工芸と迎える新年、迎春を彩るお正月の3つの食卓道具

こんにちは。さんち編集部です。

今年も師走になりました。大人になると、1年経つのがあっという間です。ここ数年はいつも「もう今年も残り1ヶ月かぁ」と12月を迎えている気がします。

お雑煮とお年玉を楽しみにしていた子どもの頃とは違い、大人の年末年始は大忙し。年賀状を書き、1年間お世話になった家や会社を掃除して、年末のご挨拶。台所ではせっせとおせちを作り、年越し蕎麦の準備を始めます。

ああ忙しい忙しいと言いながらもワクワクしてしまう、より良い年を迎えるための、年末年始の家しごと。1年を振り返り、これからを考えるこの時節に、日本の暮らしの工芸品を取り入れてみたいと思います。

本日は日本のお正月に欠かせない食卓道具をご紹介します。

1. 飛騨春慶塗 (ひだしゅんけいぬり) の重箱

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お正月の食卓といえばおせち。元は節会や節句に作られる料理を指しましたが、節日のうち最も重要なのがお正月であったことから、めでたいことを重ねるという願いを込めて縁起をかつぎ、現在のように重箱に詰めたお正月料理をおせちと呼ぶようになりました。

このようにおせちと重箱は切っても切り離せない関係。でも、もともとハレの日の料理を入れるための重箱は華やかな絵付けが施されているものが多く、年に1度の出番になりがちです。そこで、華やかなおめでた感を持ちながらも普段使いもしやすい重箱を探しました。

約400年の歴史を持つ岐阜県飛騨高山の飛騨春慶は伝統的工芸品に指定され、能代春慶 (秋田県能代市) 、粟野春慶 (茨城県東茨城郡城里町) と並ぶ「日本三大春慶塗」のひとつとして知られています。

着色してできた木地の上に「春慶漆」と呼ばれる透明度の高い “透漆”(すきうるし)を塗り上げる手法を使い、表面の漆を通して繊細な木目の美しさをそのまま活かす仕上げが特徴です。

光沢があり、木目が見えるので無地でも華やかに
光沢があり、木目が見えるので無地でも華やかに

漆を塗っては磨き、磨いては塗りと繰り返すことで漆が染み込み、器が硬く丈夫になった飛騨春慶は、使い込むほどにしっとりとした光沢のある琥珀色へと育っていくそう。生きもののようなお重です。

2. 山中塗の一閑張日月椀 (いっかんばりじつげつわん)

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みなさんは憧れのうつわはありますか?私はこの「日月椀」が憧れのうつわのひとつです。その名の通り、金銀の箔で太陽と月を表現した大胆な柄が印象的な名品です。

芸術家の北大路魯山人 (きたおおじろさんじん) と、加賀・山中塗の名塗師である2代目辻石齋 (つじせきさい) が共作した、最も有名なお椀のひとつ。

魯山人は美食家としても知られ、漫画「美味しんぼ」の登場人物「海原雄山」のモデルとして親しんでいる方も多いのではないでしょうか。「器は料理の着物」という言葉を残した魯山人のうつわは、料理があってこそ活きるという価値観のもと作られていたと言われています。

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和紙を漆で張り塗り上げる一閑張りで仕上げたこの一閑張日月椀。現在でも2代目辻石斎のもとで完成された当時とまったく同じ形状、製造工程で当代辻石斎氏によって作られています。

口へのあたりも薄く繊細で、本物の丁寧な手仕事に見とれずにはいられませんでした。年に1度のハレの日、いつかこのお椀でお雑煮でもいただいてみたいものです。

白檀塗菖蒲絵日月椀も美しい
白檀塗菖蒲絵日月椀も美しい

3. 京金網のセラミック付焼き網

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おせちと並んで日本のお正月で忘れてはいけないのがお雑煮。ぷくっとふくらんだお餅とめいめいの地域のレシピで作られる熱々のお雑煮は、子どもからご年配の方まで愛される日本のお正月の味です。

ところで、そのお餅、みなさんはどう焼いていますか?フライパン?オーブントースター?北国ではストーブの上でしょうか?

近頃では電子レンジで手軽につきたてのようなお餅を調理する方法もあるようですが、やっぱりこんがりとした焼き目がお餅の醍醐味、ということでお餅をおいしく焼ける焼き網をご紹介します。

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起源が平安時代にまでさかのぼると言われている京都の伝統工芸、京金網。豆腐料理が盛んな京都の地で、料理に華を添える美しい金網の調理道具を作り続けてきました。

この焼き網も、京に伝わる伝統技法を使ってひとつひとつ手仕事で作られています。セラミックの遠赤外線効果で、お餅だけでなくパンや野菜を焼いても絶品だとか。

小さいサイズは食パン1枚にぴったりのサイズ
小さいサイズは食パン1枚にぴったりのサイズ

掃除道具からスタートした工芸と迎える新年、次回は2018年1月3日のお正月飾りへと続きます。お楽しみに。


飛騨春慶塗の重箱 (飛騨春慶製造直売 有限会社戸沢漆器)

山中塗の一閑張日月椀 (北大路魯山人漆器の萬有庵)

京金網のセラミック付焼き網 (金網つじ)

文・写真:さんち編集部


この記事は2016年12月12日公開の記事を、再編集して掲載しました。

第4回 金沢「中島めんや」のもちつき兎を訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介します。

連載4回目は卯年にちなんで「金沢のもちつき兎」を求め、石川県にある中島めんやを訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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薬局の前のサトちゃん

さよなら東京。これから新幹線に乗って金沢へ行くのだ。

建物

金沢でまず驚いたのは、伝統的な家の屋根瓦に黒く光沢があることだ。

中島めんや外観

兎の郷土玩具をつくる職人、中島さんのお店に到着。全体的に黒くて、見過ごしてしまいそうだ。

縁起のいいお面

入り口。すでに歓迎されているようだ。

おかめのお面

店に入ると、壁に掛かった、大きな膨らんだ顔に気を取られた。表面のあちこちが剥がれている。とても古いものにちがいない。店主の中島さんから先祖がつくった張り子面だと聞いた。

実のところ、中島さんが主に制作しているのは、木の型を使った張り子に絵を描いたお面や人形なのだ。

これが一例。中島さんの娘さんがアシスタントとなって描いたもの。おそらく彼女があとを継ぐのだろう。

店内に飾られた兜

兎に会いに来たのに、どこにいるのだろう?大きな兜の絵に隠れているのかな?

想像していたよりもずっと小さく、とても可愛い。餅をついている。月面のクレーターは、日本人にとっては餅つき兎、西洋人には女性の顔に見える。このグローバリゼーションの時代、どちらかに統一したほうがいいだろう!

中島さんは、主に冬にこの玩具をつくるそうだ。冬は張り子が乾きにくいからだ。柔らかく削りやすい桐を材料としている。桐はこの地方によく植えられていたという。この木材について、もっと知りたくなった。

兎の玩具を見学し終わった後、桐をつかって制作している、岩本清商店の工場を訪ねた。

ものすごく衝撃的で、感動した。目の前でベルトが動き、全ての機械が稼働している。過去の時代の名残が、いまも活動し続けている。

この素晴らしいスペクタクルを前に、言葉はでない。ただ眺めて撮影するだけだ。

楽しかった2か所の見学を終え、次の取材場所に向かうことにする。

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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

フィリップ・ワイズベッカー氏

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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加賀百万石の城下町、金沢へ

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、金沢で木製カラクリ玩具が誕生した理由と、作り手の「中島めんや」を訪ねて教えてもらったもちつき兎の製造背景や由来などを解説したいと思います。

こんにちは。中川政七商店の日本市ブランドマネージャー、吉岡聖貴です。

江戸時代から北陸の文化都市として知られる石川県。それゆえに優れた工芸品が多く、郷土玩具も町のアイコンとして大事にされています。それらは、政治・文化の中心地であった城下町金沢に集中しています。

代表的なのは何といっても、さんちで以前に紹介した加賀八幡起上りでしょう。元々は八幡様の祭神である応神天皇の御幼体を赤い綿布で包んだ形を作ったのが始まりとされ、七転び八起きの縁起ものとして金沢の人たちに愛されてきました。その他にも、加賀獅子頭、お面、張子、もちつき兎や米食いねずみのからくり人形などがあります。

昔は何人かの作り手がいましたが、現在は一軒の工房が製造・販売しているのみです。それが、今回訪れる「中島めんや」です。

きっかけは村芝居の「お面」づくり

中島めんやの創業は文久3年 (1862年) の江戸末期。初代の中島清助氏が村芝居のお面や小道具をつくっていたことから、「めんや」という屋号で商売を始めたそうです。お面だけでなく玩具や人形も作っていました。

現在の「中島めんや」の店構え
店内に飾られた創業当時に製作されたお面

そして、現在の尾張町に移ってきたのが明治初期、四代目の頃。上質の二俣和紙を手に入れるため、当時の中心街に。ほかの職人とともに近代的加賀人形の基礎を築いたといわれます。

今回お話を伺ったのは、七代目の中島祥博さん。

中島めんや7代目中島祥博社長

現在は人形や郷土玩具の製作を、中島さんと娘さん、そして専属の職人の自宅や工房でされているそう。

「最盛期だった30年前の生産規模と比べると、今は10分の1程度。そんな中でも、昔ながらの技法を生かして手作りにこだわり、若い人達にも喜んでもらえる商品作りにも取り組むようにしています」

地場産業×海外文化で生まれた木製カラクリ玩具

金沢でカラクリ玩具が作られるようになったのは、加賀藩主が十三代前田斉泰になった天保元年 (1830年) 頃。当時、海外から日本に入って流行したカラクリ人形の影響を受け、藩内に仕える足軽などの下級武士が内職として木製玩具をつくり始めました。

その時に誕生したのが、もちつき兎や米食いねずみなどの木製カラクリ玩具。他の地域にも木製玩具はありますが、材料に桐を使うところに金沢特有の理由があったようです。

金沢は元々桐製品の産地であり、家具や火鉢、花活けなどが作られていました。木製玩具に利用されたのはおそらく、その余材だったと考えられます。現在でも材料には桐材が使われているそうです。

職人が桐のお椀を削る作業中でした

当時、戦国時代が終わり人々が生活を楽しんでいたとはいえ、長引く経済不況の最中でした。木製玩具の細工からは、貧しくも生活に楽しみを見出そうとする足軽職人の創意、工夫が感じられます。

久保市さん (久保市乙剣宮 くぼいちおとつるぎぐう) の境内で、おばあさんが売っていたという記録もあり、金沢ではお宮さんの祭りやお正月の縁起物として、売られていたそうです。からくりを楽しむ子どもたちの遊び心や好奇心を満たしてくれたことでしょう。

もちつき兎のつくり方

今回の目的はうさぎということで、もちつき兎の作り方を中島さんに教えて頂きました。

まず、材料となる木材 (ほとんどが桐、耳は竹) を適当な大きさに切り出し、ノミ・キリなどで細かく削って各パーツの形をつくります。腰巻きの布も適当な大きさに切り揃えます。そして、胴体・耳を水性絵の具で着色。最後に、接着剤ですべてのパーツを接合し、操り紐を通して完成です。

ノミで桐を削ってパーツをつくる
着色されて接合する準備が整ったパーツたち
タコ糸をひいて正しく動作することを確認したら完成

内職をベースとしているため、前回のずぼんぼと同じくシンプルな作りになっています。

「身近な材料と道具しか使っていないから、やり方を教えれば誰でもつくれる。ただし、カラクリがきちんと動作するように調整するのがポイント」と中島さんが話すもちつき兎は、赤い腰布をまとったうさぎが両手に持った杵で餅をつくカラクリが特徴。

木の台には臼があり、土台の下の糸をひくと、兎が杵を振り上げ、離すと振り下ろす。ただそれだけの仕掛けなのですが、その動きがなんとも滑稽で憎めない。トリコロールの色合いや、完成度のゆるさも、いい塩梅。昔の写真を見ると、顔が平たく削られていた時代もあったようです。

うさぎの腰巻きはカラクリを隠す機能も果たしているように思われますが、ワイズベッカーさんは「腰巻きがない方がカラクリのメカニズムが見えるし、全部木でできていることになる。より本質的になるのでは」と独自の見解をお持ちで、腰巻きのないうさぎとしばし見比べ合い。

もちつき兎の腰巻き有り (左)と腰巻きなし (右)

どうですか?腰巻きを外しても意外と違和感なく、素朴さやカラクリ人形らしさが増した気がしませんか。

ワイズベッカーさんと交わす議論には、こういった気づきや示唆が節々にありましたので、時折ご紹介していきますね。

おとぎの世界へと誘い込まれるおもちゃ

もちつき兎は、前回のずぼんぼと同じく遊びに主眼が置かれたカラクリ玩具です。そのため、縁起の由来は薄いと考えられますが、うさぎの餅つきといえばお月見。古来より、日本において満月は幸運の象徴であり、円満な人間関係を表すともいわれます。

これは想像ですが、もちつき兎の見た目の素朴さ、その動きの巧妙さ、面白さは、手に取る子どもたちをおとぎの世界に誘い入れて、ロマンチックな想像とともに楽しませてくれていたのかもしれませんね。

さて、次回はどんないわれのある玩具に会えるでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第4回は石川・金沢のもちつき兎の作り手を訪ねました。それではまた来月。

第5回「岡山・竹細工の龍」に続く。

<取材協力>
中島めんや本店
石川県金沢市尾張町2-3-12
営業時間 9:00~18:00 (火曜定休)
電話 076-232-1818

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」1月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

わたしの一皿 海寒く鯖肥ゆる冬

今年の初雪は先ごろ出かけたアルメニアだった。そんな記憶も新しいまま、先日、九州でも雪に降られました。もうすっかり冬なんだな。みんげい おくむらの奥村です。

冬は好きかと問われれば、苦手です。と曖昧に答えるのが常。嫌いではない。が、体が縮こまる感じがどうにも窮屈だから、好きだとはやっぱり言い切れない。そんな冬ですが、食材は大好きなものばかり。その中でも、というのが今日のお話。鯖 (サバ) 、です。

サバ

年中美味しい魚だけど、冬の真鯖は脂のノリがすばらしい。焼いても、揚げても、煮ても、〆てもやっぱりこの時期のサバが格別おいしい。今日のサバは地元の市場で買ってきた岩手のもの。

市場を歩いていると季節の変化を敏感に感じるのだけれど、サバが太ると冬が近づいてきた、という感じがする。今日のものは1キロもので、見るからに丸々と太って、パンッパン。冬をこれで乗り越えるぞ、というエネルギーが伝わってくるよう。

買ってきたサバは鮮度が落ちやすいので早々に調理。まずは頭を落とす。断面から伝わってくる脂感。この時点で何をしてもおいしいのは確定。

サバの断面図

今日はシメサバにするので三枚おろしに。サバは身が割れやすいのでここは注意しつつ、すばやく。うまく出来たらざるにとって、塩をたっぷり両面に振る。しばらく置いて、いらない水分を抜く。

洗って、きれいに拭いたら酢に浸す。シメサバは文字にすればとても簡単だが、塩をして置いておく時間。酢に浸して置いておく時間がそれぞれこだわりのポイント。

サバの下ごしらえ

ここらでうつわの話。民藝と呼ばれるものを扱うお店ながら、実はこの連載 (もう12回目!) で取り上げてこなかった産地がある。山陰だ。島根県と鳥取県には焼き物を中心に、民藝と呼ばれるものが数多くある。

調べてみると、島根・鳥取ともサバの消費量が多い県らしい。日本海側は美味しいサバが獲れますからね。ということで今回はそんな角度から山陰のうつわ。

この「さんち」でも特集が組まれた島根県の「出西窯 (しゅっさいがま) 」のもので、白。同じ形で、今の出西窯の代名詞とも言える青も持っているのだけど、なぜだかこの白をよく使う。

今日も青魚の代表格のサバだけに青か悩んだのだが、最後に手に取ったのは白だった。前回同様、これもフラットなお皿。

 

今日はサバを酢で〆たのは、20分ほど。骨を取り除き、皮をはいで、いよいよ切って盛り付ける。切り方は色々あるが、最近はこの寿司ネタのような感じが個人的には好きだ。皿の手前、身の細くなっているのは腹側。ピンクというか、脂のおかげでかなり白みがかっている。こりゃ見ただけでうまいのがわかりますよ。

民藝と呼ばれる窯元のうつわの白は、どこかやさしいぬくもりがある。白自体が、黄色味がかったような、ベージュのような色が多い。柔らかく、自然な風合いだからシンプルな素材がよく似合うのだと常々思う。食器の白も色々見比べてみると違いがあるもんです。

意外だが、出西窯は歴史が長くない。しかし今や山陰の代表のようなものと言っても過言ではないだろう。民藝というのは歴史の長さではない。現代、自分で窯を始めた人たちも、未来に民藝と呼ばれるものになる可能性は大いにある。そして僕はそんな出会いを常に求めてあちこちを歩き回っています。

気づけば連載を始めて12回。12通りのうつわと料理の組み合わせは毎回なかなか楽しい時間だった。この連載は2年目、少し変化すると思いますが、どうぞ引き続き楽しんで頂ければ、これ幸い。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文:奥村 忍
写真:山根 衣理

細萱久美が選ぶ、生活と工芸を知る本棚『城一夫 日本の色のルーツを探して』

こんにちは。中川政七商店バイヤーの細萱久美です。

生活と工芸にまつわる本を紹介する連載の六冊目です。今回は、「日本の色」についての書籍を取り上げます。

日本の工芸にも「ジャパンブルー」と呼ばれる藍色や漆の赤、かつての奈良晒の白など、日本独自の色があり、工芸の表現においても色は大きな要素となっています。

著者の城一夫さんは、色彩文化と模様文化を専門に研究されている教授で、色にまつわる多数の著書があります。この本では「日本の色の成り立ち」と「日本の色の系譜」について、色鮮やかな写真や絵を多用し、読みやすい構成になっています。また、自分の好きな色についてのページを拾い読みする楽しみ方もあります。

色鮮やかな麻の布

日本の色の成り立ちについては、専門家ならではの歴史、宗教、文化などを絡めた学術的な内容で、さらっと読むというよりは「学ぶ」というような印象があります。ただ、「日本の古代社会では『黄』は概念としては存在していなかった!」など、私には“初耳学”も多く新たな知識を得られるのではないかと思います。

各色の系譜解説は、赤、青、白、黒、金、銀など主たる10色あまりと、「婆娑羅色 (ばさらいろ) 」が日本の伝統色彩色の中でも、異彩を放つ存在として取り上げられているのも興味深い点です。

いずれの色も古代から現代においての使われ方や意味合い、流行りがよく分かります。

例えば婆娑羅についてですが、織田信長や豊臣秀吉、伊達政宗など天下を掌握した武将たちが好み、城や衣装に取り入れました。信長のワインカラーのビロードの陣羽織や、秀吉の金や真紅の陣羽織は多くの人のイメージにあると思います。

現代の婆娑羅と言えば、サイケデリック。1960年代、アメリカを中心にさまざまなポップアートやサイケデリックアートが出現し、日本でも反モダニズムアートとして横尾忠則、粟津潔などによる、日本的なモチーフを使いながらもサイケデリックな色彩を使用したポスターで、新しいバサラを表現したとされています。

色とはなにか?

ところでそもそも、「色」とは何でしょう。回りを見渡すと、色の無いモノがほぼ無くて、特に人工物の色があふれていますね。

いわゆる「モノ特有の色彩」という意味以外に、昔も今も好色や情緒などの意味でも使われたりしますが、「色は匂へど散りぬるを‥‥」で知られる、平安時代の「いろは歌」の流布によって、色はモノの色という意味が強くなったそうです。

先に書いたように、古代日本では「キ」の概念はなく、「アカ」「クロ」「シロ」「アカ」の4つがありました。元々は「光」の色から生まれたとされ、夜明け、闇、夜が明けてハッキリ見える頃、明と暗の中間(青みがかった状態)を表していたといいます。

それ以外にも数多くの色名はありましたが、紅・紅梅色・桜色・刈安・緑・藍・朽葉など、植物や鉱物からの転用が主でした。

日本人は古来から自然崇拝の信仰がありますが、色彩に関してもそれは色濃く表れています。中川政七商店でも、手績み手織りの麻生地の染色名に、丁字・舛花・海松藍・刈安などと言った日本の自然からとった伝統色名を使っています。

手績み手織りの鮮やかな麻生地

「黄」が色名として認識されるようになるのは、6世紀頃、中国から仏教、儒教とともに「陰陽五行説」という思想が導入されてからになります。

この思想は、宇宙は「陰陽」と「木、火、土、金、水」の5元素からなり、この5元素が独自の循環をしているという考え方です。この5元素は、宇宙の森羅万象、すなわち色彩・方位・季節・星座・内臓等々に対応して配当されています。

色彩で言えば、「青、赤、黄、白、黒」の順に対応し、「春、夏、土用、秋、冬」と関連付けられています。これによると黄は中心にあり、重要な位置を占めています。

なかなかすぐには理解しづらい思想ですが、黄が登場し5元素がベースになる発想はなるほどという感じなのでぜひ本書をご覧ください。

聖徳太子も大事にした「色の世界」が、いまの暮らしにも

わが国でも陰陽五行説は国家経営の基本理念として取り入れられ、聖徳太子はこの思想に従って冠位十二階を制定しました。後に民事催事にも取り入れられ、日本の生活文化の中でも定着していきました。寺院催事の五色幕、五節句の祝、正月のお節料理、五色豆など五行思想が其処此処に見ることができます。

日本文化の特徴のひとつは外来の文化を取り入れて、それを自分のものとして咀嚼し、自国の風土に合ったものとして作り変えていくことにあります。

近世までは、特に仏教、禅宗、キリスト教などの宗教の伝来は色彩にも大きく影響を与えました。禅宗の理念は多彩な色彩を否定して黒(墨)1色で表現する禅宗文化となり、水墨画や枯山水が生まれました。キリスト教文化は一気に鮮やかな色をもたらし、文明開化は色彩開化でもありました。

思想や精神性が文化の形成に結びつき、ストレートに色彩に表れる事象は改めて興味深く感じました。

現代でも海外の文化との融合は活発ではありますが、かつては西洋文化の輸入がほとんどだったのが、最近ではクールジャパンなど、日本の文化が海外に影響を与えるケースも増えています。

そこに色彩の影響まであるのかは分かりませんが、一つの視点として見てみるのは面白いかもしれません。

<今回ご紹介した書籍>
『日本の色のルーツを探して』
城一夫/ パイ インターナショナル

細萱久美 ほそがやくみ
東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。


文:細萱久美
写真:木村正史、山口綾子

第3回 浅草「助六」江戸趣味小玩具のずぼんぼの寅を訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介します。

連載3回目は寅年にちなんで「ずぼんぼの寅」を求め、東京都・浅草にある助六を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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遠くに見えるスカイツリー

浅草で地下鉄を降りる。私が選んだ虎に会いに行くのだ。

駐車用コーン

虎はいったいどこに隠れているのだろう。青い尻尾を持っているのかな?

大きな草履の飾り物

ひょっとしたら、忍び足で歩くために草履を履くのかも?

意地悪なのかも?寺の番人まで驚かせてしまったのか?

いずれにせよ、ここまで紐をひっぱるとは、なんと強い奴なんだろう!

いや違った!とても可愛い小さな紙の寅は、仲見世にある、商品で満ちあふれた小さなお店、木村さんの経営する助六で見つかった。

紙、のり、そして立つための4つのシジミ貝でできている。なんと素晴らしいシンプリシティ!

パラシュートのようなお腹と足につけた4つのシジミ貝のおかげで、いつも足を下に着陸する。すごい!

店を出たら、あちこちに奴が見えるようになった‥‥。これは地下鉄の通路。

そして路上にも。いつまで追いかけてくるんだろう?!

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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

フィリップ・ワイズベッカー氏
写真:貴田奈津子

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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贅沢禁止令から生まれた、江戸の豆おもちゃ

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、江戸のおもちゃの成り立ちやワイズベッカーさんと共に訪ねた助六のこと、ずぼんぼ製作の裏側などを、解説したいと思います。

こんにちは。中川政七商店の日本市ブランドマネージャー、吉岡聖貴です。

「江戸趣味小玩具」という言葉をご存知でしょうか?

江戸趣味小玩具とは、江戸時代より浅草に伝承されている精巧な細工を施したこぶりなおもちゃ。「豆おもちゃ」と呼ばれます。誕生のきっかけは、八代将軍吉宗が出した「奢侈禁止令」といわれる贅沢禁止令でした。

この法令により、裕福な町人が楽しんでいた大型の玩具や豪華な細工の施されたおもちゃはご法度に。

その代わり、江戸時代の人はできるだけ小さなサイズの玩具に精巧な細工を施したり、言葉遊びを取り込んだ江戸趣味の小玩具を作り、こっそり楽しむようになったそうです。

貧しくとも心豊かに暮らそうという江戸っ子らしさだったのかもしれませんね。

そんな江戸趣味小玩具を現在でも扱う店は、全国で浅草に1軒のみ。仲見世宝蔵門前の「助六」が今回の目的地です。

浅草寺の雷門をくぐった先にある、日本で最も古い商店街の一つ「仲見世」

浅草寺の境内には、昔から数々の郷土玩具があったようですが、震災や戦争による焼土、戦後のめまぐるしい変化を経て廃絶した品も多くある中で、助六では今もなお力強く残っているものや、復活したものなどを見ることができます。

日本で唯一の江戸趣味小玩具の店

助六は江戸末期創業。今から約150年前の1860年代、初代木村八十八氏が浅草寺宝蔵門前の現在の地に玩具店を出したのが始まりだそうです。現在は5代目の木村吉隆さんと6代目の息子さんを中心に、家族5人でお店を経営されています。

豆玩具を見つめるお客さんで賑わう助六
5代目店主の木村吉隆さん

まず圧倒されるのは、9平米しかないという店内にびっしりと並んだ豆玩具の数。伺うと、現在約3500種類が揃っていて、戦前は加えて全国の玩具も扱っていたそうです。

これらは全て助六のオリジナルで、それぞれ担当の職人がつくっています。40年前に5代目が店を継いだ時、玩具をつくる職人は約50名いたそうですが、高齢化や後継者不足で減り、現在は23名の手で作られています。

シジミの蹄をおもりにゆらり、ゆらり

今回のお目当てであるずぼんぼは、紙製の江戸玩具の一つ。江戸時代から浅草寺門前で売られていたことが、江戸・明治期の書物に記録されています。

明治に入って以降、何度か廃絶と復活が繰り返されたようですが、昭和期に再度復活してからは東京の郷土玩具として残り続けています。現在、助六では「獅子舞」と「虎」の2種類が並びます。

全国に紙製の郷土玩具は数多くありますが、それらは前回紹介した赤べこと同じ張子製がほとんどであり、ずぼんぼのように紙を折って作る玩具は、珍しいものです。

今回は特別に、ずぼんぼを作られている職人の森川さんに、製作工程を見せていただきました。

現在ずぼんぼを作られている森川さん

まずは黒い模様を印刷した黄色の色紙を切り取り、長方形の箱型に組み立てて糊付けし、「胴体」をつくります。

次に、「足」を取りつけるため、蹄に見立てたシジミ付きの赤い色紙を、胴体の四隅に糊付けします。

そして、模様が描かれた黄色い色紙で頭部と尾をつくり、胴体に糊付けして完成です。

切り取られた胴体のパーツ
組み立てた胴体 (奥) とシジミに赤紙を付けた足のパーツ (手前)
胴体の四隅に足を貼り付ける
顔と尾を貼り付けてずぼんぼの虎が完成

シジミ貝を蹄に見立てた足がなんとも特徴的です。「以前は、隅田川沿いにある浅草でもシジミが捕れたため材料に使用したのではないか」と森川さん。

遊び方は、ずぼんぼを屏風や部屋の角など衝立となるものの前に置き、団扇であおぐことで、胴体の箱に風が入ってふわりと宙に浮きます。4本の足につけられたシジミ貝が錘の役割を果たし、飛び上がってしまうことなく空中で微妙に揺れ動くのです。

また、ずぼんぼとは、獅子舞の囃子言葉からきたもので、明治期の書物によると、これを見ている周囲の人たちは「ずぼんぼ ずぼんぼ」と手拍子を打って囃したそうです。

飾り気はなく、風の流れを目に見える形で楽しませる。この単純ながら優れた玩具は、宴席の余興として、粋な江戸っ子に愛されたことでしょう。

勇敢な動物だけがずぼんぼになれる?

「ずぼんぼ」の由来は、獅子舞のときの囃子詞だと言われています。今回取り上げたのは虎ですが、江戸時代の文献には虎の存在は確認できないため、当初のずぼんぼは獅子の形をしたものの一種ではなかったかと考えられます。

このことからも、獅子舞の際の囃子詞を玩具の名前に用いたといってよさそうです。

「ずぼんぼ」の言葉の意味は、木村さんの推測では「すっぽんのことだったのではないか」とのことですが、残念ながら判然とした答えがありません。(ご存じの方がいらしたら、ぜひ教えてください!)。

いずれにせよ、獅子や虎などの勇敢で強い動物をモチーフにしたずぼんぼは、「江戸のおもちゃは子どもの健康を願ってつくられた」という木村さんの言うとおり、どんな苦難にも負けずたくましく成長してほしいという子どもへの願いが込められたものだったのかもしれません。

次回はどんないわれのある玩具に会えるでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第3回は東京・ずぼんぼの虎の作り手を訪ねました。それではまた来月。

第4回「石川・金沢のもちつき兎」に続く。

<取材協力>
助六
東京都台東区浅草2-3-1
営業時間 10:00~18:00 (定休日なし)
電話 03-3844-0577

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

芸術新潮」12月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

焼き物だけじゃない、1泊2日の益子旅

こんにちは。さんち編集部です。

11月の「さんち〜工芸と探訪〜」は栃木県の益子特集。あちこちへお邪魔しながら、たくさんの魅力を発見できました。

益子といえば “焼き物の町” として有名ですが、それだけではない、あらゆる工芸の魅力が詰まった地域なんです。編集部おすすめの1泊2日のプランをご紹介します!


今回はこんなプランを考えてみました

1日目:自然豊かな茂木町と益子町を堪能

・ドライブイン茂木:気持ちのいい開放感を味わえるさんち必訪の店
・公益財団法人 濱田庄司記念益子参考館:人間国宝が愛した工芸品と建築物を楽しむ
・益子焼窯元 つかもと:「峠の釜めし」の釜をつくる窯元が運営。益子焼のテーマパーク
・フォレストイン益子:森と共生する公共の宿

2日目:自然豊かな景色を眺めながらドライブも楽しむ

・赤羽まんぢう本舗:濱田庄司も愛した「おまんぢう」
・西明寺:閻魔大王が笑う、益子の古刹
・木のふるさと伝統工芸館:伝統的な彫刻屋台、鹿沼組子などが一同に揃います
・みよしや:餃子だけじゃない宇都宮の名物かぶと揚げ
・丹波屋栃木銘店:ガチャガチャでしか手に入らない、特別な益子焼

では、早速行ってみましょう!


1日目:都会の喧騒をはなれ、町の小景がある「ドライブイン茂木」へ

1泊2日の益子旅は「ドライブイン茂木」からスタート。東京からは車で2時間、益子駅からは車で30分ほどの場所にあります。

【昼】気持ちのいい開放感を味わえるさんち必訪の店
ドライブイン茂木

ドライブイン茂木

2016年7月にできたドライブイン茂木。この地域に生きる人やこの土地の風景、生み出される作物の「美しさ」を伝えるために始まりました。

天井が高く、広々とした造り

もともとは瓶詰め工場だけでしたが次々と人が集まり、現在居を構えているのは瓶詰め工場、カフェ、パン屋、古本屋、お菓子屋の5店舗です。その他にも茂木で生まれるものと、できることで土地の魅力を伝えてくれています。

>>>>>関連記事 :山の中の、みんなの場所。気持ちのいい開放感を味わう「ドライブイン茂木」

【午後】人間国宝が愛した工芸品と建築物を楽しむ
公益財団法人 濱田庄司記念益子参考館

益子焼を一躍有名にした人間国宝の陶芸家、濱田庄司。濱田庄司記念益子参考館は、その収集品を工芸家や一般の人々にも「参考」にしてほしいとの思いのもと、設立された美術館です。

益子の中心地から少し離れた場所にある「濱田庄司記念益子参考館」。お屋敷のような門構え
益子の中心地から少し離れた場所にある「濱田庄司記念益子参考館」。お屋敷のような門構え
フクロウの人形(アメリカ・インディアン)
フクロウの人形(アメリカ・インディアン)
鳥をモチーフにした、色鮮やかなパナマの織物
鳥をモチーフにした、色鮮やかなパナマの織物

ジャンルは焼き物に限らず、織物・石工品・家具など様々で、世界各地、あらゆる年代の工芸品が展示されています。

>>>>>関連記事 :世界の民芸品が2000点!人間国宝・濱田庄司のコレクションが見られる資料館

【午後】「峠の釜めし」の釜をつくる窯元が運営。益子焼のテーマパーク
益子焼窯元 つかもと

つかもとトップ

駅弁「峠の釜めし」の釜を作る、益子焼最大の窯元「つかもと」。創業150年以上続く老舗の窯元は、益子の中心街から車で10分ほどの場所にあります。

益子焼とつかもとの歴史を学ぶこともできる
益子焼とつかもとの歴史を学ぶこともできる
売店では、つかもとをはじめ、様々な益子焼の窯元の焼き物を購入できる
売店では、つかもとをはじめ、様々な益子焼の窯元の焼き物を購入できる

自然に囲まれた広大な敷地内にはいくつもの建物が建ち並び、益子焼の工房見学に陶芸体験、買い物、美術記念館、益子焼の器を使った食事など、益子焼の魅力を存分に味わうことができます。

>>>>>関連記事 :「峠の釜めし」が益子焼を救った!?人気駅弁の誕生秘話。

【宿】森と共生する公共の宿
フォレストイン益子

自然の豊かな益子は、宿に至るまで。益子県立自然公園「益子の森」入り口にある公共施設「フォレスト益子」に宿泊します。建物は、海の博物館や牧野富太郎記念館などを手掛けた建築家の内藤廣 (ないとう・ひろし) による設計で、その一角が「フォレストイン益子」として宿泊できるスペースになっています。

フォレストイン益子 レギュラーツイン
シングルベッド2台のレギュラーツインは、隣室とコネクティング可能

木材をふんだんに使い、森の中に溶け込むかのようにたたずむ宿で過ごしていると、自分自身もその一部になったかのよう。周囲は静かながらも、鳥のさえずりや風が木々を揺らす音など、森の息づかいを感じられますよ。

2日目:中世建築から伝統工芸まで、豊かな森の恩恵があちらこちらに

益子は、街なかに室町時代の建築物が数多く残っており、そのうち7つが国指定重要文化財なんだそうです。2日目は、宿から車で10分ほど。珍しい閻魔大王さまに会いに出かけてみようと思います!おっとその前に、益子では外してはいけないおやつのご紹介です。

【午前】濱田庄司も愛した「おまんぢう」
赤羽まんぢう本舗

赤羽まんぢう本舗

赤羽まんぢう本舗は、1924年 (大正13年) 創業の和菓子屋さん。創業時から全ての和菓子を一つひとつ手づくりしています。看板商品の「茶まんぢう」は、益子を代表する陶芸家・濱田庄司のお気に入りの一つだったそう。

赤羽まんぢう
左から、ゆずまんぢう、茶まんぢう、きんとんまんぢう。いずれも1個95円(税込)

【午前】閻魔大王が笑う、益子の古刹
西明寺

西明寺・楼門
西明寺・楼門

益子町を見下ろす高館山、その中腹に位置する西明寺は、737年に行基によってひらかれた古刹です。境内には国の重要文化財に指定された室町時代の建築物が3つあり、中世建築の重厚さを間近で見ることができます。

また、世にも珍しい「笑い閻魔」も見もの!天然記念物のコウヤマキやシイの巨木も生育するなど、豊かな緑に囲まれた西明寺。ハイキングがてら、歴史と風情を感じたいものです。

西明寺の笑い閻魔
西明寺の笑い閻魔

>>>>>関連記事 :益子は「たてもの」も面白い。閻魔大王が笑う西明寺へ
>>>>>関連記事 :益子の見どころは「屋根」にもあり。中世建築でめぐる4つの文化財

【午後】伝統的な彫刻屋台、鹿沼組子などが一同に揃います
木のふるさと伝統工芸館

午後からは鹿沼市方面へ。西明寺からは車で1時間のドライブです。木工技術の粋を「木のふるさと伝統工芸館」で見ることができます。

石橋町の彫刻屋台
江戸時代、石橋町は花街だったことから、色彩鮮やかな花鳥の彫刻が艶やかな屋台です
花形組子障子
今の組子とは違うが、菱形のデザインは同じ
桐の模様が美しい書院障子。鹿沼組子書院障子は、栃木県の伝統工芸品に指定されています

日光東照宮を造営の折、全国から集められた腕利きの大工職人たちが仕事のない冬場や帰郷の際に滞在し、その技術を伝えたのが現在まで400年続く鹿沼の木工技術のはじまりとも言われています。

>>>>>関連記事 :動く文化遺産。日光東照宮の美を受け継ぐ、鹿沼の彫刻屋台
>>>>>関連記事 :生み出す模様は200種以上。400年の技を受け継ぐ鹿沼組子

【夕方】餃子だけじゃない宇都宮の名物かぶと揚げ
みよしや

旅も後半に近づいてきました。宇都宮市の繁華街まで車で30分ほど。何やら香ばしい香りが漂います。

二つ並んだかぶと揚げ

鶏の半身を丸ごと揚げた、宇都宮名物「かぶと揚げ」。2つ並べると「兜」のような形になることからその名がついたそう。1963年、焼き鳥屋として創業した「みよしや」のご主人が、食べ応えのあるものを食べさせたいと考案。大きな唐揚げは評判となり、創業当初から現在まで変わらぬ味で地元、宮っこのお腹と心を満たしてきた一品です。

かぶと揚げを揚げているところ
箸で肉を広げながら中まで火を通していく。満足いくように揚げられるまで半年はかかるという

【夕方】ガチャガチャでしか手に入らない、特別な益子焼
丹波屋栃木銘店

最後に、忘れてはいけない益子ならではのお土産を。JR宇都宮駅の宇都宮駅ビルパセオにある丹波屋栃木銘店。1690年 (元禄3年) 創業の卸問屋、丹波屋が手掛けるお店です。ここにはなんと益子焼史上初となる同店限定の益子焼のカプセルトイ、いわゆるガチャガチャがあります。

益子焼ガチャガチャ
たくさん集めて、こんな風にボックスに飾っても素敵です
益子焼ガチャガチャ
こちらはカップ3兄弟。ガチャガチャのラインナップはお皿が多めなので、もし当たったらラッキー

益子をめぐる1泊2日の旅、お楽しみいただけたでしょうか?歴史ある工芸と、豊かな自然あふれる益子。ぜひ訪れてみてください。

さんち 益子ページはこちら

撮影:岩本恵美、尾島可奈子、坂田未希子、竹島千遥、西木戸弓佳