谷の間に間で世界を思う

こんにちは。ABOUTの佛願忠洋と申します。

ABOUTはインテリアデザインを基軸に、建築、会場構成、プロダクトデザインなど空間のデザインを手がけています。隔月で『アノニマスな建築探訪』と題して、

「風土的」
「無名の」
「自然発生的」
「土着的」
「田園的」

という5つのキーワードから構成されている建築を紹介する第6回目。

今回紹介するのは、特別史跡旧閑谷学校
所在地は岡山県備前市閑谷784

旧閑谷学校は岡山藩主の池田光政が重臣の津田永忠に命じて1670年に設立した日本最古の庶民のための学校である。
津田永忠は日本三名園の一つ後楽園の築庭や、旭川の氾濫から岡山城を守るための放水路である百間川の築造などに尽力した岡山藩士である。

岡山県備前市の閑谷学校へ向かう道

この地へは電車だとJR山陽本線の吉永駅からタクシーで10分ほど、車だと山陽自動車道の備前インターを降りて10分前後で、入り口のすぐ前にたどり着く。実は少し手前の分岐に徒歩専用の旧道があるのでその道をお勧めしたい。

山の中の小道を進んでいくと、古いトンネルがある。先日の大雨で少しトンネル手前の崖が崩れてはいたが、重機をちょうど入れて工事をしていたので、おそらく今は問題なく通れると思う。

トンネルを抜けると、開けた明るくそして緑に囲まれた閑谷学校の建物群が現れる。

岡山県備前市の閑谷学校へ向かうトンネル
岡山県備前市の閑谷学校へ向かう道
岡山県備前市の閑谷学校へ向かう道

まず目に入るのが大きなモグラが通ったかのような地面がモコッと立起したような塀である。

半円のカマボコのような断面をした分厚い石塀が敷地の外区に沿ってうねうねと走る。石塀には4つの門があり、一番東側の門に入館の受付がある。

門をくぐると芝生に覆われたサッカーコート1面分はあるのではないかと思われる広庭が広がる。

岡山県備前市の閑谷学校
岡山県備前市の閑谷学校

北側は斜面となっていて、階段で上がった先には、創設者の池田光政をまつった閑谷神社(右側)と、儒学の祖である孔子をまつった聖廟(せいびょう)が並んでいる。

この二つの建物はほぼ同じ構成で作られ、四方を練塀で囲い、中心に社殿を配置している。

閑谷神社の地面は聖廟の地面より約1m下げてあり、そのため神社の練塀の高さと聖廟の連塀の高さが違うことから赤茶の瓦が何層にも連続したように見える構成となっている。

岡山県備前市の閑谷学校
岡山県備前市の閑谷学校
岡山県備前市の閑谷学校

広庭の西側には、講堂が妻面を見せて建っており、南側と東側は前述の石塀である。

建物と石塀と山に囲まれた平地に立つと、自然の地形の中に生み出されたきめ細やかな計画的配置は本当に美しく感動をおぼえる。

岡山県備前市の閑谷学校

講堂は閑谷学校のなかで最も規模が大きい建物で、毎月1と6が付く日に儒学の講義が行われたという。

現存の講堂は1701年に建て替えられたもので、桁行7間、梁間6間の建物に、備前焼の瓦でふいた入母屋造、しころ葺きの大屋根が載っている。

岡山県備前市の閑谷学校

講堂に付属して、毎月3と8が付く日に儒学の講義が行われた習芸斎や、休憩室として使われた飲室などの棟が続いている。

飲室の中央には花崗岩をくり抜いてつくった約1m四方の炉が入る。炉縁には火の用心から薪の使用を禁じ、炭を使うよう文字が刻まれている。

柱の見込みが深く、メリハリのある陰影を大きな白壁につけている。
いずれも彫刻や装飾が一切ない合理主義的な建築である。

岡山県備前市の閑谷学校内部

また南側には離れの小斎がある、これは1677年に藩主の池田光政や歴代藩主が臨学した際の休憩所で、簡素な数寄屋造である。

3寸(9cm)角の細い柱、細い垂木、薄くシャープな軒反りを持つ柿葺の屋根。棟には備前焼瓦が載せられている。

岡山県備前市の閑谷学校

そして講堂の西側にはぽつんと文庫が建っている。堅牢で耐火に優れた土蔵造。重要な書物を所蔵していたようである。

外壁は白漆喰で塗り固め、上部には炎返しが回り、漆喰屋根の上に、備前焼瓦を葺いた置屋根を被せた造りである。

岡山県備前市の閑谷学校に建つ文庫

横の小高い丘が敷地に突き出ている部分は火災の延焼を防ぐために設けられた火除(ひよけ)山である。
見た目だけでなく、機能を持ったこの丘は学生たちの宿舎があったエリアと講堂部分を緩やかに分断する。

火災の延焼を防ぐために設けられた火除(ひよけ)山

芝生をてくてくと歩き、靴を脱ぎ講堂の中へ。

外側を約一間の縁が回り、ぐるっと一周することができる。花頭窓を通して内部をのぞくと、床は漆塗りで黒光りしている。
内部には10本の丸柱が立っており、この柱が緩やかに内と外を分けている。

この建物の空間構成は、中心から外側に向かって、内室、入側、縁という3重の入れ子構造。

岡山県備前市の閑谷学校の講堂
岡山県備前市の閑谷学校の講堂

こうした複数のレイヤーで構成された建築は仏教寺院などにも見られるが、寺の本堂ではその中心にあたる内陣にご本尊が安置されているものだ。しかしこの講堂の内室に置かれているのは、素読のときに使う書見台だけである。

岡山県備前市の閑谷学校の講堂内
岡山県備前市の閑谷学校の講堂内

講堂の広縁に腰を下ろして庭を眺めていると、入れ子状の構造は、建物の外側に広がるランドスケープでも共通していることに気付く。

講堂の外側にはまず芝の広庭、用水路、石塀、通路、用水路、という囲いがあり、そのさらに外側には、盆地を囲む山々がある。

閑谷学校は、建物のインテリアから周囲の地形に及ぶ7重の囲いで出来上がり、しかも、それぞれのゾーンを区切っている囲いは、仕切りが緩やかである。

岡山県備前市の閑谷学校

内室と入側の間には建具があるわけではなく、床は同じレベルで連続している。
また入側と広縁の間も、障子を開け放てば、視線は外の庭へと抜けていく。

岡山県備前市の閑谷学校
岡山県備前市の閑谷学校

石塀も厚みはあるが高さは低く、外側の山を借景として取り込んでいる。
このような開放的な多重の入れ子構造が、この建築の最大の特徴である。

岡山県備前市の閑谷学校

開館前に到着したこともあり、雨戸が閉まった状態の講堂が、職員の皆さんで雨戸をあけ、講堂に朝日が差し込み透明になっていく姿は、庶民を広く受け入れ、教育を施す場としてふさわしい形のように感じた。

学生たちはこの学校で学びながら、この多重的な空間構成を頭の中で広げ、山の向こうにある日本、さらには日本の外にある世界のことを思い描いていたのではないだろうか。

岡山県備前市の閑谷学校

佛願 忠洋  ぶつがん ただひろ

ABOUT 代表
ABOUTは前置詞で、関係や周囲、身の回りを表し、
副詞では、おおよそ、ほとんど、ほぼ、など余白を残した意味である。
私は関係性と余白のあり方を大切に、モノ創りを生業として、毎日ABOUTに生きています。

http://www.tuoba.jp

文・写真:佛願 忠洋

暑い夏を乗り切る「涼生活」を、京町家のすだれに学ぶ

今年の夏は、本当に暑い日が続きますね。エアコンを一日中つけっぱなし、というお宅も多いのではないでしょうか。

エアコンや扇風機といった家電製品のなかった時代、人々はどのように暑さをしのいできたのでしょうか。

暑さをしのぐ昔ながらの生活の知恵を求め、古来より「夏が暑い街」として知られる京都市を訪ねました。

京町家には、涼しく過ごすための知恵が盛りだくさん

京都市は三方を山に囲まれた盆地。夏は蒸し暑く、冬は底冷えがするという、寒暖差の激しい気候です。

もともとの気候に加えて、京都の町家は「うなぎの寝床」とも呼ばれるように、間口が狭く、奥行きが深い間取りをしています。さらに、隣の家とも接して建てられているため、京都の町家にとって風の通りはとても重要でした。

そのため京都の町家には、少しでも涼しく過ごせるよう、様々な仕掛けが施されています。

例えば、通りに面した窓には「表格子」を取り付けて風が入るようにしたり、家の表から奥までを「通り庭」と呼ばれる土間で貫き、風の通り道を作ったり。

打ち水も、温度差を作って風を起こす、昔ながらの知恵のひとつです。

町家の表格子。風や光を通しつつも、外から内を見えにくくする効果が
町家の表格子。風や光を通しつつも、外から内を見えにくくする効果が

また、京都の街を歩いていると目に留まるのが、町家の二階に掛けられた「すだれ」。

昔ながらの暮らしの道具であるすだれも、京都の暑さ対策として誕生しました。

2階のすだれは目隠しの意味もあり、京都の町家では一年中掛けられています
2階のすだれは目隠しの意味もあり、京都の町家では一年中掛けられています

近年、すだれは節電対策としても注目されています。エコで涼しいすだれと京都の夏との関係を、老舗すだれ店に教えてもらいました。

老舗すだれ店・西河。八坂神社の目の前に店を構えています
老舗すだれ店・西河。八坂神社の目の前に店を構えています

京町家の衣替え。五感で涼を感じる京都の夏座敷とは

お話を伺ったのは、竹と京すだれ「西河」の7代目当主、西河雄一さん。

西河は天保2年(1831年)に葦(よし)すだれ商として京都にて創業し、以降180年以上続く老舗のすだれ店です。

老舗すだれ店・西河の7代目、西河雄一さん
老舗すだれ店・西河の7代目、西河雄一さん
店内には様々な種類のすだれが
店内には様々な種類のすだれが
西河ではすだれ以外の京竹工芸も扱っており、海外の方も多く訪れます
西河ではすだれ以外の京竹工芸も扱っており、海外の方も多く訪れます

「もともと宮中や武家で、身分の高い人と低い人との空間を隔てるために使われていた『御簾(みす)』が、現在のすだれの原型です。明治時代初期に士農工商の身分制度が廃止されたのを機に、当店の2代目が一般の人々も使える暑さよけの道具として、『お座敷すだれ』を考案し、普及させました」

八坂神社の御簾。一般に使われる現在のすだれよりも、豪華な装飾がなされています
八坂神社の御簾。一般に使われる現在のすだれよりも、豪華な装飾がなされています

空間を隔てるための道具であった御簾は、実用性のあるすだれとして京都の人々に広く愛されるようになります。

そして、衣替えの時期に建具をすだれに掛けかえるのが、京都の夏のスタンダードになっていきました。

「基本的に、6月1日から9月30日までの衣替えの時期に、京都の町家も夏仕様に変身します。ふすまを『夏障子』(すだれをはめ込んだ戸)に、障子をお座敷すだれに替え、畳の上にはあじろを敷くことで、京都の夏座敷は完成します。風通しも良くなりますし、見た目からも触感からも涼しさを感じられるようになります」

建具を夏障子とすだれに取り替えた、京都の夏座敷
建具を夏障子とすだれに取り替えた、京都の夏座敷

「打ち水や風鈴もそうですが、暑い京都では昔から、五感を通して涼しさを感じる工夫がなされてきたのです」

すだれの入った屏風。すだれは程よく日を遮り、透け感が涼しさを演出してくれます
すだれの入った屏風。すだれは程よく日を遮り、透け感が涼しさを演出してくれます

職人が手作業で作り上げる、純国産のすだれ

西河が取り扱うすだれは、大きさや用途も多種多様。いずれも国産の素材にこだわって、京都の職人の手で作られています。

屋内で使うお座敷すだれには、風通しを良くする効果が。京都産の真竹を使用しており、周囲には西陣織の縁が縫い付けられています。

お座敷すだれ。2mmほどの太さの竹ひごで編まれており、西陣織の縁も美しい
お座敷すだれ。2mmほどの太さの竹ひごで編まれており、西陣織の縁も美しい

屋外で使う外掛けすだれは、直射日光を遮るために使用します。国産の葦(よし)やガマで作られ、中でも最高級品には琵琶湖産の葦が使われます。

外掛けすだれ。左側がガマ製、右側が葦(よし)製
外掛けすだれ。左側がガマ製、右側が葦製

「それぞれ、職人さんたちが分業で作り上げています。天然の素材を採りに行くところから始まり、皮をむき、竹を割って乾燥させ、選別し、編み、縁や房を付けて、ようやく完成です」

竹の甘皮をむき、均等な太さになるよう徐々に細く割っていきます
竹の甘皮をむき、均等な太さになるよう徐々に細く割っていきます
手動式の機械ですだれを編み上げていきます。こちらは葦の外掛けすだれを編んでいるところ
手動式の機械ですだれを編み上げていきます。こちらは葦の外掛けすだれを編んでいるところ

「非常に手間のかかる仕事をしているため、値段もそれなりにします。しかしその分、ホームセンターなどで売られている外国産のものより、見た目の美しさや作りの繊細さといった品質の良さはもちろんのこと、手をかけ丈夫に作られているため、長く使っていただけます」

西河さんによれば、風雨をうける屋外用すだれの寿命はおよそ5~10年。

屋内用すだれは、20年ほどで傷んでくる縁を取替えさえすれば、何十年と長く使えるものだそう。

「以前、私のところに傷んだ古いすだれが持ち込まれました。そのすだれには私の祖父の名前が刻まれており、なんと70年ほど前に当店で作ったものだと判明しました。縁を取り替え修理し、その後ももう何年も使っていただいています。すだれは使うほどに色も変化し、味も出てきます。それも、すだれを長く使っていただく上での楽しみのひとつだと思います」

竹ひごを使った建具が涼やかな店内
竹ひごを使った建具が涼やかな店内

効率よく室温を下げる、エコなすだれの選び方

最後に、西河さんにすだれの上手な選び方を教えていただきました。

「室温を下げたいということであれば、やはり直射日光を遮って、熱を屋内に入れないようにすることが一番重要です。ですので、屋外用の外掛けすだれか、屋内用の巻き上げ式すだれを窓際に設置していただくのが効果的です。マンションなどの洋式のお部屋でも、カーテンレールを利用すれば、手軽にすだれを掛けられます」

軒先に吊るして日光を遮る、外掛けすだれ
軒先に吊るして日光を遮る、外掛けすだれ
西河さんが考案した巻き上げ式のすだれ。カーテン代わりに利用する人も多いそう
西河さんが考案した巻き上げ式のすだれ。カーテン代わりに利用する人も多いそう

「すだれの寸法も重要です。例えば、西日は低い位置まで入ってくるので、西日の入る窓には足元までの長いすだれを掛けるようにします。反対に、南側の窓は太陽が高い位置にあるため、それほど長いものでなくても大丈夫です。

他にも、お宅の軒や塀・樹木の影によっても、必要な寸法は変わってきますので、実際にお宅へ出向いて最適な商品をご提案させていただくことも多いです。ご購入いただく際には、場所に合わせて寸法をお選びください」

すだれを取り付けるための吊り具も、設置場所に応じて様々な種類が
すだれを取り付けるための吊り具も、設置場所に応じて様々な種類が

ちなみに、すだれに水を吹き付けて使用すると、さらに涼しさはアップするようですが、編糸が弱くなって壊れやすくなるため、おすすめはしないとのこと。

夏を過ぎて片付ける際にも水拭きはせず、はたきなどでホコリをはたく程度にしたほうが、長持ちするそうです。

昔ながらの日本の暮らしの道具、すだれは、暑い京都の夏を涼しく過ごすために生まれ、現在も京都の街中で愛用され続けていました。

熱中症対策にも節電対策にも効果のある、すだれ。五感を使って涼を感じる、京都の町家の知恵を上手に取り入れて、エコな涼生活を始めてみませんか。

<取材協力>
西河株式会社
京都市東山区祇園町南側542
075-561-1269
https://www.kyoto-sudare.jp/

文・撮影:竹島千遥
写真提供:西河株式会社

5分で生命を生み出す、超絶技巧の飴細工職人

棒の先にくっついたゴルフボールほどの飴(あめ)が、5分もすると水のなかに入れたらヒュッと泳ぎだしそうな金魚に変わっていく。

ガラスの仕切りに顔を寄せて、その様子を熱心に眺めている外国人の女の子がいた。中学生ぐらいだろうか。

僕が「あれはキャンディだよ。食べることができるんだ」と話しかけると、目を真ん丸にして「ワオ!」と小さく叫んだ後、近くにいた母親のもとに駆けていき、なにやら熱心に訴えていた―。

90度に熱して柔らかくなった水飴を指先で捏ね、つまみ、握りばさみで形を整えることで、まるで命ある生物のような躍動感を持つ飴細工を生み出す若き職人がいる。飴細工「アメシン」を経営する手塚新理(てづかしんり)さん、28歳だ。

飴細工職人として異色の経歴を持つ手塚新理さん
飴細工職人として異色の経歴を持つ手塚新理さん

職人といえば、熟練のベテランについて何年も修行を重ねて、技術と心得を身に着けるというイメージがある。しかし、手塚さんに師匠はいない。ほぼ独学でいまの技術を磨き上げてきた。

なぜ独学なのか。そもそも、なぜ飴細工なのか。水晶のように透き通る飴を通して、手塚さんは何を見ているのだろうか。

小学生のときに「ものづくりをして生きる」と決意

物心ついたときから、手塚さんのおもちゃは工具だった。日曜大工が好きな父親が買い揃えた工具をいじり、「ほしいものは作る」という少年時代を送っていた。

「小さいときから、何かを買い与えるというよりは、自分でなにかつくって遊びなさいという家でした。絵を描いたり、なにかを彫ったり、手先を動かして遊ぶのが好きでしたね。鉄を切る工具も家にあったので、小学生のときの夏休みの自由研究では、ナイフを作って提出したこともあります。先生からしたら、お前、どんな工具使ってんだよという感じですよね(笑)」

なにかを作り始めると、ご飯を食べるのも忘れるほど熱中した。空腹で気持ち悪くなるまで、手を動かし続けた。父は不動産業を営んでいて、母もモノづくりとは縁のない生活をしていたが、幼いながらに時間を忘れて絵を描き、彫刻し、工具を使いこなす息子に口を出さず、見守った。

「いわゆる子どもが欲しがるものは買ってくれないけど、こういう工具が欲しいというと買ってくれました。そういう意味での英才教育は受けていたのかな」

90度に熱した、火傷しそうなほどに熱い飴細工を指で引き延ばしていく
90度に熱した、火傷しそうなほどに熱い飴細工を指で引き延ばしていく

小学生のときからすでに「絶対に、ものづくりの世界で生きていくんだ」と心に決めていたという手塚さん。地元の千葉県八街市の中学を出た後は、木更津にある木更津高等専門学校に進学した。高等専門学校(以下、高専)とは、機械、コンピューターなどより専門分野に特化した学業の習得を目指す5年制の学校だ。

「いい環境でものづくりを学ぶなら高専」という理由で選んだ学校だったが、機械科に入学してしばらくすると、何か違うと思い始めていた。自分で手先を動かす職人的な側面よりも、エンジニアや研究者を養成するようなカリキュラムだと感じたからだ。

前代未聞の就職先

2年生になった頃には「このまま高専でお利口さんに勉強していてもつまらないし、自分の思い描くような未来はない」と、学校の外に目を向けるようになった。当時の手塚さんは、部活動で空手をやりながら、バイクを乗り回す毎日だった。「刺激に飢えていた」という日々のなかで、ふとした瞬間に閃いた仕事が花火師だった。

「クリエイティブな感覚が昔から強かったから、感受性とか創造性と職人としての技術がかけ合わさった世界で勝負したいなと思っていました。花火師は、刺激、ものづくり、感性という要素が揃っていてぴったりだった」

握りばさみで細かく刻み、形を整えてリアルな躍動感を出していく
握りばさみで細かく刻み、形を整えてリアルな躍動感を出していく

子どもの頃からやりたいことには没頭する性格だった手塚さんは、火が付いたように勉強を始め、高校3年生のときには火薬を無制限に取り扱える国家資格を取得。その資格を持って近隣の花火店に「働かせてほしい」と直接アプローチし、アルバイト先を見つけた。最初は雑用係だったが、花火師も若手が不足しているので歓迎された。学校をさぼって花火を打ちに行ったりしているうちに、職人の手仕事や現場の緊張感に惹かれていった。

専門技術と理論を叩き込まれる高専の学生は企業から引っ張りだこで、就職倍率が数十倍に達するそうだ。大学と同じように4年生になると就職活動が始まり、大手メーカーから内定を得る学生も続々と出てくる。

そのなかで、手塚さんは「花火師になる」と宣言。高専から花火師になる生徒は前代未聞で、教師や同級生は呆気に取られて言葉を失っていたそうだ。

たいていのことには動じない父親からは「花火の事故で中途半端にケガをするぐらいなら、きれいに死ねよ」と言われただけだったが、母親には「危ない仕事はやめてほしい」と止められた。それでも気持ちは揺るがず、アルバイト先にそのまま就職を決めた。

よみがえった夏祭りの思い出

ところが、それからわずか1年で花火師の仕事を辞めた。そこには、手仕事に懸ける譲れない想いがあった。

「社員として働き始めてわかったんですけど、いまは安い花火でいいからたくさん打ち上げてほしいという花火大会が増えているんですよ。もちろん、職人を大切にしている地域もあるし、ひとつひとつの花火にプライドを持っている職人もたくさんいます。でも、一時期は海外製の安い花火がどんどん輸入されて、質より量になっている流れがあった。僕は手仕事にこだわりたかったから、それが納得いかなかったんです」

花火師は命を懸ける仕事である。職人は、誰もが死と隣り合わせの職場で精魂込めて作り上げた花火に誇りを持っている。

しかし、大量の安い花火に埋もれ、たいして評価もされずに消費されていく。その現実を目の当たりにするのは、どんな気分だっただろう。手塚さんは、社長に「来年から中国工場の責任者をやってほしい」と言われたのをきっかけに辞表を提出。花火の世界を後にした。まだ21歳だった。

無職になって実家に戻った手塚さんは、これから自分の進むべき道を定めるために、本を読み、調べ物をして過ごした。

心配した高専時代の教師が中途採用の求人を紹介してくれたり、「うちで働かないか」と声をかけてくれた花火屋もあったが、手塚さんは「本当にやりたいことを実現するためにはどうすればいいか」を考え続けていた。

するとある日、過去の記憶がよみがえた。子どもの頃、父親と行った夏祭り。飴細工の屋台の前を通りがかったとき、父親がなにげなく言った言葉。

 

「お前、飴細工でもやれば?」

生き物を造形するときは身体の太さも形もひとつひとつ変えている
生き物を造形するときは身体の太さも形もひとつひとつ変えている

ああ、そういえば飴細工ってあったな‥‥と思った手塚さんは、飴細工とその仕事について調べてみた。

わかったのは、市場が衰退した結果、技術を学べる場所どころか、飴細工を仕事にしている人もほとんどいないということだった。いたとしても祭りの屋台レベルで、修行するという雰囲気ではない。

その一方で、飴細工自体には魅力を感じた。作る過程を見せながら、短時間で何かしらの形を表現するという仕事は、感性と技術が問われるし、緊張感もある。

手塚さんは、急激に胸が高鳴るのを感じた。

「これ、すごいチャンスだなって思ったんですよ。なんでこんなに面白そうなものなのに、誰もちゃんとやってないんだろ?って。もし本腰を入れてやったら、5年で業界の現状を引っ繰り返せるなと思いました」

「伝統だから偉い」では食っていけない

もともと、ヒリヒリするような刺激を求めて花火師になった手塚さんにとって、衰退しきった飴細工の業界にひとりで乗り込むこともまた、大きな刺激になったのだろう。

やると決めたら一直線。手塚さんは、親子が参加するような飴細工のワークショップで基礎の基礎を学ぶと、あとは家の台所で材料から研究し始めた。このとき、「実験して、データを出して、それをもとにまた実験をする」という高専時代に学んだ勉強方法が役に立った。温度や配合を変えて、飴細工をつくるのにベストになる材料を見極めた。

両親に「この子は大丈夫か?」と不審に思われながら、実験と実践を重ねて1年。ある程度、自分が思うような形を表現できるようになると、ホームページを立ち上げてイベント制作会社に売り込んだ。このときすでに、手塚さんがつくる飴細工は現在と共通する躍動感のあるリアルな造形になっていた。それは、技術を突き詰めていく過程で生まれた。

「僕は技術というものに執着していて。飴細工に限らず、技術のある人は思い描いたものをちゃんと形にできるんですよ。どんなものでも再現できるということが、技術があるということ。そうであれば、リアルなものを作れて当然ですよね」

一度、形を作って冷やしたものを熱して艶を出し、さらに細かい部分を整える
一度、形を作って冷やしたものを熱して艶を出し、さらに細かい部分を整える
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色付けを経て完成した金魚の飴は、いますぐにでも動き出しそう(提供:アメシン)
色付けを経て完成した金魚の飴は、いますぐにでも動き出しそう(提供:アメシン)

手塚さんは技術を究めることにどん欲だが、技術さえあればお客さんがついてくる、とは考えなかった。日本の花火職人の技術は世界トップレベルだが、それがいまどうなったか? だから、パッケージのデザインや自分のスタイルなどの「見せ方」にもこだわった。

「飴細工って、江戸時代に始まったストリートパフォーマンスみたいなものなんですよ。だから、ちゃんとした巻物が残っているわけじゃないけど、それでも廃れずにいまの時代まで残ってきた。それは、何かしらの魅力があって、なおかつ時代に合わせて進化し続けてきたからだと思うんです。伝統だから偉い、同じものずっと守っているのが偉いのではなく、時代に寄り添って、人からいいねって思ってもらえるものをつくらなきゃいけない。それは、見せ方に関しても同じでしょう」

飴細工の完成度にうぬ惚れることなく、いかに戦略的に付加価値をつけるかに知恵を絞った手塚さんの飴細工は、斬新なデザインで際立ち、イベントに出展するごとに注目を集めるようになった。

その追い風に乗って2013年の秋、24歳のときに浅草に店舗「アメシン」を構えた。

内装、外装の施工はほとんど自力で行った。(写真提供:アメシン)
内装、外装の施工はほとんど自力で行った。(写真提供:アメシン)

お店を出すとリスクが大きくなりますが、不安はありませんでしたか? と尋ねると、手塚さんは首を横に振った。

「コンテンツ自体が面白いから、工夫次第ですごく可能性があると思っていましたから。それに、店自体もほぼ私の手作りなんですよ。ドアを立てたり、電気やガスの工事は業者に頼みましたけど、それ以外はだいたい自分と友人でつくったから、かなり安上がりでした。店ができたらあとはやるだけ。これで身を立てられなきゃ死ぬと思ってたんで(笑)」

職人のトッププレイヤーを目指して

意外なことだが、浅草に飴細工のお店はアメシンしかない。伝統が色濃く残る浅草で24歳の若者が個性的な飴細工のお店を開いたというニュースはあっという間に広まり、メディアにも取り上げられるようになった。浅草という観光客が多い土地柄、メディアに出るたびに、話題のお店をひと目見よう、お土産を買おうとお客さんが足を運ぶようになる。そのうわさを聞きつけて、またメディアが取材にくるという好循環が生まれ、2015年5月にはニューヨークでもその技を披露。さらに同じ年の7月には、スカイツリーのおひざ元にある「ソラマチ」からも出店のオファーが届き、2店舗目を出すことになった。

ソラマチ4階にあるアメシン2号店(提供:アメシン)
ソラマチ4階にあるアメシン2号店(提供:アメシン)

アメシンが軌道に乗ると、手塚さんに弟子入りしたいという若者も現れるようになった。それがひとり、ふたりと増えていって、現在7名が修業を積む。アルバイトを含めると総勢12名のスタッフを抱えるアメシンは、いまや業界最大手だ。

市場が縮小して職人が食えなくなり、後継者が不足して消滅の危機に陥るという負のスパイラルを独力で断ち切り、店舗を増やし、若者を引き付けている手塚さんは、飴細工の業界のみならず、後継者不足に悩むものづくりや職人の世界で異彩を放つ。

「うちわ」をモチーフにしたうちわ飴はソラマチ店限定商品(提供:アメシン)
「うちわ」をモチーフにしたうちわ飴はソラマチ店限定商品(提供:アメシン)

その意味を自覚する手塚さんは、飴細工という枠を超えて「職人・手塚新理」を最大限に活用しようとしている。

「私自身は自分のことを職人であり、プロデューサーでもあると思っています。職人としてはもっと技術を高められると思うし、プロデューサーとしては手塚新理を職人のトッププレイヤーにして、楽しく仕事をしながらしっかりと稼ぐ姿をもっと世界に向けて発信したいですね。

活躍する姿を見せて、次の世代から職人になりたいと思う人がどんどん出てきたら、面白くなりますよ。そのためにも、コツコツものを作っている人たちがもっと日の目をみる環境を作っていきたいし、手仕事にお金を落としてくれる仕組みづくりもしなきゃいけない。

飴細工と同じく、日本のモノ作りも見せ方が下手なだけでポテンシャルはあると思うから」

衰退しきっていた飴細工の世界に飛び込み、わずか7年で業界をけん引するまでになった男は、いま再び昂っている。

次のターゲットは、課題が山積みの日本のモノづくり。技術の尊さを知る職人の心とアメシンを世に出したプロデュース力の二刀流で、新風を吹き込む。

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<取材協力>
浅草 飴細工 アメシン
東京都台東区今戸1-4-3
03-5808-7988

文・写真:川内イオ

この記事は、2017年5月15日に公開したものを再編集して掲載いたしました

日本三大薬湯と里山料理が待っている。松之山温泉「ひなの宿 ちとせ」

3年に一度開催の「大地の芸術祭」がスタートした越後妻有。

せっかく訪れるなら、宿での時間も楽しみたいもの。今日は、とっておきの温泉旅館を紹介します。

1000万年前の化石温泉と郷土料理

新潟県十日町市に位置し、豊かな自然に囲まれた松之山温泉。有馬温泉、草津温泉と並ぶ「日本三大薬湯」の一つにも数えられます。

源泉は、地層の隙間などに閉じ込められた1000万年前の海水が噴き出す「化石海水」。

温泉と認められる基準値の15倍もの温泉成分が含まれており、その濃さゆえに「薬湯」と呼ばれているのだそう
温泉と認められる基準値の15倍もの温泉成分が含まれており、その濃さゆえに「薬湯」と呼ばれているのだそう

この濃厚な温泉に加えて、地元食材をふんだんに使った郷土料理が評判なのは、「ひなの宿 ちとせ」です。

ひなの宿 ちとせ
ひなの宿ちとせ客室例

広々としたお宿に着いてホッと一息。エントランスの足湯で少しゆっくりしたら、さっそく夕食をいただくことに。

「雪国だからこそ」の郷土料理と山菜

松之山のある十日町市は、日本有数の豪雪地帯。この地ならではの雪解け水がお米や山菜を美味しく育てるのだそう。テーブルにつくと、目の前には地元食材たっぷりのお料理がずらり!

ワラビ、そら豆、ふきのとうといった山菜の小鉢、さまざまな郷土料理が並びます
ワラビ、そら豆、ふきのとうといった山菜の小鉢、さまざまな郷土料理が並びます

手前のプレートには、料理の解説がついています。左から「あんぼ」、「醗酵豆腐」、「湯治豚」、「菜々煮」。どれも耳慣れない名前ばかりです。

解説書付きのプレート

実はこちらの4品、全て郷土料理を現代風にアレンジしたもの。

草餅のような姿の「あんぼ」は、大根菜などで作った餡を、くず米の皮で包んで焼いた伝統食。年配の男性陣にとって思い出深い料理なのだそう。

雪に閉ざされる冬に食料が限られる中、食べ盛りの男の子たちのお腹をいっぱいにさせようというお母さんたちが考えた料理でした。

お隣の「醗酵豆腐」は、豆腐を味噌にからめて熟成させ、ねっとりとしたチーズのように仕上げたもの。地酒との相性も抜群でした。

続いては、しっとりと柔らかく旨味たっぷりの「湯治豚」。地元のブランド豚「妻有ポーク」を温泉の熱だけで低温調理した、ネーミングセンスも光る一品です。

妻有ポーク
メインディッシュにも熟成地豚「越の紅」を使った湯治豚が登場。ナイフを使わずに切れてしまうほどの柔らかさと脂の甘みがたまりません

一番右は「菜々煮」。野菜を野菜の汁で煮たものを菜々煮と呼ぶそう。十日町の名産、甘みたっぷりの「雪下にんじん」を味わいました。

棚田の米と季節の具材でつくる「棚田鍋」

もう一つ、心に残ったのが十日町で採れた棚田米を使った「棚田鍋」。コシヒカリの重湯をベースにしたトロトロの鍋に、妻有ポークや新潟地鶏、地元で採れた季節食材を入れていただきます。大根おろしは、棚田に降り積る雪をイメージしているそうです。

棚田鍋
グツグツと食べ頃を待ちます

鍋には、ご当地唐辛子の神楽南蛮と麹で作った薬味「塩の子」と、おこげを入れて楽しみます。神楽南蛮の辛味と、おこげの食感が絶妙なアクセントに。

「塩の子」 神楽南蛮を細かくしたものと麹を混ぜ合わせて
こちらが「塩の子」

「人様に出すものではないと思っていた」

訪れた土地ならではのものが存分にいただけるというのは贅沢なものですね。

郷土料理の前菜をはじめとした、地元食材を使ったお料理の数々。訪れた人々を魅了する評判のメニューですが、始めるのには勇気が必要だったそう。

「この土地の郷土料理や山菜は、主に冬を越すための保存食。私たちにとっては日常的なもので、わざわざ遠方から来てくださったお客様のおもてなしに、お出ししていいものだろうか?と、躊躇する部分がありました」

「ちとせ」4代目の柳一成さん
「ひなの宿 ちとせ」 4代目 柳一成さん。松之山温泉の旅館、飲食店、住民が共同出資して立ち上げた旅行会社「松之山温泉合同会社まんま」の代表も務められています

「それでも、ここでしか味わえないものを召し上がっていただきたいという思いから、松之山の旅館で集まって、現代風にアレンジした郷土料理メニューを一緒に考えたんです」

この土地ならではのものを。その思いから、見事なおもてなし料理が生まれたのですね。

松之山では、お料理の他にも地域をあげて地元の魅力を発信しています。旅館、飲食店、住民が共同出資し旅行会社を立ち上げ、松之山を楽しむオプショナルツアーや商品を企画。

星空の下でホタルが舞うブナ林でのディナーイベント、温泉ガストロミー体験、ハイキングなどお話を伺うだけでワクワクします。次はどの季節に遊びに来ようかな。

顔を癒す温泉?

さて、宿をあとにしたら、近くにもう一つ立ち寄るべきスポットがありました。

地炉
ちとせから徒歩3分ほどの場所。古民家でしょうか?
箱の中から湯気が出ています
なにやら箱の中からもくもくと湯気が出ています

こちら「顔湯」なのです。顔湯?

こうして顔を近づけると温泉のスチームが!はぁ気持ちいい
こうして顔を近づけて温泉のスチームにあたります。気持ち良い!

高温の温泉を利用して作られています。薬湯の異名ある温泉のスチーム、しっとり美肌の予感。

松之山温泉を堪能して、すっかりリフレッシュ。今日も元気にアート作品を巡れそうです!

<取材協力>
ひなの宿 ちとせ
新潟県十日町市松之山湯本49-1
025-596-2525
https://chitose.tv/
松之山温泉合同会社まんま公式サイト
http://manma.be/

文:小俣荘子
写真:廣田達也

「大地の芸術祭」で人気のゲストハウス「ハチャネ」は、地元・十日町の暮らしを体感できる宿だった

3年に一度開催の「大地の芸術祭」がスタートした越後妻有。

せっかく訪れるなら、宿での時間も楽しみたいもの。今日は、とっておきのゲストハウスを紹介します。

個室に泊まれるゲストハウス

越後妻有エリア (十日町市・津南町) のターミナル駅、十日町駅から徒歩10分ほど。ゲストハウス「ハチャネ」は、地元の人々の通う味自慢の飲食店が立ち並ぶエリアにあります。

地域の交流やリーズナブルな価格が魅力のゲストハウスですが、加えてハチャネは全室個室。ビジネスホテルよりもアットホームでありつつプライベート空間のある安心感は、ドミトリータイプが苦手な旅行客や地元の人にも好評だそうです。

友人の家に遊びに来たようなカジュアルで安心感のある空間
友人の家に遊びに来たようなカジュアルで安心感のある空間
一人部屋
一人部屋
二人部屋
二人部屋

「この町のためになることを何かできればと思った」

「ハチャネ」とは、十日町の言葉で「またね」という意味。地元の人との交流を通して、十日町の仲間になってほしいという思いがこもった名前です。

ハチャネを経営しているのは株式会社YELL (エール) 。地域おこし協力隊がきっかけで十日町に暮らすようになった東京出身の4人 (高木千歩さん、小泉嘉章さん、小泉美智代さん、岩井佳子さん) が設立しました。

「十日町には、豊かな自然があり、芸術祭のように都会では経験できない体験をする機会も沢山あります。地域おこしに積極的で、地元の人はもちろん、市外からもパワフルで面白い人が多く集まっています。

そんな魅力を伝えていける場所を作りたいという思いでこのゲストハウスを作りました」

ゲストハウスの運営のみならず、十日町のおすすめスポットなどの紹介や農業体験などの交流の場作りを積極的に行なっているそうです。

晩御飯には、ぜひ十日町のクラフトビールと、地元食材でつくるシカゴピッツァを

この宿の魅力は食にもあります。

ハチャネの1階にあるピザとクラフトビールのお店 「ALE beer&pizza」。

エールがゲストハウスを始める前に、地元を盛り上げる事業の第一弾として、「十日町の人たちが、地元のモノをおいしく食べ、ワイワイ楽しめる場所を作ろう!」というコンセプトのもと立ち上げたお店です。お店には地元の方のみならず、県外からのお客さんも訪れます。

ALE外観

名物はなんといっても、十日町のクラフトビールと、地元食材で作った具沢山のピッツァ。

美味しいクラフトビールがいただけるALE
海外へも赴いて研究して作られた本格的なシカゴピッツァ
海外へも赴き、研究を重ねて作られた本格的なシカゴピッツァ

宿の一階にあるお店なので、気軽に訪ねられるのも嬉しいですね。地元のビールと料理を楽しみながら、十日町をぐっと身近に感じられそうです。

「十日町の朝」を体験

素泊まりスタイルのハチャネですが、オプションで十日町らしい朝ごはんを味わうことができます。

ハチャネのダイニング
ハチャネのダイニング

それは自分で炊いて食べる十日町産魚沼コシヒカリ。チェックイン時に申し込むと、炊飯器と必要な合数のお米を渡してくれます。

地元のお米をふっくらツヤツヤの炊きたてでいただく朝。十日町の人たちは毎日こんな朝を迎えているのでしょうか。なんとも幸せな気持ちになりました。

お味噌汁や簡単なおかずなども販売しています。おかずを買える地元のお店も紹介してもらえるということなので、スタッフの方へぜひ相談してみてください。

十日町での暮らしを身近に感じられる宿、ハチャネ。地元の魅力をたっぷりと味わいたい方におすすめです。

ハチャネ
http://hachane.com/
新潟県十日町市宮下町西267-1
025-755-5777

文:小俣荘子
写真:廣田達也 (一部画像:株式会社エール提供)

2020年東京五輪に向けて、世界をつなぐ着物をつくる。新潟・十日町の「すくい織」の制作現場へ

2年後に迫る東京五輪・パラリンピック。

各地で様々な準備が進行する中、着物産業の世界でも2020年に向けて「ある企画」が進んでいます。

企画の名前は「KIMONOプロジェクト」。世界196カ国の振り袖を制作する一大プロジェクトです。

「各国をテーマとする振袖をつくり、世界との交流を深めつつ日本文化を世界に発信する」ことを目指して、日本全国の産地の作り手が参画。すでに100着の振袖と帯を完成させています。

100カ国完成お披露目会の様子。米国の振袖 (左手前) には合衆国のコンセプトを表現する50州の州花、袖にはスペースシャトルや宇宙。英国の振袖 (中央) にはイングリッシュガーデンや、帯には映画『007』をモチーフとしたデザインが施されるなど、各国の歴史や特徴が織り込まれています
100カ国の完成披露式典の様子。米国の振袖 (左手前) には合衆国の50州の州花、袖にはスペースシャトルや宇宙。英国の振袖 (中央) にはイングリッシュガーデン、帯には映画『007』のイメージなど。各国を象徴するモチーフがデザインに織り込まれています
ベルギーの振袖。世界遺産のお祭り衣装や王宮のガラスの温室などをモチーフに描かれている
こちらはベルギーの振袖。世界遺産のお祭り衣装や王宮のガラスの温室などが描かれています
KIMONOプロジェクト
2016年に開かれたG7 (先進国首脳国会議) で ”おもてなし”に活用されるなど、早くも国際舞台で役割を担っています

十日町の職人が描く、アラビアの国「イエメン共和国」

着物の一大産地、新潟県十日町市もKIMONOプロジェクトに参加しています。今、まさに製作中の一着があると聞き、現場を訪ねました。

訪れたのは、伝統工芸士の市村久子さんのアトリエ。市村さんが描くのは、中東のアラビア半島南端部に位置するイエメン共和国です。

織機を扱う市村久子さん

イエメンは、紀元前8世紀頃から7〜8階建ての高層建築が500棟ほど密集するシバームの街や、人が住むなかでは世界最古の街・首都サナアの煉瓦造りの城壁、「インド洋のガラパゴス」と称される独特の動植物が生息する「ソコトラ諸島」など、歴史ある世界遺産を有する国。この国の振袖をデザインし、織り上げます。

イエメン大使館から提供されたイエメンの街並みの写真は織機の柱に貼られていました
イエメンの大使館から提供された街並みの写真が織機の柱に貼られていました

日本一と賞賛された、市村さんの「すくい織」

市村さんは、十日町に伝わる「すくい織」という織物を約30年にわたり手がけてきた方。

すくい織とは、木製の舟形をした織機用のシャトルに緯糸 (よこいと) を通し、経糸 (たていと) をすくいながら下絵の模様を織っていく技法。色とりどりの緯糸を用いることで、絵画的な表現ができることが特徴です。

作品を織る市村さん
作品を織る市村さん
すくい織の様子
シャトルで経糸をすくい、色糸で柄を描いていきます

KIMONOプロジェクトを主宰する一般社団法人イマジン・ワンワールド 代表の高倉慶応さんは、市村さんの作品を一目見て、「日本一のすくい織だ!」と感嘆の声をあげたのだそう。

市村さんの作品
絵画のような市村さんの作品
市村さんの作品
この絵柄のすべてが緯糸の色の組み合わせのみで表現されています

市村さんが織りなす色とりどりの精緻な柄は、見る者をうっとりと圧倒します。

緯糸の組み合わせだけで柄を描くすくい織。通常は部分的に柄を入れたり、パターン化することが多いそうですが、市村さんの作品は全体に絵柄の入った「総柄」と呼ばれるもの。高い技術と膨大な作業時間への根気と集中力が必要です。

この技をもってして、イエメンの独特の建物を描いたら素晴らしいものが生まれるのでは?という高倉さんの発想から、市村さんに依頼が舞い込みます。

市村さんの数々の受賞歴
すくい織の作品で、数々の受賞歴を持つ市村さん。新潟県の県展では、県展賞や奨励賞を何度も受賞。ついに2017年から無鑑査となりました

「ただ作品を作るのも楽しいですが、県展は受賞を目指して毎年切磋琢磨する腕試しの機会としていました。無鑑査になってからは他に何か張り合いになる、力を振り絞る機会がないかなと思っていました。

お話をいただいたとき、これはやりがいがありそう!とお受けすることにしたんです」と市村さん。

こうしてイエメンの振袖は市村さんのすくい織によって作られることになりました。

さてこの振袖作り、どのように進んできたのでしょうか。

「あなたの好きなようにやってください」

KIMONOプロジェクトでは、担当する国が決まると、大使館から資料提供を受けたり、デザインを相談するなど、その国と交流しながら製作を進めています。

「イエメンの大使館を訪れて、写真をたくさん見せてもらったり、郷土料理もご馳走になりましたよ。大使夫人とお嬢さんから、イエメンの歴史や魅力をたくさん伺いましたが、最後に『あなたの好きなようにやってください』という言葉をもらいました」

市村さん

「やはり特徴的な建物をメインに置いて、城壁は裾に描きたかった。それから、可愛いへんてこりんな木は入れたいなぁ、と肩に。裾には、民族衣装の縞模様を入れてみました。大使夫人が着用されていた美しいポンチョの縞を元に描いています」

写真を参考にデザインされた図案。イエメンの特徴的な城壁や建物、世界遺産にも登録されている、ソコトラ島の木も描かれている
市村さんのデザイン図案。中心となるのはイエメンの特徴的な城壁や煉瓦造りの建物。ソコトラ島で独自進化を遂げた木も描かれています。織物とは思えない細かさです

イエメンについて自身でも調べ上げ、描いた図案のラフを大使館と主宰の高倉さんに提案すると、一発OK。いよいよ製作が始まりました。

1日でわずか数センチメートル!膨大な時間をかけて描かれる景色

「スタートしてからは、ほぼ休みなく毎日朝9時から夜9時くらいまで織っています。ついつい夢中になってしまうんですよね。それでも1日で進むのはほんの数センチメートル。

やりたくてはじめましたが、こんなに細かい柄は初めて。それに、織物はなだらかな曲線は描きやすいのですが、建物などの縦線を描くのはすごく難しいんです。建物ばかりだから大変!

先が見えず、終わるんだろうかと不安になったり、大好きな機織りが嫌いになっちゃったらどうしよう?なんて思ったこともありました (笑) 」

笑う市村さん
大変!と言いながらも市村さんは楽しそう

「糸を解いてやり直す作業は時間がかかってしまうものなので避けたいんですが、建物の窓のところで失敗してしまって‥‥。でも間違うと次はできるようになっている、そういうのが嬉しいですね。自分への挑戦です」

経糸の後ろに下絵を敷いて織っていきます
経糸の後ろに下絵を敷いて織っていきます
織るときに見えるのは裏側。鏡を当てながら、表の柄の状態を確認する
織るときに見えるのは裏側。鏡を当てながら、表の柄の状態を確認するのだそう

砂漠の雰囲気を出したい!

絵画のように描くすくい織。市村さんのこだわりは、モチーフ選びやレイアウトのみにとどまりません。

「糸を染めて、試し織りをしてみて、何か物足りないなと感じました。砂漠の雰囲気を織込めないかな?と思ったんです。それで、あれこれと探して『野蚕糸 (やさんし) 』に出会いました。緯糸4本に一度入れてみたら、砂の感じが出てイエメンらしくなってきました」

野蚕糸とは、野生の蚕を用いて紡がれた天然のシルク糸。独特の風合いのある色が砂漠のイメージにぴったりです
野蚕糸とは、野生の蚕を用いて紡がれた天然のシルク糸。独特の風合いのある色が砂漠のイメージにぴったりです
糸を染めるところから市村さん自身が手がける。経糸が白なので、織ると全体の色が薄くなるのだそう。そのため緯糸は濃く染められています
市村さんが手がけるのは糸を染めるところから。経糸が白なので、織ると全体の色が薄くなるのだそう。そのため緯糸は濃く染められています

織物なのに自由に描けることが魅力

改めて市村さんにすくい織の魅力を伺いました。

「すくい織は、経糸が1色で、下絵を元に緯糸で柄を描いていきます。決められたものをひたすら織るのではなく、経糸の上で自由に絵が描ける織物なんです。

そして織ったところは全て手前に巻き取っていくので、終わるまで全体像が見えない。全て織りあがった時に、『どうなっているのかな?』と初めて作品の姿が見えるのもドキドキして楽しいものなんですよ」

経糸は1212本!
イエメンの振袖では、建物の窓の白さを表すために、経糸は白を使用。1212本の経糸が真っ白なキャンバスのように並んでいました

自分が着たいものを、大使母娘に似合うものを

普段、着物の図柄を考えるときは自分が着たいと思うものを描くのだそう。今回はそれに加えて、大使館で出会った大使夫人とお嬢さんに似合うものにしたいという思いがあったという市村さん。

「イエメンの方は日本人とは違った肌の色やお顔立ちなので、その魅力と調和する色合いを考えてデザインしました。

今年の天皇誕生日の祝賀行事で、大使夫人がこの振袖を着てくださるというお話もあるようなんです。それまでに仕上げねば!と、必死です」

市村さん

長い時間をかけながら市村さんが夢中に織るイエメンの振袖。できあがるまで全体の姿が見えないので、様子を想像してうずうずしました。早く見てみたい!今から完成が楽しみです。

KIMONOプロジェクト

http://piow.jp/kimonoproject/

文:小俣荘子

写真:廣田達也(一部画像提供:KIMONOプロジェクト)