絵本で読む「ものづくり」。クレヨンハウスのスタッフが選ぶ工芸の本5選

『ぐりとぐら』『おばけのバーバパパ』『だるまちゃんとてんぐちゃん』『おおきなかぶ』‥‥

「絵本」は、いつの時代も子どもたちの心を育んでくれます。

子どもの本専門店のスタッフが選ぶ、「工芸」に触れられる5冊の絵本

我が家の4歳になる娘も絵本が大好き。絵本の中で絵や文字に触れることで、彼女の世界観にも広がりが出てきたように感じます。

「もっともっと、いろんな絵本に触れてほしい」そんな思いから、今日は、書店員さんがおすすめする「工芸」に触れられる作品を紹介したいと思います。

訪れたのは東京・青山にある、子どもの本の専門店「クレヨンハウス」。

子どもの本の専門店「クレヨンハウス」

1976年創業の子どもの本の専門店です。

「工芸に関わる絵本というひとつのジャンルを見つめ直す、とてもいいきっかけになりました」

そう話すのは、子どもの本売り場の馬場里菜(ばば りな)さん。

クレヨンハウスの馬場さん

いつもはお店のスタッフとしてお客様の選書のお手伝いもしているそうです。

どんな絵本が登場するのか楽しみです。

染色の世界を楽しむ『せんねん まんねん』

「最初にご紹介したいのは、『せんねん まんねん』です」

『せんねんまんねん』詩:まど・みちお、絵:柚木沙弥郎、理論社
『せんねんまんねん』詩:まど・みちお、絵:柚木沙弥郎、理論社

「工芸に携わる方の絵本と考えた時に、真っ先に染色家の柚木沙弥郎(ゆのき さみろう)さんが手がけた本をご紹介しないわけにはいかないと思いました。

柚木さんは民芸をアートに昇華させた第一人者でもありますが、絵本を出されたのは70才を過ぎてから。あかちゃん向きの絵本から、大人もたのしめる詩の絵本まで、全部で10冊ほど手がけています」

『せんねんまんねん』詩:まど・みちお、絵:柚木沙弥郎、理論社
『せんねんまんねん』詩:まど・みちお、絵:柚木沙弥郎、理論社

「本作は命のつながりや、万物の時の流れを感じられる絵本で、子どもたちに伝えていきたいテーマだと思い、選びました」

 いつかのっぽのヤシの木になるために
 そのヤシのみが地べたに落ちる

世の中のあらゆるものごとは、繋がり合い、連動している。まどさんの詩の世界の中で、柚木さんの絵がたゆたい、踊っているようにも見えます。

「言葉と絵が響き合っている作品です。柚木さんの絵がほんとに素晴らしくて、色使いや、色彩のにじみかたも含めて、柚木さんの染色家であられるところが存分に出ている作品ではないでしょうか」

リアルなわにの存在感は木版画の力『わにわにのおふろ』

2冊目は、子どもたちに大人気の「わにわにのえほん」シリーズ。

『わにわにのおふろ』(文:小風さち、絵:山口マオ、福音館書店)
『わにわにのおふろ』(文:小風さち、絵:山口マオ、福音館書店)

お風呂が大好きなわにわにがお湯をため、湯ぶねにつかり、おもちゃで遊んだり、あぶくをとばしたり、歌をうたったりする楽しい絵本です。

「版画家で絵本作家の山口マオさんが手がけた作品で、木版画で描かれています。

木版ならではの無骨さが、わにのゴツゴツした肌感にぴったりだなと思います」

『わにわにのおふろ』(文:小風さち、絵:山口マオ、福音館書店)
『わにわにのおふろ』(文:小風さち、絵:山口マオ、福音館書店)

「文章の小風さんから、可愛らしいワニではなく、ワニらしいワニを描いてほしいと言われて、ワニ園に行って研究されたそうです」

確かに、本物のワニみたいです。

「わにわにの姿がパッと目に飛び込んでくるのは、木版画で刷りを重ねているからこその、立体感かなと思います」

子どもたちに大人気のシリーズですが、実は刊行当初、親御さんたちの評判があまりよくなかったのだとか。

伝統工芸の絵本

「身体も洗わずに湯ぶねにつかっちゃうし、タオルの上に横になってからだを拭いちゃう(笑)。でも、子どもはお風呂が楽しくなるようですね」

うちの娘もわにわにが大好き。特に好きなのは「洗面器をかぶって歌うところ」なのだとか。

きっと、自分も同じようなことをしているので親しみがわくのでしょう。

作家さんのこだわりや想いは、作品を通してきちんと子どもたちに伝わっているのだと感じられました。

絵本は、工芸やアートに触れられるひとつのメディア

柚木さんの染色にしても、山口さんの木版にしても、美術館に行かなければ見られないような工芸作品に、知らず知らずのうちに出会えるのが絵本の魅力でもあります。

クレヨンハウスの馬場さん

「絵本は、小さなお子さんから大人まで、工芸やアートに身近に触れられるひとつのメディア」だと馬場さんは言います。

「美術館でなければ見られないようなアート作品や文学に、0歳の頃から触れられて、それを好きな時に読めるというのは、実はすごいことなんじゃないかと思うんです。

日々目にしている絵本を通じて、知らず知らずのうちに小さい頃から読書体験を重ねることで、目を養い、心を育てることにも繋がるのではないかなと思います」

手作りの道具の温かみを感じられる人気シリーズ『14ひきのこもりうた』

3冊目はこちら。

『14ひきのこもりうた』(作:いわむらかずお、童心社)。里山に暮らす14匹の野ネズミの家族の生活を描いた作品
『14ひきのこもりうた』(作:いわむらかずお、童心社)。里山に暮らす14匹の野ネズミの家族の生活を描いた作品

30年以上に渡る人気シリーズなので、読んだことがある方も多いのではないでしょうか。

「絵本に描かれている木の器やかごといった道具類は、すべて手作りの工芸品。ぜひご紹介したいと思いました。

私も子どもの頃にこの絵本を読んでいて、14ひきのかぞくが入浴している薪で炊くお風呂がすごく気持ちよさそうで、憧れていたことを今でも思い出します」

『14ひきのこもりうた』(作:いわむらかずお、童心社)
『14ひきのこもりうた』(作:いわむらかずお、童心社)

確かに、実際に使ったことがないものや見たことがないものもたくさん描かれていますが、どこか懐かしい感じがします。

「描かれているのは、いわむらさんのご出身である栃木県の里山の風景です。生活に密着した風景を丁寧に描いています。

ねずみの家族が使っている生活雑貨は手作りならではの温かみがあって、それが自然と作品の魅力にもつながっているんだと思います」

伝統工芸の絵本
娘も大好きなシリーズ。ねずみの兄妹たちの様子に一喜一憂しながら、絵本の世界に入り込んで楽しんでいます

文章は少なく、ページいっぱいにねずみの家族の生活が生き生きと描かれ、見ているだけで楽しくなります。

「子どもたちはページのすみずみまで絵をよく見ていて、文章に書かれていないことも読み取っています。

大人が気づかないようなささやかなこと、例えば登場人物のしていることや部屋の間取り、ものの配置にも気が付いているんですよ」

道具を大切に使う想い『ひまなこなべ』

4冊目は、アイヌに伝わる儀礼「熊送り(イオマンテ)」をテーマにした昔話を描いた『ひまなこなべ』。

『ひまなこなべ』(文:萱野茂、絵:どいかや、あすなろ書房)。大きな宴会では出番がない小鍋。いつも大切に使ってくれていることへの感謝を込めて、人となって踊るというお話
『ひまなこなべ』(文:萱野茂、絵:どいかや、あすなろ書房)。大きな宴会では出番がない小鍋。いつも大切に使ってくれていることへの感謝を込めて、人となって踊るというお話

「絵本作家のどいかやさんが実際にアイヌ地方に足を運んで、語り継がれてきた物語の聞き取りをしながら描かれた作品です。

主人公たちが着ている民族衣装や、飾り絵として描かれている文様などからも、アイヌ地方の伝統工芸に触れることができると思います」

『ひまなこなべ』(文:萱野茂、絵:どいかや、あすなろ書房)
『ひまなこなべ』(文:萱野茂、絵:どいかや、あすなろ書房)

可愛らしい絵が物語の世界観と調和しています。

アイヌでは、自然と共に暮らす中で、すべてのものに命があると考えられています。

「道具にも命が宿っているということを語り継いできたアイヌの民話は、ものを大切に使うひとびとの心に繋がっています。

アイヌの文化や工芸に触れながら、自然とともに暮らす知恵も一緒に学びたいですね」

作り手にも読んでほしい一冊『満月をまって』

最後にご紹介いただいたのは、かご職人の父親と息子の物語『満月をまって』。

『満月をまって』(文:メアリー・リン・レイ、絵:バーバラ・クーニー、訳:掛川恭子、あすなろ書房)
『満月をまって』(文:メアリー・リン・レイ、絵:バーバラ・クーニー、訳:掛川恭子、あすなろ書房)

「作り手の想いが、どのように次の世代へ繋がっていくのか。時代の流れの中で失われ、それでも変わらないものは何なのか、読むたびに深い作品だなと思います」

 もうすぐ満月になる。
 とうさんがつくるかごみたいに、まんまるい満月に。

そんな冒頭の一文が大好きだと言う馬場さん。

「お父さんが作るかごへの憧れと、喜びと誇りが感じられて、ぐっときます」

『満月をまって』(文:メアリー・リン・レイ、絵:バーバラ・クーニー、訳:掛川恭子、あすなろ書房)
『満月をまって』(文:メアリー・リン・レイ、絵:バーバラ・クーニー、訳:掛川恭子、あすなろ書房)

今から100年ほど前のアメリカ合衆国の実話がもとになったお話。

満月になると、手作りのかごを売りに行く、父。9歳になって、はじめて一緒に出かけることを許された、少年。

ところが、初めて見る都会はまぶしく、父さんの作るかごもどこか古ぼけて見えてしまう‥‥。

読んでいて胸がいっぱいになりました。

「父親と同じかご職人を目指す息子の視点で語られた物語から、手作りのものに対する愛情と情熱を感じます。

時代の移り変わりの中で、手作りのかごがプラスチックやビニールに代わっていく。そんな時代の流れも写しとった作品です」

『満月をまって』(文:メアリー・リン・レイ、絵:バーバラ・クーニー、訳:掛川恭子、あすなろ書房)
『満月をまって』(文:メアリー・リン・レイ、絵:バーバラ・クーニー、訳:掛川恭子、あすなろ書房)

「森の恵みから生まれてくる、ひとつの“かご”が丁寧に描かれていて、職人たちの自然との対話や、ものづくりへの情熱を感じられる本だと思います」

作り手にも染み入る本ですね。

「工芸品を作る職人さんだからこそ、通じることがあるかもしれません。読む人によって感じ方が違うのも、絵本の魅力だと思います」

親子三代にわたって親しまれる本屋に

2018年12月に創業43年を迎えたクレヨンハウス。

作家の落合恵子さんが、文化放送アナウンサー時代、海外で目にした書店に憧れ、日本にも座り読みのできる本屋さんを作りたいという思いから始まりました。

現在は本だけでなく、オーガニック食材をつかったレストランや野菜市場、安心安全な木製玩具のフロアや、オーガニックコスメやコットンを扱うミズ・クレヨンハウスなどもあり、子どもや女性の視点から文化を発信しています。

クレヨンハウス

親子三世代にわたってお店を訪れる方も多いそうです。

「子どもの頃に読んだ本に再会される方や、お子さんに読んであげていた絵本をお孫さんに買っていかれるお客さまなど、日々、絵本が世代を超えて読み継がれている様子を感じます」

創業当時から使われているテーブル。子どもたちが絵本を読んで楽しむ姿を見つめてきた
創業当時から使われているテーブル。子どもたちが絵本を読んで楽しむ姿を見つめてきた

常備している子どもの本はなんと5万冊。どのように選定しているんでしょうか?

「毎月、スタッフ全員で、その月に出版された新刊絵本を読む“新刊会議”をしています。子どもの本だけでも毎月300冊ぐらい新刊が出版されていますが、全部をスタッフが読み込んで、その中から、お店に置く本を選んでいます」

毎月300冊!大変な作業ですね。

「子どもが読んで、純粋に心踊るもの、面白いなと感じられるもの、大人の目にも耐えうるような文学性やアート性の高いものを選んでいます。

クレヨンハウス

長く読み継がれている本もたくさんありますが、新しい作家さんが生まれてこないと、子どもの本の文化は育っていかないと思っているので、新しい作品や作家に出会える“新刊会議”は楽しみでもありますね」

大切なのは親子で楽しむ時間

「絵本に年齢制限はありません」と言う馬場さん。

「1冊の絵本でも、その時々によって絵本の感じ方が違うと思うので、子どもも大人も、年齢にとらわれず、お気に入りの絵本に何度も触れて読んでいただきたいなと思います」

クレヨンハウス

読み聞かせのポイントはあるのでしょうか?

「子どもにとっておはなしの内容はもちろんですが、 “読んでもらった”体験を積み重ねることが大切なので、上手に読もうとか肩肘を張らずに、一緒にその時間を楽しむことが一番だと思います」

伝統工芸の絵本

お店でも、表紙を見て「この本、小さい頃に読んでた!」という、大人の方の声をよく聞くといいます。

「それは、誰かに“覚えておいてね”と言われたわけではなくて、大切な人に読んでもらって、小さな心が動いたからこそ、表紙を見ただけで記憶が蘇るんだと思います」

「どう思った?」などと答えを求めないことも大切。

「子どもの絵本の楽しみ方は、大人が考えるよりずっと自由だと思うんです。その子自身が何かしら感じているものがあると思うので、余韻を残してあげるといいですね。

どんなことが、その子の人生や心の糧になるかわからないので、長い目で見ていただけたらいいのかなと思います」

「子どもは絵本で体験したことと、自分の体験が重なりながら、心が育っていきます。感受性を耕すものの一つが絵本なのかなと思います」

クレヨンハウス

工芸のもつ温かみや、作る人の想いを感じることができる。

絵本を通して工芸に触れてみたら、また違った世界が広がっていきました。

みなさんも一冊、手に取ってみてはいかがでしょうか。

<紹介した絵本>
『せんねんまんねん』
『わにわにのおふろ』
『14ひきのこもりうた』
『ひまなこなべ』
『満月をまって』

<取材協力>
クレヨンハウス東京店
東京都港区北青山3-8-15
03-3406-6308(子どもの本売場直通)
営業時間:平日11:00~19:00 土・日・祝日10:30~19:00
定休日:年中無休 (年末年始を除く) 

文 : 坂田未希子
写真 : カワベミサキ

※こちらは、2019年5月15日の記事を再編集して公開しました。

HARIOのガラス職人、藤枝さんと宮田さんの“仕事の理由”——「好き」と「難しい」の間にあるもの

ものづくりの世界に飛び込んだ若きつくり手たちがいる。

何がきっかけで、何のために、何を求めてその道を選んだのか。そして今、何を思うのか。さまざまな分野で活躍する若手職人を訪ねる新連載。

今回、取材したのはアクセサリーをつくる2人の女性ガラス職人だ。聞くと、経歴も職人になった経緯もバラバラだとか──。

訪れたのは耐熱ガラスでアクセサリーづくりを行う東京・日本橋「HARIO Lampwork Factory(ランプワークファクトリー)小伝馬店」。

「HARIO」といえばビーカーやフラスコなどの理化学器具や、コーヒードリッパーやティーポットなどの製造で名を馳せる耐熱ガラスメーカー。

HARIOのビーカー、フラスコ

そんな同社が2013年、耐熱ガラスの手加工の技術を守るためにとアクセサリーをつくる工房を立ち上げた。

HARIO Lampwork Factory 小伝馬店

繊細にして緻密。そんなガラス職人の世界に飛び込んだ2人の女性とは──。

「根っからのガラス好き」と「異業種からの転職」と

まず1人目は入社して3年目の藤枝奈々さん。

「学生の頃からこちらでアルバイトをさせてもらって、そのまま社員にしてもらいました」

入社して3年目の藤枝奈々さん
「ガラス大好き!」の藤枝さん

そう話す藤枝さんは根っからのガラス好き。そもそもガラスに携わりたいことから、美術大学の工芸学科に進学。土を扱う陶芸や、金属素材を使用する彫金など選択肢はいくつかあったものの、迷わずガラスを専攻した。

「昔からキラキラとした素材が好きで。美術館に行ったり、いろんなアート作品を見てきたんですけど、いつも心惹かれるのはガラスでできたものでした。

ガラスは、木や砂、岩石、金属といった素材に比べてキラキラしているというか、光っているのが何とも魅力で‥‥とにかく素材としてのガラスが素敵だなとずっと思っていて‥‥すみません、私、ガラスバカなんです(笑)」

藤枝さんの「素材としてのガラスが素敵」という言葉を聞いて深く頷いていたのがもう一人のガラス職人、宮田麻衣子さん。

「私も、ガラスのツルンとした、つやっとした感じがすごく好きなんです」

HARIOのガラス職人、宮田麻衣子さん
「難しい‥‥けど、ガラスが好き」の宮田さん

そう語る宮田さんは入社2年目。実は、以前はまったく別の仕事をしていたという。

「それまでは美容系の仕事をしていました。たまたまガラス工房で吹きガラスの体験をする機会があって、グラスをつくらせてもらったんですけど、それが、すごく難しくて‥‥。

そのときにガラスという素材を扱うことの難しさを知りました。と同時に、扱うのが難しい素材であるということが、私にとってはとても新鮮で、魅力的で‥‥。それがきっかけで、この道に進むことを考えるようになったんです」

体験後、ほどなくして、10年ほど続けた仕事をきっぱりと辞め、ガラス工房主宰の講習に本格的に参加。ガラスづくりを始めたのは20代後半のことだとか。

正球から始まるガラス職人への道

経歴はそれぞれ違うものの、ガラス職人になって最初の試練になったのが“正球をつくること”。

「きれいな丸型を成形することがガラス職人としての基礎なんですけど、はじめからきれいな丸がつくれたわけではありませんでした」(藤枝さん)

「正球づくりは、今でもやっぱり難しいですね」(宮田さん)

藤枝さんがつくっていた“ウォータードロップ”シリーズ
藤枝さんがつくっていた“ Water Drop”シリーズは球体の連続だ

HARIOの耐熱ガラスを使ったアクセサリーづくりは、バーナーワーク(別名:ランプワーク)という成型技術によって行われている(詳しくは、ハリオのアクセサリーは使い手にも職人にも優しい。ランプワークファクトリーで知る誕生秘話をご覧ください)。

ガラスを研磨・カットするといった手法とは異なり、棒状のガラスをガスバーナーに当て、酸素の量を調節するなどしながら、粘土のように形をつくるフォーミングというやり方でさまざまな形をつくり上げていくのだが、

「火を当てることによってガラスを溶かし、同時にガラス棒を回転させながら成形していきます。適度なスピードで回転をかけないと溶けたガラスがどんどん下に落ちてしまってきれいな丸にはならないんです。

火加減やスピード、ガラスの状態、力の入れ方などポイントはいくつもありますけど、最終的には何度も繰り返しやり続けることでしか得られないのかな、と。数をこなすことで体に覚えさせるしかないんだと思います」(藤枝さん)

いくつもの正球をつなげてつくり上げる“ Water Drop”シリーズは、同店の人気商品となっている。

揺れ動くたびにキラキラ光る。ウォータードロップシリーズの“イヤリング・アール”
揺れ動くたびにキラキラ光る。Water Dropシリーズの“イヤリング・アール”

さらにその日、宮田さんが取り組んでいたのは新作の“ピアス シャーベット”。細かく砕いたガラスの粉(フリット)を用いる製品づくりだ。

雪が降り積もったようなデザインが印象的な“シャーベット”シリーズのピアス
雪が降り積もったようなデザインが印象的な“シャーベット”シリーズのピアス

「私はこの作業がすごく苦手で(笑)」

製作工程
フリットをつけて‥‥
製作工程
ガスバーナーで焼くと‥‥
できあがったガラスの部品
こんな表情に!

「ガラスでつくった本体にフリットをつけて焼くんですけど、火を当てすぎると溶けてしまうし、焼きが足りないとすぐにとれてしまうことになる。その加減が難しくて」(宮田さん)

また、プロダクトとしてのものづくりをするうえで難しいこともあるという。

「縦・横・高さなど、サイズが決められているガラスをつくることですね。大学生のときは好きなものを好きなようにつくれば良かったけど、ここではそうはいきません。

作業工程
作業の途中でサイズ感を確かめる

でも、それってとても大事なことで。

たとえばWater Dropシリーズの場合。丸型をつくるなら4ミリにするか、4.5ミリにするのかで見た目はまったく違うし、丸型と丸型をつなげる溶着の仕方が太いのか、細いのかによって印象はガラリと変わりますから。デザインの再現性は職人としてとても重要だと思います」(藤枝さん)

さらに、ただ繊細であればいいかというと、それははっきりいってノーである。繊細でありながらも求められるは“強度”だ。

「いくら美しくてもすぐに壊れるようではだめで。きちんと強度がなければ日常的に使っていただくことができませんから」(宮田さん)

HARIOのアクセサリー

美しく、繊細でありながら、日常使いできるものを。ガラス職人として試行錯誤を繰り返しながら、一つ一つ丁寧に手加工でつくり上げていくのだ。

手加工技術を守り、未来へつなげる

アクセサリー製作のほかにも、同社のガラス職人は手加工でなければできないことを行っているという。

たとえば「HARIO」で発売している冷酒器の「地炉利(ちろり)」。

HARIOで発売している「八角地炉利」冷酒器の
写真は「八角地炉利」

地炉利の本体部分は工場でつくられるものの、注ぎ口のところだけは機械では難しいとか。

注ぎ口となる部品
注ぎ口となる部品も手加工でしかつくれないとか

部品をつくるのも、本体に穴を開けるのも、穴を開けたところに部品を取り付けるのも、すべてが職人による手加工によってできているというが、職人歴3年の藤枝さん曰く、

「まだ難しくて‥‥。これをつくっているとき何度も悔しい思いをしましたね。できなくて『もうっ!』と投げそうになったことも何度か‥‥(笑)」

注ぎ口
「この部分が難しい」と藤枝さん

この注ぎ口のように、どんなに機械化が進んだとしても、人間の手でしか生み出せない部分があるという。逆に言うと、手でつくれないものは機械に落とし込むことができないそうだ。

だからこそ、手加工は絶やしてはならない大事な技術なのである。

同社でガラス職人になるということは、そうした歴史を守ること。伝統の技術を未来に紡ぐことにもつながるのだ。

「不安はない?」──その答えは‥‥

最後に二人に聞いてみた。「これから先、ガラス職人として進むにあたって不安みたいなものはありませんか?」

すると二人は顔を見合わせて‥‥

藤枝さんと宮田さん

「不安ですか?」
「あるかな?」
「どうだろう‥‥」
「別にないかな‥‥」
「うん、とくにないよね」という答え。

藤枝さんは言う。

「もちろん、まだまだできないことはたくさんあって、それはそれで不安ですけど。でも、できないって言っちゃうとそこまでですよね。

それに、できることが増えていけば不安は自然と取り除けると思うので、なるべく挑戦し続けることが大切なのかなと思います」

使用している道具たち
できることが増えるたびに道具の数や種類も増えていく。「それが嬉しい」とふたりは言っていた

続いて宮田さんも。

「私はまだまだ職人歴は短いし、できるものは限られていますから、とにかくは目の前のことを一つ一つクリアしていければな、と思います」

エプロンについた焦げ穴
エプロンには焦げ穴が。ガスバーナーを使うガラス職人ならではの勲章だ

そして今日もまた。

彼女たちはガラスに向き合い続ける。

<取材協力>
HARIO Lampwork Factory 小伝馬町店
東京都中央区日本橋大伝馬町2-10
TEL:03-5623-2143
https://www.hario-lwf.com/

文:葛山あかね
写真:尾島可奈子

薬師寺東塔 大修理に挑んだ匠たちの現場レポート。「凍れる音楽」は今、どうよみがえったのか?

薬師寺東塔の大修理プロジェクト

「こういう、たくさん挑戦が必要になる仕事は、終わったら面白い。でもね、終わるまでは喧嘩ですよ。職人の世界というのは、そういうものです」

腕利きの職人たちが喧嘩も辞さず、総力をあげて取りかかる世紀の大修理プロジェクトが、ある世界遺産で行われました。

「古都奈良の文化財」の1つとして世界遺産に登録される薬師寺。

西暦680年に造営が開始され、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市)に建立。その後710年の平城京遷都に伴い、現在の奈良市西ノ京町に移転したと伝えられています。

薬師寺を構成する建物の1つ、国宝・薬師寺東塔は、その現在の奈良の境内で唯一、およそ1300年もの間、その姿をとどめてきた建築物です。

修理前の薬師寺東塔 (画像提供 薬師寺)
修理前の薬師寺東塔 (画像提供 薬師寺)

その飾り屋根のリズミカルさと、真っ直ぐ天に向かって建つ佇まいは多くの人々を魅了し、いつの頃からか「凍れる音楽」とも評されるようになりました。この薬師寺東塔こそが、今回の修理プロジェクトの主役。

2009年から約10年の歳月をかけた解体修理事業が行われており、2020年4月の落慶 (修理完了) 予定に向け、多くの現代の匠が関わっています。

なかでも、最初に解体が行われた塔頂部の「相輪(そうりん)」と呼ばれる部分の修理に挑んだ匠たちが、ある街にいます。

鋳物産業の伝統息づく、高岡へ

その匠たちがいるのは、富山県高岡市。

約400年前から続く鋳物 (いもの) のまちで、金属加工に関する多様な技術が集積しています。

鋳物とは、金属をとかし、型に流し込んで器物を作ること。またその製品を指します (画像提供 高岡市)

薬師寺東塔の修理は明治以来110年ぶり。この一大プロジェクトに金属加工のプロフェッショナルとして参加したのが、「伝統工芸高岡銅器振興協同組合」です。

組合理事長として修理のまとめ役を担った梶原製作所の梶原壽治社長と、参画企業である老子製作所の元井秀治社長、平和合金の藤田和耕さんにお話を伺いました。

*大型の一品製作を得意とする梶原製作所さんは、あの浅草寺の大提灯を手がけたメーカーさんでもあります。インタビュー記事はこちら:浅草寺の提灯、両脇はなぜ銅製?そこには思わぬ理由があった

天に向かってそびえる「相輪」を修理

今回高岡で修理された塔頂部の「相輪」とは、五重塔などの仏塔の屋根から天に向かって突き出た金属部分のことです。もともと、仏教の開祖である仏陀のお骨(仏舎利)を納めた塚で、ストゥーパ(仏塔)の上に重ねられた傘が起源となっています。

画像提供:高岡市
画像提供:高岡市

高岡が主に担当したのは、相輪先端部の「宝珠(ほうじゅ)」「竜車(りゅうしゃ)」「檫菅(さつかん)」「水煙(すいえん)」「九輪 (くりん) 」の新調。

画像奥から、今回新調した宝珠、竜車。「宝珠」は、古来仏舎利を納めていたことから、仏陀の輝きを表すものとして、塔の一番先端部に祀られるもの。「竜車」は「宝珠」と「水煙」の間に位置し、貴人の乗り物を表すともいわれる
画像奥から、今回新調した宝珠、竜車。「宝珠」は、古来仏舎利を納めていたことから、仏陀の輝きを表すものとして、塔の一番先端部に祀られるもの。「竜車」は「宝珠」と「水煙」の間に位置し、貴人の乗り物を表すともいわれる
檫菅(さつかん)。「檫管」は塔の中心を貫く心柱を包む金属菅で、特に相輪最下部の檫菅には、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を願って薬師寺を建立した、という創建の経緯を語る文章が129の文字で刻まれている
檫菅(さつかん)。「檫管」は塔の中心を貫く心柱を包む金属菅で、特に相輪最下部の檫菅には、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を願って薬師寺を建立した、という創建の経緯を語る文章が129の文字で刻まれている

そして、とりわけ重要だったのは「水煙」。高さ約2メートルにもおよぶ4枚の飾りで、災いから守る祈りが込められた、東塔の象徴的存在です。

水煙の原型
水煙の原型

他の塔では火焔文様をデザインしたものが多いのですが、この水煙は24人の飛天が飛雲のなかで笛を奏で、花をまき、衣を翻して舞うという、大変美しい意匠となっています。

水煙の原型(拡大)
水煙の原型(拡大)

修理にかかるすべての工程を一手に

「これまでも高岡では、いくつかの会社は文化財の修理事業に部分的に関わってきたんです。ただ、会社や高岡の名が表に出ることはありません。

今回は、組合としてこの仕事を受けたということに大きな意味があるんです。技術力の高さを高岡の名前とともに国内外に発信できますから」

と、今回の大仕事を振り返るのは、梶原製作所の梶原社長。

梶原社長
梶原社長

同組合では、今回の受注に先立つ2015〜2017年、国宝・法隆寺の釈迦三尊像を限りなく同質のもので複製するという「釈迦三尊像再現プロジェクト」に参画していました。今回の受注は、その実績が認められたもの。

「今回は、組合員のメーカー同士で工程を分担して、いわば高岡の総力をあげて取り組みました。関わった会社は、15社以上になりますよ」

そのうちの一社、老子製作所の元井社長も、高岡で受注したことの意味を次のように話します。

老子製作所の元井社長。老子製作所は江戸中期創業の鋳物総合メーカー。梵鐘製作で日本一を誇り、京都の西本願寺や三十三間堂、成田山新勝寺などに2万鐘を超える梵鐘を納めている
老子製作所の元井社長。老子製作所は江戸中期創業の鋳物総合メーカー。梵鐘製作で日本一を誇り、京都の西本願寺や三十三間堂、成田山新勝寺などに2万鐘を超える梵鐘を納めている

「今回の修理には、原型製作、鋳造、仕上げ、着色、彫金と金属加工のあらゆる技術が使われています。これら全て、一つの街で出来るのはとても珍しいことなんです。

他の地域であれば、一つの工程は出来ても、あとは県外に持って行く、ということになる。修理にかかる工程の全部を一貫して出来るというのは、高岡の面白いところでもあり、強みでもありますね」

彫金の作業風景。オリジナルの銘文をシルクスクリーンで転写し、オリジナルを確認しながら彫金した(画像提供:高岡市)
彫金の作業風景。オリジナルの銘文をシルクスクリーンで転写し、オリジナルを確認しながら彫金した(画像提供:高岡市)
鍛金職人による槌目打ちの様子(画像提供:高岡市)
鍛金職人による槌目打ちの様子(画像提供:高岡市)

水煙に見る、1300年前の職人のわざに驚嘆

「1300年前の職人はすごい技術をもっていた」

そう強調する梶原社長。

たとえば、と塔の象徴である水煙の説明をしてくれました。

「水煙1枚で、100キロあるんですよ。それを、ボルトやナット、溶接といった技術もなく、上に物を持ち上げる重機もない時代に、35メートルも上に、組み上げているんです。

4枚組み上げて、ボルト1本たりとも使っていないんです。それで1300年の間もたせる技術というのは、本当にとんでもないことです。今でいうと、宇宙ロケットを打ち上げるくらいの技術ですよ」

その水煙4枚のうち2枚の新調を任されたのが、平和合金さん。担当した藤田和耕さんも、こう言います。

平和合金の藤田さん。平和合金は創業120年以上の歴史を持ち、大型鋳造を得意とする鋳物メーカー。二宮金次郎の哲学に共感し、その哲学を広めるため二宮金次郎の銅像を90年に渡って作り続ける
平和合金の藤田さん。平和合金は創業120年以上の歴史を持ち、大型鋳造を得意とする鋳物メーカー。二宮金次郎の哲学に共感し、その哲学を広めるため二宮金次郎の銅像を90年に渡って作り続ける

「原型を見た瞬間に、本当にこれは1300年前に設計されたものなのかな?という雰囲気がありました。

クレーンがない当時の技術を考えると、よくこれだけのものを塔の上にあげたな、と。再現を通して、当時の技術を知ることができて本当に良かったなと思います」

原型製作会社での、水煙の原型製作の様子。3D切削機で製作している(画像提供:高岡市)
原型製作会社での、水煙の原型製作の様子。3D切削機で製作している(画像提供:高岡市)
平和合金での、水煙の鋳型製作風景(画像提供:高岡市)
平和合金での、水煙の鋳型製作風景(画像提供:高岡市)
平和合金での鋳造風景。鋳型に金属を流し込む「鋳込み」のときは、いつも薬師寺の僧侶の方々が読経を行っていた(画像提供:高岡市)
平和合金での鋳造風景。鋳型に金属を流し込む「鋳込み」のときは、いつも薬師寺の僧侶の方々が読経を行っていた(画像提供:高岡市)

ベテランたちをうならせた未知の領域

藤田さんの語った「再現」という言葉は、実は修理のキーポイント。

1300年前と同じ製法を使うわけではなく、かといって、今の技術でただ単に形を似せた新しいものを造るというわけでもありませんでした。

なぜなら、今回の大修理では相輪の部品全てを新調するのではなく、現存する1300年前からの他のパーツをそのまま残して使う部分もあるからです。

つまり、新調する部分も現存部分となじむような、「1300年後の今」の姿を再現しなければならない、というミッション。

まず形状は、1300年の間で微妙に反り返っていたり、波を打っていたりする姿を再現しなければなりません。

その難しさを、梶原社長はこう説明します。

「1300年の時間を経た姿を造る。歪みも再現するんです。そういうものは3Dの最新の技術でデータをとって、原型を製作しました。こうした現代の技術がないと、今回の事業もなかなかできなかったと思います」

富山県総合デザインセンターの設備を使って、「擦管」のオリジナルを3Dスキャン(画像提供:高岡市)
富山県総合デザインセンターの設備を使って、「擦管」のオリジナルを3Dスキャン(画像提供:高岡市)

「再現」は見た目の姿だけでなく、材料となる銅合金の配合についてもそうでした。次の100年後、200年後に、修理した部分だけが違う見た目になってしまうようなことを避けるためです。

「型を作って、金属を溶かし、鋳型に流し込むという鋳造の基本プロセスは、昔も今も変わりがないんです。でも、銅合金の配合が、我々が今使っているものと、全く異なっていました」

何かの配合が違うだけで、結果が全て変わる

「まず、純銅の割合が非常に高い。我々が通常使う銅合金の銅の割合は86〜87パーセントなのに対して、93.6パーセント。そこに通常合わせる錫・亜鉛・鉛の割合も、極端に低かったり。もう1つ大きな違いは、通常我々が使わないヒ素が2.4パーセント含まれていたことです」

擦管の鋳型(画像提供:高岡市)
擦管の鋳型(画像提供:高岡市)
老子製作所での擦管鋳造の様子(画像提供:高岡市)
老子製作所での擦管鋳造の様子(画像提供:高岡市)

「鋳造では、何かの配合が数パーセント違うだけで、粘りや硬さ、強さ、収縮率などが全部変わってしまうんですよ。収縮率が変わるということは、いつもの銅合金と同じように鋳造してしまうと国宝のサイズが変わってしまうということですからね。

もう、原型の段階からすべてが未知でした。我々が溶解したことのない材料だから、溶解温度に達するときの金属の様子がどう通常と違うのかわからなくて、不安でしたよ」

梵鐘と同じ最古の鋳造法を用いて作られたもの

原型完成後は、溶かした金属をそこに流し込む鋳造の工程。ここでは、化学反応を応用する最新の「ガス型鋳造法」と呼ばれるものから、梵鐘の製作などで使われる、もっとも古い「双型鋳造法」と呼ばれるものまで、新旧の様々な技法が用いられました。

この双型鋳造法を用いて作られたものの1つ、「九輪 (くりん) 」。

九輪の鋳造風景(老子製作所)(画像提供:高岡市)
九輪の鋳造風景(老子製作所)(画像提供:高岡市)
九輪の着色工程。細部を金箔で表現している(画像提供:高岡市)
九輪の着色工程。細部を金箔で表現している(画像提供:高岡市)

担当したのは、梵鐘製作を主力事業とする老子製作所です。

「1300年前にも使われていた双型鋳造法を、うちの会社では今も日常業務のなかで行っています。

火鉢や梵鐘といった円筒型や円錐型のものを作るのに必要な作り方で、うちではこの工法で、普段は梵鐘を作っています。全く同じやり方で、今回の仕事ができたのは誇らしいです」(元井社長)

老子製作所の工場内にて。社長の隣にあるのは梵鐘の中子(なかご)と呼ばれるもので、外の型の中に入れ、肉厚を出すためのもの。外の型と中子を組み合わせてできる隙間に金属を流し込んで梵鐘を造る。社長が指差す刃物のようなものは、梵鐘の形にあわせて中子を成型するための引き型
老子製作所の工場内にて。社長の隣にあるのは梵鐘の中子(なかご)と呼ばれるもので、外の型の中に入れ、肉厚を出すためのもの。外の型と中子を組み合わせてできる隙間に金属を流し込んで梵鐘を造る。社長が指差す刃物のようなものは、梵鐘の形にあわせて中子を成型するための引き型

1300年分の色の再現は、金属の心まかせ

1300年前のものを再現するために行った挑戦のなかでも、「一番難しかった」と梶原社長が振り返るのが、着色です。

相輪はもともと、鍍金技術により金色に光っていました。それが長い年月を経て金が剥がれ、その金の痕跡が残りながらも、下の銅合金が露出している状態。それがまた時間とともに様々な色合いを醸していました。

「人がつけた色じゃないんですよね。1300年かけて、金属が自分で作った色を再現するわけです。『着色』といいますが、金属が自ら発色するためのお手伝いをして、あとは金属の心まかせなんです」

ちなみに銅器の「着色」とは、古くから伝わる技法で、さまざまな薬品や溶液を用いて表面に化学反応を起こし、金属から様々な色を引き出すというものです。硫酸銅やアンモニア、鉄くずのほか、食塩や食酢、日本酒、大根おろし、米糠、刈安(すすきの一種)の煮汁など、実に多様な材料が使われます。

着色見本。鋳造法と同様に、着色の技術も長い年月の試行錯誤から多くの技法が生まれており、高岡でも伝統的な技法だけでなく、それらを応用した各社オリジナルの最新技法も多く存在する(画像提供:高岡市)
着色見本。鋳造法と同様に、着色の技術も長い年月の試行錯誤から多くの技法が生まれており、高岡でも伝統的な技法だけでなく、それらを応用した各社オリジナルの最新技法も多く存在する(画像提供:高岡市)

「茶色を塗ったら茶色になる、という作業ではないんです。同じ薬品や溶液を持っていっても、金属の素材の成分、湿度や温度で違う発色の仕方をします。また、その場ですぐに色が出るのではなく、薬品や溶液が乾くときに反応して色が分かるんです。完全に、素材まかせというわけです」

加えて、再現しなければならない実物は、経年変化によって色の出方もまだらです。緑の部分があったり、白みがかった部分があったり、青くなっている部分があったり。それが水煙1枚だけでも、高さ2メートルという大きさに渡って、それを再現しなければなりません。

しかも、実物は国宝のため門外不出。横に置いて見比べながら作業することもできませんでした。

「何回も実物を見に行きましたよ。ここはもうちょっと白い、ここの雰囲気はちょっと違う気がする、など何度も話しながら作業して。こうなると、化学よりも経験値がものを言うんです」

水煙の着色風景。オリジナルの写真を参考に細部の色を調整(画像提供:高岡市)
水煙の着色風景。オリジナルの写真を参考に細部の色を調整(画像提供:高岡市)

着色させた後も、薬品が相輪の別の部分に沁みていかないよう、数日雨ざらしにして薬品を抜く作業も。

「直前まで、できることはすべてやろうと努力しました」

過去の経験を駆使しても、「やってみないとわからない」ことの連続。試行錯誤の繰り返しで少しずつ、修理は進んでいきました。

完成した水煙(南北)(画像提供:高岡市)
完成した水煙(南北)(画像提供:高岡市)
完成した水煙(東西)(画像提供:高岡市)
完成した水煙(東西)(画像提供:高岡市)
経年劣化の雰囲気もよく再現されている
経年劣化の雰囲気もよく再現されている

15社が“喧嘩”しながら協働

「新しいものを作ることは誰でもできる。でも、1300年前のものを今の姿と同じように鋳造して、同じような色をつけて、元あったところに馴染むように戻せるのは、たぶん高岡でしかできません」

事業を振り返り、老子製作所の元井社長はこう語ります。

高岡では、特に量産化が進んだ昭和初期ごろから、原型製作から着色までの工程がそれぞれ分業して発達してきました。

それによって、「この色はこの人にしか出せない」「これをやるならあの人に頼もう」といった具合に、それぞれに特化した技とプライドが磨かれてきました。

「良い着色をするためには、良い仕上げを。良い仕上げのためには、良い鋳物を。そんな具合に連携が必要になるなかで、職人のプライドというか、プロ根性が出てくるわけです。

たとえば、1つの仕上げ屋さんに、いろんな鋳物屋さんから仕上げの仕事が来るから、他の鋳物屋さんの仕事と比べられる。それでもし『あそこの鋳物は汚い』と言われたら、ものすごく恥ずかしいでしょ。そのプライドが職人を育てていく。そうやって、プロ集団になってきたんです」

と語るのは梶原社長。

今回は15社が心と力をあわせての取り組み。1社につき何人も職人が関わっているので、総勢で関わった高岡の関係者は何百人にもなる計算です。

「だからこういう、たくさん挑戦が必要になる仕事は、終わったら面白い。でもね、終わるまでは喧嘩ですよ。職人の世界というのは、そういうもの」

喧嘩しながらも数多くの未知の領域に挑み、成果を上げられたのも、各社、各職人の知恵や技の経験値を集められたから。

「この事業をやる上で、いろんなところの知恵を出し合いましたよ。各社が持っているいろんな成功例、失敗例を教えてもらうというのがとても大事で、そういう引き出しが高岡にはあるんです」

「心が入っていますね」の一言に

そして最後の納品を迎えた2019年1月29日。

ぎりぎりまで色の調整を重ねて新調した水煙を一目見たときの、薬師寺の方からの一言が、それまでずっと張りつめていた梶原社長の心を緩ませました。

「心が入っていますね」

「嬉しかったです。ちょっと肩の荷がおりたような気持ちになりました。

それから、『1300年前に作った気持ちも再現されたような気がしました。高岡の職人さんの気持ちも感じます』とね。1年以上格闘していましたからね。そういう意味でも、嬉しかったですね」

高岡で新調された水煙は薬師寺で組み立てられた。左が新調品、右がオリジナルの国宝の水煙(画像提供:高岡市)
高岡で新調された水煙は薬師寺で組み立てられた。左が新調品、右がオリジナルの国宝の水煙(画像提供:高岡市)

その後組合では、今回の大修理事業を経て何十ページもの報告書を作りました。どんな仕事をして、それを何のためにやったかを、すべて書き残すため。

「我々のものづくりの考え方は、何百年もあり続けることを見据えます。だから今回造ったものが何百年後にも、同じように、違和感なく塔の中に溶け込んでいてほしい。そして次に修理や新調をするときに、この報告書を100年後、200年後の人たちに参考にしてもらえるようにしたいのです。

私たちは記録を見ることができなかったから、後世の人たちは見ることができるように」

400年の蓄積を、さらに次の世代へ

原型、鋳造、仕上げ、彫金、着色と、それぞれのプロが、伝統技術を駆使しながらも、一方で3Dなどの最新技術も活かして完成を迎えた今回の事業。

この仕事を通じて、技術を継承していく、ということも梶原社長たちが強く意識したことでした。

「今回の仕事は、我々にとって、平成の職人が今しかできない形で『伝統と革新の融合』をさせたということですね。別の時代には別の伝統と革新の融合があった。高岡の鋳物技術が400年続いてきたのは、いろんな段階で、時代に応じて、新しい技術を導入しながら色んな挑戦をしてきたからだと思うんですよ。

先輩方の努力があって、その恩恵を受けて我々が続けてこれた。そして平成の職人がやってきたことが、次につながる。この仕事は、次世代の高岡の職人に『お前らもチャレンジしろよ』というメッセージでもあると思います。挑戦していかないと、チャンスは増えないし、継承できないと思いますから」

昔から続いてきた技術を「そのまま」守ることのみで継承していくのではなく、伝統技術を守りながらも新しいチャレンジをすることこそが、継承につながるということ。それを実践で示している高岡の職人たち。

「伝統を守るってなんだろう?」という問いに対する1つの答えが、このまちにあるような気がします。

取材協力
株式会社梶原製作所
富山県高岡市横田町3-3-22
http://kajihara-ss.com/

株式会社老子製作所
富山県高岡市戸出栄町47-1
http://www.oigo.jp/

株式会社平和合金
富山県高岡市戸出栄町56-1
http://www.heiwagokin.co.jp/

文:荻布裕子
写真:浅見杳太郎、荻布裕子、高岡市、薬師寺

*こちらは、2019年8月30日の記事を再編集して公開いたしました。

沖縄土産なら北谷の「タイムレス チョコレート」へ。「カカオ豆と沖縄のサトウキビだけ」から生まれるここにしかない味わい

「チョコレートって豆から作るものなんです」

そんなシンプルな真実を、改めて教えてくれたのは沖縄のチョコレートショップでした。

タイムレスチョコレート

お店の名前は「TIMELESS CHOCOLATE (タイムレス チョコレート) 」。

沖縄生まれのBean to Barチョコレート専門店です。

芳醇なカカオの香りに包まれる店内は、観光のお客さんだけでなく、一年を通して老若男女のお客さんで賑わっています。

タイムレスチョコレート

沖縄初のBean to Barチョコレート専門店「TIMELESS CHOCOLATE」へ

「バレンタインシーズンは若い女性で賑わいますが、この間は『クッキー1枚ください』と小学生の女の子が買いに来てくれました。

焙煎したカカオ豆も売っているのですが、こちらは60、70代の方がよくリピートされるんですよ」

Bean to Barとは、チョコレートの原料であるカカオ豆の買い付けから製造、販売にいたるまで一貫しておこなう作り方のこと。

店内にはディスプレイのようにさりげなく、カカオ豆の入った麻袋が積まれていました
店内にはディスプレイのようにさりげなく、カカオ豆の入った麻袋が積まれていました
お店の奥の工房はガラス張り。チョコレート作りの様子が伺えます
お店の奥の工房はガラス張り。チョコレート作りの様子が伺えます

豆の状態から扱っているため、自分たちでレシピや商品アイデアを考え、様々なチョコレートの楽しみ方を提案しています。

定番のチョコレートは産地ごとに味わいを楽しめるように
定番のチョコレートは産地ごとに味わいを楽しめるように
サラダやヨーグルトと合わせても美味しいカカオニブ(カカオ豆の胚乳部分)
サラダやヨーグルトと合わせても美味しいカカオニブ(カカオ豆の胚乳部分)

原材料はカカオ豆とサトウキビだけ

商品づくりでTIMELESSが大事にしているのが、豆の味を最大限に引き出す「焙煎」の工程。

このロースト具合と豆の産地、育った季節などで、味わいは千差万別に変わるそうです。

実はお店がオープンしたきっかけも、元々バリスタだったオーナーの林正幸さんが「自身の焙煎技術を活かして何か作れないか?」と6年ほど前に考えたところがスタート。

そこに沖縄が誇るサトウキビを活かすアイデアが掛け合わさり、「原材料はカカオ豆とサトウキビだけ」という、沖縄にしかないBean to Bar専門店が誕生しました。

3年ほど前に、現在の北谷のお店に移転してきました
3年ほど前に、現在の北谷のお店に移転してきました
人気は様々な産地の味を楽しめるアソートボックス
人気は様々な産地の味を楽しめるアソートボックス
カフェスペースで楽しめるスイーツも充実
カフェスペースで楽しめるスイーツも充実
ドリンクのうつわは今沖縄で注目の作家、今村能章さんのもの
ドリンクのうつわは今沖縄で注目の作家、今村能章さんのもの

老若男女に愛されるTIMELESS CHOCOLATEの秘密

チョコレートは人工的に作られた素材や保存料や乳化剤、カカオバターなども不使用。

タイムレスチョコレート

サトウキビは多良間島産純黒糖や島ザラメといった特徴の異なるものを使い分けます。

素材に対する林さんたちの想いは深く、年々生産者の減るサトウキビは、その味わいや歴史を守ろうと自分たちで農園を設立。

「沖縄で受け継がれてきた“命薬 (ぬちぐすい) ”としての純黒糖を絶やさないように」と、自ら生産する取り組みを行なっています。

自然栽培で育ったサトウキビを手刈りして焚き上げ純"生"黒糖を、砂糖を一切加えていないガーナ産カカオ100%のチョコレートで包んだ「生黒糖ボンボン」
自然栽培で育ったサトウキビを手刈りして焚き上げ純”生”黒糖を、砂糖を一切加えていないガーナ産カカオ100%のチョコレートで包んだ「生黒糖ボンボン」

「君たちがやろうとしていることってタイムレスだね」

店名の由来は、お店づくりを考え始めた当初に、林さんが友人からもらった何気ない言葉だったそう。

古い、新しいという枠を超えて、いつの時代も胸を張って出せるもの。心や身体の栄養となる、「ぬちぐすい」のような存在。

タイムレスチョコレート

それを支えるのが、「原材料はカカオと沖縄のサトウキビだけ」という、シンプルな分、途方もなく手間ひまのかかる製造工程と言えそうです。

潔く、ごまかしのきかない作り方だからこそ、若い世代にも、小学生にもおばあちゃんおじいちゃんにも愛される味になる。まさに「TIMELESS CHOCOLATE」だなと思いました。

<取材協力>
TIMELESS CHOCOLATE
沖縄県中頭郡北谷町美浜9-46 ディストーションシーサイドビル2F
098-923-2880
https://timelesschocolate.com

文:尾島可奈子
写真:武安弘毅

*本文中の写真は2018年春の撮影時点のものです。
*こちらは、2019年8月19日の記事を再編集して公開しました。

世界が愛する「コーノ式」コーヒーサイフォンが生まれた背景とは

みなさん、コーヒーはお好きですか?

ミルで豆を挽いたり、ハンドドリップで淹れたり、こだわりをもってコーヒーを楽しんでいる方も多いのではないでしょうか。

ペーパードリップ、ネルドリップ、コーヒーマシーン‥‥様々なコーヒー抽出機がありますが、今日はこちら。

「コーノ式」のコーヒーサイフォン

コーヒーサイフォンのお話です。

フラスコでお湯が沸騰するポコポコという音。お湯が上がっていったと思ったら落ちてくる様子。

まるで実験器具のようでもあり、見ているだけで楽しくなります。

サイフォン式でコーヒーを抽出の様子

今から90年以上前に、一人の青年が国産初のサイフォン抽出器を開発。それを「コーヒーサイフォン」と名付けました。

いったいどんな方が開発したのか。

「美味しいコーヒーを飲みたい」

1人の青年の熱い想いから生まれたコーヒー器具の物語です。

「もっと美味しくなるんじゃないか」

巣鴨駅から徒歩3分ほど。住宅街を歩いていると、コーヒーのいい香りがしてきます。

創業94年、珈琲サイフォン株式会社さん。

巣鴨駅から徒歩3分の珈琲サイフォン株式会社

コーヒー器具の製造・販売、豆の焙煎・販売を行なっています。

巣鴨駅から徒歩3分の珈琲サイフォン株式会社

「コーヒーサイフォンを開発したのは私の祖父、河野彬(こうの あきら)です」

そう話すのは、珈琲サイフォン株式会社代表の河野雅信(こうの まさのぶ)さん。

珈琲サイフォン株式会社代表の河野雅信(こうの まさのぶ)さん

開発者の名前から「コーノ式」として世界に知られるこのコーヒーサイフォンは、どのようにして生まれたのでしょうか。

1919年(大正8年)、九州帝国大学医学部助手だった彬さんは、外務省嘱託の大使館付医務官としてシンガポールに渡りました。

「どうやら、シンガポールで飲んだコーヒーの味が気に入らなかったようで‥‥お酒も飲まない人だったので、味覚もクリアだったんだと思います」

当時のシンガポールのコーヒーは、インドネシア産の低級品の豆を真っ黒に炒り、棒でたたいて潰したものを布に入れて、大鍋で煮出すといったもの。そこにお砂糖とミルクを入れたものが一般的でした。

「もっと美味しくなるんじゃないか」

そう思ったのがきっかけでした。

開発の元となったのは医療器具だった

日本にコーヒーが伝わったのは江戸時代の頃。彬さんがシンガポールに渡った当時は、ネルドリップで淹れる本格コーヒーが人気になっていました。

焙煎されるコーヒー豆

日本ですでにコーヒーを嗜んでいた彬さん。どうやったら現地で美味しいコーヒーを抽出できるのか研究をはじめます。

「当時、シンガポールはイギリス領だったため、海外のコーヒー器具が輸入されていました。それを集めて、いろいろ試してみたようです」

ヒントになったのは、イギリス人のロバート・ナピアがサイフォン原理を使って発明したコーヒー抽出機でした。

ナピア式は、粉を入れるロートとお湯を入れるフラスコ部分が左右に分かれていて、お湯が沸くと粉の方に移動し、冷めると戻るという仕組み。

フラスコとロートが上下になった「コーノ式」のコーヒーサイフォン
コーノ式はフラスコとロートが上下になっている

「ナピア式にはいくつか欠点がありました。まず、使われていたフィルターは、金属に穴を開けただけのものだったため、お湯と一緒に粉も戻ってきてしまう。また、密閉されているので撹拌もできない。

それらを改善するために、身近にあった道具を使っていろいろ工夫したようです」

身近な道具?

「医療器具です。祖父は、医療用品の輸出ビジネスも行なっていたので、身の回りに様々な器具が揃っていました」

なるほど!コーヒーサイフォンがどことなく実験器具のように見えるのは、実際に医療器具が開発の元になったからだったんですね。

1921年、帰国した彬さんはその後も開発を続け、1925年(大正14年)、ガラス製コーヒー器具「河野式茶琲サイフオン」が販売されました。

コーヒーサイフォンを開発した河野彬さんらの写真
1928年(昭和3年)、自宅でコーヒーパーティーをしている時の様子。右から2番目が彬さん

「コーヒーの持ち味を素直に抽出する」をモットーに

彬さんが開発したサイフォンの最大の特徴は透明な「ガラス製」であること。

「ガラスにすることで、抽出されている状態が見えるというのがポイントです」

コーヒーサイフォンの器具一式
コーヒーサイフォンの器具一式。右・アルコールランプとフラスコ、中・ロート、左・竹べら
コーヒーサイフォンでの抽出
蒸気によってお湯が上部のロートへ上がっていく
コーヒーサイフォンでの抽出
空気が混ざっているとお湯と粉が馴染まないので、木ベラで攪拌してあげる
コーヒーサイフォンでの抽出
上から泡(灰汁)、コーヒーの粉、液体と、綺麗に3層に分かれます
コーヒーサイフォンでの抽出
アルコールランプを外すと、お湯が冷めて下に液体が戻って完成です

「開発当時は硬質ガラス(耐熱ガラス)ではなく、並ガラス(耐熱ではないもの)を使っていたので、耐熱温度差で割れてしまうことがあったようです。

帰国後、日本で作られ始めていた耐熱ガラスを使うようになって完成しました」

彬さんがこだわったのは「コーヒーの持ち味を素直に抽出する」こと。

その後、その思想を受け継いだ2代目の河野敏夫(こうの としお)さんも改良に改良を重ねます。

「うちは濾過器(フィルター)も他のメーカーのものとは全く違います。コーヒーがフラスコに落ちてくる時に、灰汁が一緒に入らないようになっています」

コーヒーサイフォンでの抽出
ロートの上部に灰汁が残る

余計な雑味が入らないように改良を重ねたフィルター部分。その仕組みは‥‥企業秘密です。

喫茶店ブームに乗って広がったコーヒーサイフォン

1970〜80年代にかけて、日本では喫茶店ブームが起こり、一番多い時で18万軒ほどあったそう。

それまでネルドリップが主流だった喫茶店に、コーヒーサイフォンが並ぶようになりました。

コーノ式のコーヒーサイフォン
最盛期、コーノ式コーヒーサイフォンのシェア率は70%だったそう

「ドリップの場合、抽出時にお湯をゆっくり注ぎ続けなければなりません。たとえば、お客さんが4人来て、ブレンド、モカ、ブラジル、コロンビアと別々のコーヒーを注文されると、1杯淹れるのに5分、全員分淹れるのに20分もかかってしまい、同時提供ができません」

そのため、効率を考えてブレンド1種類しか提供しないお店もあったとか。

「サイフォンの場合、器具さえ用意して複数並べておけば、同時に淹れることが可能です。抽出中はフラスコをずっと加熱しているのでドリップよりも熱い温度で仕上がり、カップを温めておかなくても大丈夫です」

サイフォンは味も安定していると言います。

「ドリップで安定した味を出すには、1日100杯淹れる練習をして5年はかかります。そのぐらいやらないとダメ。それでも淹れる人によって味が変わります。

うちのサイフォンだったら、20時間ぐらい学べば安定した味になるし、淹れる人によってのバラつきもありません」

そうした機能性の高さから、コーヒーサイフォンは一気に喫茶店で広まっていきました。

コーヒーを上手に淹れる秘訣

大切なのは道具の使い方だと雅信さんは言います。

珈琲サイフォン株式会社代表の河野雅信さん

「この器具を使うには、どうやったら美味しく淹れられるのか。器具の構造には全て意味があります。

例えば、ドリップの場合、コーヒーの粉さんとお湯さんがお話ししなくちゃいけないんです」

お話しというと?

「時間をかけて淹れる。早く淹れるとお湯がさんが“こんにちは”“さようなら”で通過するだけなんです。それでは、ローストした豆の表面の色が流れ出ただけの黒いお湯になってしまいます」

あ、なるほど!すごくわかりやすい。

コーヒーサイフォン
円すい型のペーパードリッパー「ドリップ名人」。1968年よりドリッパーの開発も続けている

「コーヒーの粒子にお湯さんが遊びに行って、“あんたどうしてたの?元気してる?”みたいな長話をする間がなくちゃいけない。その間にエキスが出るわけだから」

エキスで少し濃くなったお湯さんがまた隣の家へ、そのまた隣の家へ‥‥

「遊びに行ってお煎餅食べたり、ケーキ食べたりしながら落ちてくる必要があるから、ドリップはゆっくり淹れる。それさえわかれば、ものすごく上手に淹れられます」

サイフォンの場合は、途中の攪拌で仲良くさせてあげられるので、安定した味になるのだそう。

3代にわたる開発の歴史。いまだ尽きないコーヒーへの探究心

世界的にも古く、日本では大正時代から続く唯一のコーヒー器具メーカーである珈琲サイフォン株式会社。

コーヒー器具を作って販売するには、焙煎のこと、淹れ方のこともぜんぶ知っていなくてはいけないと、日々研究し、開発を続けています。

珈琲サイフォン株式会社代表の河野雅信さん

「創業90周年(2015年)の時に、新しいドリッパーを作りました。“ペーパーでネルドリップと同じくらいの味わいを出したい”という2代目の想いに、47年かかってようやくたどり着きました」

珈琲サイフォン株式会社のブレンドコーヒー
開発当時の写真はコーヒー豆のパッケージにも使われている。当時の味を再現したブレンドも販売中

「よく、これまで飲んだ中で一番美味しいコーヒーは?って聞かれますが、そんなの無い。だって、満足したらそこで終わっちゃうじゃないですか。

いつも、次は何?もっとないの?という探究心があるから続けられるんです」

珈琲サイフォン株式会社代表の河野雅信さん

数年前から、沖縄でコーヒー農園をはじめた雅信さん。

「去年、収穫できそう!って言ってたら、台風でやられました」

ゆくゆくは、農園のコーヒーで、泡盛メーカーさんと一緒にコーヒー泡盛を作りたいと思っているのだとか。

コーヒーへの飽くなき探究心はまだまだ続きそうです。

取材後、自宅でコーヒーの粉さんとお湯さんのおしゃべりを意識しながら淹れてみたところ、驚くほど味が変わりました。

もちろん、プロの腕前には程遠いですが、ものには理屈があり、道具は正しく使わなくてはいけないのだと実感しました。

受け継いだのは技術だけではなく、「美味しいコーヒーを飲みたい」という熱い想い。

道具に込められた作り手の想いが伝わってきました。

<取材協力>
珈琲サイフォン株式会社
東京都文京区千石 4-29-13
03-3946-5481

文:坂田未希子
写真:中村ナリコ

※こちらは、2019年5月7日の記事を再編集して公開いたしました。

尾道の今はこの人に聞く。“負の遺産”を人気のカフェや宿に再生する「尾道空き家再生プロジェクト」豊田雅子さんが語る町の魅力

尾道といえば‥‥千光寺に尾道ラーメンだけとは限りません。新しくなった尾道駅、長い長い商店街には昔ながらの商店と新店が混在。

例えば、長屋をリノベーションしたゲストハウス「あなごのねどこ」、深夜に開店する古本屋「弐拾dB」。

昭和のアパートを工房やギャラリー、カフェとして再生させた「三軒家アパートメント」、築約100年の古民家を再生した宿「みはらし亭」など、新しいのにどこか懐かしい、ユニークな見所が増えています。

細長い路地の先に辿り着くゲストハウス「あなごのねどこ」。「うなぎの〜」の代わりに地域の名産あなごを名前に掛けている
細長い路地の先に辿り着くゲストハウス「あなごのねどこ」。「うなぎ」の代わりに地域の名産あなごを名前に掛けている
千光寺に向かう石段を300段ほど登った先にあるみはらし亭。眼下には尾道水道と町並みの絶景が広がる
千光寺に向かう石段を300段ほど登った先にあるみはらし亭。眼下には尾道水道と町並みの絶景が広がる

そうしたスポットの多くに共通するのが、現地の空き家や空き店舗を活用していること、移住してきた人が営んでいることです。

尾道に新しい風を起こしてきた立役者を訪ねました。NPO法人尾道空き家再生プロジェクト、通称「空きP」代表の豊田雅子さんです。

豊田さん達が手掛けた最新の再生物件「松翠園大広間」を案内してもらいました。

昭和の意匠を残す旅館の大広間をよみがえらせる

JRの線路を挟んで北の山側に住宅街、海側に商店街が広がる尾道の町。

尾道全景

その日待ち合わせた豊田さんはJR尾道駅北口からすぐ、住宅街の間にある石段を上へ上へとあがっていきます。

住宅街の間にある石段を上へ上へとあがっていく豊田さん

さすが“坂の町”の住人、手慣れたもので、斜面を登る速度も早い。

住宅街の間にある石段を上へ上へとあがっていく豊田さん

息を切らして、たどりついた先は、大きなお屋敷でした。かつて「松翠園」という旅館の離れとして、宴会や冠婚葬祭に利用されていた場所なのだとか。

玄関前には、かつて料理を下の厨房から運んでいた機械が
玄関前には、かつて料理を下の厨房から運んでいた機械が

玄関から渡り廊下を進むと、眼下には尾道駅周辺の町並みが広がり、室内に目を向けると60畳もの大広間が。60センチ四方に区切られた格天井、老松を描いた小上がりの舞台は往時をしのばせ、圧倒的なスケールです。

松翠園内観
松翠園渡り廊下
松翠園大広間

縁側は一枚ものの松の床板でできていて、長さ16メートル。

松翠園 縁側

大広間の舞台対面にある床の間は二間 (約360センチ) の幅があり、松皮菱と瓢箪の透かしが施された凝った意匠。

「ここは戦後間もなく建てられたので築70年余り。手の込んだ造りの建物がずっと放置されていて、欄間などは勝手に外され、売り飛ばされたりして‥‥」

松翠園内観
松翠園内観
松翠園内観

「二度と再現できない貴重な建物も、使わなければ傷んでいくばかりです。

ここは2016年から有志を募って再生作業を続け、2019年10月に完成しました」と豊田さんが建物内部と再生の経緯を説明してくれます。

建物内で説明する豊田さん

25年も放置されていたガウディハウスで見たものは

空きPが手がけた再生物件は、この「松翠園大広間」を含め、18件にのぼります。中でも空きP発足のきっかけとなったのが通称「ガウディハウス」こと、旧和泉家別邸。

ガウディハウス

尾道駅裏の狭い斜面地に建つ、必要以上に装飾が施された、洋風建築に近い和洋折衷型の住宅です。

特異な外観もさることながら、細工や工夫を凝らした内部を初めて目にした豊田さんは、尾道の地域遺産としてここを残さなければ、と直感。

25年間空き家として放置され、部屋の随所に損傷のある建物の再生を決意し、2007年に空きPを立ち上げたのです。

「長く放置するほど手がつけられなくなるんです。だから、早く手をつけ再生していかないと」

斜面にひしめくように建つ住宅の多くは、一度壊すと次に家を建てられないばかりか、人しか通れない細い道では駐車場にもできない。

畑か花壇にするしか使い道がなく、解体にも費用がかかるため、地元の不動産業者からも「負の遺産」として敬遠されるそう。

骨組みだけ残された建物を見かけることも
骨組みだけ残された建物を見かけることも

ガウディハウスの再生に着手後、「待ってました」とばかりに空きPに相談が相次ぎ、その数100件近くにのぼりました。

空き家を持て余している持ち主がいる反面、住まいを探す移住者もいたのです。

「持ち主と移住者、双方のニーズはあるのに、それが情報化されてないことを目の当たりにしました」

豊田さん自身も2000年に尾道に帰郷した際には家探しに苦労し、自力で空き家を再生した経験がありました。

空き家は負の遺産?それとも宝の山?

車も入れず下水工事もままならない斜面では、トイレは汲み取り式のままの古い住宅群。

しかし、斜面の限られた土地に建てられた住宅や別荘は、戦災や大きな災害を受けず現存し、人の知恵と工夫、職人の技術を今に伝え、坂の町ならではの景観をつくりだしているのも事実。

豊田さん
窓の下をゆっくりと船が通る
窓の下をゆっくりと船が通る
一歩足を踏み入れると、わざわざ寄り道したくなる道がたくさん
一歩足を踏み入れると、わざわざ寄り道したくなる道がたくさん
ハッとするような瞬間に出会えることも
ハッとするような瞬間に出会えることも

負の遺産と言われる空き家も、見方を変えれば、尾道を特徴づける宝の山。再生して息を吹き返せば、町の財産となります。

「不便さを人の知恵と助け合いで乗り越えてきたのが尾道のスタイルだと思うんですよね」と豊田さん。

豊田さん

不便でも災害時には強い。

2018年の西日本豪雨で尾道が2週間の断水に見舞われた際も、汲み取り式のトイレは通常通り使え、町中に400か所ある井戸から給水もできたことから、ライフラインの全面ストップという事態を免れ、避難所へ行かずともなんとか自宅で生活できたのです。

蛇口

空き家も増えるが、広島県内外からの移住者も

結成して13年目を迎える空き家再生プロジェクト。活動当初、2日に1人のペースだった空き家バンクの登録者も、今ではひと月に10人程度に落ち着きました。

それでも現在、空き家の登録は140軒、利用登録は1000人を超えます。

後継者がいなかったり、入居者が移転したりで、10年もするとまた新たな空き家が発生する一方で、広島県内外からの移住者は年々増えており、ひと月に10組の相談があることも。市内2キロ圏内のエリアで、1年に15人が出生した年もあるそう。

30代の家族連れを中心とする若い移住者が店舗や飲食店を始めると、訪れる人も自然と若い層が増え、観光客もバス旅行の団体客から電車で移動する個人客へと変化。

年齢層も若返ってきているのを感じると豊田さん。

休日には人気店に列ができることも
休日には人気店に列ができることも

1回きりで終わる観光地ではなく、リピートして訪れ、町に馴染み、そぞろ歩きを楽しめる場所へと変わってきたということでもあります。

大型のショッピングモールやテーマパークを目的とする米国型の旅行先には、地形的にも向かない尾道。

すり鉢状の地形でコンパクトな市街は、商店街やマルシェを楽しむヨーロッパ型の旅行に向く地と、添乗員として海外の観光地を見てきた豊田さんは分析します。

「土地が狭いので大型店が建ちにくく、開港850年の歴史のある港町の尾道は、人の気質がオープンで排他的でない分、地産地消で地元の人や物に還元して、皆で町を良くしていこう、良くなっていこうという意識が強いんです」

豊田さん

「だから、一人勝ちとか、自分さえ儲かればよいという商売をしていると、はやらない。

商店街には創業100年を超える商店が30軒以上もあり、伝統とプライドを守り、地元意識も強いです」

豊田さん

「人のつながりを大切にしている土地柄だから、老舗と新店が混在し、新旧世代が入り混じっているところが尾道らしさなのかも」

生活者として尾道に根を下ろすために

空きP発足当初は、手弁当の有志やボランティアの力で手掛けてきた空き家再生も、工期が長期に及ぶ物件を扱うようになるとまとまった資金も必要となります。人材を雇用し、法人として組織を整え、活動内容も年々充実してきました。

「ただ、初期からかかわってくれているコアメンバーは変わってません。学生で参加していたスタッフが社会人になり、結婚し、子どもが生まれ家庭を持つようになる。

そうやって、スタッフも尾道で暮らし、仕事をし、生活者として町に根を下ろしながら活動を続けています」

豊田さん自身も双子のお子さんを育てながら、空きPの運営を続けてきました。

移住してきた若い世代の人たちから尾道生まれの子が育ち、やがて大人になって尾道を離れることがあっても、また帰ってきて暮らしたいと思える町であるように。

そうして、尾道に戻ってきた人たちがきちんと生計が立てられる環境をつくっていきたい、と豊田さんは言います。

豊田さん

家業を継ぐにせよ、新たに起業、開業するにせよ、個人商店が成り立つ町でありたい。そのためにもこの先10年は、教育に力を入れていきたいそう。

「10年間、尾道の環境、建造物、文化をより深く知るために合宿であったり、町歩きやトークイベントを実施してきました」

プロジェクト参加を呼びかけるチラシ
プロジェクト参加を呼びかけるチラシが貼られていました

「空き家再生の取り組みを通じて再生の仕組みづくりができた今、そういった教育活動を本格化していきたいです。

尾道市立大学など地元の教育機関と連携しながら、尾道の環境デザインを研究し、相談できる組織作りが必要と感じています」

豊田さん

もっと広く、総合的な視点で尾道を捉え、20代、30代という若い世代の尾道の担い手を育てていかなければ、という豊田さんの思いがそこにはあります。

道に迷って、地図を広げた途端に‥‥

最後に、尾道を知り尽くした豊田さんに、尾道ビギナーにおすすめの楽しみ方を尋ねました。

曰く「点の魅力が多いのが尾道。個々が生きているから多様性があり、何回来ても楽しめると思います。移住者も旅で訪れ、やがて好きになって、住むようになったという人は多いです。

路地や坂道がいたるところにあるので、迷子になりながぶらぶら歩いて、そこに暮らす人たちの生活に触れてほしいですね」

変化に富む坂道。迷い込むように景色との出会いを楽しめる
変化に富む坂道。迷い込むように景色との出会いを楽しめる
豊田さん

「道に迷って地図を広げた途端、地元の人が声をかけてくる土地柄です。老若男女ともひとなつっこくて、誰とでも世間話が始まりますから。

お店も小さいところが多いから、知らない人同士でもすぐに仲良くなってしまうほど、人との距離感が近いんです。

旅人として訪れても、一歩踏み込んでいくとディープな世界が広がるので、面白がりながら楽しんでほしいですね」

尾道

よそ行きでなく普段着感覚で、ふらりと迷子になりに出かけてみてはいかがでしょう。

<取材協力>
NPO法人尾道空き家再生プロジェクト
尾道市三軒家町3-23
http://www.onomichisaisei.com/

文:神垣あゆみ
写真:尾道空き家再生プロジェクト、尾島可奈子、福角智江