一楽・二萩・三唐津 茶の湯で愛された唐津焼

こんにちは。さんち編集部の庄司賢吾です。
肥前窯業圏において、歴史の中で茶の湯と深い関係を持ってきた焼き物があります。その名も「唐津焼」。かつて「一楽・二萩・三唐津」と格付けされ、茶の湯の中心で強く存在感を放っていた焼き物です。現在でも日本を代表する焼き物の一つとして名を馳せていますが、それは一時の衰退を乗り越える数々の努力や挑戦があってのこと。
本日は、そんな唐津焼の今までの歴史と、焼き物の枠に捉われない未来への挑戦をご紹介します。

茶の湯の中心に唐津あり

1592年の朝鮮出兵から数えて10,15年前の段階で、朝鮮から陶工が入ってきていた唐津には、すでに「古唐津」と呼ばれる焼き物が存在していました。朝鮮半島や南中国より陶技が伝えられ、全国に先駆けて釉薬(ゆうやく)のかかった焼き物がつくられていたのです。朝鮮陶工たちは日本初の「登り窯」と「蹴りろくろ」も伝え、波多氏の領地である岸岳の山にある窯でつくられた品質の高い唐津焼を、全国へと出荷していました。主に京都・大阪を中心とする西日本に広がり、東日本の「せともの」に対して「からつもの」と呼ばれるまでになっていたそうです。

その後豊臣秀吉の時代に、千利休により茶の湯が流行します。当時の茶席にも唐津の水指が用いられていたことがわかっており、茶の湯に欠かせない焼き物となっていました。「一楽・二萩・三唐津」と呼ばれ茶碗が格付けされていたことからもわかるように、唐津焼は茶の湯と切り離せない器となり、1615年までの慶長年間には最盛期を迎えます。ちなみに、「一楽・二萩・三唐津」という呼ばれ方が定着する以前には、「一井戸・二楽・三唐津」と呼ばれたそうで、唐津焼は時代を跨いで茶の湯の中で不動の地位を築いていたことが伺えます。強い主張を持たない「映り」の良さで特に茶道具として重用され、さらには一般雑器として、そして献上唐津と呼ばれる徳川家への献上品として、幅広く支持を受けていました。

27.5mの国指定史跡「唐人町御茶盌窯」。享保19年から明治4年の廃藩置県まで御用窯として唐津焼を支えました。
27.5mの国指定史跡「唐人町御茶盌窯」。享保19年から明治4年の廃藩置県まで御用窯として唐津焼を支えました。

こうして日本の陶器の礎をつくった唐津焼ですが、その後衰退の一途を辿ります。唐津の陶工が有田伊万里に流れていき、1616年に有田で磁器の生産がはじめられるタイミングを境に、肥前の焼き物は陶器から磁器へと推移していきます。陶器を生業としていた唐津焼は、徐々に肥前窯業圏での存在感を小さくしていってしまいました。その後の廃藩置県で藩の御用窯としての保護を失うことと合わせて、茶の湯を中心に栄えた唐津焼のかつての輝きは失われていきます。

十二代による陶技の復興

それでは現在のように名声を取り戻した、唐津焼の再興はどのようにして起こったのでしょうか。唐津焼の歴史を支えてきた中里家の、十四代中里太郎右衛門氏にお話を伺います。

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「唐津焼が再びかつての輝きを取り戻すのは、十二代中里太郎右衛門の尽力が大きかったと思います。古唐津の窯跡を発掘し、桃山~江戸時代初期の古唐津の技法を復活させることに成功したんです。元々「土味」と呼ばれていた粗くざっくりとした土の雰囲気、釉薬の流れの表現、深みのある色、その全てで素材に対する強い拘りを持つという唐津の本来の姿に回帰したのが良かったんですね」
藩の保護を失い衰退する中でアイデンティティを失いかけていた唐津焼を、十二代はかつて使用していた窯をつかいながら、昔ながらの古唐津のつくり方で本来の魅力を取り戻していきます。整いすぎない味わいが出せる蹴りろくろを用いた陶器の成形、従来は漏れ止めの役割しかなかった釉薬を用いた装飾、彩りの違う釉薬の意図的な使い分け、それら全ての手法の良さを見つめ直し、原点に立ち返りました。
「特に唐津焼は工程ごとの分業が主流となっていた肥前窯業圏の中で、全ての工程を一貫して同じ職人がつくるから、器により強く人間性を映すんですよ」と、十四代が教えてくれたように、伝統的な手法と十二代の個性が掛け合わされることで、唐津焼は再び唯一無二の存在となっていきます。

斜面に築かれ1300℃程度の高温焼成が可能な唐津伝統の登り窯。
斜面に築かれ1300℃程度の高温焼成が可能な唐津伝統の登り窯。
「はずみ車」を足で蹴る「蹴りろくろ」は職人ごとの違いが出やすく器に個性が宿ります。
「はずみ車」を足で蹴る「蹴りろくろ」は職人ごとの違いが出やすく器に個性が宿ります。
植物の灰や鉱石、鉄などを混ぜて水に溶かした釉薬は、原料によって色の違いが出ます。
植物の灰や鉱石、鉄などを混ぜて水に溶かした釉薬は、原料によって色の違いが出ます。
筆で文様をつけたのは唐津焼が日本初とされ、釉薬をつけて焼成することで浮かび上がらせます。
筆で文様をつけたのは唐津焼が日本初とされ、釉薬をつけて焼成することで浮かび上がらせます。

「その後を継いだ十三代である父は外国の技術を取り入れて、唐津焼のベースの上で新しい技法へとさらに挑戦を重ねていきました。魚の図案を多く取り入れたり、今までに無い切り口を唐津焼に付け加えていったんですよ」
そう言って見せてくれたスケッチブックには、たくさんのカラフルで美しい魚の図案が描かれていました。かつての唐津焼には見られなかった、独創的な絵柄です。伝統を守るだけではなく、積極的に、そして貪欲に進化させていく攻めの姿勢で、十三代は唐津焼の発展に大きく貢献しました。
こうして十二代で蘇った唐津焼のバトンは、十三代による新しいことへの挑戦というDNAとともに、十四代にしっかりと受け継がれていきます。

美しくデッサン、着彩が施された魚の図案。
美しくデッサン、着彩が施された魚の図案。

「過去をなぞるだけでは面白くないといつも考えますね。何かしら図案や形を新しく加えようとすると、力が湧いて良いものができると思っています。だから父親を特別意識したこともないですし、とにかく自分が良いと思う新しい挑戦を続けてきました」と、十四代は話します。炭化させて焼く方法も唐津の歴史には無かったことですし、白と黒の掻き落とし、青や緑の色使いも、今までにない新しい試みでした。それだけではなく、十四代は唐津焼の未来を見据え、従来の固定観念に捉われない新しい挑戦に次々と取り組んでいきます。

十四代が描く唐津の未来

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20年前は50窯元しかなかった唐津焼ですが、今では街をあげての唐津焼の魅力を発信する取り組みもあり、70窯元まで増えてきています。2012年からは、有田の陶器市と一緒に唐津やきもん祭りを5年連続で開催し、唐津に年に10万人もの観光客を集めることに成功。秋には窯元が点在する唐津を回遊させるために窯元ツーリズムもはじめ、産地全体を盛り上げる活動に取り組んでいます。
「唐津焼それ自体だけではなくて、他の何かと組み合わせた発信を意識してますね。例えば、2016年に唐津で行われたDINING OUT では、パリで最も注目されている渥美創太シェフの地域食材を使った料理に、このために作った器を合わせて提供するということをしました。唐津焼からは5つの窯元が参加したんです」
有田焼創業400年を記念して開かれたこの催しは、有田焼の歴史とその源流でもある唐津焼に対し「敬意」を持って見つめるRespectと、未来に向けて400年を捉え直すというRe(改めて)Spect(視点を持って見る)という意味を込めた「DO Re-Spect」をテーマに開催され、大きな話題を集めることに成功しました。

十四代の勢いは、それだけでは止まりません。「それに、唐津出身の篠笛(しのぶえ)奏者の佐藤和哉さんの演奏と、器の展示とトークイベントを合わせた催しもやりました。パリではお酒と合わせてやってみたんですが、これがとても反響が良くて。実は来年はバチカンでやりたいと思っているんですよ」と、大きな夢を持って唐津焼を、焼き物だけの枠にとらわれずに広めていく十四代。
「焼き物をつくるような気持ちで心を込めて唐津の街をつくりたい」と、十四代は考えています。4,5年後には唐津に古唐津を中心とした美術館をつくり、アジアに発信をしていく文化の交流の場所にするという計画があるそうです。日本だけではなく、海外進出も見据えて挑戦を続けていきます。

最後に、新しい挑戦へと十四代を突き動かすのは、どのような想いからなのか、伺ってみました。
「物をつくるうちに、物は表面に見えるだけの価値ではなく、中から出てくる価値だと自然と理解することができました。精進する気持ちで作陶することで、自然に即した在り方、生き方が一番良いと感じるようになったんです。それで、唐津の見える部分ではなくて中にある価値を、皆さんに興味を持ってもらえる形で広げて伝えていきたいと思ってます」
襲名した当初からの想いである、作陶だけに囚われない唐津焼を通した世界との結びつきを実践しています。
「それに、こういう活動をはじめてから、もうワクワクして仕方がないんですよ」と、十四代はキラキラとした目で最後にそう話してくれました。
唐津焼は、茶の湯の席を飛び出し、世界との結びつきを少しずつ増やしながら、唐津焼の伝統を守り、そして新しい唐津焼の歴史をつくっています。十四代がけん引する、茶の湯や作陶や日本国内といったあらゆる枠を打ち破るスケールの大きい挑戦から、今後も目が離せません。

文:庄司賢吾
写真:菅井俊之

わたしの一皿 鹿児島のうつわ

はじめまして。みんげい おくむらの奥村忍です。webで手仕事の生活道具を販売しています。食べるのが大好きだという話がどこからか伝わり、こちらで毎月食と工芸の話をさせていただきます。どうぞよろしくおねがいします。

「家にもどったらなにを食べようかなぁ」。 買付けの旅からもどると、体がやさしい味をほしがる。仕事柄、旅、また旅。僕は手仕事の生活道具を国内外各地で買付け、webで販売しています。1泊の国内旅もあれば2週間を超える海外の旅も。旅がつづくとすなわち外食つづき。さらに酒も好きで、仕事が終われば毎夜あちこち飲み歩くもんだから、胃腸はぐったりおつかれさま。そんなわけで、帰ったらなるべく家でおだやかなごはんを。

旅からのもどりに、ぼんやり献立を考える。根っから食いしん坊なのでこれがたまらなくたのしい。ぐったりの胃腸がよろこんでまた踊りだすようなごはんは何だろう。僕は肉よりも魚。洋食より和食派。魚をさばいて料理するのが好きなので、家で魚料理は僕の役割。魚で和食なら、お刺身・煮付け・焼きもの・蒸しもの・揚げもの…。さてどうするか。

昔から住む千葉の船橋には手ごろな大きさの市場があって、プロの料理人たちがあらかた買いものを終えた朝遅めには、僕らもゆっくり買いものができる。場内には仲卸業者が数十軒ひしめき合っていて、それぞれ個性がある。通っていると素人ながらに、あの魚はここ、貝はここ、迷ったらここで旬のものと食べ方を教えてもらって、なんて使い方がわかってきて、生意気気分がここちよい。

よし、今日は煮魚でいこう。冬は湯気が立ちのぼるごはんがうれしい。炊きたての米とみそ汁、そしておつけものでもあれば立派なごはん。今日の魚は房総産の小ぶりな金目鯛。金目鯛は分厚い切り身もよいが、こんなサイズのものを丸一匹食べるのもなかなかぜいたくだ。

煮魚は煮すぎないように、ほどほど味をまとった身に煮汁をひたして食べるぐらいで。魚にどっしり色と味がしみるほど煮てしまうとせっかくの身がガチガチボソボソで台無しです。ちなみに今日の煮汁はこってり目。煮ているそばから思わず日本酒一杯やりたくなる。シメシメ、胃腸も回復のきざし。

そうそう、大切なこと。合わせるうつわをきめなくちゃ。おいしさは見た目にもあるからここは大事。魚の大きさや色、仕上がりをイメージしながら。各地のうつわを売ってるもんで、この辺はお手の物といえばお手の物だけど、思い通りにバチっとハマるとやっぱりうれしいもんです。

今日えらんだうつわは南国鹿児島から。沖縄に学び、ふるさとでうつわづくりをする女性陶工、佐々木かおりさんのもの。地元の粘土や、天然素材を使った釉薬でつくられる「鹿児島のうつわ」。どっしりしながらやわらかい、そして少し男前なたたずまい。窯と工房は集落からちょっとの里山の中で、そこは彼女のお父さんの牛小屋の牛たちと、背の高い木々にかこまれたおだやかな空間(牛は鳴くけれど)。食べざかりのわんぱく二児の母も、この工房にいる時だけはひとりの陶工。「黒薩摩」とよばれてきた鹿児島のうつわの伝統を想いながらも、自分たちの暮らしに添ううつわづくり。釉薬をかけなければ、鉄分が多いこの土地の粘土は焼き上がりが黒い。皿といえば白?いや、黒の効いた皿もおもしろい。やわらかく、あたたかみがある佐々木さんの黒にここのところワクワクさせられっぱなしなんです。

さて、寒い時期だから、お湯で一度あたためたこのうつわに魚を盛りつけたら、湯気が立ちのぼっているうちに食べ始めたい。しかし、昨今商売柄もあって、Instagram用に写真を撮るのだ。なんて殺生。食べたい気持ちと撮りたい気持ちのせめぎ合い。それにしても、このうつわはやっぱりこの魚にバッチリじゃないか。せめて2、3枚ほどでささっと写真が撮れたら、ほら急げ。ひと呼吸して心をしずめて。いただきまーす!

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奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文:奥村 忍
写真:山根 衣理

【奈良のお土産】森奈良漬店の壺入り「きざみ奈良漬」

こんにちは、さんち編集部の尾島可奈子です。
わたしたちが全国各地で出会った “ちょっといいもの” をご紹介する “さんちのお土産”。第4回目は清酒発祥の地、奈良のお土産です。

清酒発祥の地と言われる奈良で、酒粕に瓜を漬け込んだお漬物が商品として売られるようになったのは江戸末期のことだそうです。その名も「奈良漬」。奈良のお土産の定番ですね。奈良漬を買えるお店は何軒もありますが、東大寺南大門前にお店を構える森奈良漬店は1869年(明治2年)創業の奈良漬の老舗です。お店の前は東大寺への行き帰りの人と鹿せんべいを追い求める鹿で絶えず賑わいます。

悠然と鹿が通る東大寺南大門前の店構え。
悠然と鹿が通る東大寺南大門前の店構え。

森奈良漬店の奈良漬は、直接もしくは契約栽培の野菜・果物のみを使用。酒粕と天然塩だけという潔い味付けは、お酒の味がしっかりと効いて地元ファンも多いのです。中でもおすすめしたいのは酒粕を洗いおとさずにそのまま食べられる「きざみ奈良漬」。コンパクトな紙袋入りもありますが、どっしりとした丹波立杭焼(たんばたちくいやき)の壺入りは目上の方へのお土産やちょっとしたご挨拶にも喜ばれそうです。お酒好きの方なら奈良の地酒と一緒に晩酌セットで、、なんて楽しい組み合わせかもしれません。定番を押さえながらちょっと話のタネにもなる奈良のお土産に、おすすめです。

パッケージに描かれた壺の姿も愛らしい。230g入り1080円(税込)
パッケージに描かれた壺の姿も愛らしい。230g入り1080円(税込)

ここで買いました。

森奈良漬店
奈良県奈良市春日野町23
0742-26-2063
https://www.naraduke.co.jp/

文:尾島可奈子
写真:木村正史

百聞は一見にしかず、産業観光が切り拓く工芸産地の未来

こんにちは。さんち編集長の中川淳です。
ここ5年10年「日本のものづくり」が大きく見直されています。ローカルを切り口にした雑誌やライフスタイル誌はもちろんのこと、一般女性ファッション誌でも工芸や民藝という言葉を見かけます。もしかしたらある種のブームと言っても良いかもしれません。しかし実態はその印象とは大きく異なります。伝統工芸の産地出荷額は90年代初頭のピーク時から比べると1/4にまで減少しており、働く人も減少し高齢化の問題を抱え、絶滅の危機にあると言っても過言ではありません。

そんな中、高岡の能作や波佐見のマルヒロなど躍進を遂げるメーカーも少数ながらあります。しかし1社だけの躍進では産地が存続できるかどうかはわかりません。なぜなら産地の多くは分業制でできているからです。分業である以上、ものづくりの全工程を支えるすべてのメーカーが元気にならなければ産地は成立しませんが、苦戦が続いています。そんな中で可能性を感じるのが「産業観光」です。

スタッキングマグで有名になったマルヒロが手がける「HASAMI」
スタッキングマグで有名になったマルヒロが手がける「HASAMI」

そもそも工芸は「ややこしい」ものです。海外で大量生産された同じようなものに比べると価格は随分と高いですし、一見しただけではどこに手間暇をかけているのかも分かりません。なのでお店で売る時にはできるだけ、ものづくりの背景やその土地、メーカーの考え方などを説明し理解してもらおうと努力しています。しかしながら百聞は一見にしかず。ものづくりの現場を見てらうことに優るプレゼンテーションはありません。ものづくりの現場を見てもらうこと、それすなわち「産業観光」です。

産業観光というと2014年に世界遺産に登録された「富岡製糸場」が思い出されますが、富岡製糸場はあくまで「遺産」であり現在稼働しているものではありません。それに対して現在も稼働している工芸産地には動いているからこその面白さがあります。癖の強い職人さん、伝統的な技法と少し近代化されたプロセスの融合、工房にいる名物の猫、などなど。同じ焼きものの産地であってもすべての産地が違う顔をもっています。そこに行くことでしか感じることのできないその土地の空気。それを感じることこそが産業観光の醍醐味です。

以前さんちでも紹介した「燕三条 工場の祭典」(新潟県燕三条)などはまさに工芸産地を訪ねる、産業観光の先駆けです。燕三条にはパン切り庖丁の「庖丁工房タダフサ」や鎚起銅器の「玉川堂」など有名メーカーがありますが、2013年から始まった「燕三条 工場の祭典」の影響もあり、三条の鍛冶職人はここ数年フル稼働の状況が続いているといいます。まさに産業観光により産地全体に活気があふれている典型事例と言えます。

2016年第4回を終え毎年着実にお客さんが増えている「燕三条 工場の祭典」
2016年第4回を終え毎年着実にお客さんが増えている「燕三条 工場の祭典」
人口1万人の波佐見町に1万5千人が押し寄せた「ハッピータウン波佐見祭り」
人口1万人の波佐見町に1万5千人が押し寄せた「ハッピータウン波佐見祭り」

工芸産地における産業観光の流れは今後ますます加速していくでしょう。その他にも地方ではアートイベントも多発しています。これらの動きは「今おもしろいのは都心より地方である」ということの現れだと思います。
色んな産地に是非旅してみてください。ものづくりの現場を見て理解が深まるのはもちろんですが、そこにはあなただけの新しい発見が必ずあるはずです。

文:中川淳
写真: 菅井俊之・杉浦葉子

愛しの純喫茶 〜福岡編〜

こんにちは。さんち編集部の西木戸 弓佳です。
旅の途中でちょっと一息つきたい時、みなさんはどこに行きますか?私が選ぶのは、どんな地方にも必ずある老舗の喫茶店。お店の中だけ時間が止まったようなレトロな店内に、煙草がもくもく。懐かしのメニューと味のある店主が迎えてくれる純喫茶は密かな旅の楽しみです。旅の途中で訪れた、思わず愛おしくなってしまう純喫茶を紹介する「愛しの純喫茶」。第3回目は、福岡人の胃袋を支える柳橋連合市場のすぐ傍にある老舗喫茶、ベニスです。

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少し重たいドアをぐいっと開けると、サイフォンをかき回す手を少し止め「お帰りなさい」と迎えてくれたマスター。黒ベストに蝶ネクタイの姿が、今日も素敵です。前日、すぐ傍にある「柳橋連合市場」で買い物をした帰りに休憩した喫茶「ベニス」。あまりの居心地の良さに、翌日もまたお邪魔してしまったのでした。

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喫茶ベニスは、これぞ純喫茶といったクラシカルな雰囲気。ヨーロッパ調の家具、入口のステンドグラス、落ち着いた色の照明、真っ赤な床、控えめにかかるクラシックな音楽・・・ここだけ、昭和のまま時代が止まっているかのよう。ピシッとしたマスターの格好も相まって、老舗ホテルのオーセンティックバーのような重みもあります。

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カウンター席にお邪魔し、早速「ナポリタン」を注文。なんというか、ベニスのTHE純喫茶ぶりに、ここはナポリタンを食べないと、と思ったのです。きっと小さい頃に食べた、あのスタンダードなナポリタンに違いない。ワクワクしながら待つ間、同じカウンターに座る常連さんとマスターの会話が耳に入ります。

「あの2人どげんなった?うまくいくとよかねー」と、常連さんの恋の行方を気にするマスター。なんでも最近、ひとりで来るお客さん同士の仲人をしたんだとか。なんと手厚い喫茶店・・・!マスターの人の良さに、お店が長く続いている理由も分かります。

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運ばれてきたナポリタンは、そうそう、これ!と言ってしまうような見事な仕上がり。ベーコン、ピーマン、玉ねぎ、マッシュルーム入りの漫画で描いたみたいなナポリタン。ふぅふぅしながら食べてみると麺がモッチモチで、ケチャップの味付けは程よい甘さの優しい味。食べながらついニヤけてしまいます。「大人になってもみんなナポリタンは好いとうねー」とマスターもニコニコ。小さい頃は食べ切れなかったナポリタンですが、ペロッと一皿完食しました。
すっかりノスタルジックな気分に「クリームソーダ!」と注文したくもなりますが、サイフォンでコポコポしているコーヒーのいい香りに惹かれ、やはりホットコーヒーを注文。出てきたコーヒーには、純喫茶らしく冷たい生クリームが添えられていました。もう、完璧です。

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ベニスの開店は、まだお店が位置する渡辺通りに路面電車が走っていた頃。今では老舗と呼ばれるホテルニューオータニ博多が出来る前から、ずっとこの場所でお店を続け、町の変化を見てきたのだそう。変化の多いこの町でずっと変わらないスタイルで続いているこのお店は、地元の方たちが心から安らげる憩いの場になっているようです。昨日の出来事、仕事のこと、ペットのこと、みなさんマスターと色々な話をして帰って行かれます。お店に来られるお客さんはみなさん、マスターと話すためにここに来ているのかもしれません。

「また帰ってこんねー」と、見送ってくれたマスター。福岡に戻ったら、また帰ろうと思う、居心地のいい喫茶店でした。

ベニス
福岡県福岡市中央区春吉1-1-2
092-731-3968

文・写真 : 西木戸弓佳

奥信濃のイケてるじいちゃん・ばあちゃん×ストリートカルチャー “鶴と亀”

こんにちは。さんち編集部の井上麻那巳です。
旅をするなら、よい旅にしたい。
じゃあ、よい旅をするコツってなんだろう。その答えのひとつが、地元の人に案内してもらうこと。観光のために用意された場所ではなくて、その土地の中で愛されている場所を訪れること。そんな旅がしてみたくて、全国各地から地元愛をもって発信されているローカルマガジンたちを探すことにしました。第4回目は長野県奥信濃のイケてるじいちゃん・ばあちゃん×ストリートカルチャーを発信するフリーペーパー “鶴と亀” です。

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かっこいいですよね…!カラフルな作業着で農作業をするおばあちゃん、MA-1を着て原付を飛ばすおじいちゃん、笑顔で雪かきをするおばあちゃん…。どこかで見たことあるようなおじいちゃん・おばあちゃんの日常がストリートカルチャーの視点で切り取られたスナップは、奥信濃の自然とも相まってとってもフォトジェニック。私たちが想像する田舎のおじいちゃん・おばあちゃんとは違った一面を見せてくれます。

編集部は小林徹也さん(兄)と小林直博さん(弟)の兄弟編成。弟の直博さんは奥信濃で育って大学時代を埼玉で過ごしたのち、現在は再び奥信濃で暮らしています。写真は編集部自らが近所のおじいちゃん・おばあちゃんに声をかけて撮影していくスタイルだそうです。この表情を引き出せるのは地元っ子ならでは。

編集部の小林兄弟とおばあちゃん(左から兄、祖母、弟)。
編集部の小林兄弟とおばあちゃん(左から兄、祖母、弟)。

“鶴と亀” の始まりは、物心ついた頃からHIPHOPやストリートカルチャーに興味を持ち、東京に人一倍憧れていたと語る直博さんが埼玉から奥信濃へ帰省していた時のこと。ふいにおじいちゃん・おばあちゃんの着こなしに、原宿を歩いてる子たちを見るような感覚を覚えたそうです。近所のおじいちゃんのMA-1ジャケットに、手ぬぐいとキャップのレイヤード、柄に柄を合わせるコーディネート。「HIPHOPっぽい!かっこいい!」と、“鶴と亀” 独特の目線が生まれました。

奥信濃スタイルをサンプリングしたという「JA CAP」を商品化。かっこいいです。
奥信濃スタイルをサンプリングしたという「JA CAP」を商品化。かっこいいです。

自分が今まで退屈だと思っていた世界がこんなにかっこよかったなんて。もともと相当なおばあちゃん子だったという直博さんの目標は「自分が奥信濃で暮らし続けること」。その上で、おもしろいこと、かっこいいことを奥信濃から発信して、奥信濃はそれが出来る場所だということを表現していくことが、今一番大事なことだと語ってくれました。

次号は2017年春頃に第五号を発行予定だそう。2013年8月の創刊からTwitterなどの口コミでどんどん人気となり、最近では配布分がすぐに無くなってしまうようです。気になる方はぜひお早めに。

第壱号+第弐号+第参号+未公開写真が合本になった「鶴と亀特別号」も販売しています。
第壱号+第弐号+第参号+未公開写真が合本になった「鶴と亀特別号」も販売しています。

ここにあります。

長野県内、東京を中心に、日本各地の書店などで配布しています。
詳しくはこちらのページから。
鶴と亀 設置場所


全国各地のローカルマガジンを探しています。

旅をもっと楽しむために手に入れたい、全国各地から発信されているローカルマガジンの情報を募集しています。うちの地元にはこんな素敵なローカルマガジンがあるよ、という方、ぜひお問い合わせフォームよりお知らせくださいませ。
※掲載をお約束するものではございません。あらかじめご了承ください。

文:井上麻那巳
写真提供:鶴と亀