三十の手習い「茶道編」六、無言の道具が語ること

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
着物の着方も、お抹茶のいただき方も、知っておきたいと思いつつ、中々機会が無い。過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、半年後にはすっかり忘れてしまっていたり。そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。第一弾は茶道編です。30歳にして初めて知る、改めて知る日本文化の面白さを、習いたての感動そのままにお届けします。

◇無言の道具が語ること

4月某日。
今日も神楽坂のとあるお茶室に、日没を過ぎて続々と人が集まります。木村宗慎先生による茶道教室6回目。床の間の掛け軸のお話から、お稽古が始まりました。

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「これは熊野(ゆや)というお能の曲目を描いた、源平合戦にまつわる物語がテーマのお軸です。熊野は平清盛の三男、平宗盛に寵愛された美形の踊り子さんです。描いたのは神坂雪佳(かみさか・せっか)。元は双幅になっていて、一方にお能、もう一方に京都の桜の名所、清水寺の地主桜(じしゅざくら)の絵が描かれています」

ある日、熊野に母の危篤の知らせが入る。帰りたいが宗盛が帰してくれない。どんどん沈みがちになる熊野を、宗盛が気晴らしにと清水寺の地主神社へお花見に連れ出す。その連れて行かれるシーンを描いた絵だそうです。ストーリーやこの絵を知っている人には、これがお花見の時期に合わせた設えだとピンとくるわけですね。

「手前の花入れは蒔絵をあしらった鼓です。ほんものですよ。実際に演奏に使われていたものです。鼓は能の楽器ですからね。傍にあるのは謡本(うたいぼん。謡曲の譜が載った教本)と、お囃子に使う横笛の能管(のうかん)。八坂神社に伝来した笛で、名を清水とつけられいます。能管の下に敷かれた裂(きれ)は久松家(伊予松島藩主で明治の動乱下でも土地の能文化を保護した)伝来の能装束の端切れです」

掛け軸のお能の世界観が、その傍の飾りものへと広がっていました。

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中ほどに「清水」の銘が見てとれる
中ほどに「清水」の銘が見てとれる
謡本の中身を見せていただきました
謡本の中身を見せていただきました

「本来、茶会では冗長なおしゃべりは禁物。静かに粛々と時が動いていくのが望ましい。では、何が亭主の気持ちを語るかというと、そこに用意された道具が語る。その場に選ばれた理由、組み合わせ方が、何よりのコミュニケーションツールなのです」

ホストはゲストをもてなすためにストーリーを組み上げ、言葉に代えて道具の取り合わせで自分の気持ちを表す。ゲストは無言の道具を一つひとつ自分のセンス・教養を駆使して汲み取っていく。これが何よりのお茶会の喜びだと、先生はおっしゃいます。

「ご心配なく、全部わからなくていいんです。聞けば教えてくれます。その時受け取れるものを一つひとつ、自分の目・耳・鼻・手で感じ取っていくこと。茶会に来て、ドリル問題の答え合わせをする必要はありません。かといって、お茶が美味しいというだけでない。茶会の一番の喜びですね」

そして、お茶会に込める物語のベースとして、長らく好まれてきた題材のひとつがお能なのだそうです。

「お茶に先行して、日本文化の核として発達したのがお能です。神仏に奉納するお神楽がもととなり、祈りの表現として始まったものです。これを室町将軍家が特に好みました。新しい社会のニューリーダーだったお武家さんたちは、それまでのリーダーだったお公家さんたちの文化、例えば雅楽とか和歌などとは違うものを欲したのだと思います。抑制の効いた動作や所作の中で舞う能を、自らも演じ、また観劇して楽しみました。源平合戦のテーマがお能の曲目に多いのはそのためです。お侍さんたちにとって馴染みのあるものですからね」

そうして源平を題材に作られたお能の演目が、今度は絵に描かれ、お茶という別の文化に取り込まれて今日の床の間を飾っていると思うと、ますます先ほどの掛け軸の持つ意味がずっしり重みを増していきます。

「今聞くと、難しく、何を言っているのかわからないかもしれません。しかしながら、お能の曲は古今東西の名文美文を寄せ集めたオムニバスのようなもの。なので、昔の人にしてみれば、歌い踊っている間に一般教養が覚えられる便利なツールでもありました。さらにお酒の席で一緒に演じられる、武士たちにとっての共通言語だったんです。当然、人前で披露するならかっこよく立ち居振る舞いしたいと思いますよね。この、お能で見られる観客を意識した動きと自らの楽しみ、両方が背骨になって、後発の文化である、もてなしの場としての茶の湯に落とし込まれていくんです」

ただお茶の美味しさを堪能するだけでなく、お点前はかっこよくやらないといけない。

「お茶を立てる動作自体も、ご馳走のひとつ。言葉ではない、自分の小さな所作の一つひとつが、相手に気持ちが届くように。そう願って稽古するのです」

◇さまざま桜

お軸を中心とした飾りものが能をテーマにしているのと対を成すように、お点前の道具やいただいたお菓子はどれも、4月らしく桜がモチーフになっています。絵の中の熊野のお花見を、疑似体験しているかのような気持ちになってきます。

田楽箱という、お団子が転がらずに収納できるよう作られた箱。お団子は京都・二條駿河屋さんのもの
田楽箱という、お団子が転がらずに収納できるよう作られた箱。お団子は京都・二條駿河屋さんのもの
2種目のお茶菓子は花びらをかたどった伊賀上野・紅梅屋の「さまざま桜」と京都・かぎや政秋の「ときわ木」を木の幹に見立てて
2種目のお茶菓子は花びらをかたどった伊賀上野・紅梅屋の「さまざま桜」と京都・かぎや政秋の「ときわ木」を木の幹に見立てて
水差しは桜が散って流れている様子を表す花筏(はないかだ)の意匠
水差しは桜が散って流れている様子を表す花筏(はないかだ)の意匠

◇道具がコミュニケーションツールになるには

「機会があったら一度お能を観に行って、主役だけでなく脇に縦に並んだ地歌と呼ばれるコーラスの人の動きや、楽器を担当する囃子方(はやしかた)の動きを見ておくといいですよ。黒い紋付、より正式な会なら裃(かみしも)を着て並んだ人たち。ピンとした一糸乱れぬ所作を保つことで、そこにいるはずの気配が消えます。逆に雑にすれば目立ってしまう。お能を実際に観てつまらないと思うか、面白いと思うか。感じ方は人によって違うと思いますが、お茶の稽古をする前と習い始めてからでは、お能を見た感想は、まず、変化するはずです。
何気なく眺めている間は無縁だと思っていたものが、何かに取り組むことで、実はどこかでつながっていることに気づく。何であれ、視野を広げて興味を持つということが、とても大切なんです。お茶はお茶だけで成り立っているものではない。お能もしかり」

視野を広げた先に見つけられる、お茶会に組み込まれたさまざまなストーリー。今日のお能の仕掛けも、さっと読み解けたらどんなに楽しいだろうと思っていたところに、先生が最後に大切なことを教えてくれました。

「何事も、どうしても自分本位にやってしまいがちです。こうしたお能にちなんだ取り合わせもいいですよ、と伝えましたが、危険な要素もはらんでいます。少しお能もかじり、お茶をたしなんで道具や文化に興味を持った人が、必ずやりたくなる仕口のひとつですが、同時に、そういう人が茶会を開く際にもっともやってはいけない開催の仕方とも言えます」

危険、という言葉にどきりとします。自分の見聞きしたこと、覚えたことは、ちょっと背伸びしてでも、すぐに実践したくなりそうですが‥‥

「自分が多少わかっていて楽しいからといって、お能がかりの趣向でお茶会をひらいて、お客さんの何人が理解し、楽しいと思ってくれるかどうか‥‥。我が身の知識と教養をひけらかすためだけにやるような会ならば、これはもてなしとは言えません。共通言語という言葉を何回も言いましたが、相手がともに理解してくれればこそ、説明なく道具が無言のうちに語ってくれるのです。
今のビジネスシーンでいうと、企画書やプレゼンテーション、謝罪の仕方でも同じです。例えば相手に頭を下げるということは、下げている所作全体から、お詫びの気持ちが伝わってくるようなものでなければならないと思います。
時に、やせ我慢も魅力、ではありますが、独りよがりだけ、ではつまらない。

−では、今宵はこれくらいにいたしましょう」

◇本日のおさらい

一、無言の道具を介したコミュニケーションを楽しむ

一、ただし、あくまで相手が理解できてこそもてなしになる


文:尾島可奈子
写真:山口綾子
衣装:大塚呉服店

三十の手習い 「茶道編」五、体の中にあるもの

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
着物の着方も、お抹茶のいただき方も、知っておきたいと思いつつ、中々機会が無い。過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、半年後にはすっかり忘れてしまっていたり。そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。第一弾は茶道編です。30歳にして初めて知る、改めて知る日本文化の面白さを、習いたての感動そのままにお届けします。

◇鬼の念仏

2月某日。
今日も神楽坂のとあるお茶室に、日没を過ぎて続々と人が集まります。木村宗慎先生による茶道教室5回目。お茶室に入ると、まず床の間の飾りを拝見するのが習慣になってきました。

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「床に掛けた軸は『大津絵』というものです。昔の漫画・イラストのようなものです。鉢鐘を叩きながら念仏を唱えるお坊さんが、鬼の姿で描かれている。鬼なのに聖(ひじり)。可笑しいでしょう。昔の人の洒落っ気です。お坊さんは功徳を説いて回って、お寺を建てるための募金活動をしているところですが、庶民からすれば『お坊さんが来たらお金が要る』という非常にシビアな風刺も込められているようです」

傍らには魔除けの柊。節分の取り合わせです。

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「節分にちなんで大津絵の鬼を見てもらいました。この絵を見ると、いつも思うことがあります。日常のマナーに関しての大事なヒントです。

例えばある人のことを評して『ものすごい大酒飲みだけどよく働くからね』というとこれはポジティブキャンペーン。一方で『よく働くけど、あのひと大酒飲みだよね』と口にするのはネガティブキャンペーンになってしまう。同じことを言っているのに話す順序で意味が変わってくる。そのことをよく考えておかないといけません。人の話をするときはまず、ポジティブキャンペーンになるような会話の仕方をしておく方が幸せですよね。逆にネガティブにはる時は、よほどの覚悟がなければ、ということです。この『鬼の念仏』を掛けると、いつもそんなことを思います」

掛け軸のそばに、もうひとつ不思議な飾りものが。これは一体なんでしょうか。

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「これは香枕(こうまくら)。昔のひとが、髪にお香の香りを焚きしめるために用いた枕です。お正月や、旧暦で1年の節目である節分の夜に、いい夢を見ることが出来ますようにと宝船の絵を枕元におく習慣があります。ただの枕では、座敷の飾りにはなりません。ただ、こうした優雅な香枕であれば話は別。節分の取り合わせに、ちょっとした遊び心です」

一番上の白い奉書が、日本で最古という版木で刷られた宝船。京都の五條天神社というお宮さんに伝えられているものだそうです。

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「今年の節分に五條天神社のおさがりをいただいたものです。豪華な絵ではなく、小さな船に稲穂がひと束乗っているだけのものですが、日本は豊芦原瑞穂(とよあしはらのみずほ)の国。シンプルな意匠に、稲穂の実りで支えられてきた日本人の、いっそ切実な祈りが込められているように思います」

◇手が切れそうな道具に触れる

「今日のお稽古でお話ししたいのは、なぜ茶の湯のような文化があるのか、ということの一端です。先日の稽古で刀を見せたのは、何を手にしても、抜き身の真剣を持ったときの恐れと怯えをわすれないように…ということを、実感として理解していただきたかったからでした。『手が切れる』というもののほめ方の話もしましたが、今日はその話をさらに進めていきたいと思います」

そうして大事そうに幾つかの包みを取り出されました。

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「茶の湯にお点前などの“型”は、なくたっていい。かつてそう言ってきたこともあります。お茶一服なんて、すぐに点てられます。別に煩雑な所作は必要ない。一見合理ですが、あまりに短絡的で、誤りです。今はそうは思いません。やはり、お点前は、ていねいに茶碗ひとつを扱う所作はあってもいい。道具を大切に扱うことが、ひとつ一つの所作をていねいに行うことが、それを手にとってお茶を飲む人を大事にするということにつながるからです」

ゆっくりと一つひとつ、包みがほどかれていきます。

「海外の美術館へ行くと、コレクションはそのモノだけが、いわば裸にして置いてあります。額縁などの例外を除けば、保管するためのケースは展示の対象、美術作品の一部とは見なされていません。海外の某有名美術館で、付属品は、箱も袋も全部捨てられて、茶入本体だけが寒々しく飾られていた、という笑えない話があります。ところが日本では道具を、とくに茶の湯の道具はものだけでなく、入れ物である箱や、袋といった付属する品々にも重きをおいて、守り伝えてきました。

中身より、箱、つまり立派にみせる権威づけが大切にされている、と茶の道具が批判されるときの理由に真っ先にあげられる点ですね。でも、ただ批判するだけの人は、ことの本質をわかっていない。箱や、付属品、添えられた小さな紙切れの一片までも大切にする行為には、お茶になぜ点前や型があるのか、という問いかけにも似た答えが、あります」

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「これは近衛予楽院(このえよらくいん)という、お茶が好きな江戸時代のお公家さんが所有していたものです。舶来ものの裂地なども好んだ人で、ヨーロッパの裂(きれ)を使った華やかな表具(さまざまな布・紙を組み合わせて、掛け軸を仕立て上げること)などでも有名な人ですね。

この茶入の挽家(ひきや:茶入を保管するための筒状のうつわ)の袋も『N』のアルファベットが文様に織り出された裂を使っています。近衛与楽院という人のハイカラ心がよくわかりますよね。古びきって、開けるたびにもろもろになってしまうので、茶入を取り出すのも数年ぶりです」

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「茶入れの蓋は表が象牙で裏には金箔があしらわれています。これは象牙も金も、毒に反応して色が変わると信じられたためと言われます。一方で、金も象牙も最高級の素材です。位のある人が飲む最高のお茶を大事に扱わんがために、蓋の素材も最高のものを、ということが、まず先にあるのではと思います」

もうひとつ別の茶入の箱も、解かれていきます。息をするのも忘れるほどそうっとそうっと茶入れを手に取り、拝見します。

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「こちらは古田織部好みと言われる、瀬戸焼の茶入です。ふたつ添えられた仕覆(しふく。袋のこと)のうち、ひとつを見て下さい。辛うじて姿をとどめているだけのボロボロの状態です。それでもこの袋を捨てたりはしない。小さな茶入が、長い時間どれほど大切にされてきたかを物語る、モノ言わぬ証人です」

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「こうして見せられたら、絶対に大事にするでしょう。乱暴に扱わないでしょう。もう補修もできない。あとちょっとひどくなったら紙に裏打ちして貼るしかできなくなります。捨てないんです。こうなっても。『手が切れそうな』というのは、シャープで美しい、というだけのことではありません。手が触れるのも怖い…ものを大事にする素直で敬虔な気持ちを表現した言葉です。そうした謙虚さで、かつてこれを愛した人の思いを受け取り大事にして、使い、更に次の世代に伝えていく。

ちっぽけな、布切れ1枚のあつかいに宿る日本人の美意識を、所作や立ち居振る舞いで表すのがお茶ではないかと思うんです。

自分なりに大事にしています、は無意味です。一人称の小さな世界観では、理解できない大きな日本人の知恵です。ものを大切にしていることが自他ともに伝わるようにする。その厳しさが、ひとつの道具を大事に受け継いできた人々の思いを受け取り、あとの時代につなぐということになるはずです。

商品の包装も同じです。中身勝負で外装は関係ない、ということではないんですよ。 外包みの仕立てがおしゃれでかっこいいと、開けるのがもったいないと思います。その結果、中身までも大事にしようと思うものです。もちろん見せかけ倒れでは、元も子もないでしょうが。ただ、時に、中身よりも、包みに込められた想いの方が大切なこともあるのでは」

誰かに贈りものをするときのことを思いました。包装紙にシワが寄っていないか、折れたりしていないか、ラッピングにも心を配ります。また自分が何かをもらうときにも、美しく包装されたものには相手の心遣いを感じて嬉しくなります。

「こうした付属品は、茶会自体には直接関係のないものです。本来は全てバックヤードの水屋、もしくは出し入れするときしか見えないものです。求められれば、一部をお客の前で披露することはありますが、全部をあからさまにすることはありません。そんな振る舞いは野暮の骨頂です。過剰包装の極致だと言われそうでも、道具を大事にする想いの現れがここにあると思うので、今日はお見せしました。

考えてみれば、茶の湯がもてはやされた当時は、打ち続く戦乱で、大事なものを箱に入れて必死になって抱えて逃げて、命をつなぐという時代でした。そういうことを繰り返し面倒くさがらずにする、いえ、せざるをえない切実な環境だったんだろうと思うんです。そう思ってみるとこう箱がいっぱいあるのも、悪くはない。これだけ幾重にも包まれて箱にしまわれているということだけ、どうぞ知っておいてください」

再び一つひとつ、ゆっくりと仕舞われていきます。

「茶の湯はものを扱う文化なんです。それもていねいに大事に、熱心に扱う。それは当たり前のことなのかもしれません。往々にして道具ひとつの方が人間より長生きなのですから」

三十の手習い「茶道編」四、あらたまの年をことほぐ

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
着物の着方も、お抹茶のいただき方も、知っておきたいと思いつつ、中々機会が無い。過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、半年後にはすっかり忘れてしまっていたり。そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。第一弾は茶道編です。30歳にして初めて知る、改めて知る日本文化の面白さを、習いたての感動そのままにお届けします。

◇あらたまの年をことほぐ

1月某日。
今日も神楽坂のとあるお茶室に、日没を過ぎて続々と人が集まります。木村宗慎先生による茶道教室4回目。2017年最初のお稽古です。

お茶室に入ると、床の間の飾りがまず目に飛び込んできます。

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青竹に挿してある柳は、長く畳へと伸びています。上の方は輪っかに結ばれていました。ひとつずつ、宗慎先生が解説してくださいます。

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「これは結び柳。最近では料理屋などで飾られているのを見かけることが多いのですが、そもそもは御所の飾りから来ています。起源は諸説あるのですが、もともと中国では別れの際、また会えますようにとまじないの意味を込めて柳を結んだものを渡す習慣がありました。詩人の王維(おうい)が友人との別れを詠んだ漢詩にも『客舎青青 柳色新たなり(出立する宿のそばの柳が雨に濡れて青々として)』と柳が詠いこまれています。

柳という木は水辺にあるでしょう。空を目指してどんどん育っていくのに、葉は育つほどまたどんどん下に、水に触れるほど伸びる。空を目指していったものが再び下へと伸びてくるのが、生命の循環、無限のループのように思われたんですね。

床の間に結び柳を飾る時は、花筒のなかに水を入れてしまうとダメなんです。どんどん芽を吹いてしまいます。柳は切ったぐらいでは枯れません。それくらい生命力の強いものだから、あらたまの年をことほぐ時に柱に掛けて、魔除けと繁栄の願いを込めて作られていたんですね。新年の代表的な飾りもののひとつとして、好まれてきました。上からざっと下ろしてあるのは龍に見立ててあるともいいます」

もうひとつ、結び柳の横に掛けられたふさふさとした飾りは、蓬莱飾(ほうらいかざり)または掛蓬莱(かけほうらい)と呼ばれるもの。緑の長いひげのような部分は、ヒカゲノカズラ、という植物だそうです。

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「クリスマスリースの正式な材料ですね。クリスマスが本当は12月24日ではないって知っていますか?聖書にはキリストがお生まれになった日付の記述は、一切ありません。ローマ教皇庁が、後から決めた日付です。

クリスマスの直前に、二十四節気だと何がありますか?冬至ですね。1年で最も日が短い日です。ヨーロッパなど冬が暗く寒い地域は、春を待ちわびる思いが切実です。冬至は、この日を境に日が長くなる、いよいよ春がくるぞと祝う、大事な時期でした。その時に、光り輝く神の子がお生まれになる…と重ね合わせて、効果的な日付を考えたんですね。

ヒカゲノカズラは、名前の通り、日が全く差さないような森の中、ツタカズラのように生え広がって、真冬にも青々と緑の葉を茂らせます。それをたくましい生命の象徴であるかのように、昔の人が思ったんですね。柳と同じです。日本では、古くは御所の柱に、片一方は柳、一方はヒカゲノカズラが飾られたといいます。

こうした飾りには、生命力の強さだけでなく、異なるふたつのものが揃って初めてものごとが整うという考え方も込められているよう思います。異なるふたつ、すなわち「陰・陽」です。例えば掛蓬莱の元になった、正式な御所のかざりは“卯槌(うづち)”と言います。芯には魔除けの桃の木。固い木です。その周囲には柔らかくふわふわとしたヒカゲノカズラ。これは男女、のニュアンスをも含んだ陰陽の表現ではと思わせます。

御所を飾っていたものが、今では家々やお店に飾られている。お上で行われていたことへの憧れが、民間の暮らしにも落ちてゆき、取り入れられるわけです。いつ、なにをどうすればよいのか、こうしたしきたりを故実(こじつ)と言います。宮中で行われるものの場合は有職(ゆうそく)故実、江戸城などの典礼儀式の場合は武家故実と言います。11月の亥の子餅は武家故実と有職故実の両方にまつわるお菓子であったというわけですね。

一見、難しい故実を、暮らしに取り入れ、人へのもてなしに取り込んだりするのが、実に面白い。故実に込められたのは、古(いにしえ)の人たちの祈りにも似た想いです。そうした想いを受け取り、今に生かすことで、質・量のわかりやすい豊かさではなくて、様々なことが楽しくなるんじゃないかなと思います。新年は特にそういうものを意識します」

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床の間には麻苧(あさお・麻糸や麻生地の元となる)を使った「麻熨斗(あさのし)」が飾られていました。ご進物につける熨斗紙には簡略化されたアワビ熨斗があしらわれていますが、こうして三宝に熨斗を飾るというのは、部屋自体に熨斗が掛けてあることを示すそうです。自分が急に、美しく包装された贈りものの箱の中にいるように思えてきます。

「お茶の家だと炭を飾ったりもしますね。自分にとり、家にとり神聖と思われるものに改めて敬意を表する。新年に大切なことです。こういうものは気持ちの表れなので、他所と違っていてもいいんです。うちはこう、こちらはこういう理由でこの形なのだろうな、と思いを汲むことが大事。なんでもありなんです。でもなぜそうしたのかという理由やルーツをたずねるところが、面白いんです」

◇花びら餅に思う

「では、このあたりでお茶とお菓子を出しましょう。新年なのでお濃茶を差し上げようと思います」

オコイチャ、という耳慣れない言葉にこの先の展開をワクワクと見守るうち、本日のお菓子が運ばれてきました。新年最初のお茶会・初釜(はつがま)でいただく「花びら餅」。決まりごとで、独楽盆(こまぼん)という上から見ると独楽のように見えるかわいらしいお盆に盛られています。

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白い半月型のお餅の内に、うっすらと赤い色が透けて見えます。両側から出て見えるのは、ゴボウ?

いただきます、と菓子器を両手で持ち上げてから、懐紙を正面においてお菓子を取ります。こちらは餅菓子なので、楊枝で切らずに手でいただいて良いそうです。パクリといただくと、柔らかいお餅の中に、やはりゴボウの食感。少しの塩気と白味噌の餡の甘みと、くるくると口の中の変化を楽しみながら、あっという間に平らげてしまいました。

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「元は宮中で三が日の間に召し上がる『御菱葩(おんひしはなびら)』というお菓子が起源です。民間でいうお雑煮の、原型のひとつになっています。御所のお鏡餅は、白いまん丸のお餅を数枚重ねた上に、あずきで赤く染めた菱形のお餅を3つ、六角形に組み合わせて乗せるんです。ちょうど亀甲の形ですね。丸と角(亀甲)、かつ紅白です」

飾ってある餅は食べられないので、同じ思いで食べられるよう作り上げたのが、丸く白いお餅に菱形の赤く染めたお餅を入れた「御菱葩」。白い丸餅が天皇、赤い菱餅が皇后でしょうか。ここにも“陰・陽”です。あずきの赤色には魔除けの力があると信じられていたそうです。それにしてもなぜ、ゴボウが…?

「本来挟んであるのはゴボウではなく、押し鮎という発酵食品の鮎でした。その理由は諸説あってわからないのですが、神代の時代、神武天皇が日本の国を平らげる時に、鮎に道筋を教わったという話もあります。動物と植物とを合わせる、と見ることもできます。色々な陰陽を重層的に組み合わせてあるんですね。ところが、押し鮎は食べづらく美味しくない。そこで色が似ているという理由で、冬場に取れる京野菜の堀川牛蒡に変わりました。これも、固いものと柔らかいものの組み合わせです。夫婦和合、陰陽の和合を説く食べ物であったわけです。ときに古くからの宮中の行事はとてもプリミティブです」

本来宮中の流れを汲む行事食が今の花びら餅になったのは、江戸時代の末期に裏千家11代目・玄々斎(げんげんさい)が宮中から拝領してきて、許可をもらって茶席用のお菓子にアレンジしたのがきっかけだそうです。

「茶席や民間に伝え残され、変容した故実は、それぞれ『いい加減が、良い加減』。元を辿ると結局どれだったんですかというくらい、いろんな理由にたどり着きます。時々の暮らしのなかに取り混ぜながら、今、叶う姿にする。だからと言って、簡単に、当たり前のように、おざなりに済ませてしまうとつまらないものです。

例えばなぜお雑煮を新年に食べるのか。年始を祝うという時に、その意味などわからずに過ごしているのは、実はすばらしいことです。ごちゃごちゃ説明などいらない。これは本当につよい。でもその上で、なぜこんなことをするのか、おじいちゃん、おばあちゃん、父母が何気なくやっていたことを、また自分が引き継いでやっていく中で、どこかで立ち止まってちゃんと考えることが、より深くする、と思うんですよね。

花びら餅を食べる時にいつも思います。食べて美味しいわ、だけでは面白くないんですよ。自分なりに考えるのが、本当の豊かさをもたらすと思います」

宮中のお鏡餅から行事食へ、そして初釜の花びら餅へ。食べて美味しいわ、で済ませてしまいそうだった味や食感、いろかたちを、もう一度思い返します。その意味と共に改めて花びら餅をお腹におさめたところで、生まれて初めていただくお濃茶のお点前が始まりました。

◇お濃茶の作法

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普段のお茶席でいただくのは薄茶(うすちゃ)。対して濃茶は、その名の通り湯量に対してお抹茶の量が多く、色も味も濃い。薄茶は点てると言うのに対して、濃茶は練る、と言うそうです。ひとつのお茶碗で数人が回し飲みします。

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お茶碗が回ってきたら、袱紗を添えて、左手のひらにしっかりと乗せます。お椀を少し持ち上げて感謝を捧げたら、お椀を回して、ずずずずず、と音を立てていただく。ワインのテイスティングと同じで、空気と一緒に口に含むと香りがたつので、わざと音を立ててすすって、鼻から抜ける香りを味わうのだそうです。

「利休の師・武野紹鴎(たけの・じょうおう)は『一口ひとくち、噛むように飲むべし』と言ったそうです」

三口半、四口ほどいただいたら、畳に置いて口をつけたところを拭い、次の人に手渡します。

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「お濃茶の作法、わからない、と怖がらなくて大丈夫です。とにかく三口半飲んで、飲んだところを拭いて、ぬるくなる前に回す。その上で、いただきますのお辞儀とどうぞのお辞儀が互いに揃えばかっこいいですね」

美味しいものを、しっかり味わいつつ冷めないうちにとなりの人へ。ひとつの茶碗で同じお濃茶を次々といただいていくと、不思議な連帯の気持ちが芽生えてきます。

◇お茶碗を拝見

お点前を頂戴したお茶碗を、改めて見せていただきました。

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「これは御本(ごほん)茶碗。日本から注文して、朝鮮の窯で焼かせたお椀です。なかでもこれは徳川家光の命で小堀遠州が考案した茶碗です。立鶴(たちづる)と言って、鶴の絵は家光が描いたものをハンコにして、朝鮮に送って焼かせたと言われています。高台も見てみてください。面白い形をしていますからね。拝見の仕方は、しっかり両手で持つこと、そしてゆっくりと見ることです」

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「高台を3つに割った上で、1箇所削ってあります。真ん中に一筋釉薬がかかっているのも、立鶴茶碗に関してはみな大体同じです。わざとそうしてあるのですね。茶碗はお尻、高台が大事なんですよ。理由は簡単です。お茶を飲み終わって、最後に見るのが高台なんです。ここで茶碗の印象が終わるんですよ」

もうひとつ、淡路島に伝わる珉平焼(みんぺいやき)のお椀を見せていただきました。大きく描かれた伊勢海老に、新年の特別な空気を改めて味わったところで、今日の稽古もそろそろおしまいの時間です。

伊勢海老のヒゲがお椀の内側にまで伸びている。
伊勢海老のヒゲがお椀の内側にまで伸びている。

「今宵はこれくらいにいたしましょう。今日は初釜らしくお濃茶としつらえの話をしました。

しきたりや故実は我々の先祖の、祈りにも似た思いが込められているものです。ややこしい、めんどくさいルールだと思うのではなく、興味を持ったなら、これはいける、面白い、と思えるものを取り入れてみる。全部やらなくていいんです。それと、一見何気なく見える人の振る舞いを、けっして何も考えずにやっているのではない、とどこかで謙虚に思っていないとつまらない、ということです。

改めて、今年もよろしくお願いします」

全員で深々と礼をして、新年最初のお稽古が幕を閉じました。

◇本日のおさらい

一、何気ない年中行事の意味を、時々立ち止まって考えてみること

一、何気なく見える人の振る舞いを「何気なく」に留めず、謙虚な姿勢で受け止めること


文:尾島可奈子
写真:井上麻那巳
衣装協力:大塚呉服店

三十の手習い「茶道編」三、真剣って何ですか?

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
着物の着方も、お抹茶のいただき方も、知っておきたいと思いつつ、中々機会が無い。過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、半年後にはすっかり忘れてしまっていたり。そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。第一弾は茶道編です。30歳にして初めて知る、改めて知る日本文化の面白さを、習いたての感動そのままにお届けします。

◇真剣って何ですか?

12月某日。
今日も神楽坂のとあるお茶室に、日没を過ぎて続々と人が集まります。木村宗慎先生による茶道教室3回目。「ゆきごろも」というお干菓子をいただきながら、まずは前回までのおさらいから始まります。

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「お辞儀のお話をしましたね。『お辞儀には心がこもっているのが大事だ』と言いますが、気持ちがあればそれが必ず伝わるというのは、嘘です。やはり、適切な言葉の使い方や必要とされるスキルはある、ということをお伝えしたかったんですね。

劇的にお辞儀をきれいにしようと思ったら、いちばん深く下げたところで1拍止めることです。その技術が備わると、わずか2秒の間に『ありがとうございました』とか『お気をつけて』とか、そういう思いを乗せていくことができる。言葉にならない雰囲気をそこに漂わせることになるんです。

もうひとつは扇子をお見せして、身の回りのちょっとした道具ひとつを選ぶ、考えるということからいろいろと変わってくる、ということをお伝えしたかった。ひいてはそれがお茶でもっとも大事なことにつながっていくのですね。

今日は、ものを扱うことに、真剣味が大事、という話をします。真剣ってなんですか?」

「真摯に、ものごとに取り組む…」

教室内からの応答に、宗慎先生が重ねて問います。

「もっと具体的に。真剣ってなんですか?」

具体的にとなると、つまり…

「切れる刀ですね。迂闊に扱うと手が切れる刀です。茶道具の世界では昔からいい道具を褒める時『手の切れそうな』という褒め方をするんです。あだや疎かに扱うと手が切れてしまいそうなぐらい出来のいい、繊細なものがこれほど長い時間残されているというのが、こわいと思うこと。畏れ敬うという言葉は、『畏れ』と『敬う』というふたつセットになっているのが素晴らしいと思います。ものを敬うということは、いい意味での畏れがないとダメなんです。道具を扱うときに、真剣味を帯びるということは」

と手に取られたのは、柄杓。

「柄杓を『構える』、と言います。柄杓を構えるときに、『刀を持つようにこれを扱え』と言うんです。というわけで、今日は」

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宗慎先生が後ろから取り出されたものに、教室がどよめきました。畳の上に置かれたのは、数種類の日本刀。

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「お茶の稽古で刀を繰り出すとは思っていなかったでしょう。僕はお茶を習う前から刀が好きで、子供の頃から触れていたんです。柄杓を『刀を持つように』と言っても、全然みんなそのように持ちません。それをどうして、と思ったときに『そうか、この人たちは人生の中で刀を持った記憶がないから、刀を持つようにと言われても意味がわからないんだ』と、はと気がついて。それで本物の刀を手に取らせるしかないと思ったわけです」

思ってもみない展開に一同驚きながら、初めて間近に見る刀ひとつひとつの解説に、耳を傾けます。

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「これは江戸時代の初期のものです。葵の御紋が入れてあるでしょう。越前守康継(やすつぐ)、徳川家の御用達の刀鍛冶として認められた刀鍛冶が作った刀です」

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刀を納める鞘には付属の小道具が付いています。この突起のついた道具はなんと、耳かき。取り出すと、反対側は髪をなでつけるための「こうがい」になっています。

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カンザシ(笄)と書いて「こうがい」と読むそうです。花魁の頭をきらびやかに飾っているのも笄です。あれはもともと、耳かきだったのですね。

「先ほどの刀は江戸城に行くときに持っていく刀なので非常にユニフォーム化されています。一方これは『三斎拵(さんさいごしらえ)』と言って、利休に師事した茶人であり武将の細川三斎(細川忠興)好みの小刀。桐の家紋がついています。桃山の武将たちが、自分たちの好みでこしらえていたものなのでよりおしゃれですね」

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「これは今でいうコラボ商品なんです。メインの刀鍛冶に対して、横にいる人がお手伝いの槌を振るう。『相槌を打つ』と言うでしょう。その語源になったものです。合作の刀は完成してから、先輩の名を表に、自分の名前を裏に切ります。刃を左に向けた時が表なので、そこに名前がある人が主槌(おもづち)を打って、刃を裏にした時に書いてある名前の人が相槌を打ったんです」

次第に湧いてくる好奇心でお茶室内が明るい空気になります。すると一振りの刀を、宗慎先生が手に取りました。

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お茶室がシン、となります。

「抜き払うだけで空気が変わるでしょう。どんなに美しくとも人殺しの道具ですから。時代劇みたいに大げさに振りかぶる必要はなくて、首筋に刃がすっと当たったら決着がつきます。勝負はだいたい一瞬です。本来は距離感と、どこに当てて致命傷を与えるかということが肝心なんです。指一本でいいんですよ。利き腕の指一本に傷を入れるだけで、刀を持てなくなりますからね。籠手という技はそこからきています。刃が当たった瞬間に血が出る、その切っ先をどこに当てるのか、という話を聞くと、真剣味を帯びるでしょう」

そうして、一人一人、刀を自分で手に取り、見させていただくことに。

「研いであるところから先は絶対に触ってはいけません。一歩間違えたら大怪我しますから、怖くてもちゃんと持つこと。見る時には刃を下にしてもいけません。わずかなことで欠けます。硬そうに見えて繊細なんです。持ったらしゃべらない。ゆっくり、明かりを刃に落としながら動かして、本物の鉄の色を、鉄の泡の吹いているのを見てください。本物特有の、重さを感じてください」

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息をするのを忘れるほどの緊張感の中で、全員が真剣を手に取り終えました。

「このように柄杓を持ったらかっこいいんです。でも持ったことのない人にはわからないんです。竹の棒やと思うからグラグラ持つんです」

お稽古の始まりに聞いた時よりも何十倍もの重みを持って、宗慎先生の言葉が染み込んでいきます。

「日本刀の美しさとは何かということを、手にとって考えて腹におさめている人が選ぶものは、ちょっと変わってくる場合があると思います。茶道具や、美術工芸のきれいなものだけを見ていたらわからない、日本美術のひとつの頂点というのは刀だと思うんです。しかし刀は、人殺しの道具です。実用のためにこそ作られています。よく切れて、かつ錆びにくく、振りやすいよう華奢なのに簡単に折れない、曲がらない。どれだけ鋭利に人の生身の体を切れるかだけを考えて作ってきたのに、世界で比類なき美しい刀剣を作り上げた。これは世界中の人がみんな等しく認めているところです。柔らかで甘やかで、優しい道具だけを触っていたのでは決してわからない、ものごとの本質はあるのです、これに。

ぜひ、この刀の重さ、固さ、怖さ、なんとも言えない質感というのを、覚えておいてください。『手の切れそうな』というものの褒め言葉を思い返して、道具を大事に扱う、ものを大切に扱うこと。茶碗を持っていても棗(なつめ)を持っていても何を持っていても、刀を持っているつもりで扱えば、おのずから動作はキレイになりますし、念の入った美しい所作になるはずです。刀ならば切れる、ものなら壊れる。仕事で扱われるもの、人の手元に届くもの、包装紙、麻の布切れ一枚が、これは刀だ、あだや疎かに扱ったら手が切れる、自分が扱うことで壊すかもしれぬという思いでものを扱っていられるかどうかが、ことの成否を分けるのではないか、というお話です」

◇花の性分

今回から参加者が毎回一人、お稽古の始まる前にお茶室に花を活けることになっています。活けられた花に、宗慎先生から講評をいただきます。

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「花を活ける時に大事なのは、花材それぞれが持っている性(しょう)をちゃんと生かしてやることです。右に向いて咲いている花がかっこいいからといって左に曲げることは絶対にできないんです。今日の花の場合は、お化けの手が伸びているみたいになっているのがこの花の風情なので、それを生かしてやったほうがいい。わさーっとなっている花はわさーっとなっているのがポジティブなところなんです。だからそのように使ってあげるんです。その上で、花を前に前に活ける。何本入れても一本になっているように見えないとあかんのです。これだと4本入っているように見えていますね」

アドバイスを元に、活け直します。

「霧吹きを打つ前に、水を口いっぱいまであふれんばかりに注ぐ。これで、もうこれ以上花を足しません、という合図です」

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花材はそのままにガラリと表情が変わって、完成です。

◇お菓子をいただく、という所作ひとつ

最後にもう一服、生菓子をいただきながらお茶をいただきます。

「あわゆき」という生菓子。はじめに頂いた「ゆきごろも」はこちらに衣を着せたものだそうです。
「あわゆき」という生菓子。はじめに頂いた「ゆきごろも」はこちらに衣を着せたものだそうです。
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菓子器からお菓子をいただこうとしたところで、宗慎先生から声がかかりました。

「なぜ左から取るの」

器の中に並んだお菓子を、私は何気なく左側から取っていました。ところがそれでは、お箸が触れて右のお菓子を傷つけてしまう恐れがある。

「次の人がとるお菓子の姿を乱さないようにすることも大事なんです」

お菓子ひとつ、大切に扱う。先ほどの刀の話にも通じるところです。もう一度、お菓子を載せる懐紙を取り出すところから、やり直します。すると次なる問題が。出した懐紙が薄い。

お茶席でお菓子を頂く時は、懐紙は一帖、分厚いままで使用します。私は前回のお稽古で枚数の減った懐紙をそのまま持ってきていました。その薄いことに、言われるまで気づかなかったのです。見かねた宗慎先生が新しい懐紙を一帖、与えてくれました。

「扇を選ぶという話の延長線上に、懐紙一帖ちゃんときっちり持ってくるという話はありますよ。都度都度薄いまま持ってこない」

お菓子を器からひとつ取って頂く。文に書けばたった一行の所作すら、そこに向かう意識が欠ければうまく行かない。穴があったら入りたい、と顔が真っ赤になるのを感じながら、2016年最後のお稽古が終わろうとしています。

「『手が切れそうな』という言葉を覚えておいてくださいね。何の道具を持つときにも、軽い麻の布一枚持つときにこそあの刀を思い出して。名刺を、包装紙を、のし紙を持つときこそ。

お疲れ様でした。
あくる年もよろしくお願いします。良いお年を」

数え切れない反省と学びを胸にしまって、お茶室を後にしました。

◇本日のおさらい

一、仕事で扱うもの、人の手元に届くもの。どんな道具も「刀を持つように」扱う

一、花は花の性を生かして活ける


文:尾島可奈子
写真:井上麻那巳
衣装協力:大塚呉服店

三十の手習い「茶道編」二、いい加減が良い加減。

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
着物の着方も、お抹茶のいただき方も、知っておきたいと思いつつ、中々機会が無い。過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、半年後にはすっかり忘れてしまっていたり。そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。第一弾は茶道編です。30歳にして初めて知る、改めて知る日本文化の面白さを、習いたての感動そのままにお届けします。

◇茶壺に追われる茶人の正月

11月某日。
今日も神楽坂のとあるお茶室に、日没を過ぎて続々と人が集まります。木村宗慎さんによる茶道教室2回目。前回のお稽古では「錦秋紅葉の11月」と教わったところ。大塚呉服店森村さんのご厚意で紅葉柄の帯を締めて今日のお稽古に臨みます。

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「11月は茶人の正月といってお茶の世界にはとても大事な季節です。炉を開けて冬の、囲炉裏の設えにする『炉開(ろびらき)』と、八十八夜の頃に摘んで半年ほど熟成させた新茶を、茶壺の封印を切っていただく『口切(くちきり)』という行事が行われます。炉開と茶壺の封印を切る口切とは元々別なのですが、一緒になっています。そこに、茶壺が置いてありますね」

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「『ずいずいずっころばし』という童歌があるでしょう。あれは宇治で取れた新茶を信楽焼の茶壺に詰め直して、新緑の間に久能山の氷室に運んで半年熟成させて霜月の声を聞くようになってから、行列を組んで江戸に下ったという話なんです。
行列に道を開ける庶民は、籠の中にいるのが本当に偉いお大名だったら大人しくしています。けれど茶壺一つにさえ平伏させられるのはごめんだからとみんな家に逃げて、戸をピシャッと閉めるのが、『茶壺に追われてとっ(戸)ぴんしゃん』と歌われているのですよ」

へぇ〜、と感嘆の声が室内に広がります。子供の頃に遊んでいた歌が、お茶と繋がっていたなんて。

「炉開の時にいただくお菓子に、亥の子餅(いのこもち)があります。お玄猪(げんちょ)って聞いたことはありますか?お玄猪の節句と言って猪にちなんだ祝儀事です。稲作農耕の日本では、お米が取れることはとても大事なことで、11月の亥の日に、初めてできたお米で小さな碁石大のお餅を作って、それをみんなにふるまうんです。猪って子沢山で生まれた子供が死なないところから、家の繁栄に繋がるといってお玄猪の節句が生まれています。それが炉開と日が近いので、行事が混ざっているんですね。特に猪は愛宕さん、火の神様の使いやというので、囲炉裏を開けたおり、火伏せの願いも込めて、亥の子餅を喜んでご祝儀にいただくようになりました。

織部の器に入った亥の子餅。炉開には織部・因部(いんべ=備前焼)・瓢(ふくべ=ひょうたん)の「三部(さんべ)」を取り合わせるそう。
織部の器に入った亥の子餅。炉開には織部・因部(いんべ=備前焼)・瓢(ふくべ=ひょうたん)の「三部(さんべ)」を取り合わせるそう。

このようにお茶の文化というのは、年中行事と深い縁があるものです。中国から来た行事もあれば、日本にもともとあったものもあって、適当にリミックスしてある。いいかげんが良い加減。厳密にやることではなく、うまく取り込んで、もてなしの中にヒントとして入れていくというのが楽しみ方です。さあ、では一つ目のお菓子、亥の子餅をどうぞ召し上がれ。せっかくだからお菓子を出すところも実践してみましょう」

なんと突然のご指名で、お菓子を運ぶ役目を拝命。宗慎さんに都度都度ガイドいただきながら、ようようお客さんの前に菓器を運んで、お辞儀をします。

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ふわ、と頭を上げたところで、宗慎さんの指導が。

「お客さんよりホスト側が頭を上げるのが早い。はい、もう一回」

もう一度、相手の気配に集中しながらほんのすこしだけ、ゆっくり頭を上げる。今度はなんとかうまくいきました。しかしまだまだぎこちない。

◇お箸の持ち方にも、ひと手間の贅沢

お稽古は加速していきます。続いてお菓子の取り回し方にも理想の姿があることを、実際にやりながら教わります。

「お箸の持ち方一つでも、ひと手間の贅沢をすることです。左手を器に添えながら、右手でお箸を上から持つ。今度は左手で下から受けるように持ちながら、右手で持ち変える。1回でできることは、2回かけてやるのです。人前で食事をするときには、ひと手間を加えることが動作をキレイに見せるコツです。これで1日3回は、所作を美しく見せる練習ができるんですよ」

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これは何も、美しく見せるためだけではないようです。着物も、畳ですら、何かあってもたいていは復元することができる。けれど、器は元には戻せない。お菓子を取るときにまず器に手を添えるのは、器を何より大事にする、その気構えがあってのことですよ、と教わりました。道具や人に巡らせる気持ちがあってこそ、美しい所作は生まれるのですね。

「お菓子をとったら、懐紙の端でお箸を拭きます。懐紙は分厚いまま、わさ(折山)を膝に向けて置いておく。懐紙の端を1枚取って、お箸の端をちょっと拭きます。これはしっかり拭かなくても良いのです。『できるならキレイにして差し上げたいと思っています』という気持ちの現れです」

ここにも、相手に思いを致す、そんなお茶の精神がさりげなく息づいていました。

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お辞儀をする、お菓子をいただく、簡単なようで、何も考えずには美しくおさまらない。数々の所作を積み重ねていただく亥の子餅は、しっかり甘く、気を張っている体にじんわり染み渡ります。そこに宗慎さんが炉開の解説を続けてくださいました。

「本当はお茶の正月なので、正式にはお雑煮を出すのです。さらに、茶壺を届けに来るお茶屋さんが届けてくれる季節の干し柿と栗を使って、そのお菓子をお茶席でお出しするというのが元々のルールでした。でもそこまでやっていると大層だからどうしたかというと、全部一緒くたに混ぜ合わせたニュアンスで、おぜんざいにしたのですね。蓋つきで温かい、さらにお餅が入っているというのが、日本人にとってはごちそうなんです。お茶のお稽古場で炉開の時によくお出しするのはおぜんざいか、亥の子餅です。

かたくならない程度に、しきたりを生活やもてなしの中に取り込む。お茶の世界はそういうヒントに満ちています。今月はそういうお取り合わせというもの、お茶では年中行事を組みあわあせて色々なことをするんだということをお伝えしたいと思います。この時期だけのお茶菓子もありますから、後で召し上がっていただけたらなと思います」

今日のテーマと次なるお菓子への期待を胸に刻んだところで、次は前回習った「礼」をさらに深く学ぶお稽古。先ほどうまくいかなかったお辞儀への残念もあり、気合が入ります。

◇真・行・草はフォーマル・ユージュアル・カジュアル

「お辞儀には3つの型があります。一番深々と頭をさげるのが真、会釈をする程度が草、草に少し丁重さが加わるのが行です。真・行・草。順にフォーマル・ユージュアル・カジュアルです。面白いのは、真が生まれた後は、行じゃなく草が生まれるんですね。御殿に住む天下人がわざと侘び数寄の草庵を作ったように、ハイエンドが生まれると、カジュアルが出てきます。
行は少し体が起きて、揃えた手が畳にしっかり付いていて、手のひらは浮いた格好です。横の人とおしゃべりができるのが行。目の前に食器があったりして、ちゃんとお辞儀はしたいのだけど諸般の事情で浅くなっています、というのが草です。指先をそっと置く程度。相手が深々としている時にこちらが草で受ける時もあります。いずれにしても心根が軽いわけではないのです」

さぁ、実践の時間です。

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「どの型であっても、相手を大事にするということが大事です。相手が頭を下げている間は、ちゃんと自分も下げておこうということです。髪の毛一本と言うんですけど、客商売の場合は、目上目下が、必ずあります。キレイ事でなく、立場の違いはあるわけです。それを健全に意識して、髪の毛一本頭を上げるのを遅らせる。ほんのちょっと遅れる気配を出すわけです」

先ほどのやり直しが思い出されます。髪の毛一本。うまくいった2回目の時には、自分の動きどうこうよりも、相手の動きに集中していた気がします。

「この3つはお辞儀に限りませんよ。筆文字だと、楷書、行書、草書。道具選びもそうです。物事をやるときに、この3つの型は有効です。服のおしゃれ、着物の取り合わせ、なんでも言える事ではないかなと思います。自分が何かを行動するときに、物事の格を考えるということです。
挨拶は全ての基本です。キレイにお辞儀をすることで、その場の空気が変わります。空気を変えられたら、あとは自由自在ですから。そこから真に振るのか、草に砕けさせるのか。そういう融通の加減を、自分の中で支配する。自分でちゃんと構えを変えられるようになりましょう、ということです」

◇生け花に込める一期一会

「これは吹寄(ふきよせ)。年間通して最もフォトジェニックなお菓子です。農具に見立てた器に入れています。これが実物の道具をそのまま持ってきては、キレイにならないんですね。普段のお仕事もそうなんでしょうけれど、そのままで安住せずに、物事のボジティブなところを抜き出して、人に楽しんでもらえるところまでどう持っていくのかが編集です」

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お菓子の運び方、取り回し方、お茶を点てる実践もかわるがわる行って、この時期の特別なお菓子「吹寄」をいただいたら、いよいよお稽古も終盤。代表で一人、花を活けることになりました。今日はとにかく実践あるのみ、です。

「誰かが花を活けているのを見るでしょう、そうすると今度から、花を見るようになるんです」

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花を活ける際の宗慎さんからのオーダーは一つ。「自分に向けて正面から活ける」ということでした。

「正面があるというのが和花の特徴です。西洋の街ってどの門から入っても、教会のある真ん中の広場に行き着きますね。洋花は360度どこから見ても同じように美しく見せます。対して和花は、山道を辿っていくような見方をしないといけません。それは違う姿で美しく見えるということ。横や後ろから見ても美しいけれど、それは正面であり横であり後ろだということです」

お花を活け終えると、仕上げに少しの水を吹きかけます。

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「花は花を見るのではなくて、最後に打ってある露を見るんです。朝露のおりた清々しいものを活けていますよというメッセージです。それが、お茶会が終わって帰るころには乾いている。一期一会の象徴でもあります。

ーでは、今宵はこれくらいにいたしましょう」

お辞儀の真・行・草も、お箸の取り方も、生け花の露も。言葉の外でホストとゲストの間を行き来する一つのメッセージの形。今日も目に見えるものの意味が一段と濃くなって、お茶室を後にしました。

◇本日のおさらい

一、年中行事や古いしきたりを、良い加減で暮らしやおもてなしのヒントに活かす

一、お辞儀の3つの型を使い分けるように、物事にあたる時は、その格を意識する

一、ひと手間の贅沢が、美しい所作への近道


文:尾島可奈子
写真:井上麻那巳

三十の手習い「茶道編」一、今日から変わる、きれいなお辞儀の仕方

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。

着物の着方も、お茶の作法も、知っておきたいと思いつつ、過去に1、2度行った体験教室で習ったことは、すっかり忘却の彼方。そんなひ弱な志を改めるべく、様々な習い事の体験を綴る記事、題して「三十の手習い」を企画しました。第1弾は茶道編。30歳にして初めて知る、改めて知る日本文化の面白さを、習いたての感動そのままにお届けします。今回は初日のお稽古レポート、その後編です。

前編はこちら

◇今日から変わる、きれいなお辞儀の仕方

今日は好きなように飲んでみてください、とお茶を一服いただき、一同少しくつろいだところで、「礼」の稽古が始まりました。

「礼の始まりは、きれいに座ること、きれいに立つことです。

立礼でも座礼でもルールは全部一緒です。背筋を伸ばしてきちんとお辞儀をする。その、頭がボトムラインに達した時に、一拍止めるときれいなお辞儀になります。

この時、互いの頭を上げ下げするタイミングが揃っている方が気持ちいい。揃えたかったら、お辞儀をする前に相手の顔を一瞬パッとみることです。そうすれば、必ず揃います」

では、やってみましょう、とまず座礼の基本姿勢から習います。

「男性は正座したら、膝と膝の間に拳二つ分くらい空ける。女性は一つ分。丹田に力を入れて、顎を引いて、1度大きく息を吸って、静かに長く吐いてください。

気息(きそく)を整えて、ことにあたる、ということが大事なんですね。

大きな木を抱えるように体の前で手で丸を作って、そのまますっとおろしてきます。
手の甲を上に向けて、太ももの上に乗せる。
何をするにもこの動作からやっていきます」

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「この状態で、礼。
たとえ深々としていなくても、背筋が伸びていて、ほどよい角度で一旦止めることが大切です」

次は、席を立つ時の所作。

「立ち上がる時はつま先立ちをして、かかとの上にお尻を載せる。その時背筋がまっすぐに伸びていること。

これができない時は、足がいうことを聞いていない時なので、絶対に立ってはダメです。逆にどんなにビリビリきていても、この姿勢になれるなら、足がいうことを聞いているので大丈夫。この状態で膝をすっと浮かせて、立ち上がります」

本当に、このやり方だと着物でも無理なく立ち上がれます。

「背筋は自分が思っているほどまっすぐに伸びていません。背中が弓なりになっているくらいのつもりで立ってみて、肩をグッと後ろに落として下げる。これでやっとまっすぐです」

一通り実践してみた後で宗慎さんの語られた言葉が、とても力強く、心に刻まれました。

「手に入れた知識、教養こそ財産です。これは他人が絶対に奪うことのできないものです。

1回聞いて知った話は、なかったことにはできない。後天的に訓練してきれいになるとわかったら、相手のお辞儀をチェックする人生が始まるんです。

だから、勉強しておかないと駄目なんです。口に出さないだけで、自分は知らないけれど相手が知っていることがたくさんあると思ったら、恐ろしいですよ」

これからはお辞儀はきれいでないといけない、というファクターの加わった人生になるんです、とニッコリ語られる宗慎さんの言葉に、座にはさぁどうしよう、という笑いが起こりました。

◇ものを選ぶこと、選ばれるものを作ること

「お茶って一つには、物を選ぶということだと思うんです」

話題は礼から、道具のお話へ。

「たいそうなものを選ぶのではなく、身の回りにある小さなものを、おざなりにせずに選んでいく、その作業が大事です。作り手にすれば、選んでもらえるものを作ろう、ということですね」

そうして、大切にされている扇子と黒文字楊枝を見せていただきました。

広げた姿に、すでに緊張感があるでしょう、と開いてくださった扇子は、艶やかな漆塗りの親骨に純銀の要。数年寝かせてから貼られたという和紙の扇面は、閉じるとパチンと小気味良い音がします。

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一般的なものより長さのある黒文字楊枝は、なんと象牙製。ずっしりと重みがあります。

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「これからものの美しさを習うというのに、初心者だからとお店の人が安いものを勧めるのは間違いです。自分のお小遣いで買える最高のものを買おうという気構えが、買う側も売る側も大事なんです」

◇気がある人になる

2服目をいただいて、そろそろお稽古も終盤。稽古中に繰り返し宗慎さんが語られたのが、「気がある」という言葉でした。

「世の中で一番大事なのは、気があることです。
気を持って『こういうものをわかるようになりたいな』と我勝ちに、自分の方から間合いを縮めようとさえ思えば、あっという間に縮まりますよ。

練習とは言わないということも大事なところです。練習でなく、稽古です。

古事記の冒頭に、なんでこういう歴史書を作るのか、が語られます。そこに出てくる言葉が、「稽古照今」。稽古の稽という字は、考えるとか、思い致すという意味です。つまり、古を考えて今を照らすということ。

人間のやることに大差はないのだ、だから、かつての人々のやってきた事に思いを致し、今の我々がやっていこうとしていることを照らす、ということです。

ですから、練習という言葉よりも稽古という言葉の方が僕は好きです」

言葉のひとつひとつにも、気を持って。

「大層だと思っていたことは実際そうでもなくて、逆に、そうでもないと思っていたことが、大したことだったと気づくことの方が多いんです。扇の1本、茶巾の1枚を選ぶことが、いかに難しいか。それに気づくことが大切です。

自分が正しいと思っていたら永遠に変わらないですよ。気がある人になっていきましょうということです。

―では、今宵はこれくらいにいたしましょう」

習いたての礼で第1回目のお稽古が終了。ゆっくりと上げた頭に、きれいに立つ、座るということを、やっておいてください、と宗慎さんの言葉が染み込んでいきました。

◇本日のおさらい

一、何事にも気息を整えてことにあたる

一、礼は頭を上げる前に一拍止める。相手と呼吸を合わせて

一、身の回りの道具一つひとつ、おざなりにせず自分で選んで大事にする

前編はこちら


文:尾島可奈子
写真:庄司賢吾
衣装・着付協力:大塚呉服店