わたしの一皿 なまこの気持ちでのんびりと

拙著「中国手仕事紀行」が発売から一ヶ月。お陰様で、昨今の事情はさておき好評です。多くの方に読んでもらいたい。

しばらく中国はお預けだな、と思っていたけど国内の移動も色々と気を遣うようになってきましたね、みんげい おくむらの奥村です。

我が家の近くの市場では今が旬の、ある貝がよく見られます。それは北海道からやってくるホッキ貝。げんこつ大のおいしい貝。

旬はこの冬場だけれども、一年を通してみられるもので、一大産地の北海道苫小牧で年に一度か二度これを食べるのを楽しみにしています。アイヌの木工を見に行く時に、この貝を食べるため苫小牧を通る、というお決まりルートがあるのです。

ホッキ貝

苫小牧ではホッキを使ったカレーを出すお店が多く、市場の有名な食堂は行列ができるほど。

確かに貝の出汁が出るし、身もプリっとして美味しく、絶品のシーフードカレーになるので、ホッキ貝が安い時に試してみてはどうでしょうか。ちなみに今日は刺身ですが、余分に買ったので我が家もホッキカレーを作ったところ。

ホッキ貝を剥いているところ

ホッキ貝は剥き身も売っているのだけれど、断然殻付きで買ってくる方がおいしい。貝剥きで、何個かやってみれば貝を開けるコツはすぐに掴めるし、貝剥きの道具はそこらで売っているので常備しておくといい。

殻付きで買った方がいいのはホッキ貝に限らない。貝全般なので、貝好きの方は貝剥きを常備すべし。これ本当ですからね。

うつわは、島根県松江の湯町窯から

うつわは、島根県の松江にある民藝の窯として有名な湯町窯のものを用意した。青みのある皿は、海鼠釉(なまこゆう)という釉薬が掛かっている。

湯町窯というと、柔らかな黄色を使ったスリップウェアや、目玉焼きをおいしく作れるエッグベーカーが浮かぶ人もいるでしょう。なかなかお詳しいですね。実はこの海鼠釉も窯元定番なのです。

島根県・湯町窯のうつわ

この釉薬は色の出方をコントロールしにくいもので、全面に青が出るものもあれば、今回のようにフチの方にちょこっと、みたいなものもあって、絵画のように選ぶ楽しみがある。

我が家のものは、なんだか波打ち際みたいで、どこか可愛げを感じる。海を感じさせるお皿だから、こんな刺身の時にはよく手に取る一枚。

島根県・湯町窯のうつわ

この釉薬、海鼠釉は藁灰からできている。各地でこの釉薬を使った仕事が見られるのは、身近な天然素材だったからだ。先人たちの知恵と工夫。すばらしいじゃないですか。

そうそう、ホッキ貝といえばあの赤い身。と思うかもしれないが、生は赤くない。茹でると赤くなるのだ。

今回は生きた貝を買ってきたので茹でない。そのまま生で刺身にする。

ホッキ貝をさばいているところ

貝を剥いてヒモや内臓を取り、きれいな身になったものを上からまな板に叩きつけると、キューっと縮む。残酷なようだが、これで貝のコリコリ感がでるのだ。あとは好みのサイズに切るだけ。

ホッキ貝の刺身をうつわに盛り付ける

新鮮な貝の刺身の甘みときたら、たまらないんですよ。それだから殻付きのまま買ってくる。貝剥きの多少の面倒なんて、この味を考えたら苦にならない。

民藝という言葉に出会って、焼き物をみていくと、本当に土地の素材を工夫して使ってきたことがわかる。手に入るもので誰かの暮らしの役に立つ道具を作り、そしてそれをより美しく、と。

今の暮らしの中ですぐに自分の手を使って何かを生み出すことなんてもちろんできないけれど、そんな感覚で作られたものを手にし、何かを感じることができるなら、まだいいじゃないか。とうつわを手にするたびに思う。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文・写真:奥村 忍

シンプル、だけど無個性じゃないもの ──ガラスブランド「TOUMEI」が目指すものづくり

ぽってりと丸い輪郭を帯びながら凜とした佇まいをしていたり、ちょこんとしたサイズなのに物言わせぬ存在感を放っていたり。

飾り気がなく、潔い。それでいて何だかユニークで、可愛らしさも秘めている──ガラスウエアブランド「TOUMEI」の花器やグラスには独特な雰囲気が漂う。

ガラス作家TOUMEI の花器

つくり手は2人のガラス作家

「TOUMEI」を立ち上げたのは福岡県宗像市在住の2人のアーティストだ。

ガラス作家の髙橋漠さんと和田朋子さん
その日は図らずもペアルックに。「恥ずかしいー(笑)」と和田さん

ガラス作家の髙橋漠さんと和田朋子さん。東京にある美術大学を卒業後、髙橋さんは長野で、和田さんは東京においてそれぞれ作品づくりを行ってきたが、

「今後、どこで活動するのかを考えたときに東京や長野っていうのは想像できたんです。こういう感じでやるんだろうな、っていうイメージがついちゃって。なんか嫌だったんですよね。

で。僕の地元の福岡はどうだろう、って考えたときに、まったくイメージがつかなくて。そっちのほうが面白そうだなと思って。

それに‥‥なんていうか‥‥生物として‥‥。たとえば鮭って生まれた場所に戻るじゃないですか(笑)。そんなふうに自分が生まれ育った場所に戻りたいっていうことも漠然と思ったりして‥‥」と髙橋さん。

東京生まれの和田さんにとっては見ず知らずの土地である。髙橋さんから福岡移住について相談されたとき、「意外にも迷うことなく」その提案を受け入れたとか。

こうして2015年。髙橋さんの故郷にガラス工房を立ち上げ、2人の作品づくりが始まることになる。

かつて農機具置き場だった倉庫を改装したガラス工房内
かつて農機具置き場だった倉庫を自分たちで改築し、ガラス工房に

「TOUMEI」について話をする前に、少しだけアーティストとしての活動を紹介したい。

ガラス作家である髙橋漠さん。主に宙吹きという技法(型を使わず、吹き竿に息を吹き込みながら成型する技術)を用いて制作。

あるときは驀進的に作業を進め、またあるときは理論的にゆっくりと見定める。

不可思議だけど、どこか懐かしさを感じる作品たち
不可思議だけど、どこか懐かしさを感じる作品たち

そんなふうにして生まれるさまざまな色や形のガラスたち。それらを組み合わせてつくり出す造形物は、個性的で不可思議。でも、なぜだか少し懐かしさを感じる。そんな髙橋さんの作品は国内外から高い評価を受けている。

一方、和田朋子さんは主にステンドグラスの制作に用いられる技法を得意とするガラス作家だ。

多様な色や形のガラスを用いることはもちろん、ほかにも道端に落ちていた石や木の枝、葉っぱ、ときにはほかの人にとってはゴミのようなものなど、和田さんの琴線に触れた美しいもの、面白いもの、発見した何かを素材にして、自分の感覚や感性を道標にしながら、繊細で立体的な作品を生み出している。

和田さんの作品
「引き出しのなかには細かいパーツがストックしてあって、宝探しをするみたいな感じに作品をつくる」と和田さん

そんな2人が、ガラスウエアブランド「TOUMEI」を立ち上げたのは2016年のこと。そこにはある理由があった。

どうしてブランド服は買うのに、手づくりの器は買わないのか?

「いつも疑問に思っていたんです。若い人ってデザイナーがつくるブランドの洋服は普通に買うのに、どうして手づくりの器は買わないのかな、って。

興味はあるけど、買ってみる勇気がないというか。手づくりの器となるとハードルが高くなる‥‥そういう若者って結構いると思うんですよね」と髙橋さん。

どちらかというと理論的に作品づくりを行う髙橋さん
どちらかというと理論的に作品づくりを行う髙橋さん

大手百貨店で個展をしたときも。ある程度、歳を重ねた大人の来場者は多いのに、同世代の若い人が少ないことも気になった。つまんないと思った。

「僕としてはブランドの服も、手づくりの器も同じロジックで買えると思うんです。でも現実的にそれができていないのは、こちら側の、つくり手のプレゼンテーションの問題だなと」

同世代の若い人にも手づくりの器を届けたい。気兼ねなく、同じ目線で楽しんでもらいたい。和田さんは言う。

直感と感性でものづくりを行うという和田さん
直感と感性でものづくりを行うという和田さん

「好きな洋服を着るとテンションが上がるじゃないですか。手づくりの器もそれと同じで。

好きな花器に花を活けてみると気分がパッと明るくなるし、いつもの食事もお気に入りの食器を使うだけで気持ちが上がるから」

「TOUMEIを通してそういうことを若い人にもきちんと伝えられたらな、と。伝えることさえできればきっと分かってくれると思うので。

無抵抗にというか、自然に、フラットな気持ちで作家の器を手にとってもらえるようにしたいなと思ったんです」(髙橋さん)

正解なんてない。ただ、どんどん良くしていけばいい

そもそも「TOUMEI」という名前の由来は?

「ガラスの魅力っていろいろあると思うんですけど、私たちが一番大事にしているのが“透明”であること。そこからきています。

光を通すことによって独特の質感や色が映し出されたり、水を入れると鮮明になるシルエットや存在感‥‥TOUMEIを通じてガラスという素材の普遍的な美しさや豊かな表情といった魅力を感じてもらえたら」と和田さんは言う。

ガラスならではの美しさに2人の個性と感性が調和したTOUMEIの花器
ガラスならではの美しさに2人の個性と感性が調和したTOUMEIの花器

TOUMEIといえば、何といっても独特な形だろう。

まず髙橋さんがスケッチをする。いくつも、いくつも。1時間ほどかけて思いつくままに、手が動くままに一気に描き続けるという。

いくつものデッサンが並ぶスケッチブック
スケッチブックにはいくつものデッサンが並んでいた

「このとき、いいやつを描く気は全然ないんです。ああしよう、こうしようとかまったく考えないですね。だって、

高橋さんと和田さん

正解なんてないじゃないですか。

こうしなきゃといけないと思うと手が動かなくなったり、どうしようって考えちゃうと思うんですけど、それって正解を出そうとしているからですよね。正解を出さなくていいから100個考えてくださいって言われたらできない人はいないでしょう。

なので、僕の場合は何も考えずになるべくいっぱい描きます。

まあ、ほぼボツになりますけど(笑)。それを翌日とかに見直して、これいいじゃん、面白いかなみたいなのを選んでいきます。

その上で、こうしたらもっと良くなるかな、格好良くなるかなってことをつくる過程で考えて、どんどん良くしていけばいいのかなって。

選ぶのは‥‥シンプルだけど、飽きが来ないっていうか。個性的でやぼったくないものというか‥‥」と髙橋さんの言葉を継いで、和田さん曰く、

「そうね。シンプルだけど‥‥無個性じゃないもの」

そう。

シンプルだけど無個性じゃないもの──それが「TOUMEI」の目指す形である。

「あとはやっぱりガラスのきれいさが出ることを大事にしています。たとえば、花瓶なら水を入れたときに輪郭がきれいに見えるようにとか、光を通したときに美しく反射するようにとか」(髙橋さん)

ちなみにTOUMEIの花器は一つ一つすべてが宙吹き。つまり型は使っていないハンドメイドというから、そこには確かな技術があることが分かる。

自分たちで調合して好きな色のガラスをつくる

きれいな色合いもまたTOUMEIに魅せられる所以の一つだろうと、思う。

色づけられたガラス

ガラスの色づけには2つの方法があるという。

一つは窯中に透明のガラスだけを溶かし、巻き上げたガラスに色の粉をかけるなどして後から色をつけるというやり方。応用が利きやすく、現代的な方法とか。

そしてもう一つは色のついたガラスを溶かすという方法。ガラスの原料に銅や鉄といった鉱物を調合することで発色させるやり方であり、こちらは原始的で非合理的な方法である。

手間暇や再現性を考えたら前者のほうが圧倒的に有益だが、TOUMEIでは後者を選択。髙橋さんは言う。

「前者の色のつけ方のほうがポピュラーで効率的なんですけど、その分、人と似たものになりやすいという短所があって、それは避けたいなと。

色付けに用いる材料

もっと未知なことに挑戦したい、そう思っていたとき、近所に工房をかまえる後藤哲二郎さんというガラスの作家さんと出会ったんです」

後藤さんは福岡特殊硝子株式会社という歴史あるガラス工房の流れを汲む職人で、色ガラスに関する知識や発色の方法、調合の技術などをもっていた。

「その方はもうご高齢で。『俺が辞めたらこれまで培ってきた色ガラスの技術や知識が途絶えてしまう』とおっしゃられて。それなら僕らがやります!と引き継がせていただいたんです」

色ガラスは面白かった。

あとから色をつける方法とはガラスの発色の仕方がまったく異なり、なおかつ自分の好きな色を自由につくることができるからだ。

とはいえ、簡単なことではないという。

「色ガラスの調合って難しいんです。とくにピンクや赤といった暖色系に発色させることがなかなかうまくいかない。でも、いつかTOUMEIにピンクや紫っぽい色を出したいと思って、いまは開発中です」(和田さん)

作品「チムニー(煙突)」
写真は「チムニー(煙突)」

現在はブルーグリーンやアンバー、グレー、ブルー、オリーブ、クリアの6色を展開。

花器にはチムニー(煙突)やコフン(古墳)、クラウド(雲)、ヒル(丘)といった6型があり、ほかにもテーブルウエアや照明なども制作している。

さてと。花器を前に。

ガラス作家TOUMEI の花器

どれにしようか‥‥本気で迷いながらも頭の中には、どんな花を活けようか、どこに置いたら素敵だろう、違う形のものをいくつか置いてみるのもいいな‥‥そんなふうに楽しい空想が広がっていた。

<取材協力>
TOUMEI
福岡県宗像市池浦504-2
0940-72-6169
https://www.toumei-glass.com

文:葛山あかね
写真:藤本幸一郎、TOUMEI提供

知る人ぞ知るプロ用はさみ。全国の美容師が指名買いする「菊井鋏製作所」異色の“京大卒”三代目が目指すはアメリカ進出

知る人ぞ知る、理美容はさみ専門メーカー・菊井鋏製作所

ツイッターのフォロワーが数万人いる人、有名番組に取り上げられた人、都内の超人気美容室のあの人‥‥。名前を挙げれば少なくない人たちが「あ、聞いたことある」と答えるだろう著名な美容師たちが使用しているハサミを作る工房が、和歌山にある。

1953年創業の、菊井鋏製作所。和歌山市内に構える工房で、理美容師が使うプロ用ハサミを専門に作っている。

菊井鋏製作所

ニッチに思えるけれど、全国の理美容室の数は1989年からずっと増え続けていて、2017年には36万8543軒に達した。理美容師の数は、74万4640人。全員が少なくとも1本、多い人は数本のハサミを持っていることを考えると、それほど小さなマーケットではない。

菊井鋏製作所では、一本数万円するハサミを年間5000本生産している。毎年それだけのニーズがあるのだ。

菊井鋏製作所
菊井鋏製作所

2016年から菊井鋏製作所を率いるのが、菊井健一さん。祖父、父親と続いた家業を継いだ三代目は、なんと京都大学工学部出身だ。ほかの仕事に就こうと思えば、引く手あまただったはず。迷いはなかったのだろうか?

「京都ってちょっと歩くと革小物のお店とか竹細工のお店とか、たくさんあるじゃないですか。和歌山では、小さな工房でモノづくりをして、店先で商品を売って、それで飯を食えるという感覚がなかったので、京都に来て、ものづくりって面白いな、ものを作る仕事がしたいなと思ったんですよね」

菊井鋏製作所の三代目、菊井健一さん
菊井鋏製作所の三代目・代表取締役 菊井健一さん

京都大学1年生の冬、実家に帰省した時に父親に「家を継ごうと思うんやけれども」と伝えた。もともと、ものづくりと家業に親しみを持っていたのだろう。

大学卒業後の2010年、菊井鋏製作所に入社。最初は職人たちから製造工程を教わるところから始まった。

世界で初めて開発したハサミ

菊井鋏の最大の強みは、1973年にリリースしたコバルト基合金製のハサミ。健一さんの祖父で、研究熱心だった初代の菊井喜代次さんが、世界で初めて開発したものだ。

それまで、理美容師のハサミはステンレス製しかなかった。しかし、理美容院ではパーマ液や薬剤を頻繁に使うので、ステンレスだと錆びやすい。しかも、ハサミはメンテナンスが難しく、錆びたからといって自分で研いだりすると、使い物にならなくなる。

「ハサミって、切れ味のいい刃が2枚あればいいというものじゃないんです。刃を『拝ませる』というんですけど、2枚の刃が微妙に湾曲しているんですね。

包丁と同じように研いだら、この湾曲がどんどん狂っていってしまって、ますます切れなくなるので、湾曲を維持しながら研がなきゃいけません」

菊井鋏製作所
菊井鋏製作所

ハサミを研ぐのは素人には難しいので、切れ味が落ちたら専門業者にメンテナンスに出す。それが手になじんだ一番のお気に入りだったら、美容師にとっても痛手だし、不安だろう。

そこに目を付けたのが、菊井喜代次さん。もともとドリルなどの工具に使われていたコバルト基合金なら、性質上、絶対に錆びないし、切れ味も長続きする。これを使って理美容師用のハサミを作ろうと、開発を進めたそうだ。

しかし、ステンレスに比べてコバルト基合金は粘りがあるため削りづらく、加工時に折れやすい。かなりの試行錯誤を重ねてようやく完成したのが、「コバルトシリーズ」だった。

菊井鋏製作所

自分が美容師だとして、錆びるハサミと錆びないハサミ、どちらを使うかと問われたら、錆びないほうを選ぶ。同じように考える美容師が多かったのだろう。「コバルトシリーズ」はロングセラーになり、発売から46年経った今でも多くの美容師に選ばれている。

昔ながらの商習慣

健一さんは、ハサミの製造過程を学びながら、扱うのが難しいコバルト製をはじめ、月に何百本ものハサミを作りあげる職人の技術や、完成度の高さに頼もしさを感じた。

象徴的な存在が、工場長の辻内利勝さん。ハサミの肝となる刃の湾曲を作る「タタキ」をひとりで担当しており、この道36年のベテランだ。

工場長の辻内利勝さん
工場長の辻内利勝さん

「コバルトは難しいんですよ。よそのメーカーさんでもなかなかやらんちゅうのは、温度変化にいきなり反応するから。あと叩き所を間違えるとポーンと折れてしまう。だから、加工にかなり熟練の経験値が必要なんです。

上がってきたハサミをぱっと見て、ここ、もうちょっとこないしたらええ品物に変わるなとか、もうちょっとここをポンポンってやっといたら、よう切れるようになるってわかるのは、すべてが経験ですね。本当にもう僕、毎日、1万べん、100万べん叩いてますから」

菊井鋏製作所

工房で日々を過ごすうちに、「うちは、間違いなくいいハサミを作っている」と確信を持った健一さんは、従来の商売のやり方を変えようと考えた。

美容業界は、独特の慣習でビジネスが行われている。菊井鋏製作所で作られたハサミを売るのは、日本全国の美容院に訪問販売をしているハサミ問屋さん。大手は存在せず、無数の業者が全国をカバーしている。

問屋さんは、一軒、一軒、美容院を巡って注文を取ってくる。もちろん、いくつかのメーカーと取り引きしていて、美容師と話をしながら、そのうちのどれかを売る。そこで集めた注文が、毎日、FAX(!)で菊井鋏製作所に届く。

10丁の時もあれば、20丁の時もあるが、すべて同じハサミとは限らない。菊井鋏製作所は、自社ブランドで12種類のハサミを作っているだけでなく、他社から依頼を受けて、他社ブランドのハサミも作っている(OEMという)。そのうちのあれが3丁、これが4丁といった具合で、細かな注文が記されている。

付き合いのある問屋さんは数社あるので、同じような注文が、毎日あちこちから届く。それを集計して、漏れがないようにスケジュールを組むのが菊井鋏製作所の日課だ。

菊井鋏製作所
菊井鋏製作所

ブランディングにチャレンジ。キクイシザースのデビュー

健一さんが懸念していたのは、OEMの割合の多さだった。他社から技術力を見込まれての依頼なので誇らしくもあるが、菊井家の誇りであるコバルトシリーズも他社ブランドで販売されていることに危機を抱いていた。

「仕事を始めた時から、歯がゆかったですね。これだけいいものを作って、たくさんの有名な方たちに使っていただいているんですけど、あくまでもOEMでやっている仕事なので『うちのハサミです』と表に出せないんです」

業界の外に目を転じれば、自分たちのオリジナル商品を出して、勝負をかけているモノづくり系の企業が増えている。「うちも菊井鋏のブランドを作りたい」と考えた健一さんは、2015年、ものは試しとコバルトシリーズでグッドデザイン賞に応募してみた。

すると、シンプルな機能美を評価されて見事に受賞。長年、菊井鋏製作所のオリジナルを愛用してくれている美容師から「良かったね!」と言われたことが自信になり、ブランディングに力を入れていくことを決意する。

2016年、29歳で父親の後を継いだ健一さんは、「キクイシザース」のブランドの認知度を上げるために新しくホームページを設けた。そこで自社製品を紹介し、オーダーメイドも含めて、直接注文を受けられるようにした。

さらに、一番ブランド力のあるコバルトシリーズのOEM生産を徐々に減らしていった。美容師に「コバルトのハサミだったら菊井鋏製作所」というイメージを持ってほしかったのだ。

菊井鋏製作所

「アメリカなら、誰の迷惑にもならない!」

そこで立ちはだかったのは、昔ながらの商習慣。

直販を始めたことで、ハサミ問屋との間に摩擦が生じるのは避ける必要があった。菊井鋏製作所の売り上げの大半は問屋がとってきた注文で成り立っているので、「そんなことするなら、おたくのハサミを売らないよ」と言われたら、大打撃を受けてしまう。

でも、それを恐れて行動しなければ、これまでと何も変わらない。どうしたらいいのかと頭を悩ませた健一さんは、意外なアイデアを実行する。

それは、アメリカ進出。

実は健一さんが中学生の頃、父親がアメリカにハサミを卸していたことがあった。その取引は途絶えていたのが、たまたま、そのハサミを見たアメリカのインポーターから「まだ菊井さんがハサミ作ってるなら、欲しいんだけど」と連絡がきたのだ。

その時に閃いた。「アメリカなら、誰の迷惑にもならない!」

さっそく、中小企業基盤整備機構の「海外ビジネス戦略推進支援事業」に応募したところ採択され、2016年11月に渡米。

その際に知り合った商社から招待を受けて、翌年11月には、ハサミやバリカンなどを研ぐ技術者向けの展示会「インターナショナル・ビューティー・シャープニング・アソシエーション(IBSA)」で展示を行った。

菊井鋏製作所

アメリカ進出の意外な効果

2度の渡米で感じたのは、日本人とアメリカ人の考え方の違い。日本人の美容師はハサミを丁寧に扱い、長く使うが、アメリカ人の美容師は安いハサミが消耗したら買い替えるという文化だった。

しかし、なかには職人肌の美容師もいて、1年に10本ほど注文が来るようになった。その売り上げは微々たるものながら、想定外の嬉しい効果があった。

理美容師用のハサミを作る工房の、京大卒の3代目がアメリカ進出を目指す。このストーリーが注目を集め、いくつかの日本のメディアに報じられた。

すると、理美容師用のハサミがニュースになること自体がめったにないことだから、問い合わせが一気に増えた。

連絡をしてきたのは、全国の職人気質の美容師たち。徹底的に道具にこだわる彼らは、コバルトシリーズを生んだ菊井鋏製作所の存在を知り、オーダーメイドで注文をしてくるようになった。

「僕、すごくアメリカが好きとか、海外にめっちゃ行きたいとかじゃなくて、できるだけ今までの取引先の邪魔をしないところを選んだら、結果的に海外だったんです。それで興味を持っていただくことが増えたので、アメリカに行ってよかったですね」

口コミや積極的な情報発信によって少しずつ顧客が増え、最近は問屋からの注文も含めると売り上げの2、3割が自社製品になった。

そして、平均年齢45歳の工房に、20代の若い女性が見習い職人として入社した。家業を継いでからしばらく感じていた歯がゆさ、もどかしさは、最近ずいぶんと薄れてきたそうだ。

菊井鋏製作所

<取材協力>
菊井鋏製作所
和歌山県和歌山市小雑賀2-2-31
https://www.scissors.co.jp/

文:川内イオ
写真:中村ナリコ

*こちらは、2019年9月30日の記事を再編集して公開いたしました。

京都「無鄰菴」が“傑作”である理由。日本庭園に隠されたメッセージとは

京都屈指の名刹、南禅寺からゆっくり歩いて約10分。インクラインをすぎたところに見えてくるのが、無鄰菴 (むりんあん) です。

無鄰菴

明治・大正時代に活躍した政治家、山縣有朋 (やまがた・ありとも) が建てた別荘。足を踏み入れると、そこには芝生の丘がつらなる緑ゆたかな庭園空間が広がっています。

無鄰菴

庭の向こうには東山と青い空。しゃらしゃらとながれる琵琶湖疏水の流れ。なんだかとっても開放的な気分になります。

無鄰菴

「そうなんです。それが無鄰菴庭園の特徴なんです。

庭には一般的な評価の基準があるわけでなく、それぞれにその庭ならではの価値がある、という考え方をします。

無鄰菴の庭園には、主に3つの特徴があるとされているんですよ」

ご案内いただくのは植彌加藤造園株式会社(うえやかとうぞうえん)知財管理部の山田咲さん。

山田咲さん。植彌加藤造園株式会社
植彌加藤造園株式会社の山田咲さん。同社は1848年 (嘉永元年) の創業以来、大本山南禅寺の御用庭師を務める。南禅寺大方丈などの文化財指定庭園の育成管理のほか、星野リゾートなど新たに作庭から手がけた庭も多数。指定管理者である無鄰菴では、イベントの運営も行うなど文化財の魅力発信に力を入れている

先ほどまで、植彌加藤造園さんが創業以来 御用庭師を務める、南禅寺のお庭を山田さんと一緒にめぐってきました。

そこから歩いて10分ほどの距離にある、ここ無鄰菴も、植彌加藤造園さんが管理をされています。

「南禅寺から無鄰菴、この2つの庭を訪ねることで、約400年の時間をタイムトリップすることができるんですよ」

これが、今回のキーワード。さあ、どんなお庭が待っているでしょうか。

南禅寺編はこちら:「京都で『徒歩10分で400年』のタイムトリップ。庭を歩くと、南禅寺エリアはもっと楽しい」

「鑑賞する庭」から「体感する庭」へ

無鄰菴は、明治29 (1896) 年に完成しました。

庭園は、施主 (せしゅ。庭のあるじ) である山縣有朋の旗振りのもと、七代目小川治兵衛が手がけたもの。七代目小川治兵衛は「植治 (うえじ) 」と呼ばれ、後に明治を代表するカリスマ作庭家となっていきます。

その植治の出世作となったのが、この無鄰菴。1951 (昭和26) 年に、国の名勝庭園に指定されています。

無鄰菴

山田さん曰く、名勝指定に際して無鄰菴の庭の「固有の価値」とされたのが、こちらです。

一 東山から連続的に構成された空間
一 躍動的な琵琶湖疏水の流れ
一 明るい芝生の空間

確かに広がる景色とぴったり重なります。かなり明確に定義されているのですね。

「先ほど見てきた南禅寺の方丈庭園とは、ずいぶん違うことに気づかれると思います。この違いが、明治時代の『新しさ』なんですね。無鄰菴によって近代日本庭園が確立したと言われています」

植彌加藤造園が御用庭師を務める、南禅寺の方丈庭園
植彌加藤造園が御用庭師を務める、南禅寺の方丈庭園。江戸時代に作られました

江戸から明治へ。封建制から近代国家へと変わった、大転換の時代。そうした時代や社会の価値観の変化が、庭の表現にもあらわれていたとは、驚きです。

無鄰菴の園路に隠されたメッセージを読み取る

「枯山水庭園は、部屋から見るようにつくられていました」

確かに、南禅寺方丈の白砂を敷き詰めた庭は、絵のように眺める「鑑賞するための庭」でした。

京都の庭 南禅寺
こちらは南禅寺の小方丈庭園、別名「如心庭」

「それに対して、この無鄰菴の庭は、山村の風景を再現し、園路を散策して楽しむものとしてつくられています。『経験としての庭』と言えるでしょう」

無鄰菴

経験としての庭。そこに自分が入っていく。

「私」という個人の体験や感覚が、より大事になっているのですね。そこにも明治という時代の変化が感じられます。

「身体にどういう記憶を残させるか。身体感覚で味わう庭です。ぜひ、五感をフル活用して、園内散策を楽しんでください。

まず、園路を『何となく歩かない』ことがおすすめですよ」

植彌加藤造園株式会社 山田咲さん

何となく歩かない?では、どう歩くとよいのでしょう。

「園路には、施主のメッセージが隠されています。その暗号を読み解いていくと、お庭がもっと楽しくなりますよ」

そのひとつとして山田さんが教えてくれたのが、「視点場 (してんば) 」。道の分岐点や突き当りなどにある少し主張のある石や、立ち止まりやすくなっている場所などをそう呼ぶそうです。

「もし見つけたら、いったん立ち止まって、そこからの景色を眺めてみてください。きっとひとあじ違うはずです」

視点場は、いわばビュースポットが設計されているのですね。

無鄰菴で見つけた視点場
無鄰菴で見つけた視点場

園路を歩きながら、視点場を探し、サインを放っている石の上で足をとめて、景色を楽しむ。

なるほど、そんな歩き方はしたことがありませんでした。文章に句読点を打つように、メリハリのある園内散策が楽しめそうです。

伽藍石の視点場から見た無鄰菴の景色
伽藍石の視点場から見た無鄰菴の景色

忽然と現れる三段の滝

園路を進んで突き当りまでいくと、雰囲気が変化してきた気がします。なんだかちょっと、森っぽいような‥‥?

無鄰菴

「そのとおりです。奥へ行くにしたがって、里から野へ、野から山へと、山深くなっていく。そうした構成になっています。木々も大きく、山中の林のようになっていきます」

無鄰菴
無鄰菴
無鄰菴
高い木立の向こうに、うっすらと東山が覗きます
高い木立の向こうに、うっすらと東山が覗きます

山田さんの言葉どおり、いちばん突き当りまでいくと、そこはもう鬱蒼と茂った山中のよう。そしてそこに忽然と現れた滝がありました。

無鄰菴

「三段の滝と言います。京都の醍醐寺三宝院庭園にある、三段の滝を模したものと言われています。ここにも、南禅寺方丈で見たのと同様に、飛泉障り (ひせんさわり) の枝がさしかかっています」

無鄰菴

醍醐寺三宝院庭園は、豊臣秀吉が「醍醐の花見」の際に自分で設計した庭です。

山縣有朋は秀吉びいきだったらしく、園内には他にも醍醐から運びこんだ石が使われているそうです。

「また、滝の手前の庭園中央部の池は、母屋からは見えないように隠されています。この庭の主山となる東山の眺望を際立たせるためです」

無鄰菴
母屋からの眺め

聞けば聞くほど、こまやかな配慮と設計が施されていることがわかってきます。

「明治という新しい時代」を表現した庭

「無鄰菴をはじめ、この南禅寺界隈に多くの庭園が集まっているのには、理由があります」

広い土地があったからでしょうか。

「それもあります。ですが、より大きかったのが、琵琶湖疏水の存在です」

南禅寺の敷地内を流れていた琵琶湖疏水
南禅寺の敷地内を流れていた琵琶湖疏水

琵琶湖疏水は、滋賀県の琵琶湖から京都へ引かれた水路で、明治18 (1885) 年に着工し、明治23 (1890) 年に完成。これにより、京都には大量の水、舟の道、灌漑用水、防火用水、水車動力、そして水力発電などがもたらされます。

「そうした多目的な水の用途のなかに、『庭園用水としての利用』も生まれました」

無鄰菴

「なみなみと注ぐ琵琶湖疏水の水は、京都の庭づくりを大きく変えました。

琵琶湖疏水が山科地区を通って京都に流れ込む入り口が、まさにこの南禅寺界隈のすぐ近くの、蹴上だったのです」

無鄰菴庭園を皮切りに、このエリアには、琵琶湖疏水のゆたかな水をつかった近代日本庭園が、次々とつくられていきました。

對龍 (たいりゅう) 山荘、何有荘 (かいうそう) 、野村碧雲荘 (へきうんそう) 、住友有芳園 (ゆうほうえん) 、流響院、平安神宮神苑‥‥。

非公開の庭園も多いなか、常時一般公開されて誰でも見学できる無鄰菴庭園は、庭好きでなくともありがたい存在と言えます。

「この庭をつくった山縣有朋は、新しい時代の新しい価値観を、庭園で表現しようとしました。約120年前の前衛の気概も感じながら、庭の声に耳を澄ませていただけたらと思います」

無鄰菴
無鄰菴
無鄰菴

江戸時代を経て、明治、そして現代にいたる約400年の庭の旅、いかがだったでしょうか。

春は新緑、夏は青々と、秋は色づく紅葉。そして落葉樹が葉を落とす冬は、庭の骨格がもっともよく見える季節。四季折々、それぞれの味わいが楽しめるのも日本庭園の魅力です。

庭に隠されたメッセージと出会いに、南禅寺・無鄰菴と遥かなタイムトリップに出かけてみては。

<取材協力>
植彌加藤造園株式会社 (Ueyakato Landscape)
https://ueyakato.jp/

文:福田容子
写真:山下桂子

*こちらは、2019年8月16日の記事を再編集して公開いたしました。

魅せられたのは「知らない、終わりのない」こと。名尾和紙の職人、小副川天斗さんの“仕事の理由”

「ナンパしたとですよ(笑)」

佐賀県佐賀市にある和紙工房「名尾手すき和紙」7代目の谷口弦さんに、和紙をすいている若い職人さんのことを尋ねると、そう言った ──。

※「名尾手すき和紙」については「和紙屋のどら息子がおかしなことをやっとる、くらいが丁度いい」──伝統を受け継ぐ、若き和紙職人のサブカルチャーな目論み」をご覧ください。

ものづくりの世界に飛び込んだ若きつくり手たちがいる。

何がきっかけで、何のために、何を求めてその道を選んだのか。そして今、何を思うのか。さまざまな分野で活躍する若手職人を紹介する新連載。3回目は和紙職人である。

話を聞いたのは小副川天斗(おそえがわたかと)さん。作業風景を見ていると、彼はまるで音楽に合わせて踊っているかのように独特なリズムで紙をすいていた。

何も知らない、から始まった

仕事をするきっかけはナンパだったとお聞きしました。

「まあ、そんな感じですね。音楽イベントでたまたま弦さんに会って、そのときに『うちにこない~?』と誘われて(笑)」

和紙職人の小副川天斗(おそえがわたかと)さん
性格はわりと頑固。興味があることには積極的で軽やかな行動力もある

ずっと仕事を探していた。

アルバイトをしながら自分が進むべき道を模索して、いろんな人に声をかけていた。よく行く飲み屋の主人だったり、そのとき働いていたバーのお客さんだったり。

求めていたのは一般企業などの社員としての働き口ではなく、

「手を動かすっていうか、ものをつくる仕事がしたくて。でも、それが何かといわれれば、そのときは分からなくて。こう言ったらなんですけど、何でもいいっちゃ何でもよかったんですよね(笑)

で、ちょこちょこと声をかけていただいたんです。それこそ家具をつくる工房だったり、内装屋さんとか、配管屋さんとか‥‥」

その中の一つが谷口さんからの「うちにこない?」だった。いくつもの選択肢のなかから和紙職人の道を選んだ理由は何なのか。

「いろいろな現場を見せてもらったんですけど、そのなかで一番、何をしているのか分からなかったというか、知らなかったのが和紙だったんです。

せっかくやるんだったら知らないことのほう楽しそうだから‥‥」

知らないことを知ること、やったことのないことをやることは、ある種の怖さや面倒臭さが伴うものだが、小副川さんにとってそれは楽しみでしかないという。

そして22歳のとき。それまでの自分とは無縁だった和紙の世界に、漠然と飛び込んだ。

1匁を感覚で合わせる

最初に教えられたのは紙すきの技術。それも難関とされる薄い紙をすくことだった。

「とりあえず難しいことからやれ、と一番薄いタイプの紙すきから教えてもらいました。はじめに簡単な紙すきを覚えちゃうと薄い紙になったときに、まったくできなくなるから、と」

薄くて大きな和紙。いわば名尾手すき和紙の伝統芸でもある提灯紙を漉くことから修業は始まった。

以前、谷口さんは言っていた。「提灯紙は薄くて丈夫でなければいけない。光を通さなくてはいけないし、薄いからといってすぐに破れるようではだめで、十分な強度が必要である」と。

※詳しくは「名尾の山里でたった1軒の和紙工房が“残しておきたい紙づくり”」をご覧ください。

7代目の谷口弦さん
小副川さんをナンパしたのはこの人、7代目の谷口弦さん

実際、難しい技術が求められた。

桁と呼ばれる木枠と目の細かい簀からなる簀桁(すげた)で原料液をすくい上げ、繊維をむらなく絡ませるため縦にゆすり、横にゆすり、また縦にゆすり‥‥を繰り返す。

紙漉きの作業風景
その日、すいていたのも薄い提灯紙だった

穴があいたり、繊維が偏っていたりするのは論外で、

「厚みが出過ぎてもいけないし、全体的に均一な状態にすかなくてはいけないし。紙をすくことはできるんですけど、果たしてそれが使いもんになるかといわれたら、やっぱりそうはいかなくて」

ちなみに和紙の厚さはミリではなく匁(もんめ)で数える。1匁は3.75グラム、2匁は7.5グラム、3匁は11.25グラムというように重量でカウントするそうである。

和紙の側面
障子紙用は5匁、書道紙は4匁。掛け軸下貼り用は3匁で、提灯紙に使うのは1匁~2匁といったところ

つまり同じサイズでも1匁と2匁では厚さが違い、1匁の紙を求められているのに重さが不足していたり、反対に超えてしまえば、それは規格外になるというわけだ。

そしてすいている紙を1匁に合わせるのは「感覚でしかない」(谷口さん)という。

和紙すきはリズムにのって

すきの技術はもちろん、職人ならではの経験や勘が必要になる。難しかった。でも。それ以上に──小副川さんは楽しかった。

「はじめて仕事が楽しいなと思えたんですよね‥‥仕事って楽しいものなんだ、ってことを知ったというか。この仕事、好きだなって」

修業を始めて1年と4カ月。小副川さんは独特なリズムで紙をすいていた。まるで音楽に合わせて踊っているかのような動きをしながら。

小副川さんの作業風景

たてたて、よこよこ。たてたて、よこよこ。原料液の入ったすき船のなかで簀桁を揺らすたびに、ぽちゃぽちゃとした音が立つ。

紙漉きの工程風景
リズミカルに動く水の表情がきれい

静かにゆっくりと、といった和紙すきのイメージとは異なり、ダイナミックに揺するのは繊維の長い梶の木を原料に使う名尾和紙ならではの特長でもある。

リズム、リズム。リズムにのって紙をすく。

「最初からこのリズムで紙をすいていたわけではなくて。

ある程度、紙がすけるようになってきて、自分なりに少しだけ厚みのこととか、精度を上げることとかを考えるようになってから、だんだん自分のリズムができてきたというか‥‥

下が透けるほどの薄い紙であることが分かる
下が透けるほどの薄い紙であることが分かる
小副川さんの作業風景

で、リズムにのれるようになってきてからは、やっと、ちょっとだけ精度が上がるようになってきたと思います」

和紙職人として5%の自分

自分のすいた紙が「職人さんに使ってもらえることが嬉しい」と小副川さんは言う。

小副川さん

「たとえば提灯をつくる職人さんに自分のすいた紙で提灯を仕立ててもらえるというか。次のつくり手にわたるような仕事であることが面白いな、と思っていて。

とくに提灯紙は1匁2匁よりもうちょっと細かく単位が分かれていて、結構シビアなんですよ。そんな厳しい職人さんたちに『これでOK』と認められるのがすごく嬉しかったりしますね」

もちろん覚えることはまだまだある。

原料である梶の木の栽培や収穫から、それを柔らかい繊維にするまでの果てしない工程、すいた紙の乾燥技術まで。

すいた紙を乾燥機に貼り付けているところ
すいた紙は圧縮して水分を抜いた後、乾燥器に貼り付けてパリッとさせる

「それこそ和紙づくりって終わりのないような世界ですよね。追求しようと思えばどこまでもできる。

それに弦さんは単純にこれだけをしていればいい、みたいなタイプじゃない。自分でいろいろ考えて新しいことにどんどんチャレンジをしているし‥‥本当に終わりなんてないですよ」

小副川さん

そう言って嬉しそうに笑う小副川さん。

「和紙職人として、自分はまだ5%くらいです」

知らないことは知りたいし、やったことのないことはやりたい──そんな彼の和紙づくりの楽しい道のりは、まだ始まったばかりのようである。

名尾手すき和紙

佐賀県佐賀市大和町大字名尾4756
0952-63-0334
www.naowashi.com

文:葛山あかね
写真:藤本幸一郎

< 連載:若手職人の“仕事の理由” >

「和紙屋のどら息子がおかしなことやっとる、くらいが丁度いい」 ── 伝統を受け継ぐ、若き和紙職人のサブカルチャーな目論み

はじめてそれを見たのはもう2年以上前になるだろうか。

和紙である。でも、ただの和紙ではなく、そこには何かが混ざっていた。よく見ると印刷された文字や写真のようなものが‥‥。

佐賀 名尾和紙
佐賀 名尾和紙

これは、いったい何なのか。もちろん和紙である。和紙ではあるけれど、その1枚には何か意味があるような、新しい可能性を示唆しているような‥‥そして単純に思った。和紙ってこういうこともできるんだ、面白いなあ‥‥それが最初の印象だった。

和紙とは何なのか?

「あれは和紙の原料に、雑誌や紙箱を細かくして混ぜ込んで、すいたものなんです」

和紙職人として活躍する谷口弦さん
和紙職人として活躍する谷口弦さん

そう話すのはつくり手である谷口弦さんだ。佐賀市大和町の名尾地区にある「名尾手すき和紙」の7代目。300年以上の歴史を誇る名尾和紙の伝統を、現代に受け継ぐ若き和紙職人である。

同地区にはかつて100軒ほどの工房が並んでいたが、今では1軒のみに。

※詳しくは「名尾の山里でたった1軒の和紙工房が“残しておきた紙づくり”」をご覧下さい

佐賀市大和町の名尾地区にある「名尾手すき和紙」工房

そんな工房の後を継いだのがおよそ7年前。大学卒業後、アパレルショップの店員として働いたこともある。が、結局のところ「自分にしかできないことをやりたい」と家業の紙すきを選んだ。もちろんゼロからのスタートだ。

紙の原料となる“梶(かじ)の木”を栽培。一般的に使われるのは楮(コウゾ)や三椏(みつまた)などだが、梶の木は楮の原種。これを使うことが名尾和紙の特長の一つだ。

梶の木
これが梶の木。1年かけて成長させ、1月頃に刈り取る

刈り取った梶の木は蒸して皮を剝き、乾燥させる。再び煮て、水にさらし、打解して柔らかな繊維にする、といった途方もない手間暇をかけて、ようやく紙すきを行うことができる。そして、そこからは来る日も来る日も紙をすく、

紙漉きの工程風景

すく、

紙漉きの工程風景

すく。

漉いたあとの和紙

そうした日々を繰り返し続けた谷口さんの頭のなかに、あるとき、一つの疑問が生まれた。

── 和紙っていったい何なのか?

「和紙の定義みたいなやつですね。これをしなければならないといった決まりごとがあるのかなって。偉い和紙職人の先生に聞いてみたことがあるんです。『和紙の定義って何なんですか?』って。そうしたら、何て言ったと思います? 」

和紙職人として活躍する谷口弦さん

「『俺にも分からん』だって(笑)。そうか、こんなにすごい人でも分からない曖昧なことなんだ、と思って自分なりに調べてみたんです」

分かったことといえば“和紙”という名前だけど、流通しているものは国内でつくられているものばかりではないこと。手すきもあれば、機械すきもあること。

和紙の歴史は1400年以上あるといわれるけど、そもそも“和紙”という言葉が登場したのはたった150年前の明治期であること。欧米からもたらされた“洋紙”と差別化するために、“和紙”という名前をつけたのだということ‥‥。

そうしたことの一つひとつが面白かった。紙にまつわる書物や図録を読み漁り、学べば学ぶほどに奥深さを感じた。そして“紙”というものにのめり込んでいった。

紙の再生=魂を宿す紙づくり

そのなかで谷口さんのアンテナに引っかかったのが“還魂紙(かんこんし)”だった。

「還魂紙は使い古しの紙を集めてつくる再生紙のことですけど、中国から伝えられたとき、日本人はそれを文字通り“魂が還る紙”ととらえた。日本人の宗教観にマッチしたというか、当時の誰かがものすごく勘違いをしたというか(笑)。

それでも日本における還魂紙は独自の文化として、完全なるカウンターカルチャーとして発展した歴史があるんです」

たとえば、鎌倉時代には紙をすくときに遺灰をすきこんだ。その紙に写経をして故人を弔う風習があったとか。

また古紙回収・再生が当たり前のように行われていた江戸時代。大切な人からもらった手紙や帳面をすき込んでは、ここぞという大事な場面で使っていたという。

「還魂紙の別名を“宿紙(しゅくし)”ともいうんですが、確かに何かを混ぜることで紙の中にその何かが宿るな、と。そうした考え方が面白くて、ものすごく好きで。

手ですく→再生する→魂を還す→俺、できる!みたいに思ったんですよね(笑)」

何かを混ぜて再生させる ──。

白くてきれいな和紙もいいけれど、思いや願い、希望、そのものに込められた物語といったものを一緒にすいて紙にする。そこに現代の和紙としての価値を見出した。

紛れ込んだ「闘」の一文字

「和紙職人としてはまだまだ30%くらい」と谷口さんは言うけれど、それでも紙すきの技術や背景を、体で覚え、頭で考え、心で感じながら作業をしてきた。

これから先、自分にできることは。自分にしかできないことは何だろうかと模索していた、そんなとき。

紙漉きの工程風景

「紙をすいていたらゴミが入ったことがあって。ピンセットで取り除くんですけど、そのときのゴミというのが新聞紙の1文字で『闘』だったんです。うわ!これって、今の俺に対する言葉なんじゃないかって(笑)。

紙に浮かんだ文字からそうしたメッセージを感じたんです。でね、もしかして還魂紙でいうところの“魂”とは、現代なら情報みたいなものにも当てはまるのかな、と思ったんです」

そうこうして誕生したのが、雑誌「ポパイ」やアディダスの空箱をすき込んだ和紙である。

「できたとき、これってなんじゃろと思って。面白いものなのか、それとも価値のないただのゴミなのか。実のところ、よく分からなかったんです。

それでもいろんな人に見せたら突拍子もない、っていう驚きではなくて、なるほどっていうインパクトを感じてもらえた。

それに『こういう素材を混ぜることもできる?』『これを崩すとどうなりますか?』っていう質問をいろいろもらえて、ああこれは面白いな、無限の可能性があるなと思ったんです」

ほかにもいろいろなものを混ぜてみた。

名尾和紙 大日本市展示会にて
ロンTや葉っぱをすき込んだ和紙も
様々なものや色が練りこまれた和紙
多彩な表情を見せる和紙‥‥面白いなあ

カラフルなチラシだったり、モノクロの漫画だったり。庭の泥や砂、珈琲の出がらし、チョコレートの原料であるカカオ‥‥面白そうだと思うものを片っ端から試してみた。

かつて和紙業界において別の素材を混ぜることはある意味、御法度とされてきた。けれど、先々代にあたる祖父はいろんな素材を混ぜて新しい和紙をつくっていたし、先代の父はといえばタブーとされる色づけを行った。

最後に残る1軒の工房として名尾和紙の伝統を守りながらも、最後の1軒だからこそ名尾和紙の伝統をアップデートしていく。

「うちの家系は元来、守るだけじゃなくて、新しいことに前向きなマインドがあるんでしょうね。僕自身も、和紙屋のどら息子がおかしいことやっとるなー、くらいに思ってもらえれば丁度いいな、と」

祈りを無駄にしない

そして谷口さんは還魂紙をメインとした活動を行うブランド「KAMINARI PAPER WORKS (カミナリペーパーワークス) 」を立ち上げた。

ロゴマークは雷を模したデザインだが曰く、

KAMINARI PAPER WORKSのロゴ

「これは注連縄(しめなわ)についている紙垂(しで/注連縄などについているギザギザの紙のこと)をイメージしたもの。注連縄は雲を、紙垂は雷を表し、雷が落ちた場所は五穀豊饒が叶うとされていて、言うなれば和紙業界全体に雷を落とせればいいなと。あとは単純に『なんでも紙になります』ってことなんですけど」

紙になります‥‥かみになり‥‥かみなり‥‥。コホン。

今ではその活動が、いろいろなカタチになり始めている。たとえば、これ。

大小さまざまなサイズの、多彩な色合いの紙が混ぜ込まれている和紙

大小さまざまなサイズの、多彩な色合いの紙が混ぜ込まれているが、その正体は、

和紙に練りこまれていたのは折り鶴

千羽鶴だ。

長崎の原爆資料館に届くたくさんの千羽鶴を、そこに込められた祈りごと残せないかとこの葉書が生まれた。

「意味合い的にも、いいものができたと思います」

破棄してしまうのではなく、和紙にすき込むことで新しい形に生まれ変わり、人の思いが残っていくのだ。

カミナリペーパーワークスの取り組みは、東京・渋谷に新しくオープンした「渋谷PARCO」でもお目にかかることができる。美術専門誌の「美術手帖」が展開する直営店「OIL by 美術手帖」のカウンターに、歴代の『美術手帖』を細かく混ぜてすいた和紙が使われているのだ。

渋谷PARCOの「OIL by 美術手帖」のカウンター

新しい和紙のカタチが、これまでの和紙の概念をふわっと軽やかに超えていく。谷口さんは言う。

「今までやってきたことを守りつつ、つなぎつつ、可能性をもっと先に延ばしていけたら」

絶賛、発展途上中。その道のりは果てしなく続くだろう。どこまでも、どこへでも。

<取材協力>
名尾手すき和紙
佐賀県佐賀市大和町大字名尾4756
0952-63-0334
https://naowashi.com/

文:葛山あかね
写真:藤本幸一郎