お抱えの大工がいる宿
江戸時代から宿場町として賑わっていた、佐賀県の嬉野。昔ながらの趣を残す温泉街に、とてもユニークな老舗旅館があると聞いて足を運んでみると、まずは「旅館」というイメージとはかけ離れたその規模に圧倒された。
広々としたエントランス
敷地内の中庭
数羽のカモがくつろぐ嬉野川をまたぐ広大な敷地は、2万坪。よくある表現でいえば東京ドーム1.4個分の土地に、129室の客室がある。
客室も眼下に嬉野川を望む客室や庭園に面した露天風呂付客室、数寄屋造りの離れなど多彩で、過去には昭和天皇、皇后両陛下、皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王なども宿泊しているそうだ。取材に訪れた日も国籍問わずたくさんの旅行客が宿泊していた。
宿の名は、和多屋別荘。長崎街道を往来していた島津家薩摩藩が道中に休息していた施設に由来を持ち、1950年に設立された。この規模で、しかも皇族も宿泊しているような格式高い旅館は日本にもそうそうないが、そこがユニークというわけではない。
この宿の敷地の一角には、「大工小屋」がある。そこでは、定年退職したけれども衰えない技術を持つ大工さんが4人、常駐している。そして、毎朝出勤しては部屋の改修や館内で使用するさまざまな什器をせっせと作っているのだ。
大工の山口さんは80歳にして現役
この大工小屋をつくったのが、和多屋別荘の三代で、2013年、社長に就任した小原嘉元さん。驚くべきは、リノベーションのデザインや什器のアイデアはすべて小原さんがイメージを絵に描いて、大工さんたちが形にするという方法で行われている。
「もともと宿で使わなくなったものが所狭しと置かれていた元リネン工場をきれいにして大工小屋にしました。僕が戻ってきた時はひとりだったんですが、僕が依頼するものが余りに多すぎて人を増やしたんです(笑)。僕が社長に就任してから5年間、この敷地に設計士も建築士も入れていません。全部自前です。外部に依頼するよりも仕事が速くなるし、柔軟にできるじゃないですか」
敷地内を見回る小原社長
「嬉野茶時」に「出前DJ」
今時、お抱えの大工さんがいる宿自体耳にしたことがないが、ここまでくると日本唯一の存在と言えるのではないだろうか。小原さんはさらに、腕の良い大工さんを10人ぐらいまで増やして、宿の仕事だけでなく商店街のリノベーションなどを請け負うことも考えていると話していた。
そう、小原さんは常識に捉われないアイデアマンなのである。もちろん、大工小屋は実現してきたさまざまなアイデアのひとつに過ぎない。
小原さんは、最近都内の有名ホテルでもイベントを開催するなど知名度を上げている嬉野茶のブランド化を目指すプロジェクト「嬉野茶時(ちゃどき)」の発起人でもあり、嬉野の若手茶農家が自ら生産した茶を和多屋別荘や、同じく嬉野にある旅館大村屋で提供する期間限定の喫茶「嬉野茶寮」も自ら企画している。
昨年には盟友である旅館大村屋代表北川健太氏とともに、著名なラジオDJ、音楽ジャーナリストであるピーター・バラカンさんによる「出前DJ」も企画し、和多屋別荘で開催した。
こういった活動を見ると、三代目のお殿様が自由な発想で伝統と格式のある宿に新風を吹き込んでいるように見えるかもしれないが、それは、違う。
小原さんは一度、実家から放り出された。そして、和多屋別荘が倒産の危機に陥った時に戻ってくると、次々と改革を断行してV字回復させたのである。大工小屋も、嬉野茶時も、出前DJも、すべては和多屋別荘を再興戦略につながっているのだ。
世間知らずのドラ息子
子どもの時、小原さんは「おぼっちゃん」と呼ばれていた。
宿には200人の従業員がいて、2万坪の敷地が自宅の庭。180室の客室(当時)、25メートルプール、子ども用のプール、テニスコート5面、ゲームセンター、売店、レストラン数カ所、大浴場や露天風呂があり、宿泊客に迷惑さえかけなければ、どこでも入り放題、遊び放題というどこかの王侯貴族のような生活を送っていた。
ラグジュアリーな雰囲気の宿内
嬉野川を見下ろす露天風呂
この環境でも謙虚に育つ自信がある、と断言できる人はそういないだろう。小原さんは都内の大学に進学するも中退し、「就職するつもりもなかったけど、旅館の仕事はダサいからイヤ」と実家が営業所として購入した福岡のマンションに転がり込んだ。
体裁としては社員で、21歳にして給料は30万円。それでも、「なんでこんな少ない給料しかもらえないのかな」と不満を抱いていた。
その頃、ちょうどお姉さんも勤めていたテレビ西日本を辞めて同じ福岡のマンションで同居するようになったので、一緒にチラシのデザインなどを始めた。それで、いっぱしの仕事をしているつもりになっていたのだが、ちょうどその頃から和多屋別荘の経営が大きく傾き始め、福岡で暮らし始めてわずか2年で福岡事務所の閉鎖が決定。すぐに売却されることになった。嬉野では、200人いた社員の4分の1を1ヵ月で解雇するほど経営がひっ迫していたのだ。
それでも、奔放に育ってきた小原さんには危機感がなかった。
「住む場所を取られ、仕事場所も取られて、なんでそうなるんだよ、と。だから、姉と一緒になって、本館と橋でつながっている離れの水明荘を全部くれと父親に言いました。気の利かない社員しかいないだろうから社員も選ばせてもらうし、いなかったら雇うからねって」
水明荘と嬉野川
この時、23歳。失礼ながら、完全に世間知らずのドラ息子である。
父親に無理な要求を突き付けた結果、無残な展開になる。当時、和多屋別荘のコンサルタントをしていたK氏が、父親、小原さん、お姉さんのいる席で、こう切り出したのだ。
「会社を取るのか、異分子を切るのか選んでください」
この言葉を聞いた瞬間、小原さんは「このコンサル馬鹿やねー」と呆れていた。父親が子どもたちを切り捨てるわけがない。それが甘かった。しばらくして、父親から「出ていってくれ」と言われたのである。まさに青天の霹靂。この瞬間、収入も、仕事も失い、小原さんの「おぼっちゃん生活」は終わりを告げた。
極貧時代を経て丁稚奉公に
父親と再会したのは、3年後だった。その間、小原さんは姉と一緒に父親と離婚して福岡に住んでいた実母のマンションに身を寄せ、母子三人で暮らしていた。
仕事は、姉と自分のなけなしの貯金300万円を合わせてIT企業を作り、ホームページやチラシの製作、ネットショップの運営を始めたが、まったくうまくいかず、「極貧時代」に突入していた。
「和多屋別荘という看板も、親父の後ろ盾もない。ただの23歳と26歳のちんちくりんの娘と息子がやった会社なんて、誰も相手にしないっていうのが世の中ですね。ひとり女性スタッフがいて、その方に給料の15万円を支払うために仕事をしているようなもので、あとは僕と姉貴のポケットに入っているお金が全財産というような生活でした」
父親と再会した頃、和多屋別荘は実の子どもを追い出すという身を切る改革が功を奏して見事に再生を果たしていたが、ふたりが戻る余地はない。
父は小原さんに「経営の勉強しにKさんのところに行け」と言った。小原さんは唖然としてすぐに席を立った。ところがその日の夜、苦楽を共にしてきたお姉さんが意を決したようにこう言った。
「多分、行った方がいい」
この言葉を聞いて、小原さんはハッとした。そして、ようやく気づいた。
「ひょっとしたら、僕は人生を踏み外してんのかな」
当時、お姉さんは交際相手と結婚することが決まっており、もう一緒に会社を運営することもできない。恐らく、弟の行く末を心配しての発言だったのだろう。同志のような存在だった姉の言葉を受けて、小原さんはKさんのもとに向かった。ここから怒涛の巻き返しが始まった。
ドラ息子の強み
Kさんの会社は旅館の再生事業を手掛けており、たった5人で80社のコンサルを請け負うスペシャリストの集まりだった。その仕事ぶりを見て、家を出てから3年間、自分と姉がやってきたことは「ままごとに見えた」。それから小原さんは目が覚めたように、365日、ほぼ休まず無給で働いた。丁稚奉公のようなものである。
ところが2年目に入る頃、父親とKさんが揉めて訴訟沙汰になり、Kさんのもとを離れざるを得なくなった。そこで、Kさんのもとで学んだことを活かそうと、会社を立ち上げて、和多屋別荘の敏腕フロントマンで、父親の命を受けたAさんと旅館の再生事業を始めたのである。26歳の時だった。
たった1年、丁稚奉公をしただけで何ができるのかと思うかもしれないが、この事業は10年続き、計70軒の旅館を再生させることができたという。スペシャリストたちのもとで学んだ経験は大きかったのだろうが、理由はそれだけではない。
「再生を余儀なくされる旅館の経営一族は、全て僕と一緒です。ちんちくりん息子、ちんちくりん娘が会社をダメにしていたんです。だから社長には、あなたの息子さんがこの会社潰しますよ、会社が潰れたら全社員、一族が路頭に迷いますけどどうしますか?という話をして。もちろん息子にもどんどん厳しいことを言って、一念発起したらそこからが再生のスタートです。
この仕事をして分かったのは、数十社見せてもらって、僕ほどズレてる経営者の息子はこの世にはいないということでした(笑)」
「若い時は勘違いをしていた」と笑顔で振り返る小原社長
誰よりもズレていたからこそ、ズレている人の気持ちがわかった。その人が経営の足を引っ張っていることも分かった。自分が父親にクビを切られたことで会社が復調したことを知っているから、真実味を持ってクライアントに伝えることができた。なにより、家から放り出された経験があったからこそ、信頼を得ることができたのである。
逆風が追い風に変わる時
軌道に乗った再生事業を離れて、2013年、和多屋別荘に戻ることになったのは、再び経営危機に陥っていたからだ。一度目の時よりも経営状態が悪いなかで、小原さんは、再生事業で手を組んでいた弁護士、会計士、コンサル仲間を役員に入れて、35歳にして社長に就任した。
最初に始めたのは取引先からの信頼の回復、そして一緒に働く従業員たちとの信頼関係の構築だった。詳しい再生事業の話は省略するが、例えば子どもの日には、従業員用の自動販売機をこっそり「お金を入れなくてもボタンを押せば出てくる」状態にして従業員を驚かせたり、何かの折には社員食堂で佐賀牛を振る舞うなど、身近なところから次々と自身のアイデアを活かしていった。
館内のいたるところに高級チェアが置かれている。これも小原社長のアイデア
こうして2年半をかけて信頼を再構築すると、自然と追い風に変わり始めたという。同時に大工小屋を作ってスピーディーかつフレキシブルに古くなった部屋のリノベーションを始め、「嬉野茶時」などの活動で宿に活気を吹き込むと、経営は次第に回復していった。
和多屋別荘の屋台骨
宿のなかに足を踏み入れると、印象的なのは小原さんがデザインし、大工さんが作った鉄のパイプを加工した和モダンな花器が館内のいたるところに置かれ、すべてに色とりどりの生花が飾られていること。
宿泊者のアンケートにも、生花の装飾について触れられることが多いそうだが、これも和多屋別荘らしいエピソードが隠されている。
「お掃除の方をいれると、正社員とパートを合わせて180人くらい働いているんですが、みんな花を持ってきてくれるんですよ。花器は全部で200~300か所あるんですけど、月の花代の予算は5万円ですから。それで、毎日、エグチさんという60代の古株の方が花を入れ替えてくれるんです。
若いスタッフがフロントで頑張ってくれて経営が成り立っているんですけど、大工さんやエグチさんの存在が和多屋別荘の屋台骨ですね」
毎日、広大な宿のなかに生花を飾るというと多額のコストをかけて業者に依頼すると想像してしまうが、コストはなんと月5万円。従業員もきれいな花が飾られているところで働く方が気持ちいいし、お客さんにも喜んでもらえるなら、花を摘んで持っていこうと思うのだろう。コストを懸けずとも、考え方ひとつで環境は大きく変わるのだ。
2万坪の敷地の管理人
小原さんが戻ってきて、5年。就任当初から売り上げがいつ倒産してもおかしくないとう危機的状況を脱し、売り上げを伸ばしているが、小原さんのアイデアは尽きない。
「離れにある水明荘は、いずれ独立させて水明荘という数寄屋造りの宿として世に出したいんですよね。まだアイデア段階ですが、思い切って地下の宴会場と1階のショップをつないで、ツタヤのような素敵な図書館にしたいと思っています。
あとは、テナントリーシング業。2万坪の敷地のなかにデッドスペースがいくらでもありますから、レストランとかスパ、カフェ、セレクトショップなど20〜30店舗は入れたいですね。そのうちの5軒くらいは直営で、残り25軒はテナントにするイメージです。僕は2万坪の敷地の管理人としか思っていないので、それをどう活用するのか、いつも考えています」
小原さんの話を聞いていて、「転がる石には苔が生えない」という言葉を思い出した。もちろん、アメリカで使われている、動き続けることで常にフレッシュであるという意味だ。築68年の宿ながら、小原さんのもとで和多屋別荘はとどまることなく姿を変え、苔むすことなく生花のようにみずみずしく輝き続けるのだろう。
<取材協力>
和多屋別荘
代表取締役 小原 嘉元(こはら よしもと)さん
文 : 川内イオ
写真 : mitsugu uehara