わたしの一皿 血湧き肉躍る

物申したいことがたくさんある。政治や環境、経済‥‥、いろいろありますけれどもね、今日はもっと小さなテーブルの上の話。みんげい おくむらの奥村です。

肉より魚派の私ですが、たまにはガツンと肉を食べたくなる。そんな時は簡単で、ズドンと肉を食べられるステーキを焼く。

 

物申したいのは、このステーキなのです。先に言っておこう。肉には罪はない。A5の和牛だろうと、赤身だろうと、オージー、US‥‥なんだろうと、どうぞお好みで。今日は宮城県の牛肉の「ザブトン」。

牛肉のザブトン

ちょっと奮発した。赤身と脂身がずいぶん美しいじゃないですか。赤身が好きなので脂はこれだけあればもう充分。

さてステーキの何に物申したいのかと言えば、それはもう圧倒的に「付け合わせ」。こんなことにムキになるのと言われそうだが、そりゃムキにもなる。どこへ行っても、何も考えずにんじん、じゃがいも、それにクレソン (もしくはインゲンか謎のパセリ) 、だ。

そこに季節はあるのかい。それが本当においしいのかい。じゃがいもやにんじんは今やスーパーに行けば365日買えない日はない。飲食店もそりゃ楽だろう。クレソンも最近じゃスーパーにも置いているが、これがなかなかお高いし、正直なところ味もさほど。

家でステーキを食べるなら、この妙な呪縛から解放されるべきでしょう。付け合わせなんて、季節の野菜で十分だ。ということで今日はシェフ奥村 (自称) が、3種の野菜を用意しました。

山形の温海かぶは甘酢漬けに。野菜の甘酢漬けは常備菜。何らかいつもあると便利。このかぶは色がきれいですね。よい口直し。今日は脂もしっかりした肉なので、大根おろしもほしいところ。冬に向かって大根がどんどんおいしくなる。これは地元千葉の大根です。

もう一種、の前に肉を焼く。主役の肉は常温に戻して、しっかり熱したフライパンで外をガリっと。

ホイルで包んで休ませて、好みの厚みに切るだけ。この見た目、もはやタタキ。実にニクニクしい。

牛肉を切っているところ

最後に、高知の甘長とうがらしは肉を焼いたあとの脂で炒めて、醤油でしっかりと味付け。肉は薄めの塩胡椒のみなので、一緒に食べれば醤油の香りが効いてきます。

付け合わせ、かぶと甘長とうがらしは実は見切り品だったのですよ。肉で贅沢。ここで節約。ふふふふふ。

肉も付け合わせもバチっと決まったらうつわ選び。意外とこれが悩ましい。洋食器はだいたいフラットなんですが、うちで取り扱う皿のほとんどはフラットではなく、深さがある。

これは登り窯で焼かれるうつわが多いからで、多くの産地のうつわが、平らだと土の質として、焼成の時にへたってしまって変形してしまう。なのでフチが上がった、少し深さのある皿が多い。せっかくステーキなので、今日は熊本のまゆみ窯にお願いしている平らなお皿を使いました。

牛肉と3種の野菜の付け合わせ

洋風な食材が増えたり、「ワンプレートで」なんてご飯のあり方から、こういったお皿の要望は多い。この皿は、パンの時にもよく使うし、おにぎりとおかず、なんて時にもかなり使い勝手がいい。

日本のうつわの風合いを持ちながら、現代的な生活に合うこんなうつわ。よいもんです。まゆみ窯は、窯元の真弓さんご夫妻が、熊本伝統の小代焼 (しょうだいやき) の窯元ふもと窯に学び、独立した。

民窯に習った確かな技術と、今の暮らしに添った形取りのバランスがよく、うつわ選びのスタートに実はとてもおすすめしたい窯元。

肉よりもうつわよりも付け合わせに熱くなった今回の話。せっかく熊本のうつわだから、熊本の牛肉があれば。と思ったけどうちの近くの肉屋で熊本の「あか牛」売ってるのは見たことがない。

熊本で以前いただいて、ほっぺた落としてきた肉なので、熊本に行かれる用事のある方はぜひ「あか牛」もお試しください。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文:奥村 忍
写真:山根 衣理

デザインのゼロ地点 第10回:六角棒スパナ・六角穴付ボルト

こんにちは。THEの米津雄介と申します。

THE(ザ)は、ものづくりの会社です。漆のお椀から電動自転車まで、あらゆる分野の商品をそのジャンルの専業メーカーと共同開発しています。

例えば、THE ジーンズといえば多くの人がLevi’s 501を連想するはずです。「THE〇〇=これぞ〇〇」といった、そのジャンルのど真ん中に位置する製品を探求しています。

ここでいう「ど真ん中」とは、様々なデザインの製品があるなかで、それらを選ぶときに基準となるべきものです。それがあることで他の製品も進化していくようなゼロ地点から、本来在るべきスタンダードはどこなのか?を考えています。

連載企画「デザインのゼロ地点」、10回目のお題は「六角棒スパナと六角穴付ボルト」。

組み立て家具や自転車などに必要な、あれ

六角棒スパナは、いわゆる「六角レンチ」のことですが、自身で工具を扱う人であればアーレンキーやヘキサゴンレンチという呼び名の方がしっくりくるかもしれません。ここでは日本工業規格 (JIS B4648) での呼称から、六角棒スパナと呼ぶことにしました。

六角棒スパナ

六角棒スパナは、六角穴付ボルトを締付けるための単一機能工具で、組み立て式の家具や自転車などに多く使われています。六角穴付ボルトのサイズにピッタリ合ったものしか使えないため、ボルトを壊すことなく強い締め付けが可能です。

「六角穴付ボルト (通称キャップボルト)」・円筒形の頭部に六角形の穴が開いているボルト

六角棒スパナは六角形の金属棒を曲げただけのすごくシンプルな道具ですが、ボルト・ナットを留めるスパナや、マイナスドライバー、プラスドライバー等、様々な規格の中で、歴史的には後発として生まれた工具になります。

そもそもボルト・ナットのネジ構造でモノを固定する (締める) という発明は、日本を含めて東洋では独自には生まれなかった工法で、その歴史には一般にもよく知られる多くの偉人が関与しています。

その起源は古代ギリシャまでさかのぼる

ネジ自体が生まれた時期や背景は定かではなく諸説あるのですが、回転運動を直線運動へ変換する螺旋構造の仕組みを最初に機械に使用したのは古代ギリシャの数学者として知られるアルキメデスだと言われています。

円筒状の筒の中に大きなネジを入れた揚水用のアルキメディアン・スクリューと呼ばれる機械を発明し、灌漑 (かんがい) や船底の水の汲み上げ、鉱山に溜まった水を排出することなどに使われていたようで、労力に比べ極めて効率的に揚水することができたそうです。

円周率や対数螺旋で有名な数学者であるアルキメデスならではの発明と言えるのかもしれません。そしてこの方法は現代でも使われるベルトコンベアの原型にもなっています。

古代ギリシャでアルキメデスが考案したアルキメディアン・スクリュー

アルキメディアン・スクリューの発明は、その後、木の棒で作られたネジを利用してオリーブやブドウなどの果汁を搾るネジ式圧搾機などに転用されます。現在わかっている範囲では、それらの螺旋構造を経て、ローマ人がボルト・ナットを建築や構造物に使用しているのが発見されているそうです (ここら辺の発明や使用実績の経緯が諸説ある) 。

そこからさらに時代が飛びますが、レオナルド・ダ・ヴィンチが残したスケッチにも、タップ・ダイスによるネジ加工の原理があるそうです。このことから、おそらく1500年前後には金属製ボルト、ナット、小ネジ、木ネジ類が実用化されていたと予想されています。

そして、日本に伝来したのは戦国時代

日本へのネジの伝来は、1543年に種子島に漂着したポルトガル人の船長から、藩主種子島氏が鉄砲二挺を二千両で購入したことから始まります。

その藩主から一挺の鉄砲を与えられその模造を命じられた刀鍛冶の名人、八坂金兵衛がどうしても造れなかった部品がネジだったといいます。銃底を塞ぐための尾栓ネジの雄ネジ (ボルト側) はなんとか造りましたが、困難だったのは雄ネジがねじ込まれる銃底の筒の中の雌ネジ (ナット側) でした。

1543年に種子島に伝来した鉄砲

金属加工の工具としては、「やすり」と「たがね」しかなかった当時、金兵衛の試行錯誤の末、尾栓の雄ネジを雄型として、火造り (熱間鍛造) で銃底に雌ネジを製作したのが、日本のネジ製造の起源として伝えられています。

産業革命で画期的なネジ製造法が開発される

1600年代に入ると、世界中で時計などの精密機器に様々なネジが使われるようになります。ただ、この頃のネジ製造はまだまだ職人の手作りの世界で、同じ職人やメーカーによってボルトとナットはセットで製造されていて、隣町に行くと大きさや規格が違う、といったことが多くあったそうです。

その流れが大きく変わるのはやはり1700年代半ばの産業革命から。

イギリスのミッドランド地方出身のワイアット兄弟が、手で刃を動かしてネジを切る代わりに、カッターで自動的にネジを切れるような仕組みを考案し、それまで1本の製造に数分掛かっていた作業をわずか6~7秒で作ることができるようにするという画期的なネジ製造法を開発しました。

ワイアット兄弟は「鉄製ネジを効率的に作る方法」で特許を取り、世界初のネジ工場を作りますが、事業は失敗に終わり、その工場の継承者が事業化に成功します。

その後、蒸気機関の活用など各種の改善を経て、船や家具、自動車、高級家具などの需要の高まりとともに大量のネジが作られることになるのです。

そしてこの頃から地域差をなくす規格統一の動きが少しずつ始まります。

27歳のカナダ人、六角穴付ボルトの元祖をつくる

さて、肝心なネジの形状ですが、実は1500年前後から1800年代まで、ネジの頭部は四角か八角形をしていて外側からスパナで留める形状か、1本の溝が入ったマイナスネジのようなものが主流でした。

ただ、溝つきネジは、ネジ回し (今で言うマイナスドライバー) と溝がしっかり噛み合わないため、溝をだめにしてしまうことが多く、この改良のために1860年から1890年にかけて世界中で様々な特許が出願されています。

穴付ネジの種類

六角穴付ボルトに通ずるものが生まれたのは1907年。

カナダ人のピーター・L・ロバートソン (当時27歳) が「四角い凹開口部を持ったソケット付きネジ」の特許を取得し事業化したことが始まりです。

特別に作った四角い先端を持つネジ回しで、すべる事なく、片手で扱える便利なネジとして市場に受け入れられました。

北米で自動車製造が始まり、フォード自動車の木製の車体をカナダで製造していたフィッシャー・ボディ社やフォードT型モデルの生産工場もこの四角い穴のついたネジを大量に採用したそうです。

1930年代以降には、現在でも広く使われるフィリップスネジ (プラスネジ) や、回転方向だけに力をかけやすくして開け締めをしやすくした六角穴付ボルトが自動車産業や軍事産業に広く採用されていきます。

とはいえ、まだまだ各国ごとにそれぞれ異なるネジ規格が存在していたため、国際間の物流の拡大につれて不便が生じ始めます。世界的なネジの互換性の要求が高くなり、第二次世界大戦後の1947年に国際標準化機構(ISO)が設立され、「ISOメートルネジ」規格が制定されました。

日本でも、1949年6月1日に生まれた日本工業規格(JIS)によってねじの標準規格が作られています。

ネジの頭を挟んで締める四角形や八角形のネジから、ネジ頭に溝を入れたマイナスネジ、溝を十字にすることで力のかかり方を分散したプラスネジ、そして、垂直方向へ押し付けるのではなく回転方向だけの荷重で扱えるようにした六角穴付きネジ。

ネジの長い歴史の中で、ボルトへの負担軽減と締め付け強度を求めて作られた六角形状は、見た目はシンプルですが、その裏にはたくさんの試行錯誤と歴史がありました。

今でも広く使われる「六角棒スパナ」。
シンプルなだけに材質の強度や粘り、持ち手の角の取り方や塗装の耐久性など、地味で気付きにくいディテールにデザインの良さが潜んでいる気がします。

今回はその代表的なメーカーを3つご紹介して締めくくりにできればと思います。

スイス、イタリア、日本の代表的なメーカー3社

PB SWISS TOOLS
出典:https://www.pbswisstools.com/ja/

PBは、六角棒スパナをはじめハンマー・ドライバーなどを製造するスイスの工具メーカー。元は農機具メーカーですが、創業は1800年代後半という老舗です。

写真の製品は9本組みでサイズ毎に色分けがされていて見分けがつきやすく (これ、ユーザー視点からはものすごく便利です!) 、10年以上使っていますが塗装も経年で剥がれたりすることがありません。

良質な鋼材はよくしなって適度な締め付けトルクを確保してくれると同時に、折れたり曲がったりする心配がなく、安心して使えます。

Beta T型ハンドルヘキサゴンレンチ

1923年にイタリアで創業されたBeta (ベータ) 、オレンジカラーで統一された商品が特徴です。1970年代にはF1などのモータースポーツのスポンサーとして活躍。

フェラーリのサポーターとしても有名です。

セットではなく、必要なサイズをバラで使うなら最高です。よく見ると、強度保管のために丸棒を六角に削り出して作っているのがわかります。

エイト 出典:http://www.eight-tool.co.jp/

エイトは、六角棒スパナに特化した国産メーカー。六角棒スパナ専門のため、世界中の様々なブランドの製品のOEM先でもあります。増し締めパイプが付いていたり、日本のメーカーらしい気遣いが随所に見られます。

デザインのゼロ地点「六角棒スパナ・六角穴付ボルト」編、いかがでしたでしょうか?

次回もまた身近な製品を題材にゼロ地点を探ってみたいと思います。それではまた来月、よろしくお願い致します。

米津雄介
プロダクトマネージャー / 経営者
THE株式会社 代表取締役
http://the-web.co.jp
大学卒業後、プラス株式会社にて文房具の商品開発とマーケティングに従事。
2012年にプロダクトマネージャーとしてTHEに参画し、全国のメーカーを回りながら、商品開発・流通施策・生産管理・品質管理などプロダクトマネジメント全般と事業計画を担当。
2015年3月に代表取締役社長に就任。共著に「デザインの誤解」(祥伝社)。


文:米津雄介

【 111枚のふきんをプレゼント 】グッドデザイン賞受賞と1周年の感謝を込めまして

こんにちは。さんち編集部です。

オープンから1周年を迎えお祝いモードの「さんち」ですが、本日もう一つ嬉しいお知らせをいただきました。

「グッドデザイン特別賞」と「グッドデザイン・ベスト100」を受賞

2017年11月1日(水)発表の公益財団法人日本デザイン振興会主催「2017年度グッドデザイン賞」において、『グッドデザイン・ベスト100』『グッドデザイン特別賞[ものづくり]』の各賞を受賞いたしました。1周年の節目での受賞は大変うれしく、とても励みになります。

ひとえに、読んでくださっている皆さまをはじめ、私たちの試みにお応えくださった取材先の方々のおかげです。あらためて御礼申し上げます。ありがとうございます。

蚊帳生地ふきん 111枚をプレゼントします!

ふきんプレゼントキャンペーン

メディアサイト「さんち ~工芸と探訪~」のオープン1周年と、同賞受賞を記念し、日頃のご愛顧に対する感謝の気持ちを込めまして、プレゼントキャンペーンを実施します。

プレゼントは、運営会社の中川政七商店の看板商品、創業の地・奈良の特産である蚊帳生地で作ったふきん。記念すべき日である11月1日にちなんで、111枚セットで1名様に贈呈します。

キャンペーン応募方法

1.「さんち ~工芸と探訪~」のFacebookページの投稿にアクセス
2. お題「もし、111枚のふきんが当たったらどんな使い方をしたいか」に対する回答を添えて、記事をシェア
※ シェアはFacebookの「シェアする」ボタンより、ご自身のタイムラインへシェアしてください。さんち編集部が確認ができるように「公開」の設定でお願いします。

応募締切:2017年11月11日11時11分

たくさんのご応募、お待ちしております!

「さんち」の入りぐち ご挨拶にかえて

こんにちは。あなたの“旅のおともメディア”こと「さんち ~工芸と探訪~」です。

さんちは、暮らしの道具である「工芸」と、その「産地」にまつわるメディアです。実際にわたしたちが現地を訪れ、住む人にお話を聞き、その体験を持ち帰っては、あなたへ一通、一通とお手紙を贈るように読みものをつくっています。それから、各分野の目利きによる連載も見どころのひとつです。

さんち〜工芸と探訪〜_さんちの入口

工芸にながれる物語、産地にきらめく一瞬が、あなたのまだ知らぬ発見を後押しできたら。そして、あなたが旅先でさんちのアプリを開いてくれたら。そんな想いを胸に、2016年11月1日から今日まで続けてきました。

ここでは、1年間にわたってお届けした読みものから、わたしたちを知ってもらうのにぴったりのものを選んでみました。まずはひとつ、興味のドアを押してみてもらえたらうれしいです。

たとえば、こんな読みものをつくってきました

工芸カテゴリー/さんち〜工芸と探訪〜

世界にたった2人の職人がつくる、花から生まれた伝統コスメ

さんち〜工芸と探訪〜 伊勢半本店の紅

24歳の職人が作る、倉敷のスイカかご

さんち〜工芸と探訪〜すいか籠・かご
探訪カテゴリー/さんち〜工芸と探訪〜

将棋駒という闘いの道具に隠された物語
映画「3月のライオン」の将棋駒を追って

さんち〜工芸と探訪〜映画「3月のライオン」の将棋駒を追って

燕のメディアを目指す、ツバメコーヒー

さんち〜工芸と探訪〜燕三条 ツバメコーヒー
人カテゴリー/さんち〜工芸と探訪〜

ルーヴル美術館にも和紙を納める人間国宝・岩野市兵衛の尽きせぬ情熱

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛

「この漆器がつくれるなら、どこへでも。」移住して1年。職人の世界と、産地での暮らしを聞きました。

鯖江・漆琳堂の塗師・嶋田希望さん/さんち〜工芸と探訪〜
食カテゴリー/さんち〜工芸と探訪〜

宍道湖七珍、最高のシジミ汁で〆る松江の夜

宍道湖七珍、最高のシジミ汁で〆る松江の夜

日本全国雑煮くらべ
ご当地のお椀でご当地のお雑煮をいただく、をやってみました

日本全国雑煮くらべ ご当地のお椀でご当地のお雑煮をいただく、をやってみました
連載カテゴリー/さんち〜工芸と探訪〜

デザインのゼロ地点「スウェット」
米津雄介
(プロダクトマネージャー/THE代表取締役)

デザインのゼロ地点 第9回:スウェット

わたしの一皿「実りの秋に実らぬ土地もある」
奥村忍
(株式会社奥村商店 みんげいおくむら 代表)

みんげいおくむらの奥村さんによる連載 わたしの一皿・やちむん恩納村の照屋窯のうつわ

気ままな旅に、本「伊賀で目にうつる全てのことはメッセージ」
幅允孝
(有限会社 バッハ代表・ブックディレクター)

ブックディレクター・BACH 幅允孝( はばよしたか )による連載・気ままな旅に、本/さんち〜工芸と探訪〜

さんちのリズムは朝10時

さんちは毎日10時に新しいコンテンツをお届けします。 それから毎月、どこかの地域を特集します。工芸、探訪、食、宿、商い、人‥‥といったジャンルを扱います。

旅のおともにさんちのアプリを

さんちはウェブとアプリでお楽しみいただけます。アプリでは、気に入った記事や産地をお気に入りできる「栞」や、あなたにあった読みものをおすすめする機能付き。さらに、現在地にまつわる情報を探せたり、見どころスポットを訪ねるとオリジナルの「旅印」がもらえたりと、使うほどに“自分だけの手帖”に育つ、旅のおともアプリです。

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「さんち」に込めた想いがあります

このメディアでは「産地」と「さんち」、二つの言葉が登場します。

「産地」とは、ある工芸が、その土地の産業として発展してきた場所を指します。わたしたちは、その場所が外からもっと人を招き入れるところになってほしいという願いを込め、あたらしい価値を輝かせるために「さんち」と呼んでいます。

「さんち」では、工芸の作り手だけでなく、ものの使い手/伝え手が集い、交流します(三智)。ものが生まれるところに買う・食べる・泊まるところが寄り添います(三地)。「○○さんち」にお邪魔して感じるような、その土地にしかない個性を感じられます。

全国の産地が「さんち」になり、そのまわりでみんなが豊かな暮らしを実らせてゆく。わたしたちはそんな少し先の未来を思い描きながら、このメディアをつくっています。

愛着の持てる道具と、それをつかって暮らす毎日につながる、発見にみちた産地旅のおともに。さんちは日本全国の工芸と産地の魅力をお届けします。

どうぞ、ご期待ください。そして一緒に、旅をしましょう。

福島の郷土玩具 「野沢民芸」会津張子の赤べこを訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

普段から建物やオブジェを題材に、日本にもその作品のファンが多い彼が、描くために選んだ干支にまつわる12の郷土玩具。各地のつくり手を訪ね、制作の様子を見て感じたその魅力を、自身による写真とエッセイで紹介していただきます。

連載2回目は丑年にちなんで「会津張子の赤べこ」を求め、福島県西会津町にある「野沢民芸」の工房と店舗を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイから、どうぞ。

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小さい牛に会うために、郡山駅で電車を乗り換えた。駅のあらゆる壁面に牛がいる。この地方でとても人気があるのを知って安心した。

会津若松駅に到着。私たちを待ってくれていた。

お利口だ!ボタンを押すと、頭まで下げてくれるのだ。駅の出口にて。

本当にどこにでもいる。たとえば、道の駅のパーキングの入り口にも。

はたまた、小売店の前でガーデニングをしたり。

そして、もちろん円蔵寺にも。先祖の牛の横に赤毛の牛がいる。

小さな牛はピノキオのように、職人の巧みで器用な手から生まれてくる。

現代アートに見えてくる。これは、紙のペーストで小さな体をつくるのに必要な型の外側。

太陽の光を避ける日本人のように、日陰で、仲間と一緒に乾かされる。

専門家の手によって、はじめの身だしなみをしてもらう。余分な部分を切り落とし、研磨してもらうのだ。

仲間と一緒に、赤くて美しい衣装を纏うのを、楽しみに待っている。

しかしその前に、下塗りは不可欠だ。

頭と全身が揃った。藁の束に刺され、キャンディのように仕上げを待っている。

色々な入れ墨を描く前に、全身を赤くする。勇敢な祖先の毛並みの色だ。

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文・写真・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
翻訳:貴田奈津子

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

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進化を遂げた会津の「赤べこ」づくりの裏側を追ってみる。

ワイズベッカーさんのエッセイに続いて、連載後半は、ワイズベッカーさんと共に訪ねた野沢民芸や会津張子の歴史、そして進化を遂げた赤べこづくりの裏側について、解説したいと思います。

こんにちは。中川政七商店の日本市ブランドマネージャー、吉岡聖貴です。

郷土玩具は主に江戸時代以降に寺社の授与品やお土産、節句のお祝いとして誕生しました。

自然や動物などの形には子どもの成長や商売繁盛、五穀豊穣などを願う当時の人たちの想いが託されています。作られた地域や時代、職人によるわずかな違いも味であり魅力の一つでしょう。

今回訪れたのは、東北地方の中でも「郷土玩具の宝庫」といわれる福島県。

郡山駅で新幹線を降り、磐梯山や猪苗代湖を眺めながらJR磐越西線で向かったのは、会津若松です。「会津張子」が伝わる街で、最も有名なのが赤べこ。

ワイズベッカーさんの写真の通り、赤べこのオブジェやイラストが目に入らない場所はないのではと思うほど、会津地方のアイコンとして愛されています。

赤べこの歴史と伝説

東北最古といわれるほどに会津張子の歴史は古く、400年前の安土桃山時代まで遡ります。
豊臣秀吉に仕えていた蒲生氏郷 (がもう・うじさと) が会津の領主として国替を命じられた際、下級武士たちの糧になるようにと京都から人形師を招き、その技術を習得させたのが会津張子の始まりとされます。

昔は張子づくりに反古紙 (書き損じなどで使えない紙) を利用したため、会津のようにそれが大量に発生した城下町でつくられることが多かったそうです。

会津若松から車で30分ほどのところにある日本三大虚空蔵尊の一つ、圓藏寺。

圓藏寺のなで牛
赤べこ
なで牛の隣には立派な赤べこが (ちゃんと首も揺れます)

約1200年前に建創されたこのお寺が、赤べこ伝説の発祥の地といわれています。

その伝説は、こんなふう。今から400年ほど前の大地震がきっかけで、現在の巌上に本堂を再建することになりました。その際、再建に使う資材を岩の上に運ぶのに困り果てていたところ、どこからともなく現れたのが赤毛の牛の群れ。

赤毛の群れは運搬に苦労していた黒毛の牛たちを助けるも、本堂が完成する前になぜかぱったりと姿を消したといいます。

以来、一生懸命に手伝った赤毛の牛を、会津地方の方言で「赤べこ」と呼び、忍耐と力強さの象徴、さらには福を運ぶ赤べことして多くの人々に親しまれるようになりました。

会津張子の赤べこも、この伝説にあやかった玩具として生まれたと考えられています。

市場シェア7割の赤べこの産地

赤べこをつくる会津張子の工房は50年前には30軒ほどありましたが、現在は作り手の高齢化が進み、片手で数えるほどになっているそうです。

その中でも、伝統的な型と手法でつくっている作り手の方とは対照的に、技術革新を進め、張子の大量生産を実現したのが野沢民芸。赤べこの市場シェアを尋ねると、なんと約7割が野沢民芸製なのだそうです。

創業者である伊藤豊さんは、学校卒業後こけし職人を志し、こけし製作に7年間携わり、より自由度の高い表現ができる張子の魅力に惹かれ、昭和37年に創業地の名を冠した「野沢民芸」を設立。

従業員が最も多い時期は60~70名ほどいたそうですが、今では絵付担当が約10人、内職を含む組立て担当が約15人、成形担当が2人とほかをあわせて約40人。82歳になる伊藤さんは成形をされ、娘さんおふたりも、それぞれ絵付と広報・事務を担当されています。

創業者の伊藤豊さん (右) と娘さんで絵付師の早川美奈子さん (左)

変わり続けることで会津張子の伝統をつなぐ

創業当初、野沢民芸では、木型を用いた伝統的な張子づくりの手法を用いていました。まず木型に濡らした紙を張り重ねていき、乾燥したら切れ目を入れて木型を取り出す。

そして、切れ目を紙でつなぎ合わせた後、胡粉を塗ってから絵付けをして完成。

しかし、この方法で製造効率を上げるようとすると、木型の数とそれを使って成形する内職さんの数を増やすしかありません。木型に切れ目を入れるため、傷んだ型の交換もしばしば発生します。

また、経営的にも工場のある野沢での直売だけでは売上に限界があったことから、会津若松のような観光地の土産もの屋で販売を拡大する戦略に切り替えたそうです。

そうなると、採算をとるために本格的な量産体制を整える必要があります。そこで、約40年前に伊藤さんが開発したのが、「真空成形法」といわれる張子の製法です。

真空成形法の装置。水槽には原料となる再生紙の溶液が入っている
真空成形後の型枠。溶液に溶けた再生紙の繊維が型枠に張り付き、成形されている
左から伝統的な木型、真空成形法に用いる金型、金型で成形された張子

真空成形法では、再生紙を水と混合した溶液を原料とします。溶液を貯めた水槽に型枠を沈め、ホースで一気に型枠の内水を抜いて真空にすることで、水に溶けた再生紙の繊維が型枠の内側に張り付き成形されるという製法です。

これを思いついたきっかけは、和紙の紙漉き製法からなのだといいます。紙漉きの場合は簀桁を用いて重力で繊維を重ねていきますが、真空成形法では金網を張った金型を用いて強制的に吸引することで繊維を重ねているわけです。

原理を聞くと簡単なようですが、これを思いつき形にする伊藤さんはまさに発明家。木型でつくると一日7体しかつくれなかった張子が、真空成形法だと一日500体もつくれます。

一方で、成形後の工程は、昔とまったく変わらないまま。乾燥したら余分な部分を削り、糊づけ・下塗り・上塗り・絵付けを経て、最後に首を取り付けて完成です。

針と糸で赤べこの首を縫い付ける

「首の角度や揺れ方をみながらバランスをとるのが難しい」と言いながら、目の前でなんなく首を縫い付けていかれる職人さんの手際の良さ。

赤べこの最大の特徴、ゆらゆらと首を振るユーモラスな動きはこうした手仕事により生まれているわけです。

真空成形法による張子生地の量産化は、郷土玩具界の産業革命であったと思います。現在の年間生産数は約15万体、赤べこのみでも約5万体にのぼるそう。

そして、昨年購入した3Dプリンタを使って新たな原形づくりに取り組まれるなど、今もとどまることなく、進歩し続けようとする伊藤さん。

木型を使ってつくられた伝統的な張子は言うまでもなく味があって良いものですが、後継者不足という会津張子の現状に対して伊藤さんが選んだ道は、変わり続けることで会社を未来へと繋げることでした。

赤べこのつくり手としては後発であった野沢民芸が、市場シェア7割を獲得した理由がここにあるような気がします。

赤べこが首を振っているのはクサを食べている様子?

愛らしい表情を浮かべ、ゆらゆらと首を振る会津張子の赤べこですが、昔のものを見てみると、今とはちょっと違った雰囲気であったことがわかります。

戦前は引いて遊べるような台車がついたもの、戦後には千両箱や打ち出の小槌を背負ったものなど、変わった赤べこがつくられていたそうです。

400年の伝統がある会津張子ですが、時代や作者によって創作や変化が加えられていることは、郷土玩具では珍しいことではありません。

昔からの思想や歴史を受け継ぎつつも、時代に合わせて柔軟にアップデートしていくというものづくりのセオリーが、彼らには息づいていたのかもしれません。

上が昭和初期~30年代の赤べこ、下が昭和30年~40年代の赤べこ(日本玩具博物館蔵)

そしてこの赤べこ、何とも鮮やかな真っ赤。あれっと思った方もいたのではないでしょうか。伝説にあった「赤牛」からイメージする牛の色は、実際には茶色に近いでしょう。

単にデフォルメしたと捉えることもできますが、これには理由があると考えられます。

達磨や鯛、獅子などの赤色を基調に彩色されている人形は、「赤もの」と呼ばれます。その昔、赤ものは疱瘡(天然痘) など悪性の疫病除けのまじないや子育ての縁起物とされていました。

病気を引き起こす疱瘡神 (ほうそうがみ) が赤を好むとされたことから、赤で神をもてなし、病を軽く済ませてもらうためです。また、高熱の後、全身に広がる発疹を「クサ」と言うことから、草をはむ牛ならば、天然痘のクサも食べてくれると、赤べこは子どもの守り神としても慕われていました。 (うまいですね!)

風土に合わせた形や素材で作られ、さまざまな祈りが捧げられてきた郷土玩具。色や名前にも、人々の想いが託されているものです。

次回はどんないわれのある玩具に会えるでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第2回は福島・会津張子の赤べこの工房を訪ねました。それではまた来月。

第3回「東京・江戸趣味小玩具のずぼんぼの寅」に続く。

<取材協力>
野沢民芸
福島県耶麻郡西会津町野沢上原下乙2704-2
電話 0241-45-3129

罫線以下、文・写真:吉岡聖貴

芸術新潮」11月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

わたしの一皿 実りの秋に実らぬ土地もある

心がおどる食材がある。世の中にあまたあるんだけど、これはもう見た目そのものからおどっているようだからすごいと思う。秋の大定番、「栗」です。

いがぐりに囲まれたあの姿を想像するだけで、なんか気分が上がる。楽しくなる。まだ若い緑色の時も良いし、茶色になって落っこちて割れても良い。割れて出て来てもこれまたかわいらしい。

栗の実のあの形、パーフェクトでしょう。天地が創造した究極の形と言ってもよいのでは。可愛らしさ以外何もない。なんなんでしょうね。

興奮しすぎましたね、みんげい おくむらの奥村です。どうぞ今月も最後までお付き合いください。こどもの頃から、栗が落ちてたらワクワクしたもんだなぁ。さわったり、踏んづけたり、とにかく放っておけないやつ。わかるでしょう。

栗の時期になると、ここのところ思い出す話。沖縄で、ある陶工と話をしていて、ふと「内地 (本州) で栗を見たときにさ、感動したんだよね」と言われたことがある。

そう、沖縄ではあたたかすぎて、ふつう栗は実をつけないのだ。なんとまあ。我らが日本、面積は広くはないけど、文化は実に広いですね。僕は沖縄で栗が実らないのは知らなかった。秋になればそこらに栗が落ちている、という僕の常識は沖縄では常識ではない。

そんなわけで、今日はあえて沖縄のうつわを使おうと決めた。栗を思う時、どうしてもこの話が忘れられないから。

料理は定番の栗ごはん。ここのところはよく外に出かけていて、北関東、東北、九州、どこに行ってもまるまるした栗を見かけた。本当にうれしい季節。栗やイモやかぼちゃや、ほくほくする食材の時期になってきました。

栗ごはんは、いつものように土鍋炊き。栗、米、塩、酒。以上。今日は遊び心で塩も沖縄、八重山のもの。この塩がするどい塩気とたっぷりなミネラル感。栗ごはんの風味が増すのです。

土鍋だから、少しコゲをつけて炊き上げる。コゲのついたごはんを炊き上がりに混ぜると、コゲで色が少し茶色っぽくなってしまうけど、それはそれでよいと思っている。炊き上がりの色がにごらない方がよいと思う方はコゲを作らないように。

沖縄のやきものの工房にいくと、こうやって大きめのお皿におにぎりやおやつがドンと盛られて出てくることがあって、その景色がとても気に入っている。

栗ごはんは冷めても美味しいから、今日はおにぎりに。こんなのもよいでしょう。沖縄の中部、恩納村の照屋窯のうつわを用意しました。いわゆる「やちむん」だ。

沖縄の方言でやきもののことをやちむんと呼ぶ。沖縄らしい唐草の模様なのだけど、青がおだやかで、どんな料理にもなじみがよく、とても気に入っている。

ところでこの沖縄のお皿、深さがあってなかなか独特な形だと思いませんか。見慣れぬ人なら、鉢のように見えなくもない。沖縄では登り窯でたくさんのうつわを焼くためにたくさんの工夫がある。そのうちの一つがこの独特の形。

窯を焚く際に、もし真っ平らなものを焼いたら、平らどころかフチが下がってしまう。だからフチをあらかじめ高くして、熱でへたらないように。ということ。

そうそう、一つ告白しよう。今年はある写真家さんとフルーツパーラーで打ち合わせを重ねていて、先日は新宿の某フルーツパーラーを訪ねた。

そこで迷ったんだけど栗のパフェではなく、いちぢくに浮気をしてしまった。もちろん美味しかったのだけど、隣席の人の栗のパフェがやっぱり美味しそうだった。ああ、この秋もう一度あそこを訪ねようか。

しかし男一人では少し心もとない。誰か、打ち合わせでも入れてくれませんか?

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文:奥村 忍
写真:山根 衣理