愛しの純喫茶〜福井編〜 喫茶 迦毘羅 (かびら)

こんにちは。ライターのいつか床子です。
旅の途中でちょっと一息つきたい時、みなさんはどこに行きますか? 私が選ぶのは、老舗の喫茶店。お店の中だけ時間が止まったようなレトロな店内に、煙草がもくもく。懐かしのメニューと味のある店主が迎えてくれる純喫茶は密かな旅の楽しみです。

旅の途中で訪れた、思わず愛おしくなってしまう純喫茶を紹介する「愛しの純喫茶」。今回は、昭和36年から56年続いている「迦毘羅 (かびら) 」です。

名物カレーの意外な誕生秘話

福井駅西口から歩いて10分ほど、歓楽街「片町」にほど近い路地に「迦毘羅」はあります。戦前から軒を連ねていて、このあたりで残っているのは迦毘羅さんと裏手の福井銀行だけ。
しかし福井銀行は来年から建替工事が始まり、迦毘羅も来年の1月〜2月には近所への移転が決定。ここは市内に残された数少ない昭和の1ピースといえます。

こじんまりとした外観。隣には煙草屋さんがあり、店内でつながっています

店はレトロというより、都心の洗練されたバーのような印象。お話を伺ってみると、夜にはマスターの娘さんがママを務めるスナック「night迦毘羅」に切り替わり、昼とはまた違った顔を覗かせるそうです。

インテリアは統一され、とてもおしゃれな雰囲気
このレンガ塀、現在の建築法ではもう設計できないそうです
常連さんからのプレゼントが、あちこちで大切に飾られています

この店の看板メニューはカレーライス。

「迦毘羅」という店名はお釈迦の生まれた場所にちなんでいて、お釈迦様は「カレー」の名付け親だという説もあるのだと、おしゃべり好きのマスターがにこにこと教えてくれました。

マスターはとってもお茶目。紙ナプキンでスプーンを包む方法も実演してくれました

とはいえ、マスターは初めからカレーライスを売りにするつもりではなく、飲食店の定番メニューである「蕎麦」と「ラーメン」と「カレー」のどれかをメインにしようと考えていたそうです。しかし、福井県は蕎麦の本場なので競争率が高そう。ではラーメンはというと、

「ちょうどその年にインスタントラーメンが発売されてねえ。みんな食べてて、こりゃ敵わんと思って。『ならカレーや!』ってなもんでね」

そんな時代ならではの理由もあって、上阪したマスターは難波のカレー屋を隅から隅まで食べ歩きます。そのなかでも特においしいと感じた店で「給料も寝るところもいりませんから、まかないだけ食べさせてください!」と頼み込み、弟子になることに成功しました。

お客さんの対応からスパイスの調合から、1から全て学んだというマスター。「そのときのコック長がよかったんやね。おかげ様でいい店に飛び込めて。もうその店はないんやけどね」と当時を懐かしそうに振り返ります。

そんな下積みを経て出来上がった伝統ある迦毘羅のカレーは、県内外から熱烈なファンが訪れるほど大人気。黒っぽいルーはたんに辛いわけではなく、さまざまなスパイスが絡み合った奥深い味わいです。

訪問時には必ず食べたい「カビラカレー」のコーヒーセット (1100円・税込) 。スープも付いています

相棒のコーヒーミルで淹れる丁寧な一杯

また、「これ見てみる?」と言って店頭のショーケースを開けていそいそと見せてくれたのが、毎朝コーヒーを挽いているミル。大阪で購入してそのまま56年、一度も壊れることなくマスターと年を重ねてきた、相棒のような存在です。

染み込んだコーヒーの香りに、降り積もった時間を感じます

コーヒーは手間暇をかけて丁寧に淹れるネルドリップ形式。紙ではなく布 (ネル) のフィルターを使うことでより細かい泡が立ち、なめらかな口当たりになります。

「ネルドリップは蒸らしの技術によって香りもコクも色の具合も変わるんだよ。ここのはやっぱり違うね」と気さくに声をかけてくれたのは、隣のカウンターに座っていた常連さんでした。

コクのあるコーヒーを飲みながら、マスターと常連さんとのんびりおしゃべり。福井の歴史からマスターの健康方法まで心地良く聞き入っているうちに、もう何年もこの店に通ってきたような親しみを感じていました。

いや実際、通いたい‥‥!

「また来ます、絶対来ますからね!」と (一方的に) 強く約束して、泣く泣く店を後にしました。

喫茶 迦毘羅
福井県福井市順化1-1-14
TEL:0776-24-3885
営業時間:9:00〜24:00
※20:00からは「night迦毘羅」としてスナック営業
定休日:日曜日・祝日
駐車場:なし

文・写真 : いつか床子

二〇一七 神無月の豆知識

こんにちは。中川政七商店のバイヤーの細萱です。

連載「日本の暮らしの豆知識」の10月は、旧暦で「神無月」のお話です。

神様はどこへ消えた?

その語源には諸説あり、「無」は「の」という意味で、神を祭る月から「神の月→神無月」という説が有力のようです。

また、10月には全国の八百万の神様が、一部の留守神様を残して島根県の出雲大社へ会議に出かけてしまうので、ほかの地域に神様がいなくなることから「神 (の) 無 (い) 月」になったという説もあり、反対に出雲の国では神様がたくさんいらっしゃるので「神在月 (かみありづき) 」と言います。

俗説ですが、後者の説が面白く、なるほどなと腑に落ちます。

島根県立古代出雲歴史博物館には、八百万の神様が大集合した『大社縁結図』が展示されています。出雲大社に集まった神様たちが木の札に男女の名前を書き、相談しながら「縁結び」しているところを描いてあり、なにやら神様を身近に感じられるので、出雲に行った際はぜひご覧いただくことをおすすめします。

そして、神無月は晩秋から初冬。お鍋の、季節です。

神無月は、新暦では10月20日~11月20日頃にあたります。

季節の変わり目で気温差の激しいこともあるので、服装は重ね着で徐々に冬の到来に備える時期ですね。また、食卓にはお鍋の登場が増えてくるのではないでしょうか?

簡単で栄養バランスも良く、身体も芯から温まるので我が家も鍋が大活躍し始めます。中でも土鍋が好きで、いくつか持っていますが、今回ご紹介するのはスープなど煮込みに似合う深鍋タイプの土鍋です。

土鍋

作り手は、京丹波の山の麓で作陶をされいてる石井直人さん。大学卒業後の1980年頃、倉敷民芸館のバーナード・リーチ作の染付を見たのがきっかけで陶芸の道を志したそう。京丹波の原野を開墾し、ご自身で築かれた登り窯で作陶をされています。作品全体からは力強くも生活に馴染む民芸の流れをどことなく感じます。

縁あって手に入れた深鍋は、厚みと重みもしっかりありますが、比較的柔らかい土でつくられたようで欠けやすさに気も使います。でも、その存在感に惹かれてキッチンでも常に見えるところに置いています。コトコトと煮込む時間や土鍋から感じる滋味深さが好きで、秋冬の使用頻度は高まります。

金属でなく、土鍋ならではの良さもある。

土鍋は金属に比べると熱伝導が悪く、温まるのには時間が掛かりますが、蓋をしておけばしばらくは熱々が続くほど保温力が高いのです。お味噌汁やスープなど食卓でおかわりをするメニューにはぴったり。沸かしなおす手間もなく嬉しいものです。

特に石井直人さんのこの鍋は深さがあるせいか、「まだこんなに熱いの?」と驚くほどの保温力。

土鍋で作るとなぜか美味しく感じるので、その理由を探ったところ、やはり温度がゆっくり上がる点が大きいようです。根菜は酵素が働きやすくなって甘みが増したり、煮崩れを起こすことなく余熱でも味が染みます。

お米も根菜同様に、ゆっくり火が回ると甘みは増すことがとある実験でもわかっています。また、火あたりがやさしいので、火があたっている部分とそうでない部分の温度差が少なく、炊きムラもできません。そういえば初めて土鍋でご飯を炊いた時の美味しさには感激した覚えがあります。

土鍋のふち。美しい釉薬が見える

石井直人さんは、最近はあまり個展もされないそうで、京丹後のご自宅に隣接したギャラリーで展示販売をされています。奥様の石井すみ子さんは、「暮らしのデザイン室」というコンセプトのギャラリー店舗を別棟で営まれており、ご自身でデザインされた台所用品や洋服、家具などの暮らしの道具を販売されています。お二人の作られる器や道具は、まさに生活から生まれ、お二人の人生さえも感じられる存在感があります。

教えたいような秘密にしておきたいようなギャラリーですが、ちょっと人里離れた場所にひっそりと佇むので、ご興味のある方は行かれる前にご連絡されることをおすすめします。

美しく、愛すべき土鍋があることで、ささやかな幸せを感じることが出来る神無月の暮らしの道具です。

<掲載情報>
石井直人 独華陶邑

細萱久美 ほそがやくみ
東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、
美味しい食事、美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。

文:細萱久美
写真:杉浦葉子

わたしの一皿 道南の海を描く

食べ放題の北海道を旅してきました。みんげい おくむらの奥村です。9月上旬。まだすばらしい緑色の大地。あと一ヶ月もすれば紅葉の景色が楽しめるでしょうか。食欲が止まらない季節の入り口に、美味しい空気。

あまりイメージがないかもしれないけど、北海道にも焼き物ってあるんです。ここでいう焼き物は食べ物じゃない、うつわのこと。冬が寒い北海道は土が凍ってしまうので、焼き物をするのは簡単ではない。しかし、江戸末期から明治にかけて北海道でも焼き物の文化が生まれ、今やたくさんの作り手がいます。

廃校が工房に。景色の中で産まれるうつわ。

その一つが今回のうつわを作っている、ソロソロ窯。窯主の臼田さんは東京に生まれ、焼き物を沖縄に学び、奥様のご縁で10年ほど前に北海道の南部、厚沢部町 (あっさぶちょう) に窯を築きました。

窯へは函館の中心部から車でのんびり1時間半ほど。函館の町を抜けるとどんどん山の風景が広がってきます。北海道らしい深い森や、広大な畑、黄金色の田んぼ。ワクワクする風景。

ソロソロ窯は集落の廃校を工房にしています。学校と言っても、もともと大人数がいたような学校ではなく、小中学校が一緒になった、平屋のこじんまりとしたもの。元職員室だという、ろくろ場、その窓から広がる景色のすばらしさ。

校庭だった場所には薪窯や薪置き場、敷地の外にはかぼちゃやそばの畑。奥には山。こんな景色を眺めながらする仕事はどんなものだろうか、とうらやましすぎてクラクラする。四季折々の景色をできれば眺めてみたいもの。ここらへんでは、窯を焚いても煙を誰も気にしないんだそう。みんな薪ストーブの生活だから、薪や煙はあたりまえの景色。なんとも北海道らしい話です。

こちらの焼き物はとてもシンプルで、おだやかな印象。鉄分の多い、黒っぽい土の上にベースの白、あるいは呉須 (ごす) という藍のような青。薪の窯で焼くと灰がかぶったり、窯の中で置かれていた位置によって火のあたり方が違ったりで、ベースはシンプルなのにそれぞれにおだやかな個性が加わります。

さて、今日はうつわと食材がご近所さん。ソロソロ窯から東に海を目指す一本道のゴールは木彫りの熊で有名な八雲町の1つの集落である落部 (おとしべ) 。ここは噴火湾に面していて、ボタンエビ漁の盛んな港町。ボタンエビのシーズンは春と秋。今は秋漁が始まったばかり。

バットにいっぱいのボタンエビ

今日のボタンエビはの特におおぶりで、水揚げから数時間のうちに送ってもらい (到着はさすがに翌日だけど) 、新鮮なうちに刺身に。この時期のメスはふっくらした体。そしてお腹にパンパンに卵をもっているので、それもしっかりいただきます (あ、ボタンエビの頭は忘れずにお味噌汁に。ダシ、最高ですから) 。

ボタンエビを処理しているところ

写真じゃ伝わりにくいけど、うつわは呉須の深い青がうつくしい鉢。ボタンエビの卵のあざやかな青ときれいなグラデーション。ぷりっぷりのエビの身にカボスを少々しぼって。あとは塩か醤油か、お好みで。

身の甘み、卵から感じるかすかな塩気。口に含めば思わず笑ってしまう。うはははは。月並みな言い方かもしれないけど、目を閉じればボタンエビの漁場である噴火湾の景色が広がります。北海道、おそるべしだな。

奥村 忍 おくむら しのぶ
世界中の民藝や手仕事の器やガラス、生活道具などのwebショップ
「みんげい おくむら」店主。月の2/3は産地へ出向き、作り手と向き合い、
選んだものを取り扱う。どこにでも行き、なんでも食べる。
お酒と音楽と本が大好物。

みんげい おくむら
http://www.mingei-okumura.com

文:奥村 忍
写真:山根 衣理

移住の町、鯖江市河和田。暮らしてみて実際どうですか。

こんにちは。さんち編集部の西木戸弓佳です。

突然ですがみなさんは、「移住」を考えたことがありますか?

私が今回取材をしたのは、全国でも珍しく人口が増え続けている地域、福井県鯖江市。その東部に位置する人口4200人ほどの小さな町、河和田(かわだ)地区に、近年多くの若者が移り住んでいるそうです。

移住目的の多くは、この地域の産業。河和田地区は漆器、めがねの一大産地であり、周辺地域を含めると和紙、刃物、たんす、焼き物など、様々な工芸品が作られているものづくりの町です。その産業に惹かれ、県外から人が集まっていることから「移住の町」として注目を集めています。

河和田地区

ところで、「移住」にどんなイメージをお持ちでしょうか。最近よくメディアで取り上げられるその言葉は、“スローライフ”、“田舎暮らし”といったニュアンスで伝えられることが多いような気がします。
だけど、河和田で出会う人たちはそのイメージとは少し違いました。毎日頭をフル回転させながら、時には深夜、休日まで時間を惜しんで働く人たち。

「この町を変えたいと思ってる」
「田舎も都会も、自分で仕事をつくりだすのは同じ」
「今の環境が本当に楽しい」

と、いきいきと話す若者が集まるパワフルでエネルギッシュな小さな田舎町。もしかすると、都会のように簡単に情報が入ってきにくい地方だからこそ、感度が高く自ら動く行動力を持った人たちが集まっているのかもしれないと思いました。

彼らはなぜこの町に移住したのか?不安はなかったのか?住んでみて実際どうなのか?
生活のこと、仕事のこと、移住をした若者たちに今の様子を聞いてみました。

町を変えた、1人目の移住者

新山「僕が河和田に来た頃、ひとりも知り合いがいなかったんです。まずは出会いを求めて、地元の人に若者が集まる繁華街を聞いて行ってみたら‥‥ただのショッピングセンターでした(笑)」

TSUGIの新山直広さん。2009年に河和田に移住
TSUGI代表の新山直広さん。2009年に河和田に移住

新山直広(にいやま・なおひろ)さん
・クリエイティブカンパニーTSUGI 代表
・1985年大阪生まれ
・2009年に移住

学生の頃から参加していた「河和田アートキャンプ」の事務局立ち上げを機に福井県鯖江市へ移住。事務局、市役所を経て、河和田のものづくりに特化したクリエイティブカンパニー「TSUGI」を立ち上げ。地元の産業に携わるグラフィック、イベントなどのクリエイティブを行う。

そう笑うのは、河和田でクリエイティブカンパニーを運営するTSUGIの新山さん。河和田地区に移住した最初の若者です。この方が移住者を増やしたと言っても過言ではないキーマンです。

河和田アートキャンプとは

2004年の河和田豪雨をきっかけに、株式会社応用芸術研究所の片木孝治さんが始められた「地域づくりプロジェクト」。福井県鯖江市の「河和田地区」に全国から学生たちが集まり2ヶ月ほど暮らしながら、地域の課題と向き合い解決していく試み。2017年で12年目を迎える。
(以下、アートキャンプと記載)

新山「これからは地方の時代だ!と、大学を卒業してすぐに鼻息荒く移住しました」

新山さんが移住をしたのは2009年。私もちょうどその年に大学を卒業して社会に出ましたが、その頃はリーマンショックで大不況。「リストラ」「内定切り」など暗いニュースが流れ、これから出ていく社会は大変なのかもしれない、と不安を覚えました。

だけど、それと同時にそんな状況の中、新社会人になる私たちには「この社会は変えていかないといけない」という、青臭く、勢いだけの決意のようなものがあったように思います。

新山「建築を学んでいたこともあって、危機感もありました。着工数は2008年で頭打ち。これからは新しく建てることより、今あるものを活かした場づくりや地域づくりが大切だと思ったんです。『この町を変える』と決意してひとりで河和田へ移住しました」

新山さんが卒業する頃、アートキャンプの拠点を河和田につくるという話が持ちあがり、片木さんが代表を勤める応用芸術研究所の社員として現地へ移住ことが決まりました。今でいう地域起こし協力隊のようなかたちで、市の委託事業として産業の調査研究をしたり、アートキャンプの窓口を行われていた新山さん。地元の一大産業である漆器の現状を知るうちに想像していた以上に深刻なことが分かりました。

新山「せっかくいい物を作ってるのに、売り場で物の良さが伝わらず売れてなかったんです」

越前漆器の売上は落ちていく一方。売上はピーク時の3分の1にまで落ち込んでいました。問題を目の当たりにして「自分はただ調査をしてるだけで、何もやれていない」と、日々悶々としていたそうです。

新山「ずっと仲間が欲しかった。『仲間さえいればやれることがもっといっぱいあるのに』ってずっと思ってました。そこにみつきが来てくれて、一緒になんかやろうぜって『TSUGI』を始めたんです」

2013年、クリエイティブカンパニー「TSUGI」を結成。そこから、移住者によってこの町は変わっていきます。


地域の産業が、人を集める

河和田移住者でありヤマト工芸で働く永富三基(ながとみ・みつき)さん
みつきこと、ヤマト工芸で木工職人として働く永富三基(ながとみ・みつき)さん

永富三基(ながとみ・みつき)さん
・木製インテリア・雑貨のヤマト工芸 木工職人
・クリエイティブカンパニーTSUGI メンバー
・1989年 大阪生まれ
・2012年移住

学生時代参加した河和田アートキャンプをきっかけに福井の地場産業に憧れ、大学卒業と同時に鯖江市に移住。株式会社ヤマト工芸で職人として働く傍ら、「TSUGI」の創立や新ブランドの什器設計、多目的スペース「PARK」の立ち上げなど多方面に参加。

永富「僕は、木工職人になりたかったんです。そして、設計図だけ作ってあとは人に任せるんじゃなくって自分で手を動かしたかった。場所はどこでも良かったので、岐阜や京都も考えたんですけど、人の多い都市圏には住みたくないなというのはありました。それで、木工職人 × 田舎という視点で、選んだのが河和田です。僕もアートキャンプに参加していたので、新山くんのことも、この土地のことは元々よく知ってました」

新山 : 「この町はそういう、土地の産業に惹かれて移住してくる人が多い気がします。“チャーリー”もそうだよね。めがねが好きすぎて移住してきた」

"チャーリー"こと、永山恭平さん
“チャーリー”こと、永山恭平さん

永山恭平(ながやま・きょうへい)さん
・めがねメーカー・谷口眼鏡 営業/企画
・1986年 福岡生まれ 兵庫育ち
・メガネが好きすぎて、2015年移住

大学ではプロダクトデザインを学び、卒業後は6年間、大手の広告関連会社で営業として勤務。
めがねフェスをきっかけに移住。翌年、谷口眼鏡に入社。

永山「僕、とにかくめがねが好きで‥‥その日のファッションに合わせて毎日めがねを変えるぐらい好きなんですけど、仕事は広告関連でめがねとは関係なかったんです。それはそれで楽しかったし、やりがいもありました。そのままいたら、いわゆる出世も見えていた。でもやっぱりめがねのことが忘れられなくって‥‥もう鯖江へ行っちゃえ!と移住しました」

— なぜ、鯖江だったんですか?

永山「販売じゃなくて、製造してるところが良かったんです。元々プロダクトデザインを学んでたこともあって、めがねの製造から携わりたかった。鯖江がめがねの産地なのはもちろん知ってたので、この業界をめがけてやってきました」

新山「谷口眼鏡に入って1年ぐらい経った?働いてみてどう?」

永山「いやー、いいですよ。毎日忙しくしてるとついつい忘れそうになるんですけど、むちゃくちゃ充実してます。入ってすぐの頃に、めがねの雑誌を会社で見てて怒られないことにまずびっくりした(笑) 。前の会社の時は、パソコンで画面を小さくしてコソコソ見てましたからね」

嶋田「私も、ずっと漆の仕事がしたくて仕方なかったんですけど、今は漆で心が満たされてる(笑)」

嶋田希望さん・漆琳堂で塗師として働く
嶋田希望さん・漆琳堂で塗師として働く

嶋田希望(しまだ・のぞみ)さん
・漆器メーカー 漆琳堂(しつりんどう)・塗師(漆を塗る職人)
・1992年 東京生まれ
・2015年移住

漆の専門学校を卒業後、理想の仕事がなく地元の書店で働く。セレクトショップで漆琳堂の漆器を見かけたのをきっかけに「ここで働きたい」と漆琳堂へ。

関連記事:「この漆器がつくれるなら、どこへでも。」移住して1年。職人の世界と、産地での暮らしを聞きました。

嶋田「漆の仕事をやってない時も、離れるのが嫌だったから家で漆を塗ったりしてたんです。でも今は仕事で漆が塗れる。それが本当に幸せで仕方ないなと日々思ってます」

仕事も嫁も。出会いは現地。

新山「働くところってどうやって探すの?福井のメーカーさんはあんまり求人サイトに載せてないし、探す手段が都会に比べて限られてるよね」

嶋田「私は直接、電話しました。人、募集してないですか?って。求人はだしてなかったけど、タイミングよく漆琳堂も人を入れようかと思っていた時期で、すぐに入社が決まりました」

永山「僕は、半年ぐらいはその時住んでいた大阪で、ネットで探してました。だけど、その半年の情報よりこっちに実際に来て短期間で探した時の情報のほうが全然濃かった。人づてに紹介してもらったりして、2、3ヶ月ぐらいで仕事が決まりました」

— 元々福井に友だちがいたんですか?

永山「まったく。縁もゆかりもない土地です。こっちへ来て、知り合い0人の状態から就活をはじめたんですけど、早い段階で新山くんと知り合って、そこから一気に友だちが増えました」

新山「はじめて会ったのは“めがねフェス”だっけ?」

永山「そう。就活期間中にめがねフェスをやってて遊び半分、就活半分でこっちに来た。それが8月ぐらいで、就職が決まって福井に引っ越したのが10月。2ヶ月ぐらいですね。その間にいろんな人に出会いました」

新山「仕事も嫁もゲットして‥‥今年のめがねフェスのポスター、チャーリーの結婚式だよね(笑)」

めがねフェス2017
「めがねフェス」で永山さんと奥さんが出会い結婚されたことに因み、2017年のキービジュアルにはお二人の結婚式の写真が使われた(design:GOOD MORNING)

実際、食べていけますか?

— ちょっと突っ込んだ話になりますが、都会から転職して移住となると実際食べていけるのか?といった不安はなかったですか?

永山「来る前に求人サイトで給料を見てた時は正直不安もありましたし、実際に前職と比べると個人での収入は減りましたね。ただ、就活でこっちへ来て人に会ってみると、それでもいいかもなぁと思えたんです。
『本当に自分の好きなことを仕事にしたら辛くなるから辞めとけ』とか言う人もいたけど、そうじゃないと思う。こっちに来て思ったのは、やりたいことやってる人って、むちゃくちゃしんどそうやけど、すごく充実してる人が多かった。今やりたいことやれてるし、やった分だけ評価もしてもらえてるなぁと感じてます。めがね業界に憧れてただけのあの頃には、もう戻りたくない。」

何でもやる。満たされる度合いが増えていく。

永富「こっちの仕事の充実感って、小さい会社が多いというのも関係してるかもしれないですね。例えば、僕は木工職人だけど今は営業もする。実は、始める前は営業とは一線を引いてたんです。『よく喋るし向いてるんじゃないか』って誘われてたんだけど『職人だけをやりたいから』って、かたくなに。だけど、伝えることの大事さに気付かされて自分から寄り添ってみたら、営業も楽しいしみんなが求めてるところと一致したんです。自分が作ってるものとお客さんの顔が繋がって、満たされる度合いがどんどん増えていきました。これしかやらない、できないと思ってる人にも、いろんなところに可能性を見出してぽんと放り込んでくれる許容がこの町にはあるんかなぁと思います」

— 嶋田さんも職人だけれど、展示会に立ったりワークショップしたり、いろんなことをされてますよね。

嶋田「漆器業界の中でも、つくることだけをやってる作家性の高い職人さんが集まってるところもあるけど、河和田はつくる以外の商売だったりブランドづくりだったりの知識を持ってる職人が多いと思います。そういったいろんなスキルを持ってる人が集まってるし、教えてもらえる。そしてやりたいって言ったことを受け入れてもらえる環境があるなと感じてます。いろんな産地の中でも、新しいことをやれるポテンシャルを一番持ってる場所だと思う」

漆琳堂嶋田
漆琳堂に就職して2年足らず。やりたかった漆を使ったアクセサリーブランドを立ち上げた

変化にポジティブな田舎

新山「移住者に対してもそうだけど、この町は変化を受け入れる土壌があるよね。それはものづくりのバックグラウンドとして、美術工芸じゃなく生活工芸をつくりつづけてた背景があるからな気がする。この土地は昔からその時代時代に必要とされるものを作ってきたし、デザインも変えてきた。そこから魅力的なものが生まれた実績も持ってるし、変化に対して寛大なのかもしれないですね」

— なるほど。これからこの産地に必要な人ってどんな人なんでしょう。

新山「ものづくりをする人ももちろんそうだけど、これからのホットワードだなぁと思ってるのが『じゃない人』。僕らみたいなクリエイターや、職人じゃない人です。作り手と使い手の間にいる人たちはもっと、多種多様でもあっていいと思うし、そういう人たちをこの産地は求めてると思うんです」

作り手と使い手の間の「じゃない人」の役割

永山「僕もそうだけど、ものづくりの町だからこそ、作り手と使い手の間に入る人は必要だと本当に感じてます。求人情報だけ見ると職人や製造しかないんだけど、いいもの作ってるのに伝える力を持ってないメーカーって多いし、僕の場合はそういう役割が必要だと勝手に思い込んでました。

つくる以外にも、ものづくりを支えるための「職能」みたいなことっていくらでもあるし、これまでそういう人の方が少なかったから逆に来て欲しいんですよ。営業も広報も、資格も免許もいらないし、誰にでもやれる。いくらでも仕事はあります」

谷口眼鏡・turning
永山さんが働く谷口眼鏡さんは、綿花やパルプなどの天然素材を原料とする「アセテート」をフレームに利用。1996年に立ち上げた自社ブランド「TURNING」も人気

新山「つくるという段階の次の世界が、今やっと見えてきた気がする。いろんな産地がある中で、そういう作り手と使い手の間の人が入る環境や土台が、鯖江は整っている場所かなぁと思う」

嶋田「うちのファクトリーショップ店長をやってくれている楳原さんがまさしくそう。彼女の場合、結婚をきっかけに大阪から河和田に越してきて、仕事をしてないって聞いたから店長枠で誘ってみたんです。『何か力になれるんだったら』って入ってくれたんですけど、外への対応も事務も、スキルが高かった。店長業務以外にもどんどん任せることが広がって、今ではもし入ってくれてなかったら、どうなってたんだろうって状態。抜けられたら困るし、みんなが頼りにしてます」

自分で場所をつくるのは、田舎も都会もおなじ

永山「そういえば、僕らは“移住”って言われるけど、都会に越すのは移住って言わへんのかなぁ。もしかすると都会はシステム化されててやりやすいかもしれないですけど、自分の場所や仕事をつくりだすのって結局は一緒じゃないですか。自分自身で動くという点ではあまり変わらないんじゃないかな」

新山「職能より、パーソナリティが結構大事だよね。アートキャンプの学生さんじゃないけど、何もできないけど、何でもやりますぐらいの感じがいいんじゃないかな」

— そう思うと、そんなに気負わなくても移り住めるのかもしれませんね

永富「ちょっとかじったことありますぐらいの方がいいのかもしれない。やって失敗しても大丈夫だし、周りと一緒に徐々に成長していくのがこの町らしいのかなと思います。大企業で決まった道をステップアップしていくみたいなのはないけど、発展途上の会社ばっかりだからこそ、いろんなところで化学反応が起こって、やるべきことができていくみたいな」

永山「温室よりもこっちに来て野ざらしの中で動く方がスキルアップのスピードとしても早いんじゃないかな」

みんなでつくる河和田の未来

新山「この町でよかったと思うのが、そういう『何かをやりたい』という人が多いこと。いろんな条件が揃って、連鎖反応でいろんなことが動き出してる。今、人口4200人のこの小さいエリアだけで移住者が67人。僕が来たばかりの昔とは全然違う、もう何でもやれる気がしてます」

— そうですね。これから、どんな町にしていきたいですか?

新山「ここに来たらいわゆる“田舎”や”地方の産業”の価値観が変わるみたいな場所でいられるといいですね。田舎だけど、作ってるものはかっこいいし、やってる人たちもおもしろい。そしてきちんと産業として儲かってることも大事です。
町としては、地元の物を買えるショップがあったり、気軽に泊まれる宿があったりして、それが網目のように町全体で繋がってるみたいな風景をつくりたい。河和田は、次の新しい地方のかたちをつくれるポテンシャルもあると思うし、行くなら早くいきたい。だからもっといろんな人が必要だし、もっと仲間が増えるといいなと思ってます」

最後に「楽しそうですね」と言うと、「大変ですけどね。いや、やっぱり楽しいですね」と、返ってきた。たくさん、苦労はあるのだろうけれど、やっぱり自分の好きなことをやってる人たちはとてもいきいきしてるし、なにより本当に楽しそうでした。きっとこれからも、そんな移住者がどんどん増えて、この町は変わっていくのだろうなと感じたインタビューでした。

河和田移住EXPO

河和田移住EXPO

今回お話を聞いた方たちによるトークセッションを開催します。またトーク後には直接話を聞ける交流会も。ぜひご参加ください!

10月14日(土)18:00~
詳細はこちら:http://renew-fukui.com/iju.html

文:西木戸弓佳
写真:上田順子、林直美、谷口眼鏡(提供)

【鯖江のお土産・さしあげます】めがねフレームから生まれた「Sur」のピアス

こんにちは。ライターのいつか床子です。
わたしたちが全国各地で出会った “ちょっといいもの” を読者の皆さんへのお土産にプレゼント、ご紹介する 「さんちのお土産」。今回は、福井県鯖江市のアクセサリーブランド「Sur(サー)」のピアスをお届けします。

付けていることを忘れそうになるほど軽やかで、肌にしっくりとなじむSurのアクセサリー。実は、めがねフレームに使われる素材からできているんです。

鯖江はめがねフレームの国内シェア9割以上を誇るめがねの聖地。街のあちこちでかわいらしいめがねのモチーフが見つかるのも、散歩心をくすぐられます。

めがねをかけた少年を発見。手にはもう1つの名産である越前漆器も

めがね作りに込められた技術が、日々を彩るアクセサリーに

今回お話を伺ったのは、Surのクリエイティブディレクター・新山悠(にいやま・はるか)さんが、めがねフレームの素材を使った鯖江ならではのアクセサリーブランド・Surをプロデュースしています。

Surの事務所は、鯖江を拠点に活動しているクリエイティブカンパニー「TSUGI(つぎ)」の中にあります

事務所のディスプレイには、これまでに手がけてきたSurのコレクションがずらり。どれもシンプルでありながら非常に洗練されていて、見れば見るほどうっとり引き込まれます。

めがねフレームと同じ素材とは思えません‥‥

「TSUGIの活動を知ってくれているめがね工場の人たちや、そのお知り合いの方の集まりに呼んでもらったんです。そこでめがねフレームの端材をいただいたのがSurを始めるきっかけでした」と新山さん。

めがね作りで必要な素材や技術は、アクセサリー作りにとってもアイディアの宝庫だったといいます。鯖江の人たちと話し合いながら、めがね作りの技法を少しずつ取り入れることで、めがねのように持ち主の生活と寄り添えるアクセサリーが誕生しました。

Surのアクセサリーは鯖江のめがね工房と協力しながら作られています

人に優しい、めがねフレーム素材

Surで使われているめがねフレーム素材は「セルロースアセテート」と「チタン」です。

セルロースアセテートは、綿花を樹脂加工した素材。肌と環境に優しい成分でありながら、大理石のような光沢も持ち合わせています。

加工前のセルロースアセテート。豊富な柄が揃うのも、めがねの産地である鯖江ならでは

また、金属フレームに使われているチタンは医療器具としても使われ、金属アレルギーの人でも安心して身に付けられます。軽くて付け心地は抜群。シルバーとはひと違った落ち着いた輝きが、耳元をさりげなく彩ります。

今回のお土産

今回のお土産はこちらの2つ。アセテートとチタンの加工技術を使った「TITANIUM(チタニウム)」シリーズのピアスです。やわらかなグレーでどんなコーディネートにも似合う「TI-P2」(写真左)と、エメラレドグリーントホワイトのマーブル模様がかわいらしい「TI-P3」をおすすめしていただきました。

surアクセサリー
「TI-P2」(写真左)と「TI-P3」

めがねのように、毎日身に付けていたくなるSurのアクセサリー。特別な日の装いにも、普段着にも、ぜひ取り入れてみてくださいね。

tsugi-sur_鯖江・アクセサリー

ここで買いました。

TSUGI llc.(合同会社ツギ) / Sur事業部
福井県鯖江市河和田町19-8
0778-65-0048
http://sur-j.com/index.html/

さんちのお土産をお届けします

この記事をSNSでシェアしていただいた方の中から抽選で2名さまにさんちのお土産 “TI-P2”と “TI-P3”をそれぞれプレゼント(どちらも片耳分のみとなります)。どちらかご指定されたい場合は、シェア時に「三角のほうのピアスが欲しい!」などリクエストをつぶやいてくださいね。応募期間は、2017年9月12日〜26日までの2週間です。

※当選者の発表は、編集部からシェアいただいたアカウントへのご連絡をもってかえさせていただきます。いただきました個人情報は、お土産の発送以外には使用いたしません。ご応募、当選に関するお問い合わせにはお答えできかねますので予めご了承ください。
たくさんのご応募をお待ちしております。

文 : いつか床子
写真 : 上田順子、いつか床子

デザインのゼロ地点 第8回:カッターナイフ

こんにちは。THEの米津雄介と申します。

THE(ザ)は、ものづくりの会社です。漆のお椀から電動自転車まで、あらゆる分野の商品をそのジャンルの専業メーカーと共同開発しています。

例えば、THE ジーンズといえば多くの人がLevi’s 501を連想するはずです。「THE〇〇=これぞ〇〇」といった、そのジャンルのど真ん中に位置する製品を探求しています。

ここでいう「ど真ん中」とは、様々なデザインの製品があるなかで、それらを選ぶときに基準となるべきものです。それがあることで他の製品も進化していくようなゼロ地点から、本来在るべきスタンダードはどこなのか?を考えています。

連載企画「デザインのゼロ地点」、8回目のお題は、「カッターナイフ」。

画期的な「研がずに折る」を生み出した、2つのヒント。

カッターナイフも前回の扇子と同じく日本で独自に生まれたプロダクトです。今でこそ日常に溶け込んでいますが、よくよく考えてみると「研がずに折る刃物」という発想は革新的です。

製造メーカーは幾つかありますが、発明したのは岡田良男氏。国内でカッターナイフのトップシェアを誇るオルファ株式会社の創業者です。 生まれた背景は業務用。元々は印刷工場や転写紙の製造現場で生まれたアイデアでした。

それらの現場では何枚にも重ねた紙を切る需要が多く、刃物の消耗が激しい。常に切れ味の良い状態を保つ刃物ができないものかと考えたとき、靴職人と進駐軍という2つの要素からヒントを得て開発がスタートしたそうです。

1つは靴職人が使っていたガラスの破片。当時の靴職人たちは靴底の修理にガラスの破片を使い、切れ味が悪くなるとガラスを割ってまた新しい破片を使っていました。

2つめは進駐軍が持っていた板チョコ。溝が入ってパキパキと折れる板チョコをヒントに、折ることで新しい刃が出てくるものができないか、と考えたそうです。

そして生まれた、世界初の折る刃式カッター。そのデザインに驚く。

この「折る刃」式は、後の「OLFA (オルファ) 」というブランド名に由来することになります。しかし、使用時には折れずに折りたいときに折れるという矛盾した機能を実現するための開発は難航しました。

刃に溝を入れるということは刃の強度を落とすことと直結します。自身でタガネを握り、手作業で刃に溝を入れる試作を繰り返し、ホルダーと呼ばれる刃の支えを作って刃を金属のケースで覆う形状が出来上がったのは1956年のことでした。

1956年 世界で最初の折る刃式カッターナイフ 「オルファ第1号」

第1号がすでに今のカッターとほとんど変わらない形状をしていることに驚きます。刃を支えると同時に刃を折るためのきっかけにもなるホルダーの先端形状、スライダーと呼ばれる親指で刃の出し入れをするための機構、板バネを使ったストッパーなど、試行錯誤の末に辿り着いたデザインや設計の足跡がはっきりとカタチに表れています。

紙を切るという目的を果たしながら使用時には折れにくくするために、刃渡りはギリギリまで短く、人の力で折れるようにするために板厚が薄い。

ただ、この「折れる刃物」は当時どこのメーカーも作りたがらなかったため、初めの3000本は近くの町工場に依頼して製作し、うまく動作しないものは一本一本手作業で修正しました。そしてその全てを自ら売り歩いたそうです。

1年かけて売り切った後、本格的に生産に取り組みます。協力会社が見つかり、1960年には「シャープナイフ」という名称で市販化します。

刃の幅も、折る角度も。すべてのカッターはOLFAに通ず。

1967年には「OLFA (オルファ) 」というブランド名が生まれ、道具箱の中で目立つ色にすることでユーザーが不意に怪我をしないように、と全ての製品を黄色で統一しました (今考えるとこれも凄いことですね)

創業者の岡田良男氏は徹底して品質にこだわり、刃物の要となる金属材質もその時代ごとの相場に左右されることなく品質を変えず、オルファは今でも国産を貫いています。300円前後で手に入る製品をすべて国産で賄い、海外にまで輸出していくのは本当にすごいことです。

カッターの刃は用途によってサイズが異なり、幅9ミリメートルまたは18ミリメートルあたりが一般的です。実はこれもオルファが作った規格で、なんと今では世界中のメーカーがオルファの刃のサイズに合わせてカッターを作る、というデファクトスタンダードとなっています。ちなみに折る刃の角度は59度で、これもオルファ規格です。

そして、現在の市販のカッターナイフもよく観察すると実に細かい配慮がなされているのがわかります。

例えば、紙を切るときにカッターの刃を押し付けても刃が動くことはありませんが、親指でスライダーを自然な動作でずらすと、使っている側は気付かずともロックが外れるように設計されています。ユーザーが意識しなくても動かしたいときだけ動かせる構造はYKKのファスナーなどにも似ていますね。

また、ホルダー内で刃と金属のホルダーが干渉しないように設計されていたり (それもスライダーと一体の1パーツで!) 、ホルダーは刃先が左右にぶれないように刃の厚みとほとんど誤差なく作られています。

カッターナイフ

刃物なので最も性能を左右するのは刃の作りだと思いますが、実はこのホルダーの精度で切れ味が大きく変わります。なので、僕の中ではホルダーがプラスチック製のものは論外です。

デザインのゼロ地点から見る、未来に続くカッターナイフとは?

そんなオルファの定番といえばAシリーズ。ほとんどの方が見たことがあると思いますが、黄色が目印のこの製品。

OLFA Aプラス

前述の精度や機能が詰まったロングセラーで、オルファの基本形とも言えるモデルですが、個人的には昔のA型の方が好きだったりします (昔はもう少し直線的なデザインでした) 。

オルファ以外ですとこちらも皆さんに馴染み深いかもしれません。

NTカッター A-300 (出典:http://www.ntcutter.co.jp/)

NTカッターのA-300。オルファと並んで数少ないカッター専門メーカーの製品です。

実はこのエヌティー株式会社は前述の岡田良男氏が発明した「シャープナイフ」の製造元。エヌティーはおそらく以前の社名である日本転写紙の頭文字ではないでしょうか。やはり当時カッター需要のあった転写紙の会社だったのですね。

一見なんてことない形に見えますが握ってみるとこれがすごく使いやすい。外観のデザインはこれが一番カッターらしく良くデザインされていると思います。

職場や家庭で日々活躍するカッターですが、前述の通り元々は業務用として生まれたものです。印刷の現場での需要は減ってしまいましたが、高度経済成長と共に一気に需要を伸ばしたのは、住宅を建てる時に壁紙職人が使うカッターでした。

今でもその需要は大きく、ホームセンターや工具店で扱っている業務用カッターの性能は目を見張るものがあります。

OLFA スピードハイパーAL型

先の2つは9ミリメートル刃でコンパクトでしたが、こちらは18ミリメートル刃の大型カッター。持ち運びや細かい作業には不向きかもしれませんが、使ってみるとびっくりするほど切れ味が違います。その理由の一つは刃に施されているフッ素加工。

よくフライパンなどで焦げ付きをなくすために塗布してあるコーティングです。ハサミなどの刃物に使われることも多く、テープを切った際のベタつきの軽減などに一役買うのですが、剥がれやすいのが欠点。

そもそもフッ素は摩擦係数が低く、前述の通りベタつきや焦げ付きをつきにくくしてくれます。しかし、摩擦係数が低いということは塗布したフライパンの表面やハサミの刃にも定着させるのが難しいということ。くっつきにくくするためにくっつけている、という少し矛盾した技術でもあります。

そのフッ素加工をカッターに応用するメリットは粘着物のベタつき軽減もあると思いますが、一番は段ボールなどある程度厚みのあるものを切る時に側面の抵抗が少なくなることでしょう。

これが馬鹿にならないほど効果的で、驚くほどスムーズに刃が進むのです。刃を折って使うカッターだからこそ、剥がれやすいデメリットも気になりません。切れ味、つまり基本機能にフォーカスすると、カッターとは本来こうあるべきではないか、とも思えてきます。

そして最後に、未来の定番品としてどうしてもお勧めしたいのは同じくオルファの「万能M厚型」。

OLFA 万能M厚型

先程の9ミリメートル刃とも18ミリメートル刃とも違う、12.5ミリメートル刃という新規格の製品です。

大きすぎず手頃なサイズ感にもかかわらず強度もあって、「今までなんでなかったのだろう?」と思ってしまうような本当にちょうどいいサイズなのです (刃の厚みも0.38ミリメートルから0.45ミリメートルと分厚くなっています)。

商品開発において、何かと何かの中間を取る、というのは良い結果を生まないケースが多いのですが、万能M厚型は中間を取るよりも小型の製品をブラッシュアップさせたイメージ。

つまり今までのスタンダードを引き上げようという意図で生まれたのではないかと勝手に想像しています。

安く高品質な製品を日本で作り続けるということはおそらく工場の自動化に優れているということ。逆に言えば新しい規格が作りにくく、量もたくさん作らなければ割りに合わない。

世界のデファクトスタンダードにまでなった規格サイズを持ちながら、それをもう一度考え直し、本当にちょうどいいサイズを求めて新規格を生み出すオルファの姿勢は、メーカーとして素直にかっこいいなぁと思います。

デザインのゼロ地点「カッターナイフ」編、いかがでしたでしょうか?

次回もまた身近な製品を題材にゼロ地点を探ってみたいと思います。それではまた来月、よろしくお願い致します。

<写真提供>
オルファ株式会社

米津雄介
プロダクトマネージャー / 経営者
THE株式会社 代表取締役
http://the-web.co.jp
大学卒業後、プラス株式会社にて文房具の商品開発とマーケティングに従事。
2012年にプロダクトマネージャーとしてTHEに参画し、全国のメーカーを回りながら、商品開発・流通施策・生産管理・品質管理などプロダクトマネジメント全般と事業計画を担当。
2015年3月に代表取締役社長に就任。共著に「デザインの誤解」(祥伝社)。


文:米津雄介