細萱久美が選ぶ、生活と工芸を知る本棚『日本料理と天皇』

こんにちは。中川政七商店バイヤーの細萱です。
生活と工芸にまつわる本を紹介する連載の3冊目です。今回は工芸ではなく、日本の生活や文化について学べる本を選びました。タイトルが若干仰々しいですが、天皇論を語るような学術書ではなく、宮廷文化が育んだ日本食文化を、美しい写真を眺めるだけでも楽しく知ることが出来るムック的な本です。著者の松本栄文さんは、この本を見るまで存じ上げませんでしたが、プロフィールは株式会社松本栄文堂・社長として、花冠「陽明庵」という隠れ家のような日本料理屋で腕を振るう料理人であり、作家でもあります。著書『SUKIYAKI』では料理本アカデミー賞と称されるグルマン世界料理本大賞2013「世界№1グランプリ」を受賞という、日本料理の世界でも権威ある方と知りました。

この「日本料理と天皇」を手にしたのは、一昨年の年末年始商品として、お餅を扱うことになったのがきっかけです。私は、お雑煮は正月しか食べる習慣がありませんが、単に正月の食べ物として当たり前に食べているだけでした。それも丸餅であったり、角餅であったり特にこだわらず。この本で、お餅や、その原料である御米(本に倣って御の字を使います)の本来の意味合いをようやく知りました。御米が日本人にとって大切な食べ物である意識はあっても、神と天皇との関わりまで深く考えたことがありません。本によれば、日本の総氏神とされる天照大御神様が、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を地上に君臨させる際に稲を持たせ、御米は人々の命を支える食べ物となり、神々の子孫である大和朝廷の御上(天皇)は豊作を祈願する役割があります。それに対し、大御宝(国民)は信頼と尊敬を感じるという繋がりが自然と生まれます。

御米から作る、御餅は神々への捧げ物であり、霊力の塊のように考えられていました。そして太陽や宇宙を表す丸い形にするのが古来の考えです。「餅」と「丸」が重なることで、ハレの日にこれ以上ふさわしい食べ物はないということで、日本の御祝行事にはつきものとなりました。お正月に飾る鏡餅は、奈良時代に考案されましたが、お正月の神様である歳神様に捧げるお飾りです。丸い御餅に神様が宿り、鏡開きでその力を授けて頂くという意味合いがあります。それを知って、開発したお餅の商品は丸餅になりました。

「五穀豊穣」を祈願するお祭りや行事も多いことからも、御米あっての日本人と言えますが、日本料理の起源としても、神々に供える「神饌」(しんせん)があります。お正月のご馳走と言えば、お節料理ですが、これも神々へのお供えものを下げていただくのが本来です。お節料理の内容で、例えば数の子は子孫繁栄、黒豆には健康でまめに働いてほしい‥‥などそれぞれに意味合いがあることはなんとなく知ってはいるものの、習慣として食べている意識の方が強いです。お節料理は、奈良時代には行われていた宮廷行事の料理に由来し、現在もあまり変わらず受け継がれているのは驚きです。
季節の区切りを祝う五節句のお供えも同様に、神饌を下げて戴くことで、神々とつながり無病息災を願いました。意味合いを考えることは薄れつつも、伝承文化が途切れずに残っているのは改めてすごいことだと思います。紀元前660年御即位の初代神武天皇以来、天皇家は2600年以上続く、世界最古の王家だそう。その歴史があるからこその、今に続く伝承文化と言えます。

著者は日本料理人でもあるので、世界無形文化遺産に登録されたのが「和食」と題され、「日本料理」と題さなかったことを遺憾に思われています。確かに、「和食」の定義はもはや難しく、日本風の食事?という曖昧さはあると思います。その論議はさておき、私は仕事柄、歳時記にちなんだ商品や事柄に関わることが多く、その割に意味合いをきちんと理解していなかったことを改めて感じ、且つ分かりやすく勉強になる本と出合いました。日本料理が切り口ではありますが、伝承されている日本文化や美意識は世界に誇るものがあることを、豊富な写真と、なるほどと腑に落ちる解説で楽しめる大作本です。

 

<今回ご紹介した書籍>
『日本料理と天皇』
松本栄文/枻出版社

細萱久美 ほそがやくみ
東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。


文・写真:細萱久美

18億の負債を抱えた企業が、商品入荷待ちの人気メーカーになるまで

機能的な土鍋や調理具を開発されている伊賀焼の長谷園(ながたにえん)さん。

個人的にも愛用させてもらっていて、無くては困る台所の相棒です。

その鍋の優秀さについて語ろうとすると、いくつでも記事が書けそうですが、今日は長谷園さんの本社へお邪魔して、伊賀焼の歴史や特徴について伺いました。

長谷園の資料室
伊賀本店一帯は広い敷地の中に3棟の展示室・資料館・体験工房・展望台などが整備されている
長谷園の資料室
国の有形文化財に登録された建物も
長谷園
展示場のひとつ
長谷園の長谷康弘さん
案内をしてくださったのは、代表取締役の長谷康弘さん

日本で唯一、天然素材の陶土からできる伊賀の土鍋

プロの料理家の愛用者も多いという長谷園さんの土鍋。

これまで75万個を販売し、家電雑誌でも“一番おいしくご飯が炊ける道具”として評価された、炊飯土鍋の“かまどさん”をはじめ、蒸し器にもなる土鍋、煙を出さずに自家製燻製ができる“いぶしぎん”、IHでも使える土鍋など、様々な土鍋を開発されています。

長谷園のラボ
試作を作るラボのような場所。開発に約3年を費やす商品もあるのだそう

そんな長谷園さんの土鍋の強みは、原料の土にあります。伊賀の土は、耐熱性があること、蓄熱できることから、調理器具として優秀な働きをするのだそう。

実は昔、琵琶湖の底だった(!)伊賀市。古琵琶湖層と言われる地層から採れる伊賀の土の中には、400万年も前に生息していた有機物( 植物や生物 )がたくさんいます。

この土を高温で焼くと、中の有機物が焼けて発泡し、土の中が気孔だらけのような状態に。その土は、火を与えてもすぐには熱を通さず、一度蓄熱をしてから、ぐっと一気に食材に熱を伝えていくことで料理を美味しくしてくれるのです。

また、蓄熱性が高いので火から下ろした後でもなかなか冷めず、弱火でコトコト煮込んでいるのと同じ温度を保ちます。

その特徴ある土ですが、日本で取れる陶土で土鍋になるほどの耐火度を持つのはなんと伊賀の土のみ。長谷園さんは、その特徴を存分に活かした商品作りを続けられています。

土の特徴を活かしたさまざまな商品を販売

手作業で作られる土鍋

作る現場を案内していただいて驚いたことは、すべての土鍋作りに人の手が入っていること。毎日大量の数を作られている長谷園さんですが、成形した土鍋を削ったり、取っ手を付けたりする工程は人によって行われているそうです。

乾燥の具合、微妙なサイズ感の違いなど、ひとつひとつを人の目で判断しながら手作業で作られている土鍋。土鍋は重たいので力もいるだろうし、土や温度、乾燥など自然と対峙する仕事でもあるため神経も使うだろうなぁと、苦労して作られた土鍋に感謝したくなります。

長谷園の土鍋
素焼き前の土鍋。土の乾燥具合を見ながら、取っ手を取り付ける

作り手は真の使い手であれ

「作り手は真の使い手であれ」をモットーにされている長谷園さん。作られている商品も「こんな物が欲しかった」というものが多いですが、以前、そのサービスに感動したことがあります。

私、何年か前に、一番頻度高く使っていた長谷園さんの「ふっくらさん」という商品の蓋を、誤って割ってしまいました。( それはそれはショックで、しばらく放心したのを覚えています。 )

無くては困るのでお店に行って同じ商品を選び、お会計をしながら割ってしまった話をしたところ、パーツだけでも売ってくださるとのこと。

部品が欠けたら改めて書い直すものだと思い込んでいた私は、驚き、感動して長谷園さんが更に好きになりました。

その話を聞くと、これも使い手の声から生まれたサービスなのだそう。

土鍋が売れだした頃、「買ってもらった方は、本当に喜んで使ってもらっているのかな?」と、使い手にアンケートを実施。感謝の声が多い中、使っていないと答えた方が約1割いました。

そこに、部品が欠けてしまったから、という理由もあり、パーツ売りをすることに決めたそうです。

とは言っても、( ほとんどのメーカーがパーツ売りに踏み切らない要因でもありますが )パーツ販売は手間の割にコストが見合わないもの。反対の意見も多かったそうですが、最終的に踏み切ったのは、「自分がそうしてもらえたら、嬉しくないか?」という使い手目線での問い。「買ってもらうことじゃなくって、使い続けてもらうことが大事なので」と話されます。

負債18億、売上5億。

長谷園の創業は1832年( 天保3年 )。約200年の歴史を持つ老舗メーカーですが、経営が苦しい時期もあったそうです。

「僕が戻ってきた頃、会社の負債は18億円、売上は5億円。胃が痛くなるような数字でした」と当時を振り返られます。

「周りに甘えがちな環境では、ろくな人間にならない」と、高校から外へ放り出された康弘さんは、東京の高校・大学へ進学。百貨店へ就職して流通を学ばれた後、ご実家である長谷園さんへ戻られます。それが、およそ20年前。会社がどん底の頃だったそうです。

それまでは壁などに貼るタイルが主力の事業だった長谷園さん。伊賀焼のタイルは、他にはない大胆な表現が可能で人気が高かったものの、震災をきっかけに重量のある土タイルは避けられるようになってしまったのだそう。出荷待ちの商品もキャンセルが続き、多くの銀行が離れていきました。地元では、「長谷は終わった」という声もあったそうです。

長谷園の資料館
タイル事業で作られていた壁画の一部

人が来てくれる場所に

「お金は無かったですが、戻ってきてここの良さが分かりました。このロケーションは大きな財産。人に来てもらえるような場所に、きっとなるだろうと思いました」と康弘さんがおっしゃるとおり、今では、毎年5月に行われる「長谷園窯出し市」には3万もの人が訪れる長谷園さん。( 武道館の1万人ライブがニュースでよく話題になりますが、この電車もバスも通っていない場所に、焼き物を求めてそれだけの人が集まるのはすごいです )

1832年に築窯された登り窯の保存、これまでの歴史をアーカイブした資料館、観光に来た人が休める喫茶など、それまではメーカーの工場だった場所を、人が来て楽しめる観光の場に変えていきました。

地方創生を政府が掲げて以来耳にするようになった、土地の産業を観光とする「産業観光」は今ようやく注目を集め出していますが、約20年前から始められていたとは。その先見の明に驚かされます。

長谷園の薪窯
年に1度の窯開きの時に使われる薪の窯
長谷園の休憩室
休憩室として使える部屋。大正時代の趣のある建築
資料館では、これまでの歴史を学ぶことができる
創業の頃からの貴重な資料が数多く展示

窯開きイベント、ワークショップの開催、若手作家さんの作品展示など、さまざまな取組みによって、人を集める長谷園さんの作り場。そこで焼き物に惚れ込み、伊賀へ移住してくる若い方たちもいるそうです。

また、料理本やライフスタイル本、カンブリア宮殿などのTV番組でも、そのものづくりが注目されています。

ものづくりによって活性化する地域、伊賀。ぜひその活気を感じに足を運んでみてください。

長谷園七代目当主の長谷優磁さん
七代目当主の長谷優磁さん。商品開発の要となり、新たな商品を生み出している方です

長谷園 伊賀本店
http://www.igamono.co.jp/
三重県伊賀市丸柱569
0595-44-1511
営業時間 : 9:00〜17:00
休業日 : お盆・年末年始

長谷園 東京店イガモノ
東京都渋谷区恵比寿1-22-27 map
03-3440-7071
営業時間 : 11:00〜20:00
休業日 : 火曜日( お盆・年末年始は休業 )

文: 西木戸弓佳
写真: 菅井俊之



<掲載商品>

【WEB限定】長谷園 かまどさん 黒釉 三合炊き

古典芸能入門「文楽」の世界を覗いてみる

こんにちは。ライターの小俣荘子です。

みなさんは古典芸能に興味はお持ちですか?

独特の世界観、美しい装束、和楽器の音色など、なにやら日本の魅力的な要素がたくさん詰まっていることはなんとなく知りつつも、観に行くきっかけがなかったり、そもそも難しそう‥‥なんてイメージを持たれている方も多いのではないでしょうか。 気になるけれどハードルが高い、でもせっかく日本にいるのならその楽しみ方を知りたい!そんな悩ましき古典芸能の入り口として、「古典芸能入門」を企画しました。そっとその世界を覗いてみて、楽しみ方や魅力を見つけてお届けします。

「文楽(人形浄瑠璃文楽)」の世界へ

今回は、「文楽(人形浄瑠璃文楽)」の世界へ。

国立劇場小劇場の5月公演に出かけました。

文楽の公演は、大阪の国立文楽劇場(1月、4月、7月下旬~8月上旬、11月)と、東京の国立劇場小劇場(2月、5月、9月、12月)で、各月2~3週間のペースで本公演と呼ばれる本格的な公演が行われています。また、大阪では6月、東京では12月に初心者向けのリーズナブルな料金で楽しめる文楽鑑賞教室が開催されます。加えて、3月と10月に地方公演、そのほかに特別な企画公演の上演がある場合もあります。国立劇場でのチケットは、1等席7,000円(学生4,900円)、2等席5,800円(学生2,900円)、3等席1,700円(学生1,200円)となっており、約4時間半(休憩時間含む)の非日常空間で文楽の世界が味わえます。

今年の5月公演は、4月に襲名された六代 豊竹呂太夫さんの東京での襲名披露公演でもあり、ロビーには数々のお祝いが並び、襲名披露口上(舞台上で行われる襲名の挨拶)も目にできるおめでたい公演でした。さんちでは、六代 豊竹呂太夫さんから直接お話を伺うことができました。50年に渡りこの世界で芸を磨いてこられた呂太夫さんに伺う文楽のお話。極限状態にある人間の喜怒哀楽を超えた感情や、本当の愛とは何か?といった文楽を超えて人間の有りようについてまで、本記事の後半でご紹介させていただきます。

劇場ロビーには襲名を祝うご祝儀が飾られていました
数々のお祝いのお花も

浄瑠璃と人形劇が融合した独特の「三業一体」の芸能

国立劇場小劇場の様子。舞台の右手側に少し段が上がったところがあります。「床(ゆか)」と呼ばれる太夫と三味線弾きの舞台です

三味線の音色と太夫による独特のメロディで語られる耳で楽しむ芸能を浄瑠璃と言います。文楽は、この浄瑠璃に人形劇が合わさって生まれた大阪発祥の舞台芸能です。竹本義太夫の義太夫節、近松門左衛門の戯曲と言うと日本史で習って聞き覚えのある方も多いかもしれません。太夫が舞台上の登場人物を演じ分け、三味線の音色が人物の心情やシーンをよりリアルなものにし、人形遣いが木彫りの人形に魂を吹き込む三業一体(三業は太夫、三味線、人形遣いの総称)、三位一体の芸術とも呼ばれています。2008年に、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。

豊竹呂太夫さん(左)と、鶴澤清介さん(右)。上演の際、床が回転して屏風の後ろから太夫と三味線弾きが登場します(写真提供 国立劇場)

太夫はたった一人で、自身の声の工夫で登場人物を演じ分け、さらには情景描写を行い、三味線の音色とともに物語を進めます。なんとマイクは使わずに、お腹の底から出す声をそのまま客席の隅々まで届けます。三味線の音色が、シーンごとの登場人物の心の様子をさらにリアルに映し出します。人形は、3人で一体を操り「3人遣い」と呼ばれます。人形の首(かしら)と右腕を操る「主遣い(おもづかい)」を中心に、黒頭巾を被り左腕を遣う「左遣い」と、足を遣う「足遣い」の3人の技が合わさることで、人形に命が吹き込まれます。勇ましい男性の姿、愛らしい子どもの姿、たおやかな女性の姿など多様に演じられ、喜怒哀楽の豊かな感情や心の機微が伝わってきて、観客を物語の世界へ引き込みます。人形の姿に惹きつけられて物語に気持ちが入り込むので、人形遣いの方々の姿が目に入らなくなるから不思議です。

初めての文楽

会場で販売される公演パンフレット(600円)には、あらすじやインタビューなどが載っています。手前に写っている床本集(太夫の詞章本)も付いているので台詞を読むこともできます

江戸時代の大阪(大坂)の言葉を元にした詞章と、歌うような独特の節回しによって表現される太夫の語りは、初めて鑑賞するときには聞き取りづらいかもしれません。しかし言葉がわからなくても、声色や三味線の音色、人形の様子から大体の内容は理解することができます。まずは、太夫の迫力ある語りや三味線の音色や人形のしぐさ、それぞれの美しさに感じ入るという楽しみもあるかもしれません。味わい方は人それぞれですね。複雑な登場人物の関係やエピソードを深く味わいたいという場合は、事前にあらすじを読んでおくことをお勧めします。文楽は、シーンごとに「○○の段」と名前があって区切られており、今上演されている部分がお話のどの辺りなのかわかりやすくなっています。その他、台詞が聞き取れず気になった時には、舞台の両サイドに字幕が出ているのでそちらをちらりと見れば大丈夫。また、解説の入ったイヤホンガイドの貸し出しもあるので、ストーリーを詳細に味わいたい方は活用してみると良いかもしれません。

今回鑑賞した演目は、『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』。
公家や武家社会に起こった事件や物語を題材にした「時代物」というジャンルの演目です。
『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』とともに三大名作の一つとされています。菅原道真(劇中では菅丞相)の太宰府への配流と天神伝説を背景に、丞相のために働いた三つ子とその家族の悲劇を描く物語。クライマックスである「寺子屋の段」は、主人公の松王丸がその息子小太郎の命を主君の一子の身代わりに差し出す悲しい別れのシーンとなっています。悲しみと主君の恩に報いることができた達成感がないまぜになった複雑な心情が大迫力で描かれ、最後は息子(主君の子どもと偽ったまま)の葬送で締めくくられます。人形の美しさ、太夫の声や三味線の音色に魅せられながら、物語の世界に入り込み、人形に感情移入し、多くの方が涙しながら見入っていました。

文楽は本筋のストーリーに加え、周囲の芝居にもその技巧や感情が細かく仕込まれていて、目が離せなくなります。本作は悲劇ですが、「茶筅酒の段(ちゃせんざけのだん)」という場面では三つ子の妻たち3人によるコミカルなシーンも。3人でお祝いの料理を作るシーンでは、生の大根を本物の包丁で切ったり(本当に人形が手際よくお料理しているように見えるのです)、料理が苦手な1人は胡麻を擦るのもおぼつかない様子で、器をグルングルンと暴れさせて他の2人の料理の邪魔をしてしまったり、観客の笑いを誘います。登場人物の見事な喜怒哀楽の表現も素晴らしいですが、観客の我々も一つの演目中で様々な感情を味わえることも文楽の魅力であるように感じました。

六代 豊竹呂太夫さんに伺う、文楽の世界

六代 豊竹呂太夫さん

この度、六代目を襲名された豊竹呂太夫さんにお話を伺いました。公演直後にお時間をいただいてのインタビューでしたが、お話の合間合間に、実際の舞台さながらの語りをしてくださいながら、わかりやすく様々なお話をお聞かせくださいました。

——— ご襲名おめでとうございます。襲名インタビューなどで、70歳を迎えて「いよいよこれからだ!」と考えていらっしゃるという言葉が印象的でした。すでに50年のキャリアを積まれている上で、ここからやっとスタートラインとお考えになるご心境を伺えますか。

「ありがとうございます。自分の中で70歳を一つの区切りとしてより一段高いところにのぼりたいと言いますか、さらにラストスパートをかけたいなという思いが元々ありました。最近、『これや!』とわかりかけてきたこともありました。今までも全力で取り組んできましたが、師匠が怖くて稽古が怖くて、怖いから勉強する、そんなところがありました。ここ2〜3年の間に、切り場(クライマックスにあたる重要な場面)に相当する役を担当するようになりまして、失敗するわけにはいかない、やらなアカンと命がけの勉強をするようになりました。1時間近い新しい場面をやるには相当な稽古が必要です。先代のテープを何本も聞いたり、1行に3時間くらいかけて稽古したり、勉学心なんて無いですけれども、この場を乗り越えたい!という思いでやってきました。そうしているうちに真っ暗なトンネルの先に光が見えて『これや!』と見つけかけている状況です。そんな時に、祖父が大切にしていた前名の呂太夫襲名のお話をいただきました。入門して50年目、70歳の年。それで襲名させていただくことに決めました」



——— 「これや!」というのは具体的にはどんなことなのでしょうか。

「2つありますが、まず1つめは、かしら(人形の役)ごとの音程の区分けが50年かけてやっとできるようになってきました。侍、老婆、子ども、娘‥‥それぞれに異なった音程がありますが、区分けして演じ分けるのは難しいことです」



——— たくさんの人物が登場するシーンでも、今どのキャラクターが話しているのか目を閉じていてもわかることに驚きました。



「かしらの音程は伝統的に先人から伝えられてきたものですが、掴みかけて、少しわかってくると追求したくなります。そうして深みを増していきます。そして二つめが、『力を出しきる』とはどういうことか。襲名の芝居中に見つけて、これがわかりかけてきました。例えば45分の演目で力を出す時に、1%から始めて100%出して終わるのではなく、最初から、常に一打一打100%の力を出し切り続ける。溜めておこうとするとかえってしんどい、出しきるとまた力は不思議と入ってきて出せるのです」



——— 広い劇場で、生の声を客席全体に届ける。ただ聞こえるだけでなく、とてもエモーショナルな魂の叫びと言いますか、心情であったり状況の描写であったりが伝わってきて圧倒されます。ストーリーそのものが持つ感動だけでなく、太夫さんの肉体が生み出す“声”そのものに対して感じ入るものがあっての感動であるように思いました。



——— 力のこととも関連するかもしれませんが、文楽に対して不思議に思っていることがあります。人間ではなく操られた人形が演じているフィクションの世界、展開を知っているお話でも、何度見てもやはり涙してしまう、新たな気持ちで感動してしまうということが起きます。これは何故なのでしょう。人形の芝居、太夫の声と三味線の音色が一体となって観客に訴えかけてくる。この一体感はどうして生まれるのでしょう。



「まず第一に、『人形だから』というのが大きいと思います。人形には喜怒哀楽が無いでしょう。木でできた無表情の人形だからこそ、お客様がそれぞれの思いを投影し、感情移入できるのではないでしょうか。人間が演じていると一方通行になる(観客が受け身になる)こともあるでしょう。投影することでお客様も舞台に参加しているのだと思います。文楽は太夫と三味線と人形の三位一体の芸能と言われますが、私は太夫、三味線、人形とお客様の四位一体だと思っています。それぞれの立場から人形に色付けをして感情を生み出すのやと思います。それで、人形が泣いているように見えたり、悲しんでいるように見えたりします。そしてさらには、悲しみの先に行ってしまって不思議な高揚感が生まれることもあります。しんみりとして幽霊のようになるのではなく、高揚している。喜怒哀楽の先、五感を超えたもののなかにある感覚に触れられる時があるのです」



——— 舞台上では、どんなことを考えながら演じていらっしゃるのでしょうか。大きめの表現で感情を表しつつも、それが押し付けがましい見せつけではなく、ある種の無我で存在しているように感じることがあります。



「お客様の様子を見ながら、空気を一緒に作り、共同で幻想を作り上げていくような感覚です。それぞれの役柄になりきる自分と同時に、それを冷静に俯瞰して見つめる視点があるようなイメージでいます」




——— 最後に、これから初めて文楽を観てみようという方々に一言お願いします。



「まずは、『ライブ』が大切です。ぜひ生で観てみてください。江戸時代の庶民が観ていたのと同じシチュエーションです。太夫は何を言っているかわからないし、三味線はベンベン鳴っているし、人形は3人の大人で操っているし、わけのわからないことだらけです。子どもの頃から祖父のそばで文楽を観てきましたが、まさか自分がこの世界に入るとは思ってもいませんでした(文楽は世襲制ではないので)。大人になって改めて文楽に触れた時、このわけのわからんシュールレアリスムの面白みが少し見えたように思います。そうしてわけがわかってくるとものすごく引き込まれます。例えば、ピカソの絵画を観て、音楽が鳴っているように感じたり、なにがしかの感動を覚えるのに似ているかもしれません。魅力は隠れているものです。ぜひご自身で発見してみてください。

さまざまな感情が描かれる文楽は、荒唐無稽な世界ですが、そのなかに生身の人間以上の人間らしさを垣間見ることもあります。恋人であったり、主君であったり、相手のために登場人物たちは命をかけます。本当の奉仕って何だろう、愛するとはどういうことだろう、それは許すこと、命をかけることではないでしょうか。」


——— ありがとうございました。

六代 豊竹呂太夫さんの四位一体のお話、本当の奉仕や愛への問いが印象的でした。自分の感情を投影しながら鑑賞する文楽。その時々で新たな感動があるのは、受け身の鑑賞ではなく、知らず知らずのうちに物語の中に参加していることで、その時々の自分の思いが映り込むからかもしれませんね。そしてその感動には人間としての本質的な何かがそっと隠れているように思います。

そんな文楽の世界。ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。


六代 豊竹呂太夫(ろくだい・とよたけ・ろだゆう)

本名 林雄治。昭和22年大阪府岸和田生まれ。昭和42年に三代竹本春子太夫に入門、祖父豊竹若太夫(人間国宝)の幼名三代豊竹英太夫を名乗る。昭和44年、四代竹本越路太夫に入門。昭和53年文楽協会賞、平成6年国立劇場文楽奨励賞、平成15年国立劇場文楽優秀賞を受賞。文楽本公演以外に、「ゴスペル・イン・文楽」の創作、現代詩や落語等他ジャンルとのコラボレーション公演も手がける。平成29年4月、六代 豊竹呂太夫を襲名。

◆次回の東京公演は9月

9月(東京)公演の『玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)』妖狐が引き起こすスペクタクル

国立劇場(東京) 9月文楽公演

公演期間 2017年9月2日(土)~2017年9月18日(月)

http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2017/910.html

※大阪の国立文楽劇場では7月22日からの夏休み特別公演となります。

<取材協力>

日本芸術文化振興会(国立劇場)

東京都千代田区隼町4-1

文・写真 : 小俣荘子(一部写真:国立劇場提供)

日本職人巡歴 全国から「変わった桶」の依頼が届く桶職人の矜持

こんにちは。ライターの川内イオです。

今回は三重県亀山市関町で店を構える唯一の桶職人のお話をお届けします。

昔ながらの町並み、という売り文句はよく耳にするけど、訪ねてみるとがっかりすることも少なくない。すっかり観光地化されて、似たようなお土産屋さんばかりということも多く、テーマパークのように見えてしまう。

その点、東海道五十三次の47番目の宿場にあたる三重県亀山市の関町は、歴史情緒を感じさせる落ち着いた町並みが、東西1.8キロにわたって続く。特に、江戸後期から明治時代にかけて建てられた町家が200棟以上も現存している町の中心部、中町はそこにしっかりと根付いた生活の息吹を感じて、タイムスリップしたような感覚を味わえる。

関の中町。週末は観光客でにぎわう

宿場として栄えた関は、人や馬が足を洗うために桶の需要が高まり、往時は数軒の桶屋が軒を連ねていたという。その関の中町で唯一いまも店を構えているのが、明治15年創業の桶重。135年の歴史を持つ、桶屋さんだ。

風情を感じさせるレトロな店構え

ガラス張りのお店をのぞくと内側には仕事場が広がっていて、いかにも使い込まれたさまざまな道具や作りかけの花桶が見える。引き戸を開けて挨拶をすると、四代目の服部健さんが迎えてくれた。

一から十まで手作りの桶

服部さんは、今年67歳。小柄で語り口は穏やかながら、向き合うと熟練の職人さんが共通して持っている「静かな迫力」のようなものが伝わってきて、思わず背筋が伸びる。

服部さんは花桶、おひつ、寿司桶、漬物桶、たらいなど「桶」と名の付くものとその類縁にあるものを受注生産していて、修理も受け付けている。価格は最も小さな花桶が7000円と聞いて驚いたが、桶を作る過程を聞けば誰もが納得するのではないだろうか。

服部さんが作業をしている日は、店先から見学できる

服部さんは、創業時から受け継がれる伝統的な技法を頑なに守り続けている。「昔からのものをそのまま伝えるのが、伝統工芸」というのが持論で、既製品を一切使用せず、一から十まで完全なる手作り。「親の代から子の代まで、50年は持つ」というその仕事は、素材を選ぶことから始まる。

よく使うのは、椹(さわら)と槙(まき)と杉。一番高級なのが椹で、信州(長野県)で生えているモノを使う。寒さが厳しい長野の高地で育つと、成長が遅くなり年輪が詰まる。すると目が細かくなり、水が漏れにくいそうだ。漬物桶や味噌桶に使う地元の杉、風呂桶や風呂で使う湯たらいに使う槙も、長年の付き合いがある業者から原木を仕入れていて、市販されているような材木は使わない。

「うちの桶は高いと言われるけど、木が高いんだ (笑)。例えば、おひつや寿司桶みたいに熱いものを入れる桶を作るとき、普通に売っている木を使うと、2、3年もしたら木が歪んで、タガ(桶の周りにはめる輪)も緩む。それで終わりやで。だから、熱いものに使う桶は、自分で仕入れた原木を割ってみて、まっすぐに割れた木しか使わない。そういう素性の良い木を使えば、何年たっても歪まん」

竹一本にまでこだわり抜く

タガや一枚一枚の板を固定する釘としても重宝する竹にも徹底的にこだわる。服部さんが作る桶は、一般的によく使われる接着用の米糊を使わないものもあるので、タガと竹釘が生命線なのだ。

一本一本、竹を細く割いて作るタガ

服部さんが使うのは、硬くもなく柔らかすぎず加工がしやすいという「生えてから4年、5年経った、関東の雑木林の南斜面にある真竹」だが、これは最初の条件に過ぎない。

求めているのは、暦の上で1年に6回ある「八専(はっせん)」と呼ばれる期間のうち、11月頃の八専が終わった直後に刈った竹のみ。その時期の竹は水を吸い上げる力が弱っており、刈った後に虫がつかないという。

竹を刈る日も、限られている。竹の中にある節が闇夜には上を向き、月夜には下を向く。節が下を向いている竹のほうが作業しやすいため、月夜の晩に刈ったもの限定。これも、信頼関係のある業者から条件に合った竹を一括で仕入れ、暗闇の中で保管する。

そうして注文が入ると一本、一本引きだしてきては竹を細かく裂いてタガにする。指先に乗るような直径数センチほどの竹釘も、この竹を使ってひとつひとつ手作りする。
これだけで気が遠くなりそうな作業量に思えるが、服部さんは「なんも大変なことない。昔から普通にやっていたことやんか」と笑う。

鉄の釘は弾力性がなく水で錆びてしまうため、柔軟性があり強度もある竹釘を使う

小さな花桶の製作にかかる日数とは?

原木を割り、必要な大きさに切った木材は、一度、3年ほど乾燥させる。その後、「せん」という道具で荒削りしてから、注文に合う大きさのカンナで削りだす。刃の部分が湾曲しているため、桶の円周に近づいていく。一枚、一枚、「正直台」と呼ばれるカンナで削る角度をこまめに確認し、ミリ単位の調整をしながら作業を進める。寸胴ではなく、上口から下口へすぼまる形の桶の場合、その勾配の角度(落ち)は計算せずに感覚で決めていく。

「落ちが強いとみっともない。ちょうどええ形になる角度がある」

桶用のカンナ。よく見ると桶の形に合うように刃の部分が婉曲している

ひと通り側板ができたら、キリで側面に穴をあけて竹釘を打ち込み、ときには米糊を塗って板と板をつなげていく。そうして一度桶の形にすると、内側と外側を改めてカンナで削り直し、滑らかに整える。それから底板をはめ込み、編み込んだタガで桶を締め上げる。
完成品にはわずかなズレもなく、きれいな円や楕円を描く。その見た目は凛として清々しく、桶としての機能性も抜群に高い。

「水が漏れないようにするのが桶屋の技術。桶の寿命は50年と言われているから、その感覚で作ってます」

これこそまさに、圧倒的な経験値と技術に裏打ちされた手仕事の極みだろう。しかし、冒頭で7000円と書いた小さな花桶が完成するまでに、2日半。旅行者用に手ごろな値段に設定しているとは言っていたが、つい頭のなかで時給の計算をしようとして諦めた。日給で考えても厳しすぎる金額だ。

ちょうど作業場で作り途中だった7000円の花桶

服部さんが、作り置きをせず、インターネットで販売もせず、受注生産に絞っている意味がわかった。服部さんの技術力を認めている人が注文し、その価値に見合った対価を支払うという形にしなければ成り立たない。

すべてを変えたプラスチック

裏を返せば、自分の腕に相当な自信がなければできないことで、服部さんは「うちが他所より(質が)落ちるとは思わない」とはっきり口にする。
とはいえ、幼い頃から桶屋を目指して修業を積んできたわけではない。「本気で桶屋をやろうと思ったのは、40歳ぐらいから」と照れ臭そうに笑う。
そこには、時代の荒波に揉まれてきた桶重の歴史が関係している。

「初代は重蔵という名前で、明治15年に関でこの店を開いて、桶重と名付けたんだ。その頃、桶はライフ用品でしょう。風呂桶、おひつ、寿司桶、行水する大たらい、小さなたらい、水桶、井戸で使う釣る瓶。とにかく需要が多くて、初代と二代目までは羽振りが良かったみたい」

初代がつけていた台帳。三重県伊勢市の銘菓として知られる赤福餅を作っている老舗の和菓子屋赤福の名も

そういうと、服部さんはアルバムを見せてくれた。そこには、二代目が巨大な桶を作っている写真が収められていた。かつて味噌桶や漬物桶として使われていたもので、大きなものは7尺(約212センチ!)もあるそう。こうした大掛かりな注文のほかにも桶屋の需要は幅広かったが、あるときを境に、完全に流れが変わった。

「先代まではね、冬場になると京都に作業場を借りて、職人を連れて京都で仕事をしていました。冬に売られる京都の千枚漬けってあるでしょう。昔は贈答用で千枚漬けを木の桶に入れて送ってたんだ。でも、昭和40年代にプラスチックが出てきて、木の桶が必要なくなった。いまは千枚漬けもプラスチックの桶を使っているところが多いな」

二代目と三代目の作業の様子

安く、大量に作ることができるプラスチック製品は便利な生活用品となって一気に広まり、木桶はあっという間に駆逐された。三重県の伝統工芸品として知られる「関の桶」も、時代の変化の波に押し流され、「ひとつの町に必ず2軒はあった」という桶屋は、どんどん廃業した。

先代の粘り腰

しかし、先代は店をたたまなかった。桶重では桶の修理もしている。長年使いこんだ桶を修理したいという顧客もいるし、おひつや漬物桶など「やっぱり木桶じゃないと」という取引先もわずかながらに残っていたからだ。

先代は、日雇いのアルバイトをしながら、激減した注文に応える日々を選択した。
そうして粘っているうちに桶屋は全国的にも姿を消していき、わずかに残っていた需要が桶重にまで届くようになった。「いつか桶一本に」と思っていた先代は、腹をくくって再び桶づくりに専念。もともと三重県の名工に認定されていた先代の評判を聞きつけて、少しずつ注文が増えていった。その姿を見て、服部さんも覚悟を決めた。

「その前は手伝うぐらいで、うわべだった。店をどうするかわからんかったしな。親父ももう辞めようかなと言っていた時期もあって、やっていけんのか、ものすごい不安やんか。でも、取引先や修理に持ってくる人がいて、店がなくなったら困るやろなと思って。それに、買ってもらえなかったら自分が悪いし、こういう風にしたほうが良いとか自分の責任で工夫ができるのが良い。スポーツでもなんでも腕一本で勝負するのが好きやし」

後を継ぐと決めてからは、先代からマンツーマンで教えを受けた。見て盗め、というまどろっこしい方法ではなく、手取り足取り仕込まれた。もちろん怒られることもあったが、「仕事してるときは弟子と師匠の関係や。自分ができるようになったら親父もなにも言わへん」と割り切っていたから、耐えられた。

よく使い込まれた様子の道具。初代から使っているものもある

竹や木材の知識、刃物の使い方、水が漏れないようにするための技術など憶えることは無数にあったが、1990年代の半ば、修業を始めて5、6年が経つと先代はこう告げた。
「もうお前に教えることはなにもない」

「死ぬまで修行」はアホ

それから先代が亡くなる1999年までふたりで店を切り盛りし、名工のあらゆる技を吸収した。いま、関に残る唯一の桶屋として店を守る服部さんは、こういう。

「中途半端に習ったら、真似事の世界。極めた人に教えてもらうと、あとは自分の技量次第でなんでもできるようになる」

タガを打ち込んで桶を引き締める

いま、服部さんのもとに届く依頼は「変わった桶ばっかり」。宣伝は一切していないが、口コミで腕の良さが広まり、一般の客だけでなく、全国の神社やお寺などで使う特別な桶の注文がくる。例えば、静岡の神社からは昔から使っていた桶を再現してほしいと声がかかり、関西の神社からは作り手がいなくなった卵型の桶を作ってほしいと連絡が来る。作ったことがない形や用途のものもあるが、それでも、ここには書けない一度の例外を除き、依頼を断ったことがない。

「職人は死ぬまで修行ですという人いるけど、アホかこいつと思う。お客さんがせっかくお金出して買うてくれてるのに、失礼な話や。でも職人の世界はな、例えば昔の古い桶、これと同じものを作ってくれとか修理してくれとか言われたときに、うちはこんなんできんと言うのはありえん。誰が、いつ作った桶でも作れなきゃ、直せなきゃあかん。それができるのが職人、できなかったら単なる趣味や」

小さな花桶を作るのに2日半かかる桶屋の仕事が、決して楽なわけではない。それでも依頼が届く限り、現代の匠は作業場で桶と向かい合う。どんな注文にも応えてみせるという誇りと気概を持って。

「人とグループで仕事してもつまらん。なにがええんかなって。生きとるっていう感じがせんわけよ。桶は一から十までひとりで作ってるからこその達成感があるし、大事に使って喜んでもらうのが一番好き。商売やから、それでなんとか儲かったら嬉しいなって」

服部さんが作ってきた桶の数々

<取材協力>
桶重
三重県亀山市関町中町474-1
0595-96-2808

文・写真:川内イオ

デザインのゼロ地点 第5回:魔法瓶

こんにちは。THEの米津雄介と申します。
THE(ザ)は漆のお椀から電動自転車まで、あらゆる分野の商品をそのジャンルの専業メーカーと共同開発するものづくりの会社です。例えば、THE JEANSといえば多くの人がLevi’s 501を連想するような、「これこそは」と呼べる世の中のスタンダード。
THE〇〇=これぞ〇〇、といったそのジャンルのど真ん中に位置する製品を探求しています。

連載企画「デザインのゼロ地点」も5回目となりました。
今回のお題は「魔法瓶」。

魔法瓶、字面で見るとなんとも不思議な名前ですね。製品としては皆さんよくご存知だと思いますが、これって本当に世紀の大発明だと思います。
最新のものだと95℃で淹れた液体が24時間経っても60℃以上を保っているという高性能。
構造としては(言葉にするだけなら)至って簡単で、二重構造のボトルの内壁と外壁の間にある空間が真空状態になっているというもの。この真空の壁が外気との温度差を遮断し保温性や保冷性を高めています。
エネルギーを一切使わずに大きな便益をもたらしてくれるシンプルで効率的な道具ってなかなかお目にかかれないと思います。

そもそもどんな背景で生まれたのでしょうか。
基本的な構造が生まれたのは1880年代、ドイツの物理学者であるA.F.ヴァインホルト氏が、多重の壁間の内部を真空にするという容器の原理を発明しました。その約10年後、1892年にイギリスの科学者ジェームス・デュワー氏が、大小のフラスコが二重になった形状の真空のガラス容器を考案。これが現在の魔法瓶の原型だと言われています。現在でも形状は違えど「デュワー瓶」と呼ばれ、理科学用品の1ジャンルになっています。

理科学用品としてのデュワー瓶。出典:www.monotaro.com

そして1904年にはドイツ人のラインフォルト・ブルガー氏がデュワー瓶を金属ケースで覆った家庭用品の開発を始めます。世界で初めて魔法瓶を量産した会社の誕生です。公募で決まった社名はギリシャ語で「熱」の意味を持つ「テルモス」。世紀の大発明は瞬く間に世界中に広がり、開発から3年後にはアメリカ・イギリス・カナダなど数カ国に現地法人を置くほど成長しました。「テルモス」は世界中で魔法瓶の代名詞となっていきます。

1907年のラインフォルト・ブルガー氏による特許図面

余談ですが、登山小説などで魔法瓶のことをテルモスと呼ぶシーンをよく見かけます。「テルモスのお茶が凍えた身体を暖め‥‥」みたいな文章がなんだかかっこよくて、響きだけ聞いても良い道具感が溢れている気がします。

実際に発売当時も登山家や冒険家に重宝されていたようで、1909年のテルモス社の新聞広告には、北極や南極の探検隊や、あの人類初飛行を遂げたライト兄弟などが利用者として掲載されていたそうです。

魔法瓶というと僕はどうしても昭和の花柄の卓上ポットを思い浮かべてしまうのですが、新聞広告の例から想像すると発売当初から携帯用ボトルとしての需要を主軸に置いていたのではないでしょうか。

そしてこの新聞広告の頃、日本にも魔法瓶が輸入されはじめます。輸入当初、日本では「驚くべき発明なる寒暖瓶」というコピーでテルモス社から宣伝されていました。

1908年のテルモス社の日本広告。出典:www.thermos.jp

そして数年後の1912年にはとうとう日本で魔法瓶の製造が始まります。日本で初めて開発に着手したのは八木亭二郎さんという電球の専門家。日本第1号の魔法瓶は、白熱電球を生産するための真空技術を転用して開発されました。
当時、ガラス製品や電球の生産の中心だった大阪で広まり、ここから多くの魔法瓶メーカーが生まれます。大手企業の象印やタイガーもその1つです。

第一次世界大戦(1914年~)が勃発したことも影響して、日本製魔法瓶は爆発的に海外に普及します。輸出に向けて世界的に分かりやすいブランド名にしようということで象や虎といった動物モチーフが選ばれたようです。(ちなみにタイガー魔法瓶も元々は「虎印」だったそう!)

さらに、第1回 醤油差し編でも話に挙がった自動製瓶機の登場により、それまでガラス職人が手吹きで作っていた魔法瓶の製造状況は大きく変わっていきます。より低コストで安定した品質が確保されるようになり、卓上ポットとして大正~昭和の家庭に定着していきました。

しかし、製品デザインが抜本的に変わっていくのはこのだいぶ後、1978年のこと。ガラス製からステンレス製への材質の転換です。
自分で書きながらもあまり違和感がなかったのですが、魔法瓶と呼ばれていたのですから中身は「瓶」です。落とすと割れてしまうという大きなデメリットがありました。

それをガラッと変えてしまったのが、「高真空ステンレス製魔法びん」でした。

実はあまり知られていませんが、このステンレス製魔法びんを世界で最初に開発したのは日本のメーカーで、日本酸素(現・大陽日酸)という会社でした。
酸素・窒素・アルゴンガスなどを扱う工業用ガスメーカーの大手です。なぜガスメーカーが家庭用品を?と思うかもしれませんが、理由を知ると納得できます。窒素やアルゴンなどの工業用ガスは、大量に運搬するために-200℃近くまで冷やして液化させるそうです。超低温で液化させることによって容積効率を上げて運搬されるのです。そしてその超低温の液体を運ぶタンクローリーは、炎天下でも外気の影響を受けにくくするために二重構造になっているんだそうです。

一般社団法人 日本アスファルト協会より。こちらは逆に、溶かしたアスファルト(約175℃)を運ぶタンクローリー。
出典:http://www.askyo.jp/knowledge/02-2.html

このタンクローリーの構造を小さくしたものが日本酸素の開発した「高真空ステンレス製魔法びん」だったのです。

二重構造をそのままステンレス製に転換し、外びんと内びんとの間は1000万分の1気圧以下という高真空状態。この真空状態は宇宙空間と同じで、何もないために対流による放熱を防ぐことが出来、 また内側を鏡のように仕上げることで、輻射による熱の逃げも反射で中に戻してしまいます。この真空の「壁」が、持ち運ぶ水筒としての機能を大きく向上させ、「頑丈で、小さくて、軽い」という良い事尽くしの転換を迎えたのです。

そして驚くべきことに、日本酸素はこの技術力と資金力を背景に、当時世界最大のガラス製魔法瓶メーカーだった冒頭の「テルモス」を買収します。
ドイツ語読みの「テルモス」=英語読みは「サーモス」 (THERMOS) 、こうして生まれたのが現在のサーモス株式会社。今もこのジャンルのトップメーカーです。

THERMOSの高真空ステンレスボトル
こちらは2015年8月発売の新製品。僕は一つ古いタイプを長らく使っていますが、どちらも片手で開閉ができることと圧倒的な軽さが魅力です。写真の製品の方がデザインが整理されています。
出典:www.shopthermos.jp

水筒や携帯用ボトルというジャンルにとってのデザインのゼロ地点を考えた時、軽さというのは容器としての基本機能に次ぐ素晴らしい条件設定だと思います。
日本発の世界的発明品であるストーリーや、保温・保冷性、堅牢性はもちろん素晴らしいのですが、僕がサーモスを推したいのは徹底的に軽さにフォーカスしていること。

彼らの軽さへの探求は凄まじく、1999年に0.5mmだったボトルのステンレス鋼板が、最新の製品ではなんと0.08mm。もちろんそれに伴って同容量モデルで半分以下の重量になっています。普通に過ごしていてもなかなか気付きにくいですが、着実に進化する姿にいつも感心してしまいます。

そんなサーモスに対抗して、大阪のアウトドアメーカー「mont-bell」が新しく発売したアルパインサーモボトルも素晴らしいです。名前からして完全に登山用ですが、スペックはサーモスと同等で価格は大幅に下回っています。専業メーカーではないにもかかわらず製品力で並んでいること自体、すごいことだと思います。

mont-bell アルパインサーモボトル。モンベルは他のジャンルでも専業メーカーに匹敵する製品を開発していて、どこで作っているのかいつも気になります。出典:webshop.montbell.jp

世の中に長く愛され、長く売れていくモノは、必ずと言って良いほど機構設計と外観のスタイリングが密接に絡まってデザインされています。

フタと中栓の嵌合、ヒンジやパッキン、開閉ボタン、注ぎ口、空気穴の形など、形状と機能がはっきりと結びつくパーツのデザインはもちろんですが、ポリプロピレンやシリコンなどのプラスチックの選定にも必ず意図があり、それぞれの材質特性に合わせた表面仕上げや色の選定、塗装であれば塗膜の厚みや質感のコントロールなどもデザインの力の本領が発揮されるところです。そしてそのデザインと製造方法やそれに伴うコストが密接に絡み合ったところがデザインのゼロ地点であるべきなのだと思います。

そんなことを考えながら、街や山や海でボトルを使うとき、THEとして製品開発をしたらどんなモノになるだろうか、とアイデア創出をするのも楽しい時間です。

デザインのゼロ地点・魔法瓶編、如何でしたでしょうか?
形状・歴史・素材・機能・価格をそれぞれに考えながら、次回も身近な製品を取り上げたいと思います。

 

それではまた来月、よろしくお願い致します。

米津雄介
プロダクトマネージャー / 経営者
THE株式会社 代表取締役
http://the-web.co.jp
大学卒業後、プラス株式会社にて文房具の商品開発とマーケティングに従事。
2012年にプロダクトマネージャーとしてTHEに参画し、全国のメーカーを回りながら、商品開発・流通施策・生産管理・品質管理などプロダクトマネジメント全般と事業計画を担当。
2015年3月に代表取締役社長に就任。共著に「デザインの誤解」(祥伝社)。

文:米津雄介

麦わら帽子の小麦色

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。
きっぱりとした晒の白や漆塗りの深い赤のように、日用の道具の中には、その素材、製法だからこそ表せる美しい色があります。その色はどうやって生み出されるのか?なぜその色なのか?色から見えてくる物語を読み解きます。

麦わら帽子の小麦色

人はものの色を純粋な色味だけで見ているのではないように思います。素材や目にした時の季節ですら、見え方は変わる気がします。

麦わらの 今日の日のいろ 日の匂ひ

広島出身の詩人・俳人、木下夕爾(きのした・ゆうじ)が詠んだ句だそうです。麦わらは夏の季語。梅雨時期に収穫を迎える麦の、穂を取り除いた後の管「麦わら」を、人は無駄にせず家屋や日用品の材料に活かしてきました。この句は材料そのものの「麦わら」を詠んだものかと思いますが、私にはたっぷりと日を浴びた麦わら帽子のツヤツヤとした小麦色や、そのかぶった時の香ばしい匂いが、立ち上ってくるようにも思えます。

麦わら帽子は、麦わらを編んで作る夏の代表的な日よけの帽子。なんとギリシア時代にもその存在が認められているそうです。中世までは主に農作業用など実用向きだったものが、18世紀後半に入って女性向けの華やかなものが流行り、1870年ごろには機械製造がスタート。日本では明治に入ってから、本格的な製造が始まったそうです。

もしお手元にあったら一度手にとって見ていただきたいのですが、現代の麦わら帽子は麦わらをそのまま編んでいるのではなく、一度平たいひも状に編んだもの(真田紐のように編むので真田と呼ぶそうです)をてっぺんからぐるぐると一筆書き状に隙間なく縫い合わせて出来ています。

岡山県笠岡市に工房を構える石田製帽は、日本で麦わら帽子製造が始まってほどない1897年(明治30年)創業の麦わら帽子の老舗。瀬戸内海に面し温暖な気候に恵まれ、古くからのい草・麦の産地だったこの地で、長らく農作業用の麦わら帽子を作り続けてきました。今では4兄弟がその技術を受け継ぎ、今の暮らしにあった色かたちの帽子を発信しています。

石田さんによると、麦わらは「管」という性質上割れやすく、縫う前のひも状にする工程は今も全て人の手で編んでいるそうです。その編んだ幅が太い麦わらの方が、ミシンで縫うときにも割れにくく扱いやすいそうですが、石田さんが使うのは幅の細い麦わら。扱いには技術が求められますが、「細幅の方が軽量でかぶり心地のいい帽子になる」のだそうです。
実用の日よけには、太幅でも充分。ですが細幅ステッチの麦わら帽子は、確かにその分肌あたりもシルエットもやわらかになり、より大人らしい、上品な印象です。

農作業用に始まり、今では夏に欠かせないファッションアイテムのひとつになっている麦わら帽子。あの一目で麦わら帽子と分かる小麦色は、麦そのものの天然の色と、精緻な人の手わざとが交わって生まれていました。形、手ざわり、匂いとともに、これだけ夏を思わせる色合いも、ないように思います。

<取材協力>
株式会社石田製帽
http://www.ishidaseibou.com/

<掲載商品>
リネンリボンの麦藁帽子(中川政七商店)

文:尾島可奈子