【デザイナーに聞きました】「くらしの工藝布」制作記録

このたび中川政七商店より、工芸の魅力をもったインテリアコレクション「くらしの工藝布」がデビューしました。

自然の素材を使うことで生まれる、ゆらぎのある表情。ものを通して人を感じることができる、手仕事のものづくり。「くらしの工藝布」は、そんな工芸の魅力をインテリアに拡張する布のコレクションです。

探していたのは、こういう布だったんだ。
本日発売となる「くらしの工藝布」のサンプルを初めて見た時、そんな風に感じたのを今でも覚えています。あれから約2年。誰よりも中川政七商店の社員である私たち自身が、暮らしに飾る日を楽しみに待ち遠しく思っていた、手ざわりのある布たちがいよいよデビューを迎えます。

どんなふうに考えて作ったのか、デザイナーの河田めぐみさんに話を聞いてみました。

「くらしの工藝布」を一手に担う、中川政七商店のデザイナー・河田めぐみさん。


話し手:河田めぐみ
聞き手:中川政七商店 編集

「くらしの工藝布」のはじまり

2012年に入社して以来2年前まで、中川政七商店のアパレルを担当してきました。新商品の生地を開発する中で、母が昔着ていた服を参考に、生地屋さんに「こういう生地はできないですか?」と聞くと、「それは難しい」と言われることが続きました。その時はじめて、伝統工芸と言われるものだけでなく、20~30年前にできていたこともできなくなってしまっている、と気付いたんです。かつてあった様々な技術が、時代の流れの中で失われてしまっていることを目の当たりにしました。

それでも続けていくうちに、あそこならできるかもしれない、と言われるような作り手さんが残っていることも知りました。まだ僅かに残ってはいる。それでも数年後、あるいは来年にはどうなっているだろう。量が作れるもの、価格がはまるもの、社会のスピードに追いつくものだけではなくて、今失くしたらもう戻ってこないかもしれないもの。時代の流れの中で省いてきた、数々の手間の中にある大切なものに向き合いたい。そんな想いから、「くらしの工藝布」を立ち上げることになったのです。

すべての布は、工芸に繋がっている

何を作るべきか考えながらさまざまな布を眺めていた時に、やわらかな風合いの二重織刺し子の生地を見つけます。お付き合いのある生地屋さんに、「こういう生地を作っているところはないですか?」と聞いて回るうちにたどり着いたのが、今回一緒に作ってくださった小島染織さんです。

二重織刺し子は、いわゆる手刺しの刺し子とは異なる技術ですが、そのものづくりが生まれたのは、伝統的な刺し子という技術があってこそ。そこで、まずは刺し子にまつわる歴史を調べてみることにしました。そうして刺し子について理解を深める中で、二重織刺し子のプロダクトを作るだけではなくて、広く刺し子全体に向き合い、今の暮らしに再解釈していく活動にしたいと思い至ったんです。

今回作った二重織刺し子の布。表と裏の風合いが異なり、一枚でふたつの表情を楽しめる

伝統的な手刺しの刺し子はもちろん、そこから発展した刺し縫いや織刺し子も含めて、刺し子をテーマにものづくりを行う。ルーツとなる技術も新しく発展した技術も同様に、刺し子にまつわる物事に向き合いながら、今に生きるものづくりを届けたいと考えました。

日々新しいものが生まれていますが、どんなものにも必ずルーツがあります。過去の人たちが積み重ねてきた歴史があり、それを元に改良して新しいものが作られる。もちろん、今にたどり着く前に失われてしまったものもある。刺し子や裂織などの工芸が積み上げてきた歴史を踏まえながら、その営みを紐解き再編集することで、今の暮らしにも通じる普遍的な価値を再認識し、新たな価値を発見していただくきっかけを作れたらと思っています。

手仕事と機械生産

今回は、手仕事と機械生産のどちらも手掛けました。「くらしの工藝布」では、原点となる手仕事だけでなく、そこから発展して生まれた機械生産にも向き合いたいと思っているからです。

機械にも、ものづくりの進化の過程で生まれた、工芸的な機械と工業的な機械があるのではないかと感じています。手仕事から機械に変わっていく中で、最初は、効率化の側面だけではなく、表現の可能性を広げるための進化という一面もあったと思うんです。ですがある時から、効率に特化したものに変わっていったような気がしています。そうなると、早く織れる代わりに、それまでできていたことができなくなることもある。保存の必要性が叫ばれている手仕事以上に、工芸的な機械の中にも失われているものが多くあると感じます。

今回一緒に機械織の裂織を作ってくださったカナーレさんの布などは、まさに工芸的なものづくりだと捉えています。年季の入った織機を駆使して、見たことのない面白い布を作られる。手仕事と機械、どちらがよいということではなく、それぞれのよさや特性を生かすことが大切なのだと思っています。

少し織り進めるごとに、どこかの糸が切れ、繋ぎ直す。微妙な調整を繰り返して徐々に織りあげられていく
カナーレさんが織った機械織の裂織布

布に工芸的価値を取り戻す

「くらしの工藝布」では、実用性以上に情緒的なものを大切にしたいと考えています。人が自然と惹かれるゆらぎのある表情や、経年によって変わることで愛おしく思えるもの。それは工芸が持つ魅力そのものだと思います。ふと触れたくなる感覚。布であれば、テクスチャーそのものです。変化していく色合いや風合い、儚さも含めて愛おしいと思えるもの。数値化できない、言葉に表現しきれない感覚的なものを大切にしたいと思っています。

工芸の魅力は、自然の素材、自然の色など、自然に委ねる部分が大きいことにもあると思います。自分の力ではコントロールできない部分があることによって生まれる魅力。工芸がもっているそういった魅力を、それぞれの布に込めました。

自分の都合に合わせず、素材に合わせる、というのは、日本のものづくりの特性という気がします。まずは素材があって、それを形にするためにどう手を加えるか、またはどう微調整するかを考える。素材ありきのものづくりです。「くらしの工藝布」でも、できあがった布に対して、手の加え方、素材の生かし方を慎重に検討しました。

郷土資料館などで見るかつての暮らしの布は、数百年の時を経たものでも、どれも生き生きとした存在感があります。大切に残されてきたものを見ると、ものを通して人を感じることができます。膨大な時間を使い、丁寧に、心のこもったものを作る。ものづくりそのものが自然への感謝や祈りに繋がっていたのではないかと思います。

かつての人が残したものを学びながら、今の時代だからこそのあるべき姿はどんなものか、私たちにとって大切なものはなにか、ということを問い続けたいと思います。

日本の布、日本の暮らし

いま、インテリアショップに行って布ものを手に取ると、日本のものってほとんど見かけないですよね。インドや西アジアのものなど、海外のものが多いのではないでしょうか。暖簾なども最近では見かけなくなってきて、日本の布はどこで見つけられるんだろう、と感じていました。「くらしの工藝布」を作りながら、多種多様な日本の布がある空間ができたら、すごくいいなと思ったんです。

近年は和室のない家も増えていますし、私たちも長らく西洋的な空間の中で生活していると思いますが、日本の暮らしには、昔からこの風土の中で培われてきた素材や技術であったり、日本人の美意識や価値観によって育まれた知恵があります。「くらしの工藝布」と向き合う中で、改めて私たちのこれからの暮らしの在りかた、日本ならではの住空間の在りかたについても考えるべき課題をもらった気がしています。まずは私たちの考える“日本の布”を作ることを通して、日本の暮らしが、よき文化として未来に継承発展していくための活動を続けていきたいと思っています。



中川政七商店による新たなものづくり「くらしの工藝布」。
かつての日本人が生活の中で生み出してきた手しごとを紐解き、その営みを再編集しながら、今に生きる”日本の布”をお届けします。

刺し子とは。手の軌跡を通して布に宿る、普遍的な価値

ちくちくと人の手で縫った痕跡に癒される、「刺し子」の布。
国を問わず、どんな刺し子布を見ても、その布に残された人の手跡に愛着を感じてしまいます。
日常で使うものとして見かける機会が減っている、この「刺し子」の技を駆使して、「くらしの工藝布」のものづくりは始まりました。
この時代において人の手で作るという営みの尊さ。自然と見つめてしまうその理由は、布が生まれた背景にこそあるのかもしれません。
そこで今日は、「刺し子」の成り立ちや営みについて、二ツ谷淳さんにお話をお伺いしました。

二ツ谷淳

刺し子を家業とする家に生まれ、現在では、日本の刺し子をアメリカで伝える活動をしている。
Instagram @sashikostory

今回一緒にものづくりを行った大槌刺し子さんに、刺し子を指南されているご縁でお話をお伺いしました。


刺し子の成り立ち

刺し子は、青森県や山形県などの東北地方で育まれた技法として知られていますが、基本的には全国の各家庭にあった針仕事だと思っています。刺し子を毎日の営みの中の針仕事だと捉えると、起源を特定するのは難しいかもしれません。ただ、生活に必要な衣類に針を通して補強や補修をしないと、冬が越せなかった人たちの暮らしの知恵として、東北など寒く交通の不便な地域で生まれたというのは自然なことだと思います。
江戸時代、農民の生活は現在の生活からは考えられないほど厳しいものでした。木綿の布が手に入らなかった地方もあるし、木綿が手に入っても代替品をすぐに手に入れることが難しい人々もいたでしょう。摩耗したら、補修して繕いながら使い続ける必要がありました。また、補修が必ずくる未来なのであれば、先に針を通して補強しておいた方がいい。それが本質的な刺し子の考え方だと思っています。

私の実家は岐阜県の山岳地方にあります。田舎とはいえ城下町なので、ある程度の余裕はあったようです。布が潤沢に手に入る訳ではないけれど、布を使う前に補強するだけの余裕はあったと聞いています。さらに布が手に入らない地域では、まっさらな新品の布を手にする余裕もなく、布を手に入れたら縫い合わせて着て、摩耗したら補修して、という順番だったと思います。
東北地方では、その気候風土から木綿の栽培が難しく、木綿よりも目が粗い、麻の生地が衣文化の主流だったようです。麻は目が粗いので、補強はもちろん保温のためにも目を埋める必要があります。布の隙間を埋めるように刺された刺し子を、「こぎん刺し」や「南部菱刺し」と呼ぶと理解しています。意匠性としても美しいものが多く残っていて、また同時に刺し子の本質として、必要にかられて生み出されたものなのだと思うのです。

刺し子の変遷

明治維新以降、日本が徐々に西洋化して人々の生活が豊かになると、生活のための針仕事という刺し子の必要性が薄れていきます。交通の便が悪い地方でも布が手に入りやすくなり、結果的に刺し子をしなければいけない人が減っていきました。第二次世界大戦の頃には、千人針のように精神的な祈りの意味での針仕事はあったと理解していますが、日本が豊かになるにつれ、生活の営みとしての刺し子の存在意義は小さくなっていきます。しかし、戦後の日本が急速に豊かになっていく1960年代、各地方で刺し子の美しさや素晴らしさを見つめ直し、その技術や柄、営みそのものを復興させようとした方々がいらっしゃいました。現在、地方の名前がついている「○○刺し子」と呼ばれる刺し子は、この頃から徐々に復興されていったものだと理解しています(東北の三大刺し子は、衰退せずに継続し続けたという理解でいます)。

江戸時代以前は、日常の営みとしての針仕事だったので、地方によっては「刺し子」という言葉は使われなかったかもしれません。江戸時代には、火消し半纏を刺し子半纏と呼ぶこともあり、すでに「刺し子」という言葉は存在していたようです。ただ、地域によってそれぞれの呼び名があったと想像することは、難しくありません。

現在の手芸としての刺し子は、手芸屋さんを始めとして、材料やキットを販売してきたことに起因しています。そしてそれは、刺し子を復興する中でいかに「持続可能性」を保つかを、努力された方々の結晶だと思っています。文化を残すためには経済的循環も必要です。すべて手作業で針目を作る刺し子は、完成形の大量生産が難しいので、作り手と使い手を区分けする産業とすることは難しかったのだと思います。また、刺し子の本質が日常の営み、つまりは家庭内での仕事だったことを考えると、生活のために針を動かす必要がなければ、手芸として発展していくのは自然なことではないでしょうか。

さまざまな刺し子

補修のための刺し子

写真提供:二ツ谷淳

布が貴重な時代、破れた衣服は布を継ぎ当て繕うことで再生していました。生地のひとかけらさえも無駄にせずに、補修しながら大切に使っていたことが分かります。

保温のための刺し子

写真提供:有限会社弘前こぎん研究所

青森県の「こぎん刺し」に代表される、布の隙間を埋めるように刺された刺し子着。寒冷地では木綿を育てることができず、目の粗い麻の生地しか手に入らなかったため、保温性を保つために、布の隙間を埋めるように密度高く刺されていました。

補強のための刺し子

写真提供:二ツ谷淳

いつか来る摩耗に備えて、補強のために全面に幾何学模様が刺された刺し子着。
模様に縛りはありませんが、幾何学模様が多いのには理由があります。
補強を目的とするため、ある程度均等に刺す必要がありました。全体に散りばめられる柄として、幾何学模様が刺されることが多かったといいます。

補強の最たるもの「火消し半纏」

写真提供:世田谷区立郷土資料館

江戸時代の火消し半纏は、補強の機能性の最たるものでありつつ、粋な意匠性を持ち合わせています。紋が抜かれたシンプルな生地と、美しく大胆な柄が染められた生地を二枚重ねて、刺し子が全面に施されていました。
火事があれば半纏ごと水をかぶって火の中へ飛び込んでいき、火消しの後は裏を表にして羽織り、町の人々の目を楽しませたといいます。
意気で洒落た遊び心が当時の仕事着一着に込められていました。

刺し子とは

時代の流れの中で、手作業であった刺し子が織物として進化したり(刺し子織)、また見た目(デザイン)に特化した刺し子ミシンが生み出されるなど、刺し子は常に変化しています。日本人の日常の針仕事だった刺し子を、「これが刺し子で、あれは刺し子ではない」と定義することは、何か大切なものを削ぎ落としてしまうようで、私は進んで定義はしていません。ただ、刺し子の本質を考える際は、結果としての見た目だけではなく、その過程の「運針」を中心に置くようにしています。刺し子のお話を諸先輩方から聞けば聞くほど、刺し子は「針と糸を通して、布に想いを込める」という「動詞」なのではないかと思うようになりました。

「誰かを思わなければ刺し子じゃないのか?」という難題をいただいたこともありますが、小さなふきん一枚刺すだけでも1時間〜数時間は、針と糸と布と向き合わねばなりません。その想いが前向きなものか後ろ向きなものかは刺し手の心模様次第ではあるのですが、どんな形にしろ念はこもると思っています。刺し子を大切に思う私にとって、その念が「祈り」であればいいなと願いつつ日々刺し子をしています。



シンプルな手刺しから始まった刺し子は現在、刺繍、刺縫い、刺し子織などさまざまな技法に発展しています。
「くらしの工藝布」では、時間をかけてひと針ひと針刺すことによって、布に宿る普遍的な価値を見つめ、さまざまな技を用いながら「刺し子」をテーマに今の表現を探りました。

左上から時計回りに、
手刺しのタペストリー(直)MサイズLサイズ
手刺しのタペストリー(散し)SサイズMサイズ
刺し縫いのクッションカバー
二重織刺し子の長座布団

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裂織とは。知恵と工夫によって生まれた、新たな命を宿す布

美術館やギャラリー、骨董市などで目にする、「裂織(さきおり)」の布。
多様な色のゆらぎは美しく、どう見ても手間ひまがかかっている。大切に扱いたい、と思わせる存在感をまとっています。

あまり日常では見かけないと思っていたこの裂織の技を駆使して、「くらしの工藝布」のものづくりは始まりました。どこか温かみがあって、自然と触れたくなる。その理由は、布が生まれた背景にこそあるのかもしれません。

そこで今日は、「裂織」の営みについて、「くらしの工藝布」をともに作ってくださった株式会社幸呼来Japanの代表、石頭悦さんにお話をお伺いしました。

石頭悦

株式会社幸呼来Japan代表。
“裂織で障がい者の働く場を作り、地域の伝統技術を未来につなぐ”という思いのもと、活動する。


技法としての裂織

裂織は、布を細く裂いて緯(よこ)糸を作り、一段一段織り込んで新たな布に再生する技法です。織りあがった裂織は、元の生地からはまったく予想できないような、新たな命を宿した布に再生します。

布を裂く様子。裂いた布を緯糸にして織り込みます。
裂いた布を緯糸にして織り込む様子。1mを織り上げるのに、その3~4倍の生地を必要とします。

裂織の成り立ち

裂織が盛んに作られるようになったのは、木綿が流通するようになった江戸時代の中期頃と言われていますが、それ以前にも裂織に繋がる織りの文化はあったようです。
木綿が流通する以前の日本では、麻や木の樹皮を織ったものを衣類にしていました。織機の構造として、たてに糸を張るのは世界中に共通していることですが、よこは、面を埋めるものであれば、糸でも布でもなんでもいい。麻で布を作っていた頃から織りの技術はあったので、裂いた布を織り込む営みも、木綿が流通する以前からあった文化だと理解しています。一枚の布を糸から作るには、膨大な時間と手間ひまがかかるものです。木綿が手に入る入らないに関わらず、一枚の布を大切に使い切る工夫がされていたのではないでしょうか。
通説として、盛んに作られるようになったのは、江戸時代の中期頃と言われています。もともと東北地方は寒冷地で綿花が育たないのですが、その時期から、北前船によって運ばれてきた木綿を手に入れられるようになりました。そうは言っても、どの地域でもすぐに潤沢に手に入ったわけではありません。とくに東北地方の農民が新しい木綿を手に入れることは難しく、古着を購入するのが一般的でした。古布と言えども、手にした木綿は、それまで使用してきた生地と比べて、格段に暖かく肌触りがいい。ボロボロになっても捨てるのはもったいないと、裂織の技術が発展していきました。

私が現在、岩手県で裂織を生業にしているので東北の話になりましたが、裂織は全国的に伝わっているものです。刺し子と同じように、裂織も生活織物として各家庭で伝わってきました。お母さんたちの知恵で、ボロボロになったものを再利用しようと生まれてきた技なので、物が不足していた地域で発展してきたと理解しています。
いま70代くらいの方にお話を伺うと、「おばあちゃんが織っていた、懐かしい」と仰います。家庭で織物というと現代では不思議な感覚ですが、昔は地機といって、高機よりは少し小さめの織機をもつ家庭が多くありました。文字通り、地べたで座って織れるようになっていて、地機は、各家庭でお父さんが作ってくれたようです。それこそ、そりを土台にして作ったという話も聞くので、構造もそう複雑なものではありません。東北では、多くの農家が持っていて、農閑期になると織られてといいます。

裂織の変遷

明治時代に突入し洋装文化が入ってくると、裂織を作る人も自然と減っていきました。長い歴史の中で当たり前に受け継がれてきた、衣類を自給する営みごと、ひっそりと忘れ去られていきます。現在では、作家さん、もしくは趣味でされている方が多いのではないでしょうか。着古したものではなく色んな素材を活用して作る、表現としての面白さを追求し、裂織の技を楽しまれています。
ここ数年は社会的にもサステナブルな取り組みが注目されているので、企業からの問い合わせも増えてきました。もったいない精神から生まれた技が、究極のリサイクルとして、再び見直されています。

さまざまな裂織

裂織で作った長着

写真提供:横浜市歴史博物館/所蔵:青森市教育委員会

夏は日差しを遮り、冬は寒風を遮って暖かい。耐久性や保温性に優れたため、野良仕事に重宝しました。

こたつ掛け

写真提供:横浜市歴史博物館/所蔵:青森市教育委員会

青森県南部地方の裂織に代表されるこたつ掛け。当時のこたつは炭を起こして温めるものだったので、火に強い木綿はこたつ掛けに適していました。火消し半纏が木綿の刺し子で作られたように、木綿は燃えにくいものだと知られていました。
南部地方の特徴として、赤色の裂き糸をいれて織ることが多かったと言われています。当時は家全体が暗かったため、赤い色を織り込むことで少しでも明るくしたいという、お母さんたちの願いが込められていました。

裂織とは

裂織の技としての魅力は、偶然性にあると感じています。織る人によって全く違う織物ができあがる。例えば同じ素材で同じ色合いのものを同じ分量渡して作っていただいたとしても、百人百通りのものができます。ひとつとして同じものにならない。個人の発想が織りに表現される面白さがあります。今のものづくりは規格化されていることが多いので、考え方が全然違いますよね。現在の裂織には、日用品として作られるものと、アートとして作られるものがあります。織り上がりの偶発性を楽しむ意味では、日用品の方がむしろ、限りなく一点物のセンスが表現されているように感じています。

現代では、そういった技としての側面も大きくなっていますが、もともとは物が不足していた時代に使い切る文化として生まれてきた技法です。やはり、その営みに宿る「もったいない精神」をなくしては、裂織を語ることはできません。

「代々、母親から娘へ受け継がれ、こたつ掛けや野良着など、家族が使うものに再生した」「使っていくうちに経糸が切れてボロボロになったものも捨てずにとっておき、どんな襤褸(ぼろ)でも織りなおして裂織にした」「織り直しができないくらいにボロボロになったものや端材は、薪にくべて暖をとり、燃やした灰は畑に撒いて土に戻した」
裂織について諸先輩方に話を伺うと、このようなエピソードが語られます。裂織とは、完成品や技だけを指すのではなく、ものを愛おしみ最後まで使い切る、その心も含めての営みなのではないでしょうか。



元の生地からはまったく予想できないような、新たな命を宿した布に再生する裂織。
「くらしの工藝布」では、幸呼来Japanの皆さんと一緒に、あり余るほどに布が溢れている今の社会で改めて再生のありかたを見つめなおし、「裂織」をテーマに布を作りました。

左上から時計回りに、
捨て耳のタペストリー
裂織のタペストリー
裂織の布籠
裂織の敷布 SサイズLサイズ

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