5月 ミニマムな世界を楽しむ「千島撫子」、園芸の醍醐味を伝える「アッツ桜」

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
日本の歳時記には植物が欠かせません。新年の門松、春のお花見、梅雨のアジサイ、秋の紅葉狩り。見るだけでなく、もっとそばで、自分で気に入った植物を上手に育てられたら。そんな思いから、世界を舞台に活躍する目利きのプラントハンター、西畠清順さんを訪ねました。インタビューは、清順さん監修の植物ブランド「花園樹斎」の、月替わりの「季節鉢」をはなしのタネに。植物と暮らすための具体的なアドバイスから、古今東西の植物のはなし、プラントハンターとしての日々の舞台裏まで、清順さんならではの植物トークを月替わりでお届けします。

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5月の季節鉢は2種類。千島撫子(ちしまなでしこ)とアッツ桜です。清順さんが代表を務める「そら植物園」のインフォメーションセンターがある、代々木VILLAGEにてお話を伺いました。

◇大きな花束でなく、ミニマムな世界を楽しむ「千鳥撫子」

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5月の花といえば母の日に贈るカーネーションですが、撫子(なでしこ)もカーネーションも同じナデシコ科です。撫子は江戸時代に一大ブームになった植物。いろんな園芸品種があります。中でも千島撫子はシベリア原産。同じ千島とつく千島桜は、通常の桜が5〜10メートルくらいに育って花をつけるのに対して、2〜3メートル育ったところでもう開花します。寒いところで育つ植物は、大きくなっても得をしないので小さく育つんですね。そういう矮性(わいせい)が千島撫子の何よりの特徴です。限られた空間にたくさんの花をつけて、大味じゃなくぎゅっと凝縮された花の美しさを楽しめます。日本人はそういう、ミニマムな世界をよしとする美意識を持ってきたんですね。大きな花束じゃなくても小さな空間の中でたくさんの花を楽しむ、こうした花を母の日に贈ったりしてもいいだろうな、と5月の季節鉢のひとつに選びました。

◇園芸の醍醐味を伝える「アッツ桜」

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この花は南アフリカ原産で、桜とつくけれど桜ではないんです。園芸の世界では全く関係のない植物に有名な花木の名をつけることがちょこちょこあります。梅とつくけれど梅じゃない蝋梅(ろうばい)や、サクラ草なんかもそうですね。さっきの千島撫子と一緒で、これだけ小さい中に花芽がたくさんついて葉っぱの数も多いものが、園芸植物としては鑑賞価値が高いんです。葉は高山植物によく見られるうぶ毛で覆われていますが、実際アッツ桜は南アフリカのドラケンスバーグ山脈に自生しています。こういう、高い山に登らないと見れないような花を手元で楽しめる、というのが園芸の何よりの魅力です。遠くまで行けないお年寄りの方やまだ小さい子どもたちにも、遠い国の高山植物を届けて愛でてもらう。それも親しみやすい名前をつけてね。アッツ桜はそんな園芸の醍醐味を伝える植物だと思います。

それじゃあ、また来月に。

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5/3(水・祝)代々木VILLAGEにて、5月の季節鉢「千島撫子」と「アッツ桜」が「GOOD SUNDAY MARKET」に登場します!

「なるべくカラダに良いものを、無理なく、楽しく」
都会に暮らしながらも自然を大切にしたライフスタイルを願う人達にむけたイベント「GOOD SUNDAY MARKET 5/3(水・祝)@代々木VILLAGE」に、花園樹斎が出張出店。5月の季節鉢「千島撫子」や「アッツ桜」、4月にご紹介した「オリーブ」も登場します。会場のお庭には、清順さんプロデュースの見ているだけでワクワクするような珍しい植物もたくさん。ゴールデンウィーク、ぜひ足を運んで直接植物に触れてみてくださいね。
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<掲載商品>

花園樹斎
植木鉢・鉢皿

・植物(鉢とのセット。店頭販売限定)
千島撫子

アッツ桜

季節鉢は以下のお店でお手に取っていただけます。
中川政七商店全店
(阪神梅田本店・ジェイアール名古屋タカシマヤ店は除く)
遊 中川 本店
遊 中川 神戸大丸店
遊 中川 横浜タカシマヤ店
*商品の在庫は各店舗へお問い合わせください

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西畠 清順
プラントハンター/そら植物園 代表
花園樹斎 植物監修
http://from-sora.com/

幕末より150年続く花と植木の卸問屋「花宇」の五代目。
日本全国、世界数十カ国を旅し、収集している植物は数千種類。

2012 年、ひとの心に植物を植える活動「そら植物園」をスタートさせ、国内外含め、多数の企業、団体、行政機関、プロの植物業者等からの依頼に答え、さまざまなプロジェクトを各地で展開、反響を呼んでいる。
著書に「教えてくれたのは、植物でした 人生を花やかにするヒント」(徳間書店)、 「そらみみ植物園」(東京書籍)、「はつみみ植物園」(東京書籍)など。


花園樹斎
http://kaenjusai.jp/

「“お持ち帰り”したい、日本の園芸」がコンセプトの植物ブランド。目利きのプラントハンター西畠清順が見出す極上の植物と創業三百年の老舗 中川政七商店のプロデュースする工芸が出会い、日本の園芸文化の楽しさの再構築を目指す。日本の四季や日本を感じさせる植物。植物を丁寧に育てるための道具、美しく飾るための道具。持ち帰りや贈り物に適したパッケージ。忘れられていた日本の園芸文化を新しいかたちで発信する。


聞き手:尾島可奈子

隠れた名店「美人亭」、雑居ビルの奥に。

こんにちは。さんち編集部の西木戸弓佳です。
旅先での晩ご飯、みなさんはどこに行きますか?グルメサイトやガイドブックで人気の有名店もいいですが、せっかくなら私は地元の人たちが普段使いするお店で、その土地の空気を味わいたい。そしてそこに、地元のお酒と美味しい魚があれば最高です。
そんなリクエストを地元の人にしてみたところ、一番に教えてくれたのがここ。香川県高松市の瓦町の繁華街から少し外れたところにある「美人亭」さんです。

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教えてもらった場所へいくと、そこはちょっと薄暗い雑居ビル。教えてもらわなかったら、見つけられなかったろうなぁ。こんなところにこそ、地元の名店は隠れているものです。
ドアを開けると「いらっしゃーい」と優しそうなおかあさん。カウンターにお邪魔します。

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お店ができたのは昭和61年。「わー、私と同い年だ!」と伝えると、「え!ママと同い年なの!」と隣のお客さん。「そんなわけないじゃないのー」と、笑うおかあさん。そうそう、この距離感が好きなのです。

見渡してみると、メニューは無さそう。カウンターに並ぶ美味しそうなおばんざいに目を向けると、「今日のおばんざいは‥‥」と説明してくれます。「鯵の三杯酢、ほうれん草のおひたし、いかなごのくぎ煮、かぼちゃ炊いたの、きゅうりとタコの酢の物」。どれも美味しそうで迷います。

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漁師さんの奥さんで、昔は一緒に漁にも出かけてたというおかあさん。瀬戸内海のお魚との付き合いはもう数十年なのだとか。カウンターの冷蔵ケースには、このあたりで捕れた新鮮なお魚が並びます。

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香川の名産イカナゴと、お刺身盛り合わせ、鯵の南蛮を注文。あれ、お魚ばっかり。追加でかぼちゃもいただきます。香川の地酒“金陵(きんりょう)”も忘れずに。
さすが、瀬戸内海の魚を深く知ってるおかあさんの魚料理は、味付けもちょうどよく、お刺身はコリコリ。もう、たまりません。
ご機嫌に料理をいただいているうちに、カウンターは常連さんでいっぱいに。いいお店にはいいお客さんが集まるのでしょうか。「この店はな‥‥」「高松はな‥‥」と、みなさんいろんなことを教えてくださいます。はじめて来た感じのしない居心地の良さ‥‥。近所にこんなお店があったら間違いなく通うだろうなぁと旅先であることが悔やまれます。

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「香川、良いところだなぁ」とは、ほろ酔いでお店を後にした時の感想。利便性の良さ、観光地としての見どころの多さ、宿泊先の快適さなど旅の評価はいろいろですが、最後に印象として強く残るのは、その土地で出会った人々なのかもしれません。
美味しい料理とあたたかい時間を、ありがとうございました。

こちらでいただけます

美人亭
香川県高松市瓦町2-2-10
087-861-0275
17:00~22:00
日祝定休

文・写真 : 西木戸弓佳

四国唯一の菓子木型職人を訪ねて、高松へ。

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
ここのところ和食と並んでその美味しさ、美しさが見直されてきている和菓子。あわせてお干菓子や練り切りの型抜きに使う菓子木型も、その造形の美しさから人気を集めています。今、菓子木型を作る職人さんは全国でも数人。聞けばそのうちの一人、四国・九州では唯一の職人さんが香川県高松市にいるとのこと。しかも、その娘さんが木型を使った和三盆づくりの教室を開いているそうです。これは行かないわけにいきません。美しい菓子木型作りの現場を訪ねる前編と、実際に菓子木型を使って和三盆作りを体験する後編と、2回に分けてお届けします。

讃岐三白の地で花開いた和菓子文化

香川県民の足・琴平電鉄(通称ことでん)を花園駅で下車。高松市内随一の繁華街、瓦町からもほど近いこの花園町に、四国・九州で唯一、菓子木型を作り続ける市原吉博さんの工房があります。

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一見普通のお家のような玄関を入ると、窓辺の机に並んだたくさんの菓子木型と彫の道具。奥には電動糸のこの機械。静かに彫刻刀を動かしながら、「どうぞ」と市原さんが迎えてくれました。

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お邪魔した日に制作されていたのは、個人の方から依頼のあった別注の菓子木型。最近は和菓子やさんに限らず、こうした一般の方から制作の依頼が増えているそうです。華やかなこの木型は、横浜にお住まいの方が古本屋で和菓子の古本を見つけ、そこから起こした図案とのこと。

右の絵が古本から起こした実際の図案。こちらを元に彫られたのが左の菓子木型。
右の絵が古本から起こした実際の図案。こちらを元に彫られたのが左の菓子木型。

「その和菓子を何に使ってどう見せたいのか、向こうから意見を聞いたらこちらが完成まで組み上げる。普通の練り切りは40グラムぐらいなんやけど、この木型の場合は150~200グラムで作りたいという依頼。木がこうだからバランスはこれくらいやな、厚みはこれくらいやな、と見当をつけて、作ってみたらこれは175グラムでどんぴしゃりやった」

実際に和菓子を作る際には、意匠の彫られた木型に、同じサイズにくりぬかれた上板(右手)を合わせて中身を詰め、厚みを持たせる。
実際に和菓子を作る際には、意匠の彫られた木型に、同じサイズにくりぬかれた上板(右手)を合わせて中身を詰め、厚みを持たせる。

和菓子の姿かたちに直径などの決まりはなく、大きさよりも重さを念頭に型を起こすのだそうです。平面的な図案から、いかに立体の姿を想像して依頼者のイメージを叶えるかに、菓子木型職人の腕が問われます。

常時50種類はあるという彫刻刀。持ち手は全て自分で削ってカスタマイズしているそう。
常時50種類はあるという彫刻刀。持ち手は全て自分で削ってカスタマイズしているそう。

四季折々の草花やおめでたいモチーフなど、色かたちの美しい和菓子が多様に作られるようになったのは、実は江戸時代になってから。菓子木型の登場もこの頃です。それまで中国からの輸入に頼りきりだった砂糖づくりを、8代将軍徳川吉宗(よしむね)が各藩に奨励します。そこで全国に先駆けて量産を成功させたのが、松平氏の治める高松藩。今に続く高級砂糖、和三盆の誕生です。砂糖は塩・綿と並んで讃岐三白(さぬきさんぱく)と呼ばれ、産業として大きく発展し、藩の重要な財源になったそうです。

「当時の砂糖は最高級の贅沢品。砂糖をふんだんに使う和菓子は富と権力の象徴のように使われていました。お城のあるところには和菓子屋さんがいて、木型職人もいて」

後にお話を伺った市原さんの娘さん、上原あゆみさんがそう教えてくれました。砂糖の製造販売で繁栄した高松城下も、もちろん和菓子文化が花開いた土地の一つ。市原さんは高松の地で木型の卸売をする家業に携わるうち、自ら菓子木型を彫るようになっていったそうです。

工房に併設されたショールームには、様々な意匠の菓子木型が所狭しと並ぶ。
工房に併設されたショールームには、様々な意匠の菓子木型が所狭しと並ぶ。
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菓子木型の職人はいまや全国でも数人を数えるほどに減少し、四国・九州では市原さんお一人のみ。1999年には香川県の伝統工芸品に菓子木型が指定され、市原さんは県の伝統工芸士認定を受けました。2004年には厚生労働大臣から授与される卓越技能章「現代の名工」に。2006年には黄綬褒章を受章。評判を耳にした人からの依頼は、全国、ときには海外からも入ってきます。

「大切にしているのは5J。『人脈』、『情報』、『情熱』。否定せんと、明るく元気に。それを言葉に表わすために『饒舌に』。それにはユーモアも無いといかんけん、『ジョーク』も。全ておもてなしや」

そう。市原さん、お話が面白いのです。インタビューをしていると、市原さんは「はい」や「そうです」と答えるかわりに「オーイエス、ウエルカム」と答え、「いいえ」や「違う」という時には「ワイパーや」と被りをふります。

LINEで図案が届く時代の職人流儀

「ワイパーいうのは僕のオリジナルの言葉なんやけど、決して『いや』という否定語を使わんのですわ。頼まれごとも基本、全部受ける。だからどうしても否定や断りが要る時には『ワイパーや』って被りをふる。これがウケるんや」

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つられて笑っていると、

「頼まれごとは試されごとで、受けてからもがく時間。相手の顔に答えは出るんや」

ドキリとする言葉です。市原さんが彫刻刀を握る作業机は、右側に電話、左側にはパソコン。手の届く範囲に、いつでも注文を受ける体制を整えています。取材時、市原さんの携帯にはLINEで次の木型の図案にする花の写真が送られてきていました。

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「安請け合いしてから、僕の戦いが始まるんや」

ユーモアたっぷりに話してくださる中に、それだけではない空気感が時々漂います。これは一体、と気になりつつも、そろそろ和三盆体験の時間です。

「菓子木型がどんなふうに使われているか、ぜひ見て来て下さい」

体験の場に何かヒントがあるかもしれない。そう思って工房から徒歩数分の、和三盆体験教室に向かいます。

(明日の後編に続きます。)

木型工房 有限会社市原
香川県高松市花園町1-7-30
087-831-3712
https://www.kashikigata.com/
*事前に申し込めばショールームの見学が可能

文・写真:尾島可奈子

日本職人巡歴 京都の女性黒染め師が拓いた新境地

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は京都の女性黒染め師のお話をお届けします。

「なんで黒やねん!」
創業1870年、京都の黒染屋・馬場染工業(ばんばせんこうぎょう)の4代目の次女として生まれた馬場麻紀さんは、物心ついたときから家業を苦々しく思っていた。自宅兼工房で目に焼き付いているのは、モノトーンの風景。白い反物か、染めた後の黒い反物が視界を埋めていた。

ずっと「うちは黒ばっかりでイヤやな‥‥」と思っていたが、「うちは、白のものでも父が黒といったら黒になるという家で、すごく厳格でものすっごく怖かった」ので、家ではニコニコして過ごしていた。

「カラスの濡れ羽色」を生み出した父

馬場家の初代が中京区柳水町で創業した明治3年ごろは、京都で黒紋付が売れ始めた時期だった。黒紋付は喪服というイメージがあるが、一般的に喪服として着用されるようになったのは戦後からとされており、創業時は富裕層の正装として需要があったのだ。

時代の流れで2代目は藍染に方向転換したが、3代目のころになると、それまでは一部の人間にしか許されなかった家紋を一般人でも持てるようになった。すると、自分が持っていた生地を黒紋付用に染め変える、という人が増えた。そこで3代目は約16メートルある紋付き袴の生地をぜんぶ広げて黒染めの手作業ができるように工房を拡大した。

今年で創業147年。額の写真は3代目のころの店舗。
今年で創業147年。額の写真は3代目のころの店舗。

そして麻紀さんの父、4代目の孝造さんは、家業の黒染めを進化させた。ある日、「今までの黒はグレーに見える! 黒っていうのはもっと黒やと思う!」と言いだし、目指したのが「カラスの濡れ羽色」。

「染料やさんと一緒にいろいろ試行錯誤をして、黒より黒い最高級の黒色を開発しはったんですよ。『秀明黒(しゅうめいぐろ)』と名付けた黒色はまさにカラスの濡れ羽色と呼ばれて、みんながびっくりするほどの出来栄えでした」

「秀明黒の馬場染工」はその名を全国にとどろかせ、注文が殺到。なんと1ヵ月に3万反の生地が届けられ、工房に所狭しと積みあがっていたという。さすがにこの数を手作業で染めることはできない、ということで、孝造さんは機械メーカーに話をつけ、自ら設計に携わり黒染めの機械を開発。秀明黒を機械で表現するために研究に研究を重ねて数年後、ついに業界で初めて機械化に成功した。

「アイデアマン」と呼ばれていた孝造さんは、ほかにも1985年、世界で初めて黒絹織物の摩擦堅ろう度試験(着用中の摩擦などにより、他の色移りする恐れがないか調べるための基準)で4級(5級が最上級)をクリアしたり、スイスと技術提携、中国と原料提携するなど黒染め業界のパイオニアとして慌ただしい日々を過ごしていた。

テキスタイルデザイナーとして活躍するも…

麻紀さんが育ったのはまさに孝造さんがフル回転していた時期だったから、「黒」が溢れる自宅で家の外のカラフルで華やかな世界に憧れ、高校時代には「お父さんの知らん世界で仕事をしたい」と願うようになった。

5代目の馬場麻紀さん。
5代目の馬場麻紀さん。

洋裁が好きだった麻紀さんは、就職しろという孝造さんをなんとか説得して洋裁の専門学校に進学。在学中、生地の魅力に目覚めた麻紀さんはテキスタイルデザインを学び、卒業後、テキスタイルデザイナーとして商社に入社した。

会社ではワコール、レナウンなど女性下着のデザインを任されたが、次第に「アウターのテキスタイルをやりたい」という想いが芽生えて転職。大手の生地問屋の社長が始めたばかりのテキスタイルデザインの会社に入り、社長の下についてイチから商売を学んだ。

「マンツーマンで社長に2年間ずっとついてまわったんですよ。おかげでどう営業して、仕事はどう取ってっていうノウハウを全部教えてもらった気がします。冒険もさせてくれはって、私は柄が好きやから、あんな柄は、こんな柄はって展開していくうちにだんだん会社が大きなってきて、東京事務所と京都事務所を往復するようになりました」

大きな仕事も任されるようになり、充実した生活を送っていたが、あまりに多忙で体調を崩したこともあり、28歳のとき、結婚を機に退社。専業主婦になり、3人の子どもに恵まれてビジネスからは遠ざかった。

子育てに追われる日々のなかで数年が経ったころ、転機が訪れた。離婚が決まり、子ども3人を連れて実家に戻ることになったのだ。

ひょんなことから戦国時代風の小物入れがヒット

孝造さんと母親と計6人での新生活。常にポジティブな麻紀さんは、めげることなくすぐにアルバイトを始めた。そのアルバイト先での出来事が、「ありえない」と思っていた黒染め職人の道へ進むきっかけとなる。

「学生時代にアルバイトしていた歯科医院の先生が新しく医院を開いていたので、そこで働き始めたんですけどね。そのとき、私38歳ぐらいで、職場の先輩がみんな年下なんですよ。私は特に気にしていなかったんだけど、その子たちからすると、いきなり入ってきた年上の新人が先生と親し気にしているのが気に食わなかったんでしょうね……」

学生時代とは仕事の内容が変わり、仕事に慣れるのに時間がかかったこともあって、職場の人間関係は悪化の一途。それでも3ヵ月は耐えていたが、ある日、麻紀さんが電話で予約を取った際に、それを見ていた20代の“先輩”の一言で、堪忍袋の緒が切れた。

「今の喋り方オッケーです! 今の調子で頑張って下さい!」

予約の取り方など学生時代から変わらないのに、馬鹿にするように褒め称えて拍手までする姿を見て、麻紀さんは思った。

「この子らと一緒に仕事できひん!」

このとき、気づいた。ほかの場所で働こうと思っても周りは年下ばかり。どこに行っても同じような目に遭うかもしれない。それなら、家で仕事をしよう——。

その少し前から、アイデアマンの幸造さんは「これからは家紋がくる!」と思い立ち、工房の一角を使って「家紋工房」を始めていた。これは、黒染めの手法を用いて家紋入りグッズを作るワークショップで、旅行会社と組んで観光客を受け入れていた。

幸造さんが始めた家紋のワークショップ。いまでは誕生日を「花紋」にあしらった「366日の花個紋」等も展開。
幸造さんが始めた家紋のワークショップ。いまでは誕生日を「花紋」にあしらった「366日の花個紋」等も展開。

すると、2005年に『戦国BASARA』という戦国武将をキャラクターにしたアクションゲームが発売されて人気に。その流れでゲームに登場する武将の家紋にも注目が集まるようになり、家紋を取り扱っている馬場染工業ともう1社、戦国グッズの専門店「戦国魂」が新聞に取り上げられた。

この記事を機に戦国魂と交流が生まれ、裁縫が得意な麻紀さんがデザインした戦国時代風の小物入れを戦国魂のオンラインショップで発売することになる。それが、本人も予想外の大ヒット。1日に平均30個のペースで売れるようになり、麻紀さんは工房で幸造さんの手伝いをしながら、小物入れを作るようになった。

勢いだけで後を継ぐことに

こうして6人での生活は平穏に過ぎていったのだが、幸造さんが肺ガンで倒れてすべての状況が一変した。診断はステージ4で、余命2年。実は5年前からガンだと診断されていながら、「気合いで直す!」と治療をしてこなかったため、手遅れになってしまった。

もう自分は長くないと受け入れた幸造さんは、決断が早かった。妻と娘と孫3人の生活を守るために、工房の2階と3階にあった機械をすべて処分して、トランクルームに。レンタル料金の収入を生活費の足しにしろ、と麻紀さんに告げた。

忙しく働いていたころの4代目、幸造さん。
忙しく働いていたころの4代目、幸造さん。

1階部分は残すことになっていたが、幸造さんは、ある日突然、長年、継ぎ足し、継ぎ足し使ってきた「黒より黒い、秀明黒」の染料を自ら流しに捨て始めた。
それを見た麻紀さんは驚き、「えっなにしてんの!?」と慌てて止めに入ったら、幸造さんは落ち着いた口調でこう言った。

「もう仕事する人いいひんし捨てんのや」

「やめときな、もったいない!染める染める!」

「誰がや!」

「‥‥‥‥はい!」

思わず手を挙げた麻紀さんに、幸造さんはポカンとして呟いた。

「え、ほんまけ?」

余命いくばくもない父をだますことはできない。「ダチョウ倶楽部のギャグと一緒ですよ」と笑うこのやり取りで後に引けなくなった麻紀さんは、翌日から工房に立った。

幸造さんも嬉しかったのだろう。麻紀さんが跡を継ぐと宣言してから、瞬く間にその話が広がり、多くの人が店を訪ねてきた。この間、麻紀さんは「カラスの濡れ羽色」を出す技術を受け継いだが、なにより「人間」としての父の偉大さを知った。

「お父さんには世話になったからとか、社長に恩返しせなっていうて、いろんな方が代わる代わる店に来てくれはるんですよ!昔、工房で働いてた従業員の人たちも、大丈夫か、なんかわからへんことあるか、わしが教えたるよ!って」

工房内の様子。
工房内の様子。

かけられた言葉は、建前ではなかった。
元従業員に力仕事をするのが難しいと相談したら、「重たいものはここに置いておいたらええで、私が全部処分してあげるしな」と言って、2週間に一度整理してくれるようになった。もちろん、無償である。

まだ黒染めに慣れていない麻紀さんのために、「私の染め!」といって衣類をたくさん持ち込んでくれる人も大勢いた。

幸造さんは病院での入院生活が長かったから現場で教わることはできなかったが、わからないことはすべて周りの人が教えてくれた。麻紀さんは、周囲の支えで黒染め職人として独り立ちしていったのである。

2008年、幸造さんが亡くなると、お葬式には900人が参列した。

洋服の染め替えで大盛況に

常々、「自分の食い扶持は自分で稼げ」と幸造さんから言われていた麻紀さんは、代々続く着物の黒染めを請け負いつつ、徐々に自分の得意分野に仕事をシフトしていった。コートやセーター、ワンピースなどの洋服を黒く染める「染め替え」だ。

ハンガーに衣類をつるし、染料に着け置きする。
ハンガーに衣類をつるし、染料に着け置きする。

「洋服の染め替えは洋服のことがわかってないとできないんですけど、私は学校でテキスタイルを学んでいたので、たくさん種類がある生地をそれぞれどう染めたらいいかっていうことがわかるんです。染めるということは、染料でクツクツ炊くので、たまに裏地の生地が破けたり、袖がくちゃくちゃになったり、トラブルが起きるんです。でも直せる技術もあるから全然動揺しないんですよ」

麻紀さんは、ひとつひとつの仕事にじっくりと時間をかける。
まずは、依頼主と10分から15分をかけてカウンセリング。染めの作業は、ボタンやバックルなどの付属品をはずすことから始まる。それから、生地が傷まないように普通の染屋さんが2時間でやる作業を6時間かけて染め上げて、乾いたら付属品を付け直す。ファスナーには生地を貼って、ダメージを与えないように気を遣う。これらの作業をすべて手作業でやっているのだ。

顧客としっかり話して書き込むカウンセリング表。
顧客としっかり話して書き込むカウンセリング表。

このていねいな仕事と幸造さんから受け継いだ艶やかな黒色が評判を呼び、口コミだけで右肩上がりに仕事が増えていった。以前、自分で手作りしていたホームページを業者に頼んで刷新したら、1週間に3着程度だった洋服の染め替えの依頼が、1日1着ペースになった。噂を聞きつけた関西ローカルの番組が取材に来たら、放送後、関西中からあらゆる衣類が持ち込まれて、365日休みなしという状態にまでなった。

「お前は儲けることを考えるな」

馬場染工業の大盛況を見て、同じように染め替えを売りにする店が雨後の筍のように現れた。その様子を見ながら、麻紀さんはふたりの人から言われた言葉を思い出していた。

ひとりは、父・幸造さん。
「お前は儲けることを考えるな。いいもんをつくって、ありがとうと言われる仕事をしろ。自分がこれやったらぎりぎりOKやっていう値段を設定したら、あとは1円でも高くとか、これやったら安すぎるとか考えたらあかん。人から喜ばれる仕事をしたら、勝手にお金がまわってくるから」

もうひとりは、某大企業のお偉いさん。
「君が今やってることはライバルがいいひんやろ。でも、君のやってることがほんまもんやったら、3年たったら必ず真似するやつは出てくるぞ。でもそのときに絶対に動揺することなく、君のやってるスタンスで君の値段でそのまま突き進んでいけ」

馬場染工業をまねて黒染めを始めた店は、半額の価格をつけていた。それでも麻紀さんは値段を下げず、仕事のスタイルも変えなかった。
そうすると、一度は低価格の店に流れたお客さんも、また麻紀さんの店に戻ってくるようになった。低価格の店は数をこなさなければいけないから、ゆっくりカウンセリングしている余裕はない。そのため、服にトラブルが起きることもあるし、満足度も高くないからだ。

黒染めされた衣類。手前のコートはもともと真っ赤な色をしていた。
黒染めされた衣類。手前のコートはもともと真っ赤な色をしていた。

競合店はいまもあるが、取材の訪れた3月某日、馬場染工業の工房には黒く染められるのを待つ洋服がハンガーにたくさんかかっていた。幸造さんが始めたワークショップも継続しており、なかなか休みが取れない日が続くが、今年3月に52歳になった麻紀さんは、「こんな楽しいことあらへんわ!ってくらい、むっちゃくちゃ楽しいです」と笑う。

「子どものころは、黒染め屋さんっていうのが嫌で、染めやさんですって言っていたんですけど、今はもう黒が一番かっこいいと思ってます。釜で炊いて服の色が変わっていくのをみて、いつも独り言を言ってるんですよ。ああ、素晴らしい黒やって」

この呟きを、聞いていたのかもしれない。あるいは、いつも陽気な麻紀さんが笑顔で働く姿が目に焼き付いているのかもしれない。いま、子どもたち3人ともが、黒染めの仕事に興味を示しているそうだ。幸造さんが生み出した「カラスの濡れ羽色」は、これからも受け継がれていくのだろう。

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<取材協力>
馬場染工業株式会社
京都府京都市中京区柳水町75
075-221-4759

文・写真:川内イオ

新生活に贈る 古都の筆ペン

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。

たとえば1月の成人の日、5月の母の日、9月の敬老の日‥‥日本には誰かが主役になれるお祝いの日が毎月のようにあります。せっかくのお祝いに手渡すなら、きちんと気持ちの伝わるものを贈りたい。この連載では毎月ひとつの贈りものを選んで、紹介していきます。

第4回目のテーマは「新生活に贈るもの」。4月は入学、入社と新生活を始める人も多いと思います。新たなスタートを切る人への贈りものには、名刺入れや腕時計など、身近に使えるちょっといい小物を贈るのが定番です。

今回選んだのは筆ペン。自分ではなかなか買いませんが、節目の挨拶や冠婚葬祭など、大人になるほど使う機会が増えていく、ひとつ持っておくと心強い道具です。聞けば書道発祥の地、奈良で300年以上続く筆やさんが作る筆ペンがあるとのこと。万年筆のようにインクを補充して長く使えるそうなので、贈りものにもぴったりです。早速どんなものか、覗いてみましょう。

日本に筆が伝来したのは飛鳥時代。お手本としていた中国の文化とともに日本にやってきました。さらに国内でも筆が作られるようになったのは平安時代に入ってから。空海がその製法を唐から日本に持ち帰ったのが始まりと言われています。「弘法も筆のあやまり」ということわざで有名な空海ですが、なるほど日本での書道の起源に深く関わっていたのですね。その空海が筆の作り方を伝えたのが大和の国、今の奈良です。

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1716年創業の筆メーカー、あかしやさんは、もともと奈良に都があった時代に朝廷の保護を受けて大きな力を持った「南都七大寺」に仕える筆司(筆職人)でした。七つのお寺とは興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺(唐招提寺とする場合も)。僧である空海がわざわざ筆作りを他国から学び伝えたように、お寺にとって書をしたためる道具はなくてはならない存在だったのですね。

ちなみに美しい阿修羅像が一躍ブームとなった興福寺は、日本で初めて墨を作った場所でもあります。近くには今も伝統的な製法で「奈良墨」を作り続ける、古梅園さんという墨やさんがあります。

そんな日本の書道文化発祥の地で、江戸時代の中ごろに筆問屋として看板を掲げたのが、今に続く筆メーカーとしてのあかしやさんの始まり。国の伝統的工芸品に指定された「奈良筆」を今も機械を入れず、全て人の手で作り続けています。

筆ペンも、もちろん筆職人による手作りです。持ち手となる軸も奈良筆と同じ天然の紋竹が使われています。インクがなくなればカートリッジを交換して補充できるのも嬉しいところ。本物の筆で書いているような墨の濃厚さとコシのある滑らかな書き心地を長く楽しめます。

コシのある筆先は、繊細な細い線から力強い太い線まで使い分けて表現できるのが特長。
コシのある筆先は、繊細な細い線から力強い太い線まで使い分けて表現できるのが特長。
天然の破竹を使った軸。写真は中川政七商店オジリナルの、正倉院宝物からとった鹿の焼印入りのもの。
天然の破竹を使った軸。写真は中川政七商店オジリナルの、正倉院宝物からとった鹿の焼印入りのもの。

スマートフォンやタブレットで文字が書けてしまう今でも、会社や自宅の机の上には必ずペンケースがあります。ボールペンや油性ペン、蛍光マーカーと並ぶ中に、すらりと一本、趣のある筆ペンが入っていたら。何か一筆添えるときに、さっと筆文字で言葉を贈れたら。それだけでちょっといい大人になれるような気がして、なんだか人に贈る前に、自分が欲しくなってきてしまいました。

<掲載商品>
中川政七商店
筆ペン 鹿紋

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<取材協力>
株式会社 あかしや


文:尾島可奈子

編集長・中川淳がさんち旅を薦める4つの理由

こんにちは。さんち編集長の中川です。
先日、講演の仕事で富山に行ってきました。旅のスタートの様子は昨日の記事に書きましたが、実はこの富山旅行、さんちを始めてから初めての「さんち旅」でした。
「さんち旅」(僕の造語ですが)とは「工芸産地を地元の友人に案内してもらう旅」のことです。
1泊2日の富山旅行を通じて、僕があらためて感じた「さんち旅の魅力」をお伝えしたいと思います。

まず旅程はこんな感じでした。

<初日>

新幹線で富山着、大澤さんと合流。林ショップで買い物をし、つるや本店でお昼ごはんにけんちん蕎麦を食べる。
講演まで時間があるので、世界一美しいと言われる「スターバックス 富山環水公園店」に移動し、講演の事前打合せ。

長身男子2人で仲良くデート
長身男子2人で仲良くデート
眼前に広がる美しい富岩運河
眼前に広がる美しい富岩運河

富山市立図書館にて「地域をブランディングする」セミナー。

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富山市立図書館は隈研吾さんの建築で奈良にもこういうサイズ感の人が集まる場所があるといいなーとうらやましく思う。余談ですが最近地方でいい場所だなと思う建物は大抵、伊東豊雄さんか隈研吾さんです。これはこれで問題だと思いますが。(笑)

富山市立図書館内の様子
富山市立図書館内の様子

越中八尾ベースOYATSUに移動して地元有志の方々とワークショップ。
テーマは富山ブランディング。いくつかのチームに分かれて熱い議論が交わされます。

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その後も晩ご飯を食べながら熱い話とたわいもない話をえんえんと。

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ワークショップに参加していた地元のおしゃれメガネ屋の湯島淳さんにメガネを調整してもらって就寝。

<2日目>

朝から電子部品関係の会社に勤める野田恭平さんの案内で近隣を散歩。ガイドでもないのに野田さんのうんちくが素晴らしい!

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越中八尾はかつて街道沿いの宿場町として栄え、今も昔ながらの町並みが残っており9月に行われる民謡行事「おわら風の盆」には20万人を超える人々がやってくるそう。

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少し歩いて蚕養宮にお参り。2月だったので雪の階段を登るのに四苦八苦。

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蚕の繭の形をした手水場
蚕の繭の形をした手水場

越中八尾は蚕の卵を養蚕地に出荷していた地域。蚕の卵は出荷する時に和紙に貼り付けられていたそう。蚕と売薬の包み紙という需要が八尾和紙を生んだわけです。そんな話を聞きながら坂を下って桂樹舎へ。

桂樹舎・和紙文庫の外観
桂樹舎・和紙文庫の外観

桂樹舎は昭和35年創業の型染め和紙の工房。民藝と関わりが深く、芹沢銈介(せりざわ・けいすけ)の型染めカレンダーが有名です。2階には紙にまつわる展示があり売薬と共に成長してきた八尾和紙の歴史が伺えます。

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富山に戻りCHILLING STYLEを訪問。以前に来たことがあるつもりでしたが、実は初訪問でした。(笑)

昨日の記事でも登場してくださった大澤寛さん。CHILLING STYLE店内にて
昨日の記事でも登場してくださった大澤寛さん。CHILLING STYLE店内にて

ちょうどオーバード・ホールで公開される「舞台の上の美術館Ⅱ」が準備中だったので造形作家・清河北斗さんを訪ねてお話を聞く。

そろそろお腹もすいたので、すし玉富山本店(地元の回転寿司)でお昼ごはん。
富山名物・白海老やのれそれ、氷見湾でとれる珍しい海藻・ながらもを食し大満足。海に近い、地方の回転寿司は侮れません。
その後金沢まで足を伸ばして21世紀美術館で「工芸とデザインの境目」展を見学。深澤直人さん編集の展示について深く考察し大澤さんとあれこれ議論し盛り上がる。

最後は金沢駅まで送ってもらい、中川政七商店 金沢百番街Rinto店に立ち寄って、新幹線で帰りました。

さんち旅の醍醐味 其の一
「見落としがちな場所に連れて行ってくれる」

 

普段旅先で好き好んでスタバには行きません。世界一美しいスタバが富山にあるという話は何かで見たことがありますが、そんなに都合良くこのタイミングで思い出したりしないので、一人旅であれば間違いなくスルーでした。
2日目の朝に散歩した蚕養宮も同じです。まず一人旅だと朝ぎりぎりまで寝てしまいますし、近くのそれほど有名ではない神社に雪の階段を登ってまでは絶対に行きません。(笑)

さんち旅の醍醐味 其の二
「小話が聞ける」

 

蚕養宮で教えてもらった蚕の卵と和紙の話を聞いてから桂樹舎を訪ることができたのは最高の流れでした。
氷見のブリは有名ですが、回転寿司を食べながら教えてもらった「ながらも」は知りませんでした。普段なら地味な海藻のお寿司をわざわざは注文しません。

さんち旅の醍醐味 其の三
「人に会える」

 

桂樹舎の社長のお話を伺えたのは案内してくれた野田さんと社長の息子さんが同級生だったから。現代アートに詳しくないので、清河北斗さんのことは存じ上げませんでしたが、お会いして作品の意図を自ら解説していただき(贅沢!)新たな興味が湧きました。

さんち旅の醍醐味 其の四
「次への期待感」

 

おわら風の盆のすごさを聞いて9月にまた来たいなと思いましたし、帰り際に見た立山の景色は富山の人々が口を揃えて自慢するのも理解できました。本格登山でなくとも途中まで車で行って登れば日帰りでも十分行けるよ、と聞いて次にチャンスがあればと思いました。

立山連峰の山並み
立山連峰の山並み

もちろん僕が仕事柄恵まれているのは十分に理解していますが、それでも地元の友人がいればこれほど心強い旅はありません。
僕はいつも旅をする時に宿から決めますが、たまには遠く離れた友人を訪ねるための旅もありかもしれませんね。
あなたもぜひ、さんち旅を。


文 : 中川淳
写真 : 松井睦