鳥居も狛犬も、焼きものづくし。日本磁器発祥の地、有田を守る陶山神社

日本で初めて磁器が焼成された有田。

2016年には有田焼創業400年を迎えました。

そんな有田に全国でも珍しい、鳥居や狛犬まで焼きものづくしの神社があります。

有田焼陶祖の神「陶山神社(すえやまじんじゃ通称とうざんじんじゃ)」です。

磁器でできた鳥居や狛犬とはどんなものなのか。

一目見たいと出かけてきました。

踏切の向こうに広がる神域

JR有田駅から歩いて15分ほど。

階段を登ると…

陶山神社の参道入り口

わ!突然、踏切!

なんと、参道の前に線路が通っています!

「豪華列車の“ななつ星”が通ったりして、なかなかいいですよ」と、お話するのは陶山神社、宮司の宮田胤臣さん。

JR佐世保線の博多〜佐世保間を開業する際、有田には線路を通す場所がなくて、神社の一番端を通すことになったそうです。

山々に挟まれ、昔は住んでいる人も、人の行き来も少なかったという有田。1616年に陶石が発見され、焼きものの生産が始まると町が栄えていきました。

陶山神社の創建は1658年のこと。

「それまで、有田の方は伊万里の神原八幡宮さんにお参りに行かれていたようです

産業も盛んになり、景気も良くなってきたので、有田の町にも神様をお祀りしたいと応神天皇さまを主祭神に迎え、創建されました」

以降、有田焼の窯元、商人をはじめ、有田の人々を見守っています。

なにからなにまで焼きものづくし

石段を登っていくと、

石段
陶山神社の大鳥居

大きな鳥居が現れました!

表面は全て磁器でできています。すごい!

白地に青い唐草模様が映えて、とてもきれいです。

鳥居のアップ

そして、狛犬。

磁器の狛犬

ちょっと独特なお顔でかわいらしい。

ほかにも、

特大サイズの器や、
特大サイズの器や、
門柱 (左) や灯籠 (右) まで!
門柱 (左) や灯籠 (右) まで!

本殿裏手にまわると欄干まで磁器です!

木造の神殿に磁器の青が美しく浮かび上がります
木造の神殿に磁器の青が美しく浮かび上がります

境内のあちこちに焼きものがあり、発見するのも楽しくなります。

挑戦し続ける職人たちの心意気

なんとも有田らしく、訪れる人を喜ばせてくれる神社ですが、これらの焼きものはどなたが奉納されたのでしょうか。

「窯元さんや職人さんはじめ、各地区のみなさんからお納めいただいています。かつては職人さんたちの技術革新の場になっていたんじゃないかなと思います」

技術革新の場?

「はじめは小さな器から作り始めて、そのうち四角い物はどうやって作るのか、動物の形はどうすればいいのか、いろいろと試行錯誤を重ねていかないとできません。

そうやって自分たちが挑戦した成果として、神様にご奉納する。鳥居や狛犬さんを作ることで神様への感謝の気持ちを表すとともに、自分たちの産業の発展にもつなげていったのだと思います」

なるほど。そう言われて改めて見ると、狛犬の姿から職人さんの懸命な努力と心意気が感じられ、格別な味わいがあります。

この大きな鳥居は、どうやって作っているのでしょうか。

「いろんな窯元さんが一緒になって作っていただいているようです。柱の円筒形になっている部分と上の四角い部分は、作っている職人さんが違うんです。

有田焼は分業制なので、丸もの細工人さん、角もの細工人さんと分かれています。絵を描く人も、もちろん別の人ですね」

宮司の宮田胤臣さん
宮司の宮田胤臣さん

「当時は機械ではなく手で成形しているので大変だったと思います。奉納された当時の技術でこれができるというのは、すごいことだそうです。大変な努力をされたんだろうなと思いますね」

鳥居は一度、台風で倒れてしまい、焼き直しや継ぎ合わせて修復されています。

「少し青が濃く見えるのは焼き直した部分です。今はコバルトを使っているんですけど、昔は別のものを使っていたもので、薄い淡い色をしていたんですね。技術の進化を見ることもできますね」

先ほど通ってきた参道にも焼きものの燈篭がありました。

石段の脇の灯篭
石段の脇の灯篭

「あの灯篭は、お年を召された参拝者の方が階段を上るのは大変だろうから、下からも焼きものが見えるようにしてあげたいということで、全部同じ方が奉納してくださいました。ありがたいなあと思います」

有田の町を見守る陶祖

有田焼は1616年、朝鮮からやってきた陶工・李参平が有田泉山で陶石を発見し、焼成が始まったのがはじまりと言われています。

神殿から陶祖坂と名のついた坂道を上っていくと、

石段の向こうに‥‥
石段の向こうに‥‥

有田焼陶祖・李参平の碑があります。

李参平の碑

この碑は、有田の礎を築いた李参平の功績をたたえ、1917年、有田焼創業300年を記念して建てられました。

碑文には「公はわが有田の陶祖であることは無論のこと、我が国、陶業界の大恩人である。現在陶磁器関係に従事する人は、その恩恵にあずかっている、その偉業をたたえここに仰ぎ祀る」と記されています。

良土、大恩人という字が読める
良土、大恩人という字が読める

碑の建つ場所からは有田の町が一望でき、陶祖から見守られているようです。

碑の建つ場所からの眺め
碑の建つ場所からの眺め

「100年前、この碑を建てたときは、人力で石を上げていたようです。先ほどの鳥居の前まで電車で運んで、あそこで下ろして、そこから運んだらしいですよ」

境内に電車を通したことがそんな役に立つとは。お導きのようにも感じます。

有田の人々が特別な思いで参列する陶祖祭

碑が建てられた1917年より、5月4日には有田焼の繁栄を願って「陶祖祭」が行われています。

窯元や職人をはじめ、韓国の陶業界の方々も参列し、先人たちに感謝を述べているそうです。

神殿に陶祖祭で詠まれた参列者の歌が飾られていました。

歌札がずらり

「350年祭の時のものです。これを読むと、当時の様子がよくわかります」

大鈴の 山車も陶器よ 陶祖祭

紋服で参ずる 釜男 陶祖祭

技術を結集させて作った大鈴の山車を、いつもの作業着ではなく紋付袴姿で誇らしげに見つめる陶工たち。

陶祖祭が町の人たちにとって、特別な存在であることがよくわかります。

叩いても割れない?有田焼ならではの硬い太鼓

「こちらの太鼓も焼きものなんですよ」

太鼓

え?これも!?

「胴の部分が焼きものです。割れませんよ (笑) 有田焼は焼く温度が高いんです。高い温度で焼くと、硬くなる。硬くなればなるほど強いんです。だから薄いものも作れるし、割れにくいんです」

でもちょっと叩くのは怖いような。

「いつも使っています。木製の太鼓なんかに比べると少し高い音がしますね」

太鼓まで作れるとは恐るべし有田焼。御見逸れしました。

宮司自ら奉製するお守り

焼きものの神様は他所にないこともあり、陶山神社には全国から参拝客が訪れるそうです。

「職人さんや窯元さん、商人さん、焼きものに従事している方はたくさん来られていますね。新しい商品を作ったり、どこかに出品する時なんかにも持って来られて、祈願される方もおられます」

毎年来られないという方にはお札の発送も対応しているそうです。

そして、そのお札も焼きもの。

花瓶の形を模した窯内安全のお札
花瓶の形を模した窯内安全のお札

「これはうちの窯で焼いています」

え?窯があるんですか!?

「自分たちでできるものは全て作っています」

1987年頃より、先代の宮司さんが作りはじめたもの。宮田さんも学校で焼きものの技術を学んだそうです。

宮田さん自らデザインを考案されたという御朱印帳も素敵です。

有田焼のお皿を3枚並べたようなデザイン
有田焼のお皿を3枚並べたようなデザイン

「参拝にいらした方との話題を考えながら、楽しんで作っています。年末は絵馬を作るので大忙しで、てんやわんやしてます。窯元さんかと思うぐらい(笑)」

「皆さまから支えていただいて、お宮があります」と言う宮田さん。

お守りやお札には感謝の気持ちが込められています。

先人への感謝を忘れず、研鑽を積みながら発展していく有田焼。

その礎を感じられる陶山神社です。

<取材協力>
陶山神社
佐賀県西松浦郡有田町大樽2-5-1
0955-42-3310
http://arita-toso.net/

文:坂田未希子
写真:菅井俊之

旅先では「壁」を見るのがおもしろい。焼き物の町・有田のトンバイ塀

旅先で出会う風景や街並み。

いつもとちょっと目線を変えると見えてくるものがあります。

たとえば、壁。

土壁、塗壁、漆喰、石壁、板壁。

あらゆる壁には、その土地に合った素材、職人の技、刻まれた歴史を見ることができます。

何も言わず、どっしりと構えている「壁」ですが、その土地の歴史をしずかに物語っているのです。

いざ、さんちの「壁」に目を向けてみるとしましょう。

この壁、何で作られているでしょう?

焼き物の町、有田。

ここには、焼き物の町ならではの壁があります。

有田のトンバイ塀

トンバイ塀です。

トンバイ塀とは、登窯の内壁に使われた耐火レンガの廃材や使い捨ての窯道具、陶片を赤土で固めた塀のことで、江戸時代から作られています。

有田のトンバイ塀

今は少なくなってしまいましたが、町の中心部である内山地区の裏通りに点在し、全て合わせると900メートルほどになるそうです。

有田のトンバイ塀

トンバイ塀、眺めるほどに、窯のあと

トンバイ塀にはどんな歴史が刻まれているのでしょうか。

有田町役場商工観光課の深江亮平さんに、現存する中でも一番古い、1830年頃に建てられたトンバイ塀を案内していただきました。

「こちらが、17世紀のはじめに操業、1668年から皇室に納め続けている窯元、辻精磁社さんです。ここのトンバイ塀が最古のものと言われています」

有田のトンバイ塀

「登窯の耐用年数は10数年で、使い終わると窯を壊します。その時に廃材がたくさん出るので、それを使って築かれたものです」

よく見ると、レンガだけではなくいろいろなものが埋まっています。丸いものはなんでしょう。

有田のトンバイ塀

「これは窯道具のハマとかトチンです。焼き物を窯に入れる時に、焼成中の歪みを防いだり、窯の効率をよくするために使うものです」

有田のトンバイ塀
丸いものがハマ
有田のトンバイ塀_左中程、ドーナツ型のものがトチン
ドーナツ型のものがトチン

ツルツルしているのは釉薬がかかっているのでしょうか。

有田のトンバイ塀の松ヤニ

「登窯は松の木などの薪をくべて焼くので、松の油が飛んだり、灰がかかったりして、自然に釉薬がかかって、いろんな色になっているようです」

有田のトンバイ塀
いろいろな釉薬が混ざり合い複雑な色合いに

窯の中で高温に熱され、釉薬のかかったレンガや道具は廃材とはいえ、なんとも美しい色合いになっています。

「おそらくですが、元はこの上に漆喰が塗られていたと思われます。これは基礎部分。本当は白い壁だったものが、漆喰が剥がれ落ちて、中の基礎部分が露わになっている状態ですね」

漆喰が残っているトンバイ塀
漆喰が残っているトンバイ塀

なるほど、レンガが不規則に並んでいるのは基礎部分だから。偶然の産物とはいえ、風化したことで味わい深い壁になったんですね。

トンバイ塀に見る有田の歴史

有田焼は17世紀初頭、朝鮮陶工の李参平が泉山に陶石を発見し、窯を築いたのがはじまりといわれています。その後、有田の磁器は国内外で珍重されるほど人気となり、有田は焼き物の町として発展していきます。

「トンバイ塀のある裏通り」とよばれるこの辺りには、多くの窯元が立ち並んでいました。

有田のトンバイ塀

トンバイ塀はいつ頃から作られたものなのでしょうか。

「実はよくわかっていません。有田は1828年の大火で町が全焼して、古文書が残っていないんです」

1828年、有田の町は「文政の大火」に見舞われました。台風による大風で窯の火が燃え広がり、町は全焼。その後、復興を遂げるまで、焼け出された町民の中には、登窯で生活した人もいたそうです。

「今ある家やトンバイ塀は1830年以降に建てられたものがほとんどです」

家の壁がトンバイでできているもところも
家の壁がトンバイでできているもところも

技術の漏洩を防ぐため

「表通りは器の卸をする商家で、裏通りに窯元や職人たちの住まいがありました。町並みを流れる川沿いに窯元があったのが特徴ですね」

有田焼は陶石を粉にし、水に溶かして粘土にしたもので作っていきますが、かつては陶石を粉にするために「唐臼」が使われていました。唐臼は水力で動かすため、窯元が川沿いに多く立ち並んでいたようです。

有田川。白い皿のようなものがハマ。かつてこの辺りに窯元があったことがわかる
町並みに沿って流れる川。白い皿のようなものがハマ。かつてこの辺りに窯元があったことがわかる

その窯元を囲むように築かれていたトンバイ塀。廃材を利用したリサイクルとしてだけでなく、陶工の技術の漏洩を防ぐ意味もあったそうです。

「有田焼の工程は歴史的に分業になっています。それは、一つ一つの技術のレベルを上げるためでもありますが、一人で全部でき、その技術を持って逃げる人が出ないように分業にしていたようです。そういう意味でも各窯元でトンバイ塀を作って技法を守っていたんだと思います」

壁を作ることで中を覗かれないようにしていた。でも、それにしては塀が少し低いような気もします。

「この高さだと中が覗けますが、本当は2メートル以上あります。昭和に入って道路が高くなったため、塀の高さが当初よりも低くなっているんです」

有田のトンバイ塀
内側から見ると塀の高さが分かる
有田のトンバイ塀
左から右に行くにつれ高くなっている。高いところは2メートル以上ある

うーん、知れば知るほど歴史がつまっています。

そもそも、なぜ、「トンバイ塀」なの?

今も、トンバイ塀は作られているのでしょうか。

「現在は登窯も少ないので、新しく作られることはあまりありませんが、壊れたら窯元さんが補修しているようです」

かつては技術を守るために築かれたトンバイ塀ですが、今は焼き物の町を象徴する風景として、大切に守られているんですね。

有田のトンバイ塀

登窯を再利用して作られた壁は、焼き物の町ならでは。

ほかでは見ることができない風景です。

最後になりましたが、なぜ「トンバイ塀」と呼ぶのでしょうか?

「“トンバイ”とは、耐火レンガのことです。語源がわかっていないのですが、朝鮮語説、中国語説など、いくつかの説があります。窯道具の“トチン”や“ハマ”もそうですね」

朝鮮や中国から技術が伝わってきた歴史を感じます。

高温で焼かれ、釉薬のかかったレンガに触れると、技術を磨き、切磋琢磨していた陶工たちの姿がよみがえるよう。

今回はそんな「さんちの壁」でした。

取材協力:有田町役場商工観光課

文 : 坂田未希子
写真 : 菅井俊之

「冬の、できたて線香花火」が、澄んだ暗闇をやわらかく彩る

先日、線香花火を買った。2月だ。真冬もいいところだ。季節で言えば間違いなく夏と真逆で、どうしてこんな時期に買ったと自分でも少々困惑するほどだった。

きっかけは、ある雑誌だった。美容室で話すのがあまり得意ではない担当美容師から手渡された雑誌。最近は、「美容室」という特殊な場所で読む雑誌なら、内容も普段とは異なるジャンルにしようと思い、いつもなら絶対に手を取らないものをわざわざ選ぶようにしている。

そこから得られる情報は、見知らぬ街に降り立ったような新鮮さと探究心をくすぐり、なかなか刺激的だからだ。

そして、その「特殊」な雑誌の記事内で、「冬の、できたて線香花火」に出会った。

雑誌の端に小さく紹介された商品名とメーカー名を、スマホに手早くメモする。

筒井時正玩具花火製造所

「筒井時正玩具花火製造所」

一体どんな企業だろうか。帰路に就く電車の中で、社名を検索窓に入力してみる。

場所は、福岡。昭和4年から続く子供向け玩具花火の老舗企業だった。

筒井時正玩具花火製造所

90年続いている小さな企業とは思えぬほど、サイトがすこぶるお洒落だった。スマホ対応はしていないものの、写真の写し方、文字の組み方にどことなく趣を残しつつ、訪問者を童心に返す高揚感が感じられる。

「これは、アタリを引いたかもしれない」とサイト内を回遊すると、たくさんの魅力的な商品が見つかる。

どうぶつ花火
「どうぶつ花火」(画像は公式サイトより)
「花富士」(画像は公式サイトより)

そして「冬の、できたて線香花火」。

夏のイメージが強い線香花火ですが、「スポ牡丹」は気温・湿度が低いことが製造条件で、冬の寒い天候を利用して製造されています。空気が澄んだ冬の夜に、できたての線香花火をお楽しみください。

商品紹介ページに書かれた説明文が、あたたかく、柔らかい。空気が澄んだ冬の夜に手元を照らす線香花火。さぞ綺麗なことだろう。

誰とやるだとか、何処でやるだとか、あまり深いことは考えず、僕は注文ボタンを押した。

商品が届いたのは、一週間を過ぎたころだ。大抵の荷物なら1日~2日で届くこの時代。花火は火薬類につき、陸路での搬送となることを説明されていたが、福岡からはるばる東京までやってきたその花火に、何故か愛着が沸いた。

冬の、できたて線香花火

デザインは、普段目にしているカラフルな紐状のものとは異なり、ワラに練った火薬を付けた棒状のもの。今では、このかたちは同製造所しか販売していないという。ただ、このかたちこそ「線香花火の原型」なのだそう

ちょうどその日は、息が凍るかと思うほど空気は冷たく、星はいつもよりもその存在を強く主張しているように感じられた。

僕はさっそく、花火を持ちだして外に繰り出す。

冬の、できたて線香花火

使い慣れぬライターで、火を付ける。線香花火が灯るまでの時間は、火傷を恐れる少しの危険と、空間を照らす光への好奇心で、自然と胸が高鳴る。

冬の、できたて線香花火

着火し、光球が生まれると、筆で闇をなぞるかのように細く優しい線が夜を走る。柔らかな光が小さな音をたてて、それが次第に激しくなっていく。

冬の、できたて線香花火

線香花火の燃え方には、名前が付いている。

小さく火が付いた「蕾(つぼみ)」から、「牡丹(ぼたん)」、「松葉(まつば)」、と火花を大きくし、「散り菊(ちりぎく)」の静かな幕閉じまで、貴重な時間を、ただただ見つめる。

冬の、できたて線香花火

最盛期を迎えた後、火は静かに消える。“まるで人の一生のような十数秒間を存分にお楽しみください”という説明書きに、線香花火のせつなさと有難さが籠もる。

冬の、できたて線香花火

花火は夏の風物詩。それは今後も変わりないかもしれない。でも、コートにマフラーを巻いて、ホットコーヒーの缶に水を汲み、バケツ替わりにしたそれに消えた花火を落とすのも悪くない。少し煙くなった空気を吸い込み、まだ高い空をぼうっと眺めるのも、夏とは違った良さとして記憶に残った。

まだまだ夜の空気は冷たい。一風変わった冬の醍醐味を、大人になった今こそ楽しんでみてはいかがだろうか。

<掲載商品>
冬の、できたて線香花火

文・写真:カツセマサヒコ

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給食の食器に磁器を。焼き物の町・波佐見の学校給食で見た「物育」の風景

「いただきます!」

教室中に小学生たちの元気な声が響き渡ります。

懐かしい小学校の給食のひとコマ。

でも、ちょっと普通の給食風景とは違うところがあります。

子どもたちが手にする食器にご注目ください。

給食食器というと、軽くて割れにくいプラスチックやアルミの食器が頭に浮かびますが、焼き物の町・波佐見町の給食食器は違います。

波佐見町立中央小学校

全て町内でつくられた波佐見焼の磁器なのです。

波佐見町立中央小学校の1年生
波佐見焼の給食用強化磁器食器

焼き物の町、波佐見だからこその給食食器

波佐見町内の全ての小中学校で、ごはんやパンなどの主食におかず、牛乳がそろった「完全給食」を実施するようになったのは、1969 (昭和44) 年。

波佐見町の給食
取材した日の主食はコッペパン。レーズンクリームをつけていただきます。おかずはポトフに白菜サラダ、デザートはイチゴ、そして牛乳という完全給食の献立です

全国的に見ても早いという完全給食導入の背景には、実は波佐見焼が関係していたといいます。

古くから焼き物が地場産業として発展してきた波佐見では、石膏型作り、生地作り、窯焼きの各工程が分業で行われ、いわば町全体が巨大な工場のよう。町民の多くが波佐見焼づくりに携わっており、共働き世帯も多いことから、子どもたちの栄養面を家庭外でもサポートできる完全給食が必要とされていました。

波佐見焼は町を支える産業であるとともに、町の人々の生活にも深く関わるもの。

それほど身近にあった波佐見焼を「学校給食に取り入れよう」という気運は自然と高まっていき、町内にある長崎県窯業 (ようぎょう) 技術センターや各メーカーなど町が一体となって波佐見焼の給食食器の開発が始まりました。

より強く、より軽く。進化を続ける技術

これまで使われていたアルマイト食器よりも、磁器の食器はどうしても重く、厚みが出てかさばってしまいます。

強度を高めつつも、厚みをなくして軽くする。

これが最大の課題でした。

強度を高める原料を使うと、通常の陶土よりも粘性が低くなり、成形が難しくなります。さらに、できるだけ薄く軽くするにはどうすればいいのか、強度を高めるために最適な形状は何かなど、さまざまな試行錯誤が繰り返されました。

1986 (昭和61) 年に強化磁器の試作が行われ、翌年誕生したのが通常の磁器の約3倍の強度を誇る「ワレニッカ」でした。1300℃という高温で焼くことで割れにくく、磁器の分子構造が細かくて密度が高いため、軽くて丈夫な磁器になるそう。

波佐見焼の給食用強化磁器食器
波佐見焼の給食用強化磁器食器
「ワレニッカ」という名前は、「割れにくい」という意味の方言「割れにくか」に由来

町内の学校でおよそ半年の間、試用された結果、実際に強化磁器を使ってみた子どもたちから「食べやすい」「給食をおいしく感じる」と好評だったことから、1988 (昭和63) 年には町内の全学校で強化磁器のご飯茶碗が導入されました。

さらなる改良を続け、1992 (平成4) 年には全学校で強化磁器のお皿も採用。「ハサミ・スクール・ウェア」、「セーフティーわん」と、進化するたびに名前を変えていき、2000 (平成12) 年には全学校の全ての給食食器が強化磁器となりました。

波佐見焼の給食用強化磁器食器
2015 (平成27) 年には、波佐見高等学校美術工芸科の生徒たちから食器の図案を募集し、デザインを刷新。種類も豊富にあり、給食が楽しくなりそうです
波佐見焼の給食用強化磁器食器
波佐見焼の給食用強化磁器食器

器からも伝わる“おいしさ”

強化磁器を給食に取り入れてから、30年。子どもたちにはどんな変化があったのでしょうか。

波佐見町立中央小学校の給食タイムにお邪魔してきました。

波佐見町立中央小学校
波佐見町立中央小学校

訪れたのは、1年生の教室。すれ違うたびに、元気よく「こんにちは!」と挨拶してくれる子どもたちの姿が印象的です。

波佐見町立中央小学校の1年生たち
「給食当番は白衣を着る」というのは今も昔も変わらないところ。力を合わせてみんなのもとへ給食を運びます
波佐見町立中央小学校の1年生たち
波佐見町立中央小学校の1年生たち
配膳も分担作業でテキパキとこなしています。磁器の扱いにも慣れているよう

「給食はおいしいですか?」と問いかけてみると、どの子も口をそろえて「おいしい」「うまい!」と大絶賛。

「波佐見は残食が本当に少ないんです。プラスチックなどの器にのっているよりも、磁器に盛り付けられた方がおいしそうに見えることもあるんでしょうね」と、給食センター所長の林田孝行さんはいいます。

「食育」そして「物育」へ

「割れにくい」といっても、磁器である以上、もちろん割れることはあります。そのことを子どもたちもきちんと理解していました。

「おうちでも、こういう食器で食べているよ」

子どもたちは、器を落とさないよう、しっかりと手で持って食べるのが習慣になっているようです。

波佐見町立中央小学校の1年生
波佐見町立中央小学校の1年生
波佐見町立中央小学校の1年生

食事マナーを学ぶ「食育」としての面でも、ものを大切にする「物育 (ぶついく) 」としての面でも期待ができる波佐見焼の強化磁器。全国各地の学校からもしばしば問い合わせがあるのだとか。

波佐見町立中央小学校の1年生たち
食べ終わった子どもたちは、丁寧にお皿を重ねていきます

「私が小さいころは味気ないアルマイトのお皿で給食も冷たい雰囲気。でも磁器だと、カチャカチャと器が軽く当たる音が家と同じで、家庭の延長という感じがします。どこかあたたかい気がしますよね」と、学校を案内してくれた波佐見町教育委員会の福田博治さん。

楽しく給食を食べている子どもたちの姿が、食事の時間を豊かにしている何よりの証拠。
毎日素敵な食器を手に、自然とものを丁寧に扱える波佐見の子どもたちが何だか羨ましく思えたひと時でした。

 

<取材協力>
波佐見町教育委員会
波佐見町立学校給食センター
波佐見町立中央小学校

文・写真:岩本恵美

「花嫁さんが持ちたくなるハンカチ」ができるまで

身近なもののことを、私たちは意外とよく知りません。

そのひとつがハンカチ。

前回の記事では「どうしてハンカチは四角いの?」といった素朴な疑問から始まって、ハンカチブランドmotta (モッタ) のデザイナー、山口葉子さんにお話を伺いました。

山口葉子さん


前回の記事はこちら:「ハンカチはなぜ四角い?小さな布に込められたデザインの秘密」

ちょうど伺った時に山口さんが手がけていたのが、1925年のパリ万博に日本から出品された麻のハンカチーフの復刻版。

手刺繍の模様が美しいぜいたくな一枚です
手刺繍の模様が美しいぜいたくな一枚です

デザインの肝である美しい手刺繍の模様を、復刻版では「ジャカード織り」という機械織りで再現することに挑戦したそうです。

こちらが完成した復刻版。白、ピンク、紺の3色が生まれました
こちらが完成した復刻版。白、ピンク、紺の3色が生まれました

デザイナー、というと平面上にいかに美しい姿を描くか、というイメージがありますが、色、素材、作り方で実際の製品の印象も手触りも、ガラリと変わります。今回は生地の織り方が、ハンカチの風合いを決める鍵。

原寸大の紙見本と並べてみると、生地になった時の方が柔らかな印象です
原寸大の紙見本と並べてみると、生地になった時の方が柔らかな印象です

数ある手法の中で山口さんがこの復刻版にジャカード織りを選んだのには、ある理由があったそうです。

いつも身近なハンカチはどんなきっかけで、どんな工程を経て作られるのか。

鍵をにぎる製造の現場に立ち会って、一枚のハンカチが生まれるまでのお話をひもときます。

200年続く日本最大の綿織物の産地へ

訪ねたのは兵庫県の中央に位置する西脇市。

一帯には3つの川が流れ、染織に欠かせない水資源に恵まれていたことから、200年以上前から日本最大の綿織物の産地として発展しました。

一帯で作られる生地は、昔の地域名から「播州織 (ばんしゅうおり) 」と呼ばれています。あらかじめ染めた糸で色柄を織り分ける「先染め」と呼ばれる手法が特徴だそう。

早速、今回の復刻版を手がけている工場にお邪魔すると、ちょうど紺色を織っているところでした。

織っているところ

ジャカード織りとは?

そもそもジャカード織り、どんな仕組みかというと縦にセットした糸の列をプログラムで上下に開口させて、その間に横糸を通してあらゆる模様を描き出す、というもの。

文だけだとわかりづらいので、実際にその様子を見てみましょう。

織り途中の様子。模様の部分は、白のタテ糸が多く集まって糸筋がくっきりと見て取れます
織り途中の様子。模様の部分は、白のタテ糸が多く集まって糸筋がくっきりと見て取れます
上下に分かれたタテ糸の間を、横糸が入ったシャトルが走って…
上下に分かれたタテ糸の間を、横糸が入ったシャトルが走って…
だんだん模様に!
だんだん模様に!
織っている途中
機械の後ろには、こんな風に糸を上下させる機器がセットされています
機械の後ろには、こんな風に糸を上下させる機器がセットされています

ハンカチを依頼した山口さんいわく、ここがジャカード織りの面白いところ。

「パリ万博のハンカチーフは白地に白い刺繍ですが、復刻版では色地に刺繍部分が白く浮かび上がるようにしたかったんです。

それにはプリントより、糸の色で模様を織り分ける織物、中でも模様に立体感の出るジャカード織りがいいなって」

色地に白く浮かび上がる花鳥風月
色地に白く浮かび上がる花鳥風月

しかし日本最大の綿織物、播州織の産地の中でも、ハンカチを扱うメーカーさんは限られるそう。多くはシャツ生地を得意とします。

同じ織物なのに、いったい何が違うのでしょうか?理由の一つを現場で見ることができました。

シャツに求めるもの、ハンカチに求めるもの

織りの様子を見ていると、模様と模様の間に細いラインが走っているのがわかります。

模様が終わる部分のようですが‥‥
模様が終わる部分のようですが‥‥

この線、カットラインと言って、生地を織った後にハンカチサイズにカットする目印になっています。

つまり同時に複数枚のハンカチを横並びで織りながら、次の工程のためにカットの印も織り上げているという、とても複雑な動きです。

左右で違う模様を同時進行で織っていく様子
左右で違う模様を同時進行で織っていく様子

「シャツの場合、配色も2、3色で織り方もワンパターンなものが多いですが、ハンカチだと小さな面積の中でいかに柄を見せるかが勝負。5、6色の糸を使うこともよくあります。

模様も複雑で、シャツを織る時とは機械の動きが全然違うんですね」

さらに糸の太さや生地の密度もシャツとハンカチでは変わってくるそう。

「シャツは体に添うものなので、着ていて簡単に破けないように、太めの糸を使うことが多いんですね。

でもハンカチは、引っ張りに強いことより、柔らかさや吸水性が求められる。

だから糸も細く、密度もゆったり織るような調整をします。うまくいかないと糸が切れたり、模様が崩れてしまったり。この微調整が難しいところです」

糸切れなどの不良がないか、チェックしているところ
糸切れなどの不良がないか、チェックしているところ

シャツを作るのとは勝手が大きく異なり手間もかかるので、産地でもハンカチを扱うところが限られるのだとか。

この小さな四角い布、何気ないようで完成するまでにいろいろな工夫が凝らされています。

織りの複雑さは、四角の中で柄を完結させないといけないハンカチならでは
織りの複雑さは、四角の中で柄を完結させないといけないハンカチならでは

こうして無事、1枚のハンカチが織り上がりました。

織った生地をカットして縁を縫えば、完成です!
織った生地をカットして縁を縫えば、完成です!

結婚式に使えるハンカチ

実は山口さんには、復刻版のハンカチをジャカード織りで作ろうと思い至ったひとつのきっかけがありました。

「復刻版は3色作りましたが、一番作りたかったのが白なんです。

実は自分が結婚式を挙げる時に、式場の方に『白いハンカチを持ってきてください』って言われたんですよ。でも意外と真っ白の、佇まいの素敵なハンカチが見つからなかった。

ジャカード織なら、ぱっと見は白だけれど、角度を変えると模様が浮き出るハンカチになって素敵だろうなと思ったんです」

motta037白

確かに写真では、うっすらと模様が透けて見える程度。けれど実際に持ってみるとその柔らかな風合いとともに、美しい模様が手の中で浮かび上がります。

「純白のアンティークレースみたいな白、のイメージで作ってみました」

「こんなハンカチがあったらいいな」の想いが設計図となり、産地の技術と結びついて、復刻版だけれど新しい、1枚のハンカチが生まれました。

ハンカチをめぐる旅、いかがでしたでしょうか。今朝選んだそのハンカチも、こんな風に生まれてきたかもしれませんね。

<掲載商品>
motta037 (中川政七商店)


文・写真:尾島可奈子

ハンカチはなぜ四角い?小さな布に込められたデザインの秘密

いま、ハンカチはお持ちですか?カバンやポッケの中に。

あったらちょっと出してみてください。今朝選んだのは、どんなハンカチでしょうか。

色とりどりのハンカチ

無地ですか?それとも柄がある?

ふわふわしたパイル地のタオルハンカチ?それともお弁当を広げられる大きめのものでしょうか。

ハンカチにお弁当を広げている様子

選んだ理由は、服や気分、それとも今日のラッキーカラーかもしれませんね。

ひとくちにハンカチと言っても、今日を共にしているその姿はきっと人それぞれ。

こんなに身近なのになぜ四角い形をしているのか、その理由も知りません。

ハンカチがどのようにデザインされ生まれてくるのか、ハンカチブランドのデザイナーさんに教えてもらいました。

開いたときの物語を描く

お話を伺ったのはハンカチブランドmotta (モッタ) のデザインを手がける、山口葉子さん。

山口葉子さん

2013年にブランドデビューしたmottaは、アイロンいらずで使える使い勝手の良さと、豊富な色柄のバリエーションで人気です。

motta

普段はハンカチに限らず、さまざまな生活雑貨をデザインしている山口さんですが、ハンカチを手がける場合、どんなことに気をつけているのでしょうか。

「やっぱりハンカチを折りたたんだときに一番上にくる部分が、素敵に見えるデザインがいいなぁと思っています」

折りたたまれたポケットサイズのハンカチ
折りたたまれたポケットサイズのハンカチ

「例えば、同じ四角でもスカーフは広げて使うので、折った時にどう見えるかはデザイン上あまり気にならないんですね。

でもハンカチは折って開くという動作がちょっと独特かなと思うので、そんなハンカチらしさを生かしたデザインができたら楽しいかなって。

開いたときの物語をどうしようかって考えられるのが面白いところかな」

この折りたたんだ状態を意識したデザイン、実ははるか数百年前に火付け役となっていた人物がいました。

「マリー・アントワネットのハンカチなんて、縁取りがヒラヒラするようすごくキレイなカットが入っていたりするんですよ」

ハンカチを四角くしたのはマリー・アントワネット?

実はハンカチを正方形に定めたのは、ルイ16世王妃のマリー・アントワネットだと言われています。

当時いろいろな形をしたハンカチがあった中で、マリー・アントワネットが正方形のハンカチを手にして、世に広めたのだそう。

彼女の誕生日である11/3は、ハンカチーフの日とされています。

16世紀からすでに人々を虜にしていた、小さな四角い美の宇宙。デザインする時の難しさってあるのでしょうか。

ハンカチのデザインは四角で考える。

「例えばワンピースに使うテキスタイルを考えるときは、生地を使う面積が広いので、柄も余白も大きく作ったりします。

けれどハンカチはこの四角の中で柄が成立していないといけません」

ハンカチを手に持っているところ

「例えば大きな生地をハンカチサイズにカットしたときに、表面がほぼ余白だけになってしまってはダメですからね。

ちょうど、絵を描くのと似ているかも。四角の中でどう表現するかで考えるんです」

“表現”は、何も平面上の柄づくりだけに止まりません。考えたデザインを、どんな色、素材、生地の織り方で見せるか。

ちょうど山口さんが最近手がけたのが、「復刻版」のハンカチでした。

1925年のパリ万博に出品された麻のハンカチーフ。手織りしたきめ細かな麻生地に、美しい花鳥風月を刺繍した大変ぜいたくな作品です。

実物は桐箱入りで大切に保管されています
実物は桐箱入りで大切に保管されています

すでにプリント柄での復刻版は作っており、今回は続編として、「織り」でこの美しさを表現できないか挑戦することに。

その指示図がこちらです。

指示書

そして完成した商品がこちら。

白、ピンク、紺の3色の復刻版が生まれました
白、ピンク、紺の3色の復刻版が生まれました
原寸大の紙見本と並べてみると、生地になった時の方が柔らかな印象です
原寸大の紙見本と並べてみると、生地になった時の方が柔らかな印象です

「万博に出品した時の模様は全て手で刺繍されているんですよ。数多く作る復刻版では同じように手刺繍するのは難しいですが、この風合いをなにか他の方法で表現できないかなと思って」

美しい手刺繍の模様
美しい手刺繍の模様

「そこで、生地の表面にわずかに凹凸が生まれるジャカード織りなら、手刺繍の立体感が再現できるんじゃないかと思ったんです」

ジャカード織り。普段はあまり耳にしない響きです。

「なかなか作れるメーカーさんに出会えなかったんですが、ようやく作っていただけるところが見つかって。やった、これでできる!って」

そう、ハンカチ作りはデザインして終わりではありません。

設計図に描いた姿が、どのような道のりを経て立体の製品になったのか。この復刻版のハンカチに合うと山口さんが確信した「ジャカード織り」とは?

次回、このハンカチが生まれる現場に立ち会います。

織られている様子

<掲載商品>
中川政七商店
motta037
motta006


文・写真:尾島可奈子