沖縄「金細工またよし」のジーファー、房指輪はどうやって作られているのか

昨年、大きな話題を呼んだ、平成の歌姫、安室奈美恵さんの引退。

出身である沖縄県は、世代を問わず愛された歌姫の輝かしい功績を讃え、県民栄誉賞にあるものを贈りました。

それは美しい純銀のリング「房指輪」と髪飾り「ジーファー」。

どちらも世界でただ一人、又吉健次郎さんだけが作ることのできる沖縄伝統の金細工「クガニゼーク」です。

工房またよしの又吉健次郎さん。87歳。首里王府の命により中国に渡って金細工の技術を修得した初代から数えて7代目です
工房またよしの又吉健次郎さん。87歳。首里王府の命により中国に渡って金細工の技術を修得した初代から数えて7代目です

はるか琉球の時代から人の門出に寄り添い、平成の歌姫の花道を飾った銀の飾り。今日はそんなクガニゼークのお話です。

沖縄伝統のエンゲージリング「房指輪」

「さっきは男性が婚約指輪にと、買いに来られていました」

又吉さんがおもむろに仕事の手を休めて指し示したのは、「房指輪」。

沖縄県が安室奈美恵さんに贈ったクガニゼーク
シンプルな銀の指輪に、いくつもの飾りが取り付けられています

琉球王朝時代に生まれた金細工「クガニゼーク」のひとつです。細かなパーツに至るまで、すべて溶かした純銀を打ち叩いて作られます。

魚や果物などをかたどった飾りにはそれぞれ縁起のよい意味があり、婚礼が決まった我が子に親から贈る、琉球伝統のお祝い品。

近年、その存在が広く知られるようになると、県外からもプロポーズや新婚旅行の記念に買い求める人が急増。注文から完成まで半年まち、ということもあるそうです。

髪を飾るお守り「ジーファー」、永遠の愛を願う「結び指輪」

金細工またよしで主に作られているのは、房指輪の他にジーファー、結び指輪という三種類。

「どれも願いや祈りが込められています。『ジーファー』は、自分の分身とも言われるお守りのような髪飾りです」

ほっそりとした匙のような形のジーファー。安室奈美恵さんには、房指輪とこのジーファーが贈られた
ほっそりとした匙のような形のジーファー。安室奈美恵さんには、房指輪とこのジーファーが贈られた

「このシルエットは、女性の後ろ姿なんですね。何の飾りも無く、ただ線と形だけで『女』になる。シンプルな表現です。本当にすごいなと思います」

三つ目の結び指輪は、かつて沖縄の遊女たちが「愛する人と末長く結ばれるように」と身につけていたものだそう。今では房指輪と並んで人気です。

結び指輪

「房指輪、ジーファー、結び指輪。この三つはどうしても後世に残したい、と跡を継ぐことを決めました」

実は、又吉さんがこの道に入ったのは40歳の時。

「それまではラジオのディレクターをしていました。ラジオって、番組が終わったら後に何も残らないんですね。

でも、クガニゼークは純銀だから、腐食しない。大切にすれば永遠に残るでしょう」

又吉さん

大切にすれば。

実は、永遠に残るはずのクガニゼークは、琉球王朝の終焉、そして戦争により一度途絶えています。

濱田庄司と、父・又吉誠睦さん

戦後、空襲を抱えて逃げたという道具で、父・又吉誠睦さんの「金細工またよし」はなんとか存続を保っていました。

しかし、もはや伝統的な金細工の需要はなく、誠睦さんは駐留軍からの様々な銀の加工の請負で生計を立てていたといいます。

その仕事ぶりをみて声をかけたのが、民芸運動で知られる陶芸家、濱田庄司 (はまだ・しょうじ) でした。

誠睦さんがクガニゼークの話をすると、濱田は「あんた、昔に返ってくれ」とあるものを誠睦さんに託しました。もはや工房にも残っていなかった、古い「房指輪」でした。

この運命的な出会いがきっかけで、誠睦さんは断絶していたクガニゼークの復刻に乗り出します。

蘇った房指輪
蘇った房指輪

「房指輪」に続き「結び指輪」を復元した頃、ちょうど誠睦さんは80歳、又吉さんは40歳を迎えていました。

「その頃、父親の仕事をじっとそばで見てたんですけどね。親父も年だなと思って。ふと、道具はどうなる、と思ったんです」

工房にあった道具

父親が引退すれば、その瞬間にせっかく蘇ったクガニゼークの命は再び途絶える。戦火を乗り越えてきた道具も生きる道を失う。

戦火を免れた古いジーファー。復元の参考にされた
戦火を免れた古いジーファー。復元の参考にされた

自分でなくてもいいけれど、誰かがやるべきではないか。そんな思いから、

「お父さん、僕やろうかな」

働き盛りで決断した「職人への転職」でした。

作る時間が、父との対話

父・誠睦さんから受け継いだ作業台は、銀を溶かし、水で冷やし、形を打ち固める一連の工程が、台の周りでぐるりと体を一周させながら作業できるよう作られています。

作業台

「最近は、金づちで銀を叩く時間が、親父との対話のように感じるんです。手元を間違えれば、『今のはちょっとおかしいんじゃないの、お前』と言われているような」

作業台の様子

銀を打ち続けて40年。気づけば弟子入り当時の父・誠睦さんと同じ80歳をすぎた今、又吉さんには未来を託すお弟子さんが一人います。

未来に残すもの

宮城さん

宮城奈津子さん。大学を卒業後に移住した沖縄でクガニゼークに出会い、工房に顔を出すうちに「気づけばこの道に入っていた」そう。

「僕はただ銀を打つだけで、何も教えていません。でも、その音や空間の中に、代々続いてきた何かがあるはずなんです。その何かを自然と知って、身につけてほしい。僕はいつかいなくなる。でも道具は残ります」

琉球王朝に生まれた美しい金細工は、断絶の歴史も乗り越え、今年、平成を駆け抜けた歌姫の花道を飾りました。

永遠に人の心に残ることを願いながら、昔と変わらぬ道具で、音で、作り継がれています。

又吉さんと宮城さん

<取材協力>
金細工またよし
沖縄県那覇市首里崎山町1-51
(2018年8月に工房を移転しました)
098-884-7301

文:尾島可奈子
写真:武安弘毅

※こちらは、2018年9月15日の記事を再編集して公開しました。

虎屋さんに教わる「和菓子の日」の起源と楽しみ方

6月16日は「和菓子の日」。

これは単なる記念日ではなく、江戸時代に盛んになった行事「嘉祥 (かじょう、嘉定とも) 」にちなんだもの。

なんでも、その日は和菓子を食べて厄除け招福を願うのだとか。

「和菓子で厄除け」と聞くと意外に思えますが、実は元々、ひな祭りや端午の節句と同じように親しまれてきたもの。

毎年この日には、東京・赤坂にある日枝神社で「山王嘉祥祭」が行われ、東京和生菓子商工業協同組合の技術者が「菓子司」として神前にて和菓子 (煉切) を作り、奉納。

全国各地の和菓子屋さんで、嘉祥にちなんだお菓子を販売しています。

一体「嘉祥」とは? そしてこの日のための和菓子とはどんなものなのでしょう。

老舗和菓子屋の虎屋さんに和菓子に関する資料収集、調査研究を行っている「虎屋文庫」なるものがあると聞き、お話を伺いました。

左から虎屋文庫の森田環さん、小野未稀さん、虎屋社長室の奥野容子さん

食べ物を贈り合う風習

「虎屋文庫」は、1973年 (昭和48年) に創設された、虎屋にあるお菓子の資料室です。

古くから宮中の御用を勤めてきた虎屋に伝わる、歴代の古文書や古器物なども収蔵。一般公開はされていませんが、和菓子についての様々な疑問にもお答えいただけます。

まずは「和菓子の日」の由来となった行事「嘉祥」について、虎屋文庫の小野未稀 (おの みき) さんに話を聞きました。

和菓子の日

「『嘉祥』の起源は諸説あり、はっきりしたことはよくわかっていないのです」

「嘉祥」とは「めでたいしるし」という意味。

江戸時代の百科事典『和漢三才図会』によると、「847年 (承和14年) 、朝廷に白亀が献上されたことを吉兆とし、仁明天皇が6月16日に「嘉祥」と改元、群臣に食物などを賜った」とあります。

「室町時代、公家では嘉祥の日に食べ物を贈り合い、武家では楊弓 (ようきゅう) の勝負をし、敗者が勝者に嘉定通宝16文で食べ物を買ってもてなすという風習がありました」

嘉定通宝とは中国のお金で、当時、日本でも流通していたもの。「嘉 (か) 」「通 (つう) 」が勝つに通じることから、武家の間で縁起の良いものとして尊ばれていたのだそう。

「嘉祥」と「嘉定」をかけて、招福を願っていたのかもしれません。

大広間に並ぶ2万個のお菓子

「嘉祥」の風習が盛んになったのは江戸時代のこと。

「宮中では天皇が公家などにお米を与え、公家たちはこのお米をお菓子に替えて献上していました。

また、幕府でも盛大に行われ、多い時には江戸城の大広間に2万個を超えるお菓子が並べられ、将軍から大名や旗本に配られていたそうです」

和菓子の日
千代田之御表 六月十六日嘉祥ノ図(提供:虎屋文庫)

2万個!すごいですね。

「2代将軍徳川秀忠の頃までは、将軍自ら菓子を手渡していたとも言われます。

片木盆の上に1種類ずつお菓子が載っていて、もらえるのは1人ひとつの盆のみ。並ぶ順番が決まっていたのでお菓子は選べなかったようです」

どんなお菓子があったんですか?

「羊羹、饅頭、鶉焼 (うずらやき) 、寄水 (よりみず) 、金飩 (きんとん) 、あこや。お菓子以外に熨斗 (のし) 、麩などがあったようです」

和菓子の日
当時の幕府の「嘉定菓子」を再現したもの。上から時計回りに金飩、羊羹、あこや、鶉焼、寄水、大饅頭(中央)(写真提供:虎屋文庫)

明治時代に編纂された『徳川礼典録』には、1833年 (天保4年) に用意されたお菓子の数「饅頭三ツ盛 百九十六膳 惣数五百八十八」「羊羹五切盛 百九十四膳 惣数九百七十切」などと書かれており、盛大さがわかります。

では「嘉祥」は、宮中や幕府の中だけの風習だったのでしょうか?

「一般の人々の間でも、銭16文でお菓子やお餅を16個買って食べる『嘉祥喰 (かじょうぐい) 』などが行われたそうです。井原西鶴の『諸艶大鑑』にも京都島原での嘉祥の様子が書かれています」

今日嘉祥喰とて二口屋のまんぢう、道喜が笹粽、虎屋のやうかん、東寺瓜、大宮の初葡萄、粟田口の覆盆子 (いちご) 、醒井餅 (さめがいもち) 取りまぜて十六色

「お菓子だけでなく、京都市内・近郊の名産品もあるので、縁起物という意味合いもあったんだと思います」

大奥の嘉定の様子
大奥の嘉定の様子を描いた錦絵(「江戸錦 嘉祥」提供:虎屋文庫)

謎多き嘉祥菓子

では現代の「嘉祥菓子」はどんな姿をしているのでしょうか。

虎屋さんで作られている代表的な「嘉祥菓子」が、こちらの「嘉祥菓子7ヶ盛」です。

和菓子の日
菓銘は、真上から時計回りに『武蔵野』『源氏籬』『桔梗餅』『伊賀餅』『味噌松風』『浅路飴』『豊岡の里』(中央)

社長室の奥野容子 (おくの ようこ) さんに「嘉祥菓子7ヶ盛」について詳しくご紹介いただきました。

「江戸時代末期、『嘉祥』の際に、虎屋が宮中に納めていたものをもとにおつくりしています。嘉祥は6月16日なので、16にちなんで、1と6を足した7つのお菓子を盛り付けています」

当時と同じように、今も土器 (かわらけ) に檜葉を敷き、お菓子を盛り付けて販売しています。

和菓子の日
虎屋に残る「数物御菓子見本帖」(大正7年)より(提供:虎屋文庫)

「お菓子の名前や形の由来も面白いんですよ。『武蔵野』は、晩秋から冬へ向かう寂しい武蔵野のわびた風情を表したもの。『源氏籬 (げんじませ) 』は、数寄屋建築にある源氏塀を見立てたもの。

桔梗の花を形どった『桔梗餅』。『豊岡の里』は、お菓子の神様を祀った中嶋神社がある、兵庫県の豊岡にちなんだものと思われます」

名前の意味を知ると、趣がありますね。

 

「普段はあまり店頭に並ばない、特別なお菓子の組み合わせです」

桔梗があったり、晩秋があったり季節もいろいろ。この7つが選ばれた理由はわかっていないそうです。

「組み合せが違ったり、7つではない場合もあったようです。どうしてこの取り合わせなんだろうと、あれこれ想像しながら食べるのも楽しいですね」

和菓子を食べるのはなぜ?

嘉祥の謎はお菓子の取り合わせだけではありません。

そもそも、なぜお菓子を食べるようになったのか、その理由もはっきりしていないそうです。

「ただ、旧暦の6月 (現在の6月下旬から8月上旬頃) は、とても暑い時期なので、夏負けしないように小豆で栄養を摂るという意味もあったのではないかと思います」

そう話すのは虎屋文庫の森田環 (もりた たまき) さん。

和菓子の日

小豆で栄養を補っていたんですね。

「産後のお母さんに大きなぼた餅を食べさせるとか、地域によってはそういう風習が残っているところもあります。実際に小豆は栄養価の高い食べ物です。

また、日本人にとって古来、赤い色は血や太陽の色を表す神聖なものと考えられていて、赤い色の小豆も同様に重要視されていました」

確かにお赤飯もそうですね。

「その通りです。おめでたい時にお赤飯を食べたり、土用にあん餅を用意したり、小豆を食べることで招福や厄除けを願っていました」

和菓子の日
富岡鉄斎画「嘉祥菓子図」。明治15年、画家・富岡鉄斎が虎屋京都店の近くに移り住んだことから虎屋と交流があった。「嘉祥菓子図」は、虎屋から嘉祥菓子をもらったお礼に菓子と嘉祥の由来を描いたもの(年不詳/提供:虎屋文庫)

医療技術の発達していない時代、病に倒れ、命を落とす人も多かったのでしょう。栄養のあるものを食べて病気を予防する、医食同源の考え方が今より根強かったといいます。

「ひな祭りも端午の節句も、元は厄払いをして次の季節を迎えるという願いが込められていたように、『嘉祥』も同じように考えられていたのかもしれません」

一度は廃れた「嘉祥」が復活

江戸時代、宮中や幕府、一般庶民の間でも親しまれていた「嘉祥」。

明治に入り、時代の変革の中で「嘉祥」の風習は一度廃れてしまいますが、1979年 (昭和54年) 、全国和菓子協会が嘉祥にちなみ、6月16日を「和菓子の日」に制定。

和菓子を食べて厄除け招福を願うという、他にはない文化を復活させ、和菓子業界をより一層盛り上げたいという思いから始まりました。

各地の和菓子屋さんで、嘉祥にちなんだお菓子が並ぶ中、虎屋さんでは「嘉祥菓子7ヶ盛」のほかにも、年に一度の行事のために用意された様々な嘉祥菓子を見ることができます。

和菓子の日
「嘉祥蒸羊羹」。江戸城で行われていた「嘉祥の儀」で配られていた菓子を再現。黒砂糖入りの蒸羊羹。奥野さんの一推し
和菓子の日
薯蕷(じょうよ)饅頭、新饅、利休饅の3種類がセットになった「嘉祥饅頭」。左の薯蕷饅頭に押されているのは「嘉定通宝」の意匠、真ん中は縁起の良い打出の小槌、右は全国和菓子協会のマーク
和菓子の日
縁起の良い3つのお菓子の詰め合わせ「福こばこ」。中央の「はね鯛」は、鯛が勢いよく飛び跳ねる姿から、病魔を跳ね除ける意味も

毎年、楽しみにされている方や、「季節のものだから」と周りの方に配られる方もいらっしゃるそうです。

「家族やお友だちと一緒に、嘉祥の話をしながら食べてもらえると嬉しいです。

もちろん、弊社のものに限らず、お好きなもので“嘉祥”を楽しんでいただき、普段は召し上がらない方も和菓子に触れるきっかけになればうれしいです」 (奥野さん)

多くの人に「和菓子の日」を知ってもらい、「嘉祥」の風習を伝えていきたいと言う、虎屋のみなさん。

最後に、和菓子の魅力について伺ってみました。

「季節感があるのが和菓子の最大の特長といえるでしょう。現在は一年を通じていろいろなものが手に入りますが、季節や行事を感じるお手伝いができるのが和菓子だと思います」 (森田さん)

「嬉しい時はもちろん、悲しい時も甘いもので癒されることは多いと思うので、あらゆる年代の方に召し上がっていただけたらと思います」 (小野さん)

ぜひ、暑い夏を乗り切るため、和菓子を食べてみてはいかがでしょう。

<紹介した虎屋さんの和菓子>
嘉祥菓子 7ヶ盛(要予約)
嘉祥蒸羊羹
嘉祥饅頭
福こばこ

<取材協力>
株式会社 虎屋
菓子資料室 虎屋文庫

文 : 坂田未希子
インタビュー写真 : 岩本恵美

イスラエル出身、45歳でデビューした職人が夢中になる「言葉より結果」の世界

「今の会社、すぐに辞めなさい。日本一の会社を紹介するから」

イスラエルから日本の地方都市・高岡へやってきて20年。

それは、地場産業でもある鋳物 (いもの) の工場で派遣社員として働いていた、ある日の休日でした。

男性は近くの山のドライブコースに佇む、大きな鐘の下にいました。それは伝統的な高岡銅器の技術で造られた、全国でも有数の大梵鐘。

そこで出会った60代半ばの男性の一言をきっかけに、彼の人生は大きく変わることに。これは、遠い異国の地からやってきて日本の職人になった、1人の男性のお話です。

鍼灸がつないだ高岡との縁

男性の名は、エラン・フィンクさん。イスラエル出身の彼が奥さんの生まれ故郷である富山県高岡市に来たのは、1999年のことでした。

奥さんとの出会いは中国。お互い同じ学校で鍼灸を学んでいました。

「鍼灸を学んだのは、先に習っていた先輩に勧められて、伝統的な技術や東洋の思想に興味を持ったからでした。中国で習ったあと、母国で9ヶ月ほどクリニックを開いていました」

結婚を機に来日し、高岡で生活をスタート。高岡に来て初めての印象は、市内から見える立山連峰の景色の素晴らしさでした。

「高岡に来てもう20年になりますが、たまの好天時に、真っ白な雪の映える立山連峰が本当にきれいで。毎年見ても、飽きないですね。

海、魚、食べ物も最高だし、文化や人も面白い。日本は食も文化も多様なのが、魅力的だなと思います」

エラン・フィンクさん

鍼灸がつないだ二人の縁、そして高岡との縁。奥さんは今も鍼灸師ですが、エランさんは来日を機に別の道を歩むことになります。

「日本の法令では、国内の大学を卒業しないと鍼灸の仕事ができなかったんです。でも、それでよかったと今では思っています。

イスラエルでやっていたクリニックは患者さんもいっぱいいたのですが、一人一人、生身の体に向き合うのは日々とてもハードで。自分の性には合っていないように感じはじめていたんです」

鍼灸師の道を諦めたエランさんは、高岡で出来る仕事を探しました。最初はコンクリートを扱う土木工事。それから、自分のお店として飲食店を10年間。その後お店もたたみ、派遣社員として鉄鋳物の工場で働いていたとき、運命の日は訪れたのです。

突然誘われた“日本一の会社”とは

冒頭の大梵鐘の下で出会った60代半ばの男性は、水上さん。高岡を代表する鋳物メーカーのひとつ「梶原製作所」を引退したばかりのベテラン職人でした。

鋳物は、溶かした金属を型に流し込み、冷やし固めて仕上げる「鋳造 (ちゅうぞう) 」によって作られます。

鋳物の街・高岡の中でも1902年 (明治35年) 創業の梶原製作所は、大きな仏像やモニュメントなど大型の一点物を得意とし、企画デザインから設計、制作、施工、設置まで一貫して行う鋳造所。

国宝・文化財などの修復も手がけており、製作した物は国内外各地に設置されています。

「それまでいた鉄鋳物の工場は、生産ラインで同じものを繰り返し作るタイプのところでした。

水上さんは僕に仕事の話を尋ねた後、すぐどこかへ電話し始めたんです」

電話の相手は、梶原製作所社長、梶原壽治さん。

その場で水上さんは約束を取り付け、なんと翌週には面接することに。突然の電話を受けた梶原社長は当時を振り返り、こう言います。

梶原社長

「それまでは日本人としか仕事をしたことがなくて。言葉の問題もありますし、最初話を聞いたときには正直、『勘弁してくれ。俺に何の話をしとるんや』と思いましたね」

それでも「とにかく一回会ってくれ」という水上さんに根負け。しぶしぶ会ってみると、当時すでに日本語はペラペラだったエランさんとは言葉の障害もなく、梶原社長もすぐにエランさんを気に入りました。

職人になりたい

「最初に会ったときにエランが言った、『職人になりたい』という一言がまず好きだなと思いました。『職人』という言葉を知っていること自体が大きい。

今の日本でも、就職したいという人はいても、『職人になりたい』という言葉が出てくる人は、なかなかいないんじゃないでしょうか」

それから2〜3週間後には梶原製作所に入社したエランさん。「職人になる」という選択に、奥さんも「あなたが幸せならオッケーよ」と、最初からサポートしてくれたといいます。

「職人になりたい」と語った面接時の心境をエランさんに尋ねると、こんな答えが返ってきました。

「やっぱりものづくりが好きなんです。言葉を多く使わず、静かに集中して、良い品物を作り上げるということが魅力で。だから、妥協せずにレベルの高いものを作れるようになろうと、自分に目標を課しました」

実は、お父さんやお兄さんが石の彫刻家だというエランさん。ものづくりが好きなのは、その血を受け継いでいるからなのかもしれません。

毎回自分で考えて新しいものを作る面白さ

原型製作〜鋳型製作〜鋳造〜仕上げ〜着色といった、いくつもの鋳造工程のなかで、エランさんが入社以来担当しているのは、溶かした金属を流し込む鋳型を作る仕事。この型がなくては、鋳物は始まりません。

エランさんが前職で鉄鋳物の工場で鋳型や鋳物砂 (鋳型を作るための砂) の扱いに関わっていたことから、鋳型づくりが一番合うのでは、と梶原社長が見込んで選んだのだそう。

「僕が担当する鋳型製作は、原型をもらって、その凹凸を反対にした『外型』を作る仕事です。

ひとつの原型をどのようなパーツに分けて鋳型にするかなど、考えながら取り組みます。

たとえば人の型で服のシワがあれば、金属を流したあと、凹凸に引っかかって型がうまくばらせません。引っかからないように、『寄せ型』 (抜けにくい部分にはめる小さな鋳型) をどう取り付けるか」

写真中央でエランさんが触れているのが「寄せ型」。後の工程をスムーズにするため、角度なども重要になる

「毎回違う品物を作るので、都度リセットして考えるんです。ここはどうやったらうまくいくか?って、頭をひねるのが楽しいです」

大きな型は砂だけでは弱いので、芯金(しんがね)という太い鉄の骨を作る。鉄骨の強度や砂にひびが入らないようになど、考えることは多い

「ある程度の大きさの像は中を空洞にしますから、空洞にするための『中子 (なかご) 』という型も作ります。できあがりの肉厚を考えながら、砂で作るんです。

鋳型を作るという仕事ひとつ取っても、細かな手作業が多いし、仕事は幅広いです。なので、全然飽きませんね。そういう仕事はなかなか無いですよ」

神様より、自分を信じる

近しい業界で働いていたとはいえ、鋳型づくりという未知の仕事。

エランさんはどうやってその技術を身につけていったのでしょうか。

「答えがないことだから、知らないところはたまに聞くけれど、先輩を邪魔したくないし、なるべく聞かないようにして自分で考えてきました。いちいち聞くと、自分のレベルが上がるのが遅いと思うんです」

「先輩が常に見ているので、たいてい、大きな失敗をしそうになったらすぐ『エラン違う!こうやったほうがいい』とアドバイスをくれる。それで大きいミスは少なく済んでいます。

ミスしたら後の工程が大変だったり、仕上がりが悪かったり、品物に穴が空いてしまったりしますから」

壁にぶつかっても、自ら考えて自分のやり方を積み上げる。一方で誰しもが通りがちな失敗、過去に先人や現場の先輩が経験している失敗は、未然にアドバイスを受けて修正していく。

そんな現場の様子が伝わってきました。

「難しい品物をもらっても、自分が自分を信じればなんでもできる、と思っています。神様より、自分を信じて一生懸命やれば、結果は出ると信じているから。

アドバイスと多少違っていても『ダメ!』と言われていなければ、自分のやり方を貫くことも多いです。それで成功すれば、次に進む。

結果が大事なんです。良い結果を出せば、誰も文句は言わない。だから、ここの職人でも、微妙に違うやり方を持っていますよ」

職人は失敗した経験値 (=引き出し) をたくさん持つことが大事だ、という梶原社長も、「それがエランの引き出しになるから」と見守ります。

「ちょっとしたことで失敗することもあるかもしれないけど、ちょっとしたことで成功する可能性もある。

そういうのが『引き出し』になりますから。もちろん、明らかに失敗することは止めますけどね」

「でも」とエランさんは続けます。

「自信は持ちすぎたらダメね、失敗するから。

特に大きいものは失敗したら、コストが高い。材料も、人件費も。あと、職人としてのプライドも傷つく。誰か失敗したら、みんな覚えてるから」

質と速さのあいだで

梶原製作所にとって初めての、外国出身の職人。その彼を、梶原社長はこう評価します。

「エランは合理的にものづくりに取り組むタイプ。合理性は、他の日本人の職人よりあるかもしれない。

ただ、合理的だから良い仕事になるとは限りません。かけた時間で出来上がったものに微妙な違いが生まれることもある。そのわずかな違いを求める人もいる。ここが難しいところです」

エランさんも、職人として仕事をする上で「質と速さのバランスが大事」だといいます。

「例えば同じ品物を、この人は4日間で仕上げる、あの人は2週間かかる、としたら何かがおかしい。どちらかがおかしいか、そのあいだに正解があるのか。

質も比べてみて、どっちがいいかのバランスを見るのが大事だと思います。自分はちょっと急ぎすぎるクセがあるから、気をつけないと」

これから極めていきたいもの

45歳で職人デビューし、鋳型製作一筋で約5年の経験を積んできたエランさん。今後も他の工程を幅広く経験するよりは、鋳型製作の仕事を極めていきたいといいます。

それに応じ、「鋳物の世界は奥深いからね」と答える梶原社長。

「20年、30年の熟練職人も失敗する。パーフェクトに近づくことはできても、完璧はあり得ない」

梶原社長も文化財などの修復に多数関わるなかで、何百年も前に鋳造されたものに驚嘆することも少なくないそうです。

「たとえば今預かっている800年前の品物も、肉厚がすごく薄くて。『これ、本当に鋳造で作ったんですか?』と。鋳物は薄く作るのが難しいんです。どう再現しようかなと思っているところなんですよ」

同じ現場で働く職人の先輩だけでなく、遠い先人も追うべき背中になる。それは、鋳造が遥か昔から続いてきた技術だからこそ。

エランさんの今後の挑戦も、何か新しいものに対してというよりは、今持つ技術を磨き、深めていきたい、というところにあるようです。

「日本には昔から、1人がひとつのことに集中して、上手になっていくという考え方がありますよね。僕もこれまでの経験を生かして、立派な職人になれたら」

先の工程と出来映えの美しさを思い描きながら、その時々の鋳型と静かな対話を重ねるエランさん。

鋳型製作の”道”を通して自分自身も磨いていこうとしている姿が、とても美しく印象的でした。

取材協力

株式会社梶原製作所
富山県高岡市横田町3-3-22
http://kajihara-ss.com/

文:荻布裕子
写真:浅見杳太郎

【はたらくをはなそう】中川政七商店店長 辻川幹子

 

2015年 入社 新卒8期生 遊中川ジェイアール名古屋タカシマヤ店所属
2015年 中川政七商店名古屋パルコ店 店長
2016年 中川政七商店ルミネ新宿店 店長
2018年 中川政七商店二子玉川ライズ店 店長

 
わたしは「お店」がすきです。
 
お店という場所に、商品が並び、はたらく人が居て、そこに来てくださるお客様。常に止まることなく動きつづける、とても不思議な空間だと感じます。
 
わたしは入社前から中川政七商店に限らず「お店」が好きでした。 同じ商品なのにこっちのお店の方が魅力的に見えて買ってしまったり、気分が落ち込んでいた時も店員さんの気持ちのよい笑顔で心が晴れやかになったり。思いがけない出会いのある「お店」って素敵だなと思います。
 
お店の背景には、商品を作る人、届ける人、はたらく人を支える人…多くの多くの構成要素がありますが、中川政七商店で働いていると、「お店」が最前線であるということがよくわかります。
 
メーカーでもあり直営店も持っている中川政七商店ですが、ここへの入社の決め手は、何より直営店を最も重要だと考えている点でした。
 
お店は会社を表現するステージであり、お客様へ直接商品を届けることのできる最後の出口です。作り手さんが必死に仕事をした賜物をお客様に届けられることは、とても貴重で誇らしい役割だと感じます。
 
その気持ちは入社後も変わらないどころか増え、3年店長をして数々の「お店」の奇跡に出くわしました。常に商品も人も動き続けるお店はピンチだってトラブルだって当然ありますが、手をかけてチームで力を合わせて愛情を注ぐと必ず応えてくれるように感じます。
 
わたしの何よりもの原動力はその「お店がすき」という気持ちです。好きだからもっともっとよくしたい、愛されるお店にしたい、と思うのです。
 
その為にどうしたらもっとよくなるだろう、と考えるのが癖になりました。お店にゴールはありませんが、どんどん良くして進むのみだと思っています。

【わたしの好きなもの】ごはんの鍋

 

“かたち”にひとめぼれした土鍋

人生初の土鍋を選んだ決め手は、そのかたち。

完全にひとめぼれでした。

まるでごはん釜のような、おもわずふたに杓文字(しゃもじ)をかませたくなる佇まい。

土鍋でごはんを炊くなんて、憧れはあったものの、難しそうだなあと、なかなか手をだせずにいましたが、

この「ごはんの鍋」をひと目みて、この子をうちに連れて帰る!と、あっという間に心が決まりました。


心ひかれたそのかたち。

実はデザイン性だけでなく、おいしく炊くための工夫がつまったかたちになっています。

電子レンジOK!使いやすさがつまった“かたち”

深めのふちは吹きこぼれにくく、鍋蓋との隙間から蒸気を逃してしっとりと炊きあがるつくり。

ごはんはたっぷりおかわり派なので、鍋ごとそのまま食卓に並べておいても、保温効果で熱が逃げにくいのがうれしいところです。

そして思わず、えっと驚いたのが、電子レンジ対応というありがたさ!

残ったごはんはそのまま冷蔵庫にいれて温め直しもOK。

調湿効果があるのでおひつのように保存の器としても使えます。

土鍋といえば、ずっしり、重たい、ゆえにおいしくお米が炊ける。

というようなイメージでしたが、いちばん大きな3合サイズでも想像よりずっと軽くて洗いやすく、収納場所をあまりとらないのも使ってみてうれしいポイントでした。


説明書を読みながら目止めをして、分量のとおりに水を入れ、おそるおそる火にかけて、

固唾をのんでぐつぐつする鍋の前で見守っていた土鍋デビューからはや数年。

いまとなっては、炊飯はもっぱら、この「ごはんの鍋」です。

おかゆを炊いてみたり、土鍋ならではの保温性でシチューやスープなど煮込み料理にも活躍してくれています。

はじめて土鍋で炊きあがったつややかなお米を見た時の達成感。

わーー!と思わず歓声をあげながら口にいれたごはんのふっくらしたおいしさ。

いまでもふたを開ける瞬間に、ほんのりとその感覚がよみがえります。

炊き方は心得たものと油断して、意図しないおこげができることもしばしばなのですが、そんなうっかりも土鍋ならでは!と、楽しんでいます。

すすけてきたり、貫入(かんにゅう)がはいったりと、使った分だけできた跡を見ていると、暮らしを共にしてきた実感がわき、台所道具のなかでも思い入れはひとしおです。

これからも我が家のご飯守として末永く愛用していきたいお鍋です。

中川政七商店 金沢百番街Rinto店 豊子 明希

 



<掲載商品>
かもしか道具店 ごはんの鍋 1合
かもしか道具店 ごはんの鍋 2合
かもしか道具店 ごはんの鍋 3合

着崩れしにくい浴衣の着方を、この道20年のプロに聞く。

そろそろ、祭ばやしや花火の音が聞こえてくる頃。せっかく持っているのなら、着る機会を持ちたいと思うのが浴衣だ。

ただ、浴衣で出かけるとなると、心配になるのが着崩れ。そもそも、着崩れしないための秘訣はあるのだろうか?

それをいちばん知っていそうな人‥‥岐阜県郡上市で着付け教室を開いて23年、「郡上八幡城南着付教室」の大坪里美さんに、実際に着付けをしてもらいながら浴衣の着方のコツを聞いた。

400年以上の歴史をもつ「郡上おどり」

なぜ岐阜の郡上(ぐじょう)で着付けなのか。ここで、「郡上おどり」の話をすべきだろう。

もしかすると、平成から令和へ切り替わる夜に行われた「徹夜おどり」の話題を見た人も多いかもしれない。

郡上おどりとは、400年以上の歴史をもつ日本三大盆踊りの一つ。7月中旬から9月上旬にかけて33夜にわたって行われ、毎年25万人以上の来場者数を誇る一大イベント。

とりわけ8月13〜16日の4日間は、翌朝まで徹夜で踊り明かす「徹夜おどり」が開催され、盛り上がりも最高潮になるのだ。

400年以上にわたる歴史を持つ郡上おどり
郡上おどり

どんな服装でも参加することができるものの、浴衣と下駄のスタイルで踊るのが醍醐味の一つ。そして大坪さんは、郡上おどりだけでも毎年150人以上を担当する凄腕の着付師なのだ。

夜通し踊っても着崩れしない郡上おどり流の着付けなら、普段の着付けにも活かせるヒントが見つかるはず‥‥

岐阜県郡上市「郡上八幡城南着付教室」の大坪里美さん
お話を伺った、着付師の大坪里美さん

着崩れしないための4つのコツ

「浴衣で郡上おどりに参加するなら、着崩れしないことはもちろんですが、どれだけ動きやすいかも大切です」

確かにいくら着崩れしないと言っても、踊っていて苦しさを感じるようでは元も子もない。
着付けのポイントはたくさんあるものの、郡上おどりならではの着崩れしにくいコツとして、大きく4点を教えてもらった。

1.タオルを2本以上使う
2.衿芯を入れる
3.裾の高さは足の甲から7〜10センチ
4.帯の内側にミニタオルを入れる

着付けに必要なもの
用意するものは、「浴衣・帯・肌着・衿芯・前板・タオル 2枚以上・腰ひも 2本以上・伊達締め又は伊達巻き 1本・三重仮紐(なくてもOK)・下駄」。(今回、三重仮紐はなしで着付けてもらったが、あると帯結びがラクになるそうだ)

それでは着付けをしてもらいながら、順を追ってポイントを聞いていこう。

「郡上八幡城南着付教室」での着付け風景
着物用の肌着を着用。女性はブラジャーをしない方が着姿が美しく見えるとのこと

浴衣の着方のコツ その1:
タオルを2本以上使う

寸胴な体型の方が、浴衣を着た時にキレイに見える。
ウエストに「タオルを2本以上」巻くことで、くびれをなくし美しく着られるだけでなく、タオルがクッションになって苦しさを感じないというメリットも。

「細身の人は特に、タオルを多めに使うといいですよ」

浴衣を羽織る前に、下前の内側にくる肌着に静電気防止スプレーをするのが大坪さん流。

「郡上八幡城南着付教室」での着付け風景
静電気防止スプレーをシュッとひと手間

「こうすることで浴衣が肌着にまとわりつかず、動きやすくなりますよ」

浴衣の着方のコツ その2:
衿芯を入れる

「郡上八幡城南着付教室」での着付け風景
ここで「衿芯(えりしん)」が登場!

浴衣のえり部分に入れる型紙のような「衿芯(えりしん)」。衿芯は浴衣を着る上での必須アイテムではないものの、入れることでうなじ部分をすっとキレイに見せ、また着崩れしにくくなるという。

「郡上八幡城南着付教室」での着付け風景
衿芯が入っているだけで、衿部分がこんなにキレイに見える

浴衣の着方のコツ その3:
裾の高さは足の甲から7〜10センチ

浴衣を羽織る時、「裾の高さを足の甲から7〜10センチ」にするというのも郡上おどりならでは。

「通常なら5センチくらいが可愛く見えるのですが、踊ることを考えると、裾を少し高めの位置にしておきましょう」

「郡上八幡城南着付教室」での着付け風景
踊りやすさを考え、裾の位置はやや高めに
「郡上八幡城南着付教室」での着付け風景
おはしょり(帯の下に出る部分)がもたつかないように、下前の布を内側に織り込み‥‥
浴衣の着用が完了
浴衣の着用が完了
「郡上八幡城南着付教室」での着付け風景
首もとからおはしょりまでは、手のひら2つ分くらいの長さに

浴衣の着方のコツ その4:
帯の内側にミニタオルを入れる

続いて帯結びへ。多種多様ある結び方の中で、今回は「羽づつみ」という結び方にしてもらった。

「郡上八幡城南着付教室」での着付け風景
帯の結び方は好みに応じて提案してくれる。帯の上線に合わせて結ぶことで、結び目が安定し着崩れしにくくなる

帯が結べたら「ミニタオルを入れる」ことを忘れずに。

「タオルを入れると帯が安定し、動いても崩れにくくなりますよ」

激しく踊り明かすと、帯の部分から着崩れてしまう場合が多いそう。このタオルは必須ではないものの、ぜひとも用意しておきたい。

「郡上八幡城南着付教室」での着付け風景
事前にカットしたタオルを準備しておくと便利

無事に帯結びが完成したところで、最後にもうひと技。
両手を上げた状態で、脇の部分にあたる「身八つ口」の布を引き出す。

「郡上おどりは腕を上げる動作が多いので、事前に引き出しておくと格段に動きやすくなりますよ」

「郡上八幡城南着付教室」での着付け風景
両腕を平行に上げた状態で帯を押さえながら、身八つ口を上に引き出していく

着崩れした時に、自分で直す方法

浴衣で歩く時は「一歩一歩を短く内股で歩くのが、正しい歩き方です」と大坪さん。合わせて、自分でお直しするにはどうしたらいいのかも聞いてみた。

「お手洗いへ行った時に毎回おはしょりを整えるのが、着崩れを防ぐコツです」

「おはしょり」とは、帯の下に出ているこの部分
「おはしょり」とは、帯の下に出ているこの部分

おはしょりの整え方は、後ろ、横、前の順に引いていく。

着崩れしたときに、おはしょりを直す方法
まず後ろのおはしょりを下に引き‥‥
着崩れしたときに、おはしょりを直す方法
同じ要領でサイドのおはしょりを引き出す
着崩れしたときに、おはしょりを直す方法
ぐるりと手をまわし、前の部分も引き出して‥‥
着崩れしたときに、おはしょりを直す方法
帯に対して平行になるように整えるのがコツ

着付けを体験してみて驚いたのが、想像以上に楽だということ。帯の締め付けが少なく、これなら一晩中踊っても疲れなさそうだ。

今回紹介した着付けのコツは、普段にも活かせるものばかり。
自分でも着る際にも、ぜひ取り入れてみたい。

<取材協力>
郡上八幡城南着付教室
岐阜県郡上市八幡町城南町233-1

https://peraichi.com/landing_pages/view/kitsuke


文:関谷知加
写真:ふるさとあやの