琉球ガラスの魅力をさぐる旅。沖縄最古の工房で知った美しい色の秘密

戦後の資源不足から生まれた、沖縄の琉球ガラス

沖縄を代表する工芸品のひとつ、琉球ガラス。落ち着いた色合いや、時折ガラスの中に見える涼しげな気泡が魅力です。

涼しげな気泡や、独特の色合いで、光を柔らかく反射する琉球ガラス
涼しげな気泡や、独特の色合いで、光を柔らかく反射する琉球ガラス

実はこの琉球ガラス、廃瓶などの再生ガラスを使って作られているのです。

琉球でのガラス製造は明治時代に始まっていましたが、原料の枯渇や戦争の影響で、戦前のガラス工房は全てなくなってしまいました。現在残っている琉球ガラスは、第二次大戦後に発展したものです。

再生ガラスを使う製法は、戦後の資源不足から生まれたやり方でした。最初こそ必要に迫られて始まった琉球ガラスですが、沖縄の人々はそこに独特の美しさを見出し、この素材だからこそ生まれるものづくりへと発展させてきたのです。

光にあたるとその美しさが一層引き立ちます
光にあたるとその美しさが一層引き立ちます

現在では、廃瓶の減少や製造時の扱いが難しいことから作り手は減ってしまいましたが、独特な色や気泡の魅力をもつ琉球ガラスには、県外にも多くのファンがいます。

沖縄最古の工房を訪ねる。窓からできる琉球ガラス

今もなお、昔ながらの原料で琉球ガラスを作り続ける最古の工房、奥原硝子製造所を訪ねました。

昭和27年創業の奥原硝子製造所。現在は、琉球伝統文化を伝える施設「てんぶす那覇」の2階に工房を構えています
昭和27年創業の奥原硝子製造所。現在は、琉球伝統文化を伝える施設「てんぶす那覇」の2階に工房を構えています
工場長の上里幸春さん
工場長の上里幸春さん

奥原硝子製造所の代表的な琉球ガラスの色は「ライトラムネ色」と呼ばれる淡いブルーグリーン。

琉球硝子

さて、この色は何から生まれているでしょう?

答えは、窓ガラス。

「一見透明に見える窓ガラスですが、実は薄く色が付いています。私たちの工房では、窓ガラスを作った時に出る切れ端を主な原料として使っています。廃瓶などの素材もそうですが、砕いて、溶かして成形すると独特の美しい色が生まれます」と上里さん。

溶かすために砕いたガラス片。断面を見てみると、ほのかに色がついていることに気づきます
溶かすために砕いたガラス片。断面を見てみると、ほのかに色がついていることに気づきます

「窓ガラスをベースに、他の廃瓶などと重ね合わせてグラデーションをかけることもあります。稀にコバルトを使ってブルーを出すことはありますが、基本的に新たな着色はしません。再生ガラスが持つ、霞みがかっているような淡い透明感を生かして作ることにしています」

こちらは茶色い一升瓶と窓ガラスを原料として作られたグラス。懐かしさを感じる柔らかな黄色が印象的です
こちらは茶色い一升瓶と窓ガラスを原料として作られたグラス。懐かしさを感じる柔らかな黄色が印象的です
そのほかにも、工房には様々な色の再生ガラスが置かれていました
そのほかにも、工房には様々な色の再生ガラスが置かれていました
バヤリースの瓶。一見透明ですが、こちらも独特の雰囲気を生むそうです
バヤリースの瓶。一見透明ですが、こちらも独特の雰囲気を生むそうです

残す美しさ。琉球ガラスに込められた気泡の魅力

通常のガラス成形では気泡が入ると失敗とされます。しかし、再生ガラスを使うと気泡が生まれやすく、完全になくすのは困難なこと。ならば、この気泡も美しさとして生かしていこうと、細かな泡をあえて残すようになったそうです。

剣山などの針を使ってガラスの表面に窪みをつけ、その上にさらにガラスを巻きつけることで意図的に気泡を作ることもあるのだとか。

模様のように入った細かな気泡がキラキラと反射して涼を誘います
模様のように入った細かな気泡がキラキラと反射して涼を誘います

丈夫さと安定感。使うことを意識した琉球ガラス

戦後のアメリカ統治時代、工房には駐在するアメリカ兵からたくさんの注文が舞い込みました。西洋のライフスタイルの中で使われる様々なガラス製品を作ることで、奥原硝子製造所の製品バリエーションは増え、形も洗練されていきます。

溶かしたガラスを竿の先にからめて、空気を吹き込んで成形していきます
溶かしたガラスを竿の先にからめて、空気を吹き込んで成形していきます
再生ガラスは、冷めて硬くなるのが早いのだそう。時に二人掛かりで素早く形を整えていきます
再生ガラスは、冷めて硬くなるのが早いのだそう。時に二人掛かりで素早く形を整えていきます

ぽってりとした安定感とほどよい厚みのある器は、壊れにくく扱いやすいため、飲食店も信頼を寄せています。季節を問わず使える色合いとそのフォルムも魅力ですね。

ガラスのサイズを測る道具
ガラスのサイズを測る道具
日々の食卓で使われる器。「見本と同じ形、サイズで均質に作ることを大切にしている」と上里さん。ガラスが冷めた後の伸縮率を考えながら大きさを整えます
日々の食卓で使われる器。「見本と同じ形、サイズで均質に作ることを大切にしている」と上里さん。ガラスが冷めた後の伸縮率を考えながら大きさを整えます

そんな「使える器」を作り続けてきた奥原硝子製造所。上里さんに、おすすめの使い方を伺うと、「しっかりした器なのでアウトドアにも持って行ってほしいなと思っています」という答えが返ってきました。

光に照らされることで色が映える琉球ガラス。たしかに太陽との相性抜群です。しっかりとしていて壊れにくいからこそ、キャンプでサラダやフルーツを盛り付けたり、冷たい飲み物を注いだり、開放的な場所で使ってみたくなりました。

琉球ガラスのお皿とグラス

<取材協力>

奥原硝子製造所

沖縄県那覇市牧志3丁目2-10 てんぶす那覇2F

098-832-4346

文:小俣荘子

写真:武安弘毅

※こちらは、2018年6月9日の記事を再編集して公開しました。

きっと好きなものに出会える。郷土玩具の聖地、京都「平田」の不思議な世界

そうだ 京都、行こう。

京都と聞くと一度は頭をよぎるこの言葉。JR東海がキャンペーンで使用しているキャッチコピーで、最初に使われたのは1993年のこと。

この短いフレーズを聞くだけでなぜだかワクワクしてしまうのは、とにかく京都に行けばなにか特別な、“ならでは”の魅力が体験できると期待してしまうから。

そんな期待感を持てる場所だからこそ、このコピーが長年使われ、定着しているのだろうなと思います。

歴史ある神社・仏閣、美しい日本庭園、京町家の風情ある町並みなど、京都“ならでは”の魅力は数多くありますが、今回紹介したいのは、京都だけでなく全国の“ならでは”を感じることができる不思議なお店です。

郷土玩具マニアの聖地「郷土玩具 平田」

その土地“ならでは”の文化や風習を理解するために、ヒントとなるのが古くから日本各地で作られてきた手仕事の品々。

中でも、機能性を必要としないが故に、作り手の個性やその地域の風土が色濃く反映されている工芸品が、郷土玩具です。

郷土玩具
郷土玩具

一部の郷土玩具は今、テレビや雑誌などメディア露出の影響もあって、じわじわとブームになってきています。しかし全国にはまだまだ日の目を浴びていない郷土玩具が無数にあり、その多様性にはおどろかされるばかり。

そんな知られざる郷土玩具の魅力を存分に味わうことができ、全国から愛好家が集まるお店が、京都駅の南、五重塔で有名な東寺のすぐそばにある「郷土玩具 平田」。

郷土玩具 平田
「郷土玩具 平田」。通りから見える不思議な人形にふと足を止める人も多い

京都の伏見人形だけでなく全国各地の郷土玩具が所せましと並ぶ店内で、店主の平田恵子さんに、お店の成り立ちや郷土玩具の魅力について伺いました。

郷土玩具 平田

郷土玩具のスーパーコレクターだった先代

「実は、私の祖父母の代までは『平田陶器店』という屋号で家庭用の雑貨なんかを売るお店をやっていました。郷土玩具が大好きだったのは私の父で、祖父母のお店の片隅に、自分のコレクションを飾ったのがスタートだったみたいです」

郷土玩具 平田
スタッフの女性と二人、お店を切り盛りする平田恵子さん

業界誌に寄稿を重ねるなど、郷土玩具愛好家として有名だったという恵子さんのお父さん、平田嘉一さん。その趣味が高じて50代で勤めていた会社を辞め、各地の工房を訪ねては本格的に商品の買い付けを開始します。

その後、平田陶器店を継いだ嘉一さんは、だんだんと郷土玩具のスペースを拡大していき、ついには屋号も「郷土玩具 平田」に変更。全国の郷土玩具を扱う専門店となりました。

「初めはいきなり工房を訪ねても売ってはもらえず、何度も諦めずに訪問することもあったそうです。仕入れたものは壊れるのが嫌で、すべて手持ちで運んできたと聞いています」

郷土玩具 平田
郷土玩具 平田

そうして少しずつ各地の工房、職人さんと信頼関係を築きながら、お店を続けること40年以上。全国でも有数のコレクションが揃った、知る人ぞ知る郷土玩具の名店を作り上げました。

「とにかく郷土玩具が好きで、いつ見ても何かしらの人形を触っていたのを覚えています。知識も豊富で、はるばる全国からお店に来られて、『この人形は何時代の誰の作ですか?』と父に鑑定を依頼する人もいらっしゃいました」

郷土玩具

全国でも指折りのコレクターであり、その人柄にファンも多かった嘉一さんですが、2017年に92歳で亡くなってしまいます。大往生と言っていい年齢とはいえ、亡くなる直前までは元気にお店に立っていたこともあって、もう少し先の話だろうと考えていた恵子さん。

突然の別れに、きちんと引き継ぎができなかったことを悔やんだそう。

「父が突然亡くなってしまって、値段のことや作り手さんとのやり取りなど、わからないことが多く本当に苦労しました。最初にお店に入って、この商品の山を見た時は『どうしよー、なんもわからへん!』って。本当は、2、3年かけて知識を受け継いでいこうと思っていたので」

郷土玩具 平田

先代の残した資料を元に棚卸しを決行

それでも、このコレクションを埋もれさせるわけにはいかないと、店の継続を決意。先代からの常連客で、郷土玩具愛好家でもあった女性をスタッフに迎えて二人で店の運営を開始します。まずは商品をひとつひとつ確認していきました。

「引き継ぎはできなかったんですが、ほとんどの商品について父が一点ずつ写真を撮ってくれていて、商品名や作家名とともに控えてくれていたので、ある程度のことはわかりました」

郷土玩具 平田
先代が残してくれた資料が、店のいたるところに
郷土玩具平田

嘉一さんが残した資料を紐解きながら確認を進め、棚卸しが完了した商品については、同じ種類のものが2つ以上あれば値段をつけて販売することにしました。

「父は、自分の娘のように郷土玩具を愛した人で、『嫁入りさすし、大事にしてや』が販売する時の口癖でした。その想いに応える意味でも、商品を気に入っていただいて、きちんと大切に飾ってくれる人にだけお譲りするという方針でやっています」

ごくまれに、古い郷土玩具を骨董品と考えて大量に購入しようとする方もいたそうで、そういった場合にはきっぱりとお断りしてきたそうです。

一代前の作品が揃った唯一無二の店

現在、先代の残した膨大なコレクションの整理で手一杯なこともあり、新規の郷土玩具の仕入れは行なっていないとのこと。

その代わり、一代前やもっと古い時代の全国の作品が揃っています。

郷土玩具 平田
郷土玩具 平田

「たとえば、テレビで紹介された最近の作家さんの作品をみて来店される方もいらっしゃるのですが、そういったものは置いていないんです。その代わり、その作家のお父さんの人形ならあったりするので、こんなのがありますよ?と薦めてみたりして。中にはそこから深く興味を持ってくれる人もいらっしゃいます」

人の手で作られる郷土玩具は、同じ作り手でも一体ずつ微妙に表情が違ってそこが面白いのですが、世代が変わると雰囲気がさらにがらっと変わります。

同じ型を使って代々作られている人形を、時代ごとに見比べて違いを楽しみ、自分の好みを見つけていく。そんな経験はこの店ならではのものです。

郷土玩具
郷土玩具

作り手が亡くなってもう一点しか残っていないものや、歴史的価値の高いものについては、「非売品」として店頭に並んでいます。

「これは売っても大丈夫なものなのか、判断が難しいものは専門家の詳しい方にアドバイスをいただきながら整理しているところです。

博物館に寄贈してもいいようなものもあるんですが、それよりも店内で見ていただきたい。売れるものについては好きな方の手元に渡って欲しいと考えています」

非売品のものも含めて、全国津々浦々から集まった郷土玩具たちは眺めているだけで楽しく、それぞれについてエピソードや由来を聞いて話しているとあっという間に時間が経過します。

「なにか絶対買う必要はなくて、来て、見てもらって、『ここにこんなものがある。うわー』という風になって癒されたり、面白がったりしてくれるといいかなと思いますね」

郷土玩具

郷土玩具文化のハブとして

山形の相良人形など、代々続いている工房の作品については、今の作り手に直接聞くこともあるそう。

「今8代目を継がれている相良隆馬さんとは、直接お会いしたことはまだないんですが、SNSを通じて交流があって、よく質問をさせてもらっています。

この人形は何代目の作かわかりますか?と写真を送ると、『それは初代ですね、そっちは2代目の作です』と即答してくれて、すごいなと。

これも私の父が隆馬さんのお父さんとお付き合いさせていただいていたご縁があるからこそ。その工房の人にしか分からないことを聞けるので本当に助かっています」

郷土玩具

また、お店に来た愛好家の方が、購入した郷土玩具について色々と調べて連絡をくれることも。

「私たちもまだまだ調べきれていないことだらけなので、興味を持ってくれたお客さんに、『詳しいことはぜひ調べて、また教えてください』とお願いしてみたり、みんなで知恵を出し合っている感覚です」

郷土玩具

「最近は、テレビや雑誌の影響で興味を持ってくれる方もいますし、郷土玩具への入り口が増えているとは感じています。

やっぱり日本の文化というか、その土地の物語を伝えるものでもあるので、なくなっていくのは寂しいし、若い人にももっと広まってほしいですね」

きっかけはなんであれ、一度興味を持つと次から次へと気になることが出てくるのが郷土玩具の面白いところ。

「猫が好き」「見た目がかわいい」「自分の干支が気になる」といったシンプルな理由で目に留まったり、「地元にもこんな郷土玩具があったんだ」「同じ土人形でもこんなに種類があるのか」という風に驚きがあったり。

もしくは「昔おじいちゃんの家にあった気がする」と懐かしい気持ちになったり。

好きになる理由、欲しくなる理由が色々なところから見つかるのも、郷土玩具の特徴です。

郷土玩具
郷土玩具

研究者、作り手やその後継者、愛好家など、郷土玩具を好きな人たちが互いに情報や魅力に思う部分を持ちよって、新たに文化が作られていく。その中心地、ハブとして、「郷土玩具 平田」はこれからも愛される場所であり続けてほしい。

今は廃絶してしまった郷土玩具も、この場所で残っていくことで、いつか誰かが復活させるときの大きなヒントにもなる。そんなことも期待してしまいます。

「新旧問わず郷土玩具というものに興味を持つ人が増えてくれれば嬉しいです。もともと、それぞれ土地の土を使って作られた、ふるさとのものだし。ずっと栄えてもらいたいと思います」

お店を継ぐまで、こんな風に考えたことはなかったという恵子さん。土地に根ざし、多様性を持って今まで作られてきている各地の郷土玩具たちには、人の琴線に触れる不思議な魅力があるのだなと、改めて感じました。

郷土玩具 平田

<取材協力>
郷土玩具 平田
〒601-8428 京都府京都市南区南区東寺東門前町89
電話:075-681-5896
https://www.kyodogangu-hirata.com/

文:白石 雄太
写真:直江泰治

青森県立美術館はコレクション展が面白い!北国から考える「美しさ」とは

青森に来たら、必ず立ち寄りたい場所があります。

奈良美智さんの「あおもり犬」でもおなじみの青森県立美術館です。

隣接する「三内丸山 (さんないまるやま) 縄文遺跡」の発掘現場に着想を得て設計されたという真っ白な建物。

青森県立美術館

「青森県の芸術風土を世界に向けて発信する」場として、2006年7月に開館しました。

実は奈良美智さんだけでなく、あの世界に誇る版画家や、日本を代表する詩人、あの人気特撮ヒーローを手がけたデザイナーも青森県出身。

彼らに共通する「青森の芸術風土」とは、一体どんなものなのでしょう。

青森県立美術館の池田亨さんに、館内を案内いただきながら、青森が生んだ「美」の数々とその楽しみ方について教えてもらいました。

デザインに落とし込まれた青森らしさ

青森県立美術館は、「地域と風土に密着した芸術を重視するとともに、豊かな感性を養い、未来の創造に資することのできるような美術資料の収集を行う」という理念のもと、作品をコレクションしています。

「青森のものづくりには、デザイン性と郷土性の両方が感じられます。

美術館としても、青森らしさと同時に、建築やヴィジュアル・アイデンティティ (VI) などデザイン面も重視しています」

ということで、まずは空間の中の「らしさ」に注目してみましょう。

真っ白な建物の設計は建築家の青木淳さん。シンボルマーク、ロゴタイプなど総合的なビジュアルイメージを設計するヴィジュアル・アイデンティティ (VI) は、アートディレクター・グラフィックデザイナーの菊地敦己さんが手がけています。

「VIを作る際、『青森らしさ』を象徴する基本色を3つに決めました。

隣に三内丸山縄文遺跡があることや土の展示室があることから、『茶』。

青森の『青』。そして、雪のイメージの『白』です」

美術館では、基本的にその3色が使われているといいます。

スタッフさんの制服は「ミナ ペルホネン」。基本色である茶色と青をベースに、ちょうちょやタンバリンが刺繍されています。

青森県立美術館
バックヤードには制服がずらり
青森県立美術館の制服

白い建物の入口には、何やら木のような形の青いネオン管が壁面に‥‥。

青森県立美術館
青森県立美術館

これは青森を連想させる文字「木」と「A」をモチーフに、「青い木が集まって森になる」様を表現したというシンボルマークなのだそう。まさに青い森、青森なのです。

さらに、美術館のバックヤードも特別に見せてもらうと、とても素敵な空間でした。

青森県立美術館
廊下には茶色いランプ。青森の木工ブランド「BUNACO (ブナコ) 」のものです
青森県立美術館
一般の人の目には触れないオフィス棟のサインもしっかりデザインされています

キーワードは「総合芸術」

こうしたデザインにも力を入れるのは、美術館が「総合芸術パーク」という構想のもとに作られたから。

いわゆる美術やアートだけでなく、音楽や演劇、デザイン、こぎん刺しなど地域の工芸も含めて幅広く「総合芸術」として扱っています。

美術館の中心部の大きなホールには、そのことを象徴するかのように、マルク・シャガールが手がけた舞台美術、バレエ「アレコ」のための背景画が展示されていました。

「そもそも、美術やアートと工芸や民藝との間にあまり垣根がなく、シームレスに繋がっているような感覚があります。

たとえば、青森には『ねぷた』がありますが、ねぷたの技法を現代アーティストが使っていたり、逆にねぷたの作り手が他の技術からインスピレーションを得たりと、そこに垣根はあまりないんです。

芸術的なものと土着的・民族的なものとの間に色々なものが生まれているような感じですね」

「北国らしいデザインとは?」を考えるコレクション展

池田さんの言葉のように、こちらは現代アート、そちらは工芸、と分断せずつながりで見ていくと、青森の「美」は面白いようです。

それがよくわかるのが、年に数回テーマを変えて所蔵品を展示するコレクション展。

現在開催中の「デザインあれこれ」展 (7月7日まで) では、デザインという切り口で、青森にゆかりある郷土作家の作品を中心に様々なものを展示しています。

これはフィンランドの建築家・デザイナーのアルヴァ・アアルト展 (6月23日まで) との同時開催。「北国らしいデザインとは?」という視点で一緒に企画したそうです。

青森県立美術館

タイトルの下に連ねられた作家たちの中でも、やはり青森の美術を語るうえで欠かせないのが棟方志功です。

展示室の一角には、棟方が手がけた各地の和菓子屋や焼き物窯などのパッケージデザインがずらりと並んでいました。

青森県立美術館
こちらは青森市・浅虫温泉にある棟方ゆかりの老舗旅館「椿館」の紙袋と包装紙
青森県立美術館
青森県内だけでなく、東京や大阪、沖縄など各地のお店にわたることからも、棟方の人気ぶりがうかがえます
青森県立美術館

棟方は、出世作ともなった「大和し美 (うるわ) し」が民藝運動を担う濱田庄司や柳宗悦らに注目されたことをきっかけに、民藝の作家らとの交流を深め、多大な影響を受けたといいます。

「青森では棟方をはじめ、版画がもともとすごく盛んなんです。そういう棟方の作品の奥にある土着性も、民藝運動の人たちの心に訴えかけるものがあったのかもしれません」

同じ青森出身でも、民藝を感じさせる棟方志功の展示があったと思えば、初期ウルトラシリーズのデザインを担当した成田亨のデザイン原画や彫刻、寺山修司主宰の劇団「天井棧敷」のポスターなども並び、やはり収集されているコレクションの幅広さを感じます。

青森県立美術館
横尾忠則や宇野亞喜良らがデザインした「天井棧敷」のポスター
青森県立美術館
ガラス作家、石井康治さんの作品。北国の四季を彩り豊かに表現

こうした展示が可能なのも、青森県立美術館が「総合芸術パーク」を掲げているからなのでしょう。

北欧と青森を結ぶ、北国ならではの「やさしさ」

そんなコレクション展の中でも、工芸好き、プロダクト好きの心をグッとつかむのが「BUNACO (ブナコ) 」の展示でした。

青森県立美術館

BUNACOとは、ブナの木をテープ状にしたものを巻き重ねて作った青森の木工品。日本一の蓄積量を誇る青森のブナの木を有効利用するために考え出されたものです。ティッシュボックスやスピーカー、食器などがあります。

収蔵品ではないものの、アアルト展に合わせ、青森ならではの工芸デザインとして展示しているのだそうです。

「アアルトの椅子も薄く削いだ材料を重ねて成形合板のようにして作られていたりと、製法にも似たところがありますし、フィンランドと青森という、同じ北国ならではの『やさしさ』みたいなものがあると思うんです。

人間の暮らしを取り巻く光や、音を大事にする感覚。人に寄り添うような工芸デザインの在り方。どちらも北国らしい共通点です。

アアルトがフィンランドを代表するデザインなのだとしたら、青森にはBUNACOがある、と紹介したいんですよね」

青森県立美術館
こちらはスピーカー。スピーカーには見えないほど、スタイリッシュです
青森県立美術館
割れや歪みが少なく、従来の木工品と比較して造形の自由度が高いのも特長。ランプシェードも様々な形があります

デザインは生活の中から生まれる

青森県立美術館では過去に、青森らしい工芸デザインとしてこぎん刺しや、民藝的な視点で蓑などの民具を展示したこともあるとのこと。

それらに共通する「青森らしさ」とは、どんなところにあるのでしょう?

「一つは、やっぱり、生活の中から生まれたデザインというところ。防寒から始まったこぎん刺しに代表されるように、その土地の人々の暮らしから生まれたものが、一番多いんじゃないでしょうか。

それと、長く寒い冬を過ごす北国ならではの、根気のいる手わざみたいなものは、共通点としてあるんじゃないのかなと思います。何度も版を重ねてつくる版画も、まさにそうですよね」

冬の厳しさが生む青森の「美」。

表現の形は様々あれど、そこには、どこか人に寄り添う「やさしさ」や「ぬくもり」を感じられそうです。

そんな「青森」を見つけに、青森県立美術館に足を運んでみてはいかがでしょうか。

<取材協力>

青森県立美術館

青森県青森市安田字近野185

http://www.aomori-museum.jp

文:岩本恵美

写真:船橋陽馬

山中漆器の「加飾挽き」が凄い! 1mmのズレも許されない職人技に見惚れる

山中温泉の温泉街から加賀温泉駅方面に下がった場所にある、上原漆器団地。多くの木地屋、塗師屋、蒔絵屋などの工房が並ぶこの地に、『我戸幹男商店』の本社があります。

直営店は2017年11月、ゆげ街道にオープンしましたが、こちらは事務所兼ショールーム。

我戸幹男商店
我戸幹男商店

『我戸幹男商店』はグッドデザイン賞やドイツ連邦デザイン賞銀賞などを受賞している漆器のプロデュース会社です。もともとはお盆や茶托を扱っていたという我戸幹男商店、なぜ数々の賞を獲得するまでに至ったのか。

社長の我戸正幸さんに、お話を伺いました。

“木地の山中”を背負う者として。

『我戸幹男商店』は、1908年(明治41年)に我戸木工所として創業。現在は漆器の企画から販売までを行うプロデュース業ですが、はじまりは木地屋でした。

木地屋とは、漆器の分業の一つ。漆器は木地屋・下地屋・塗師屋・蒔絵屋などといった職人による分業によって構成され、とりわけ山中漆器は木地屋が多い産地です。

荒挽きの状態で入ってきた木地を、さらに挽く(削る)のが木地師。

正幸さんは1975年に山中で生まれ、「子供の頃から、漆器の仕事以外に選択肢はなかった」と話します。20歳で上京し、8年ほど漆器問屋に勤め、都内のデパートに商品を卸す仕事などに従事。2004年、山中に帰省し、家業を継ぎました。

我戸幹男商店

ところがその頃はバブル崩壊後の不景気真っ只中。中国や東南アジアからの安価な製品に押され、自社の売上も最盛期の半分ほどに落ち込みます。新たな展望も見出せず「毎日、会社へ行って何もしない日々が続いた」と振り返ります。

「山中漆器を現代の価値観にも合うようにリブランドさせるには何をしたらいいか」を突き詰めて考え、行き着いたのは「山中漆器の強みを生かし、ユーザーを感動させる商品づくり」でした。

山中にしかできないことがある。

山中漆器の特徴的な技法に「縦木取り」「加飾挽き」「うすびき」があります。

縦木取りとは木を輪切りにして木材を取ることで、横木取りに比べると木地が丈夫で硬く、歪みが出にくいとされています。(詳しくはコチラの記事を参照)

またこの硬質な木地を生かして、カンナや小刀で並行筋や渦螺旋筋の繊細な模様を装飾するのが「加飾挽き」。職人によって道具も技法も違うので、腕の見せどころでもあります。

近年の加飾挽きの名工、築城良太郎の作品。渦状の「稲穂筋」が施されている

そして拭き漆は、美しい木目を生かすため、漆を塗っては拭き取る作業を繰り返して仕上げる技法です。

平田秋平氏の遊環香合。つややかな拭き漆が見事。

こうした他の産地にはない特性を生かし、かつ、先代とは違うやり方で、次の世代にも受け継がれる伝統工芸を──。

10年先も美しいもの、売れるものを。

そう模索し、正幸さんの掲げたテーマは「不易流行の漆器づくり」。一時的に売れるものは伝統工芸ではない。10年先も価値が変わらない、シンプルで美しいものを作る。それが我戸幹男商店の方向性である。正幸さんは舵を切り始めました。

2007年、正幸さんはある展示会に周囲が驚くような漆器を出品します。それが「うすびき」シリーズ。硬質で変形が少ない山中漆器の特徴を生かし、まるで紙のように極限まで薄く挽いたカップやボウルです。

さらに、その一部に本来はプラスチック素材などの塗装に用いられる「ウレタン塗装」を施すことで、落ち着いた色合いと耐久性を併せ持つ作品に仕上げました。

「この作品を出そうとした時は、社内でも『こんな薄い皿、絶対に割れる。クレームになるのが目に見えている』と反対されました」

しかし、他の地域にはない山中の独自技術をアピールした商品は予想外に売れ、我戸幹男商店の名を一気に業界へ印象付けました。そこから、国内外の有名デザイナーが「商品デザインをしたい」と名乗りを上げてきたそうです。

次に打ち出したのは、デザイナーとのコラボ商品で、加飾挽きの「千筋」と呼ばれる細い溝を表面に施した茶筒「KARMI(かるみ)」シリーズ。山中にも逗留した松尾芭蕉の俳句理念「軽み」を形にした、削ぎ落とされたシルエットの商品です。

この「KARMI」は山中漆器の技術力を世界に知らせることとなり、その後2010年にグッドデザイン・ものづくりデザイン賞、2012年には国際的に権威のあるドイツ連邦デザイン賞銀賞などに輝きました。

以降も、一汁三菜のための椀や皿が一つの中に収まる「TSUMUGI(つむぎ)」や、か弱げな様、儚げな様という意味を持つオブジェのような椀のシリーズ「AEKA(あえか)」など、デザイナーと協働した20以上のシリーズを発表。

「KISEN」シリーズの茶筒は、「共木付薬籠構造」という独特な構造になっている
蓋と入れ物が重なる部分を後から作り付け、木目のズレを極力なくした。

性能のいい国産車じゃない。デザインの優れた外国車を作りたかった。

中でも我戸幹男商店のポテンシャルの高さを世に知らしめる商品は「TOHKA(とうか)」でしょう。今にも折れそうなほど細くはかないフォルムの脚に、天面が薄くカーブを描くワイングラス。漆器の可能性を証明した一品です。

我戸幹男商店

「ただ、これはワインを飲んでもらうために作ったんじゃないんです」と正幸さん。

「これで飲むから美味しくなるとか、香りが増すとか、そういった性能は求めなくて良いんじゃないかと。むしろこれをお寿司屋さんで使って日本酒を飲んだりすると、飲み物に“美しさ”という価値が加わり、より食空間が上質なものに感じられる。

今の日本は何にでも合理性や利便性を求めすぎると思うんです。ある意味そこは伝統工芸に求めてはいけない部分なんです。工芸はアートピースという側面もある。クルマでいえば、外車のような存在です。デザインは優れているけど、ちょっと使い勝手が悪かったりもする。僕は、性能のいい国産車ではなく、人の感性をくすぐるような外国車を作りたいんです」

ただデザインが美しいだけではありません。我戸幹男商店の商品は木地師の揺るぎない技術によって成り立っています。先ほどから出てきている「加飾挽き」は、山中でもできる木地師がかなり減ってきているとか。

正幸さんは、その木地師の存在をとても大切にし、彼らの仕事が前に出る商品づくりを行っています。

「加飾挽きの技を、実際に見てみますか?」と正幸さん。古くから信頼している木地屋の工房に案内してくれました。

加飾挽きの職人技を間近に!

やって来たのは『久津見木工』。製材屋から来た木材を器の形に挽く(削る)ほか、山中では数少なくなった加飾挽きができる貴重な工房です。

久津見さんは職人歴約30年。工房の歴史は父である先代から続き、70年ほど。

一見、気難しそうな久津見洋一さんですが、お名前を聞くと「反町隆史です」と冗談を言って笑わせてくれました。「僕も最初怖かったんですよ。でも全然そんなことないでしょう」と正幸さん。

作業場にこんもりと積もった粉は、木屑。窓や機材の輪郭が分からなくなるほどの木屑に覆われています。

作業は電動ろくろで行います。木地が前後に回転する構造です。

昔はろくろに紐をかけて回す「手引きろくろ」で、たいていは妻が回し、夫が削る、という夫婦一組の作業でした。その後は足踏み式になりましたが、昔と比べると今は負担がだいぶ軽減されたんですね。

例えばお椀を作る工程。輪切りの木から木を切り出します。

左は、荒挽きといって製材屋がある程度削った木材。右は久津見さんが挽いて器の形にしたもの。

左の状態から、水分が5%以下になるまで1~2ヵ月乾燥させ、その後1週間ほど大気中の湿気を吸わせ8%~10%ぐらいまで戻します。

その後仕上げ挽きを行い、器のフォルムに。

ここまでの形になるのに3~4か月かかるのですね。

お待ちかねの、加飾挽きの実演を見せてくれました。

加飾挽きは、カンナや小刀を使って行われます。こちらは全て久津見さんの自作。多くの職人は自分で鍛錬して道具を作るのだそうです。

電動ろくろに木材をセットし、2本の突起が付いた小刀を定間隔にずらしながら当てることでできた模様は「千筋」。加飾挽きの基本的な筋です。

シンプルに見えますが、実はこの筋の入れ具合が商品の仕上がりに大きな影響を与えるのです。

全ての筋が同じ深さにならないといけません。1本だけ深く入ってしまうとそこだけ漆が濃くなり、お客さんから「塗漆にムラがある」と苦情が来ることも。

「稲穂筋」と呼ばれる、細切れの線を渦巻状に付ける手法は、独特なノミを用います。振動によってバウンドさせるよう、刃先がしなやかに動くつくりになっています。

「稲穂筋」の上に、さらに渦巻状の「うず筋」を重ねました。

加飾挽きの筋の種類は40~50ほどもあると言われています。

いい筋は、生きている。

「いい筋は、走っています」と久津見さん。走っているとは、ほとばしるように鮮やかに、まるで生きているような躍動感をもつ筋。

高速回転する木地に刃を当てるという、文字にすると単純な技ですが、0.1mm単位で刃先を微妙にずらし、木目を意識して指の力の入れ方を変え、回転を逆にしたり戻したりと、熟練の勘や集中力がないとできない技術。

久津見さんは足指の微妙なアクセルワークでペダルを踏めるよう、常に裸足。また指から木の振動がじかに伝わるよう、グローブは指部分を切ったものをはめています。

まさに木と対話するように、一つ一つ、商品をつくり上げていきます。

「加飾挽きは、お椀の横に付けて滑り止めにしたり、菓子鉢の中心にはめ込んだ木の継ぎ目を隠すために付けたりされてきました。ただのアラ隠しだと言う人もいる。ですが、一つの技術として自信を持って継承したい。だから僕は自社の商品に加飾挽きを取り入れているんです」と正幸さん。

久津見木工では「KARMI」シリーズなどを一手に引き受けています。

「我戸さんところは面倒なもんばっかり、ウチに持って来よるんですよ」
「いや、久津見さんは単純なお椀とか作らしとったらもったいない」

そんな二人のやりとりを見ていると、作り手に対する尊敬と信頼があってこそ良い商品が生まれるということを実感させられます。

ゆげ街道沿いにある直営店『GATO MIKIO/1』

『我戸幹男商店』の商品はインターネットでも購入できますが、お店で実際に触れて、質感を確かめてみてください。一つひとつ手作業でつくられたやわらかな手触りは、しっくりと肌になじむはずです。

山中温泉にある直営店『GATO MIKIO/1』について紹介している記事は、こちらをどうぞ!

<取材協力>
GATO MIKIO/1
石川県加賀市山中温泉こおろぎ町ニ-3-7
0761-75-7244
http://www.gatomikio.jp/1/

文:猫田しげる
写真:長谷川賢人

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コルビュジエが教え、タウトが驚いた必見の近代建築が青森にある

日本の近代建築の旗手、前川國男。東京文化会館や東京都美術館などの代表作は、みなさん一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

師事したのは、ル・コルビュジエ。あの丹下健三も前川のもとで働いていたといいます。

前川國男
前川國男。1928年 (昭和3年) に東京帝国大学 (現・東京大学) の建築学科を卒業後、すぐにフランスへと留学して、ル・コルビュジエに師事。2年間の修行を経て帰国し、東京女子大学や東京・銀座の教文館ビルなどの設計で知られるアントニン・レーモンドの事務所でさらに経験を積み、独立。日本の近代建築をリードしてきました

そんな前川國男の初作品という建築ファン必見の建物が、青森県弘前市にあるのをご存知でしょうか?

その記念すべき前川建築第1号が「木村産業研究所」です。

JR弘前駅から車で10分ほど、静かな住宅街の中に真っ白な建物が建っていました。

木村産業研究所
木造ではなく、コンクリートでできています

現在、建物1階には地域伝統の「こぎん刺し」を今に伝える「弘前こぎん研究所」が入っているので、こちらの名前で知っている人も多いかもしれません。受付に声をかければ誰でも見学することができます。


*「弘前こぎん研究所」の取り組みについての記事はこちら:「津軽こぎん刺しを広める『弘前こぎん研究所』に聞いた、『作って楽しい』伝統の守り方。」

「東京にも負けない建築だと思いますよ」

そう語る、木村産業研究所の理事長、木村文丸さんにお話を伺いました。

前川建築第1号が弘前にできたワケ

それにしても、なぜ、前川國男の建築がここに?

「私の叔父である木村隆三が依頼したのだそうです」

フランス大使館付の武官としてパリに渡っていた隆三さんは、現地で産業を研究する機関を見学し、祖父である静幽 (せいゆう) さんの遺言に従って弘前の地場産業振興のための機関を作ろうと考えていたといいます。

ちょうどその頃、ル・コルビュジエのもとで学んでいた前川國男とも知り合い、親交を深めたのだとか。

「隆三は前川より10歳ほど年上で、いわば兄のような存在。前川をパリのバーやクラブに連れて行ったり、街のあちこちを見せて回ったようです。

パリの生きた文化や街の様子に触れたことは、その後の前川の建築家人生にも少なからぬ影響を与えたのではと思います」

こうして、前川が2年間の留学から日本へ帰る船の上で、隆三さんは故郷に建設を考えていた、あの機関の設計を提案します。

「修行を終えたばかりの自分にまさか」と思っていた前川は、帰国後に正式に設計依頼を受けた際、大変喜んだそうです。

1932年 (昭和7年) 、こうして弘前の地に前川建築の第1号「木村産業研究所」が誕生しました。

「依頼にあたって、叔父は一切を任せたと聞いています。前川にとっては帰国後初の仕事。この建物にコルビュジエのもとで学んだ全てを注ぎ込もうという心意気だったでしょうね」

コルビュジエ仕込みのモダン建築

「まず、玄関の天井を見上げてみてください。これだけでも『おっ!』となるはずです」

見上げてみると、ハッとするほど真っ赤な天井。白い壁とのコントラストが何ともモダンです。

木村産業研究所
木村産業研究所
建物の右手奥にあるピロティ部分の天井も鮮やかな赤でした

さらに建物の細部を見ていくと、竣工当時は珍しかったであろう素材が随所に使われていることに驚かされます。

木村産業研究所
バルコニーには大きなガラスの窓とスチールのサッシ
木村産業研究所
玄関も全面ガラス張り
木村産業研究所
トイレのドアノブはなんとクリスタル! (手前と奥とで色が違うのもおしゃれです)
あああ
2階の階段踊り場の床は、小さなタイルを使って青く縁取るようなモザイクになっていました

「叔父は依頼の際、10万円を好きに使っていいと前川に託したそうです。現在でいえば億単位のお金です。

これを生かして前川は、当時の日本では手に入らなかったような最先端の建材を海外から採用し、思い描いた理想の建物に仕上げたのだと思います」

ブルーノ・タウトもびっくり

当時、まわりは武家屋敷ばかり。そんな中で、木村産業研究所はひときわ目立っていたはずです。

ドイツの建築家、ブルーノ・タウトは、1935年 (昭和10年) に弘前を訪れた際、どうして日本の北の果てにコルビュジエ風の建物があるのかと驚いたそう。

よほど印象的だったのか、著書『日本美の再発見』でも「コルビュジエ風の新しい白亜の建物」と書き残しています。

とはいえ、木村さんにとっては日常の風景。

「父から『優秀な建築家が作ったものだ』とは聞いていたが、この建物は自分にとっては当たり前にあるものでした。大学に進学して、読んでいた本に木村産業研究所が紹介されていて、そこで大したものなのだと見直したくらい」

それほどこの建物は、時を経て弘前の人々にとっても馴染み深くなったということなのでしょう。

この研究所をきっかけに、前川はその後も弘前で数々の建築を手がけ、現在弘前では8つの前川建築を見ることができます。

その足跡を感じられるよう、木村産業研究所の2階には、弘前市民の手によって作られた「前川國男プチ博物館」があります。

木村産業研究所
「前川國男プチ博物館」の入口

前川國男の年表や手書きの図面のほか、市内にある8つの前川建築を写真パネルや模型などで紹介し、より多くの人に前川本人やその作品に親しんでもらおうという思いで2011年 (平成23年) に完成しました。

前川國男プチ博物館

その2年後には、凍害で取り壊されていたバルコニーが復元。工事費の一部は、市民の募金でまかなわれたといいます。

これまでも、これからも、弘前の人々の思いで後世に引き継がれていく貴重な前川建築。「こぎん刺し」巡りと合わせて、ぜひ建築探訪も楽しんでみては。

<取材協力>

木村産業研究所

青森県弘前市在府町61

前川國男プチ博物館 (前川國男の建物を大切にする会)

文:岩本恵美

写真:岩本恵美、船橋陽馬

【職人さんに聞きました】夏の食卓におすすめの「津軽びいどろの豆皿」は、夏の短い青森生まれ。

 

蒸し暑い日本の夏に、活躍するのがガラスのうつわです。たっぷりとそうめんを盛り付けた大鉢やキンキンに冷えたビールジョッキなど、思うだけで涼しげですね。

この夏、そんな暑い季節の食卓に涼を添える、小さなうつわが誕生しました。淡い色合いが美しい「津軽びいどろ」の豆皿です。



「津軽びいどろ」は、全国でも夏の短い東北・青森生まれのガラス工芸。四方を海に囲まれた地理条件が、本州最北端の地に美しいガラスをもたらしました。

「はじまりは漁師さんが使う『浮き玉』作りだったんです」



そう語るのは中川洋之さん。「津軽びいどろ」を手がける北洋硝子株式会社の工場長です。



もともと北洋硝子は青森近海でホタテの養殖が盛んになったのをきっかけに、設置網に取り付けるガラスの浮き玉をメインに作っていたガラスメーカー。

北洋硝子製は厚みが均等で水圧にも強く丈夫だと全国から注文が入るようになり、いつしか業界トップシェアに。その後浮き玉はガラスからプラスチックにとって代わり、メインアイテムは花瓶、食器にシフトしていきます。

「テーブルウェアになると色も多様になりますね。でもガラスの主要産地である東京や大阪から色付きのガラスを都度取り寄せるには遠く、手間がかかりすぎる。

それで色の調合も自分たちでやっていくようになりました。津軽びいどろのあの色も、そうやって生まれたんです」

手近な原料を使って新しい色ガラスの開発に取り組む日々。



そんなある日、1人の職人が美景で知られる砂浜「七里長浜」を散歩していて、ふと足元の砂に気がつきました。

「これを使ってガラスが作れないかな?」

ちょうど社内では、青森の自然を題材にした作品づくりのために色の開発が行われていた頃。試みに先ほどの砂を調合してみると、見事に透き通った美しい緑色のガラスが現れました。



のちに青森県の伝統工芸品に指定される「津軽びいどろ」誕生の瞬間です。

「砂って山から海にかけて色が薄くなっていくんです。前に山の砂をガラスに溶かしてみたら、茶色っぽい色になりました」

首都圏から離れていたからこそ、海に囲まれた土地だったからこそ生まれた美しい色ガラス。

そのチャレンジ精神が功を奏し、今では絶妙で多彩な色のバリエーションが、北洋硝子さんの強みです。ガラス工場としては珍しい、100色以上もの色を保有しています。

「今回ははじめに七里長浜の砂から生まれた色を再現した緑色と、青色が2色。一口に青といっても、色合いがまた違うでしょう」


▲「津軽びいどろ」のルーツともいえる、七里長浜の砂から生まれたグリーンの「七里長浜」、深みのある「瑠璃」、涼やかな「藍鼠」の3色

▲七里長浜の砂を配合した原料。これがあの美しい緑色になるとは、この時点では想像もつきません


▲こちらは瑠璃色の原料


▲藍鼠色の原料

美しい色合いを混じり気なく表現するには、調合だけでなく成形にも高度な技術を要します。



「こういう一色だけの色ガラスは、模様がないので小さな気泡でもあればすぐにわかってしまいます」


一点の曇りもない透き通った肌は洗練された技術の証。それを、熟練の職人でも難しいという小さな小さなサイズに仕立てて生まれたのが今回の豆皿です。

用いるのは、ガラスの種を落とした型を高速回転させ、遠心力によって成形する「スピン成形」という方法。つくられた豆皿には、形に微妙な揺らぎが出るのが特徴です。

工程の一部始終を見せていただきました。


▲調合ずみのガラス原料を高温の炉の中で溶かします


▲ガラスの種を落とします


▲型が高速回転!わずかな置き方で形の良し悪しが決まります


▲あっという間に冷え固まります。この色は・・・


▲深みのある「瑠璃」の色が現れました

「難易度は5のうち4ぐらいかな。でも『なんでも作ってみる』というのがうちのスタンスですから」と語る中川さんの表情は誇らしげです。



その幅広いガラスづくりにチャレンジできる環境に惹かれて、現場には若い職人さんの姿も多数。



食卓を涼しげに演出してくれる小さなガラスのうつわは、北の海に生まれ、現場の熱意に育まれて、今日も美しい淡い色合いをたたえています。

<取材協力>

北洋硝子株式会社
青森県青森市富田4-29-13
https://tsugaruvidro.jp/



<掲載商品>
津軽びいどろの豆皿