10月 ベランダに秋を告げる「ダルマホトトギス」

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。

日本の歳時記には植物が欠かせません。新年の門松、春のお花見、梅雨のアジサイ、秋の紅葉狩り。見るだけでなく、もっとそばで、自分で気に入った植物を上手に育てられたら。

そんな思いから、世界を舞台に活躍する目利きのプラントハンター、西畠清順さんを訪ねました。インタビューは、清順さん監修の植物ブランド「花園樹斎」の、月替わりの「季節鉢」をはなしのタネに。

植物と暮らすための具体的なアドバイスから、古今東西の植物のはなし、プラントハンターとしての日々の舞台裏まで、清順さんならではの植物トークを月替わりでお届けします。

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◇10月 ベランダに秋を告げる「ダルマホトトギス」

10月はダルマホトトギス。秋を告げる山野草の一種なのですが、夏鳥である「ホトトギス」の名前が付いているのは、花の斑点が胸の模様に似ているところからつけられているそうです。

「ダルマ」の由来はその葉の形から。ぷっくりとした丸い葉を見立てたのですね。育っても大きくはならないのが特徴で、9月下旬〜10月にかけて赤紫色の花を咲かせます。

「ホトトギス」の名前の由来となった斑点が鮮やかです (写真:夏海)
「ホトトギス」の名前の由来となった斑点が鮮やかです (写真:夏海)

この連載で、ダルマホトトギスがなぜ10月の季節鉢に選ばれたのか、だんだん私にもわかってきました。時々清順さんが語られる、日本人が昔から愛し育ててきた「ミニマルな世界観」が、宿っているようにも思うのです。

ぷっくりとした葉が立体的でかわいらしい。小ぶりな鉢植えが似合います
ぷっくりとした葉が立体的でかわいらしい。小ぶりな鉢植えが似合います

「坪庭文化や盆栽のような、小さな空間で植物を愛でる文化は江戸時代に発達しました。なぜ生まれたのか。本当ならお殿様は、外で雄大な景色を楽しみたいわけですよね。ところが城から一歩外に出たら、命を狙われるかもしれない。

塀に囲われた自分の敷地の中にどれだけ雄大な景色を持たせるかを考えた時に、本来なら大きく育ててこそかっこよくなる松を、剪定して剪定して、小さな世界で愛でたんです。だから盆栽が生まれた。狭い空間の中に、雄大な景色を見ていたんですね。

かたや、ヨーロッパの貴族のお城は、広大な土地をどうやって埋めるかでしょう。まったく視点が逆なんです。時代ごとの背景によってその庭の様式も、植物を愛でる文化も変わっていきます。

じゃあ現代はどうかというと、一軒家よりも庭のないマンションに住む人が増えていますよね。けれど本格的な盆栽をじっくり育てる時間もなかなかない。だから今の暮らしには、こういうミニマルな世界観を持ちながら手軽に育てられるような植物が、ぴったりだと思っています。

それじゃあ、また来月に」

<掲載商品>

花園樹斎
植木鉢・鉢皿

・10月の季節鉢 ダルマホトトギス(鉢とのセット。店頭販売限定)

季節鉢は以下のお店でお手に取っていただけます。
中川政七商店全店
(東京ミッドタウン店・ジェイアール名古屋タカシマヤ店・阪神梅田本店は除く)
遊 中川 本店
遊 中川 横浜タカシマヤ店
*商品の在庫は各店舗へお問い合わせください

——


西畠 清順
プラントハンター/そら植物園 代表
花園樹斎 植物監修
http://from-sora.com/

幕末より150年続く花と植木の卸問屋「花宇」の五代目であり、そら植物園 (株) 代表取締役社長。
日本全国、世界数十カ国を旅し、収集している植物は数千種類。国内外含め、多数の企業、団体、行政機関、プロの植物業者等からの依頼に答え、さまざまなプロジェクトを各地で展開、反響を呼んでいる。
著書に「教えてくれたのは、植物でした 人生を花やかにするヒント」 (徳間書店) 、「そらみみ植物園」 (東京書籍) 、「はつみみ植物園」 (東京書籍) など。


花園樹斎
http://kaenjusai.jp/

「“お持ち帰り”したい、日本の園芸」がコンセプトの植物ブランド。目利きのプラントハンター西畠清順が見出す極上の植物と創業三百年の老舗 中川政七商店のプロデュースする工芸が出会い、日本の園芸文化の楽しさの再構築を目指す。日本の四季や日本を感じさせる植物。植物を丁寧に育てるための道具、美しく飾るための道具。持ち帰りや贈り物に適したパッケージ。忘れられていた日本の園芸文化を新しいかたちで発信する。

文:尾島可奈子

世界で愛される越前発のものづくり〜和紙の可能性を広げ、伝える「和紙ソムリエ」〜

こんにちは。ライターの石原藍です。

福井県越前市は越前和紙、越前打刃物、越前箪笥などさまざまなものづくりが集積している国内でも珍しい地域です。今回は2回にわけて、海外から注目を集めている越前発のものづくりに注目。後編は世界のアーティストからも全幅の信頼を寄せられている、「和紙ソムリエ」をご紹介します。

140年以上の歴史を持つ紙問屋

越前和紙の産地である越前市の今立エリア。先日、そのまち歩きの楽しさをご紹介しましたが、歩いていると和紙業者が軒を連ねるなかで、大きな蔵のある重厚な日本家屋がひときわ目を引きます。今回お邪魔する「杉原商店」です。

少し緊張しながら戸を開けると、出て来てくださったのは、和紙ソムリエとして日々国内外を飛び回っている杉原吉直さん。

 

同じ敷地内にある大正時代に建てられたご自宅に案内していただき、どうぞと促された客間には墨と筆が用意されていました。はじめて杉原商店を訪れた人には記念に名前を書いてもらっているのだとか。

普段、筆で書く機会は滅多にないので、かなり緊張しました

杉原商店は明治4(1871)年から続く紙の問屋さん。それ以前は江戸時代の中頃から職人として紙を漉いていたと言います。当時は紙の売買を取り仕切る「紙座」という組合があり、一般の人は気軽に紙を売ることができなかったそう。明治時代になり紙座自体がなくなったことから、杉原家は紙の問屋として歩み始めることになりました。

越前和紙の品質はすでに江戸時代以前から高く評価されており、公家や武家が使う奉書紙として使われていました。明治時代以降も紙幣や公用紙として使われることが多く、なんと杉原商店には天皇即位の礼に使用される和紙を宮内庁に納めた記録も残っています。

越前和紙が世界で有名になった日

ピカソやレンブラントなど、世界の名だたる画家も使っていたと言われている越前和紙。近年再び世界で注目されるようになったきっかけは、2002年に開催されたIPEC(アイペック)というインテリアの展示会でした。

「今でこそ和紙ソムリエと言われることもありますが、昔は問屋が表に出ることはなかったんです。例えばサンプル帳に『杉原商店』と名前が書いてあるだけでもお客様からお叱りを受けるくらいでしたから。あくまで流通の仕組みのなかで和紙を卸していたのですが、ある時知人から和紙をインテリアに使ってみては、と展示会への出展を勧められました」

杉原商店10代目当主、吉直さん

もともと襖紙のような大きな越前和紙も扱っていた杉原さん。しかし、ただ襖として使うのではなく、よりデザイン性の高いインテリアとして装飾すれば、これまでにない新しい和紙の使い方ができるかもしれない、と考えたそうです。

空間のなかで和紙の良さを表現するためにはどうすればいいか。ライトアップなども工夫し、和紙独特の風合いを出すことにこだわった展示会は、大きな反響を呼びました。また、展示会をきっかけに今まで出会うことのなかった分野の人たちとのつながりも生まれました。

IPECで展示した杉原商店のブース

「IPECの後にはフランスの展示会にも出させていただき、現地に住むデザイナーとの出会いにも恵まれました。そこから、海外のレストランやホテル、ギャラリーのインテリアに越前和紙を使っていただく機会も増えていきましたね」

ミラノの店舗デザインにも使われている越前和紙
有名コスメショップのショールームに使われた越前和紙のオブジェはインパクト抜群!

周りの反響を受け、和紙の新たな可能性を確信した杉原さん。
その後もヨーロッパやアメリカを訪れるなかで日本を代表する和紙ソムリエとして知られるようになり、今では海外のアーティストからも「和紙のことなら杉原商店」と厚い信頼を寄せられています。

20年経って評価された漆和紙(うるわし)

杉原商店が扱う和紙のなかでも、特に印象的なものが「漆和紙」。
その名前の通り和紙に漆を塗ったもので、和紙の手触りを残しながらも漆の発色と強度が独特な風合いを生み出しています。

漆和紙を使った商品。紙でできているとは思えません

越前和紙の産地のすぐ近くには越前漆器の産地があったことから、杉原さんは漆器職人との交流もありました。試しに漆を和紙に塗ってほしい、と職人に依頼したものの、出来上がったものを見たら色が濃くてザラザラ。どんな用途に使ったらいいのかも思い浮かばず、「あぁ、これは失敗したな」と当時は思ったそうです。

しかし、それから20年ほど経ったある時、福井を訪れていた東京の百貨店バイヤーにさまざまな種類の和紙を見せていたところ、漆和紙の質感が素晴らしいと大絶賛。杉原さんにとっては想定外の出来事でしたが、2001年には福井のデザイン大賞も受賞し、漆和紙の知名度は一気に高まりました。

「正直言うと、初めて漆和紙を見たときにはたいして良いものだとは思えなかったんです。時代が変わったのか、私たちの感覚が変わったのか、時間が経つことでその良さが評価されることもあるのか、と驚きましたね」

漆和紙は全4色。緑、生(茶色)のほかに赤、黒があります
漆和紙のテーブルマットも海外向けに広く紹介されました

その後も海外のデザイナーとコラボし、文具やテーブルマットなど漆和紙を使ったプロダクトは続々と誕生しています。

パリ在住のドイツ人デザイナー、ヨルグ・ゲスナー氏とコラボした漆和紙のステーショナリー、「JOYOシリーズ」

紙漉きの神様が産地を一つにする

越前和紙の良さとは何なのでしょうか?杉原さんにたずねてみました。

「越前和紙はほかの産地に比べて規模も大きく、職人も多いので、生産する力がある。しかも問屋もメーカーも仲がいいんです。これはきっとこの地に紙漉きの神様がいることが大きいと思うんですよね」

約1500年前、川上から現れたお姫様が村人に紙漉きを教えたことが越前和紙の起源だと言われています

越前和紙には昔から伝わる『紙漉きの歌』というものがあり、職人さんは今も紙を漉きながら歌うそうです。

1.五箇に生まれて紙漉き習うて、横座弁慶で人廻す。
2.神の授けをそのまま継いで、親も子も漉く孫も漉く。
3.七つ八つから紙漉き習うて、ネリの合い加減まだ知らぬ。
4.お殿様でも将軍様も、五箇の奉書の手にかかる。
5.川上さまから習うた仕事、何でちゃかぽか変えらりょか。
6.清き心で清水で漉いて、干した奉書の色白さ。
7.辛抱しなされ辛抱が金じゃ、辛抱する木に金が成る。
8.仕舞え仕舞えと日ぐらしゃ鳴けど、しまい仕事でしまわれぬ。

〜「紙漉きの唄」より〜

『この紙はお殿様も使っているんだぞ』と歌詞にもあるように、職人それぞれが誇りを持ちながら漉いている越前和紙。職人同士の堅い結束を守りながらも、切磋琢磨する風土が昔から根づいているようです。

杉原商店から徒歩5分ほどの場所にある岡本神社に、紙祖神「川上御前」が祀られています

世界に出る産地から“世界を呼ぶ産地”へ

現在、杉原さんは新しい取り組みとして、敷地内の蔵を改装し、和紙の新しい用途を発信するギャラリーをつくろうとしています。

「越前和紙が国内外から注目されるようになり、産地でも海外から来られた方の姿をちらほらと見かけることが増えてきました。神社にお参りし、紙を漉く現場を見ていただき、越前和紙の使い方を紹介する場が必要だと思ったんです」

杉原商店の敷地内にある大きな蔵。2018年を目標に新しい空間へと生まれ変わる予定

越前和紙の魅力を世界に発信するべく、さまざまな取り組みを仕掛ける杉原さんですが、その一方でこんなことも語ってくださいました。

「うちで扱う和紙はたくさんの種類がありますが、私自身はできるだけ和紙に特別な思い入れを持たないようにしているんです。思い入れが強い和紙があると先入観が入り、お客様にとってベストな提案ができないかもしれない。用途、価格、納期などすべてを俯瞰して分析し、フラットな立場で和紙をセレクトする、それこそが和紙ソムリエの役割だと思っています」

和紙の可能性を引き出し、世界中の人に和紙を使ってもらいたい。その想いを胸に、杉原さんの挑戦はこれからも続いていきます。

<取材協力>
杉原商店
越前市不老町17-2
0778-42-0032

文:石原藍
写真:石原藍、杉原商店(一部)

世界で愛される越前発のものづくり〜各国のシェフたちが絶賛した越前打刃物のステーキナイフ〜

こんにちは。ライターの石原藍です。

福井県越前市は越前和紙、越前打刃物、越前箪笥などものづくりの産地が集積している国内でも珍しい地域です。今回は2回にわけて、海外から注目を集めている越前発のものづくりに注目。

前編は世界的な国際料理コンクールで24カ国の審査員の約半数が持ち帰ったという、伝説のステーキナイフをご紹介します。

越前打刃物のはじまり

南北朝時代の1337年、刀づくりに最適な地を探し続けていた京都の刀匠、千代鶴国安(ちよづる・くにやす)は現在の越前市を訪れます。

この地でとれる粘土質の泥と清らかな水を見出した彼は鍛冶をはじめ、その傍ら農民のためにも鎌を作ったことが、越前打刃物の起源だと言われています。

近くには漆器の産地もあり、漆を求めて各地を行脚していた漆かき職人が鎌や刃物を売り回ったことで、全国に「越前打刃物」の名が広まりました。

越前打刃物の特徴は日本古来の火づくり鍛造(たんぞう)技術。鋼を火で熱して柔らかくし、叩いて圧力を加えることで金属同士の組織を頑丈にしていきます。金属を金型に流し込んで作る鋳造(ちゅうぞう)とは違い、形を自由自在に変えられるのも打刃物の特徴です。

800度〜1000度にもなる炎で鋼を熱し、鍛造する越前打刃物
何度も叩き続けることで、強度が増していきます

手仕上げ、磨きなどの工程を経て、1本ずつ丁寧に仕上げられる越前打刃物。千代鶴がこの地に訪れて以来、約700年にわたって育まれた技術は、料理用包丁やハサミ、カスタムナイフなどさまざまな商品に広がり、今では海外の愛用者も増えています。

最高の研磨職人が、最高の刃物をつくるために興したメーカー「龍泉刃物」

60年以上の歴史を持つ龍泉刃物

「龍泉刃物」は福井県越前市に本社を持つ、料理包丁やカトラリーなどをつくる刃物メーカーです。初代の増谷等(ますたに・ひとし)さんはもともと研磨職人として産地のなかでも最高の技術を誇る職人でした。

研磨だけでなく、一貫したものづくりを担うメーカーを目指し、昭和28年に独立・創業。2代目の増谷浩(ますたに・ひろし)さんは刃物組合の理事長として越前打刃物の認知度を高め、国内の刃物産地としては初めての「伝統的工芸品」の指定に大きく貢献しました。

そして、現在の社長を務めるのが3代目の増谷浩司(ますたに・こうじ)さん。代替わりした2008年頃は世界的な経済破綻もあり、産地全体がピンチに陥っていました。商品をつくってもまったく売れず、国内での販売に限界を感じていた増谷さんは海外に活路を見出します。

龍泉刃物3代目の増谷浩司さん

苦い思い出となった初の海外進出

「それまで販売は問屋に任せておけばよかったのですが、これからは自分たちで販路を開拓しなければなりません。海外にまったくツテのないなか、展示会への参加やレストランへの飛びこみ営業を続け、少しずつ龍泉刃物の良さに興味を示す人たちが増えていきました」

海外のレストランを訪ねる際は、事前にシェフの情報をリサーチし、好みや特徴に合った料理包丁を持っていったそうです

手探りの海外進出でしたが、さらに大きな問題が立ちはだかりました。それは、「現地で包丁を研げる人がいない」ということ。

包丁の品質は最高であっても、使い続けるためのメンテナンスができない。この致命的な問題をすぐには解決できず、海外への販路は一旦途絶えてしまいます。

“最高の切れ味を持つステーキナイフ”に大苦戦

2009年12月、雪深い福井にある人物が訪ねてきました。それは「星野リゾート 軽井沢ホテルブレストンコート」で当時総料理長を務めていた浜田統之(はまだ・のりゆき)さん(現在:「星のや東京」料理長)。新しくオープンするメインダイニング「ユカワタン」で使いたいと、“最高の切れ味を持つステーキナイフ”の制作を増谷さんに依頼したのです。

もともと龍泉刃物の愛好者だった浜田統之さん

すぐさま制作に取り掛かり、ほどなくしてナイフのサンプルが出来上がりました。しかし、浜田シェフからの回答は「NO」。

「たしかに肉はよく切れる。しかし、これでは切れ味が良すぎて口のなかも傷つけてしまう」

肉を切るだけではなく、時にはソースをすくうこともあるステーキナイフ。切れ味と安全性の両立は難しく、何度もサンプルを作り直すもOKが出ない状況が3ヶ月以上続きました。

増谷さん自ら試作を続けていました

ピンチの時に訪れた奇跡の再会

レストランのオープンが刻々と近づくなか、制作は思ったように進みません。そんな増谷さんにとって奇跡的な出来事が起こります。それは小中学校時代の同級生・渡辺弘明さん(株式会社プレーン)との35年ぶりの再会。

東京でプロダクトデザイナーとして活躍していた渡辺さんが、増谷さんの制作を手助けしてくれることになったのです。

彼らは世界中のステーキナイフを集め、構造の研究から始めました。本来、ステーキナイフには刃の先にギザギザをつけることで、食材とのひっかかりをつくり、切り込んでいきます。増谷さんはその機能に着目し、再度素材を検討。柔らかい鋼と硬い鋼を何層にも合わせて研ぎました。素材同士の削れ具合の違いがヤスリのような構造となり、食材を当てるだけでは切れず、しかし軽く引けばなめらかに切れる一本を実現したのです。

こうして約2年の歳月をかけて“切れ味と安全性を兼ね備えた”最高のステーキナイフが完成しました。

デザインを担当した渡辺さんは、アシンメトリーな形を提案。龍泉刃物独特の波紋模様「龍泉輪」の美しさが引き立つようなデザインに仕上がりました。

世界中の料理人が絶賛したステーキナイフ

ステーキナイフの完成は、当初目標にしていたレストランのオープンには間に合いませんでしたが、増谷さんには次のチャンスが舞い込んできます。浜田統之さんが日本代表シェフとして出場することになった「ボキューズ・ドール国際料理コンクール」で、龍泉刃物のステーキナイフを日本チーム専用のナイフとして採用したのです。

結果は日本人として過去最高位の3位を受賞しただけでなく、24カ国からなる審査員の約半数が龍泉刃物のステーキナイフを持ち帰ったというのです。この日を境に龍泉刃物の名前は一躍世界中で知られることになりました。

世界第3位を受賞した浜田統之さん(左)と増谷さん

現在、フランス、イタリアをはじめ、アメリカ、ドイツ、オランダ、香港など世界中のレストランで愛用されている龍泉刃物のステーキナイフ。こちらも包丁と同様に定期的なメンテナンスは必要ですが、前回撤退したときの教訓を活かし、現地で対応できる拠点をつくりました。

しかし、1ヶ月につくることのできるステーキナイフは150本と限界があるため、現在も注文は約4年待ちと言われています。

越前打刃物に出会う入り口が増えていく

ステーキナイフ以外にも、ペーパーナイフやショコラナイフなど、龍泉刃物は次々と新しい商品を生み出しています。増谷さんは料理、文具、趣味など、さまざまな入り口をつくることで、越前打刃物を世界中の人にもっと知ってもらいたい、と語ります。

また長年、職人の育成に力を入れてきたかいもあり、最近では20代の若い職人も増えてきたそう。

龍泉刃物の職員は現在8名。地元のものづくりに興味を持つ若者も増えている

「打刃物の現場は夏でも約1000度の炎や、冬でも身を切るような寒さのなかで水を使う厳しい現場なので、若い人たちから敬遠されていた時代もありました。しかし最近では、伝統を継承するという誇りや世界に認められている自信が、若い人たちの大きなモチベーションになっていると思います。これからも世界中に自信を持ってお届けできるものづくりに取り組んでいきたいですね」

伝統の技を継承しながらも新しい技法を生み出し、挑戦を続けている龍泉刃物。「越前のものづくり」は今後も刃物のような鋭い切れ味のごとく、世界を鮮やかに切り拓いていくに違いありません。

<取材協力>
龍泉刃物
越前市池ノ上町49-1-5
0778-23-3552

文:石原藍
写真:石原藍、龍泉刃物(一部)

めがね列伝

こんにちは。ライターの石原藍です。
国産めがねフレームの9割以上を生産している福井県。なかでも鯖江市はめがねの製造会社が集積していることから「めがねの聖地」として全国から注目を集めています。どうしてこの地がめがねの一大産地と言われるようになったのでしょうか。

今回は鯖江のめがねに詳しい方々に話を伺い、過去を遡りながらその背景を読み解いていきます。

めがねのすべてを知るならここ!

北陸自動車道・鯖江ICから車で3分の場所にある「めがねミュージアム」。
めがねの産地、鯖江を代表する建物で、めがねの歴史を学ぶことができるほか、著名人のめがねも多数展示しています。

笑福亭鶴瓶さんのめがね。見るだけでご本人のかけた姿が想像できます
こちらは所ジョージさんのめがね。たしかに見覚えがあります!
石坂浩二さんのめがねはネジを一本も使っていないチタン製

ミュージアムで長年、案内人をされている榊幹雄さんに、めがね発祥の歴史から教えていただきました。

榊幹雄(さかき・みきお)さん/めがねミュージアムの案内人
福井市出身。めがね職人として40年の経歴を活かし、めがねの歴史や素材、製造方法など幅広い知識を持つ

日本最古のめがねは室町時代!?

めがねが発明されたのは、13世紀後半のヨーロッパ。その後海外に広がり、日本には15世紀頃伝わったと言われています。

「16世紀くらいまではレンズに水晶やトパーズが使われていたんですよ。鼻パッドや耳にかける部分はなく、今のめがねと形は違いますが、当時から海外の加工技術は高かったことがわかると思います」

例えば下の写真は15世紀頃に中国で使われていためがねケースですが、鮫皮が貼られ、彫刻と彩色が施されています。何百年も昔のものとは思えないほど美しいですよね。

日本のめがねに関する最も古い記録は1551年。宣教師フランシスコ・ザビエルが山口・周防の大名、大内義隆(おおうち・よしたか)にめがねを献上したことが記されています。現存する日本最古のめがねは室町幕府第8代将軍の足利義晴が使用したものだそう。

また、あの徳川家康も好んでめがねをかけたといわれていて、家康が使用しためがねは今でも静岡県の久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)に残されています。

家康が愛用した「阿蘭陀(おらんだ)眼鏡」

江戸時代のめがねは職人たちの必需品

日本でめがねがつくられるようになったのは、江戸時代初期の頃。朱印船の船長だった浜田弥兵衛(はまだ・やひょうえ)が南蛮でめがねづくりを学んだことがきっかけでした。西洋ではめがねはインテリ階級の人が使うもの。しかし、日本では絵師や彫り師といった職人もめがねを使い、仕事の必需品として一般庶民に浸透していたそうです。

紐を耳にかけ、額と頬骨あたりで固定。通常のめがねより目の少し斜め前にセットされるため、レンズ同士が中央に寄っていても焦点が合うのだとか

むむっ、榊さん、こちらのめがねは?
「これは日本人の顔のつくりを考えためがねです。日本人の顔は西洋の人に比べて扁平だから、そのままめがねをかけると目とレンズがひっついてしまう。当時はまだ鼻パッドが誕生していないので、額の部分に立ち上がりをつくることで、顔とレンズの間に隙間を開けているんですよ」

なるほど。使いこなすにはコツがいりそうですね
こちらは結った日本髪が乱れないようこめかみ部分でめがねを押さえる「頭痛押さえめがね」。すっきりとしたデザインですが、喋ると顔の筋肉が動くため、すぐにずれてしまったそう

明治になり文明開化。一気に西洋ブームへ

明治維新を経て1870年頃から文明開化のスタート。当時は日本橋でめがね専門店がオープンしたり、レンズ制作の技術を海外から持ち帰ったりとめがね業界の動きも活発だったようです。

当時の社交場「鹿鳴館」では貴婦人の間でこんな形のめがねが大流行
双眼鏡をイメージしたこんなユニークなめがねも登場しました。実際はたいして遠くまで見えず、実用性には欠けていたようです

めがねの産地として歩み始めた歴史的な年

1905年といえば、アインシュタインの「相対性理論」が発表された年。福井県麻生津村(現在の福井市生野町)では、村会議員だった増永五左衛門が大阪からめがねフレームの製造技術を持ち込みました。めがねの産地としてスタートするきっかけとなった歴史的な出来事です!

農地が少なく、貧しい暮らしをしていた麻生津村。冬の時期は農業ができないことから、五左衛門は農閑期にできる仕事を考えていました。当時、新聞が普及し始めたことから「これからは活字文化になる(=つまりめがねも必要になるに違いない)」と予想し、めがねの製造職人を工場に招くため大阪へ。優秀な職人の教育に尽力したほか、福井市の隣の河和田村(現在の鯖江市河和田地区)にも工場を開きました。

工場の2階には夜間学校も開設し、地域教育にも力を入れた増永五左衛門

「五左衛門がすごかったのは、親方と弟子でチームを組んで競わせる『帳場制』を採用したこと。職人同士が切磋琢磨するようになり、見込みのある人を次々に独立させたんですよ」

これによって産地として規模がますます大きくなり、技術も飛躍的に向上したそうです。すごいシステムです。

終戦とともにめがねの需要が一気に高まる

その後、東京や大阪をしのぐめがねの産地に成長した福井・鯖江。戦争の空襲で他の産地が壊滅的になったことからますますめがねの製造量が増えます。さらに明治時代から鯖江に駐屯にしていた旧日本陸軍の部隊「三十六連隊」が終戦とともに引き上げたことから、続々と跡地がめがね工場に転用。こうして、鯖江はめがねの産地としてゆるぎない地位を確立していきました。

鯖江が産地として歩みだした背景には、こんな歴史があったんですね。

戦後から現代へ。鯖江のめがねマスターが語る

ここからは場所を変えて、鯖江のめがね業界に携わるお二人に、戦後から現在に至るまでのめがねを取り巻く環境について話していただきます。

田中幹也(たなかみきや)さん/田中眼鏡店主
唯一無二のセレクトで異彩を放つ、鯖江では数少ない小売店「田中眼鏡」を経営。
めがねの知識は鯖江一と言われるほどの勉強家である

増永昇司(ますながしょうじ)さん/(株)マコト眼鏡代表取締役
オリジナルブランド「歩(あゆみ)」の生みの親。
福井の産地にめがね製造を取り入れた増永五左衛門の血を受け継ぐ

3万5千ダースのめがねを燃やした「めがねの火祭り」

(以下、田中さんの発言は「田中:」、増永さんの発言は「増永:」と表記。)

田中:戦後はアメリカの文化が入ってきたので、海外の有名人が使った眼鏡やサングラスが話題になったそうですね。マリリン・モンローやレイ・チャールズ、オードリー・ヘップバーンがかけたサングラスがヒットして日本でもブームになったと聞きました。

増永:でもブームが過ぎ去ったあとは福井でも企業が次々倒産してしまうんです。過剰生産で売れ残ったサングラスをどうするか。本来なら値段を落として売りさばくのが普通なんだろうけど、安売りして産地としての価値を壊してはいけないと、3万5千ダースのめがねをすべて燃やしてしまったんですよ。すごい決断だったと思います。

田中:「めがねの火祭り」と呼ばれているやつですね。でもその結果、だぶついていた在庫が一掃されて新しい商品を製造する余地が生まれたので、産地としてまたうまく循環するようになっていくんですよね。海外にも地道にPRを続けていたので、国外からの注文も多かったと聞きます。

増永:私がめがね業界に入った1980年代は海外ブランドのブームで、めがねの問屋はこぞってブランドのライセンス契約を取得していました。ポロ・ラルフローレンやレノマ、バーバリーなど、鯖江内でも偽物がつくられて問題になったことがあったんですよ。

田中:そんなライセンスブームのなか、自社ブランドを先駆けてつくった金子眼鏡のようなメーカーも現れるなど、鯖江のめがね業界はさまざまなタイプのメーカーが生まれていくんですね。

ここでしかつくれないめがねを求めて

増永:鯖江のめがねの歴史で大きなターニングポイントになったのは、チタン・フレームの誕生です。チタンは軽くて強いし錆びない、そして金属アレルギーも出ない。理想的な素材にもかかわらず、空気中で溶接できないという弱点があったんです。

田中:鯖江がチタンフレームの製造に成功したのは、産地全体で技術開発を熱心に続けてきた賜物ですよね。これまで欧米諸国がめがねづくりをリードするなか、この加工技術が生まれたことで、鯖江は世界と戦える産地になったんだと思います。

昭和56(1981)年、世界で初となるチタンフレームの実用化に成功。独自の加工技術で強くて軽いフレームが誕生しました

田中:1992年には福井県のめがね関連出荷額が1200億円を超えるほどに成長しましたが、バブル後の不況や海外への技術の流出などにより落ち込みました。産地を取り巻く状況は山と谷を繰り返していますよね。

増永:ただ、どんなに不況になろうと“ものづくりの精神”は変わっていなくて、かける人のことを考え抜いためがねづくりを続けているのが日本の良さだと思うんです。海外製の安価なめがねが増えているのは事実ですが、日本製のめがねを手に取ってもらうとその良さが必ずわかるはずです。

マコト眼鏡のオリジナルブランド「歩(あゆみ)」は形状変化に強いセルロイドを使ったもの。そのかけ心地の良さに長年使い続けるファンも多い

田中:これまで矯正器具だったものがおしゃれアイテムに変わり、めがねは多くの人にとってより身近なものになったと思います。わざわざ県外から足を運んでくださるお客様も多く、ありがたい限りです。小売店として、一人ひとりの顔にぴったり合わせられるフィッティング技術に責任を持ちながら、日本のめがねの良さを多くの人に伝えていきたいですね。

増永:つくり手としては、産地として培ったスピリットがめがねにこめられているか。それに尽きると思います。2003年には福井の産地統一ブランド「THE291」が立ち上がり、最近では若いデザイナーによる新しい感性のめがねも誕生しているなど、めがねの新時代が創られようとしています。これからも“産地の力”を集結させ、思わず手に取りたくなる、ずっとかけていたくなるようなめがねを鯖江から届けていきたいですね。

<取材協力>
めがねミュージアム
福井県鯖江市新横江2−3−4 めがね会館
0778-42-8311

田中眼鏡
福井県鯖江市神明町1-2-8
0778-51-4742

株式会社マコト眼鏡
福井県鯖江市丸山町2-5-16
0778-51-5063

<参考資料>
MODE OPTIQUE vol.40 「ニッポンのメガネ 近現代史」

文・写真:石原藍

ルーヴル美術館にも和紙を納める人間国宝・岩野市兵衛の尽きせぬ情熱

こんにちは。ライターの川内イオです。
今回は現在83歳の人間国宝で、いまも売れっ子の越前和紙職人のお話をお届けします。

世界の美術館を対象にした来場者数のランキングで、毎年のようにナンバーワンに輝くルーヴル美術館。所蔵品55万点、昨年も740万人が訪れた世界最大級の美術館が、福井県越前市の小さな工房から越前和紙を取り寄せていることは、あまり知られていない。

手漉き和紙の産地として1500年の歴史を誇る越前市五箇地区の一角、周囲を山に囲まれた静かな集落のなかに、その工房はある。こんにちは、と玄関をくぐると、ルーヴル美術館からの依頼を受けて、2014年から和紙を納めている九代目・岩野市兵衛さんが、奥さん、息子さんと一緒に仕事をしている最中だった。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
自然豊かな越前市五箇地区の「和紙の里」

日本で唯一の和紙

2000年6月、国指定重要無形文化財に認定された岩野さん。わかりやすく表現すると、人間国宝だ。人間国宝というと、高価な着物を着て、立派な工房で大勢の弟子を抱えているというイメージがあったが、岩野さんの姿を見てすぐにその偏見を改めた。1933年生まれでこの9月に84歳を迎える岩野さんは、いまも現役の職人として紙を漉いている。取材に訪れた真夏の午後も、涼しげなシャツ一枚で、正座をして黙々と指先を動かしていた。

現在日本で唯一、岩野さんとその家族だけが手掛けているのは、越前和紙のなかでも越前生漉奉書(えちぜんきずきぼうしょ)と呼ばれる最高級の和紙。原料として楮(こうぞ/クワ科の植物)だけを用い、古来より伝わる手漉きの技法で作られている。
ほぼ薬品を使わず、気の遠くなるような緻密な工程を経て漉かれた紙は、美術品を痛めないだけでなく、驚異的な耐久性と保存性を誇り、詳しくは後述するが主にルーヴル美術館の膨大な収蔵品の修復に用いられているという。

昔ながらの「川小屋」

岩野さんの工房は自宅の敷地内で複数に分かれていて、今回、岩野さんが作業をしていた所は独特の作りになっていた。南側の壁はお風呂で使うようなタイル張りで、水が緩やかに流れている。工房の片側にあるパイプからすぐ近くの山林の湧水をくみ取り、もう片側から流れ出るようになっているのだ。工房が湧水の通り道になっていることから、昔から「川小屋」と呼ばれているそうだ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
「川小屋」での作業の様子

僕が訪ねた時、川小屋で行われていたのは「選り(より)」。岩野さんの言葉では「ちり取り」という。

「今日の午前中、楮をでっかいお釜で炊いて、それからちり取りです。黄色い部分が固いから、固いところだけを取るの。きれいに取らないと、紙の表面に黄色い線がすっすっすっと入ってしまうんですね。もっと簡単な方法もあるんですよ。真冬でも水に手を突っ込んでこんなひとつひとつのちりをとらなくても、薬品の力を借りれば簡単に真っ白になる。そこに人工で着色してから漉けば見た目は変わらない紙になるんだ。いまの時代にこんだけやっている所は他にないでしょうね」

人間国宝といっても気取ったところがまるでない岩野さんが、これがちり、と見せてくれたのは、本当に微小な楮の繊維片。黄色い、固いと言われても素人目にはほかの部分と判別がつかないが、岩野さんは話をしながら、パッパッパッと「ちり取り」を続けている。頼りになるのは目と手触りだけだ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
指先で細かな「ちり」を取る岩野さん

アーティストを虜にする和紙

「選り」は越前生漉奉書を作るうえで欠かせない作業ながら、ほとんど化学薬品に頼らない伝統的な技法の一部に過ぎない。岩野さんが薬品を使うのは、最初に楮を煮る時だけ。アルカリ成分で木の繊維を柔らかくするために、ソーダ灰を用いている。

煮だした繊維を「選る」と、繊維を叩いて一本一本をバラバラにする「叩解(こうかい)」という作業に続く。その後に一度水洗いしてでんぷん質を取り、きれいな繊維だけの状態にしてからようやく漉舟(すきぶね)に入れて紙を漉く。

このとき、一般的には漉船にトロロアオイという植物の根を原料にした「ねり」を入れて水の粘度を高めるが、岩野さんは北海道からノリウツギという低木の樹皮を仕入れて、「ねり」にしている。トロロアオイに比べるとかなりの高額だが、「優しい粘りが出る」というのが理由だ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
成長が遅く、木になるのに10年以上かかるというノリウツギの樹皮

紙の厚みを出すために何度か漉き重ねたうえで、ジャッキに載せて水を絞る。これを「圧搾(あっさく)」という。圧搾が終わると、漉き重ねた紙を一枚、一枚はがし、板に張り付けて暖かい部屋で室乾燥(むろかんそう)にかける。温度を高くするとしっかり乾燥する前にめくれ上がる可能性があるので、時間をかけてゆっくりと乾燥させる。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
室乾燥をしている様子

この過程を経てようやく越前生漉奉書ができあがるが、岩野さんが厳しい目で検品をして製品としてのレベルに至らない紙も多い。不合格になった紙はどうなるのか。もう一度、叩解し、繊維の状態に戻して、漉き直す。岩野さんの工房で捨てられるのは「選り」の際に残ったわずかなちりぐらい。そのちりで作った紙が欲しいというリクエストもあるそうで、無駄になる素材はほとんどない。

そうして完成した越前生漉奉書は、しなやかなのに伸び縮みせず、発色が良く、色あせもしないことで主に木版画の用紙として絶大な信頼を集め、横山大観や平山郁夫、草間彌生らが作品に用いていることで知られる。先代は、桂離宮松琴亭の襖壁紙も手掛けた。

戦争で閉ざされた夢の扉

岩野さんの家は、家族経営で先祖代々この製法を守り続けてきた。岩野さんの父、八代目の岩野市兵衛さんも人間国宝で、親子で認定されるのは極めて珍しい。これまで和紙業界で人間国宝は5人しかおらず、そのうちふたりが岩野さん親子というだけで、圧倒的な技術とその希少性がわかるだろう。

しかし、いかに貴重な和紙を作る家に生まれたからといって、すぐにその運命を受け入れられるわけではない。もともと、岩野さんは「紙漉きに興味がなかった」と笑う。

「もともと版画の彫師になりたかったんですよ。子どもの頃は、鉛筆削りといえば小刀でしょう。私が持っていた小刀がとにかくよく切れて、クラスのみんなが使ってました。そうするとすぐに切れなくなるから、家で研ぐ。研ぐのも好きで、毎日研いでました。それで、キレのいい刃物があれば良い彫刻もできるだろうと思うようなったんです」

版画の彫師になりたいというのは、子どもにありがちな漠然とした夢ではなかった。

「その頃、東京に大蔵半兵衛、京都には菊田幸次郎さんという人がいて、版画の彫師として有名な人で、そこの門を叩こうと思っていました。それでアカンと言われたら、うちの一番の得意先が下落合で版画を扱っているから、そこに行って弟子入りをしようかと。いまでもふたりの名前を憶えているぐらい、彫師に憧れていましたね」

しかし、時代が彫師への扉を閉ざした。1945年に、岩野さんの父が太平洋戦争で出征。間もなく終戦を迎えたが、運悪くシベリアに抑留されてしまった。小学校5年生になっていた岩野さんは、必然的に家業の紙づくりの手伝いをさせられるようになった。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
「選り」の作業をしながら少年時代を振り返る岩野市兵衛さん

「ピカソが使っていた紙」の真相

父が2年後の1947年に戻ってくると、家業がどんどん忙しくなっていった。終戦後、東京などに駐留していたアメリカの軍人が母国に帰国する際の土産として、オリエンタルで軽くて持ち運びに便利な浮世絵が人気となり、爆発的に売れた。浮世絵は、和紙に描かれている。仕事に復帰した岩野さんの父が東京の得意先回りをすると、次から次へと注文が舞い込むようになったのだ。

「当時、私の家で働けるのは親父と叔父さん、それから私の母親と叔父さんの連れ添い、あとほかの家族の者をいれた5、6人でした。それではどうにもならんようになって、お前は学校に行かないでうちの手伝いせえということで、高校に行くどころじゃなかった」

岩野家の唯一無二の和紙は海を渡り、海外でもその存在を知られるようになった。一時期、岩野さんの父がせっせと輸出用の紙を漉いていた記憶があるという。戦前からパリで画家として活動し、成功を治めた日本人画家、藤田嗣治も愛用者のひとりだった。

きっかけは、岩野家の和紙の評判を聞きつけた藤田嗣治の従妹が「これはすごくいい紙だから、送ってやりたい」と訪ねてきたこと。その際に越前生漉奉書を数十枚買った従妹が、パリにいた藤田嗣治のもとに送り届けた。それから岩野家と藤田嗣治の交流が始まった。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
完成品の紙。一般的な紙とは全く異なる風合いを持つ

やがて、「岩野家の和紙をピカソが使っていた」という話が広まるが、それは岩野さんの父と藤田嗣治の会話から生まれたものだ。

「藤田先生がピカソ先生のところを訪ねた時に、どこの紙を使っているのですか? と尋ねたら、ピカソ先生はにこにこ笑って答えなかったそうです。それから時が経ち、藤田先生の従妹がうちの紙を送ったところ、藤田先生が『ピカソのところで使っていた紙と同じだ!』と気づいた。それで、藤田さんから私の親父のところに連絡があったんですよ。ピカソはきっと、日本人なのに日本の紙を知らないのかと笑っていたんだろうと。だから、ピカソ先生がうちの紙を使っていたのか、使っていなかったのか、確かなコトはわかりませんが、藤田先生はそう信じていました」

「古い方法」を求めて絶えない依頼

岩野さん自身は、彫刻の彫師になるどころか、学校にもいけないほど仕事に追われる日々だったが、厳しい環境のなかで職人としての技能を身に着けていった。父が1976年、75歳で他界すると、1978年には跡継ぎとして九代目・岩野市兵衛を襲名した。父からは、ひたすら心構えを説かれたという。

「父が私にずっと言っていたのは、ごまかすな、手抜きをするな、ということです。昔からの製造工程を頑なに守れって。だから言われた通りにやってきたけど、やっぱりごまかさんと紙を作れば、絶対いいものができるのよ。私ももう年だから、得意先に、どっかよその紙も使ってみてくださいって言っても、いや、市兵衛さんが紙漉きを辞めたら、私も版画屋を辞めなあかんやろって言われるんです」

「最近では、カナダに住んでいる日本人の版画家から電話があって、100枚の注文が入りました。それから2カ月したら、また電話があって、あまりにも上手くいったから手元に置いておきたいともう100枚の注文がありました。全然違う音がするということで、音響メーカーのスピーカーにも使われています。親父の言う通りに古い方法を守り抜いて仕事をすれば、それでいいんですよ」

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
煮だして「選り」をしている時の楮
人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛
岩野さんの紙を破ると細かで柔らかな楮の繊維質が現れる

まさに、この「古い方法」を求めたのが、ルーヴル美術館だった。ルーヴル美術館には数百年前の絵画や版画など紙を使った美術品が数多く収蔵されている。その当時、紙の原料は楮や三椏(みつまた)だったため、ルーヴル美術館は修復用として同じような製法で作られた紙を探し求めていた。そうして世界中の紙を集めて比較検討するなかで、岩野さんの紙がトップの評価で選ばれたそうだ。

「東京の美術品を修復する工房からこの話がきてね。去年は厚さが100分の10ミリ、100分の20ミリ、100分の30ミリのものを合計で300枚ぐらい納めたかな。今年は100分の20ミリばかり600枚ぐらい。600枚作るとなると、3人で毎日仕事をしても1カ月ぐらいはかかるねぇ。紙作りで一番大変なことといえば、ご希望の厚さに揃えること。紙を漉きながら、そろそろ100分の20になったなぁ、まだならんなぁとかって目で見て判断するほかない。これが一番難しい」

完全に自然の素材だけで作られた紙

いま、岩野さんのもとにはあらゆる依頼が届く。昨年から今年にかけて、アニメ「攻殻機動隊」の浮世絵シリーズや、映画『スター・ウォーズ』を木版画浮世絵にした「浮世絵 スター・ウォーズ」、『銀河鉄道999』や『宇宙戦艦ヤマト』の漫画家、松本零士の「浮世絵コレクション」などにも岩野さんの紙が使われており、いまや数カ月待ちの状態だ。

83歳の現役職人は、忙しい。しかし、今後さらに手をかけた究極の和紙を求める依頼があった時のために、まだ温めているものがある。蕎麦の葉を燃やして作られた灰だ。

先述したように、普段、楮を煮る時にはソーダ灰を使っているが、ソーダ灰などなかった時代には、植物の灰を使っていた。楮の繊維は植物の灰と相性が良く、岩野さん自身、これまでに数回しか作ったことがないそうだが、完全に自然の素材だけで作られた紙は、光沢や色味、手触りも品が良くなるという。

しかし、10キロの楮を煮るのにソーダ灰なら1.2キロで済むところ、蕎麦の灰なら約6キロも必要になる。この大量の灰を作ってくれるところが、もうなくなってしまった。

「福井県では今庄(南越前町)がお蕎麦の産地だから、そこのおばちゃんなんかに小遣いをあげて、灰を作って、というと喜んで作ってくれた。昔は、稲と同じように蕎麦が実ったら稲機(いなばさ)に引っ掛けて乾燥させて、蕎麦の実を取った後に残った部分を燃やして灰を作ってもらっていたんだ。でも、いまはコンバインで刈っちゃうでしょう。余ったくずを乾燥させて燃やせば灰もできるだろうけど、そんなもん誰もやってくれないよ」

蕎麦の灰の供給は途絶えてしまったが、岩野さんの蔵にはまだ少しだけ蓄えられている。その灰は、「どうしてもせなあかん」依頼があった時のために、眠らせてあるのだ。
人間国宝が紙づくりに燃やす情熱は、まだまだ尽きていない。

「もうこれでええっちゅうことはないもん。死ぬまで一年生」そういうと、岩野さんは静かに微笑んだ。

人間国宝・越前和紙の岩野市兵衛

<取材協力>
福井県和紙工業協同組合
福井県越前市新在家町8-44パピルス館内
0778-43-0875

越前 和紙の里
福井県越前市新在家町8-44
0778-42-1363

文・写真:川内イオ

紙の神様に会いに行く。越前和紙の里でまち歩き

こんにちは。ライターの石原藍です。

北は北海道から南は沖縄まで、日本には全国各地に和紙の産地があります。
日本で初めて和紙が漉かれたとも言われている福井県・「越前和紙」の里は、全国でも珍しい「紙の神様」をお祀りする神社があり、美しい景観、和紙づくり体験など、そぞろ歩きも楽しい町。実際にめぐりながら、その魅力をご紹介したいと思います。

「透かし」技法を生み出した越前和紙

やってきたのは北陸自動車道・武生(たけふ)ICから車で10分ほど東にある、越前市の今立(いまだて)エリア。なかでも大滝町、岩本町、不老(おいず)町、定友町、新在家町からなる五箇地区には、まちを流れる岡本川を中心に、今も多くの和紙業者が軒を連ねています。

昔ながらの日本家屋が立ち並ぶ風情のある街並みは、のんびりとお散歩するのにぴったり

6世紀頃から漉かれるようになったといわれる越前和紙。室町時代は公家や武士の奉書紙として使用され、江戸時代には日本一の紙の証である「御上天下一」の印が押されていたなど、品質の高さには昔から定評がありました。

時代の変化とともに機械漉きも登場しましたが、今も工房をのぞくと、職人たちがせっせと紙を漉く姿を見ることができます。版画に使うものからふすま紙に使われるような大きな和紙まで、種類はさまざまです。

立ち寄った工房での一コマ。大きな漉き桁を動かしながら紙を漉いています
こちらは大きな和紙を二人がかりで漉いていました

実は紙幣に使われる「透かし」の技法を生み出したのも越前和紙。1940(昭和15)年には大蔵省印刷局の出張所が今立エリアに設置され、この地から百円紙幣や千円紙幣が製造されていたそうです。

透かしの技術は卒業証書にも使われています。越前市では卒業を迎えた生徒が、自ら卒業証書用の和紙を漉くそうです。一生の思い出になりそうですね

紙の神様を祀るまちへ

五箇地区の街並みを通り抜け10分ほど東に歩くと、大きな鳥居の「岡太(おかもと)神社・大瀧神社」が見えてきます。

大きな杉の木がそびえ立っています

越前和紙の歴史を語る上ではずせないと言われているこの神社。なんと、紙の神様が祀られています。
今から約1500年前に岡本川の上流に美しい姫が現れ、「この村は清らかな谷川と緑豊かな山々に恵まれているので、紙漉きを生業とすれば生活が潤うだろう」と村人に紙漉きの技を教えたそう。これが越前和紙の発祥とされ、以来、この姫を紙祖神(しそしん)「川上御前(かわかみごぜん)」としてお祀りするようになった由緒ある神社なのです。

凛とした空気が流れる境内。思わず背筋が伸びてしまうような神聖な雰囲気です。階段を登ると現れる荘厳な社殿を一目見ると、きっとため息をついてしまうはずです。

何重もの波が寄せ合うような檜皮葺きの屋根に、本殿と拝殿が連なった珍しい形の社殿は国の重要文化財にも指定されており、その迫力のある佇まいに心を奪われてしまいます。

緻密な彫刻は福井県の有名なお寺、永平寺の勅使門を作り上げた宮大工の大久保勘左衛門によるもの
社殿の側面には中国の「故事」を題材にした彫刻が施されています

じっと目を凝らして見つめていたくなるような社殿ですが、川上御前は普段、背後にそびえる権現山の「奥の院」に祀られています。毎年春と秋にだけ下宮(里宮)にお迎えして五箇地区を巡幸する例大祭が行われるのです。地元では毎年大変賑わうお祭りですが、2018年はなんと1300年祭という記念すべき大祭になるとのこと(2018年5月2日〜5日開催予定)。ぜひとも訪れたいものです。

和紙の里で紙漉きの技に魅了される

紙の神様へのお参りを済ませ、歩くこと約10分。次にやってきたのは同じ今立エリアにある「越前和紙の里」です。

ここでは、およそ230mにわたる「和紙の里通り」を中心に、越前和紙の魅力を体感できる施設が点在しています。

1.昔ながらの和紙づくりを見学できる「卯立(うだつ)の工芸館」

最初に到着したのは「卯立の工芸館」。名前の通り、建物正面の屋根部分には立派な卯立が立ち上がっています。

建物正面の2階部分が壁のようにそびえ建っている卯立。正式には「妻入り卯立」という建築様式で、このあたりの民家ではよく見る形だったそうです

この建物は江戸時代中期のもので、越前市の紙漉き職人だった西野平右衛門の家を移築・復元したもの。伝統工芸士が昔ながらの道具を使って和紙を漉く様子や、屋外で和紙を天日干しする様子など、和紙づくりの一連の工程を見ることができる、全国でも珍しい施設なのです。

江戸時代中期の紙漉き道具も復元しています

実際に見学した流れに沿って、簡単に和紙のつくり方をご紹介しましょう。

和紙の原料は主に、楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)という植物。刈り取ったものを釜で蒸して、皮を剥いでいきます。

その皮を乾燥させ、表面の黒い部分を削り取り、白皮にしていきます。

次は「塵選り(ちりより)」という作業。煮た皮を水にさらし、細かい塵を取り除いていきます。一つひとつ手作業で白皮をほぐしながら塵を見つけては取り、また見つけては取り……の繰り返し。気の遠くなるような細やかな作業です。

和紙をつくる上で「水」はとても大切なもの。原料の木の皮を水にさらして洗う工程や漉く作業ではきれいな水が欠かせません。水道水で和紙をつくると、塩素などの成分により和紙が変色してしまうこともあるのだとか。

きれいな川が近くにある五箇地区は、まさに和紙づくりに適した場所だと言えます

塵を取り除いた後は「叩解(こうかい)」。皮を木のハンマーのようなもので叩いてほぐしていきます。叩けば叩くほど繊維がほどけてきめ細かい和紙になるため、最低でも2時間、長い場合は4時間近く叩き続けるそうです。

この木は2kg近くあり、叩き続けるのも大変!和紙職人は体力・筋力も必要。大変な作業です

和紙の元が出来上がり、水と繊維を漉き舟(槽)に入れてよく混ぜていきます。

水と繊維だけでは均一な和紙を漉くことはできません。和紙の繊維がうまくからみ合うようにするため、トロロアオイという植物の根から出た粘性の液体、通称「ネリ」を一緒に混ぜていきます。

トロロアオイの液体。すごい粘りです。混ぜ合わせる配合によって和紙の仕上がりが左右されるため、職人の経験で分量を決めるそう

ようやく紙漉きの準備が整い、ここから紙を漉いていきます。和紙の原料を漉き桁に汲み、縦横に動かしながら均一の厚さになるよう、この動作を繰り返します。

「紙の厚さには神経をつかいますね。光の加減によっても和紙の厚さが違って見えるので、とても難しいんですよ」
と伝統工芸士の職人さん。

手際良く和紙を漉き、出来上がった和紙を重ねていきます

この後は圧搾して水分を絞り、乾燥へ。気温・湿度によって乾燥具合も調節が必要なため、職人さんいわく、「和紙は生き物」だと言います。
にこやかに説明してくださった伝統工芸士さんも、漉き桁を手に取った瞬間、キリッとした職人の顔に早変わり。次々に漉き上がっていく美しい紙に思わず見とれてしまいます。私たちが普段気軽に使っている紙も、そもそもを紐解いてみると大変手間のかかるものだということがよくわかりました。

2.越前和紙のすべてがわかる「紙の文化博物館」

職人の技を間近で見た後は、「紙の文化博物館」へ。
ここでは和紙の歴史を学びながら、産地で漉かれたさまざまな紙の展示を見ることができます。

越前和紙の発祥や歴史もわかりやすく説明されています

別館の展示エリアには、産地を代表する和紙約125点が展示されています。一口に越前和紙といっても、真っ白なものもあれば、色のついたものやしわ加工されものもあるなど、まったく異なるので、眺めるのも楽しいです。

墨を水に落とし、できた模様を写し取った「墨流し」の和紙
こんな細かな装飾が施された和紙も

3.かわいい和紙雑貨に心踊る!紙漉き体験もできる「パピルス館」

和紙について深く学ぶと、「自分でも紙を漉いてみたい!」と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。そんな方にぜひ立ち寄っていただきたいのが「パピルス館」です。

ここは子供から大人まで紙漉きができる体験工房で、自分だけの和紙をつくることができます。

色鮮やかな葉っぱや押し花を選び、和紙のなかに閉じ込めます
越前和紙のハガキやうちわ、コースターなどをつくることができます。こんなハガキで手紙を出してみたい!

さらに、パピルス館の1階奥には実際に越前和紙の商品を購入できる「和紙処えちぜん」があります。

ここでは工芸用和紙や和紙を使った雑貨が数多く取り揃えられていて、ついついお土産に買って帰りたくなるものばかり。

越前和紙でつくった風鈴
越前和紙でつくる恐竜は子供にも大人気!

半日かけてめぐった和紙の里。徒歩でも十分回ることができるエリアで、訪れた日も家族づれやグループ、卒論の研究のために東京からやってきた学生など、幅広い年代の人たちが散策していました。紙の神様に挨拶するもよし、職人さんの技に魅了されるもよし、自分だけの和紙を漉くもよし。思い思いの楽しみ方ができる越前和紙の産地で、和紙の新たな魅力に出会ってみてはいかがでしょうか。

<取材協力>
越前和紙の里
福井県越前市新在家町8-44
0778-42-1363


文・写真:石原藍

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RENEW×大日本市鯖江博覧会

9月のさんちは福井県「鯖江・越前」を特集します。
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