君は「土佐源氏」を読んだか?

こんにちは。BACHの幅允孝です。

さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する不定期連載、「気ままな旅に、本」。2018年の春は高知の旅へ。

「土佐源氏」のふるさと

高知の梼原 (ゆすはら) を訪れることになって何が一番嬉しいかというと、宮本常一が『忘れられた日本人』で書いた「土佐源氏」のふるさとに来ることができたことです。

宮本常一とは日本の民俗学者で各地の農村、漁村、島を踏査し独自の民俗学を築いた人といわれています。民俗学というと何やら難しそうに聞こえますが、要は人の暮らし、習慣、生活道具、儀礼などずっと伝わる人間の営みを調べ、現在の生活文化との違いを相対的にみる学問のことですね。

「山口県須防大島の百姓」という出自を生涯誇った宮本は、社会の底辺を支える同胞として様々な人の話を聞くため日本中を巡りました。フィールドワークのために歩いた距離は16万キロ (地球4周分) 。泊まらせてもらった民家は1000軒以上。師匠の一人である柳田國男と比べても、宮本はつねに足で稼ぐ実践派だったのです。

民俗学を「内省の学」とし、人の暮らしの祖型を探ったのは柳田。一方の宮本は人の暮らしに統一された文化があったのかと常に疑問を持ち、農村と漁村の差異や、西日本と東日本の違いを大切にしました。そんな彼が日本全国の辺境の地で黙々と生きてきた古老たちの話を聞き、それを生き生きとした筆致でまとめた本が『忘れられた日本人』というわけです。

宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫
宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫

冒頭で挙げた「土佐源氏」は、四万十川の最上流部の橋の下に住む盲目の乞食から聞いた話を宮本が書き記したもので、文庫本でもわずか27ページの短い文章です。ところが、名も知らぬ高知・梼原の翁が語るオーラルヒストリーが、世に溢れるラブストーリーを凌駕するとは!

梼原の老人はもともと馬喰といって馬の世話などをしていた身分の低い男でした。みなしご同然だった彼は幼い時に奉公へ出て、そのまま馬喰になったのですが「わしは八十年何にもしておらん。人をだますことと、女をかまうことで過ぎてしまうた」と本人がいうように、特別なことは何ひとつ起こらず貧しいまま人生を過ごし挙句は乞食として橋の下で暮らしていました。

ところが、昔むかしに自身が経験した上流階級の人妻たちとの「色ざんげ」へと話が及ぶと、これが愁いを感じる恋物語として読み手の心をつかんで離さなくなるのです。特に、文庫版P.181の「秋じゃったのう。〜」の部分からは出色の出来映えで、語り部は急に饒舌となり身分違いの2人の逢瀬に読者はどきどきしてしまうことでしょう。

ここでは内容までは書きませんが、男が捧げた思いやりと女が抱えた悲しみが交錯する寓話のようなお話です。 (その物語としての完成度から宮本による脚色を考察する本も出ているぐらいです。) ちなみに、この「土佐源氏」の話を町の方に聞いたところ、知っている人は僅かで知らない方も多いようでした。確かに「色ざんげ」の話は教科書にも載せられませんからね。

宮本は、泥にまみれた庶民の生活の中に、人が生きる続けるたくましさを見出しました。昔から民衆は理不尽を押し付けられ、しかも、それが無残な忘却の上に組み立てられているという世界の残酷さを承知の上で、彼は人の明るさを見ようとしたともいえます。そんな彼が残した名もなき人の声として、ぜひ『忘れられた日本人』を手に取って、できれば梼原を訪れてほしいと思います。名もなき誰かが確かに存在し、彼らの屍の上に僕らが生きていることをこの橋の下で感じることができますから。

《この1冊》

宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)

宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫


幅允孝 (はば・よしたか)
www.bach-inc.com
ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。

一緒に立ち寄った木造の芝居小屋、ゆすはら座
一緒に立ち寄った木造の芝居小屋、ゆすはら座


文 : 幅允孝
写真 : 菅井俊之

細萱久美が選ぶ、生活と工芸を知る本棚『暮らしと器 ~日々の暮らしに大切なこと~ 』

こんにちは。中川政七商店バイヤーの細萱です。

生活と工芸にまつわる本を紹介する連載の八冊目です。今回は、日本の食卓を豊かにする器の、理に適った選び方を分かりやすく学べる本です。

著者は工業デザイナーであり、東京・中野にある老舗のクラフトショップ「モノ・モノ」の代表でもあった山口泰子さん。

「モノ・モノ」は、工業デザイナーでありデザイン活動家でもあった秋岡芳夫さんが、1970年代の行き過ぎた工業化への反省から「消費者をやめて愛用者になろう!」を合い言葉に結成されたサロンです。

その後自然と店舗へ発展し、日本的なクラフトのスタンダードを提案し続けています。

山口さんが工業デザイナーとして活動をはじめたのは1960年代。

そして、今でこそ工業デザイナーが手工芸品を手がけることも珍しくありませんが、山口さんがクラフト界に転身したのは1970年代です。まさに先見の明を持った女性の一人と言えます。

この本では、工業製品とクラフトの両方を熟知した山口さんが、日本の食文化に基づいて選んだ日常使いの食器の数々を紹介。どんな食器をどのように選んで使うかが、暮らしの心地よさを左右することを伝えています。

日本の家庭ほど、いろんな種類の食器をたくさん持つ国民も珍しい気がします。

食文化が豊かであったり、食器を贈り物にする機会が多いことも理由だと思いますが、気付けば食器棚が満杯というお宅も多いのでは。

使わぬ食器はなるべく断捨離したいのと同時に、料理を引き立てて使いやすい食器は厳選したい。そんな器選びのコツを、工業デザイナー視点の切り口でおすすめしている点が面白いです。

日本の食文化の特徴の一つに、「手に持つ」があります。

西洋の作法では食器を手に持つのは厳禁。そんな日本人の手がデザインしたのがお碗です。手におさまりがよく、しっくり心地よいサイズが口径12cm前後だそう。

そして出来たら木製の漆碗が良いのですが、その理由をお碗の断面を見せることで説明している点が工業デザイナーらしく、合点のいく説明でした。是非本で見て頂きたいポイントです。

「めいめい持ち」も日本ならではの食卓かもしれません。

例えば、めし碗、お箸、マグカップの類は自分用があって他のだと落ちつかないということはありませんか。

「めいめい持ち」と「手に持つ」は縁が深く、持ち手が徐々に使い慣れた器を育てるとでも言いましょうか。自分用は、理屈抜きで好きなデザインを自由に選びたいですね。

細萱久美のめいめい持ち食器
わたしのめいめい持ち食器

子どもの食器についての記述にも共感できる内容があります。

「子どもには贅沢」とか、「割ると困るから」とプラスチックの器を子供用にすることがありますが、子どもの感覚は大人よりずっと鋭いのです。

特に五感が育つ大切な時期には、触れて心地よいモノを使って、良い感覚を覚えさせることが大切とのこと。木のお碗などは大人になっても使えますし、もしガラスを割ったとしてもモノを大事に扱うことを知ると思います。

食生活が多様になって、和食、洋食、中華、イタリア料理、時にエスニック料理まで食卓にのぼるという家庭もありますね。

どんな料理にもよく合うとか、ついつい使っている食器とかがあると思いますが、そのような包容力のある食器を意識して選べるようになると食器棚もすっきりするかもしれません。

山口さんがおすすめする一器多用はそばちょこや漆器。

そばちょこはコップや小鉢として便利なのと、重ねやすくてしまいやすい。骨董市でもよく見る器なので、昔のそばちょこを使うのも素敵です。

漆の溜や朱の深い色合いは思いのほか洋も受けとめてくれます。私も漆の大椀を持っていますが、ラーメンやうどんなどに使うと、漆器の良さがフルに生きると思います。

買う時はちょっと高くて躊躇しますが、修理も出来てそれこそ一生モノになりえると思えば決して高くはありません。

漆の大碗
漆の大碗

最後に、もうひとつの美しさ「使い込む」について。素材を吟味した良い器は、長く愛用するほどに色ツヤが増します。

素木、漆器、焼きしめ、金属などそれぞれの味が出てきますが、美しくなるには条件があります。新品の時からいいモノで、気に入って、長年愛用し続ける、それでこそ美しくなります。

色々なポイントはありますが、まず手に取って選びましょう。

私たちは食事の間、食器の内側を見ているので、手に取ると目には見えないものが見えてくる、という山口さんの言葉が印象的です。

「手との関係がいい食器は使いやすい」は、日本の食文化あってこそです。

<今回ご紹介した書籍>
『暮らしと器 ~日々の暮らしに大切なこと~ 』
山口泰子/六耀社

細萱久美 ほそがやくみ
東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。


文:細萱久美

わたしの一皿 瀬戸焼の本業を知る

育つうつわがある。

ものには使い始めが最もよいものと、使うごとによくなっていくものとがある。今回紹介したいのは後者のもの。基本的にうちではそういうものを扱っています。みんげい おくむらの奥村です。

愛知県の瀬戸。「せともの」の瀬戸は名古屋から1時間かからずに行くことができる町。

せとものという名前は誰もがわかるけれども、瀬戸の焼き物ってどんなもの、と言われると答えられない人が多いのではないだろうか。

これは瀬戸の焼き物の歴史のせいかもしれない。時代時代に求められるものを作って変化してきたから、これぞ瀬戸というものが見えにくい。

そんな中、瀬戸の「本業」をうたう窯がある。今回紹介する瀬戸本業窯(せとほんぎょうがま)だ。

300年続く本業の仕事は、現在の瀬戸の焼き物をさかのぼっていくとたどり着く、瀬戸のルーツとも言える。

愛知県の瀬戸本業窯

瀬戸本業窯は七代目水野半次郎さんと八代目後継水野雄介さんが中心となって現在は営まれている。

うかがった日はちょうど雄介さんが迫る窯焚きに向けて釉掛けをしていた。ろくろ成形されたうつわに釉薬が掛けられる。釉薬が一定の厚さになるように、うつわ全体にすばやく、リズムよく。

瀬戸本業窯でつくられた器

ひと段落して、焼きあがっていた馬の目皿を見せてもらう。

ぐるぐると目が回りそうなこのうつわ。それだけを見ると日本のものなのか、はたまた世界のどこかのものなのか、よくわからないが不思議な魅力をもつ。

馬の目皿や石皿と呼ばれる瀬戸の古いものは今でも骨董の世界でとても愛されている。

瀬戸のうつわが使われてよくなっていくのは江戸時代から変わらないこと。この馬の目皿も瀬戸本業窯の代名詞と言えるものの一つだ。

本業の仕事は他にも、黄瀬戸・織部・三彩・麦藁手・染付・刷毛牡丹などとにかく幅が広い。

もともと瀬戸の中でも特徴が分かれていたが、それらを続ける窯がなくなったため、今は瀬戸本業窯が瀬戸の伝統の仕事をまるごと背負っているような状況とも言えるかもしれない。

名古屋の米家(まいほーむ)、米重さん

紹介したい人がいる、と雄介さんに言われて名古屋市内で彼にあったのはいつだっただろうか。これからお店を始める人で、きっと僕と同い年くらいじゃないか、と。

それが今日訪ねたお店「米家(まいほーむ)」の米重(よねしげ)君との出会いだ。

米家は瀬戸本業窯のうつわをメインに使い、料理と日本酒を提案するお店。名古屋市の千種区というところにある。

名古屋の米家(まいほーむ)の料理、瀬戸本業窯の器
名古屋の米家(まいほーむ)にある日本酒

素材、調味料、酒、うつわ、とバランスが取れた居酒屋というのはなかなか少ない。カウンター上に並ぶお惣菜はどれも瀬戸本業窯の大鉢に盛られ、その姿を見るだけでも心がはずむ。

酒は自ら蔵元に足を運び仕込みまで手伝う蔵もあるほどで、思い入れのある酒だけを揃える。酒に詳しくない人は料理に合わせておまかせしておけば、まず間違いないのでご安心を。

瀬戸本業窯の器とキンキの煮付け

この日は脂の乗ったキンキの煮付けが馬の目皿に盛られて出てきた。馬の目皿と煮魚というこの組み合わせは本当に美しい。

あっさり炊かれた身をほぐして、煮汁に浸し、木の芽と共にいただく。春が駆け抜ける。

この日はホタルイカや、山菜など春を感じられるメニューが多く、ぬるめの燗酒がすすむすすむ。

名古屋の米家(まいほーむ)
名古屋の米家(まいほーむ)にある瀬戸本業窯のうつわ

厨房奥にずらりと並ぶ瀬戸本業窯の黄瀬戸のうつわ。のんびりとした黄色味はこれまた料理映えする。

工業製品でもないのにすっきりと重ねられる。これも瀬戸の土の質と、高いろくろ技術によるもので、瀬戸本業窯らしさがある。

何年か使い込んだ馬の目皿も、果たしてこれを汚いとみるか、あるいは店の時間が染み込んだ味、とみるか。みなさんはどうだろうか。

家なら、家族の時間がそこにどんどん積み重ねられていく。こんなすてきなことはないだろう。

育つうつわ、とってもいいものですよ。

<取材協力>
米家(まいほーむ)
〒464-0075 愛知県名古屋市千種区内山3-1-15 三ツ矢ビル
電話 052-741-7565
営業日 [月・火・木・金]18:00〜24:00 [土・日・祝]17:00~24:00
※ラストオーダー23:00
定休日 水曜、第3火曜

※遠方から来店の場合は座席数も多くないため事前予約が好ましい。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文・写真:奥村 忍

<関連商品>
瀬戸焼のうつわ

高知・梼原町で見る「負ける建築」家、隈研吾。

こんにちは。BACHの幅允孝です。

さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する不定期連載、「気ままな旅に、本」。2018年の春は高知の旅へ。

雲の上の建築群

2020年に向けて建築中の新しい国立競技場はふんだんに木を使ったデザインが特徴的ですが、その設計に携わる隈研吾さんが木造建築を手がけるようになったきっかけが高知県の梼原町にあるといったら驚く人も多いでしょう。

町内のホテルにある回廊
町内のホテルにある回廊

愛媛との県境にある人口わずか3600人の小さな町、梼原町。この地にまだ若かりし頃の隈さんが「雲の上のホテル」の建築を手掛けることになったのは偶然だったといいます。

山道を抜けて突如現れる雲の上のホテル
山道を抜けて突如現れる雲の上のホテル

観光にも力を入れようと町が考えていた1990年代、第3セクター方式でのホテル運営の話が持ち上がり、「雲」と「棚田」といった梼原の自然をモチーフにした「雲の上のホテル・レストラン」が完成しました。

案内いただいた梼原町役場の上田真悟さんと
案内いただいた梼原町役場の上田真悟さんと

それを皮切りに「雲の上のギャラリー」、特産品販売所とホテルの融合した「まちの駅 ゆすはら」、「梼原町総合庁舎」、そして今春は「梼原町立図書館」の建築を隈研吾さんが手がけました。小さな町の小さな領域内には町産、県産の木材を優雅に使った隈建築がいくつも立ち並び、まさに彼の建築アーカイヴを見るようです。

まちの駅ゆすはら
まちの駅ゆすはら
まちの駅ゆすはらの内部
まちの駅ゆすはらの内部
梼原町総合庁舎
梼原町総合庁舎
開放的な庁舎内部
開放的な庁舎内部

なかでも個人的に印象的だったのは、ホテルと温浴施設を結ぶ「雲の上のギャラリー」の橋梁部分。

大樹を思わせる外観
大樹を思わせる外観
内部は渡り廊下になっていて、ホテルと温浴施設を結ぶ
内部は渡り廊下になっていて、ホテルと温浴施設を結ぶ

寺社仏閣のように幾重にも組みあわされた「斗栱 (ときょう) 」という木の組み方は、この辺りで昔から使われている工法だといいます。大樹が枝葉を伸ばすようなデザインの根っこには、総面積の91%が森林という町で培われた技術があったのですね。

随意契約で何代もの町長と直接対話を繰り返しながら計画されたこの建築群。「隈さんが町の意向を把握していて想いが形になりやすいので、一貫してお願いしています」と町役場の上田さんは言いますが、議会の理解を得続ける手腕もお見事。

上田さんが持っていた建築に関する分厚い資料
上田さんが持っていた建築に関する分厚い資料

また、設計/施工一体型の契約が多い地方の土木事業において、「設計にもきちんとコストをかける」という概念をつくりだした点が、このプロジェクトが成功している理由なのではないでしょうか?

なぜなら、これからの公共建築は風雨を凌ぐ丈夫な「箱モノ」ではなく、「メディア」として機能していかなくてはいけないのですから。

「負ける建築」家、隈研吾

隈さんには15年近く前に書いた『負ける建築』という本があります。彼は、そこで都会に屹立するビル群や周囲の環境を圧倒する20世紀型の「勝つ建築」はその強さゆえに人から離れてしまっていると書きました。

書影

そして、21世紀の建築はもっと弱く、柔らかく、様々な外力を受け入れる「負ける建築」になっていくと訴えています。

思えば、若かりしときにはコンクリートを使った建築が多かった隈さん。そんな彼が木材と出会い、その良さを受け入れ、今では自身の色を示す武器にしてしまっているしたたかさと受動の効用を感じます。

また、変容を恐れず与えられた状況に対応し続ける「負ける建築」家だったからこそ、問題の多かった国立競技場問題も落ち着いたのかもしれませんね。

梼原町の人々はそんな隈さんを「すごい人になっちゃったなぁ」と驚いているそうですが、それでも隈さんや隈事務所の所員は年に何度もこの地を訪れ、昔と変わらず町の新しいメディア=建築を企画しているそうです。

5月開館予定の図書館。ご厚意で覗かせていただいたオープン前の様子
5月開館予定の図書館。ご厚意で覗かせていただいたオープン前の様子

5月からは新たに「雲の上の図書館」がオープンし話題になることでしょう。あとは、ここに素敵な本が入り、司書さんたちが丁寧に楽しく運用していくことを期待します。いずれは建築だけでなく、そこで働く人たちにも光が当たるようになるといいですね。

雲の上の図書館前にて
雲の上の図書館前にて

<取材協力>
雲の上のホテル
http://kumono-ue.jp/

梼原町役場
http://www.town.yusuhara.kochi.jp/kanko/kuma-kengo/


幅允孝 (はば・よしたか)
www.bach-inc.com
ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。


文 : 幅允孝
写真 : 菅井俊之

赤ちゃんの体調がわかる?高知サンゴのベビーブレス

出雲の「勾玉」や飛騨高山の「さるぼぼ」など、全国各地にその土地土地の材料や風土から生まれたお守りがあります。

この連載ではそんなご当地ならではのお守りを紹介します。

今回は、高知に昔から伝わる赤ちゃんのお守り、サンゴでできた「ベビーブレス」です。

高知サンゴ工房ベビーブレス

サンゴは魔除けや厄除けのお守りとしても知られていますが、このお守りは、言葉を話せない赤ちゃんの「代わり」を務めてくれるといいます。

どんな「代わり」を務めてくれるのでしょうか。

実物を見に高知へ向かいました。

よさこい節に登場する“かんざし”もサンゴ

全国のサンゴ製品の8割以上を生産する高知県。

古くから伝わる民謡「よさこい節」の一節で、高知の夏の風物詩「よさこい祭り」の曲の1フレーズにもなっている

「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た」

竹林寺の僧侶と鋳掛屋の娘・お馬との悲恋を歌ったものですが、僧侶が娘のために買ったかんざしも、サンゴのかんざしだそう。

高知では昔からサンゴが身近にあったことがわかります。

今回訪ねたのは1965年創業の高知サンゴ工房。

高知サンゴ工房

店舗と工房が併設され、高知でも珍しい、作り手さんから直接、サンゴ商品を購入できるお店です。

高知サンゴ工房店内
高知サンゴ工房平田勝幸さん

二代目の平田勝幸さんにお話を伺いました。

原木の質がいい高知のサンゴ

日本では、高知のほか小笠原諸島、奄美大島でも採れるそうですが、全て高知で水揚げされるそうです。

「加工する職人が他にいないんです。高知が一番多いので」

加工する職人さんがいる高知に材料が集まってくるんですね。

「高知で採れる原木は質もすごくいいんですよ。同じ赤サンゴでも小笠原や奄美のほうで採れたものと、高知のものは全然違ってきます」

採れる海の場所によって色も違うそうです。

「室戸の沖で採れる赤サンゴは、最高品質のものです」

店内のディスプレイにある、サンゴ漁に使われる専用の網

現在は水揚げ量が減ってしまったものの、高知では古くから魔除けとしてお数珠にしたり、お守りとして身につけていたそうです。

赤ちゃんの発熱を教えてくれるお守り

店内のショーケースには赤、白、ピンク、色とりどりのサンゴの商品が並んでいます。

その中にありました。

赤ちゃんのお守りベビーブレス。

高知サンゴ工房

赤ちゃんの小さな腕にぴったりな、小さくて可愛らしいお守りです。

「サンゴは体から出る水量で光沢がなくなるので、赤ちゃんが発熱すると汗で色が変わるんです」

なるほど。言葉で伝えられない赤ちゃんに変わって、体調の変化を知らせてくれるわけですね。

赤ちゃんは熱も測りにくいので、ちょっとした変化に気付けるのはありがたいです。

赤ちゃんのためでもあり、お母さんのお守りなのかもしれません。

「赤ちゃんがなめてもカルシウム100%なので大丈夫です」

高知では子どもからお年寄りまで幅広い年齢で親しまれ、大切にされてきたサンゴ。

高知サンゴ工房さんには小学生が買いにくることもあるそうです。

「この間も、近所の女の子がお姉ちゃんときて、“お小遣いで買えるものだけにしなさいよ”って、イヤリングを買って行きました」

かわいらしいですね。ずっと欲しいなって思って買いに来たんでしょうね。

「今は材料が高くなって、小学生が買えるようなものがなかなかできないんですが、嬉しいですね」

今ではとても貴重なものとなったサンゴ。

お祝いや自身へのお守りに持ち帰りたくなりました。

<取材協力>
高知サンゴ工房
高知市桟橋通4-7-1
088-831-2691
http://www.kochi-sango.com/index.html

読めばさらに美味しくなる。長崎発祥のちゃんぽん、根底にあるのは愛だった。

実は、長崎だけのものではないちゃんぽん

「ちゃんぽん」 —— そう聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、きっと長崎だと思う。当然ながら、そうだろう。なんと言っても、長崎はちゃんぽん発祥の地であるのだから。

ただ、少し待ってほしい。実は、ちゃんぽんは長崎だけのものではない。全国には「ご当地ちゃんぽん」がいくつも点在するのだ。

 

例えば、熊本県には水俣、天草にそれぞれ固有のちゃんぽん文化が存在する。

また、福岡県には北九州市・戸畑に蒸し麺を用いたちゃんぽんが根付く。愛媛県・八幡浜市にもご当地で愛されてきたちゃんぽんがあり、そのほかにも、滋賀県・彦根市、栃木県・高根沢町といったように、全国のさまざまな地域でちゃんぽんは愛されている。

 

なぜ、ちゃんぽんは、そしてちゃんぽん文化は各地へと広がっていったのか。ちゃんぽんについて考えるにあたり、まずはその出自について掘り下げてみたい。

ちゃんぽん四海樓の外観
明治・大正時代の四海樓。中国語に加え、英語でも表記されている点に、海外に開かれた町・長崎を感じることができる

 

ちゃんぽんは果たして誰がもたらしたのか

ちゃんぽんが長崎にもたらされたのは1899(明治32)年。その年に開業した「四海樓(しかいろう)」の創業者・陳平順(ちんへいじゅん)さんによる功績であることはご当地・長崎では有名な話だ。

陳さんは中国から日本へと渡ってきた留学生たちに安く、栄養価の高い食事を楽しんでほしいという願いを込めて「支那饂飩(しなうどん)」というメニューを考案。

これは福建料理の「湯肉絲麺(とんにいしいめん)」がルーツになっているそうで、四海樓の代表取締役社長・陳優継さんは「麺を主体に、豚肉やシイタケ、タケノコ、ネギなども入ったあっさり味のスープです。これを初代がアレンジし、ボリュームをつけ、さらに濃い目のスープにし、豊富な具材を加えて、独自のコシのある麺を日本風にアレンジしました」と教えてくれた。これこそが現在の「ちゃんぽん」だ。

以降、ちゃんぽんという食べ物は、長崎市内、そして長崎県内、近隣、そして遠く離れた地へと広がり、それぞれの地域に浸透していく。

ちゃんぽん 四海樓の外観
現在の四海樓。優雅な空間で発祥の味を堪能することができる(出展:四海樓)

ちゃんぽんはその生まれた時から大きく姿、形は変わっておらず、今もその味において、当時を感じることができる。

その具材は肉(基本的に豚肉)、キャベツやタマネギ、ネギといった野菜、かまぼこなどの魚肉の加工品といったような具材に加え、時にはエビなどの海鮮の食材も入る。

これらを中華鍋で豪快に炒め、豚骨や鶏ガラでとったスープを合わせて、仕上げに“ちゃんぽん用の中華麺”を投入し、煮込んで仕上げる。

ちゃんぽん用の中華麺、とあえて断り書きを入れたのには理由があり、長崎では、唐灰汁(とうあく)という長崎独自のかん水を入れて製麺していて、これが長崎におけるちゃんぽんの最大の特徴だ。

ちゃんぽん四海樓(しかいろう)
四海樓のちゃんぽん。この一杯こそが長崎のちゃんぽんのスタンダード

なお、ちゃんぽんの由来は、当時の長崎華僑同士の挨拶言葉だった「吃飯(チーファン)」(ご飯食べた?という意味)の福建語発音が「シャポン」または「ジャッポン」という音だったということから「ちゃんぽん」と呼ばれるようになったという。つまり、ちゃんぽんとは、当時の長崎華僑の挨拶言葉が起源なのだ。

ちなみに、長崎でちゃんぽんを注文しようとすると、メニューに「そぼろ」という聞き慣れない言葉が度々登場することに気付く。

実は、「そぼろ」とは長崎の方言で「特上」の意味。“鶏そぼろ”のようなものがトッピングされるわけではない。ちょっと張り込みたい時は「そぼろ」を注文してみてほしい。

ちゃんぽん
長崎独自のそぼろちゃんぽん。具沢山で食べごたえあり (出展:長崎県観光連盟)

 

愛のかたまり、ちゃんぽん

ちゃんぽん
長崎市内では町の小さな中華料理屋から大型の中華レストラン、喫茶店や食堂まで、実に様々な場所でちゃんぽんが提供されている(出展:長崎県観光連盟)

なぜ、ちゃんぽんは、そしてちゃんぽん文化は各地へと広がっていったのか —— 先の問いに対するぼくなりの答えは、ちゃんぽんの根っこにある「安く、栄養価の高い食事を楽しんでほしい」という思いだ。

この思いが大前提にあり、そしてそれぞれの地域に合った食材や製法によって、ご当地ちゃんぽんが育まれていったように感じている。というのも、スープ、麺、肉や野菜、海鮮といった具材の3つから成り立つちゃんぽんは、その3つの構成要素のおかげで、地域性も表現しやすい。全国へと広がるポテンシャルは十分だ。

前述のとおり、ちゃんぽんは注文ごとに具材を鍋で振り、スープで煮込むという「調理」が発生し、例えば、席についてすぐに料理が提供されるということは、まずない。

そして、肉、野菜、そして魚介という具沢山なビジュアルがデフォルト。店によっては具材が山盛りになっていて、その「たーんと食べていって」という気持ちと対峙した際には、あわせる手の密着が自ずと強まる。

価格においても一般的にラーメンやうどんの倍するということはない。下世話な話だが、食材が多い分、結構、原価率も上がるものだし、昔に比べると野菜の価格が高騰しがちな昨今だからこそ、それでもちゃんぽんを作り続けるということは、つまり愛なのだと言い切ってしまいたい。

そんな愛のかたまり、ちゃんぽん。長崎でちゃんぽんを食べるなら、まずは、先に挙げた発祥の店「四海樓」を押さえておきたい。

そして、四海樓は一度、行ったことがあるという人には、地元っ子が愛してやまない「群来軒(ぐんらいけん)」がおすすめ。

長崎県大村市の群来軒

思わず目尻が下がる美しい佇まいのちゃんぽんは、まずスープが美しい。清楚な色白美人を思わせるその色目は、食欲を静かにかき立ててくれる。

長崎県大村市の群来軒のちゃんぽん

長崎の中華街は、どちらかというと観光客が多いイメージがあり、それでいうと「群来軒」は地元の大衆中華の店という位置付け。

ランチタイムはいつも地元の方々で満席という人気ぶり。日常的に長崎で親しまれているちゃんぽんの姿がここにはある。

 

長崎県大村市の「協和飯店」もまた、「群来軒」同様に地域密着の名店。周りに飲食店が集中しているわけでもなく、ポツンと立っているような、加えて、別段変わったところもない極一般的な中華料理店の佇まいだが、昼は待ちが出るほどの大賑わい。

長崎県大村市の協和飯店

この店のちゃんぽんはスープがかなり力強く、質感としてはかなりずっしりしており、濃厚だ。このパワフルなスープをまとった麺は箸を持つ手を止めさせない。一度、食べ始めるとノンストップ。記憶にしっかりと刻まれること請け合いだ。

長崎県大村市の協和飯店のちゃんぽん
協和飯店のちゃんぽん

 

長崎県内でもちゃんぽんは様々

これまでは一般的な長崎のちゃんぽんを紹介してきたが、長崎県平戸市には、平戸ちゃんぽんという食文化があるので触れておきたい。

戦前に長崎から伝わったとされる平戸のちゃんぽん。地元の製麺所「もりとう」の麺を使うという特徴があるが、もう一つ忘れてはならないのが、独自のスープだ。

長崎では一般的に主に豚骨や鶏ガラによってスープをとるが、平戸では特産であるアゴ(トビウオ)を用いる。

 

平戸のちゃんぽん 富貴
「手打ち蕎麦 冨喜」の外観

その提供店の一つ、「手打ち蕎麦 冨喜」では、平戸産の焼きアゴと昆布でとった出汁に、豚骨スープを“重ね着”させたWスープがウリ。

もともと蕎麦屋ということもあり、アゴ出汁の質はお墨付き。焼きアゴの風味が際立つよう、あえて具材に海鮮を入れない徹底ぶりも好印象だ。

仕上げに焼きアゴの削り節をかけるため、香りもいい。ぜひ食べる前に丼に顔を近づけ、大きく深呼吸してほしい。ただし、むせないようにご注意を。

平戸のちゃんぽん 富貴
冨喜のちゃんぽん

 

佐賀に必食のちゃんぽん文化あり

長崎のお隣、佐賀県のちゃんぽん文化も見逃せない。

大きく2つの潮流があり、一つは武雄市に見られる武雄ちゃんぽん、そしてもう一つが佐賀市内に浸透している食堂系ちゃんぽん。

武雄におけるちゃんぽんはソウルフードである。かつて炭鉱産業で賑わっていた武雄・北方エリアでは、長崎でのちゃんぽんと同じ理由、つまり「安く、美味しく、お腹いっぱいになる」という三拍子揃った料理として支持されてきた。

現在では国道34号線が道路沿いにちゃんぽん提供店が集中していることから“ちゃんぽん街道”と称されている。

その代表格が創業68年の老舗・井手ちゃんぽん本店だ。元々、その原点にはカツ丼があり、初代がカツ丼のタレを学ぶという目的で大阪で修業を積み、戦後にこの店を食堂として開業したところ、ちゃんぽんの人気に火が付く。

井手ちゃんぽんの外観

1980(昭和55)年には現在のちゃんぽん専門店に。ここのちゃんぽんは一度食べると絶対に忘れないくらいに強烈なインパクトがある。野菜が文字どうり“山盛り”なのだ。

井手ちゃんぽん

かつての炭鉱夫たちの胃袋を十二分に満たしてきたちゃんぽん。その当時のあり方が、今、目の前で体感できるという点において、生ける歴史遺産とも言える一杯だ。

井手ちゃんぽんの内観
井手ちゃんぽんの内観

 

佐賀市内のちゃんぽんは、食堂の味

佐賀市内の食堂系ちゃんぽんとは、いわゆる大衆食堂においてちゃんぽんが提供されているスタイルのことであり、しかも、極めてハイレベルなクオリティなのだ。

「池田屋」はそんな食堂スタイルを今も大切に守る一軒。元々、ちゃんぽんが苦手だったという初代店主だったが、今はなき、佐賀ちゃんぽんの名店「中村食堂」の味に惚れ込み、その味を受け継ぐ。

ちゃんぽん 池田屋の外観
池田屋

そんな池田屋のちゃんぽんは、昆布の旨みを土台とし、さらに削り節数種を合わせたという和風だしが味の決め手。

まろやかで、口に含むほどにやさしい味わいが膨らんでいくスープには、大盛りの野菜からのエキスもしっかりと溶け込んでいた。

佐賀の池田屋のちゃんぽん
池田屋のちゃんぽん

最後に、もう一軒紹介するなら、老舗「春駒(はるこま)」へ。大正11年の創業以来、佐賀市民の胃袋と心を満たしてきた名店だ。

ただ、名店ではあるが、一切偉ぶった様子はなく、例えば近所の人が小さな鍋を持ってきて、ちゃんぽんを買いに来るというようなことも珍しくないという。

佐賀の春駒
春駒の外観

ここで食べておきたいのが、名物の「皿うどん」。ちゃんぽんじゃない?そんな声が聞こえてきそうだが、長崎ではちゃんぽんと同じように愛されている独自の麺料理であり、ちゃんぽんがもたらした副産物的な食文化といえる。

主に使われる食材は豚肉や野菜、魚介類というように、ちゃんぽんと同じだが、麺が2通りあり、その違いによって大きく料理の在り方が異なる。一つが細い中華麺を油で揚げたパリパリタイプ。そしてもう一つが、ちゃんぽん麺を事前に蒸す、焼く、茹でるといった下準備をしておき、その麺にスープを吸わせるもっちりタイプがある。

こちらの皿うどんは後者。そのスープは、思いの外、力強い。アットホームな店ゆえに、味わいもやさしいかと思っていると、バシッと脳に届く出汁の旨味に心が踊る。

“濃厚”という言葉を使いたくなるが、とはいえ脂っこい感じではなく、毎日食べたくなるような絶妙な塩梅だから、感激しきりだ。

佐賀の春駒の皿うどん
春駒の皿うどん。今やちゃんぽんを凌ぐ人気者に。

 

ちゃんぽんとは“底なし沼”!?

長崎、佐賀エリアのちゃんぽんをずらりと紹介してきたが、数を挙げれば挙げるほどに、その実体が掴めなくなる。ただ、それがちゃんぽんなのだろう。

スープが変わり、麺の形状が変わり、そしてその土地ごとの地域の食材が加わり、さらには作り手の趣味嗜好が合わさることで、無限の広がりを見せる。ちゃんぽんとは、どこまでも美味しい底なし沼だ。

文・写真:山田祐一郎

山田祐一郎
福岡県出身、現在、福津(ふくつ)市在住。日本で唯一(※本人調べ)のヌードル(麺)ライターとして活動中。麺の専門書、情報誌などで麺に関する記事を執筆する。著書に「うどんのはなし 福岡」。
http://ii-kiji.com/

掲載店舗

 

< 四海樓 >
長崎市松が枝町4-5
095-822-1296
営業時間 : 9:30~18:30
定休日 : 不定休
http://shikairou.com/

< 群来軒 >
長崎市江戸町5-11
095-826-3618
営業時間 : 11:30~14:30 / 17:00~21:00
定休日 : 水曜日

< 協和飯店 >
長崎県大村市森園町1590-2
0957-52-6143
営業時間: 11:30~13:30 / 17:00~21:00
定休日 : 火曜日
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手打ち蕎麦 冨喜
長崎県平戸市魚の棚町332-1
0950-22-3303
営業時間 : 10:00〜14:00 / 17:00〜24:00
定休日 : 日曜日

井手ちゃんぽん 本店
佐賀県武雄市北方町志久1928
0954-36-2047
営業時間 : 10:30~21:00
定休日 : 水曜日(水曜日が祝日の場合は翌木曜日)
http://www.ide-chanpon.co.jp/

池田屋
佐賀県佐賀市赤松町241-39
0952-22-7508
営業時間 : 11:00〜15:30 / 18:00〜21:00
定休日 : 月曜日
http://www.ikedaya-saga.com/

春駒食堂
佐賀県佐賀市高木町3-1
0952-23-5329
営業時間:[月~木・祝] 11:00~16:00
[土・日] 11:00~16:00 / 17:00~19:00
定休日 : 金曜日