産業観光とは?燕三条 工場の祭典の事例に見る産地の未来

「開け、工場!」。燕三条の工場が祭りの場となる4日間

毎年10月はじめの4日間、燕三条の金属工場などが開放され一般の人たちがものづくりの現場を見学できる「オープンファクトリー」のイベント「燕三条 工場の祭典」が行われています。合い言葉は「開け、工場!」。

この「燕三条 工場の祭典」では、世界に誇る技術とものづくりの精神を持ちながら今まで特にアピールされてこなかった燕三条の工場の実力を実際に間近で見ることができるとあって、大きな注目を集め、年々訪れる人も増えています。

なぜこのようなイベントが実現されることになり、大きな反響を得るようになったのでしょうか。数年前の2013年から毎年このイベントは開催されてきましたが、その4代目の実行委員長を務めたのが燕の鎚起銅器の老舗「玉川堂」番頭の山田立さんです。

このイベントの立ち上げから関わり、試行錯誤しながら続け、回を重ねていくごとにさらなる期待に応えてきた山田さんにお話をうかがいました。

急展開で実現した、燕と三条一緒の工場見学イベント

上越新幹線の終点である新潟駅の一つ手前の駅が燕三条駅。燕三条という駅名があることで、新潟に燕三条市というところがあると思っている人も多いことでしょう。しかし、燕三条駅の東側には三条市が、西側には燕市があり、燕三条市という地域はありません。

三条は鍛冶や作業工具が、燕は鎚起銅器や金属洋食器が主な産業というように、それぞれの歴史と個性を持って発展してきた地域なのです。

その三条市、燕市の両地域が会場となるのが「燕三条 工場の祭典」。工場が見学できるほか、さまざまなイベントが開催され地域をまるごと堪能できる機会となっています。

お話を伺った玉川堂さん本店。
お話を伺った玉川堂さん本店

燕市の玉川堂の店舗・工房は、登録有形文化財でもある歴史と趣のある日本家屋。そのお座敷でこれから山田さんにお話をうかがっていきます。

山田さんは、作務衣姿がいかにも番頭さんという雰囲気の方。飄々、訥々とした語り口で、こちらもすぐにお話に引き込まれていきます。

玉川堂番頭で2016年の「燕三条 工場の祭典」実行委員長を務められた山田立さん
玉川堂番頭で2016年の「燕三条 工場の祭典」実行委員長を務められた山田立さん

「地元を金物の街としてのアピールするということでは、2007年から三条市が『越後三条鍛冶祭り』のイベントを毎年秋に行っていました。物販が中心でしたが、お客さんから、もっと鍛冶屋さんなどの生産の現場を見てみたいという要望がありました。

同じく三条市では『後継者育成事業』ということで、中川淳さん(中川政七商店)、名児耶秀美さん(アッシュコンセプト)といったプロデューサーとともに地元の伝統と技術を活かしての新製品づくりにも取り組んでいました。

そのプロデューサー役を山田遊さん(method)に依頼したところ、『ものを一つ作って完結するだけの仕事では広がりがないので、オープン・ファクトリーならぜひ関わってみたい』という話になったのです。

さらに同じ時期に燕市でも動きがありました。

燕三条 工場の祭典が始まる3年ほど前から武田金型製作所/MGNETの武田修美さんがひとりでいろいろな工場にお願いしてツアー形式の工場見学を何回か実施していました。ところが、ツアー形式だとご案内出来る人数に限界があったり、その次への広がりがなかなか見いだしにくかったりと、限界を感じていたそうです。

そんなタイミングに三条市でオープンファクトリーのイベントを企画しているらしいという話が舞い込みました。同じ思いを持った人達が同じ時期に同じ事をやりたがったんです。両市合同のオープンファクトリーイベントをやろうという企画が、一気に加速していきました」

工場はだんだんに開いていった

「『燕三条 工場の祭典』が始まった時は、燕三条でいつでも工場見学ができるところというのはまだまだ少ない状況でした。

『玉川堂』では30年ほど前から見学のお客様を受け入れていて、2010年からは『スノーピーク』、2011年に『諏訪田製作所』という三条でも大きな企業が工場見学を始めていました。

そのほかには、三条市のものづくり体験研修施設の『三条鍛冶道場』、燕の研磨技術を体験できる『燕市磨き屋一番館』くらいしか見学できるところはありませんでした。

それが「燕三条 工場の祭典」開催以後、工場見学を取り巻く状況がだんだんに変化していくようになります。

まず私たちが実感したのは、玉川堂の工房に見学にいらっしゃるお客様が増えていったことです。『工場の祭典』を最初に開催した年には急激に増えて1年間で2000人にもなり、前年の3倍近くのお客様にお越し頂きました。

生産の現場を見ていただくと、お客様と製品の距離がぐっと縮まる。職人がどんな思いで、どんな環境でものを作っているかということを見ていただくのは大変意義深いことだと、私たちもより強く感じるようになりました」

玉川堂さんでは間近でものづくりを見ることができる工房見学を実施している
玉川堂さんでは間近でものづくりを見ることができる工房見学を実施している

「燕と三条全体でも、徐々に一般のお客様に工場を見ていただくことに積極的になる企業が増えてきました。毎年2社ずつくらい、設備投資をして一年中いつでも工場見学ができるという体制が整うように。また、お客様が多い土曜日も工場を開けているところも多くなりました。

『燕三条 工場の祭典』としては、初年度は54の工場が参加して5日間で計10000人のお客様が見えました。2年目は59参加工場で4日間12000人。3年目は68の参加工場で4日間19000人の方が見えた。

そして4年目は2倍ほど増えて、4日間開催で35000人。だんだんいらっしゃるお客様も参加する工場も増えていったんです」

毎年、さらなる扉が開かれていく

「『燕三条 工場の祭典』では、毎年毎年新しいことをやっていきたいと思っていまして、2年目からはさまざまなテーマでの工場見学ツアーを始めたほか、お客さん同士や職人たちとふれあえる場所がほしいということで、毎日夜の部にどこかの工場で『レセプション』を開催しています。

音楽のライブやバーベキュー、工場でお酒を飲めるBAR、去年はお寺を会場にして全体のレセプションも実施しました。ワークショップや飲食の屋台なども出店して大いに盛り上がりました。

東京や県外など遠くからいらしてくださるお客様も多く、この数年は泊まりがけでも楽しんでいただける仕掛けを増やそうとしているところです。お客様の年代はさまざまですね。何度も来てくださるリピーターの方も多い。毎年4割くらいの方が県外からで、この機会に初めて来てみたという地元の方も多い。

2016年の『燕三条 工場の祭典』は、三つのKOUBA(工場、耕場、購場)」がテーマでした。燕三条では、食事の時に使うカトラリーや、刃物などの料理用具、農作物を育て収穫する鋤や鍬などを作っていますので、農作物の収穫体験や食を楽しんでもらう企画をいろいろと企画しました。

燕三条は金属加工だけやっているわけではありません。私たちの地域では『ル・レクチェ』という洋梨やぶどうなどの果物や米も採れるし、温泉や食の楽しみもあります。それらもまるごと地域の魅力として味わっていただければと思います」

オープンファクトリーがもたらした予期せぬ効用

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「今年参加したのは、工場、農場、販売所を合わせて96事業所。

ただ、『燕三条 工場の祭典』は、参加工場の数や来場者数が多くなることだけを目的にしているわけでないのです。来ていただいた方々に燕三条ファンなってもらい、職人とお客様とのつながりを太くしていきたい。

そして『燕三条 工場の祭典』を開催していることは、自分たちの仕事の励みにも大いになっていると感じてもいます。たくさんの方たちに日頃の仕事ぶりを見ていただくことで、自分たちの仕事を客観的に見直す機会にもなりますし、工場見学がきっかけとなって燕三条で働きたいと就職した人もいます。

地域の子どもたちも、『うちの街ではこんな素晴らしいもの作っているんだ』と誇りを持つようにもなった。これをきっかけに、地域内の会社同士の交流も増えました。

そんなつながりの、太さと濃さを目指して、そしてこの『祭典』自体を継続していくことが大事だと考えています。ものづくりの場を巡礼するみたいな、ぼくらの地域だけの新しい工場見学の場をこれからも作り続けていきたいと思っています」

<関連書籍>
中川政七商店(2016)『世界一の金属の町 燕三条の刃物と金物 暮らしの道具135選』(平凡社)


文:鈴木伸子
写真:神宮巨樹

*こちらは、2016年12月7日の記事を再編集して公開いたしました

【わたしの好きなもの】かや織ふきんとThe Magic Water

 

拭き掃除の楽しみは、ふきんの柄選び


毎日の家事にちょっとした楽しみがあったらいいな 。
マンネリ化した私の家事時間に楽しみをくれた相棒のご紹介です。

キッチン周りや洗面所、リビングの机や子供のおもちゃなど、
毎日触れて汚れやすい場所は、「ふきん」とTHEの「Magic Water」で拭き掃除をしています。



以前はウェットティッシュやキッチンペーパーなどの消耗品と、巷に売っている掃除用の殺菌・消毒・除菌スプレーを使って拭いていました。でも、なんだか勿体ないし、場所別に使い分けるものが多く全部揃えていられないし‥‥挙句には、拭き掃除自体を億劫に感じてしまっていました。

そんな時に出会ったのが「ふきん」と「The Magic Water」の組み合わせ。



中川政七商店では、ロングセラーの無地染め「花ふきん」のほかに、「LISA LARSON」などのキャラクターや季節のモノコトをモチーフに柄を描いたふきんをラインアップしています。

好みは社内でも分かれるところでますが、私は断然柄があるふきん派です。笑



頑固な汚れが付いても、塩素系漂白剤が使えるのでしっかり洗えて、柄部分は色落ちしない、洗ったらすぐ乾くというスペックの高さ。



繰り返し使えることはもちろんですが、なんといっても可愛い柄を見ると拭き掃除の度に癒されます。いくつかの柄を日替わりで使っているので、今日はどんな柄にしようかな?と楽しんだり、柄によって「キッチン用」「机用」と分けて使ったりしています。



お家のあらゆる場所で使えるマルチなクリーナー「The Magic Water」は、見た目がカッコイイだけでなく、原材料が「水」だけというシンプルさ。それでいて、頑固な汚れをあっという間に綺麗にしてくれます。



除菌効果もあるので、最近では子どものおもちゃにも気兼ねなく使っていて、とても重宝しています。大抵の場所はこれ1本で事足りるというのが、なんとも有難い!

今となってはこの2つが私の家事の相棒です。


<掲載商品>
The Magic Water
LISA LARSON ふきん


編集担当 鈴木

「鋼の包丁」の魅力とは。料理好きおすすめの1本からお手入れ方法まで

こんにちは。バイヤーの細萱久美です。

日頃、奈良と東京を行き来しており、家を留守にすることもままありますが、奈良にいる時はなるべく自炊を心がけています。若かりし頃は料理が趣味という時期もありましたが、今は日常のことに。ただ調理道具は好きで厳選しています。

料理の基本・調理道具の基本といえば、包丁でしょう。他の道具はある程度の代用もありますが、包丁だけはなかなか代用が効きません。

100円ショップやスーパーでも安価なものが売っているので、とりあえずで購入した人も多いのではないでしょうか。

しかし、長く使うことを考えるならやはりそれなりに良い包丁を選ぶことをおすすめします。

切れ味が良く、切り口が綺麗なだけでも料理が楽しくなるのと、仕上がりの味にも実際に差が出てきます。

とは言え、良い包丁を選ぶのも難しいですよね。素材、形などを整理した上で、私のおすすめをご紹介したいと思います。

素材、形、色々ある包丁の種類

デパートのキッチン売り場でも結構な種類があり、木屋や有次のような調理道具専門店だとズラリと並んでいて、ある程度マトを絞らないと途方に暮れてしまいます。

店員さんに相談すると、初めの一本としておすすめされるのは大概「三徳包丁」もしくは「牛刃」だと思います。

三徳は、別名万能包丁と言われ、大きな肉やキャベツなども切りやすい「牛刃包丁」と、様々な野菜を切るのが得意な「菜切包丁」の良いとこ取りをしたものなので、まずは基本の一本に選ぶと良いと思います。

本格調理におすすめ!「鋼」の包丁

次に素材の違いですが、大きくは「鋼(ハガネ)」「ステンレス」「セラミック」があります。セラミックは耐久性がやや劣るので、出来るだけ鋼かステンレスを選びたいところ。

切れ味の良さと耐久性では鋼に軍配ですが、錆びやすいので手入れに少々気を使います。ステンレスは錆びにくく切れ味も合格点。若干研ぎにくいことはありますが、バランスは良いので初心者や料理は気軽に!という方にはおすすめです。

鋼包丁でのトマトの切れ味

私は鋼とステンレスの両方を持っていますが、調理に時間を取れる時は鋼の包丁を使います。切れ味を優先、そして本格的に料理をする気分になります。

ちなみに鋼は、刃金と同じこと。鋼が持つ、堅さと粘りという二つの要素が包丁にたるポイントです。鋼は「焼き入れ」で堅く、「焼き戻し」で粘り強さが出ます。

焼き入れは約800度に加熱してから急冷し堅くする工程。そして、堅いだけだと折れやすい状態の鋼を180度位で再加熱する焼き戻しをすることで折れにくい弾力性を生みます。

私が選んだのは、600年の歴史を持つ堺 打刃物「佐助」

私が愛用している鋼の三徳包丁は、大阪・堺の「佐助」製。「鋏鍛治」と名乗っており、植木鋏や盆栽鋏などの鋏から包丁、小刀など幅広い刃物を作る老舗です。

大阪の堺市は、新潟県燕三条市や岐阜県関市などと並ぶ包丁の主だった産地で、いずれも「打刃物」という「鋼と鉄を打って鍛えて作り出す刃物」で発展してきました。

堺打刃物は600年以上の歴史があり、プロの料理人が使用する和包丁のシェアが圧倒的に高いと言われ、それだけの品質と信頼を維持している産地です。

大阪・堺の鋏鍛治「佐助」

鋼と鉄という事なる金属を合わせる事で、切れ味と耐久性が出るので、この「刃金付け」は打刃物において重要な行程。更に佐助では独自の焼き入れ法で刃の硬度を高めているそうです。

佐助は種類豊富な刃物を作っていますが、現在5代目が一人で製作をしています。伝統的な製法で火を使う工程もありますが、予約で見学も出来ます。私も間近で迫力の鍛造を拝見しました。

職人が作っているのを間近に見たらすっかり欲しくなり、手に馴染む一本を選んで名入れをしてもらいました。名前が入るとマイ包丁という感覚が強くなって、大事に長く使おうと思います。

手入れをしながら一生使える包丁が欲しいとなれば、研ぎやすくて耐久性のある鋼の包丁をまずは一本手に入れてみてください。

大阪・堺の鋏鍛治「佐助」の製作風景
名前の彫られたマイ包丁

鋼の包丁のお手入れ。サビないためのコツ

気になる錆びやすさについては、料理中も水分をこまめに拭き取りながら使うことで避けられます。ちなみにステンレスも金属なので、水に浸けたままにすれば錆は出るのでご注意を。調理中の板前さんを目の前で見る機会があると、こまめにふきんで包丁やまな板を拭き取っています。

清潔な調理は、美しい一皿を作る気がするので、自分も心がけています。拭き取りには私は「晒し」を使っていますが、薄手でかさばらず便利です。

包丁を晒でふき取る

ちょっと錆が出た場合は、市販の錆落としで表面を軽く磨けば大丈夫。
切れ味が落ちてきたら研ぐ必要がありますが、それはステンレスでも同じこと。

慣れてしまえば、扱いはさほど難しくないと思います。包丁に限らず、台所道具は使うことが一番のお手入れ。ポイントを押さえて使い、そして手入れをすることで自分の手にしっかり馴染んでいくと感じます。

<紹介したお店>
佐助
大阪府堺市堺区北清水町3-4-20
http://www.sasuke-smith.com/
※不定休のため、ご訪問の際は事前のご連絡がおすすめです。

細萱久美 ほそがやくみ

元中川政七商店バイヤー
2018年独立

東京出身。お茶の商社を経て、工芸の業界に。
お茶も工芸も、好きがきっかけです。
好きで言えば、旅先で地元のものづくり、美味しい食事、
美味しいパン屋、猫に出会えると幸せです。
断捨離をしつつ、買物もする今日この頃。
素敵な工芸を紹介したいと思います。

Instagram

文・写真:細萱久美

*こちらは、2019年8月21日公開の記事を再編集して公開しました。

青森発「ブナコ」の木工ランプの魅力とは。世界のホテルやレストランに選ばれる理由

みなさん、青森県で生まれた「BUNACO (ブナコ) 」という木工品をご存知ですか?

青森県が蓄積量日本一を誇るブナの木を有効活用しようと考えられた製法で、その技術を用いて作られたボウルやティッシュボックスなどはグッドデザイン賞を度々受賞しています。

BUNACO
BUNACO

カラーバリエーションを含め400種類ほどあるBUNACOの中でも、現在、主力アイテムとなるのが照明器具。

青森県立美術館 割れや歪みが少なく、従来の木工品と比較して造形の自由度が高いのも特長。ランプシェードも様々な形があります
先日取材した青森県立美術館の企画展で展示されていたBUNACOのランプ

誰もが知る外資系ホテルの客室やJR東日本の豪華列車「TRAIN SUITE 四季島」のラウンジなどでも採用され、世界的にも注目を集めています。

そんな国内外を問わず多くの人を惹きつけるBUNACOの魅力を探りに、青森県西目屋村にある工場を訪ねてみました。

ブナコ西目屋工場

*BUNACOの西目屋工場見学の様子をレポートした記事はこちら:まるで手品!見学者が絶えない「型破りな木工」の現場で目にしたもの

他にはない、斬新な製造方法

BUNACOの製造方法はとてもユニークです。

ブナの原木をかつらむきをするように約1ミリの薄い板に切り出し、テープ状にカット。

ブナコ
ブナの原木をかつらむきのように厚さ約1ミリの板にスライスしてテープ状に。表面の点々は水脈なのだそう

それを土台となる合板に巻きつけ、重なり合うブナのテープを少しずつ押し出して成型していきます。

BUNACO
BUNACOの名前は、その原型が“Bunacoil” (ブナをコイル状に巻きつけたもの) であることに由来するのだそう

ブナコ西目屋工場
なんと成形には湯呑みが使われていました

こんな斬新なアイデアはどこから生まれたのでしょうか。

「BUNACOのそもそもの始まりは、青森の貴重な自然資源・ブナの木を有効利用したいという思いからでした」

そう教えてくれたのは、ブナコ株式会社の広報担当、秋田谷恵 (あきたや・めぐみ) さん。

ブナコ株式会社の広報担当、秋田谷恵さん
ブナコ株式会社の広報担当、秋田谷恵さん

「日本では木は建材として使われることが多いのですが、ブナの木は水分量が多いため、『狂う』んです。伸びたり、縮んだりしてしまうんですね。そのため、長い間、この辺りではりんご箱や薪としてしか使われていませんでした」

そこで、1956年から青森工業試験場 (現在の県工業総合研究センター) でブナを有効利用するための技術開発がスタート。試行錯誤の末、現在のBUNACOの技術が生まれたといいます。

テープという形が叶えたデザインとものづくりの自由

木工品といえば、主にくり抜いたり削ったりして作るもの。材料の中でも必ず使わない部分が出てきてしまいます。

ところが、テープ状にしたブナが材料であるBUNACOには捨てる部分がありません。他の木工品に比べて、材料が約10分の1で済むといいます。

ブナコ西目屋工場
テープを外せばこんな状態に。何度でもやり直しができます

さらに、機械や型を使っているわけではないので、これまでにない自由な造形が可能に。試作もスピーディーに色々な形を試すことができるのだそうです。

BUNACO
パーツを組み合わせれば複雑な形も可能

そんなところから、デザイナーさんや施工業者からの人気も高く、BUNACOの商品アイデアの多くは、「外から」もたらされてきたといいます。

活躍の場は食卓から空間へ

当初は、お皿やボウルなどのテーブルウェアだけを手がけていたブナコ株式会社。

「こんなランプができませんか?」

今となってはBUNACOを代表する製品となったランプシェードも、そんな一言から始まったのだそう。

依頼されたデザインが複雑な形であったこともあり、はじめのうちは職人さんも難色を示したといいます。

それでも、「これまでに作ってきたものを活かせばできるかもしれない」と、倉田昌直社長自らが手を動かすうちに、職人さんたちも手伝ってくれるように。

そうして生まれたのが、器を二つ向き合わせにした形のこちらのランプシェードです。

BUNACO
現在は閉店してしまいましたが、東京・六本木ヒルズにあった「TORAYA CAFE」で使われていました

光が赤く透けるというブナの木の特性も相まって、従来にないやわらかな明かりのランプシェードは、一躍人気商品に。

ランプシェードは今やBUNACOを代表するプロダクト。赤い透過光はブナならではなのだとか
ランプシェードは今やBUNACOを代表するプロダクト。赤い透過光はブナならではなのだとか

2002年からランプシェードの開発に取り組み、翌年には販売を開始。最初に難しい形のものができたこともあり、デザインのバリエーションも増えていきました。

BUNACO

「このスピーカーのアイデアも、弘前大の先生が持ち込んできてくれたものなんですよ」と秋田谷さん。

BUNACO
テープが重なり合うというBUNACOならではの構造を活かし、残響音を吸収するつくりにしたスピーカー

「商品アイデアは、お客様の声や街中のデザインなどから見つけることが多いです。

BUNACOなら、どういうものが作れるかという視点でいつも考えていますね」

目指すのは「空間の名脇役」

うつわに始まり、ランプシェードやスピーカーなどのインテリアまで広がりを見せるBUNACOのものづくり。

「今後も照明とスピーカーには力を入れていく予定です。

忙しい日々を過ごす人たちに、BUNACOで光と音でくつろげる空間を提案していきたいと思っています。

目指すは空間の名脇役、ですね」

ブナコ西目屋工場
デザインオフィスnendoとのコラボスピーカーも

BUNACO

ユニークな技術が可能にした自由な造形。そこからまだ見ぬ新たな製品が今後も生まれてきそうです。

BUNACOのものづくりはまだまだ続きます。

<取材協力>

BUNACO

http://www.bunaco.co.jp/

文:岩本恵美

写真:船橋陽馬

*こちらは、2019年6月28日の記事を再編集して公開いたしました。

名尾の山里でたった1軒の和紙工房が“残しておきたい紙づくり”

烏が、カア、カア、鳴いていた。

佐賀の名尾手すき和紙

佐賀駅から車でおよそ40分。

住宅街を抜け、田畑の脇を通り、嘉瀬川添いを北へと向かう。緑に囲まれたゆるいのぼり坂を進んだ先に、懐かしい山里の風景が広がった。

佐賀の名尾手すき和紙
このあたりは干し柿の産地でもある

向かったのは、佐賀市大和町の名尾地区にある「名尾手すき和紙」──300年以上の歴史を誇る“名尾和紙”の技術を、現代に受け継ぐ和紙工房である。

楮の原種“梶の木”でつくられる名尾和紙

「昔、この地区にはたくさんの和紙工房があったんですよ。今ではもう僕らだけになっちゃいましたけど」

そう話すのは「名尾手すき和紙」7代目の谷口弦さんだ。

佐賀の名尾手すき和紙
28歳の若き継ぎ手・谷口弦さん

はじまりは1690年のこと。山に囲まれた名尾は耕地面積が少なく、村民は貧乏暮らしを余儀なくされてきたという。見かねた庄屋がお隣・福岡の八女で行われていた和紙づくりを学び、この村に持ち帰ってきたのが最初とか。

幸運なことに同地には紙の原料が自生していた。

手すき和紙に使うのは楮(こうぞ)や三椏(みつまた)が主流だが、ここには楮の原種である“梶の木”が生えていたのだ。

佐賀の名尾手すき和紙
どれが梶の木?‥‥「右手の枯れ枝のようなやつです」と谷口さん
佐賀の名尾手すき和紙
葉を使うとばかり思っていたが、原料となるのは茎だった

山間部に位置する同地は寒暖差があることから梶の木の成長に適していたし、おまけに名尾には清れつな水がある。

紙の産地になるべく要素をいくつも兼ね備えていたのだ。

「梶の木は楮や三椏よりも繊維が長い。だいたい楮の2〜3倍かな。紙において繊維が長い=和紙の強さに直結しますから、名尾の和紙は薄くても強いのが特長ですね」

佐賀の名尾手すき和紙
写真は原料である梶の茎を煮て、皮をむいて干したもの。繊維の塊だ

乾燥させた梶の茎を水で戻し、煮て、水でさらし、叩いていくと‥‥

「複雑に絡み合う繊維たちが、やめて〜はなさないで〜みたいな感じで(笑)、少しずつほどけて、細く、柔らかくなっていきます」

佐賀の名尾手すき和紙
細く、長く、柔らかな繊維が見てとれる

これを水やネリ(トロロアオイという植物からとれる粘液。これがノリのような役割をする)と一緒に漉き船に入れて調合。紙の厚さや用途などによって配合は変わるとか。

佐賀の名尾手すき和紙
名尾和紙のすき方は「ダイナミックで、リズミカル」と谷口さん
佐賀の名尾手すき和紙
職人歴2年目の小副川天斗(おそえがわたかと)さん。なぜ和紙職人になったのか‥‥それは後日改めて

縦にゆすったり、横にゆすったり。繊維が長いからなのか、静かにゆっくりすくやり方とは違い、激しく揺らしながらすき込んでいく。それはまるで音楽に合わせ、リズミカルに踊っているようだった。

そして、最後の1軒になる

「このあたりの和紙工房はそれぞれ仕事が分かれていたんです。障子紙を専門にする工房があったり、襖紙が専門だったり。うちは主に提灯紙をつくってきました。

佐賀の名尾手すき和紙

提灯の紙ってね、ものすごく薄いんです。光を通さなくちゃいけないし、かといってすぐに破けたりしてはだめ。充分な強度が必要だし、なおかつ墨でしっかりと文字を書けることも大事。提灯の文字がにじんでいたら格好悪いじゃないですか」

佐賀の名尾手すき和紙

それぞれの工房が繁栄し、明治後期には100軒以上の工房が建ち並んだ。ところが。

時代や生活様式の変遷とともに障子紙や襖紙の需要は減少。洋紙や安価な機械すきの和紙が台頭し始めると、仲間の工房が一つ、二つと姿を消していくことになる。

「残った僕らは、そうした工房の技術や道具を、ゆるやかに受け継いできたんです。だから今では提灯だけでなく障子や襖の紙もすくことができますよ」

新しい和紙は蛍光ピンクだった!?

最後の1軒になった今、名尾和紙の伝統を守り、受け継いでいかなければならない責任を感じている。

とはいえ「名尾手すき和紙」が面白いのは、伝統を守りながらも既成概念にとらわれることなく、自由な発想で和紙を生み出すところにある。谷口さんは言う。

佐賀の名尾手すき和紙
工房横にある直営店にて

「越前和紙や美濃和紙などを生み出す大きな産地もありますが、和紙工房が1軒だけになった名尾はもはや産地として見られなくなったこともあって。

それはそれで大変なこともあるんですけど、それがかえって僕たちを、名尾和紙を、自由にしたところがあるな、と。

6代目にあたるうちの親父が家業を継いで最初につくったのは蛍光ピンクの和紙でした。和紙業界において、和紙に色をつけるなんてことはタブーとされていましたし、それに対していろいろ言われたみたいなんですけど。

ほら、良くも悪くもここは田舎じゃないですか。そういう情報がオンタイムで入ってこない(笑)。後から知ることが多かったから、色をつけたり、違う素材をすき込むといったことを割と自由に、自分たちのペースで続けてきたんですよね。

こないだなんて『いい素材があったばい』って、山登りに行った親父が落ち葉を袋いっぱいに拾ってきましたよ(笑)」

佐賀の名尾手すき和紙
落ち葉をすき混んだ和紙。なんとも言えない美しさを放つ

日本の伝統をすく、ということ

小さな産地だからこそ、大きな産地にはできないことをコツコツとやり続けてきた。名尾の伝統を守りつつも自由に、多彩に。

最近では酒のラベルやお菓子の掛け紙、パッケージ、卒業証書など、それまで考えたことのなかった仕事が次々に舞い込むようになったという。

なかでも谷口さん曰く「衝撃」だったのは、

「日本の工芸品のつくり手や、伝統行事や文化財の補修や修復に使う紙のオーダーが現場から相次ぐようになったこと」

たとえば、佐賀県唐津で200年の歴史をもつ大祭「唐津くんち」で引き回される曳山(やま/山車のこと)の修繕をするための和紙や、福岡の伝統行事「博多祇園山笠」や京都「祇園祭」で夜道を照らす提灯紙。

大分県の伝統工芸品である張り子「姫だるま」の張子紙や、福岡の「太宰府天満宮」にある大きな提灯用の和紙、昨今では日光東照宮の輪蔵(経典を収納しておくための蔵)の修繕に使うための紙すきも行ったという。

「完全にフリーランスの手すき和紙屋のよう(笑)。

佐賀の名尾手すき和紙

でも、僕はそれでいいと思っていて。だって栃木や京都から、これだけ遠く離れた僕らにオーダーするくらい、各地の和紙屋は危機的状況にあるわけです。僕らがやらなきゃ、誰がやるのかって思いますし、実際、そういうものに携わることができるのは素直に嬉しい。

もともと使っていたような和紙をつくってほしいと注文されるんですが、僕としてはそれも面白いし、のぞむところです(笑)。

伝統的に培われてきた“本物”のかたちを、適当に薄めて残すみたいなのはどうも‥‥。そうじゃなくて、やっぱり濃いままの状態で“本物”を残したいし、それが僕らの技術によってできるのならこれほど気持ちのいいことはないな、って思います」

“残しておきたい紙”をつくる

「名尾手すき和紙」では、名尾最後の工房として“残しておきたい紙”をコンセプトに独自のプロダクトも展開。

誰でも手軽に使ってもらえるプロダクトを通して、和紙のこと、和紙屋のこともっと身近に感じてほしいという狙いもあるという。

佐賀の名尾手すき和紙
店舗には「名尾手すき和紙」の技術が詰まったプロダクトが並ぶ

たとえばレターズシリーズの「ちぎり一筆箋」。

佐賀の名尾手すき和紙
レターズ「ちぎり一筆箋」
佐賀の名尾手すき和紙
光を通すほどに薄い

名尾における手すきの最古の技術である、光を通すほどに薄い提灯紙づくりを応用してつくったのが、これ。

「1枚1枚が透かしの技術でつながっていて、ちぎって使うことができます。もちろん万年筆でもボールペンでも。にじむことはありません」

PAPER VALLEY(ペーパーバレイ)シリーズの「milepaper book(マイルペーパーブック)」も素敵である。

佐賀の名尾手すき和紙
出産、成人、結婚、還暦といった節目に。プレゼントにも

「これは原料の栽培から紙の製作までの一貫して行うことと、人の一生を重ね合わせ、人生の節目に残したい紙としてつくりました」と谷口さん。

出産の時の紙、成人の時の紙、結婚の時の紙、そして還暦の時の紙の4種を用意。

佐賀の名尾手すき和紙

本の形をした箱のなかにはそれぞれ人生の節目ごとに書き記すための3枚の紙が収められている。

たとえば「出産の時の紙」には、名前を書き記す“命名の紙”、生まれたばかりの赤ん坊の“足形の紙”、そして生まれてきてくれた子供に贈る“両親からのはじめての手紙”のように。

そのまま本棚にしまっておいて、好きなときに振り返ることができる。残しておきたい紙は単なる紙ではなく、そのときどきの思い出を、その瞬間の心のあり様を込めることができる紙なのだ。

ほかにも、谷口さんの頭の中には名尾手すき和紙から派生した、面白い構想がいろいろ詰まっていた‥‥。

佐賀の名尾手すき和紙

こんなのとか‥‥

佐賀の名尾手すき和紙

こんなのも‥‥。

それはまた次回のお話に。

名尾手すき和紙

佐賀県佐賀市大和町大字名尾4756
0952-63-0334
www.naowashi.com

文:葛山あかね
写真:藤本幸一郎



<掲載商品>

名尾手すき和紙 ちぎり一筆箋

ダウンジャケット誕生のきっかけは「寒さで死にかけたから」— デザインや機能の違いからダウンの魅力を追う

こんにちは。THEの米津雄介と申します。
THE(ザ)は、ものづくりの会社です。

漆のお椀から電動自転車まで、あらゆる分野の商品をそのジャンルの専業メーカーと共同開発しています。例えば、THE ジーンズといえば多くの人がLevi’s 501を連想するはずです。「THE〇〇=これぞ〇〇」といった、そのジャンルのど真ん中に位置する製品を探求しています。

ここでいう「ど真ん中」とは、様々なデザインの製品があるなかで、それらを選ぶときに基準となるべきものです。それがあることで他の製品も進化していくようなゼロ地点から、本来在るべきスタンダードはどこなのか?を考えています。

連載企画「デザインのゼロ地点」。本格的に寒くなってきたので、11回目のお題は「ダウンジャケット」です。

誕生のきっかけは、ある男が寒さで死にかけたから

ダウンジャケットが誕生したのは今から約80年前。1936年にドイツ系アメリカ人のエディー・バウアー氏が発明しました。日本でも店舗展開をしているアメリカブランド「Eddie Bauer (エディー・バウアー) 」の創業者です。

このエディー・バウアー氏、多岐に亘るスポーツ愛好家で、釣り、テニス、スキー、ゴルフ、ハンティング、カヌーなどを年中嗜み、釣りやゴルフに至ってはロッド (竿) やゴルフクラブを自作して使っていたそうです。

そんな彼が真冬の釣りに出かけた際、あまりの寒さに危うく凍死寸前の低体温症になってしまったことがダウンジャケット誕生のきっかけでした。

真冬でも釣りがしたい彼は、水鳥の羽毛に着目し、服を作ることを考えます。サンプルを作ってみるものの着用すると羽毛が下に偏ってしまい、洋服としてうまく機能しません。試行錯誤を繰り返す中で、ダウンを菱形の状態でキルティングすることで生まれたのが、世界初のダウンジャケットでした。

このキルティング製法を基に1936年にはアメリカで特許を取得。「スカイライナー」という名称で、当時の製品タグには「地球上で最も軽く、暖かい」と書かれて発売されました。

Eddie Bauer「1936 スカイライナー」

写真は現在販売されているものですが、菱形のキルティングのパターンは健在です。ダウンジャケットの発明は高所登山に革命をもたらし、エディー・バウアーは1953年にK2ヒマラヤ遠征隊のためのダウンジャケットをデザインし支給することになります。(ただしスカイライナーとは別の「カラコラム」というヒマラヤ山脈の名前を冠した製品です)

ダウンジャケットは登山用品として欠かせない存在になっていきました。

K2 (ケーツー) 標高8611m。エベレストに次いで世界で2番目に高い山だが、世界一登るのが難しい山と呼ばれる

ダウンジャケットが暖かい理由は魔法瓶と同じ

では、そもそも何故ダウンジャケットは暖かいのでしょうか?

その理由は「デッドエア」と呼ばれる対流しない空気にあります。第5回「魔法瓶」の回でも書いた内容に近いのですが、魔法瓶もクーラーボックスも二重窓も重ね着も、ほぼ同じ原理で、動かない空気の壁を身体の周りに常に形成することが暖かさの要因です。

ダウンとは、水鳥の胸毛を指す言葉。見た目はタンポポの綿毛のようで「ダウンポール」とも呼ばれ、陸鳥にはない水鳥特有の羽毛です。このダウンポールは非常に軽く、そして柔らかく、衣服の中で空気の層を作るのに適しています。つまり、ダウンポールの個々の大きさと、その量が暖かさを決定付けると言っても過言ではありません。

一般にダウンジャケット表示には、ダウン〇〇%、フェザー〇〇%、と表記が義務付けられていますが、これはダウンポールとそれ以外のフェザーの割合を表しています。

ダウン100%であれば理想的ですが、採取した羽毛から確実にダウンポールだけを抜き取ることは現実的には難しく、高級ダウンジャケットでよく見かける表示はダウン90%フェザー10%となっています。

(一着ずつ正確に測ることもできますが、同型のすべての製品が同じ比率ということは不可能で、あくまで90%以上ダウンが入っているという保証として記載されている場合がほとんどです)

ダウンポールとフェザー

羽毛は、主に食用の水鳥から採取されます。フランス・ポーランド・チェコ・ハンガリー・中国・カナダなどが主な産地で、ハンガリーやポーランドが優良産地と呼ばれますが、生育状況などによって大きく左右されるのが現状です。

また、ダウンジャケットが好きな方であればフィルパワーという言葉をご存知かもしれません。これはダウンの復元力 (ダウンジャケットを圧縮した後に膨らむ力) を数値化したものですが、アメリカ、欧州、日本で測定基準が違うことや、同じ製造ロットの中でも試験毎に大きく数値がぶれるため、個人的にはあまり信用できるものではないと思っています。

シュラフ (寝袋) などは羽毛の内容量 (グラム) を記載しているものが多いですが、触った感触やその復元力、そして実際の内容量を見るのが暖かさという点においてはわかりやすい気がします。

ファッションになったのは1980年代から

誕生から長らく山岳用品の印象が強かったダウンジャケットがファッションとして注目を集めるようになるのは1980年代頃から。

フランスの「MONCLER (モンクレール) 」がその代表例と言えるのではないでしょうか。モンクレールは1952年創業の山岳用品ブランドですが、1960年代にスキーウェアがオリンピックの公式ウェアに選定され、世界に知られるブランドになります(もちろんヒマラヤ遠征などに使われる本格的なダウンジャケットを作ってきた歴史が根底にあります)。

そして1980年代からモンクレールのダウンジャケットはフランスやイタリアでファッションアイテムとして認知され、90年代には高級ブランドとしての信頼を確立していきます。

モンクレール MAYA

シャイニーナイロンと呼ばれる光沢のある表面生地や、スーツにダウンジャケットというスタイルを定着させたことで、日本でも爆発的に人気になりました。

では国産はどうでしょうか?

最近では、大阪のスポーツウェアメーカー「デサント」が2010年バンクーバー冬季オリンピックの日本選手団のために開発した「水沢ダウン」が注目されています。水沢ダウンとは、岩手県奥州市(旧水沢市)の水沢工場で作られたダウンジャケットのこと。ダウンの弱点である水に濡れることを防ぐために、縫い目をなくした熱接着ノンキルト加工を施しています。

デサント マウンテニアダウンジャケット (水沢ダウン)

ノンキルト加工や止水ジッパーによって、水に濡れないことに徹底的にフォーカスした機能性の高い製品です。

そしてもうひとつ、実は日本にも60年もの歴史のあるダウンジャケットの老舗メーカーがあります。その名も「ZANTER (ザンター) 」。 1951年に現・東洋羽毛工業株式会社のウェア部門として設立され、日本中が歓喜した日本山岳会隊による1953年の世界初のマナスル登頂をはじめ、南極観測隊、エベレスト登山隊、日本人初の北極点到達など、日本の冒険家を支え続けてきたメーカーです。

ZANTER 「POLARIS」

エディー・バウアーのヒマラヤK2遠征隊や、モンクレールの創業とほぼ時を同じくして日本のダウンジャケットのパイオニアとして誕生したザンターは、羽毛メーカーだからこそできる素材の品質に徹底してこだわり、国内で羽毛の選別や洗浄を行うメーカーです。

デザインのゼロ地点「ダウンジャケット」編、いかがでしたでしょうか?

ダウンジャケットを発明したエディー・バウアー、確かな機能を備えながらハイブランドへと転化したモンクレール、濡れないという機能を追求した水沢ダウン、羽毛という素材にこだわったザンター。

今回は歴史・形状・機能・素材といった要素毎にデザインのゼロ地点を探ってみました。

そして、今までとは少し違ったアプローチでデザインのゼロ地点を考えてみる為に「THE MONSTER SPEC」という新ラインでダウンジャケットを作りました。ぜひこちらも見ていただけたら嬉しいです。

THE MONSTER SPEC®

様々なシーンに応じて細分化され、それぞれに特化してきたスポーツやアウトドアプロダクト。
だからこそTHEのこれまでのアプローチとは対照的に、最高スペックの実現によって、そのジャンルの新たな基準値を探れるのではないか、という考え方から生まれた新しい製品群です。

次回もまた身近な製品を題材にゼロ地点を探ってみたいと思います。それではまた来月、よろしくお願いいたします。

米津雄介
プロダクトマネージャー / 経営者
THE株式会社 代表取締役
http://the-web.co.jp
大学卒業後、プラス株式会社にて文房具の商品開発とマーケティングに従事。
2012年にプロダクトマネージャーとしてTHEに参画し、全国のメーカーを回りながら、商品開発・流通施策・生産管理・品質管理などプロダクトマネジメント全般と事業計画を担当。
2015年3月に代表取締役社長に就任。共著に「デザインの誤解」(祥伝社)。


文:米津雄介

*こちらは、2017年12月10日の記事を再編集して公開しました。



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THE MONSTER SPEC R DOWN JACKET BLACK