちという人気の理由を知る。

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また、「永澤兄弟製陶所」では、透き通るような磁肌の出石焼を拝見。柿谷陶石という純白の原料からつくられる静謐な磁器は、出石蕎麦の小皿もいいが、緊張感のある花器や大きめの皿だと特性がより生きるように感じた。窯元五代目永澤仁さんは、出石焼の伝統を守りながらそれをどう越えていくのかを日々考えているそうだ。

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滋賀「大與」の伝統工芸品、色とりどりの和ろうそく

こんにちは。さんち編集部の杉浦葉子です。
—— なにもなにも ちひさきものは みなうつくし
清少納言『枕草子』の151段、「うつくしきもの」の一節です。
小さな木の実、ぷにぷにの赤ちゃんの手、ころっころの小犬。
そう、小さいものはなんでもみんな、かわいらしいのです。
この連載では丁寧につくられた小さくてかわいいものをご紹介していきます。

色とりどりの、和ろうそく

このろうそくは、滋賀県高島郡(現高島市)で大西與一郎氏が大正3年に創業以来100余年ものあいだ和ろうそくをつくり続けてきた「大與(だいよ)」のブランドであるhitohitoのもの。こちらの和ろうそくのこだわりは100%純植物性のロウを原料としていること。伝統的工芸品にも指定されており、2010年にはあの大本山永平寺の御用達としても命じられたといいます。

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真ん中は「色ろうそく」、両端は「櫨ろうそく」。

両端の大きなろうそくは国産の櫨(はぜ)の実から搾取したロウを用いてつくられた「櫨ろうそく」。手掛けとよばれる製造技法でつくられています。手掛けとは、芯の周りに素手ですくったロウを塗り重ねては乾かすことを繰り返したもの。こうやってつくられた和ろうそくの断面を見ると、芯の周りを囲むようにいくつもの層ができているのがわかるのだそうです。職人さんが一本一本ロウを塗り重ねた証。自然な色あいやその質感、その佇まいもまた美しいですね。

そして真ん中にずらりと並んだ色とりどりで小さな「色ろうそく」は、ぬかロウでつくられたもの。お米のぬかから蝋を抽出したぬかロウは、硬くて燃焼時間が長いのが特徴。こんな小さな「色ろうそく」も、職人さんが丁寧につくった正真正銘の和ろうそく。本格派です。ススが少なくてお部屋を汚しにくい和ろうそくは、冬の贈りものやクリスマスの彩りにもおすすめ。小さくて手軽な和ろうそく、暮らしにとり入れてみませんか?

<取材協力>
和ろうそく 大與
http://warousokudaiyo.com

文・写真:杉浦葉子

ゲームで地方創生!?

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
突然ですがみなさん、ゲームはお好きですか。そして「サガ」というゲームシリーズをご存知でしょうか。「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」シリーズを輩出する株式会社スクウェア・エニックスの人気RPGゲームです。第1作が誕生したのは1989年、ゲームボーイ用のゲームとして。その後も新型ゲーム機や携帯アプリと時代ごとにキャリアを変えて楽しまれてきた同シリーズですが、実はここ数年、ゲームとは全く関係なさそうなところでも注目を集めていたのです。人々がつぶやくその名は「ロマンシング佐賀」。佐賀?…といえば今年開窯400年を迎える有田焼もあり、さんち編集部としても気になるところ。一体、何が起きているのでしょうか。

編集部が訪ねたのは都内にあるスクウェア・エニックス本社。幸運にも、「サガ」シリーズの生みの親であるエグゼクティブ・プロデューサーの河津秋敏さん、そして「ロマンシング佐賀」をはじめ、最新作「サガ スカーレット グレイス」のプロデューサーである市川雅統さんにお話を伺うことができました。

(以下、河津さん発言…「河津:」、市川さん発言…「市川:」と表記)

——「ロマンシング佐賀」って、あの佐賀県の佐賀、ですよね?

河津:そうです。「ロマンシング佐賀」は「サガ」シリーズと佐賀県のコラボレーションプロジェクトです。「サガ」は発売から25年以上続くシリーズですが、以前から同じ響きの佐賀県と、何か一緒にできないかなという思いがありました。はじめに私たちから、その10年後に今度は佐賀県さんからラブコールを頂いたのですが、それぞれタイミングが合わず、(89年発売のゲームボーイ版から)25周年となった2014年に、念願叶って実現しました。「節目の年に、ぜひ佐賀県とコラボして何かできないか」とのリクエストに、市川が動いて改めて佐賀県さんにコンタクトを取ったんです。

「サガ」シリーズを第1作から手がけてこられたエグゼクティブ・プロデューサーの河津秋敏さん
「サガ」シリーズ生みの親、エグゼクティブ・プロデューサーの河津秋敏さん

——もともと佐賀県と何かご縁があって、実現したのでしょうか?

市川:いえ、河津は熊本出身で僕は下関出身ですから、間といえば間に位置していますが(笑)、土地とのつながりはほとんど何もないところからのスタートでした。

「ロマンシング佐賀」プロデューサーの市川雅統さん
「ロマンシング佐賀」プロデューサーの市川雅統さん

河津:私たちにとっては今まで「サガ」を知らなかった人にもこのゲームを知ってもらう、いいきっかけになりますし、佐賀県さんはゲームを通して土地の魅力を全国に発信することができる。なんで、佐賀?という引っ掛かりが、お客さんとのコミュニケーションにつながるんです。タイミングと目指すところが一致して、プロジェクトが始まりました。

——まさに相互誘客を目指したのですね。反響はいかがでしたか。

河津:発売に合わせて東京の六本木ヒルズで「ロマンシング佐賀 LOUNGE」という、佐賀県の伝統工芸や県産品の魅力を体感できるイベントをやりました。これは女性の参加者が多かったですね。「サガ」シリーズをずっと手がけているイラストレーターの小林智美さん直筆の有田焼大皿を展示したのですが、オープン前に500人の列ができるほどの人気でした。地元の窯元さんと一緒に開発したオリジナルの有田焼きセットの商品は即日完売になりましたし、土地の工芸品である肥前名尾和紙や諸富家具を使っての「サガ」シリーズの原画展示も好評でした。

「ロマンシング佐賀1」のイベントでは長蛇の列が。
「ロマンシング佐賀1」のイベントでは長蛇の列が。
佐賀の工芸とゲームの世界が融合した「ロマンシング佐賀 LOUNGE」の様子。
佐賀の工芸とゲームの世界が融合した「ロマンシング佐賀 LOUNGE」の様子。

市川:ゲームは何百万本と売れないとヒットと言われませんが、お皿は1枚1万円のものが数百枚売れることが窯元さんにとってとても大きい。僕は現地のメーカーさんとオリジナルの商品開発をずっと一緒にやってきて、一体何のプロデューサーなんだと言われたりしますけど(笑)、作ったものがゲームとはまた違う形で届く手応えを感じました。

河津:翌2015年の「ロマンシング佐賀2」ではラッピング列車が運行したり、今年の「ロマンシング佐賀3」では現地でのスタンプラリーに有田焼の絵付け体験が入っていたりと、これまでゲームを楽しんだ人が思わず佐賀に行きたくなるような仕掛けも作っていきました。そうしたゲームだけでは得られない体験をしてもらうことが、ファンの方のさらなる満足度にもつながればと。

「ロマンシング佐賀2」発売時に佐賀で運行されたラッピング列車。壇上には河津さんの姿が。
「ロマンシング佐賀2」発売時に佐賀で運行されたラッピング列車。壇上には河津さんの姿が。
「ロマンシング佐賀3」のスタンプラリー。大人も子どももイベントを楽しむ。
「ロマンシング佐賀3」のスタンプラリー。大人も子どももイベントを楽しむ。

市川:僕も一緒に仕事をした窯元さんも、まさに子供の頃に「サガ」シリーズをやってきた世代なんです。そうすると、ゲームファンの方も「そういう人が作っているものなら、見に行こう」と思ってくれるんですね。

——ファンにとっての「嬉しいこと」が、土地の工芸の側からすると、ゲームというポピュラーなものを介して、多くの人に存在を知ってもらう、コミュニケーションの入り口になったわけですね。そんな力強いプロジェクトが、ダジャレから始まった、というのがまたすごいですね。

市川:そうなんです。ダジャレで始まったものだからこそ、絶対に本気でやらないといけないと思いました。これで僕たちがふざけていたら、これまでのファンを裏切ってしまうことになるし、新たなファンもきっと得られない。「サガ」も佐賀県さんも、お互い本気でぶつかったらどうなるのか、を出し続けているのが「ロマンシング佐賀」です。

プロジェクトに当たって実際に現地へ行くのですが、自分たちで器に絵付けをする体験はとても楽しいものでした。持ち帰ってきた有田焼のお椀で食事をいただくと、口に触れた時の口当たりが違うんです。こうした体で感じる違いを、ゲームの中だけにとどまらず、リアルの視点で届けて社会貢献できたらいいなと思っています。

——1つのゲームの世界にとどまらない、という意味では、新たに発売される「サガ」シリーズの新作にも、「佐賀」シリーズが実は関係しているそうですね。

河津:新作の「サガ スカーレット グレイス」で登場してくる主人公の1人が、タリアと言います。逆から読むとア・リ・タ。職業は陶芸家です。

——

最後にしっかりと新作のトリビアも伺って、インタビューは終了。
1つのゲームから生まれた地域のプロジェクトが、また次のゲームにその遺伝子を受け継いでゆく。デジタルの世界とアナログの、面白い行き来を見た気がしました。ゲームをきっかけに佐賀の工芸を訪ねて行く人が生まれたように、デジタルとアナログ、この2つのバランスが取れてお互いが活発になることで、もしかしたら世の中は少し、元気になったりするのかもしれません。

■「サガ」シリーズ最新作「サガ スカーレット グレイス」は本日12/15発売です!

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インタビュアー:中川政七
文:尾島可奈子


© SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.ILLUSTRATION : TOMOMI KOBAYASHI

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燕背脂ラーメンの元祖、金属工場の町で育まれた杭州飯店の中華そば

こんにちは。ライターの鈴木伸子です。
工場町・燕三条の愛される名店を訪ねる「燕三条の工場飯」。私は実は東京ではラーメン店の激戦区といわれる地域に住んでいまして、日頃も近くの評判の高い店にはとりあえず食べに行ってみるラーメン好きです。そんな私が今年新潟・燕の街で出会ったすごいラーメンが、これからご紹介する杭州飯店の背脂ラーメン。燕名物となっている以上に、この味が成立するまでのストーリーがとても興味深いのです。

燕背脂ラーメンの元祖、金属工場の町で育まれた杭州飯店の中華そば

燕三条一帯を車で走るとラーメン屋さんが多いことに気づきます。実はこの街の名物はラーメン。それも燕は「背脂ラーメン」、三条は「カレーラーメン」という独自のメニューを生み出し、発展させてきました。高度経済成長時代の昭和30年代、燕三条の金属工場はどこも忙しく残業が続いたため、出前の夜食を取ることが多く、そのなかで人気があったのがラーメンでした。
工場の仕事では汗をかくことが多いため塩味は強めになり、麺はのびにくいように太め、背脂やカレーをのせることで冷めにくくと、背脂ラーメン、カレーラーメンが工場の街の食文化として進化していきました。
その燕背脂ラーメンの元祖は、戦前からの歴史のある杭州飯店です。昼時は行列ができる人気店で、特に土日は県外から訪れるお客さんも多く見られます。杭州飯店3代目で、創業者徐昌星さんの孫である徐直幸さんに、燕背脂ラーメンが現在の形になるまでのお話をうかがいました。

多くの人がこの看板を目指してやってくる
多くの人がこの看板を目指してやってくる

一面に背脂、しょっぱいスープに太い麺が迫力

まずお話の前に、その背脂ラーメンをいただいてみます。運ばれてきたのは、この店では「中華そば」というメニュー名の品。丼一面に浮かぶ背脂で麺や具がほとんど見えません。しかし、箸でさぐると分厚い叉焼、粗みじんの玉ねぎ、メンマ、うどんのように太い麺が確認できて改めてすごいボリューム感を認識します。

モチモチの太麺。一面の背脂で中身がほとんど見えない!
モチモチの太麺。一面の背脂で中身がほとんど見えない!

店主、徐直幸さんが、この「中華そば」について解説してくださいます。

「麺が太い、スープは煮干しで味はしょっぱめ、背脂が多い、玉ねぎが入ってる。これがうちの中華そばの特徴。最初は玉ねぎじゃなくて長ねぎが入ってたんですよ。だけどだんだんスープの味が濃くなって、玉ねぎの甘さがマッチするということで玉ねぎになった。麺は自家製麺で朝7時から私が作ってまして、半分は機械の助けを借りながら手打ちで仕上げています。二代目である私の親父の代に、出前してものびにくくお腹がいっぱいになるようにと太くしていったそうです」

初代・昌星さんが、最初に背脂を入れた

徐直幸さんの祖父、徐昌星さんが最初に燕に杭州飯店の前身である福来亭を開店したのは昭和7年頃。当初、店は屋台でした。

「背脂ラーメンは、もともと私のおじいさんが考え出したものなんです。祖父は中国出身で、昭和7年にラーメンの屋台を引いて燕にやってきた。それ以前には長崎に上陸して九州の炭坑で働いて日本各地を回り、仙台で屋台を手に入れたということです。そこから南下して福島へ、そして喜多方に中国の同郷の人を訪ねていったところ『新潟のほうが景気がいいぞ』という情報を得て新潟にやってきた。そもそも祖父が屋台を手に入れて引いていたということは、それ以前に調理の仕事の経験があったからなんだと思いますね」

昭和7年頃の燕にはすでに金属工場が建ち並び、昌星さんは町の中心の中央通りで屋台の中華そば屋を営業しはじめます。火力の弱い屋台では細い麺しか茹でることはできず、当時の福来亭の中華そばは薄味細麺だったということです。

翌年、昌星さんは燕駅近くの穀町に店を構えます。

「店を構えるようになったら、屋台と違って火力の強い火床も確保できて、料理の幅も広がるようになった。それでお客さんからの要望に従ってちょっとでも腹にたまるように中華そばの麺を太くしたり、スープの味をしょっぱくしたりというふうに、福来亭の中華そばは変わっていったようです。背脂が入ったのもその頃からで、もともと中国ではつゆそばやスープに豚の脂を入れる料理があった。脂は甘いし、しょっぱいスープとバランスがとれる。腹持ちもいいというんで具の一部として脂を振るようになった。豚の背脂というのは昔は内臓と同じような扱いであまり使われなかったけれど、それを具にしてみたら評判がよかったということのようです」

工場への大量出前のために、麺はさらに太く

二代目を継いだのは直幸さんの父、勝二さんで、昭和39年、18歳の時から福来亭で働きはじめました。当時は日本の高度経済成長期のまっただなか。燕の金属工場はどこも大忙しで、出前だけで1日800杯もの注文があり、1軒の工場だけで150杯という数もあったとか。福来亭は今よりもまだまだ小さな店で、一度にそんなにたくさんの中華そばを作ることはできませんでした。出前用には夕方4時頃から9時頃までひたすら中華そばを作り続け、順番に運び続ける日々。どうしてもそばを作ってから出前先に配達して食べてもらうまでに時間がかかり、麺がのびてしまいます。それをなんとかしようと、勝二さんは麺をさらに太くしていきました。

手際よく盛られていく麺。この太さはかつて出前のために工夫されたもの。
手際よく盛られていく麺。この太さはかつて出前のために工夫されたもの。

今、杭州飯店では出前はやっていませんが、三代目の直幸さんもかつては配達を手伝っていたということです。

「出前は私が高校生の頃までやっていましたね。その頃は店の人手がなかったので基本的に断っていたんですが、本当に昔から取ってくれていた金属加工工場のお客さん2軒だけには残業時の夜食として届けていました。そのうち1軒は中華そば2つか4つという数の注文なんだけど、もう一軒は25という数なんで、車にのせて持っていっていたのをおぼえています」

いつの間にか背脂ラーメンが看板メニューに

福来亭は、昭和52年に2代目勝二さんが中国料理店・杭州飯店としてリニューアル開店し、現在に至っています。

「杭州飯店は、私のおやじとおふくろが本格的な中国料理の店をやりたいと言って始めたんです。それは祖父の夢でもありましたし。店は2階、3階が座敷になっていて3階が大広間で、宴会料理にはふかひれやあわび料理を出したり、結婚披露宴に使われたりもした。だけど時代の流れでだんだんに背脂ラーメンだけが人気になっちゃって(笑)、今のお客さんは、9割9分背脂ラーメンを食べに来る人ですね」

お昼時を過ぎてもお客さんが絶えない。厨房は大忙し。
お昼時を過ぎてもお客さんが絶えない。厨房は大忙し。

現在の杭州飯店のメニューを見ると、中華そば(背脂ラーメン)のほかに五目そば、タンメン、麻婆麺、五目チャーハン、餃子、牛すじ煮込定食など、かなりバラエティに富んでいます。それでもほとんどのお客さんはやはり「中華そば」(背脂ラーメン)を注文するのだとか。

「お昼の注文なんて、『今日はほとんど、中華そば大盛りだったね』みたいな時が多いです。背脂多め、玉ねぎ多めという注文も多いし、女性やおばあさんでも大盛りを食べていく人がいますよ」

祖父が広めたラーメンの味

そして現在のように燕に背脂ラーメンの店が増えたのは、その元祖である福来亭初代の徐昌星さんが、同業者であるほかの店にも惜しげもなくラーメンの作り方の技術指導したからでもあります。

「うちのおじいさんの頃は、今みたいに誰が元祖だとか、俺が本家だとかいう争いもなかったんですね。『これから店を始めるんだけど、福来亭のラーメンを教えてもらえませんか』という人には、祖父は『いいよ、いいよ』と、気前よく作り方を教えていました。おじいさんは燕の麺業組合の組合長もしていたし、『自分だけの味にするのではなくて、みんなでうまいものを作っていこう』という考え方の人だったんですね。そんなことで燕に背脂ラーメンが広まったということはあるかなと思います。だけどうちのおじいさんがラーメンの作り方を教えた店なんて燕の中でもほんの数軒ですよ。みんな独自に自分の店の味を追求した結果、それぞれに個性を競って、こんなにラーメン屋が増えていったんだと思います」

杭州飯店は今や、燕三条を訪ねたらぜひここで背脂ラーメンを食べたいと多くの人がやってくる店になっています。

「大晦日やお正月、お盆には、帰省した人たちがみんな食べにきてくれますよ。福来亭の時代からはもう84年。背脂ラーメンはすっかり故郷の味ということになったんでしょうね」

そんな杭州飯店、徐直幸さんの話を聞いて燕背脂ラーメンを食べると、太い麺と背脂がいっそう味わい深く感じられます。

杭州飯店
新潟県燕市燕49-4
0256-64-3770


文:鈴木伸子
写真:神宮巨樹

お茶の産地は器の産地。お茶が輝く「夕日焼」。

こんにちは。さんち編集部の西木戸弓佳です。
今日は美味しいものの話でも。取材やものづくりで、よくお邪魔する産地のお店やメーカーさん。そこで、大概「およばれ」に預かります。お茶とお茶うけ。地元の銘菓や駄菓子、そのお家のお母さんが作ったお漬物だったりと、頂くものはいろいろですが、これがまた、とても美味しいのです。普通の旅ではなかなか見つけられない、地元の日常をさんち編集部よりお届けします。

夕日のように輝くお茶と、ていねいに作られたお菓子

お茶の産地として有名な福岡県八女(やめ)市。工芸の産地でもあり、和紙、独楽、提灯、竹細工、仏壇、石灯籠といった伝統工芸も数多くあります。今回は八女市星野村にある「星野焼」の窯元、「源太窯」にお邪魔してきました。

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源太窯で作られた茶器でいただく、本日のおよばれ。お茶を淹れて下さるのは急須ではなく、取っ手のない「宝瓶(ほうひん)」。片口で湯冷ましをしてから「宝瓶」に入れて少し待ち、茶葉が開いたのを確認すると、静かにゆっくりと注ぎます。地元、星野のお茶。茶器は、星野焼の伝統手法である「夕日焼」です。お茶を入れると、内側が夕日のように輝いて美しいことから、その名前がついたのだそう。
実は、長年途絶えてしまっていた星野焼。80年間の廃窯(はいよう)の後、「星野のお茶が最高に美味しく頂ける茶器と食器を作りたい」と、たった一人で復興させたのが、この源太窯の山本源太さんです。以降、新しい作り手も出てきています。
また、お茶もさることながら、一緒にいただいたお茶うけも本当に美味しい。源太さんの器に、奥さんが手作りしたという紫花豆と柚子の白玉だんご、クコの実が盛られて出てきました。「なんでこんなに上手に炊けるのだろう」と、紫花豆の調理のコツを聞いたところ、何度も何度もお水を変えながら、じっくり時間をかけて炊くのだそう。やっぱり美味しいものを食べようとするのに、手間ひまを惜しんではいけません。圧力鍋での短縮調理を反省しつつ、ていねいに作られたお菓子をありがたくいただきます。ただでさえ美味しいお茶とお茶うけ、素敵な器も相まって更に美味しく感じます。自然に囲まれた庭で過ごす、何とも贅沢な時間。贅沢な一時をありがとうございました。

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源太窯
福岡県八女市星野村10471
0943-52-2188

文・写真 : 西木戸弓佳

毎日かあさん、ときどき職人

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
自分が得意なことを活かして「工芸」を支える人を紹介する連載「毎日かあさん、ときどき職人」。お店で思わず手に取った素敵な商品は、元をたどっていくとどこかの屋根の下、一人のお母さんの手で作られているかもしれません。どんな人がどんな思いで作っているのか?第一弾の「針子さん」、第二弾の「染子(そめこ)さん」に続いて、第三弾はアクセサリーからお正月のお飾りまで、商品を組み立てる「組子(くみこ)さん」を訪ねました。

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洋間にも飾りやすいようアレンジされた小ぶりの注連縄飾り。
花のコサージュは「代々栄える」ようにと正月飾りに用いられる橙(だいだい)に見立ててある。お店で見かけたら、わぁ、かわいい、と飾るシーンをイメージするかもしれない。けれど今日は、時間をさかのぼってみよう。
きれいな円を描く注連縄の端を金糸できっちり結び、鮮やかな花のコサージュを注連縄の中心につけ、コサージュの下にバランスよくレースを取り付けて、均整のとれたこのお飾りを作っているのは、いったいどこの、誰だろうか?

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「金糸は、注連縄とボンドで接着させながら巻いてあります。はじめボンドは爪楊枝でちまちまと塗っていたんです。そうしたら、『筆でやったら』と保母をやっている妹が教えてくれて。保母さんって工作するでしょ」

そう言いながら注連縄の定位置にさっさ、と筆でボンドを塗っていく。乾かぬうちに、金糸が巻きつけられていく。すきま無く、重なり無く。巻き終わると、留め部分が表から見えないように、縄の内側で糸が結ばれる。この間ほんの数分。取材に伺った私たちに説明をしながら、けれどずっと手は動いている。

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三谷由美子さん。
冒頭の注連縄飾りを毎年作っている、熟練の作り手さんのひとりだ。商品の製造元である中川政七商店では、毎年製造するアイテムの一部を、資材や道具を届けて近隣の方に在宅で作ってもらっている。担い手の多くは主婦の方だ。中でも機械では作れない、細やかな手作業の要るお飾り商品は、彼女たちの力なしでは作れない。

三谷さんは7年ほど前から中川でこの仕事をはじめ、2・3年前から難易度の高いお飾り商品を任されている。3人の息子さんはすでに独立。今はご主人と二人暮らしで、主婦業のかたわら、また、時折息子さんがつれてくるお孫さんの面倒をみながら、お飾りづくりにとりかかる。

「こんなの写真に写ったら、『あんなのプリンの空き瓶やん』って笑われそうやわ」

そう笑いながら筆を差し入れたのは、元はきっと美味しいプリンが入っていたであろう、白い小さな陶器。ボンドが固まらないよう、水が張ってある。

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ちなみにあの筆は支給されていません、と同行した中川政七商店の製造担当者が苦笑いした。三谷さんが自ら、作業のしやすいように道具を見つけてくるのだという。他にも机の上には、ハサミだけで4種類、ボンドをつける筆が2種類と、商品を作るための道具が整理されて置かれていた。

ボンドの受け皿。実は三谷さんが焼いた器だそう。奥は広告でつくった紙箱。作りかけの部品を置いたり、ゴミ入れにする。
ボンドの受け皿。実は三谷さんが焼いた器だそう。奥は広告でつくった紙箱。作りかけの部品を置いたり、ゴミ入れにする。
数種類の道具が定位置にきっちりと収まっている。
数種類の道具が定位置にきっちりと収まっている。
4種類のハサミ。100均に行ったらハサミばかり探してしまうという。
4種類のハサミ。100均に行ったらハサミばかり探してしまうという。
ボンド付けの道具一式。用途によって使い分ける。
ボンド付けの道具一式。用途によって使い分ける。

今度は左右均一に金糸の巻かれた縄の先を、定規で位置を測りながらハサミで短く切る。切った先から手でやわらかくほぐしていく。

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実際は中心から何センチメートル、など仕様書に詳しく規定が書かれているのだが、数字は頭に入っている。今度は実寸の商品がプリントされた仕様書の上に注連縄を置いて、レースとコサージュの取り付けにかかる。

予め準備してあるコサージュとレース。コサージュと葉を取り付けるのも、レースを同じ長さで切りそろえるのも、三谷さんの仕事だ。
予め準備してあるコサージュとレース。コサージュと葉を取り付けるのも、レースを同じ長さで切りそろえるのも、三谷さんの仕事だ。
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レースはつるしたときにひらひら動かないよう、本体とボンドで接着される。こういう細かなところは爪楊枝か竹串でするんです、と三谷さん。あらかじめ葉と接着しておいた花のコサージュは、取れないようにたっぷりボンドをつけてレースの上から固定する。乾かしたら、商品の完成だ。

同じボンド着けも、箇所によってやり方を変える。
同じボンド着けも、箇所によってやり方を変える。
商品の顔になるところ。しっかりと固定する。
商品の顔になるところ。しっかりと固定する。
完成。
完成。
乾かし中の商品。
乾かし中の商品。

作業を終えて、手先についたボンドを取り除きながらふと、三谷さんが言った。

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「仕事するときは爪も長くないとあかんの。特にこの指の爪は大事で」
と人差し指と親指を示した。他の爪より少し長くなっている。

紐を結ぶとき、レースを決まった位置に止めるとき、確かに親指と人差し指の爪先が器用に動いていた。

「孫にいわせれば『ばぁば爪伸びてるよ』と言うんだけど」

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爪に気を使っていたら、家事との両立は大変ではないだろうか。

「今は食洗器もあるし、できるだけ水仕事はしない。冬だったら手袋はめてしますね。かといって、ハンドクリームも(商品につくので)あまり塗れない。冬場は商品触っていると、やっぱり手がかさかさします」

熟練の三谷さんが終日とりかかって、1日20個の注連縄飾りが出来上がる。工程一つひとつをとっても根気の要る作業だし、家事や手肌にも気を使う。決して楽ではない仕事を、続けていられるのはなぜだろうか。

「時間がいっぱいあったら、何もしないでしょ、だらだらと。だからやるときは家事をはさみながら。これ終わったらここ掃除して、とか目に付くところをチェックしたり、全部終わったらあべのハルカス(大阪にある大型ショッピングモール)行きたいな、とか。 そう思いながらやると、楽しいですね」

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昔はお金を稼ぐ目的を一番に、こうした在宅の仕事をやっていたという。けれど自分の作った注連縄飾りを手にしながら、「同じものをずっとする仕事もあるけれど、これは違う」と話す。

「10個して10個おんなじように、とはいかない。同じように作っていても、結びひとつでまったく同じようにはなりません」

その言葉は、いわゆる手作りならではの出来のゆらぎを「味」としてよしとするような響きとは少し違った。少しでもきれいに、求められた品質以上になるように工夫を重ね、道具をそろえ、商品によって作業する部屋も変えるという三谷さんの、プロとしての意識が感じられるようだった。

「息子に『お金に困っているわけでもないのに何で内職するの』って聞かれました。内職=貧乏と思ってますよね。でも、私は内職しているとはめったに言いません。仕事している、と言っています。なぜ続けているかって、ぼうっとしているのが嫌だから。もったいないでしょ、まだ元気やのに。時間がもったいないからしているんですよ、自分のために。」

ちらりとのぞかせたプロ意識を包むように、またふんわりと笑って、手は仕事に戻っていた。

<掲載商品>
遊 中川 注連縄飾り


※通常作業する際は、髪の毛の混入を防ぐために髪を手ぬぐいや三角巾などで巻いて作業をされています。今回は特別に、外した状態で撮影させていただきました。三谷さん、ありがとうございました。

文:尾島可奈子
写真:木村正史