グッバイ、志賀直哉

こんにちは、BACHの幅允孝です。
さんち編集長の中川淳さんと旅をし、そこでの発見や紐づく本を紹介する「気ままな旅、本」のコーナー。
第1回目は中川さんのお膝元、奈良県編をお送りします。ほとんど食レポになっておりますが、ご愛嬌。
奈良の「うまいもん」を探す旅をおたのしみください。

奈良にうまいものはない。小説家の志賀直哉が随筆『奈良』の中でぽつりつぶやいた一言が、現代まで奈良県民を苦しめることになろうとは、彼自身も想像していなかったに違いない。
そもそも『奈良』とは、1938年に奈良県が発行した冊子「観光の大和」創刊号に志賀が書いた僅か4ページほどの短い文章。一読すると、たしかに「食ひものはうまひ物のない所だ」という記述がある。ふうむ、原稿を受け取った県の職員もなぜ訂正をお願いしなかったのか。しかし、よく読んでみると奈良のわらび粉や豆腐、がんもどきを褒めている。牛肉もいいと書いている。そう、このエッセイは奈良を離れる直前の志賀直哉が奈良愛を綴ったものなのだ。つまり、志賀が書いたとされる「奈良にうまいものなし」は、前後の文脈から外れ、残念な一人歩きをしてしまっているわけだ。

というわけで、今回の旅のテーマは志賀直哉の言説におさらばしたくなるような奈良県のおいしいものを紹介することに急遽決定。まず訪れたお店は「清澄の里 粟」である。
市内から15分ほど車で走り高樋町に。大和盆地を見渡せる小高い丘の上にあるレストランへ到着した。少し息を切らして坂を登るとお出迎えしてくれたのは、ヤギのペーター。彼は放牧中というか、店の周辺をうろうろし、草などをもぐもぐしておる。僕はかなりびっくりしたのだが、やはり奈良の人は鹿で慣れているからか、動物がその辺りをのそのそ歩いていても驚かない。ちなみにペーターは人が食事を始めると、物いいたげな顔で店内を覗き込んでくる茶目っ気たっぷりの牡ヤギ。そして、彼らの暮らすこの場所が、大和伝統野菜とエアルーム野菜が食べられるレストラン「清澄の里 粟」だ。

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ペーターは人の言葉がわかっている賢くチャーミングなヤギでした。

少しだけ説明すると、大和伝統野菜とは戦前から奈良県内で栽培をしている野菜で「味・香り・形態・来歴」に特徴があるもの。一方、エアルーム野菜とは、世界中の様々な地域・民族間で受け継がれてきた伝統野菜で「家宝種」などと訳される。ここ「清澄の里 粟」は、そんな貴重な野菜を地元農家と連携しながら栽培し、調理、提供するお店。そして、オーナーの三浦さんが大事にする「不易流行」の言葉通り、変えてはいけないものを大切にしながら、未来の伝統野菜を考える場でもある。
靴を脱ぎ、机がいくつも並ぶ店内にあがると、卓上には見たこともない野菜がごろごろ。その中でも最もインパクトのあった隕石のような野菜について聞いてみると、何でも「宇宙芋」と呼ぶのだとか。実のところ、これは巨大なむかごで、15センチほどにもなって蔓にできるのだという。他にも、ズッキーニの一種である「ジャンヌ・エ・ベルテ」や、「はやとうり」、瓢箪のような「バターナッツ」という甘みのあるカボチャや「スター・オブ・デイビッド」というオクラなど、普段なかなかお目にかかれない古来から伝わる野菜を、少しずつ60種類も食べられるのである。

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不思議な野菜に囲まれる筆者。真ん中にある隕石が宇宙芋。
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ポケモンGOのスターミーにしか見えないジャンヌ・エ・ベルテ

前菜から始まり、小さな鍋、季節食材の煮物、てんぷらなどなど、ゆっくりじっくりと味わう野菜料理は、まさに土地の滋養。味付けも尻あがりというか、噛めば噛む程じわじわと旨味がにじみ出る。また、個々の野菜がそれぞれ持つ細やかな違いにも敏感になれるのもこのお店の特徴。例えば、「ジャガイモ」と僕らは大まかに呼ぶけれど、ここで食した「ノーザンルビー」と「野川芋」は同じジャガイモながら全く異なる味わい。小さな単位で野菜について考えるきっかけになる。
「むこだまし」というこの地の特有の粟を使った和菓子「粟生」まで、たっぷり3時間の昼食。気持ちよくゆったりしていたら、いつの間にか午後も深くなってしまった。大和伝統野菜を中心とした土地の滋養と、ゆるやかに流れる時間と、ペーターとの触れ合いが愉快な「清澄の里 粟」は、時空がすこし歪んでいる心地よい場所だった。奈良の自然を愛した志賀直哉に彼らの活動は響くと思うのだが、いかがだろうか。

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この暖簾の向こうに驚きの蕎麦が…

さて、次に訪ねた一軒は、蕎麦の名店として奈良で名高い「玄」。日本酒「春鹿」で知られる今西清兵衛商店所有の書院の一角にある木造平屋建築に店を構えている。夜は「蕎麦遊膳」という懐石のみだが、ここの蕎麦を志賀が食べていたら、『奈良』の原稿も少し違った表現になっていたかもしれないと思えた。
食事は蕎麦豆腐から始まり、水蕎麦、田舎蕎麦、焼き物、ご飯、水菓子などが続く。なかでも僕が驚いたのが、ふわふわの蕎麦がきである。ほのかに温かい「玄」の蕎麦がきは、まるで赤ん坊のような柔らかさ、ぬくもり。まさに生まれたての蕎麦がきである。まずは何もつけずに一口。素朴な味わいの奥に蕎麦という植物の甘みがじんわり浮かび上がってくる。二口目は塩をはらはらと振っていただくと、円みのある甘さが際立ち、三口目に醤油とワサビで食せば、今度は蕎麦の香りが引き立つ。
そもそも蕎麦を食べるのに、麺状にするようになったのが600年ほど昔。それ以前は、殻を外して手で挽いて、つなぎなしでかき混ぜて作る蕎麦がきか、米の代用品としての蕎麦雑炊が、蕎麦の主な食べ方だったとか。「玄」の蕎麦がきは、ちゃんと手間暇をかけているのに、昔から連綿と続く原初的な味がする。蕎麦とはこういうものなのだと感じさせる清らかな体験である。

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柔らかく、温かい蕎麦がき

ちなみに、その次に登場した水蕎麦も驚くほど素の蕎麦。余計なものを削ぎ落とし、裸になった十割蕎麦である。玄蕎麦を石臼で挽き、ひとり分ずつ茹で締めて出される。茹で上がりから口に入れるまでの時間がとても重要らしく、仲居さんが早歩きで蕎麦を運んでくるのもこだわりの一部。あのきびきびした給仕は見ていて気持がよい。その水蕎麦、まずは何もつけずにそのまま口に入れると、ふむむ、透明な味がする。続いて(名前の通り)軟水が入る蕎麦猪口に浸して蕎麦をすすると、今度は蕎麦の甘さとさらさらした喉越しがよくわかる。その後、塩や梅肉でいただくのだが、時間や食べ合わせと共にくるくると味が変容する。感動は言葉を超えているが、頭のなかで音楽が鳴り出すような蕎麦である。この晩は、蕎麦に合わせ日本酒とのマッチングも提案してもらったのだが、春鹿の純米超辛口のような旨くてキレのある辛口の酒も蕎麦のソースのように愉しめた。そして、その後も続く蕎麦と日本酒のめくるめく邂逅にふらふら、くらくらしたのは言うまでもない。奈良の夜では素晴らしい酩酊が味わえると志賀先生の墓前に報告したくなってきたぞ…。

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これが水蕎麦です。まずは左端の軟水につけて食べます

ほろ酔いの奈良の宵を締めるのは、この人しかいないだろう。奈良ホテルのヘッドバーテンダーを務める宮崎剛志さん。僕は以前、対談のお仕事でもご一緒している。彼は奈良ホテルにバーテンダーとして就職したものの、なぜか案内係、ソムリエ、総務企画の担当に。けれど、バーテンダーの夢を捨てきれず独学で修行を続け(家にバーカウンターをつくり「ラボ」と呼んでいたそうです)、2013年に開かれたバーテンダーの世界大会で入賞。その技と努力が認められ奈良ホテルのメインバーに返り咲いた人である。
久しぶりにお会いした彼は、相変わらずのカクテル狂。様々な実験を繰り返しながら、新しい味わいについて考案しているのだという。「以前に比べてオーソドックスなカクテルを大切にしています」といい、実際に一杯目でいただいたマティーニは威風堂々といった風情。甘み、酸味、苦味、渋味といった味の構成要素を想像しながら理詰めでカクテルをつくるという宮崎さんらしいニュースタンダードである。
一方、バーカウンターには数々のスピリッツに混ざってなぜか「九重桜の本みりん」が置いてある。突っ込まないわけにいかないので尋ねると、最近は日本酒を用いたカクテルをいくつか考えているのだとか。本みりんはメキシコのプレミアムテキーラ「Don Julio」のレポサドと合わせたり、奈良県橿原市にある河合酒造「出世男」の蔵出しにごり酒とオランダで造られる小麦100%のウォッカ「Ketel One」を組み合わせてみたりと、宮崎さんの探求はとどまるところを知らない。日本酒を味の中心に据えすぎると外国人など日本酒を飲みなれていない人には難しいカクテルになってしまうが、メインのお酒を後ろから支え、ほのかに米の旨みが下から浮かんでくるような宮崎風日本酒カクテルは実に面白い発想。縁の下の力持ち的な存在が、世界のカクテル界で戦う日本酒には似つかわしいのかもしれない。まあ、そんなこんなで飲み食いばかりの奈良旅の初日は幕を閉じるのだった。

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宮崎さんのあくなき探究心。日本酒カクテルをあなたも試してみては?

翌日、二日酔いもなく元気に僕が訪れたのは奈良市高畑にある志賀直哉旧居。430坪の大きな敷地に建つ実に優雅な邸宅である。小説家は当時そんなに儲かる仕事だったのか? と素朴な疑問を持ちつつ眺めるそれは、隅々まで志賀直哉の美意識が行き届いた贅沢な家。ここは1929年に志賀直哉自身が設計し、13年間住み続けた場所だ。じつのところ、志賀はとにかくひと所に居続けられない性分で、人生で28回も引越しをしたといわれている。そんな彼が13年間も住み続け、3人だった子供が6人にもなった奈良を愛していなかったはずがないではないか。
入館して最初にあがる2階の客間から見える庭は見事。窓際の畳に座り、外から吹く風を感じると自然に歌でも詠みたくなる。(やったことはないけれど。)「こりゃ、いいものが書けそうだ」と文才をうっちゃり環境を羨むが、実際に志賀はこの旧居で代表作の『暗夜行路』を脱稿したらしい。
そんな中、この志賀の旧家でもっとも印象に残ったのが、食堂(ダイニングルーム)と台所だった。実は家の中で最も大きな部屋が家族みなで食事をとるダイニングルーム。しかも、部屋の角には革張りの大きなソファーがしつらえられており、志賀直哉がこの食堂を自由な団欒の場所として設計していたことがよくわかる。『衣食住』という本で、志賀は食について「毎日三度、一生の事だから、少しでもうまくして、自分だけでなく、家中の者までが喜ぶようにしてやるのが本統だと思う」と書いている。また食堂のすぐ隣には和風のサンルーム(瓦敷のヴェランダと呼ばれていた)と台所につながり、この一帯が家内サロンとして賑わっていたという記録も残っている。

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この広々とした食堂で志賀家の人々は何を話していたのか
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食堂はサンルームにつながっている

もうひとつこの志賀直哉旧居で忘れてはいけないのが台所だ。1930年前後では画期的なことにガス、水道、電気、氷冷式冷蔵庫といった当時の最新設備が揃い、食堂と直につながっていた。しかも、引き出しは台所、食堂の双方から引くことができる機能的なものだったようだ。ダイニングキッチンが第二次世界大戦後に普及したことを考えると、志賀直哉の合理的でモダンな考え方はずいぶん早かった。しかも、住み込みの女中たちがきっと必死で調理を日々していたのだろう。なにせ、先述の『衣食住』で志賀はこんな言葉も残している。「私が一番不愉快に思うのは一寸気をつければうまくなる材料を不親切と骨惜みから不味いものにして出される時である」。なかなかのプレッシャーのかけ方ではないか。

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この冷蔵庫にはどんな食材がはいっていたのでしょう?

僕は志賀直哉の旧居を訪れ、この食堂や台所をみて、彼がずいぶん長い時間をここで過ごしていたのだろうなと想起した。妻や6人の子供との時間。「高畑サロン」という名が残っているように白樺派の文人や、異分野の文化人もずいぶんこの家に押しかけ、志賀を囲んだに違いない。そうすると、そもそも志賀は家以外の場所で奈良のご飯を食べることが少なかったのかもしれない。だからこその、あの言葉である。「食ひものはうまひ物のない所だ」。
女中たちの料理に厳しかった側面も垣間見えるが、それでも志賀直哉は奈良の自分のおうちが大好きだった。ゆえに、今回の旅で僕が経験したような、奈良に息づく食を探す必要もなかったのかもしれない。もし、もっと積極的に志賀が外食をしていたら、きっと彼はこう言ったはずだ。「奈良にはうまいものしかない」。そう確信するほど、おいしい奈良を満喫した竜宮城コースの旅だった。

《今回の本たち》

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『ヤギ飼いになる』
美味しいミルクを提供する家畜であり、ペットとしての愛くるしさも併せ持つ、ヤギ。そんな彼らの魅力や飼育方法を、ヤギ飼いの先輩たちの声も拾いながらじっくりと紹介していきます。
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『家族野菜を未来につなぐ』
「清澄の里 粟」のオーナーである三浦夫妻が記した1冊。大和伝統野菜のエッセンスである「家族野菜」という考え方について、レストランオープンまでの道のりと一緒に丁寧に語ってくれます。
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『大和の野菜 いろはカルタ』
44枚の絵札に大和の伝統野菜をあしらった、思わずお腹が鳴ってしまいそうなカルタ。制作のきっかけは、三浦さんの取り組む家族野菜でした。読み札には、調理方法もしっかり書いてあるので安心です。
sobanojiten

『蕎麦の事典』
簡潔なタイトルの通り、1155項目に渡る蕎麦の用語を50音順に網羅した、まさに蕎麦の読む事典。原材料から行事、蕎麦にまつわる諺まで、蕎麦への愛が十二分に詰まった1冊です。
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『そばと私』
1960年の創刊以来、「蕎麦の文化誌」として親しまれてきた季刊『新そば』。そこに寄せられた蕎麦好き67人の声をまとめたアンソロジー集には、独特の熱気が詰まっています。
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『衣食住』
志賀直哉の作品から随筆28篇、短篇5篇を選び再構成した1冊。作家らしい日常生活への鋭い観察眼とともに、合間に挟まれる「城の崎にて」などの小説が小気味良いリズムを生み出しています。
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『志賀直哉旧居の復元』
2008年、志賀直哉が建築した当初の姿に修復された、彼の旧邸。その過程をまとめたこの本は、志賀直哉旧居でのみ販売されています。志賀の暮らしぶりを堪能した後は、本書もぜひ。
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「奈良」(『志賀直哉全集 第6巻』収録)
「東京人の方が好きだ」「奈良の欠点は税金の高い事」などの手厳しい言葉が続きますが、最後には「兎に角、奈良は美しい所だ」と締めくくる。忌憚のない物言いは、長く奈良を愛した彼だからこそのものですね。

幅允孝 はばよしたか
ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。
www.bach-inc.com

文:幅允孝

開け、KOUBA!産地を味わう秋の4日間「燕三条 工場の祭典」2016

こんにちは。さんち編集部の杉浦葉子です。
全国各地で行われるいろいろなイベントに実際に足を運び、その魅力をお伝えする「イベントレポート」。
今回は、新潟県燕三条とその周辺地域で、10月6日 (木) から9日 (日) の4日間にわたり開催された「燕三条 工場の祭典」に行ってきました!

室町時代から続く金属加工製品の産地として有名なこの地域。しかし、そのものづくりの現場を消費者が目にすることは今までほとんどなかったそう。普段は訪れることができない町工場が開放され、一般の人々が職人たちと対話しながらその手仕事を間近に見ることができ、さらにはワークショップで体験までできるというスペシャルなイベント、それが「燕三条 工場の祭典」です。

2013年にスタートして4年目を迎えた今回は、金属製品のKOUBA (工場) だけでなく、米どころとしても有名なこの地で農業に取り組むKOUBA (耕場) も多数参加。また、ものづくりの想いがぎっしり詰まった産品をKOUBA (購場) で手にすることができるという、三位一体のKOUBAをめいっぱい味わえるとても魅力的なイベントになっていました。

それでは、78工場、13耕場、5購場、計96 KOUBAが参加した、盛りだくさんの秋の祭典、
まずは「工場」から。
——— 開け、KOUBA!

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「玉川堂」は、1枚の銅板を鎚で叩き起こして銅器を製作する、鎚起銅器の伝統技術を継承している老舗で今年200周年を迎えました。この日、説明してくださった玉川堂の番頭、山田立さんは、今回の「工場の祭典」の実行委員長。「玉川堂」の歴史に、たくさんの人が真剣に耳を傾けます。

静かな作業場に、カンカンカン…とリズミカルに鎚の音だけが響きます。この丸くて美しい形状が、元は平らな銅板から打ち出して作られているなんて!ちなみにこのイベントで「工場」の方がお揃いで着ているTシャツは火 (ピンク) と金物(シルバー)をイメージしたストライプのもの。遠くからでもよく目立つ「燕三条 工場の祭典」ユニフォーム。

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銅に多彩な着色を施す技術は、世界でも玉川堂のみが保有しているそう。

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イベント中、2階は休憩スペースに。たくさんの人々が玉川堂の建物を行き来し、歴史ある雰囲気を楽しんでいました。

「火造りのうちやま」さんは、和釘や古建築金物を製造しています。和釘は、寺社仏閣や文化財などの古建築物の修理復元になくてはならないもの。その種類も大きさも様々です。

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これは、釘の頭部をくるんと巻いた「巻頭釘」。木目に沿って完全に打ち込めば、頭が潰れて平らになり、床などの表面に出ることはないそう。こちらでは「和釘づくり体験」ワークショップを開催。職人の内山立哉さんに、作り方を見せていただきました。

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熱した鉄を金鎚ひとつでリズミカルに叩き、釘の頭をくるんと丸めます。内山さんの手にかかれば、ものの数分で和釘のできあがり。一つひとつ丁寧に作られている和釘。今度、寺社仏閣に訪れたら、建物の隅々の金具をじっくり見てしまいそうです。

「大泉物産」は精巧なステンレス加工技術で、デンマーク王室御用達のKAY BOJESEN (カイ・ボイスン) など、世界が認めるカトラリーの製造を行っています。今年はスプーン作りの体験ワークショップを開催していました。

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まだヘラのような形の平らな板を、スプーンの丸い形に抜きます。ワークショップ体験者さんは緊張の手先で、スプーン板をそっと丁寧に機械にセット。

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柄の部分にカーブをつけるためにプレス。職人さんの手元の動きはやはりスムーズで早いです。

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何度も丁寧な磨き工程を経て、ピカピカのスプーンに仕上がっていきます。自分で型抜きをしたスプーンは、名入れの後、自宅へ発送してくださるとのこと。とっても楽しみです!

「庖丁工房タダフサ」では、創業当初から手造りにこだわり、さまざまな包丁を製造しています。

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工場見学ツアーでは、見学者の方々に声が届くように一人ひとりにイヤホンが配られ、説明の声を逃さずに聞くことができました。

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火あり、鎚あり、ヤスリあり、水あり。包丁作りの20以上の工程を、順を追って見せていただきました。

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最後の柄入れの作業をしていたのは、2代目の曽根忠一郎さん。まだまだ現役の職人さんです。

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昨年の「燕三条 工場の祭典」開催に合わせてオープンした工場併設のファクトリーショップでは、3代目の曽根忠幸さんが色々な包丁について説明。工場見学した後は、なおさらこちらの包丁が欲しくなり、ショップも大盛況。研ぎ直しはもちろん、包丁のことなら何でも相談に乗ってくれるというので安心です。

「近藤製作所」は、自由鍛造(たんぞう)で鍬 (くわ) を造り続けてきた鍛冶屋さん。鍛造とは金属を叩いて圧力を加えて強度を強くすることで、古くから行われてきた刃物や武具の製造方法です。

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さまざまな鍬(くわ)や鋤(すき)がずらり。日本の地域によってもさまざまな形状の違いがあるそうで、こちらではその地域性や使う人の愛着を重んじて、全国のあらゆる仕様やオーダーメイドに対応した鍬造りを行っているそう。

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笑顔がチャーミングな名物工場長の近藤一歳さん。鍬へのこだわりを話し出したら止まりません。

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こちらでは、なんとMY鍬作り体験のワークショップを開催。こんな体験、なかなかありません!

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工場の重厚な機械に圧倒されながらも、近藤さんや職人さんが手とり足とり優しく指導してくださって和やかな雰囲気。

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家族で参加された方、遠方からお一人で訪れたシステムエンジニアの方など、普段この地を訪れそうにない人々が、この鍛冶工場を通じて一緒にものづくり体験。「鍬を自分で作れることなんて、なかなかないと思って参加しました!」皆さんとっても楽しそう。新鮮な一期一会です。

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溶接作業はやはりプロの職人さんにお任せ。自分で作った鍬、一生の宝ものになりそうです。

まだまだたくさんの「工場」 がピンクストライプに彩られていましたが、
続いては、「耕場」へ。
——— 開け、KOUBA!

「工芸」の起源は鍛冶にあり?

こんにちは、ライターの鈴木伸子です。
わたしはふだん東京にいて、町歩きや建築、鉄道などに関する記事を書いているのですが、今年の夏から秋にかけては何度か新潟県の燕三条に通って、たくさんの鍛冶、金物工場の取材をする体験をしました。

ふだん日常的に使っている金物製品のいかに多くのものがこの街で生産されているか、そして金属加工のたいへんな技術の集積と歴史がこの地域にあることを知って、道具に対する接し方が変わってきたような気がします。
そんな暮らしの道具を作る三条の第一人者である職人、日野浦司さんに鍛冶という仕事についてお話をうかがいました。


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今回伺うのは新潟・三条市の日野浦刃物工房さん。

人間の手業で作られた暮らしの道具を工芸といいます。日本の伝統的な工芸には陶磁器や漆、木工、織物、染色などさまざまな分野のものがありますが、工芸の「工」という文字は、象形文字で握りのついた「のみ」、あるいは鍛冶をする時に使用する台座(金床 かなとこ)を表したものと言われます。そのことから、手先や道具を使ってものを作ることを意味するようになり、さらにものを作ることが上手であることを言うようになったとされているのです。

鍛冶仕事をする時の金床は、今でも三条の鍛冶屋さんの仕事場でも見ることができます。真っ赤になるまで熱された鉄のかたまりを金鎚でトンテンカンテン叩いてゆくと徐々に形が変わってゆき、やがては刃物や釘などになる。しかし、そんな鍛冶の仕事を目の前で実際に見ることはなかなかないでしょう。

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三条で鍛冶職人の第一人者として知られる日野浦司さんは、1905年創業の日野浦刃物工房の三代目。伝統工芸士でもあります。三条で今でも唯一、すべての工程を手作業で「鉈」を専門に作り続けているのが日野浦刃物工房です。鉈は、斧やまさかりよりも小型で、山に入る時に木の枝をはらったり、薪を割ったりするのに古くから農山村の各家庭で用いられてきた道具です。

日野浦さんは、息子である四代目の睦さんとともに伝統的な鍛冶仕事を守り続け、睦さんは実用的で昔ながらの鍛冶仕事を活かした味方屋ブランドを、司さんはより工芸品としての表現に挑んだ越後司ブランドを担当し、鉈をはじめ包丁や小刀などの製作で三条の伝統的な鍛冶仕事を担っています。

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味方屋ブランドの鉈
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こちらが越後司ブランド

今回はその仕事場で鉈の製作過程を見せていただきながら、鍛冶職人の仕事とはどんなものなのか、お話をうかがいました。

真っ赤に熱された鉄のかたまりを打つと火花が散る
迫力の鍛冶の仕事場

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まずは日野浦さんの仕事場で作業を見せていただきます。本日の作業は「鍛接」。鉄に鋼を付ける工程です。
鉈や斧、包丁などは、刃物の本体部分は鉄でできていますが、切れ味のよい刃の部分のみに鋼がつけられています。現在ほとんどの鍛冶工場では、最初から鉄と鋼を一体化した「利器材」と言われる材料を用いていますが、日野浦刃物工房では、鉄に鋼をつける工程から自社工場で行う本格的な刃物づくりにこだわっているのです。

鍛冶仕事に入る30分ほど前、炉を温め始めます。炉に火が入っただけでゴーッという音が仕事場に響き渡り、一気に鍛冶工場としての緊張感が高まっていきます。

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炉の前で頃合いを待つ日野浦さん。腕には火の粉を避けるためのアームカバーが。

炉が高温を保ち続け安定した温度になった頃、ようやく鉄の材料が炉の内部に入り、しばらく熱されると、炎のように真っ赤になったかたまりとして取り出されます。

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炉の内部

そして炉の前には、鉄を打つための金床。工芸の原点とも言える金床が置いてあります。

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日野浦さんは鉄を、そしてその後で鋼を、大きなやっとこのような工具で押さえながら、まずはスプリング・ハンマーという機械化されたハンマーで大まかに形を整えていきます。

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炉から取り出された直後。まるでマグマの塊のよう
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スプリングハンマーを打つごとに火花が散る、息を飲む瞬間

表、裏、側面と器用に材料を回転させながらハンマーで打っていくと金属のかたまりがだんだん刃物の形になっていき、そしてその後、鉄と鋼の材料を合わせ、接着剤のような役割となるホウ酸の粉を接合部に振り、台座の上で叩いて一体化させ、さらにスプリング・ハンマーで叩きます。

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この真っ赤に熱された鉄のかたまりを叩く工程が工芸の原点にあるのかと思うと、じっくりと見つめてしまいます。

見せていただいたこの鍛接の作業を始めとして、この後さらに形を整え、焼入れ、焼戻し、研磨など全部で23の工程を経て、ようやく1丁の鉈ができあがります。たいへんな技術と能力、熟練がないと、1つの金属のかたまりから鋭い刃物を生み出すことができないのです。

江戸時代に始まった
三条の鍛冶仕事

三条鍛冶のはじまりは江戸時代の初期だと言われています。
信濃川と五十嵐川のたび重なる氾濫で収穫を失った農民たちを救済するために、当時の代官・大谷清兵衛が農民に副業として和釘づくりを奨励したというのが定説になっています。

日野浦さんにさらに話を聞くと、
「恐らく、三条の鍛冶仕事の技術の多くは会津から伝わってきたのではないかと思うんです。会津は山が深く林業が盛んなので、山仕事をする人と道具を作る人が密接で、斧や鉈などいい道具が生み出されてきた土壌があった。それに会津若松は城下町でもあります。刀鍛冶や道具鍛冶もいて、鍛冶仕事のレベルは高かったはずです。そういった技術が街道を伝って三条に伝わってきたんでしょうね」。

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日野浦さんの祖先の一族は明治の末には、新潟県内の味方村(現在の西蒲原郡)で鎌鍛冶を営んでいました。

「今みたいに車のない時代ですから、味方村で鎌を作っても問屋に売ってもらうには、船に乗って三条まで持って来なければならない。それでどうせ鍛冶屋をやるんだったら三条でやろうと、移ってきたということです」

江戸時代から三条は金物の生産地であるだけでなく、問屋の集まる土地でもあり、彼らが水路を使って関東や関西に地元産の金物を運び売りさばいたことが、三条や燕の金物産業の発展にも大きく寄与しました。

「初代が味方屋を名乗ったのが 1905年(明治38年)ごろ。その息子たちが後を継ぎ、私で三代目です。私は地元の商社に就職後大阪勤務をしていましたが、22歳の時に家に戻り鍛冶の道に入りました」

昭和30年代までは戦後復興と高度経済成長で日本全国が建築ブームに湧き、木材伐採のための斧、鉞、鉈、木挽き鋸などの需要は右肩上がりでした。しかしその直後人が手作業でやっていた木を切る仕事はチェンソーなどの機械に取って変わられ、海外から安価な木材も入ってきて、三条の山林関係の刃物を作っていた業者は窮地に追い込まれてゆきます。早く安く大量に作らなければ生き残れない時代、三条の伝統の鍛冶仕事は存亡の危機に立たされます。

土佐に行き、三条の先輩に学び
刃物づくりを模索し続けた時期

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「当時、山仕事の刃物が優れているということでは土佐(高知県)が有名でした。土佐では森林率が県の80%以上で、やはりここでも山仕事と鍛冶が密接な環境があったのです」

山林用の道具を作っていた三条の鍛冶屋の多くが包丁などほかの道具鍛冶に転業するなか、日野浦さんは自分にはより優れた鉈を作るしか活路はないと、20代なかばで土佐に出向きます。土佐の鍛冶職人を訪ね、切れ味の優れた鉈を持ち帰り、その分析を行いました。独学で冶金学の本を読み、周囲の協力を得て土佐の刃物の特性を分析。ダイヤモンドの刃で鉈を切断し顕微鏡で金属の組織を観察するなど、追求を続けたのです。

その結果、優れた刃物がどんな性質を持つかはだんだんにわかってきました。しかし、わかったからといってそれを作るのは容易なことではありません。

「20代、30代はひたすら模索の時期でした。三条の鍛冶の先輩や、さらにその先生にわからないことを教えてもらい、それも一つ問題をクリアするとさらに2つも3つも課題が出てくるという具合でした。工程の多い手仕事にこだわると数を多く生産することができなくなる。それで父親ともずいぶん対立しました。自分自身でようやく納得のゆく品質の鉈を作ることができるようになったのは40歳になった頃でしょうか」

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今、三条の金属工場のほとんどはOEMと言って委託者のブランドの製品を作る仕事をメインにしています。自分の名前での鍛冶仕事ができる人はごくわずか。その第一人者が日野浦司さんです。

「誰が打ったかわかるものを作りたい。そう思ってそれまでは問屋さんに言われた刻印を製品に入れていたけれど、だんだん自分の名前を入れるようになった。それが味方屋作、そして越後司作です」

今、三条の日野浦刃物工房には、日本国内からのみならず、フランスやチェコなど海外からも味方屋作や越後司作の刃物の実物を見て買いたいとやってくる人々が訪れます。
切れ味がよく、その切れ味が長く続く、研ぐことによって再び優れた刃物として蘇る。そして見るからに風格がある。そんな刃物は、伝統の鍛冶仕事にこだわる日野浦さんの鍛冶場の金床から生み出されていました。

 

 文:鈴木伸子
写真:神宮巨樹

Time travel within a walking distance Narazarashi, the most premium hemp fabric

Hi, I’m Kanako from SUNCHI editorial desk.
Like Setouchi area of quality lemons and olives, Oma in Aomori of the special tuna, even tools have each birth place which suits for the production by the natural environment. In those places, people come for a job and make a living, and cultures are consolidated. A number of production areas have been formed in that way in Japan. Denim representing Okayama Prefecture and Gold Leaf in Kanazawa Prefecture are famous examples. Textile for the clothes has been the necessary living item from the ancient. We traced the expensive hemp fabric “Narazarashi” in Japanese oldest capital of Nara.

There are places where preserve the appearance of Narazarashi as a big business such as in Nara Park where the deer rests in a relaxed manner and in the neighboring city of Prefectural government’s office. “Isuien Garden” is located in front of Todaiji-Temple. The scenic beauty consists of two parts designed in the two different time periods. One is the “Front Garden” which was made by the merchant of Shogun warrant, Dosei Kiyosumi in the early Edo period, seventeenth century along with his villa. Narazarashi was what Kiyosumi dealt.

前園
The Front Garden made by Narazarashi dealer Kiyosumi

後園
The Back Garden, designed to benefit from landscape of Nandaion Gate at Todaiji-Temple and Wakakusayama Mountain.

Narazarashi is the premium hemp fabric. It dates back its origin to Kamakura era, in around 13th century, and it has a record that it had been used for a “Kesa” or a robe worn by Buddhist priest. The oldest literature was in the late 16th century when Genshiro Kiyosumi succeeded in improvement of the method. He was the grandfather of Dosei Kiyosumi. In the first half of the 17th century, Narazarashi was authorized by Tokugawa Shogunate as Tokugawa warrant and given the stamp which allowed to trade. Narazarashi was mainly used for Samurai’s formal clothes and priest’s robe. Also, since Senno Rikyu described that the tea cloth had to be white and new, there seemed a demand as a tea cloth.

清々しい晒の白
“Sarashi” of pure white

Isuien Garden is located by the affluent river named Yoshiki River and the cloth for Narazarashi was washed in this garden.
Walking along the garden, we’ll see remnants and designs of that time such as the water mill and the steppingstones imitating a grindstone used for making Narazarashi. A washing scene that we can guess in the park now, can be seen in the book named “Nanto nunosarashinoki” written in 1789.

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In the book published in 1754 named “Nihonsankaimeibutsuzukai” describing about the specialty and the popular place of each district, Narazarashi was praised for its good quality as below.

“The hemp traded in Nanto, or Nara is the best. A number of hemp is produced around Nanto, but Narazarashi is most evaluated as it’s dyed beautifully, it doesn’t cling to body, and it’s the water shedding. “

Where does this quality come from? The material of Narazarashi is hemp. “Choma” or ramie of robust hemp was used.

A thread for Narazarashi is made of a fiber of Choma and the hemp is woven with twisted warp and untwisted woof, and this weaving method is called “Hiranuno”. It takes a month to spin thread and at least 10 days for experienced weaver to weave 24 meter. It’s a stunning long procedure.

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This robust fiber of Choma enables the feel of dryness, and the mixture of twisted and untwisted thread makes bleaching and coloring efficient, and thus Narazarashi had become highly reputed as the most premium.

Surprisingly, it’s said that the production amount of this labor and time consuming fabric had reached to 960,000 meter’s long during the later half of 17th century and the former half of the 18th century. Its prosperity of that time is described in “Seken Munazanyo” written by Saikaku Ihara. In the midst of the golden time, Nakagawa Masashichi Shoten was established in Ganriincho in Nara City close to Sarusawaike Pond in Nara Park in the year of 1716. Narazarashi is being made by the exact same method as was in Edo era, 300 years ago. The tools which had been used for making Narazarashi are displayed in “Yu Nakagawa flagship store sitting in the foundation place.

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Bamboo poles on the ceiling?

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Characters are reversed. This means….

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An atmospheric spinning wheel.

The bamboo poles were used for the inspection of the fabric. They hung the fabric over the poles and saw if there was a defection or dirt, and checked the width, the length and how closely it was woven. What was against the big pillar in the middle of the shop was a stamp which had been stamped on the wrapping material. The character “Narabakufu” is curved in reverse.

When Samurai era was over, the industry was fallen into a decline as Samurai were the best supply destination. In Taisho era, Nakagawa Masashichi Shoten had built its own factory and exhibited the linen handkerchief for Paris Expo, aiming for the revival of Narazarashi. In the beginning of Showa era, Nakagawa Masashichi Shoten made a breakthrough with its linen tea cloth and acquired the demand for a tea item. The technique and the reliable quality which have been kept in that way are now utilized for making the daily items such as pouches, bags, and clothes, and they are lined in their shops.

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Behind the cash register, fabrics for sold by measure lines. Those can be picked up by hands.

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The entrance door is patterned with the hemp leaf. The shop is designed elaborately with the hemp motif.

The excellent product which has been nurtured by the local is utilized by adjusting itself to the present, not by only preserving it.
Why don’t you let yourself go on a time travel by strolling in Isuien Garden or touching the fabric in the well-established shop? Just turn your thought to the past and the future of the specialty of Nanto.

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Isuien Garden
Address: 74 Suimoncho, Nara City
Phone: 0742-25-0781
http://www.isuien.or.jp/index.html

Yu Nakagawa The flagship shop
Address: 31-1 Ganriincho, Nara City, Nara Prefecture
Phone: 0742-22-1322
http://www.yu-nakagawa.co.jp/p/honten

Writer: Kanako Ojima
Photographer: Masashi Kimura

特徴が無いのが特徴? 神さまから武将まで魅了した焼きもの・赤膚焼の秘密

こんにちは、さんち編集部員の尾島可奈子です。
毎日使うご飯茶碗から床の間や玄関の置き飾りまで、生活の中に必ずある焼きもの。その産地は全国各地に点在し、最近は自分の足で窯元を訪ねて、気に入った器を探す人も増えています。今回訪ねたのは日本最古の都・奈良が育んだ赤膚焼(あかはだやき)。あまり耳慣れない名前ですが、「全国的にさほど知名度が高くないのは、ずっと地元で使われてきたからかもしれません」と語るのはお話を伺った窯元「香柏窯」の尾西楽斎(おにしらくさい)さん。その「地元」の納め先というのが、古都らしいビッグネームぞろい。焼きもの好きも日本史好きも知っておきたい、赤膚焼の魅力に迫ります。


全国金魚すくい大会で有名な奈良・大和郡山市。窯元というと山奥にあるイメージですが、尾西さんの「香柏窯」まではJR郡山駅からなんと徒歩1分。

駅からすぐのギャラリー。庭を挟んで奥に工房がある。
駅からすぐのギャラリー。庭を挟んで奥に工房がある。
庭で乾かした器に化粧をする尾西さん。作業中も、かすかに踏み切りの音が聞こえてくる。
庭で乾かした器に化粧をする尾西さん。作業中も、かすかに踏み切りの音が聞こえてくる。

こんな駅近く、ギャラリーと併設された工房では、世界遺産・春日大社に納める品物づくりがまさに最盛期を迎えていました。

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工房内で作業する職人さん。もくもくと手を休めない。
工房内で作業する職人さん。もくもくと手を休めない。

「今年春日大社さんは20年に一度の式年造替を迎えます。これはご造替にあたっての記念の品です。それとこちらは今解体修理中の薬師寺東塔の基壇から出た土で作った器。僕がこの土を使わせて欲しい、とお願いしまして・・・」

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春日大社、薬師寺、東大寺。説明の中に、次々と著名な社寺の名前が飛び出します。実は世界遺産登録件数、全国第一位を誇る奈良県。先ほどの3つももちろんこの中に名を連ねます。尾西さんは春日大社から「春日御土器師(かすがおんどきし)」の称号を与えられた、赤膚焼を代表する陶工の一人です。

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春日御土器師の称号がギャラリーに飾られている
春日御土器師の称号がギャラリーに飾られている

「奈良には日本で最も古い都がありました。朝廷や都があるところには、大きな寺社仏閣があり、そういうところには必ず陶(やきもの)が要るんです。祭器ですね。今も、うちでお東大寺のお水取り(毎年早春に行われる、人々の無病息災を祈る伝統行事)のお香水の器や、大仏さまのご飯茶碗を作ったりしています」

一般的に赤膚焼の歴史は天正年間に豊臣秀吉の弟、秀長が当時の郡山城主として土地を治めた際、陶工を呼んで茶道具を作らせたのが産業としての起源とされています。信長の時代に始まり、当時は武将への褒美の品として茶道具が重用されていました。しかし、それよりずっと以前、こうした神事とのかかわりの中に、そもそもの赤膚焼のルーツはあるようです。

重厚感のある歴史物語とは一転、工房に併設されたギャラリーには、どっしりとしたお茶道具だけでなく、鹿などの奈良の風物を描いた『奈良絵』の豆皿やかわいらしい香合も並びます。

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お気に入りという茶道の蓋置(ふたおき)

見渡すと、その色形もさまざま。実は赤膚焼、使用する土や焼き方にこれといった定義がないそう。

「本来いろんなことをするのが赤膚焼なんです。今の赤膚焼の基礎を作ったのは江戸末期の奥田木白(おくだ・もくはく1799−1870)という人ですが、木白自身、各地の焼きものを精巧に写した器をたくさん作っていた。たとえば萩焼、備前焼にしか見えないものを。『諸国模物處(しょこくうつしものどころ)』の看板を掲げていました。そもそもこのあたりは土の層がうすい。ちょっと層がかわると、土の色も変わります。同じ釉薬をつかっても、土と窯が変わったら出来上がりが変わるんです。赤膚焼の特徴は、無いのが特徴なんですよ」

とはいえ何も無いというと語弊があるので、と見せていただいたのが、器の内側に赤富士が配された抹茶椀や椿柄の鉢。地のうっすらとしたグレー色は「赤膚釉」と呼ばれる藁灰を使った釉薬の色で、これも奥田木白が取り入れたもの。赤膚焼を代表する釉薬です。

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「釉薬のかかっていないところは赤く染まります。赤膚焼の名前の由来は諸説ありますが、これが由来であるとの説も有力です」

赤々とした富士山の稜線や椿の花弁の色は、この「赤膚釉」の特徴を活かして生み出されたものでした。

時代の求めに応じて時に神さまに捧げる祭器となり、時に武将の手柄をたたえる茶道具となり、柔軟に進化してきた赤膚焼。「らしさ」や「あるべき」にとらわれず、変わることを常として育まれてきた焼きものでした。

「今も窯から出すときが一番不安で、一番楽しみです。私の師匠は祖父で、85歳くらいまではバリバリ現役でやっていましたが、現役の頃は窯を焚く毎に、新しくテストするものを入れていたんですよ」

尾西さんの言葉に、日本最古の都に根ざしながら変わりつづける、赤膚焼のこれまでとこれからを見たような気がします。

「香柏窯」
〒639-1132 奈良県大和郡山市高田町117
℡.0743-52-3323
http://akahadayaki.jp/

文:尾島可奈子
写真:木村正史

<掲載商品>

赤膚焼の豆皿

不景気のときは優しい顔 時代を生きる奈良人形

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こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
ここのところ郷土玩具やこけしなどの人形が若い人たちの間でじわじわと人気ですが、もともと人の形をものに写した「人形」は、信仰の対象としてつくられたのがそのはじまり。神社のお祭に用いられていた人形が、次第にみやげ物として土地の名物になっていったケースが、奈良に残っています。古くは奈良人形と呼ばれ、今は奈良を代表する工芸品となった芸術的な木の彫刻「一刀彫」。長谷寺ほど近くに工房を構える、高橋勇二さんを訪ねました。聞けば、人形の顔が、変わる? と言っても、怪談話ではありませんよ。

衣擦れの音が聞こえてきそうな木彫の舞姿

素材を大胆に彫り上げる一刀彫は、もとは奈良人形と呼ばれ、その起こりは奈良を代表する神社・春日大社の祭礼、若宮おん祭りに用いられた神事用の人形だったといわれています。その彫り師が技術と題材を活かし、奈良人形は次第に奈良の名物として市井に浸透していったようです。
おん祭で能・狂言と共に奉納されていたことから、題材には能や狂言のワンシーンが用いられることが多いのも特徴のひとつ。演者の一瞬の姿を切り取った人形の佇まいは、大作ともなると着物のしわやひだ、質感が、とても木で出来ているとは思えないほど。今にも衣擦れの音が聞こえてきそうです。

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演者の息づかいや、緊張感まで伝わってきそう

能面師希望の秋田の青年が、奈良で一刀彫の彫師になるまで

「一刀彫は面で押さえます。能の演目が題材に多いのは、ばりっとした着物の装束が、一刀彫に向いていたのもあるでしょう。演目も多いですしね」
作り手の高橋勇二さんは、秋田のご出身。能面を作りたい、と思い立って20歳で単身関西に飛び、弟子入りした先が一刀彫を扱っていたのが、この道への入り口でした。ノミを研ぐところからはじまり、はじめに作るのは1寸(およそ3cm)ほどのお雛様。100個つくってようやく1つ売れるところを、作り続けて100個つくって100個売れるようになったら、ようやく次の題材に取り掛かる、という修行時代をすごします。そして、「問屋さんに言われたとおりのものだけを作っていては、技術が育たない」と3年半で独立。大阪市立の美術研究所で4年、デッサンを学びます。ここで出会われたのが今の奥様、伸子さん。

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夫婦二人で作る工芸品

高橋さんの工房では、彫りを高橋さんともう1人の職人さんとの2人で、彩色は別に4名で行います。この彩色の切り盛りを任されているのが奥さんです。
「一刀彫に限らず、多くの工芸品はほとんどが分業制です。雛人形はよく作家名の書かれた木札がついていますが、あれは細かな工程を束ねる、代表の人の名で出しているんですよ」
まず高橋さんがデッサンを起こし、粘土で原型を作る。ポージングや着物の柄、配色などは昔の職人のいいものを参考に。その上で、どう仕上げるか、夫婦で意見を出し合い、決めていくといいます。

「一刀彫の他の彫り物との決定的な違いは、鮮やかな色彩です。デッサンを起こしても、立体になれば体積は3倍になる。立体になったときにどんな印象を与えるか。大作の場合、実際に作るのはたった1体ですから、案がまとまるまでは思い切りお互いの言いたいことを言い合います」

2人で笑いながら話してくれましたが、奥さんが自分のもうひとつの目になってくれている、だから作品に対して客観的になれる、と小さな声で勇二さんが付け加えました。

一刀でない一刀彫

案がまとまると、いよいよ彫りです。彫りは始めに電動のこで大きく形を切り出し、その後はすべて手作業。道具を使い分けながら形を作っていきます。この日の工房にはまもなく納品という干支の酉のおき飾りが所狭しと並んでいました。

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絵付け前の酉のおき飾り。ここにいたるまでに様々な道具が使われています。
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電動のこで切り出した酉のおき飾り。まだ平面的です。
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平面的な酉にズバズバとノミが入っていきます。
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道具を持ち替えて。

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左下は「げんのう」という道具。柄は手作り。

道具は適材適所と言う高橋さん。工程によってさまざまに道具を持ちかえられていました。名前は一刀彫ですが、その一刀で彫り上げたような大胆で勢いのある彫り跡は、適した道具を多種多様に使い分けてこそ生まれていたのですね。長年の研究の結果これがベスト、と握り方を見せてくれた小指には、大きな握りダコができていました。

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様々な道具と手わざを経て、もうすぐ彫りが完成。

12年たつと顔が変わる?干支飾りの秘密

彫りができあがったものは、一度色映えをよくするために脱色した後、最後の工程、彩色へ。広々とした和室のギャラリーの奥、彩色の作業部屋を見せていただきました。中では日本画家を志していたというお弟子さんが、先ほどの酉の飾りに絵付けの真っ最中。

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パーツごとに順番に色を塗り分けていきます。
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完成形。これを見本に色をつけていきます。

話を伺ううちに、そうそう、この酉の表情も、時代によって変わるんですよ、と12年前の酉の置き飾りを見せてくれました。

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左が2005年前の酉飾り。右が来年の酉飾り。

「社会が元気なときは、ごてごてっとした色彩のものが受けるみたいですね。不景気なときは、自然と優しい顔になります」

確かに12年前と比べると、来年の飾りはより目が大きく、形もぽってりと丸みを帯びています。その時々の社会の空気感に合わせて、彫りも絵付けも微妙に変えていることがわかります。

高橋さんの工房があるのは、思わず深呼吸したくなるような、静かな山あい。そんな人里離れた環境で生みだされる一刀彫の数々は、しかししっかりと時代の空気を吸って、進化を続けていました。

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ギャラリー手前の丘から臨む風景

「展示会にずっと出していると、疲れた顔をしてかえってくるんですよ。ものには鮮度があるんです」

海の近くの、活きのいい魚を出す小料理屋の主人のように、海の無い奈良の山深い庵で、にっこりと木の名工が語るのでした。

高橋勇二さんギャラリー
住所 奈良県桜井市大字岩坂779-12
0744-47-8764
http://www2.odn.ne.jp/~u-takahashi/

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山あいの丘に車を止めたら、ギャラリーまで徒歩で坂を上ろう。
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美しく手入れされたギャラリーまでの小径。
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庵と呼ぶのがぴったりのギャラリー内。そこかしこにかわいらしいしつらえが。

文:尾島可奈子
写真:木村正史