日本の“ハンマー”が世界のアスリートから支持される理由

東京五輪がいよいよ来年にせまってきた。各国を代表するトップアスリートたちは、今大会でどのような活躍を見せてくれるのか、非常に楽しみだ。

身体を極限まで鍛え抜いたアスリートたちが競い合う一方で、各競技に使われているスポーツ用品の世界にも“匠の技”というべき技術が活きていることをご存知だろうか。

ハンマー投げという競技

陸上競技用器具の世界で、国内トップシェアを誇る株式会社ニシ・スポーツ。

様々な用器具を手がける中で、特に投てき競技用のハンマーや砲丸において、世界でも高い評価を得ている企業だ。

ニシスポーツハンマー
ニシスポーツ
ニシ・スポーツの円盤

今回は、特にハンマー投げで使用されるハンマーについて。シンプルに見える形状の裏側にある開発の工夫や用具の重要性を聞いた。

ニシ・スポーツの用具
競技で使われている「用具」に着目すると、スポーツの見方が変わる

ハンマー投げはアイルランド発祥のスポーツで、投てきしたハンマーの到達距離を競い合う。もともとは金槌(ハンマー)に紐をつけて振り回して投げていたことから、いまでもハンマー投げと呼ばれている。

現在の国際大会決勝では3回の試技で上位8名が決定する。さらに3回の試技を行い、合計6投の記録で勝敗を決める。

ハンマー投げというと、ぐるぐると回転する選手の姿を思い浮かべる方も多いことだろう。投てきの際に回転する回数は選手の自由で、3回転か4回転で投げる選手が多い。

ちなみに日本の陸上界を牽引してきた室伏広治さんは4回転で投げる選手だった。室伏さんが28歳で迎えた、2003年6月のプラハ国際陸上で投げた記録は84m86。これは現在も陸上男子ハンマー投げの日本記録となっている。

選手は、自分のハンマーが使えない。競技会で発生する“ハンマー待ち”

ところで、投てきで使われるハンマーは誰が用意しているのだろう。実は選手たちは、個人で所有するハンマーを本番の競技会で使うことができない。

「国際陸上競技連盟(IAAF)の認証を取得したメーカーのハンマーが数種類並べられ、選手は試技ごとにそこから選んで投げる形式をとっています」

ニシ・スポーツでハンマーや砲丸をはじめ様々な用具の開発を担当する第一開発部 木村裕次氏はそう話す。

ニシスポーツ
株式会社ニシ・スポーツ 第一事業部 第一開発部 アシスタントマネージャーの木村裕次氏

その日の展開によっては、記録が伸びた選手が使ったハンマーをみんなが使い始め、そのハンマーが戻ってくるまで投てきしない、という“ハンマー待ち”の現象が起きることもあるそうだ。

同じ承認を取得したハンマーの中でもこのように人気に偏りが生じる現場で、トップアスリートたちの支持を得ているのが、日本のニシ・スポーツのハンマーだという。

ニシ・スポーツは、昭和26年創業の陸上競技用品メーカー。投てき競技における用具(ハンマー、砲丸など)について、1999年に国内で初めてIAAF承認器具に認定された。

トップアスリートたちの支持を得ているニシ・スポーツのハンマー
トップアスリートたちの支持を得ているニシ・スポーツのハンマー

この業界では「有名選手に選ばれ」「良い記録が出る」と国際的な知名度がグンと上がる。

砲丸投げにおいても、複数のメーカーの砲丸から選ぶ形式が取られており、アトランタ五輪(1996年)においてアメリカのランディー・バーンズ選手がニシ・スポーツの砲丸を投げて金メダルを獲得したため、世界中に「ニシ・スポーツ」の名が広まった背景がある。

ニシスポーツ
ニシ・スポーツの砲丸

ハンマー製造の難しさ

同社はこれまで、試行錯誤しながらスポーツ用品の開発・製造を続け、グローバルで評価を獲得してきた。

陸上競技の用具づくりにおいて、ルール(競技規則)への対応がまず難しいと、木村氏は言う。

「IAAFが定めるルールが頻繁に変わるので、そこにアジャストしながら開発しています」

投てき競技のルールが頻繁に変わる、ということ自体、あまり一般的には知られていないかもしれない。

近年で特に苦労したのが、ハンマーの持ち手(ハンドル)の強度に関する改正だったという。2000年頃から始まった改正ではまず、12キロニュートンという基準が設けられた。

ハンマーのハンドル部分
ハンマーのハンドル部分

「12キロニュートンというと、ざっくりですが1200kg以上の力に耐えられる設計にしなければなりません。

ハンマーを投げるときにかかる力は、諸説ありますが、トップ選手の場合で約350kgと言われています。

つまりIAAFでは、かなりの余裕を持たせて用具を製造させているわけです」

ハンマーは、ハンマーヘッド、ワイヤー、ハンドルから構成され、その総重量が決められている。男子なら7.26キログラム、女子なら4キログラム。ハンマーの全長は男子で1.215メートル、女子で1.195メートル。

ハンマー

回転して投てきをするハンマー投競技では、ハンマーヘッドが重い方が有利だということは分かっており、いかにそれ以外の部分を軽くできるかというのが開発のひとつのテーマになってくる。

ハンドルの強度を追求すると、通常はどうしても重たくなってしまう。いかに、重さを変えずに、12キロニュートンという指定に応えるか、必死でアイデアを出し合い、テストを重ねて開発した。

ところが、それが数年後には、10キロニュートンで良いとなり、現在は8キロニュートンで一旦決着している。こうしてルールにある種振り回されながらも、その時の最善を目指して開発を続けるところに難しさがある。

ハンマー
実際に手に持ってみると想像以上に重い

では、ハンマーヘッドの部分ではどのように特色を出しているのだろうか。

ニシ・スポーツでは、ハンマーヘッドに3種類の金属(鉛、タングステン、ダクタイル鋳鉄)を採用した。ここに競合製品との差別化要素が生まれる。

「タングステンは非常に硬くて重いレアメタル。ハンマーヘッド自体を最小化できるメリットがあります」

ハンマーヘッドが小さくなれば、その分だけワイヤーを長くできる。ワイヤーが長ければ遠心力が大きくなり、より遠くに投げられるという理屈だ。このほかワイヤーはピアノ線で、ハンドルはアルミ合金で製造している。

ハンマーはどうやって造られている?若い社員が支えるハンマー製造

同社のハンマーは現在、船橋の工場で2人の若い社員によって製造されている。両名とも30代半ばで大のスポーツ好き。ともに18歳の頃から、先輩たちにハンマーづくりのノウハウを叩き込まれてきたという。

ニシ・スポーツのハンマー製造を支える2人
ニシ・スポーツのハンマー製造を支える2人

「製品の品質を上げるため、何ができるかということを自分たちで考えることができる社員です」(木村氏)

製造工程を簡単にたどってみよう。材料となるのは、国内の鋳物工場で製造された球状のダクタイル鋳鉄で、中は空洞。NC旋盤を使用し、材料の中心出し「芯出し」を行う。次に材料を高速回転させて、鋭利な刃で規定の大きさに切削していく。

そして約300度に熱した鉛とタングステンを中に注入する。重心位置の調整が重要となるが、その手法は企業秘密だという。最後に、ハンマーヘッドとワイヤーをつなぐ吊管をネジで埋め込んで仕上げる。

球状のダクタイル鋳鉄がハンマーヘッドの原型
球状のダクタイル鋳鉄がハンマーヘッドの原型

完成したハンマーは、競技規則にある「球形の中心から6mm以内」の位置に重心があることを検査で確認できたら、国内の工場で塗装。色は、重量や種類ごとに決まっている。ハンドル、ワイヤーをつけて組み立てたものが出荷される。

材料を高速回転させて、鋭利な刃で規定の大きさに加工する
材料を高速回転させて、鋭利な刃で規定の大きさに加工する
材料を高速回転させて、鋭利な刃で規定の大きさに加工する

「工場ではコンマ数ミリ単位の高精度な調整を手作業でシビアに行っています」と木村氏。

現役選手の意見を取り入れながら、緻密な計算を繰り返して開発していると話す。そんなエピソードからも、精巧な技でこそ追求できるスポーツ用品の世界があることがうかがい知れる。

ハンマー

ただ、木村氏は「弊社はあくまで用具を提供するだけですから」と控えめに笑う。

「常に根底にあるのは、競技者へのリスペクトです。競技のお手伝いというところを自覚しつつ、少しでも記録に貢献できるようにこれからも励んでいく気持ちです」

木村氏自身も、若い頃はアスリートを目指していた人物。ニシ・スポーツでは、そんな社員が珍しくないようだ。だからこそ、選手に寄り添ったモノづくりが行えるのだろう。

ハンマー

ハンマー投げの見方が変わる

最後に、「ここを見れば面白い!」という『ハンマー投げの楽しみ方』について聞いてみた。

ハンマーを選ぶ段階で、すでに試合がはじまっていると木村氏。

「世界ランクトップの選手は、どのハンマーを使うのか?それに対して自分はどのハンマーを使うべきか?

まずは選手同士、お互いの出方を探ります。心理戦ですね」

例えば、3投目までにトップ8に残る記録を出せた選手が、4投目になり突然ハンマーを変える、というケースもあるのだとか。

「これは陽動作戦かも知れないし、単純に『違うものを投げてみようか』くらいの軽い気持ちかも知れない。

それに引きずられて、自分も違うものを投げはじめる選手もいます。

それを知ってか知らずか、最初の選手は5投目でお気に入りのハンマーに戻して、あっという間に記録を更新する。毎試合、そんな駆け引きがあります。

私としては、ベンチをずっと映すカメラが欲しいくらいです。テレビでは映らない部分も、競技会にいくと楽しめる。だから、競技場に足繁く通ってしまいます」

東京五輪に向けて、意気込みを聞くと「ニシ・スポーツでは、常にハンマーの改良を進めています。いずれ、ニシ・スポーツのハンマーで世界記録が出ると嬉しいですね」

ハンマー

過去には、こんなことがあった。女子ハンマー投げで、タチアナ・ルイセンコ選手(ロシア)がニシ・スポーツのハンマーを投げてオリンピック記録を出した。

大喜びする木村氏だったが、次の投てきでライバルのベティ・ハイドラー選手(ドイツ)がポーランドの競合メーカーのハンマーを投げて記録を塗り替えてしまったという。

アスリートがしのぎを削る舞台裏で、メーカーによる真剣勝負も熱を増している。

<取材協力>
株式会社ニシ・スポーツ
http://www.nishi.com/

文・写真:近藤謙太郎

【わたしの好きなもの】THE Cardigan

コットンカシミアの1年中使えるカーディガン


シャツの上にさっと羽織れる上質なカーディガン。
夏でもクーラーで冷える場所用に、冬はジャケットの中に1枚着ていると、とても便利。
シャツやジャケットのように、主役じゃないけどシンプルがゆえに大切な脇役。
おかげでシャツがきれいに見えたりすると、ありがたい存在。



目立たないように袖や身頃にふんわりとダーツが入っているので、身体に添うような立体的なデザインになっています。
これのおかげで、窮屈な感じがなくシャツももたつきません。



目が詰まっていて美しい網目は、薄手で軽くて肌触りがよい生地に仕上げてくれています。
さらっとししていて、編み物とは思えない軽さ。持ってもらうとみんな「軽い!」と思わず声に出るほどです。
半袖に重ね着しても、素肌に嫌な感じは全くなく、コットンとカシミアという上質な素材は、さらさらと逆に気持ちがいい。



襟の網目の切り替え部分のラインも、ぼこぼこせずに1本の繊細なラインも美しくて気に入っているところ。
Vの開き具合も詰まりすぎず、中のシャツとのバランスが丁度いい。
シンプルなものなので、細部にこだわって丁寧にデザインされているから、ずっと着ていたいと思わされる。



かばんの中に気軽に入れておけるボリュームで、持ち歩くことも億劫にならない。軽くて薄手だからジャケットを重ねても、もたつかない。長すぎず短すぎず、どこをとっても定番として文句なしの1枚。
シャツにはもちろん、ボーダーなどカジュアルなTシャツにも合わせやすい。着回しの名脇役としておすすめです。




編集担当 梅本
 

参観日には社員がいなくなる。熊本の「人が集まり続ける」竹箸メーカーの働き方

子どもが遊びにくる社内

「みきちゃん、宿題終わったの?」

夏休みも終盤に差し掛かった8月の某日。

熊本県の北西部にある南関町で「竹の箸だけ。」をつくり続けるメーカー、株式会社ヤマチクの事務所で響いていたのは、子どもの宿題を心配する声。

ヤマチク
宿題に励む“みきちゃん”

事務所の空いた机で、社員さんの子どもが宿題に勤しむ。同社では、ごく普通の光景です。

「僕も小さい頃、当時の社員さんたちに面倒をみてもらったり、宿題を手伝ってもらったりしたんです。それをそのままやっている感覚ですね」

ヤマチク三代目で、専務取締役の山﨑 彰悟さんは嬉しそうにそう話します。

ヤマチク 専務取締役の山﨑 彰悟さん
ヤマチク 専務取締役の山﨑 彰悟さん

1963年に山﨑さんの祖父が創業したヤマチク。その当時から、会社に子どもがいることは当たり前だったのだとか。

「祖父とは一緒に仕事をしたことはないんですが、やっぱりベースにあるのは、社員さんに食べさせてもらっているという感覚です。

僕らがお箸を全部つくれるわけではなく、社員さんがつくってくれたものを販売している。

僕らにできることって、気持ちよく働いてもらうことくらいしかないんですよ」

そんな社風から、子育て世代にも働きやすい職場として知られるようになった同社。

ものづくりの業界としては珍しく、26名いる社員のうち実に23名が女性。離職率も低く、高い意欲を持って長く働いてくれることで、必然的に箸づくりの技術も習熟していくんだそう。

ヤマチク
女性が多く活躍するヤマチクの工場
女性が多く活躍するヤマチクの工場

そんなヤマチクの働き方について、実際に働く人たちに聞きました。

参観日に人がいなくなる

「子どもの教育への理解があって、何かイベントがある時には休むことができるので、参観日には工場から人がいなくなったこともあります(笑)」

松原和子さんは、ヤマチクに来て24年目になるベテラン社員。一度結婚を機に仕事を辞め、育児をしながら内職をしていましたが、その発注元が倒産してしまったそう。

まだ子どもも小さく、何かしなければ、という時に知り合いから紹介されたのがヤマチクでした。面接の結果、晴れて入社することができ、今ではベテランの技で竹箸づくりを支えています。

ヤマチク 松原さん
ヤマチクに勤めて24年。技術を磨いてきた松原和子さん

社員同士が自然とカバーし合うことで、子育てをしながらも働き続けることができたという和子さん。

「参観日といっても丸ごと1日休むわけじゃなくて、半日だけ抜けて終わり次第会社に戻って来る。そうやって柔軟に働かせてもらいました。

先々を見越してもらって、子どもが大きくなったあとはフルで働いてもらえると、理解してくれていたんだと思います。

箸づくりは、すぐに覚えられるものではないし、箸の種類も変わってくるし、長くやりながら成長していくものですから」

一時のイレギュラーな状況を避けるために、優秀な社員さんを手放すのはもったいないと山﨑さんは話します。

ヤマチク 専務取締役の山﨑 彰悟さん

「“みきちゃん”くらいの年齢、小学生くらいになってくると、そんなに頻繁に風邪をひくこともありません。

子どもが本当に小さい時期をみんなでカバーして乗り越えられればいいのかなと思っています。

それと、子どもに何かあった時、経営者が『休んでいいよ』ということは簡単なんです。問題は社員さん同士の理解の部分。うちはそこがとても寛容だと思います」

実は、冒頭の“みきちゃん”は和子さんのお孫さん。孫の顔を見ながら働ける職場、うちの親が聞くと羨ましがるに違いありません。

ヤマチク
柔軟に働いてこれたと話す和子さんとお孫さんの“みきちゃん”

母娘でヤマチク社員。育児をしながら自社ブランド開発への挑戦

そんな和子さんの様子を間近で見て育ち、気づけば自身もヤマチクに入社していたのが、和子さんの娘である松原歩さん。“みきちゃん”のお母さんでもあり、この日ヤマチクには松原家3世代が勢揃いしていました。

4人の子どもを育てながら働く松原歩さん

子育て世代が多く、居心地がよいだけでなく、子育てをしながらも仕事の幅を広げられる、チャレンジができることが嬉しいと、歩さんは言います。

2018年の4月、ヤマチクの社運をかけたと言っても過言ではないプロジェクト、自社ブランド商品の開発がスタート。山﨑さんが社内でプロジェクトメンバーを募ったところ、ぜひやりたいと手を挙げたのが歩さんでした。

「今の仕事も好きだし、やりがいもあるけど、何か新しいことにチャレンジしたい!と思っていたところで、これはチャンスだと思いました」

シングルマザーとして “みきちゃん”を含めて4人の子どもを育てる歩さん。和子さんの協力もあって、1年以上かけて新プロジェクトに挑戦。コンセプト設計から商品開発にかかわり、お披露目の場となる展示会では自ら接客して自身がつくった商品の魅力を伝えました。

そして和子さんは、歩さんが出張の際には子ども達の面倒を見つつ、娘のチャレンジをサポート。

「結婚が早いと、やりたいこともやれないまま子育てが始まって、じゃあ子どもが大きくなったあとにチャンスがあるかというと分からない。

せっかくチャンスがあるんだし、一番下の子も保育園である程度育ってきたし、サポートできると思うから、やってみたらって言いました」

松原家

歩さんをはじめ、社内のプロジェクトメンバーが中心になって開発された新商品『okaeri(おかえり)』。

「家族で使って欲しいという思いがずっとありました」と歩さんが言うように、子ども用から大人用までのサイズが揃ったラインアップで、各展示会でも好評を博しています。

歩さん自身も、名入れをして友達にプレゼントして喜ばれているとのこと。

okaeri
自社ブランド商品「okaeri」

次の目標は、とあるアニメキャラクターのお箸よりも「okaeri」が人気になって、“みきちゃん”の周りの子どもたちにも使ってもらうこと、なんだとか。

「お母さんが考えて、お婆ちゃんがつくってるお箸なんだよ」と“みきちゃん”に話す姿が印象的でした。

新卒採用も開始。人が集まり続ける会社へ

子育てと仕事の両立は、単純に会社の中だけでなく家族の理解が必要な部分も多いですが、できる限り多くのことにチャレンジしてもらいたいと山﨑さんは考えています。

「仕事は、物質的な幸せももちろん追求しなければいけませんが、一方で自己実現する幸せ、そのチャンスをもっと提供したいです。

社員さんそれぞれが挑戦できる幅が、そのまま会社の幅になる。

そこで働いている人たちの集合体が会社なので、たとえば自社ブランドをつくることでその人たちが前に出て、やりがいを持ってくれれば、価値があることじゃないかと思います」

ヤマチク

同社では自社の特徴・魅力をわかりやすく伝えるために、会社案内の刷新やコンセプトムービーの作成も実施。

これについても、「最大の効果は社員さんが喜んでくれたこと」なんだそう。

ヤマチク

「自分たちの仕事が、他人から見て価値のあることなんだというのが分かったんです。

ムービーをきっかけにクリエイターさんだったりベンチャー起業の社長さんだったり、いろいろな人が工場を見に来るようになって、口々に『すごい!』と言ってもらえて。

お客様というか、他者の反応が目に見えるだけでこうも違うのか、というくらい、みんなのモチベーションアップにつながりました」

※ヤマチクのコンセプトムービーはこちら

この数年は、新卒採用にも挑戦。

「新卒の応募なんて来ない」というのが定説とされていた中で、泥臭く地元の高校すべてを周り、同社の仕事について丁寧に説明したところ、定員として設けた枠を上回る応募が来たそうです。

その後、今期で4期目となる新卒採用には、コンスタントに応募が集まっている状況とのこと。

「仕事のやりがいとか、居心地の良さみたいなものも、働く決め手になっているように感じます」

その働きやすさ、社風が評判となり、子育て世代の女性を中心に人材が集まった同社。

ある意味「働き方改革」など必要とせず、長く、意欲的に働く人たちを集めているひとつのモデルケースにも思えます。

「とにかくヤマチクが大好き」という“みきちゃん”の進路がどうなるかはさておき、新卒の若い世代も含め、今後も続々と新たな才能が集まり、竹のお箸の魅力を世界に伝える会社として成長を続ける、そんな可能性を強く感じました。

ヤマチク
松原さん一家と山﨑さん

<取材協力>
株式会社ヤマチク
https://www.hashi.co.jp/

文:白石雄太
写真:中村ナリコ

中川政七商店が残したいものづくり #01陶磁

2019年11月1日(金)にオープンする渋谷店は、「日本の工芸の入り口」をコンセプトにしたお店。
オープンまでのわずかな期間ではありますが、皆さまに「工芸」に触れて頂きたいという思いで、ものづくりにまつわる読み物をご用意しました。
しばらくの間、お付き合いください。



中川政七商店が残したいものづくり
#01陶磁「産地のうつわ きほんの一式」

商品三課 榎本 雄


昔、祖父母の家に大きな食器棚がありました。

祖父母の家は縁側と土間のある古い日本家屋で、玄関をくぐると土間が広がり薄暗くどことなくひんやりしていて遊びにいくといつも幼心にワクワクするような場所でした。
土間を渡ると離れに台所があり、そこにある大きな食器棚にはうつわが沢山つまっていました。

祖母はグリーンピース入りの肉じゃがやエビフライなど気取らない料理を作ってくれ、大きな食器棚からうつわを取り出し、盛り付けてくれました。色とりどりの料理が盛られたうつわたちをお盆いっぱいに抱えて料理をこぼさないようにと、バランスをとりながら土間の向こうに運ぶのがわたしの大切な役目でした。
土間の向こうには兄弟や従妹、叔父や叔母、両親の笑顔があふれていました。
それがわたしのうつわにまつわる幸せな記憶です。
祖父母が亡くなった今、大きな食器棚の中のいくつかのうつわはわたしの家の小さな食器棚に収まっています。


大人になりうつわに興味を持ち地元の産地を訪ねた際に、あの大きな食器棚にあったうつわと同じものを偶然見つけたことがあります。その瞬間、祖父母の家ですごした時間を思い出し嬉しいようなくすぐったいようななんとも表現できない不思議な気持ちになったことが忘れられません。
産地のうつわは美味しさだけでなく豊かな記憶を盛るうつわなのかもしれません。


日本には歴史的なうつわ産地が約30も存在するといいます。
なるほど日本の焼物産地の地図を眺めてみると内陸部の点と点を結ぶように、北から南へ産地が帯のように存在しているのがわかります。その産地をルーペで覗くように細かく観察してみると、見えてくるのはその産地に暮らし生活の生業として焼物を作っている方たちの姿です。

当たり前ですが一人ひとりの顔は違い、話される言葉も土地によって違うものです。
さらに歴史あるそれぞれの産地でこれまで作られてきたうつわを眺めて、実際に手に取ってみると、同じ焼物でも産地によってその質感や触感はまったく違うことがよくわかります。
時代によって形や色が違っていたり、同じように作られたものでも一つひとつにゆらぎがあってひとつとして同じものがない、産地のうつわの自然さに惹きつけられます。
特に、仕上がりの美しさや繊細さを競い合うようなうつわではなく、人の日々の暮らしの営みに供されるために素っ気なく作られたような日常づかいのうつわを見るとその違いが良く伝わってくる気がします。

効率化や経済競争の末、外国で作られた安価なうつわも簡単に手に入るようになった今、産地のうつわの良さや使うことの本当の価値はあまり顧みられなくなったような気がします。
そんな中で、画一的で取りつく島がないようなうつわではなく、余白を残すような良き生活のためのうつわを模索して真摯に追い求める方たちが産地にはいます。

今回わたしが企画に携わった「産地のうつわ きほんの一式 」では今の暮らしに寄り添ううつわを、日本の4つの産地のこだわりを持った作り手さんたちと制作しました。
気負わず毎日使えるうつわを目指して作りましたので気軽に生活に取り入れてもらい、それをきっかけに各地の焼物産地へもぜひ訪れてもらえたら嬉しいです。

そしてこれからも産地のうつわが使い手の豊かな記憶を盛るうつわになるといいなと思っています。  


シリーズ名:産地のうつわ きほんの一式
工芸:陶磁
産地:栃木県益子町/岐阜県東濃地方/滋賀県甲賀市/佐賀県有田町
一緒にものづくりした産地のメーカー:和田窯/作山窯/明山窯/金善窯
商品企画:商品三課 榎本雄

究極の履き心地に加わったデザインと手軽さ。伝統の「八幡靴」はこうして生まれ変わった

滋賀県・近江八幡市。近江商人ゆかりの地であり、豊臣秀吉の弟・秀次が城を構えた場所であり、名建築家・ウィリアム・メレル・ヴォーリズが教鞭を執り、メンタームを創業した地でもある。

元商家の風格ある町家の中にヴォーリズ建築が点在し、やがて琵琶湖へ注ぐ水が「八幡掘り」をたゆたう旧市街の一帯は、定番の観光地とはひと味違う静謐な空気に満ちている。

そんな旧市街からほど近い住宅地にあるのが、近江八幡の伝統工芸品である「八幡靴」を製作する「リバーフィールド」の工房「コトワ靴製作所」だ。

瀕死の状態にあった、「八幡靴」という工芸品

八幡靴の原点は江戸時代初期にまでさかのぼる。城下町であった近江八幡にはさまざまな技術や資材が流入し、革細工産業が発展した。

明治期には西洋化の流れを受け、それまでの皮革加工を生かした履物製作が始まり、戦後には高級手作り靴「八幡靴」が確立。ピーク期には年間35万足が生産され、辺りには八幡靴の工房が軒を連ねていたという。

八幡靴に用いるのは甲皮と靴底を直接縫い合わせる「マッケイ式製法」という技法で、中底のないシンプルな作りゆえに反り返りがよく、軽く仕上げることができる。

しかし安価な輸入品の台頭や、1足を数人がかりの分業制で手掛けてきた職人の高齢化により、次第に産業は衰退。2000年初めには、八幡靴を製造するのは「コトワ靴製作所」一軒となった。

そんな時、八幡靴を復活させたいと2002年に「リバーフィールド」を立ち上げたのが代表の川原勲さんだ。

リバーフィールド代表の川原さん。八幡靴の魅力を伝えたいと同社を創業
リバーフィールド代表の川原さん。八幡靴の魅力を伝えたいと同社を創業

全国チェーンの靴販売店に勤めていた川原さんは、八幡靴を「履き心地が抜群」とその確かな技術を見抜いて販売を開始。しかし、店で売れたのは1年間でたった1足だけだった。

それでも、手づくりならではの品質の良さを確信していた川原さんは、「売り方次第で売れる」と独立を決意する。

「時代は大量生産・大量消費から良いものを時間をかけて作る流れへとシフトしていました。独立を考えていたこともあり、そんな時に出会ったのが八幡靴でした」

近江八幡の伝統産業、復活の狼煙をあげる

川原さんは、リバーフィールドを立ち上げた後、さまざまなアイデアで窮地にあった伝統産業を盛り立てていく。

まず始めたのはオーダーシューズに限定したネット販売。職人3~4人を抱えるコトワ株式会社に製造を依頼し、2万円前後で売り出した。

自らの足で営業も行った。滋賀県の異業種同好会に参加しながら、県内の著名人20名に限定して八幡靴を配り歩き、商品の周知に努めた。最初はひと月に5足しか売れなかったネット限定のオーダーシューズも、数ヵ月後には2~30足の注文が入るようになったという。

ここで画期的だったのはネットだけで注文できる「イージーオーダー」という試み。注文後リバーフィールドから送られる「トリシャム」というスポンジ素材の計測器で足型をとり、返送後2週間ほどで今度は仮縫いの靴が届く。

試し履きして修正箇所を伝えると、10日後には完成品が自分の手元に届く。さらに気になる箇所があれば、仮縫いのやり直しにも対応してくれるという。

ドイツ製の足型計測器「トリシャム」。ネットから注文すると、自宅にトリシャムが送られてくる
ドイツ製の足型計測器「トリシャム」。ネットから注文すると、自宅にトリシャムが送られてくる

そして手頃な価格とカスタムの幅広さも大きな魅力だ。トリシャムを導入することで石膏や木製の足型を作るコストを削減し、4万円台からのオーダーシューズを実現している。

デザインは22種、皮はキップやカンガルーなど5種、色は最大10色から選べる。

「イージー」とはあくまでその手軽さのこと。計測はトリシャムでしっかり行う上、工房が持つ数百点の靴型の在庫から最も適した型と照合して仕上げていくので、ほぼすべての人が自分の足にあった靴を作ることができる。

工房にはさまざまな足の形に対応できる靴型をストック
工房にはさまざまな足の形に対応できる靴型をストック
八幡靴
八幡靴

来店の必要がなく、手頃な価格で好みのデザインをネットから簡単に注文できるのが、リバーフィールドの「イージーオーダー」シューズなのだ。

伝統の世界に最新技術を投入

フルオーダーにも川原さんらしいアイデアで対応する。

通常はプラスチック樹脂などで自分だけの靴型を作り、そこから世界に一つだけの靴が生まれる。しかし靴型製作の業界が限られているため、ひとつの靴型自体が高価なものとなる。よって「オーダーメイド」というと10万円を優に超えるのが一般的だった。

そこで川原さんが導入したのが3Dフットスキャナーと3Dプリンターだ。

フットスキャナーが計測した足型のデータをPCへ転送し、ソフトを用いて足型設計を行う。歪みなどの微調整もPC上で行い、最後に3Dプリンターで立体プリント。大幅なコストダウンと時間短縮に繋がり、7万円台で作れるフルオーダーシューズが実現した。

八幡靴

こうして八幡靴は、川原さんのアイデアにより息を吹き返していく。

八幡靴の技術を継承するだけではなく、「オーダーシューズ」という市場にも新たな価値を見出した川原さん。

足の形は一人ひとり、時には左右によっても違うため、靴に悩みを持つ人の来店も多いそう。「ピッタリな靴ができて嬉しかった」と喜びの声も届き、数人に一人はリピーターになるという。なお、一度作った足型は5年間保管してもらうことができる。

そして2015年には近江八幡市のふるさと納税の返礼品にも採用された。一時は注文が殺到し、半年待ちの状態になることもあったそう。八幡靴の名は、着実に全国へも広がりを見せている。

八幡靴の未来を担う、若き後継者たち

2010年、コトワ株式会社が職人の高齢化などから廃業を決断し、川原さんが工房ごと引き取ることになった。

工房では後継者の問題を視野に入れ、職人を目指す研修生を積極的に受け入れ始めた。すると、職人の技術や八幡靴に興味を持つ若者が全国から集まるようになる。

工房の1階は革に靴底をつける底付け師、2階は靴の設計や革の断裁などを行う甲革師がそれぞれ作業を行い、ベテラン2人と6人の若手が活躍する。ベテランの職人が直接指導を行い、技術の継承に努めている。

靴底を付ける作業や靴の修理を行う1階の作業場
靴底を付ける作業や靴の修理を行う1階の作業場

以前社会福祉関連の会社に勤め、障害者用の靴を製作していたという高井諒太さん(28)は、「もっと靴づくりのことを学びたい」と3年前に工房に入り、ベテラン職人に指導を受けた。将来は専門の店を持ちたいという夢を持ちながら、日々作業に励んでいる。

八幡靴
八幡靴
八幡靴
八幡靴
八幡靴
糸の通り道(ガイド)を作る。ガイドがずれるとステッチもずれてしまい、全体的なバランスに関わる
八幡靴
甲革との縫い合わせ。靴の形ができてくる

「職人という存在にあこがれて」と名古屋から移住してきたのは安井龍之介さん(24)。最年少だが経歴は若手の中で最も長く、現在は全工程を任される頼れる若手職人だ。「ゆくゆくは独立したい」と笑顔で語ってくれた。

八幡靴
八幡靴
甲革を靴型の裏に引っ張って伸ばし、靴底に固定していく「つり込み」。ベテランでも気を使う難しい工程
八幡靴
八幡靴
作業で穴の開いたズボンは革の端材をワッペン替わりにして補強する
八幡靴
八幡靴
革の断裁と、縫製を行う2階の作業場。建物や年代物のミシンなどにも歴史を感じる
八幡靴
オーダー用紙に書かれた計測結果に沿って革を切り出して行く
八幡靴
八幡靴
甲部にあたる革(アッパー)を縫製する作業

「八幡靴」の可能性、さらに広がる

手頃な価格ながら、手縫い特有の履き心地が支持を集めている八幡靴。しかし、まだまだ購入者の年齢層は高めで、若年層への普及が課題。

そこで川原さんが新たに取り組んでいるのがスニーカーの試作。表面に革を用いながら、手縫いならではの履き心地を実現しようと試行錯誤を重ねている。

八幡靴

福岡県宗像市からやってきた泉祐貴さん(31)も、スニーカープロジェクトに携わる一人。八幡靴の魅力を若い人にも知ってもらいたいと、新商品の開発に向けて奮闘する。

八幡靴

近年ファッション誌でも特集が組まれるなど、注目を集める八幡靴の技法を用いたスニーカー。若い層を積極的に取り込む新たな看板商品になりそうだ。

受け継がれた伝統には、訳がある。

かつて数百軒を超えていたという工房は最後の一軒となり、絶滅の危機に瀕していた八幡靴。しかしそこには確かな技術と、手づくりならではの温かみが残っていた。

本当に良いものは、それを愛する気持ちとアイデア次第で何度でも息を吹き返す。そして、人々を魅了し続ける。

そんなことを、目の前で証明された気がした。

八幡靴

<取材協力>
リバーフィールド株式会社
滋賀県近江八幡市八幡町336(工房)
0748-37-5451
http://easyorder-shoes.com/

文:佐藤桂子
写真:平田尚加

デザイナーが話したくなる「ふんわりウールのベレー帽 」


中川政七商店で初めて作ったベレー帽。
デザイナーの鳥海さん自身、大人になった自分がかぶりたいベレー帽って?と考え始めたそうです。

鳥海さんは、10代のころベレー帽をよくかぶっていた時代があったそうです。
それから社会人になり、学生のころとは違うおしゃれを楽しみながらも、大人になったら今度はベレー帽をかぶるのが少し照れくさいなと、遠ざかっていたアイテムになっていました。

衣料品に携わっていた鳥海さん。そろそろ中川政七商店でベレー帽を作るのもいいのではと、いろいろ調べ始めました。
よく目にするものは、フェルトのものが多いのですが、形がしっかりとしているので、頭の形によってはなんだかしっくりこないということがあるそうです。少しかぶるのにもコツと慣れが必要なんですね。



そこでminoでお世話になっている日本有数のニット産地・新潟県 五泉市の「株式会社サイフク」さんと一緒に考えました。



帽子屋さんじゃないんですね?と不思議に思いましたが、触ったら納得の風合いと柔らかさ。
ふんわり柔らかな、いつまでも触っていられるような生地感は、さすがニットのプロ!!
これでセーター作ったら気持ちがいいだろうなと思う帽子です。



柔らかいけれど、しっかりしている感じもするのは、強縮加工をほどこしているからだそう。
初めて聞いた言葉ですが、いわゆる最終的にフェルト状にする加工ということです。

細かい目で編み上げたものを加工することで、さらに毛の風合いを良くして目を詰まらせていきます。
もっと長い時間強縮加工をするとよりフェルト状になっていきますが、今回は編地とふんわりした風合いを残すための適度な加減を調整しています。
このふんわりとした状態は空気を含み、目の詰まりで風を通しにくくすることで、保温性を高めています。



帽子の形にするために、ニットを縫っている部分があるのですが、これが言われないとわからないくらい、きれいにつなぎ合わされています。
これはリンキングといって、ひとめひとめ目を刺してつなぎ合わせていく縫製方法になるのですが、ここを目立たなくするのにリンキング目をできるだけ小さくしたそうです。
リンキングでは、裏側に縫い目が出ることもないので、かぶった時のごろつきもありません。



ベレー帽らしい真ん中にちょんと付いている飾りが気に入っているのですが、これはあとから付けたものではないんです。ニットでそのまま編まれているので、細すぎず自然と帽子に馴染んでいるのが、目立ちすぎずポイントになっています。



どんな頭の形にも柔らかくてなじみのいいベレー帽。かぶっていても気にならない軽さで、きれいめにかぶっても、くしゃっとかぶっても、さまになります。
「少し照れくさいな」から、「かぶってみたい」と思える大人のベレー帽ができました。
どの年代の方にも似合う、おばあちゃんにもかぶってほしいと、中川政七商店らしい初めてのベレー帽に鳥海さんも嬉しそうでした。