棒の先にくっついたゴルフボールほどの飴(あめ)が、5分もすると水のなかに入れたらヒュッと泳ぎだしそうな金魚に変わっていく。
ガラスの仕切りに顔を寄せて、その様子を熱心に眺めている外国人の女の子がいた。中学生ぐらいだろうか。
僕が「あれはキャンディだよ。食べることができるんだ」と話しかけると、目を真ん丸にして「ワオ!」と小さく叫んだ後、近くにいた母親のもとに駆けていき、なにやら熱心に訴えていた―。
90度に熱して柔らかくなった水飴を指先で捏ね、つまみ、握りばさみで形を整えることで、まるで命ある生物のような躍動感を持つ飴細工を生み出す若き職人がいる。飴細工「アメシン」を経営する手塚新理(てづかしんり)さん、28歳だ。
職人といえば、熟練のベテランについて何年も修行を重ねて、技術と心得を身に着けるというイメージがある。しかし、手塚さんに師匠はいない。ほぼ独学でいまの技術を磨き上げてきた。
なぜ独学なのか。そもそも、なぜ飴細工なのか。水晶のように透き通る飴を通して、手塚さんは何を見ているのだろうか。
小学生のときに「ものづくりをして生きる」と決意
物心ついたときから、手塚さんのおもちゃは工具だった。日曜大工が好きな父親が買い揃えた工具をいじり、「ほしいものは作る」という少年時代を送っていた。
「小さいときから、何かを買い与えるというよりは、自分でなにかつくって遊びなさいという家でした。絵を描いたり、なにかを彫ったり、手先を動かして遊ぶのが好きでしたね。鉄を切る工具も家にあったので、小学生のときの夏休みの自由研究では、ナイフを作って提出したこともあります。先生からしたら、お前、どんな工具使ってんだよという感じですよね(笑)」
なにかを作り始めると、ご飯を食べるのも忘れるほど熱中した。空腹で気持ち悪くなるまで、手を動かし続けた。父は不動産業を営んでいて、母もモノづくりとは縁のない生活をしていたが、幼いながらに時間を忘れて絵を描き、彫刻し、工具を使いこなす息子に口を出さず、見守った。
「いわゆる子どもが欲しがるものは買ってくれないけど、こういう工具が欲しいというと買ってくれました。そういう意味での英才教育は受けていたのかな」
小学生のときからすでに「絶対に、ものづくりの世界で生きていくんだ」と心に決めていたという手塚さん。地元の千葉県八街市の中学を出た後は、木更津にある木更津高等専門学校に進学した。高等専門学校(以下、高専)とは、機械、コンピューターなどより専門分野に特化した学業の習得を目指す5年制の学校だ。
「いい環境でものづくりを学ぶなら高専」という理由で選んだ学校だったが、機械科に入学してしばらくすると、何か違うと思い始めていた。自分で手先を動かす職人的な側面よりも、エンジニアや研究者を養成するようなカリキュラムだと感じたからだ。
前代未聞の就職先
2年生になった頃には「このまま高専でお利口さんに勉強していてもつまらないし、自分の思い描くような未来はない」と、学校の外に目を向けるようになった。当時の手塚さんは、部活動で空手をやりながら、バイクを乗り回す毎日だった。「刺激に飢えていた」という日々のなかで、ふとした瞬間に閃いた仕事が花火師だった。
「クリエイティブな感覚が昔から強かったから、感受性とか創造性と職人としての技術がかけ合わさった世界で勝負したいなと思っていました。花火師は、刺激、ものづくり、感性という要素が揃っていてぴったりだった」
子どもの頃からやりたいことには没頭する性格だった手塚さんは、火が付いたように勉強を始め、高校3年生のときには火薬を無制限に取り扱える国家資格を取得。その資格を持って近隣の花火店に「働かせてほしい」と直接アプローチし、アルバイト先を見つけた。最初は雑用係だったが、花火師も若手が不足しているので歓迎された。学校をさぼって花火を打ちに行ったりしているうちに、職人の手仕事や現場の緊張感に惹かれていった。
専門技術と理論を叩き込まれる高専の学生は企業から引っ張りだこで、就職倍率が数十倍に達するそうだ。大学と同じように4年生になると就職活動が始まり、大手メーカーから内定を得る学生も続々と出てくる。
そのなかで、手塚さんは「花火師になる」と宣言。高専から花火師になる生徒は前代未聞で、教師や同級生は呆気に取られて言葉を失っていたそうだ。
たいていのことには動じない父親からは「花火の事故で中途半端にケガをするぐらいなら、きれいに死ねよ」と言われただけだったが、母親には「危ない仕事はやめてほしい」と止められた。それでも気持ちは揺るがず、アルバイト先にそのまま就職を決めた。
よみがえった夏祭りの思い出
ところが、それからわずか1年で花火師の仕事を辞めた。そこには、手仕事に懸ける譲れない想いがあった。
「社員として働き始めてわかったんですけど、いまは安い花火でいいからたくさん打ち上げてほしいという花火大会が増えているんですよ。もちろん、職人を大切にしている地域もあるし、ひとつひとつの花火にプライドを持っている職人もたくさんいます。でも、一時期は海外製の安い花火がどんどん輸入されて、質より量になっている流れがあった。僕は手仕事にこだわりたかったから、それが納得いかなかったんです」
花火師は命を懸ける仕事である。職人は、誰もが死と隣り合わせの職場で精魂込めて作り上げた花火に誇りを持っている。
しかし、大量の安い花火に埋もれ、たいして評価もされずに消費されていく。その現実を目の当たりにするのは、どんな気分だっただろう。手塚さんは、社長に「来年から中国工場の責任者をやってほしい」と言われたのをきっかけに辞表を提出。花火の世界を後にした。まだ21歳だった。
無職になって実家に戻った手塚さんは、これから自分の進むべき道を定めるために、本を読み、調べ物をして過ごした。
心配した高専時代の教師が中途採用の求人を紹介してくれたり、「うちで働かないか」と声をかけてくれた花火屋もあったが、手塚さんは「本当にやりたいことを実現するためにはどうすればいいか」を考え続けていた。
するとある日、過去の記憶がよみがえた。子どもの頃、父親と行った夏祭り。飴細工の屋台の前を通りがかったとき、父親がなにげなく言った言葉。
「お前、飴細工でもやれば?」
ああ、そういえば飴細工ってあったな‥‥と思った手塚さんは、飴細工とその仕事について調べてみた。
わかったのは、市場が衰退した結果、技術を学べる場所どころか、飴細工を仕事にしている人もほとんどいないということだった。いたとしても祭りの屋台レベルで、修行するという雰囲気ではない。
その一方で、飴細工自体には魅力を感じた。作る過程を見せながら、短時間で何かしらの形を表現するという仕事は、感性と技術が問われるし、緊張感もある。
手塚さんは、急激に胸が高鳴るのを感じた。
「これ、すごいチャンスだなって思ったんですよ。なんでこんなに面白そうなものなのに、誰もちゃんとやってないんだろ?って。もし本腰を入れてやったら、5年で業界の現状を引っ繰り返せるなと思いました」
「伝統だから偉い」では食っていけない
もともと、ヒリヒリするような刺激を求めて花火師になった手塚さんにとって、衰退しきった飴細工の業界にひとりで乗り込むこともまた、大きな刺激になったのだろう。
やると決めたら一直線。手塚さんは、親子が参加するような飴細工のワークショップで基礎の基礎を学ぶと、あとは家の台所で材料から研究し始めた。このとき、「実験して、データを出して、それをもとにまた実験をする」という高専時代に学んだ勉強方法が役に立った。温度や配合を変えて、飴細工をつくるのにベストになる材料を見極めた。
両親に「この子は大丈夫か?」と不審に思われながら、実験と実践を重ねて1年。ある程度、自分が思うような形を表現できるようになると、ホームページを立ち上げてイベント制作会社に売り込んだ。このときすでに、手塚さんがつくる飴細工は現在と共通する躍動感のあるリアルな造形になっていた。それは、技術を突き詰めていく過程で生まれた。
「僕は技術というものに執着していて。飴細工に限らず、技術のある人は思い描いたものをちゃんと形にできるんですよ。どんなものでも再現できるということが、技術があるということ。そうであれば、リアルなものを作れて当然ですよね」
手塚さんは技術を究めることにどん欲だが、技術さえあればお客さんがついてくる、とは考えなかった。日本の花火職人の技術は世界トップレベルだが、それがいまどうなったか? だから、パッケージのデザインや自分のスタイルなどの「見せ方」にもこだわった。
「飴細工って、江戸時代に始まったストリートパフォーマンスみたいなものなんですよ。だから、ちゃんとした巻物が残っているわけじゃないけど、それでも廃れずにいまの時代まで残ってきた。それは、何かしらの魅力があって、なおかつ時代に合わせて進化し続けてきたからだと思うんです。伝統だから偉い、同じものずっと守っているのが偉いのではなく、時代に寄り添って、人からいいねって思ってもらえるものをつくらなきゃいけない。それは、見せ方に関しても同じでしょう」
飴細工の完成度にうぬ惚れることなく、いかに戦略的に付加価値をつけるかに知恵を絞った手塚さんの飴細工は、斬新なデザインで際立ち、イベントに出展するごとに注目を集めるようになった。
その追い風に乗って2013年の秋、24歳のときに浅草に店舗「アメシン」を構えた。
お店を出すとリスクが大きくなりますが、不安はありませんでしたか? と尋ねると、手塚さんは首を横に振った。
「コンテンツ自体が面白いから、工夫次第ですごく可能性があると思っていましたから。それに、店自体もほぼ私の手作りなんですよ。ドアを立てたり、電気やガスの工事は業者に頼みましたけど、それ以外はだいたい自分と友人でつくったから、かなり安上がりでした。店ができたらあとはやるだけ。これで身を立てられなきゃ死ぬと思ってたんで(笑)」
職人のトッププレイヤーを目指して
意外なことだが、浅草に飴細工のお店はアメシンしかない。伝統が色濃く残る浅草で24歳の若者が個性的な飴細工のお店を開いたというニュースはあっという間に広まり、メディアにも取り上げられるようになった。浅草という観光客が多い土地柄、メディアに出るたびに、話題のお店をひと目見よう、お土産を買おうとお客さんが足を運ぶようになる。そのうわさを聞きつけて、またメディアが取材にくるという好循環が生まれ、2015年5月にはニューヨークでもその技を披露。さらに同じ年の7月には、スカイツリーのおひざ元にある「ソラマチ」からも出店のオファーが届き、2店舗目を出すことになった。
アメシンが軌道に乗ると、手塚さんに弟子入りしたいという若者も現れるようになった。それがひとり、ふたりと増えていって、現在7名が修業を積む。アルバイトを含めると総勢12名のスタッフを抱えるアメシンは、いまや業界最大手だ。
市場が縮小して職人が食えなくなり、後継者が不足して消滅の危機に陥るという負のスパイラルを独力で断ち切り、店舗を増やし、若者を引き付けている手塚さんは、飴細工の業界のみならず、後継者不足に悩むものづくりや職人の世界で異彩を放つ。
その意味を自覚する手塚さんは、飴細工という枠を超えて「職人・手塚新理」を最大限に活用しようとしている。
「私自身は自分のことを職人であり、プロデューサーでもあると思っています。職人としてはもっと技術を高められると思うし、プロデューサーとしては手塚新理を職人のトッププレイヤーにして、楽しく仕事をしながらしっかりと稼ぐ姿をもっと世界に向けて発信したいですね。
活躍する姿を見せて、次の世代から職人になりたいと思う人がどんどん出てきたら、面白くなりますよ。そのためにも、コツコツものを作っている人たちがもっと日の目をみる環境を作っていきたいし、手仕事にお金を落としてくれる仕組みづくりもしなきゃいけない。
飴細工と同じく、日本のモノ作りも見せ方が下手なだけでポテンシャルはあると思うから」
衰退しきっていた飴細工の世界に飛び込み、わずか7年で業界をけん引するまでになった男は、いま再び昂っている。
次のターゲットは、課題が山積みの日本のモノづくり。技術の尊さを知る職人の心とアメシンを世に出したプロデュース力の二刀流で、新風を吹き込む。
<取材協力>
浅草 飴細工 アメシン
東京都台東区今戸1-4-3
03-5808-7988
文・写真:川内イオ
この記事は、2017年5月15日に公開したものを再編集して掲載いたしました