すべすべの手触りは母の手で。「山のくじら舎」おもちゃ作りの現場へ

知人のお子さんへの贈りもので作った木のおもちゃが口コミで人気となり、創業10年で皇室ご愛用の栄誉にもあずかったメーカーが高知にあります。

大ヒットになったお風呂用木製玩具「おふろでちゃぷちゃぷ」
大ヒットになったお風呂用木製玩具「おふろでちゃぷちゃぷ」

名前を「山のくじら舎」。

看板

前編では、代表の萩野和徳さんにお話を伺い、高知への移住から大ヒット玩具が誕生するまでのストーリーをご紹介しました。

後編では、実際に商品が生まれる現場を訪ねて、愛されるものづくりの秘密に迫ります。

山と海の間。木の香りが満ちる工房で

工房があるのは高知県安芸 (あき) 市。森林率84%を誇る高知県の東部、ちょうど山と海の間にある小さな町です。

築150年の古民家を改築して建てた工房
築150年の古民家を改築して建てた工房

朝8時半。木の香りに満ちた工房で朝礼がはじまります。

そこに、代表である萩野さんの姿はありません。スタッフ全員で今日の作業の流れを確認し、段取りを調整します。

見渡すと、スタッフのほとんどが女性。男性の姿は一人しか見当たりません。

スタッフの半数以上が子育て中のお母さん

現在、「山のくじら舎」のスタッフは20名。その多くが地元のお母さんです。創業当時は萩野さんと奥さんの陽子さんとの二人だけでしたが、県外から注目され依頼される数が増えてきたことで、一人、また一人とスタッフの数が増えてきました。

「スタッフは自由に休みが取れますし、時短勤務もOKです。子育て中だからといって能力のある方が働けないのはもったいない。

時間の制約を設けず、自由度が高い職場環境をつくったことによって、優秀な方が集まってきていると思います。地域にはそうした人が埋もれているんじゃないかな」と語る萩野さん。

しかし、スタッフがいつ休んでも良いようにすると、急な休みが重なったときに支障はでないのでしょうか。

「うちではおもちゃづくりにかかわるどの作業もみんなができるようにしています。急なお休みでスタッフの数が少なくなってしまったときも、すぐにサポートできる体制にしているので、大きな混乱はありませんね」

スタッフの突然の休みでも、補い合える仕組みができています

さらに商品づくりにもお母さんスタッフの意見が取り入れられるため、いいことずくしなのだそうです。

せっかくなので、スタッフの方に入社のきっかけや普段のお仕事のことを伺いながら、山のくじら舎のものづくりを覗いてみます。

使い手が何よりの作り手に

例えば、人気商品の一つ「ハイヨーもくば」のネーミングを考えたのは入社2年目の上松さん。6歳と2歳のお母さんでもあります。入社したきっかけはSNSの募集だったとか。

上松さんが名付けた「ハイヨーもくば」。世代を超えて愛用される商品として人気です

お母さんのサポート体制が整っていることに惹かれ、下のお子さんが0歳の時に入社。子ども優先の働き方をしたいと思っていた上松さんにとって山のくじら舎は、ぴったりの環境だったそうです。

「2歳の子が体調を崩しがちで、今は先輩方に本当に助けてもらっています。周りには休みを取りづらくて辛い思いをしている友人もいるので。

子どもが元気な時は『おふろでちゃぷちゃぷ』でよく遊んでいます。木のおもちゃだと、子どもたちがお風呂に入れたがるんですね。

私も一緒に入るんですが、木の良い香りがお風呂に広がって檜風呂に入っているみたいになるところが気に入っています」

起業のきっかけとなった人気のお風呂用木製玩具「おふろでちゃぷちゃぷ」

安心で心地よい手触りを求めて

山のくじら舎のメイン木材は、高知県産の「土佐ヒノキ」。香りが高く美しい木をカットし、1年間乾燥させて使います。

ゆっくりと自然の力で水分を蒸発させることで、反りや曲がりといった変形を予防します

こうした木材の運搬などの力仕事や作業現場の管理を任されているのが、「山のくじら舎」で唯一の男性スタッフ、見神さん。

萩野さんに声をかけられたのをきっかけに入社し、現在は工場長として活躍しています。

京都で家具職人をしていた見神さん。萩野さんも絶大な信頼を寄せています

「スタッフのみなさんは、子育てと両立している方が多いので、できるだけ負担のないように働いてもらいたいと思っています。

無理なく、それでいていかに確かなクオリティの商品をつくるかが、難しい部分でもありやりがいのあるところですね」

明るい工房内。しっかり導線が確保され、きれいに整理整頓されている
明るい工房内。しっかり導線が確保され、きれいに整理整頓されている

「家具もおもちゃも木工なので同じように思われるかもしれませんが、おもちゃは手で触って遊ぶもの。お子さんは思ってもみない使い方をしますし、家具以上にその手触りに神経を遣いながら作っています」

萩野さんも、「木のおもちゃは手に近いもの」と語ります。

さわったときの心地よさは人の手でしか生み出せない。そのため山のくじら舎では、お母さん目線で納得するまでとことん手触りを追求します。

絵付けされた木材。この線に沿って次の工程のスタッフが丁寧に糸のこで切り抜いています
絵付けされた木材。この線に沿って次の工程のスタッフが丁寧に糸のこで切り抜いています
カットの工程
大きな機械も手早く操作していきます
大きな機械も手早く操作していきます

切りっぱなしの木は角が残り、遊ぶと怪我をしてしまうので、ここからヤスリで丸みを出していきます。

細かな部分は手作業でヤスリがけ。地道な作業です

作業途中の方にお話を伺うと、いつも「仕上がりがふっくらなるように」を心がけているとのこと。ふっくら具合は、切り出したばかりのものと削った後を比べると、一目瞭然でした!

切り出したばかりのものは、シャープな印象。角のエッジが立っています
表面から細部にいたるまで丁寧に削っていくと……
この通り。やわらかい風合いになり、まったく印象が変わります

こうして親心たっぷりに、どこにも角がない、やさしい表情の木のおもちゃが作られていきます。

手触りを手で確かめているところ
手触りを手で確かめているところ

高知家の母、娘が集う工房

愛情たっぷりに作られたおもちゃは、また新しい仲間を引き寄せます。

現在事務スタッフとして働く湊さんも、上松さんと同じくSNSの求人募集を見て応募してきた一人。商品のかわいさに一目惚れしたそうです。

湊さん

「普段は電話でお客様の問い合わせ対応をしています。木は温度や湿度でも表情が変わりますし、経年変化もあるので、親御さんも扱い方に関心を持たれるんですね。

『舐めても平気ですか』とか『使う前に煮沸しても大丈夫?』とか。相談にのるような気持ちでお答えしています。

担当しているのは事務ですが、木は同じデザインでも切る場所が違えば木目の出方も変わる。そんな表情の違いが好きです」

一点一点、同じものが二つとないのは、木製品の良さのひとつ
一点一点、同じものが二つとないのは、木製品の良さのひとつ

2018年の春からは、はじめて新卒の社員も仲間に加わります。なんでも「山のくじら舎」の家族的な雰囲気にひかれ、入社を決めたのだとか。

新卒で入社予定の山本。取材時はアルバイトとして一つひとつの作業を覚えている最中でした。これからが楽しみですね

自分と家族が十分な暮らしができる程度になればと始めた「山のくじら舎」。しかし、地域の女性たちが働きたいと萩野さんのもとを訪れるようになり、現在ではさらなる事業拡大に向けて、どんどん会社のビジョンが広がっています。

今後の夢を力強く語る萩野和徳さん

「目下の目標は、安芸市を木製玩具の産地にすること。木工をしたいと思う人がこの町を目指すようになれば、こんなに嬉しいことはないですよね」

高知の木の良さを伝え、子どもたちの健やか成長を願う商品を広めていきたい。そんな思いを胸に、今日も山のくじら舎は山と海の間で、高知らしい木のおもちゃをつくり続けています。

<取材協力>
山のくじら舎
0887-34-4500
http://yamanokujira.jp/

文:石原藍
写真:尾島可奈子

土佐の呑んべえ御用達。午前11時開店の「葉牡丹」で乾杯!そして返杯!

日本一お酒にお金を使うといわれる高知県。そんな“酒飲みの街”での「産地で晩酌」。足を運んだのは居酒屋「葉牡丹」だ。創業60年を超え、土佐の呑んべえが夜な夜な、いや明るいうちから足繁く通う地元の盛り場だ。

高知の老舗居酒屋・葉牡丹の外観
「葉牡丹」外観

土佐の名産に希少な珍味。吸い込む時代と土佐酒の薫り

午前11時から開店しているというこのお店。「夕方は相撲を見に来た常連で混んでるから、取材は夜にきてね」と言われ夜に足を運んだのだが、店内は大賑わい。

焼き物、串物をメインに、鰹(かつお)はもちろん、ドロメやチャンバラ貝などの珍味や希少な鯨(くじら)など、高知ならではの肴が揃う。

高知の老舗居酒屋・葉牡丹のチャンバラ貝
高知の酒の肴の定番、チャンバラ貝

高知では新鮮な生のかつおを皮付きの「銀皮造り」で食べることが多いのだそう。緑色のピリッと辛い「葉にんにく」との相性に目尻が下がる。

高知市の老舗居酒屋・葉牡丹の鯨の串
高知は日本有数の鯨の生息地でもある。希少な鯨を串でいただいた(写真右)
高知の老舗居酒屋・葉牡丹のイサキ
高知で「イセギ」とは、「イサキ」をさす

土佐鶴、司牡丹、酔鯨などの土佐の名酒に目移りしながら目に留まったのは、栗焼酎「ダバダ 火振」。関東ではあまり馴染みがないが、高知では一般的に飲まれるのだそう。

四万十川流域の山里で人の集まる場所を指す「駄場(ダバ)」、伝統的鮎漁法「火振り漁」が名前の由来

一合いただいたら日本酒に、なんて考えていたけど、美味しさあまってもう一合。あらもう一合。

内装から感じる時代の空気と、常連さんたちの笑い声も吸い込んでしみじみ感じる。「これはいいお酒を飲んでいるなぁ」

「葉牡丹」が揃える日本酒はすべて高知産のもの

「葉牡丹」を支える、働くお母さんたち

「葉牡丹」でお酒を飲んでいると気づくのが、いい顔をして働くお母さんたち。何十年もここで働いている方もいる。

高知市の葉牡丹で働く女性

「高知の女性は男性よりもパワーがある」。この日お酒を交わした常連さんは話す。

「男性よりお酒を飲める方も多いよ。女性にお酒飲めるんですかって聞くとこう言うの。『しょうしょう(升+升)です』ってね。ははは!」。

「高知ではね、女性が表に出てくる文化があったんですよ。お母ちゃんが働いて、男は何してるかっていうと、よそで飲んで騒いでるんです。ぐあっはっは」。陽気に、豪快に話すのは、土佐の酒飲みを何十年も店に迎え入れてきた「葉牡丹」店主の吉本さん。

店主の吉本さん

「飲食も板場くらいしか男がいなかった。うちも親父の言い出しっぺでおふくろが串カツ屋をはじめたんだけど、結局切り盛りしたのおふくろ。高知はね、女の人が働かないと成り立たない場所だったのよ(笑)。

でもね、実はそれが良いセールスのやり方でもあった。外で飲んで裏の情報をいち早く掴んで商いに生かす。それが男の仕事だったんですよ。まったく、どうしようもないねぇ!」

街は変われど、酒飲みは変わらず

「「葉牡丹」が開店した当時、この店が位置する堀詰という地区は、映画館やバス会社の待合室、競馬場、キャバレーなどが集まる地区だった。男衆が一杯引っ掛けるのに最高の場所だったというわけだ。「こどもがお父ちゃんに動物園に馬を見に行くぞと言われて行くと、競馬場だったってのはよくあった話ですよ(笑)」と吉本さん。

空襲の焼け残りの材木を寄せ集めてできたという、「葉牡丹」の建物。継ぎ接ぎで高さの合わない、少し歪で、しかし可愛らしい扉を見ながら、吉本さんは土佐という街についても話す。

「(土佐は)変わったけど、変わってないね。街も変わったし人は少なくなったというのはあるけど、大してうちは変わらん。みーんな呑んべえ!返杯って知ってる?あ、もう早速常連に教えてもらった?ぐあっはっは!」

高知には「返杯」というお酒の飲み方がある。お酒を注がれるとそれを飲み干し、「はい、返杯!」とグラスを渡しお酒を注ぎ返す。相手もまたそれを飲み干すというものだ。

返杯、返杯、また返杯。 土佐の“酒飲みの作法”もすっかり身につけ、そのままその常連たちと2軒目へと向かったのだった。

変わらない粋な店に、変わらない酒飲みたち。土佐に寄ったら是非ここの暖簾をくぐってほしい。

あぁ、いい夜だ。土佐の夜に、返杯!

<取材協力>

居酒屋 葉牡丹

〒780-0834 高知県高知市堺町2−21

088-872-1330

http://habotan.jp/

取材・文:和田拓也

写真:uehara mitsugu

バーナード・リーチが愛した、大分県「北山田のきじ車」を求めて

こんにちは。中川政七商店の吉岡聖貴です。

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載7回目は午年にちなんで「北山田のきじ車」を求め、大分県玖珠郡にある大野原きじ車保存会を訪ねました。

東北のこけし、九州のきじ車

「木製の郷土玩具」といえば多くの人が東北のこけしを思い浮かべることと思いますが、それと全く対照的にあり意外と知られていないのが、九州のきじ車(馬)。

きじ車とは、木で作った胴体に車輪を付けて転がせるようにした玩具のこと。こけしが東北各地にあるのと同じように、実は九州各地にも色々なきじ車があります。

全盛期は15以上の地域で作られ、その種類は1.清水系 2.北山田系 3.人吉系の3系統に分類されるそうです。北山田のきじ車は、その中でも彩色がなく馬らしい素朴な形が特徴です。

九州各地のきじ車
九州各地のきじ車たち、奥の無彩色のものが北山田のきじ車

大分の山間部に息づくきじ車の里

江戸時代末期頃に、子どもの遊具として考案された北山田のきじ車。

地元の庄屋さんに子どもが生まれたお祝いに、村人の上野氏が、子供がまたがって押したり引いたりして遊ぶ車輪付きの木馬のような玩具を贈ったところ大変好まれたことから、以来この地域で子どもの玩具として作り伝えられるようになったといわれます。

戦後一時姿を消しつつありましたが、上野寛悟氏が作り続け、地元の大工であった中村利市氏により継承されました。

きじ車を製作する中村利市氏の写真
きじ車を製作する故・中村利市氏

バーナード・リーチが大分県の小鹿田に滞在した1954年(昭和29年)、北山田のきじ車の素朴な造形美がリーチの目にも留まり、小鹿田焼とともに高く評価され、全国に知られる存在に。ところが、利市さんが亡くなった後、製作が一旦途絶えてしまいます。

そこで立ち上がったのが、高倉三蔵さん。

地元の伝統ある郷土玩具を後世に伝えるため、1990年(平成2年)、地区の有志で大野原きじ車保存会を設立し、上野さんの親族から教わりながら、昔の形そのままのきじ車製作を始め、北山田のきじ車を今に伝えています。

大野原きじ車保存会元会長の高倉三蔵さん
保存会の発起人で元会長の高倉三蔵さん(右)

地域に暮らす約10名の会員で製作を続けられている保存会のみなさん。発足当時のメンバーは前会長の高倉さんのみとなった現在も変わりなく、きじ車を愛する人たちが集まります。

製作ができるのは、材料の木の特性から、秋から春の間のみなのですが、シーズンになると月に1度、昼間の仕事終わりに、きじ車製作の作業場に集まります。各自できじ車を作り、終わったらみんなで食事をしながら遅くまで地域のことなどを語り合うそうです。

私たちが訪ねたのは5月の例会の日。高倉さんをはじめ、メンバー総出で歓迎してくださいました。

きじ車の製作風景
きじ車を製作する保存会の人たち

ものづくりは単純なほど難しい

中村さんの元で修行した職人に技術指導してもらったというきじ車の作り方は、今も昔のまま。会員の皆さんは、農業や建築関係などの木材を扱うプロが多く、慣れた手つきで次々にきじ車を削り出していきます。

「見学にきたほとんどの人が自分で作って帰りますよ。やってみますか?」
そんなお誘いを受けて、ワイズベッカーさんと私たちも体験をさせてもらうことに。

材料は地域に自生しているコシアブラの生木を使います。柔らかいため建築資材には向きませんが、加工がしやすく、白い木肌が綺麗なのが特徴です。夏は木が水分を吸い上げ、皮が剥がれやすくなるため、製作する期間は9月〜5月に限られるそう。

「コシアブラの新芽は天ぷらにして食べると美味しいんだよ。」そんなことを教えてもらえるのも現地に足を運ぶ楽しみの一つです。

きじ車の材料となるコシアブラの木
材料となるコシアブラの木を切り出す

では、早速胴体づくりから。

切り出したコシアブラの部材に型紙を当て、大まかな形を鋸で、ディテールをノミと槌で、地道に削り出していきます。

仕上げに突きノミでビューっと削って表面を綺麗に整えたら胴体の完成。この“木を削るのみ”という作業のシンプルさが、きじ車の製作を奥深くしています。

きじ車を成形する鋸、ノミなどの道具類
鋸・ノミ・槌などの道具を使って胴体を成形する
型紙を使ったきじ車の製作風景
型紙を当てて削り出すラインを決める
きじ車の製作風景
ノミと槌を使い、黙々と削り出す

そして、車輪の取り付け。

コシアブラの木を輪切りにした車輪を車軸に通し、胴体に打ちつけます。接合に金釘は一切使わず、コミ栓(木釘)を使用。最後に、保存会の印と作者のサインをして完成です。

きじ車の製作風景
車軸と胴体に穴をあけ、コミ栓で留める
きじ車の製作風景
胴体の裏には製作日、作者が書かれ、保存会の朱印が押される
できあがったきじ車3体
初心者3人が作ったきじ車、左から私・貴田さん・ワイズベッカーさん作

一個を組み立てるのにかかった時間は、つきっきりで手伝ってもらって1時間半ほど。会員の中で製作数が一番多い石井さんは、年に50個ほどを作られるといいます。

北山田のきじ車はもともと土産物などではなく、地域の子どものために作られていたものなので、彩色もなくシンプルそのもの。しかし色や模様がない分、わずかなバランスの違いが目立ちます。

その中で最も重要なのが首の角度なのだそう。首の角度、頭のうつむき加減など、ちょっとした違いで良し悪しが決まります。

木地と樹皮のコントラストのみの素朴なきじ車ですが、単純なものほど奥が深い、というものづくりの本質こそがこのきじ車の価値であり、リーチが絶賛した訳だったのかもしれません。

保存会の方が製作したきじ車
保存会の方が製作したきじ車

そして、そんなものづくりを継ぐ保存会の人たちが、半年かけて製作したというのが全長10mのジャンボきじ車。

使った木材は4寸角の杉材1200本、コミ栓12000本。材料集めから全て保存会の人たちの手で作りあげた大作です。

巨大なきじ車
高さ5.5m見上げる大きさのジャンボきじ車

「ジャンボきじ車の中は、当時の町民800人のメッセージが入っていてタイムカプセルになっているんです。」

ついには町のシンボルとまでなったきじ車。

地域ときじ車を愛する人々の思いが絶えず受け継がれてきたからこそ、この郷土玩具が今日まで残ってきたのだろうと、保存会の人たちとの交流の余韻に浸りながら大分をあとにしました。

さて、次回はどんな玩具に出会えるのでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第7回は大分・北山田のきじ車の作り手を訪ねました。それではまた来月。

第8回「宮城・仙台張子のひつじ」に続く。

<取材協力>
大野原きじ車保存会
大分県玖珠郡玖珠町大字戸畑3466-1
電話 0973-73-7436(会長 高倉新太)

文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」4月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

大分「北山田のきじ車」を訪ねて

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティスト、フィリップ・ワイズベッカーがめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載7回目は午年にちなんで「北山田のきじ車」を求め、大分県玖珠郡にある大野原きじ車保存会を訪ねました。それでは早速、ワイズベッカーさんのエッセイを、どうぞ。

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大分県の標識

福岡から別府方面に向かう、どこかよくわからないが大分県の玖珠という町で、小さな木の馬が私を待ってくれているはずだ。はじめてインターネットで見たとき、すぐに好きになった。それはきっと、プラスチック製のものがまだ少なかった時代、私が子供の頃に遊んだ素朴な玩具を思い出させてくれたからに違いない。

大分県玖珠町の「きじ車の里」石像

集落に着いたら、石の彫像が置かれていた。「どうしてこれほどまでに、みんなこの馬に愛着があるのだろうか?」と疑問に思う。

この馬は、この地方では子供の健康を願うシンボルを担っている。

大分県玖珠町「きじ車の里」の法被

今回は、いつもと違い、ひとりの職人さんではなく、団体の方々が大歓迎してくださった。大野原きじ車保存会の皆さんは、ボランティアで、この小さな馬の玩具制作を継続しているのだ。

この会がなかったら、後継者不在で、とうの昔に消えていたはずだ。あらゆるものがが消えていくこの時代、お手本となる活動だと思う!

きじ車の職人、中村利市さんの写真

最後の職人、中村利市さんの写真が、敬意を持って工房の壁に飾られている。この郷土玩具の継続にかけた彼の献身を想うと、感動する。

きじ車の職人、中村利市さんが使っていた型紙

その脇にかかっているのは、中村さんが使っていた型紙。黄ばんだ厚紙には多くの書き込みがしてある。こんな風に額装されていると、民芸の傑作における素朴な美しさを感じる。大好きだ!

きじ車の型紙

時代によって、型紙のスタイルも変わる。こちらはもっと正確で小綺麗だ。

きじ車の材料となる木材

さて、小さな馬の制作見学に戻るとしよう。削りやすいので、若い木を使用する。木の直径に合った型紙を選び、切り取る。

鋸と鏨を使ったきじ車の製作風景

帯鋸盤で型紙の長さに荒削りをした後、鋸と鏨をつかって切る。樹皮は頭と鞍の部分になるので痛まないように気をつける。この部分が特徴的なのだ。木屑が出るたびに少しずつ形になってくる。

製作途中のきじ車

眺めていると、優しく穏やかな気持ちになる。庄屋の男の子も、転がして遊ぶとき、きっと楽しかったに違いない。

一際大きいきじ車

巨大なきじ車は年に一度の競争に使われる。後ろのカゴにボールを入れ、ボールを落とさずに早くゴールしたものが勝ちというわけだ。

競争の舞台となる庭

起伏のある土地なので、きじ車の競争は危険を伴う競技なのだ。勝負の日には、3人の審判が見守ることになる。
(*訳注:冗談です。)

きじ車を作るフィリップ・ワイズベッカー氏

びっくりだ!きじ車をつくらせてくれるという。断るなんて論外だ。日本の素晴らしい大工道具を使える、とてもいい機会だ。そこそこ上手く使いこなせることに、自分でも驚いた。

もっと平凡なつくりだったが、以前東急ハンズで購入した日本の大工道具と仕組みは同じ。自分の家具をつくるときと同じ要領で扱えた。

作ったきじ車を見せるフィリップ・ワイズベッカー氏

はじめてつくったにしては悪くない。とはいえ車輪をつけるときは、師匠に手伝ってもらったけれど。皆が完成品を喜んでくれた。

「きじ車の里」関係者とフィリップ・ワイズベッカー氏の集合写真

その証に、取材後の食事会では、会員専用の法被まで授けていただいたのだ。とても光栄に想う。

楽しく優しい人たちと過ごしたこの日のことは一生忘れないだろう。私の法被は、きちんと畳んで、ほかの旅行の思い出品と一緒にしまってある。

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文・デッサン:フィリップ・ワイズベッカー
写真:フィリップ・ワイズベッカー、貴田奈津子
翻訳:貴田奈津子

Philippe WEISBECKER (フィリップ・ワイズベッカー)
1942年生まれ。パリとバルセロナを拠点にするアーティスト。JR東日本、とらやなどの日本の広告や書籍の挿画も数多く手がける。2016年には、中川政七商店の「motta」コラボハンカチで奈良モチーフのデッサンを手がけた。作品集に『HAND TOOLS』ほか多数。

「タイタニック」にも出演?不思議な形の佐世保独楽が生まれる現場へ

佐世保独楽は○○系

独楽と一口に言っても、実にたくさんの種類があるのをご存知でしょうか?

佐世保独楽
とある資料によれば、独楽にもこれだけいろいろな種類が!

日本の独楽の大半は、中国系や韓国系であるのに対し、佐世保独楽はインド系なのだそう。このユニークなまるい形は一般に「らっきょう型」と呼ばれ、台湾にも似たような独楽があるのだとか。

「映画『タイタニック』で少年が独楽をまわしている場面があるんですが、それを見た方から『佐世保独楽じゃないか?』って問い合わせがけっこうあったんです。確かに似ているんですが、あれはヨーロッパ系の独楽。おそらく、ヨーロッパからシルクロードを経て日本に伝わってきたから、似ているんでしょうね」と山本さん。

佐世保独楽

賭け事の独楽から子どもの独楽へ

日本の独楽の中でも歴史が古いのが博多独楽。江戸時代に入ると、全国的な人気を博しました。

博多独楽は高価で庶民の手には届かないものだったため、日本各地で独自の独楽が作られるようになったのだとか。佐世保独楽もその一つで、江戸時代中期に誕生したといわれています。

当初、独楽に熱中したのは大人だったというから意外です。独楽の家紋があったり、独楽好きの殿様が独楽まわし師のような人を抱えていたりしたそう。

「賭け事として大人は熱中したみたいです。往来でやるものだから、交通の邪魔になって事故も多かったそうで。江戸幕府が何度も禁止令を出したと聞いています」と山本さん。

佐世保独楽
賭け事に使われたという独楽。サイコロのよう

そうした禁止令の影響もあってか、江戸時代後期には独楽は子どもの遊び道具へと変わっていったといいます。

“喧嘩”に勝つための素材

佐世保独楽は、上から思いきり投げて相手の独楽と戦わせて遊ぶもの。そのため、独楽をぶつけられても倒れないよう、堅くて重みのある素材が適しています。丈夫で、このあたりで手軽に入手できることから、佐世保独楽にはマテバシイという木が使われているとのこと。

佐世保独楽の材料、マテバシイ
佐世保独楽の材料、マテバシイ
マテバシイは堅すぎて建材には向かず、炭台や斧などの柄に使われてきた

飾りとしての独楽へ転換

1949年 (昭和24年) に昭和天皇が佐世保を訪れた際、佐世保独楽を献上したことをきっかけに、おもちゃとして遊ぶ独楽から民芸品として飾る独楽へと移り変わっていきました。

佐世保独楽

その後の民藝ブームも追い風となり、民芸品として見た目にも美しい独楽を作ることが増えていったそうです。

「昔は40軒くらい独楽を作っているところがあったけど、専業でやっているのは今はうちだけ。民芸品としての独楽も作ってきて、全国に取引先があったから続けてこれたんです」

「より強く」から「より美しく」。時代に合ったフォルムに変化

佐世保独楽の歴史について教えてもらった後は、いよいよ工房へ。佐世保独楽づくりの工程を覗かせてもらいました。

佐世保独楽本舗の工房
佐世保独楽本舗の工房
なんと工房は高架下にあります

ろくろを使って削りながら、形をつくっていきます。

佐世保独楽
佐世保独楽
削る前は、まさにらっきょうのようなフォルム
佐世保独楽
少しずつ、あの佐世保独楽へと変身していきます

独楽上部の溝を削り終えたら、佐世保独楽特有の鮮やかな色をつけていきます。この色は中国の「陰陽五行説」に由来するもの。青(緑)、赤、黄、白(生地の色)、黒の5色は自然界や宇宙を意味しているといいます。

佐世保独楽
佐世保独楽
一筆一筆、丁寧に色付けしていきます
佐世保独楽

ちなみに、削る際に真っすぐにろくろにセットしないと、こんな風に中心が曲がってしまうそう。

佐世保独楽

玩具としての独楽は、いかに強くあるかが重要視されていたため、独楽上部の溝は深く彫られていたとのこと。溝を深くすることで、ぶつかりに強い独楽に仕上がるのだとか。

佐世保独楽

一方、民芸品としての独楽に求められるのは、より美しい見た目。見比べてみると、溝部分の段々が玩具用の独楽よりもなめらかで丸みがあるのがよく分かります。

佐世保独楽
左が玩具用、右が民芸品の独楽

受け継がれていく独楽づくりのバトン

山本さんは、以前は銀行に勤めていたのだそう。30年ほど前に先代である義理のお父さんが急逝し、3代目を継いだといいます。

「義父が亡くなって、一番苦労したのは道具づくり。職人は自分の道具は自分で作るものなんだけど、独楽づくりを本格的にし始めてから当時まだ3年ぐらいだったものだから、交流のあった各地の職人さんに助けてもらったね」と山本さんは振り返ります。

佐世保独楽
独楽づくりに欠かせない道具、かんな。奥から荒がんな、平がんな、丸がんなと微妙に形が異なり、削る部分や工程によって使い分ける

佐世保独楽づくりのバトンを次に受け継ぐのが娘の優子さん。美術系の学校を卒業し、3年前に佐世保に戻られてきたそうです。今は3代目のお父さんの背中を追いかけながら、独楽の絵付けの仕事を手伝っています。最近では、ペットの写真を持ち込んでオリジナルの独楽を注文するお客さんもいるのだとか。

佐世保独楽本舗
左から、4代目となる娘の優子さん、3代目の山本 貞右衛門さんと奥さま

遊ぶ玩具から、飾る民芸品へと、時代の変化に合わせながら生き続けてきた佐世保独楽。これから先も、時代は変われど、ずっと残っていってほしいものです。

<取材協力>

佐世保独楽本舗
長崎県佐世保市島地町9-13
0956-22-7934

文:岩本恵美

写真:尾島可奈子、藤本幸一郎

ドラ息子が再生した佐賀 嬉野の老舗旅館 ~転がる宿には苔が生えない~

お抱えの大工がいる宿

江戸時代から宿場町として賑わっていた、佐賀県の嬉野。昔ながらの趣を残す温泉街に、とてもユニークな老舗旅館があると聞いて足を運んでみると、まずは「旅館」というイメージとはかけ離れたその規模に圧倒された。

嬉野 和多屋別荘のエントランス
広々としたエントランス
嬉野 和多屋別荘の中庭
敷地内の中庭

数羽のカモがくつろぐ嬉野川をまたぐ広大な敷地は、2万坪。よくある表現でいえば東京ドーム1.4個分の土地に、129室の客室がある。

客室も眼下に嬉野川を望む客室や庭園に面した露天風呂付客室、数寄屋造りの離れなど多彩で、過去には昭和天皇、皇后両陛下、皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王なども宿泊しているそうだ。取材に訪れた日も国籍問わずたくさんの旅行客が宿泊していた。

宿の名は、和多屋別荘。長崎街道を往来していた島津家薩摩藩が道中に休息していた施設に由来を持ち、1950年に設立された。この規模で、しかも皇族も宿泊しているような格式高い旅館は日本にもそうそうないが、そこがユニークというわけではない。

この宿の敷地の一角には、「大工小屋」がある。そこでは、定年退職したけれども衰えない技術を持つ大工さんが4人、常駐している。そして、毎朝出勤しては部屋の改修や館内で使用するさまざまな什器をせっせと作っているのだ。

嬉野 和多屋別荘のお抱え大工さん
大工の山口さんは80歳にして現役
嬉野 和多屋別荘の大工室

この大工小屋をつくったのが、和多屋別荘の三代で、2013年、社長に就任した小原嘉元さん。驚くべきは、リノベーションのデザインや什器のアイデアはすべて小原さんがイメージを絵に描いて、大工さんたちが形にするという方法で行われている。

「もともと宿で使わなくなったものが所狭しと置かれていた元リネン工場をきれいにして大工小屋にしました。僕が戻ってきた時はひとりだったんですが、僕が依頼するものが余りに多すぎて人を増やしたんです(笑)。僕が社長に就任してから5年間、この敷地に設計士も建築士も入れていません。全部自前です。外部に依頼するよりも仕事が速くなるし、柔軟にできるじゃないですか」

嬉野 和多屋別荘 代表 小原嘉元さん
敷地内を見回る小原社長

「嬉野茶時」に「出前DJ」

今時、お抱えの大工さんがいる宿自体耳にしたことがないが、ここまでくると日本唯一の存在と言えるのではないだろうか。小原さんはさらに、腕の良い大工さんを10人ぐらいまで増やして、宿の仕事だけでなく商店街のリノベーションなどを請け負うことも考えていると話していた。

そう、小原さんは常識に捉われないアイデアマンなのである。もちろん、大工小屋は実現してきたさまざまなアイデアのひとつに過ぎない。

小原さんは、最近都内の有名ホテルでもイベントを開催するなど知名度を上げている嬉野茶のブランド化を目指すプロジェクト「嬉野茶時(ちゃどき)」の発起人でもあり、嬉野の若手茶農家が自ら生産した茶を和多屋別荘や、同じく嬉野にある旅館大村屋で提供する期間限定の喫茶「嬉野茶寮」も自ら企画している。

昨年には盟友である旅館大村屋代表北川健太氏とともに、著名なラジオDJ、音楽ジャーナリストであるピーター・バラカンさんによる「出前DJ」も企画し、和多屋別荘で開催した。

こういった活動を見ると、三代目のお殿様が自由な発想で伝統と格式のある宿に新風を吹き込んでいるように見えるかもしれないが、それは、違う。

小原さんは一度、実家から放り出された。そして、和多屋別荘が倒産の危機に陥った時に戻ってくると、次々と改革を断行してV字回復させたのである。大工小屋も、嬉野茶時も、出前DJも、すべては和多屋別荘を再興戦略につながっているのだ。

嬉野 和多屋別荘 代表 小原嘉元さん

世間知らずのドラ息子

子どもの時、小原さんは「おぼっちゃん」と呼ばれていた。

宿には200人の従業員がいて、2万坪の敷地が自宅の庭。180室の客室(当時)、25メートルプール、子ども用のプール、テニスコート5面、ゲームセンター、売店、レストラン数カ所、大浴場や露天風呂があり、宿泊客に迷惑さえかけなければ、どこでも入り放題、遊び放題というどこかの王侯貴族のような生活を送っていた。

嬉野 和多屋別荘
ラグジュアリーな雰囲気の宿内
嬉野 和多屋別荘 露天風呂
嬉野川を見下ろす露天風呂

この環境でも謙虚に育つ自信がある、と断言できる人はそういないだろう。小原さんは都内の大学に進学するも中退し、「就職するつもりもなかったけど、旅館の仕事はダサいからイヤ」と実家が営業所として購入した福岡のマンションに転がり込んだ。

体裁としては社員で、21歳にして給料は30万円。それでも、「なんでこんな少ない給料しかもらえないのかな」と不満を抱いていた。

その頃、ちょうどお姉さんも勤めていたテレビ西日本を辞めて同じ福岡のマンションで同居するようになったので、一緒にチラシのデザインなどを始めた。それで、いっぱしの仕事をしているつもりになっていたのだが、ちょうどその頃から和多屋別荘の経営が大きく傾き始め、福岡で暮らし始めてわずか2年で福岡事務所の閉鎖が決定。すぐに売却されることになった。嬉野では、200人いた社員の4分の1を1ヵ月で解雇するほど経営がひっ迫していたのだ。

それでも、奔放に育ってきた小原さんには危機感がなかった。

「住む場所を取られ、仕事場所も取られて、なんでそうなるんだよ、と。だから、姉と一緒になって、本館と橋でつながっている離れの水明荘を全部くれと父親に言いました。気の利かない社員しかいないだろうから社員も選ばせてもらうし、いなかったら雇うからねって」

嬉野 和多屋別荘 水明荘と嬉野川
水明荘と嬉野川

この時、23歳。失礼ながら、完全に世間知らずのドラ息子である。

父親に無理な要求を突き付けた結果、無残な展開になる。当時、和多屋別荘のコンサルタントをしていたK氏が、父親、小原さん、お姉さんのいる席で、こう切り出したのだ。

「会社を取るのか、異分子を切るのか選んでください」

この言葉を聞いた瞬間、小原さんは「このコンサル馬鹿やねー」と呆れていた。父親が子どもたちを切り捨てるわけがない。それが甘かった。しばらくして、父親から「出ていってくれ」と言われたのである。まさに青天の霹靂。この瞬間、収入も、仕事も失い、小原さんの「おぼっちゃん生活」は終わりを告げた。

極貧時代を経て丁稚奉公に

父親と再会したのは、3年後だった。その間、小原さんは姉と一緒に父親と離婚して福岡に住んでいた実母のマンションに身を寄せ、母子三人で暮らしていた。

仕事は、姉と自分のなけなしの貯金300万円を合わせてIT企業を作り、ホームページやチラシの製作、ネットショップの運営を始めたが、まったくうまくいかず、「極貧時代」に突入していた。

「和多屋別荘という看板も、親父の後ろ盾もない。ただの23歳と26歳のちんちくりんの娘と息子がやった会社なんて、誰も相手にしないっていうのが世の中ですね。ひとり女性スタッフがいて、その方に給料の15万円を支払うために仕事をしているようなもので、あとは僕と姉貴のポケットに入っているお金が全財産というような生活でした」

父親と再会した頃、和多屋別荘は実の子どもを追い出すという身を切る改革が功を奏して見事に再生を果たしていたが、ふたりが戻る余地はない。

父は小原さんに「経営の勉強しにKさんのところに行け」と言った。小原さんは唖然としてすぐに席を立った。ところがその日の夜、苦楽を共にしてきたお姉さんが意を決したようにこう言った。

「多分、行った方がいい」

この言葉を聞いて、小原さんはハッとした。そして、ようやく気づいた。

「ひょっとしたら、僕は人生を踏み外してんのかな」

嬉野 和多屋別荘 代表 小原嘉元さん

当時、お姉さんは交際相手と結婚することが決まっており、もう一緒に会社を運営することもできない。恐らく、弟の行く末を心配しての発言だったのだろう。同志のような存在だった姉の言葉を受けて、小原さんはKさんのもとに向かった。ここから怒涛の巻き返しが始まった。

ドラ息子の強み

Kさんの会社は旅館の再生事業を手掛けており、たった5人で80社のコンサルを請け負うスペシャリストの集まりだった。その仕事ぶりを見て、家を出てから3年間、自分と姉がやってきたことは「ままごとに見えた」。それから小原さんは目が覚めたように、365日、ほぼ休まず無給で働いた。丁稚奉公のようなものである。

ところが2年目に入る頃、父親とKさんが揉めて訴訟沙汰になり、Kさんのもとを離れざるを得なくなった。そこで、Kさんのもとで学んだことを活かそうと、会社を立ち上げて、和多屋別荘の敏腕フロントマンで、父親の命を受けたAさんと旅館の再生事業を始めたのである。26歳の時だった。

たった1年、丁稚奉公をしただけで何ができるのかと思うかもしれないが、この事業は10年続き、計70軒の旅館を再生させることができたという。スペシャリストたちのもとで学んだ経験は大きかったのだろうが、理由はそれだけではない。

「再生を余儀なくされる旅館の経営一族は、全て僕と一緒です。ちんちくりん息子、ちんちくりん娘が会社をダメにしていたんです。だから社長には、あなたの息子さんがこの会社潰しますよ、会社が潰れたら全社員、一族が路頭に迷いますけどどうしますか?という話をして。もちろん息子にもどんどん厳しいことを言って、一念発起したらそこからが再生のスタートです。

この仕事をして分かったのは、数十社見せてもらって、僕ほどズレてる経営者の息子はこの世にはいないということでした(笑)」

嬉野 和多屋別荘 代表 小原嘉元さん
「若い時は勘違いをしていた」と笑顔で振り返る小原社長

誰よりもズレていたからこそ、ズレている人の気持ちがわかった。その人が経営の足を引っ張っていることも分かった。自分が父親にクビを切られたことで会社が復調したことを知っているから、真実味を持ってクライアントに伝えることができた。なにより、家から放り出された経験があったからこそ、信頼を得ることができたのである。

逆風が追い風に変わる時

軌道に乗った再生事業を離れて、2013年、和多屋別荘に戻ることになったのは、再び経営危機に陥っていたからだ。一度目の時よりも経営状態が悪いなかで、小原さんは、再生事業で手を組んでいた弁護士、会計士、コンサル仲間を役員に入れて、35歳にして社長に就任した。

最初に始めたのは取引先からの信頼の回復、そして一緒に働く従業員たちとの信頼関係の構築だった。詳しい再生事業の話は省略するが、例えば子どもの日には、従業員用の自動販売機をこっそり「お金を入れなくてもボタンを押せば出てくる」状態にして従業員を驚かせたり、何かの折には社員食堂で佐賀牛を振る舞うなど、身近なところから次々と自身のアイデアを活かしていった。

嬉野 和多屋別荘の椅子
館内のいたるところに高級チェアが置かれている。これも小原社長のアイデア

こうして2年半をかけて信頼を再構築すると、自然と追い風に変わり始めたという。同時に大工小屋を作ってスピーディーかつフレキシブルに古くなった部屋のリノベーションを始め、「嬉野茶時」などの活動で宿に活気を吹き込むと、経営は次第に回復していった。

和多屋別荘の屋台骨

宿のなかに足を踏み入れると、印象的なのは小原さんがデザインし、大工さんが作った鉄のパイプを加工した和モダンな花器が館内のいたるところに置かれ、すべてに色とりどりの生花が飾られていること。

嬉野 和多屋別荘の装飾
嬉野 和多屋別荘の装飾

宿泊者のアンケートにも、生花の装飾について触れられることが多いそうだが、これも和多屋別荘らしいエピソードが隠されている。

「お掃除の方をいれると、正社員とパートを合わせて180人くらい働いているんですが、みんな花を持ってきてくれるんですよ。花器は全部で200~300か所あるんですけど、月の花代の予算は5万円ですから。それで、毎日、エグチさんという60代の古株の方が花を入れ替えてくれるんです。

若いスタッフがフロントで頑張ってくれて経営が成り立っているんですけど、大工さんやエグチさんの存在が和多屋別荘の屋台骨ですね」

毎日、広大な宿のなかに生花を飾るというと多額のコストをかけて業者に依頼すると想像してしまうが、コストはなんと月5万円。従業員もきれいな花が飾られているところで働く方が気持ちいいし、お客さんにも喜んでもらえるなら、花を摘んで持っていこうと思うのだろう。コストを懸けずとも、考え方ひとつで環境は大きく変わるのだ。

2万坪の敷地の管理人

小原さんが戻ってきて、5年。就任当初から売り上げがいつ倒産してもおかしくないとう危機的状況を脱し、売り上げを伸ばしているが、小原さんのアイデアは尽きない。

「離れにある水明荘は、いずれ独立させて水明荘という数寄屋造りの宿として世に出したいんですよね。まだアイデア段階ですが、思い切って地下の宴会場と1階のショップをつないで、ツタヤのような素敵な図書館にしたいと思っています。

あとは、テナントリーシング業。2万坪の敷地のなかにデッドスペースがいくらでもありますから、レストランとかスパ、カフェ、セレクトショップなど20〜30店舗は入れたいですね。そのうちの5軒くらいは直営で、残り25軒はテナントにするイメージです。僕は2万坪の敷地の管理人としか思っていないので、それをどう活用するのか、いつも考えています」

嬉野 和多屋別荘 代表 小原嘉元さんと大工さん

小原さんの話を聞いていて、「転がる石には苔が生えない」という言葉を思い出した。もちろん、アメリカで使われている、動き続けることで常にフレッシュであるという意味だ。築68年の宿ながら、小原さんのもとで和多屋別荘はとどまることなく姿を変え、苔むすことなく生花のようにみずみずしく輝き続けるのだろう。

<取材協力>
和多屋別荘
代表取締役 小原 嘉元(こはら よしもと)さん

文 : 川内イオ
写真 : mitsugu uehara