あの花火大会の打ち上げ花火は、こうやって作られている

7月も後半、この時期の楽しみのひとつといえば、花火大会です!来週7月28日には、江戸から続く国内最大級の花火大会、隅田川花火大会が東京で行われます。

夜空に打ち上がる光の大輪はとても美しくロマンチックですが、一体どうやって作られているのでしょうか。

昨年の隅田川花火大会のコンクールで、見事3位を飾った花火作りの老舗、山梨県の「齊木煙火本店 (さいきえんかほんてん) 」を、さんちでは大会の少し前に取材していました。

歴史ある甲州花火 老舗工場の現場へ

山梨県の甲州花火は一説には武田信玄時代の「のろし」が起源とも言われ、江戸時代に現代の花火の技術のベースとなる形が確立されたと言われています。手持ち花火を経て、元禄・享保の時代から盛んに打ち上げられるようになりました。

その昔ながらの技術をベースに、改良を重ねながら今も手作業で花火作りを続けているのが「齊木煙火本店」です。

四代目社長 齊木克司(さいき・かつし)さんにご案内いただきながら、花火作りの工程を教えていただきました。

「齊木煙火本店」 四代目 齊木克司さん

事務所に着くとすぐに齊木さんの車で山の中へ。

花火には多くの火薬が使われています。そのため、住宅が建てられた地域から一定以上の距離を保った場所でのみ製造が許されているのです。「花火作りは安全が第一」は、取材中に何度も耳にした言葉でした。

各工程の作業室では、人数や重量が決められていて、厳密に安全対策がとられていました

発色を左右するもの

花火は厚紙で何重にも巻かれた球状の玉の中に火薬が込められてできています。

発色を左右するのは、金属粉の組み合わせ。火薬には、玉を爆発させる「割薬(わりやく)」と、割薬の外側を囲んで様々な色に発色する「星(ほし)」と呼ばれる2種類のものがあります。同じ赤色でもどういった配合で作られているかによって色味が異なります。

思い描く花火のデザインに合わせて、社長の斎木さんと熟練の職人さんとで相談しながら配合を決めていきますが、花火は実際に火をつけて打ち上げてみないと結果がわからないもの。配合を決めるには知識と経験が不可欠です。

原料である酸化剤や炎色剤、可燃剤などを混ぜ合わせます
混ぜ合わせた原料をふるいにかけて整えます

長い時間をかけて育てられる「星」

続いて、配合された原料を固めて火薬を作ります。様々な色に発色する「星」作りは花火の要です。

主に直径2ミリメートル程の粒状粘土を芯にして、回転する釜の中で少しずつ火薬の玉を太らせていきます。

釜の中で少しずつ星を大きくしていく「星掛け(ほしかけ)」

1日に直径約0.5ミリメートル程大きくして乾燥、の繰り返し。

しっかり乾かさないとカビが生えてしまったり、割れが生じて、打ち上げた際に美しく発色しないのだそう。天候によっては乾燥させるのが難しい日もあり、長い時間がかかります。

この作業を毎日繰り返すことで星を少しずつ大きくしていきます。なんと根気のいる作業でしょうか。

星のサイズを図るための道具
星の色は配合された薬剤によって異なりますが、最後は火着きを良くするための黒色火薬で仕上げます。そのため、完成したものは全て黒色になっています(左端が完成した星です)

星は1粒の直径20ミリメートル位になったものを使うので、この作業だけで最低でも2~3カ月はかかります。

長い時間をかけて成長させるので、星を大きくすることを、子育てと同じように「育てる」と表現するのだそうです。

回転する釜の中を真剣に覗き込みながら火薬を加え、星の仕上がり具合を確認している職人さんはまさに子どもの成長を支える親のようでした。

密度やバランス、紙質にもこだわって行う「玉詰め」

厚紙をプレスして作った玉皮に、星を並べ真中に割薬を詰めて合わせます。これを玉詰めといい、丸く美しい形の花火を打ち上げるためには、玉の中のバランスが重要なのだそう。

均一に火薬を並べること、飛ばしたい力に合わせた割薬を詰めること、間に挟む和紙の厚みにもこだわります。圧力のかかり具合でも花火の開き方が異なるためです。

紙は先代が探し求めてたどり着いた薄い古紙などを使っているそう。ほんの少しの厚みの差や紙の強さが花火の仕上がりに影響する、本当に繊細な世界です。

星をバランスよく並べていきます。均整のとれた星が並ぶ姿はそれだけで美しかったです
それぞれの層が玉の中心となるように位置を合わせます
しっかりと合わせたら、余分な紙をカットします
ろくろを回しながら棒で叩き、全体の詰まり具合が均等になるように仕上げていきます
長い工程を経て、やっと「玉詰め」が終わります

さらに複雑な玉詰めの技術があります。日本が誇る、色彩豊かな花火の作り方、独自の技術が集結した「多重芯(たじゅうしん)」。花火の中心にいくつもの色の層を浮かびあがらせる技術です。

多重芯と呼ばれる玉詰めの様子
小さい芯を作って次の大きさの中心に入れます
繰り返し火薬を詰めながら次の層を作っていきます

小さい芯を作って次の大きさの中心に入れることを繰り返し、三重芯、四重芯といった多重芯が作り上げられます。

最初の1玉を作るだけでも大変な作業ですが、それを何度も繰り返していく多重芯。1玉詰めるのに1日半以上かかる大仕事です。

単色の花火も美しいですが、カラフルな色が混ざり合う華やかな花火を眺められるのは日本の花火大会ならではだそう。打ち上がるまでに、こんなにも手間がかかっていたのですね。

花火を丸く大きく開かせるために重要な「玉貼り(たまばり)」

こうして火薬が詰め終わった玉は最後の仕上げを迎えます。クラフト紙を何重にも上貼りしていく「玉貼り」という工程。

花火が丸く大きく開くかどうかは、爆発の力と圧力が鍵となります。玉を抑え込む圧力を決めるこの玉貼りでは、クラフト紙の厚みや貼り具合が重要になるそうです。

微細な圧力の差を考慮して作られた自社製の糊を使って、貼っては乾かす作業を何度も繰り返します。こちらも時間がかる作業。

尺玉と呼ばれる直径30センチメール以上の玉が貼りあがるには、およそ2週間もかかるのだそう。

糊のついたクラフト紙を貼っていく工程も人の手で行います
こちらは大玉の玉貼り
太陽の下で乾燥させます

長い工程を経て夜空に花開く大輪

「花火は、星、詰め、貼りの3つのバランスで大きな花が開きます。それぞれの職人が次にバトンを繋いでいくことで美しい花火が空に上がるのです」

打ち上がるまで実際の仕上がりが見えない中で計算とイマジネーションで配合を決め、何ヶ月もかけて星を作り、丁寧に詰めてさらに数週間かけて仕上げていく。

一瞬のきらめきが生まれるまでに、職人さんのこれほどの手間ひまと長い歳月がかけられていることに、本当に驚きました。若手の職人さんに厳しく指示をされている姿も印象的でした。

「齊木煙火本店」の代表作「聖礼花(せいれいか)」。淡いパステルカラーの色合いが特徴です

この花火は、「齊木煙火本店」オリジナルで数々の賞を受賞している作品「聖礼花(せいれいか)」。

「コンセプトは『幸せを運ぶ』。愛情を示すピンク、清らかさを表現する水色、幸せを表すレモンの3色を組み合わせた花火です」と齊木さん。

この淡い色合いを出すのには火薬の配合で多くの工夫が必要なのだそうです。

日本の花火は世界一と言われますが、現代においてもまだまだ進化を遂げています。今年の夏はどんな花火が見られるでしょうか。

長い工程を知った上で眺める花火はさらに味わい深いものに感じられるような気がします。

各地で行われる花火大会、とても楽しみですね。

<取材協力>

株式会社 齊木煙火本店

http://www.saikienkahonten.co.jp/

花火写真:金武 武

文・写真 :小俣荘子 (一部写真 齊木煙火本店提供)

*2017年7月公開の記事を再編集して掲載しました。浴衣を着て花火大会、出かけたいなぁ。

小平奈緒の金メダルを支え、谷口浩美は「この靴のおかげ」と言った。

ゴールドのライン

「銀メダルおめでとう。500メートルは必ず金。応援してます。体調には気をつけて」

今年2月14日、平昌五輪の6日目。スピードスケート女子1000メートルが行われ、日本の小平奈緒選手が銀メダルを獲得した。

兵庫県加古川市の自宅でその快走を見ていたシューフィッター 三村仁司さんは、小平選手にお祝いと激励のメッセージを送った。しばらくすると、小平選手から返信が届いた。

「ありがとうございます。自信をもってあとはやるだけです」

銀メダルに気落ちした様子も、4日後に控えた500メートルに向けて気負っている気配もない。三村さんは頼もしく感じながら、再びメッセージを書いた。

「そうですね。自信をもってやれば結果がついてきますよ。気持ちを強く持って、自分に勝ってください」

三村さんは、平昌五輪前のやり取りを思い出していた。アシックスを定年退職した後の2009年、故郷の加古川市に立ち上げた「ミムラボ」では、さまざまなジャンルのスポーツ選手にオーダーメイドのシューズを作っている。

ミムラボ。15人の若手社員がシューズづくりに勤しむ
兵庫県加古川市のミムラボ。15人の若手社員がシューズづくりに勤しむ

小平選手にも、レース前のアップ用、ダッシュ用などトレーニングシューズを4種類提供しているのだが、五輪前に小平選手から「金メダルを取るので、ゴールドのラインが入ったシューズを作ってください」と頼まれたのだ。

今年1月1日、三村さんはニューバランスとグローバルパートナーシップ契約を締結。小平さんにもニューバランスのシューズを提供しており、側面に入る白い「N」の文字をゴールドにしてほしいという依頼だった。

まだニューバランスと契約して間もないこともあり、「N」をほかの色に変えたことがなかった三村さんは、「わしは白のラインしか無理やねん」と一度は断ったそうだ。しかし、小平選手も諦めない。

「一足だけでいいので、ゴールドのラインで作ってもらえませんか?」

いつも素直で謙虚な小平選手が、ここまで食い下がるのだ。よっぽど平昌五輪に懸ける想いが強いのだろうと思った三村さんは、ニューバランスに掛け合い、特別に「N」が金色に輝くシューズを二足用意した。そのシューズが小平選手のもとに届けられたのは2月4日。その二日後、小平選手はピョンチャンに向けて旅立った。

1000メートルで銀メダルを取り、迎えた500メートル戦の2月18日。小平選手は、五輪新記録の36秒94を叩き出し、表彰台の一番高いところで君が代を聞いた。スピードスケートでは、日本女子で初となる金メダルだった。

三村さんが小平選手に送った「N」がゴールドのシューズ
三村さんが小平奈緒選手に送った「N」がゴールドのシューズ

51年のキャリアを誇る三村さんがシューズの製作を手がけてきた数百人の選手のなかで、五輪の金メダリストは4人目だった。フィンランドのラッセ・ビレン選手、マラソンの高橋尚子選手、野口みずき選手、そして小平選手だ。

1967年3月21日、兵庫県神戸市。

この日、兵庫県立飾磨工業高等学校を卒業した三村さんは、アシックスの前身、オニツカに入社した。配属は第2製造課。多品種少量生産の部署で、さまざまな種類のシューズを手づくりするのが仕事だった。

三村さんは、納得がいかなかった。陸上の名門校でキャプテンを務め、インターハイにも出場した経験のある三村さんのもとには、3校の大学から推薦入学の話が来ていた。それを蹴り、オニツカで働くことを選んだ理由は「勉強が嫌いだから」だけではない。

高校時代に履いていた布製のランニングシューズがあまりに貧弱で、すぐに破れたため、「もっと丈夫な靴があったらええのに。研究して良いものを作りたいな」という強い想いがあったからだ。

面接の時にも「研究所で働きたい」と希望を伝えていたから、第2製造課への配属は不本意だった。その不満を上司に伝えると、「ものづくりをわかってからにしたほうがええ」と諭されて、渋々ながら受け入れた。

第2製造課では靴づくりをイチから学び、6年目、念願の研究室に異動。ゴムやスポンジの硬度、軽さ、クッション性、接着剤、摩耗の速度など機能的なことを学んだ。

すべてのシューズの基礎となる足型を測るための道具
すべてのシューズの基礎となる足型を測るための道具

転機が訪れたのは74年。この年、オニツカはトップアスリートを育成し、サポートすることでシューズのブランドと認知度を高めようという方針を定めた。当時、同じような戦略をとっているメーカーはほかになく、日本では先進的なアイデアだった。この新機軸を担う人材として経営陣から白羽の矢を立てられたのが、三村さんだった。

「トップ選手とコミュニケーションを取るにはある程度運動できる人間が適してるだろうってね。僕は入社してからずっと陸上部のエースで、別府毎日マラソンにも出ていましたから。それと、選手個々の対応をするからには、軽さとか反発性とか専門的なことがわからないといけない。さらに、自分で靴づくりもできなきゃいけない。その3つの条件に適う人材がほかにいなかったんですよ」

名刺には「特注チーム」と刷られていたが、メンバーはひとり。この日から、「教えてくれる人もいないし、ほんまにええ靴できるかな」と半信半疑の若者の試行錯誤が始まった。

1980年7月、モスクワ。

足型の作り方を模索するところから始まった三村さんのシューズづくりは、早くも1976年のモントリオール五輪で実を結んだ。三村さんが作ったオニツカの靴を履いて1万メートルに出場したフィンランドのラッセ・ビレン選手が金メダルを獲得したのだ。

日本でこのニュースを知った三村さんは、自分のシューズを履いた選手の活躍を「現地で見たかった」と思ったという。その願いは、次のモスクワ五輪で叶う‥‥はずだった。

モスクワ五輪の前年に行われたプレ五輪では、なんと陸上競技の選手のおよそ8割が三村さんのシューズを履いていた。そのなかには、マラソンでメダルが期待された宗茂、猛の宗兄弟、瀬古利彦選手も含まれていた。しかし、当時の国際情勢によって日本はモスクワ五輪をボイコットしてしまう。

商魂たくましいオニツカの経営陣は、それでもモスクワに幹部3人と三村さんを派遣。メダルが有力視される旧ソ連の選手にシューズを履いてもらおうと手を打った。

「バスを借り切ってね。ソ連の選手に声をかけたんですよ。バスの後ろにうちの靴を置いて、前から順番に入ってきてもらって『この靴、履く?履くならあげるけど』って。その当時、ソ連はモノが乏しい国だったから、選手はみんな『履く』と言ってね。50人ぐらいきましたかね。モスクワは暑くて、あの頃はクーラーもあれへんから、上半身裸になってトレパン一枚でやりましたよ」

笑顔でモスクワ五輪での出来事を振り返る三村仁司さん
笑顔でモスクワ五輪での出来事を振り返る三村仁司さん

この大会で、ソ連は80個の金メダルを獲得した。そのなかにオニツカのシューズを履いている選手は、残念ながらいなかった。

「大会に入ったら、うちのシューズを履いてたのはひとり、ふたり。ソ連で日本の靴なんてものすごく高かったから、売っちゃったみたい。みんな嘘ばっかりや(笑)」

 

1991年9月1日、東京。

東京で開催された世界陸上の最終日、男子マラソンが行われた。三村さんは、高輪プリンスホテルに用意されたオニツカのブースでレースを見守っていた。38キロ過ぎ、三村さんのシューズを履いていた谷口浩美選手が猛烈なスパートをかけて先頭集団から抜け出し、そのままトップでゴールテープを切った。世界陸上では日本人初となる金メダルだった。

優勝インタビュー。アナウンサーの「金メダル、おめでとうございます!」という言葉に「ありがとうございます」と返した谷口選手はこう言葉を続けた。

「三村さんの靴のおかげで勝てました」

足型など詳細なデータを記入するシート
足型など詳細なデータを記入するシート

テレビでこの言葉を聞いた三村さんは、「谷口の靴を作ってよかった」と胸が熱くなったという。しかし、その後の展開は予想外だった。金メダルを取った選手が第一声でシューフィッターに感謝するというのは、誰も想像しない異例の事態だった。そこに疑問を抱いたオニツカの社長から「お前、谷口にあんなふうに言えと言うたんか」と問い詰められてしまったのだ。これには三村さんも驚いた。

「社長に言いましたよ。僕はそんなん絶対に言いませんと。それに、もし谷口に『優勝したら靴が良かったって言えよ』と頼んだって、あんだけ走って第一声でそんなん出てきますか?ありえませんよって」

金メダルを取った直後、恐らく無心の状態で発した谷口選手の一言が引き起こした、知られざる珍事件だった。

 

2004年8月22日、アテネ。

アテネ五輪の女子マラソンは、18時にスタート。気温が30度を超える酷暑のなか、力強い走りを見せた野口みずき選手が独走状態になり、五輪発祥の地で金メダルに輝いた。

パナシナイコ競技場の片隅でレースを見守っていた三村さんは、野口選手のゴール後、シューフィッターとして取材を受けていた。すると、別の記者がやってきて「野口みずきがシューズにキスしたの、見ました?」と聞かれた。いや、見ていないと答えたが、その数分後、シューズを両手に持ち、数秒間、目をつぶりながら唇を当てている野口選手の姿がオーロラビジョンに映し出された。

三村さんはアテネのマラソンコースを現地で分析し、野口選手の優勝を予想していた
三村さんはアテネのマラソンコースを現地で分析し、野口選手の優勝を予想していた

翌日の10時半ごろ、監督、コーチとともに野口選手が訪ねてきた。靴にキスしたらしいな、と言うと、野口選手は頬をほころばせた。

「独走してたから、ゴールの2キロぐらい手前からなにかパフォーマンスせなあかんと思ってたそうですね。彼女は、この過酷なコースに耐えられるような靴を作ってくれた三村さんに感謝したい、金メダル取れたのは皆さんの応援があったからで、感謝の気持ちを込めてやりましたと言ってました」

野口選手はそのシューズにサインを入れて、三村さんに差し出した。「ほんまにわしにくれるんのか?」と尋ねると、少し戸惑ったように黙っている。三村さんは「やっぱり手元に置いておきたいんだな」と察し、「いいよ、お前が記念に持っとけ」と言うと、野口選手はニコリと笑って頷いた。

翌日、野口選手がまた訪ねてきた。優勝タイム「2時間26分20秒」と記したサイン入りのブロンズの置物を手にして。

思い返せば、2000年のシドニー五輪で同じく靴を作っていた高橋尚子選手が金メダルを獲得していたから、シューフィッターとして五輪二連覇だった。

ひとつの武器としての靴

三村さんがたったひとり、まさに手探り状態でシューフィッターの仕事を始めてから、44年が経った。その間、三村さんのシューズを履いた多くの選手が、国内外で栄冠を手にしてきた。

陸上選手以外にもイチロー選手、青木宣親選手、内川聖一選手、長谷川穂積選手、香川真司選手などそうそうたるアスリートが名を連ねる。同じような実績を持つシューフィッターは、ほかにいない。

プロアマ問わず、大勢のアスリートがミムラボを訪れる
ミムラボの壁に飾られたアスリートたちの写真

なぜ、三村さんのシューズは、これほどまでにアスリートを惹きつけるのか。次の言葉が、そのヒントになるだろう。

「僕は選手が疲れにくい、故障しにくい靴を作っています。そしたらたくさん練習できるじゃないですか。練習ができるということは一番の強みであり、武器なんですよ。練習できない選手が強くなる要素はひとつもない。選手は、強くなるために必死にやっとるんですよ。それを叶えてあげるひとつの武器として靴があるんやという気持ちがあれば、いい加減なモノづくりはできませんよ」

アスリートの疲労や故障は、バランスの崩れから生まれる。

例えば走っている時、左右の足の蹴る力に差が大きければ大きいほど歪みが生じる。無意識にそれを庇おうとしてさらに偏りが出て、身体全体に蓄積していく。それが疲労やケガにつながるのだ。

それを防ぐためには、選手の癖や弱点を把握して、矯正しなくてはならない。三村さんはそこまで徹底的に付き合う。

「選手の足にフィットするシューズを作るのは、仕事の半分。もう半分は、選手をいかにして強くするか。シューズをつくる時に選手の希望を聞くだけじゃダメでね。足の測定をすると、その選手の弱点、悪いところ、みんなわかるわけですよ。そこは長年の勘だけどね。

ここが傷むだろうと聞くと、どうしてわかるんですか?とみんな驚くよ。弱いところは強くしなあかん。悪いところは直していかなあかん。それをせん限り、お前は強くならんよと伝えます。それから、ここが弱かったらここが痛くなるから、このように鍛えて強くせいとトレーニングの方法まで教えます」

シューズ職人の三村仁司さん
長く活躍できるのは「素直な選手」と語る三村さん

三村さんの指導は、日常生活にまで及ぶ。例えば、小平選手は足のアーチ(土踏まず)が低くなる傾向があるため、アーチを上げるための矯正用インナーソールを作り、私生活で履くように伝えているという。

数々の好記録の陰には、強くなりたいと願う選手が思う存分トレーニングができるように作られた三村さんの特製シューズがあったのだ。

2018年5月9日、兵庫県加古川市。

小平選手が、2つのメダルを持ってミムラボを訪問した。その様子はテレビ番組でも報道されたから、憶えている方もいるかもしれない。小平選手は感謝の印として、15人いる社員ひとりひとりにキーホルダーを手渡した。

三村仁司さんと小平選手のツーショット
提供:ミムラボ

その日に撮影された、三村さんと小平選手のツーショット写真。満面の笑顔で金メダルをかけているのは、今年70歳、生ける伝説とも称されるシューフィッターだった。

<取材協力>

ミムラボ
兵庫県加古川市東神吉町神吉1123-4
079-432-1236

文・写真: 川内イオ

モダンな一面を持つ守り神、熊本の「木の葉猿」を訪ねて

こんにちは。中川政七商店の吉岡聖貴です。

日本全国の郷土玩具のつくり手を、フランス人アーティストのフィリップ・ワイズベッカーさんとめぐる連載「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」。

連載9回目は申年にちなんで「木の葉猿」を求め、熊本県玉名郡の木の葉猿窯元を訪ねました。

ワイズベッカーさんのエッセイはこちら

木葉の山生まれ、異国情緒漂う赤土の猿

熊本県の荒尾・玉名地域は県内最大の窯元の集積地。
江戸初期、肥後藩主となった細川忠利の主導でこの地に“小代焼”が生まれました。

小代焼はスリップウェアに代表される装飾性と実用性を兼ね揃えた日用の器。
その流れをくむ窯元が大半である中、群を抜いて歴史が古い素焼きの土人形を作っているのが「木の葉猿窯元」です。

熊本県玉名郡の木の葉猿窯元
木の葉猿窯元

木の葉猿の起源は遡ること1300年以上前、奈良時代初期の養老7年元旦に木の葉の里に貧しい暮らしをしていた都の落人が夢枕に立った年老いた男のお告げによって奈良の春日大明神を祀り、木葉山の赤土で祭器を作った。残った土を捨てたところ、それが猿になり「木葉の土でましろ(猿)を作れば幸いあらん」と言い残して姿を消したため、落人たちは赤土で祭器と共に猿を作り神に供えたところ、天変地異の災害があっても無事であった、と言い伝えられます。

以来、悪病、災難除け、夫婦和合、子孫繁栄の守り神とされるようになったそうです。

春日大明神が祀られた宇都宮神社
春日大明神が祀られた宇都宮神社
種々の木の葉猿
種々の木の葉猿

「日本的ではない気がする。アフリカっぽい。」

ワイズベッカーさんがそう言うように起源は諸説あり、南方やインド、中国を起源とする説や明日香村の猿石やモアイを原型とする説などもあるそうです。

江戸時代、木の葉の里が薩摩藩の参勤交代の道中だったこともあり、土産品として全国へ広まり、小説「南総里見八犬伝」の挿絵にも描かれていました。
大正5年の全国土俗玩具番付では、東の横綱に選ばれるほど有名な存在だったようです。

大正5年発行「全国土俗玩具番付」
大正5年発行「全国土俗玩具番付」

現存する唯一の窯元で、受け継がれる意志

「木の葉猿窯元」は、木の葉猿を作る窯元で唯一現存している窯元。

春日大明神を祀ったとされる「宇都宮神社」の参道を下った、ほど近いところにあります。
現在は、中興7代目の永田禮三さん、奥さん、娘さんの家族3人で営んでおられます。

木の葉猿窯元の8代目川俣早絵さん、7代目永田禮三さん、英津子さん
左から8代目川俣早絵さん、7代目永田禮三さん、英津子さん

「終戦後の6代目の頃は、焙烙、七輪、火消し壺などの日用品を作っていました。木の葉猿は僅かしか売れていなかったけれども継続はしていました。」

意外にも、木の葉猿に再び注目が集まるようになったのは近年のことだといいます。
昭和50年に熊本県伝統工芸品に指定、今では年間1万5千~2万個を作られているとのこと。

県内の伝統工芸館、物産館、東京の民芸店などに卸しており、最近は若いお客さんも多くなったといいます。

「小学生の頃から早く両親を楽にさせたいと言ってました。」

そんな親思いの三女・川俣早絵さんは、芸術短期大学で陶芸を専攻して、実家に戻り父に師事。7代目と共に木の葉猿の成形を担当しながら、8代目を継ぐ準備をされています。

習字の経験があり筆が早いという母・英津子さんは着彩を担当。親子3人の共同作業でつくられています。

木の葉猿は、指先だけで粘土をひねって作ったものを素焼したままの素朴な玩具。
形と謂れの違いで10種類ほど、大小合せると20種類以上。

食いっぱぐれないようにおにぎりを持っている「飯食い猿」や、赤ちゃんの象徴を抱いている「子抱き猿」、団子に似ている「団子猿」など。永田さん親子にその作り方を教えて頂きました。

①土練
まずは土を均一にするために、土練機を使って土練り。
土は地元の粘土を使い、素朴な風合いを出すために荒削りなものを選んでいるとのこと。

木の葉猿の材料になる赤土の粘土
材料になる赤土の粘土
土練機
土練機

②成形
粘土を指でひねって形をつくり、ヘラで細部を削る。そして1週間以上乾燥。
ヘラなどの道具は自身で竹を削って作られるそう。

木の葉猿窯元 製作風景
ヘラを使って整形の仕上げ
木の葉猿窯元 製作風景
粘土の乾燥

③焼成
乾燥した人形を300~500体まとめて月に一回程度、1日がかりで素焼き。
その後、いぶし焼きをして表面を黒っぽく仕上げ。

木の葉猿窯元 製作風景
いぶし焼きが終わると表面が黒っぽくなる

④絵付け
素焼きが完了した人形に、絵付けをして仕上げ。
以前は泥絵の具を使用していたが、現在は水溶性の絵の具を使用。

絵付けをした飯喰い猿
絵付けをした飯喰い猿

模様は昔から変わっておらず、白を基調に群青色と紅の斑点をつけるのが基本。
その意味は正確にはわかっていないそうですが、青と赤と白の彩色は「魔除け」を表しているのではないかと言われています。

種類によって魔除けや祈り、願いが込められた木の葉猿は、玩具というよりも御守り的な存在だったのではないでしょうか。

「木の葉猿をプレゼントした9割の夫婦が子宝に恵まれている」というお客さんがいるくらいなので、結婚祝いに添えてあげるのも良いかもしれませんね。

モダンなオブジェとしての意外な一面

永田さんにお話を聞いていて驚いたのが、カリフォルニアのイームズハウスにも木の葉猿が飾られているということ。

写真が載っている雑誌を見せてもらいましたが、確かに、本棚の和洋折衷なオブジェと一緒に木の葉猿が並んでいました。

イームズ夫妻が自身で持ち帰ったのか、プレゼントだったのかは定かでありませんが、アメリカのミッドセンチュリーモダンと日本の郷土玩具の接点が、まさかこんなところにあるとはという感じです。

土偶や埴輪のように原始的で、どこかユーモラスな木の葉猿が、モダンなオブジェとしての魅力も持っているという新たな側面。
日本の郷土玩具の意外な一面が垣間見れましたね。

さて、次回はどんな玩具に出会えるのでしょうか。

「フィリップ・ワイズベッカーの郷土玩具十二支めぐり」第9回は熊本・木の葉猿の作り手を訪ねました。それではまた来月。
第10回「宮城・独楽玩具の酉」に続く。

<取材協力>
木の葉猿窯元
熊本県玉名郡玉東町木葉60
営業時間 8:00-19:00
電話 0968-85-2052

文・写真:吉岡聖貴

「芸術新潮」6月号にも、本取材時のワイズベッカーさんのエッセイと郷土玩具のデッサンが掲載されています。ぜひ、併せてご覧ください。

猛暑ですね。氷で点てる、冷たい抹茶はいかがでしょう。

夏のための、冷たい抹茶があるのをご存知でしょうか。

氷で点てる、「氷点(こおりだて)抹茶」。
名前からして、なんとも涼やかな飲み物です。

 

暑い夏にもお茶会を。

元々茶道の世界では、暑い夏にお茶会はしないそうです。夏はお稽古もお休みする、というところもあるほど。その理由は、ただただ「暑すぎてできないから」。

暑く狭い茶室で、熱い抹茶を飲むのは辛い!というわけです。納得。

だけど、空調も整い、涼しい環境が用意できるようになった現代。
やっぱり夏にもお茶会を開きたいよねという想いで考案されたのがこの「氷点抹茶」というわけです。

茶論の氷点て抹茶

お茶の旨みと甘みを味わう

氷点抹茶は、お湯で点てたものを冷やすのではなく、最初から冷たい水で点てます。抹茶と水をゆっくりと合わせ、一気に点てる、を2回繰り返し、氷を浮かべたら完成。

ほどよく苦味が抑えられ、抹茶の旨みや甘みを存分に愉しめるのが特徴です。
また、ゴクゴクと飲めるのも嬉しいところ。暑い日に、ちょっと粋に楽しめる日本の飲みものです。

 

古都で味わう、氷点抹茶

そんな氷点抹茶をいただける、茶論 奈良町店。他にも、冷煎茶、抹茶ラテなど、夏に楽しみたいお茶メニューが揃っています。庭の緑で目を休めながら、涼味を満喫してみてはいかがでしょうか。

冷煎茶
たっぷりの氷で出す冷煎茶
茶論 奈良町店の「白いかき氷」
こだわりの練乳と瑞々しい寒天の「白いかき氷」も人気
茶論奈良町店 庭

茶論 奈良町店
〒630-8221 奈良県奈良市元林院町31-1(遊中川 本店奥)
0742-93-8833

営業時間
【喫茶・見世】 10:00~18:30 (LO 18:00)
定休日 毎月第2火曜(祝日の場合は翌日)
https://salon-tea.jp/

 

文:宮下竜介

道後名物「湯かご」とは?竹かごを手に愉しむ、温泉街のそぞろ歩き

自然の素材で編んだ「かご」。素材をていねいに準備し、ひと目ひと目編まれたかごはとても魅力的です。

連載「日本全国、かご編みめぐり」では、日本の津々浦々のかご産地を訪ね、そのかごが生まれた土地の風土や文化をご紹介します。

愛媛県松山市、道後温泉を訪ねます

今回訪ねたのは、愛媛県松山市の道後温泉。

3000年の歴史を持ち日本最古の温泉ともいわれる、かの有名な道後温泉は国指定重要文化財に登録されています。

古くから多くの人々に愛され、神話の時代の大国主命(オオクニヌシノミコト)や、聖徳太子をはじめとする皇室の方々や、「坊っちゃん」で有名な夏目漱石といった文化人などの来訪も多く記録に残っているといいます。

夜の道後温泉本館。たくさんの人々で賑わいます。
夜の道後温泉本館。たくさんの人々で賑わいます。
夜空に浮かびあがる姿も幻想的。塔屋の上には白鷺のモチーフ。昔、白鷺がこの道後温泉を発見したのだといわれています。
夜空に浮かびあがる姿も幻想的。塔屋の上には白鷺のモチーフ。昔、白鷺がこの道後温泉を発見したのだといわれています。

日が落ちたころ、この辺りにはお宿の浴衣に身を包んだ観光客の人々が多く見られます。

そして、その手には片小ぶりの可愛らしいかご。これは一体‥‥?

道後温泉の玄関前。若い男性陣の手に、かご。
道後温泉の玄関前。若い男性陣の手に、かご。
入浴券を買うために並んでいる人々の手に、かご。
入浴券を買うために並んでいる人々の手に、かご。
温泉前で佇むおじさまの手に、かご。
温泉前で佇むおじさまの手に、かご。
お土産物や飲食店が立ち並ぶ商店街を歩く人の手に、かご。
お土産物や飲食店が立ち並ぶ商店街を歩く人の手に、かご。
「ちょっと見せてください〜」「いいですよ、かわいいでしょ?」
「ちょっと見せてください〜」「いいですよ、かわいいでしょ?」

すると、ちょうど商店街に立ち並ぶお店で似たかごを発見!どうやらこれは「湯かご」と呼ばれているようです。

色々なサイズのものが重なって目を引く「湯かご」。
色々なサイズのものが重なって目を引く「湯かご」。

こちらのお店「竹屋」さんでお話を聞いてみることにしました。出迎えてくださったのは、物腰やわらかで笑顔で迎えてくださった女性、「竹屋」代表の得能光(とくのう・ひかり)さんです。

———こんにちは。こちらは竹のものを扱ってらっしゃるんですね。観光の方が小さなかごを持ってらっしゃるのはこちらのものですか?

「湯かご」のことですね。うちのかごもありますが、大半は近隣の宿が小さな「湯かご」を宿泊のお客さんに貸し出しているんですよ。

温泉のある宿もありますが、やはり歴史ある道後温泉本館のお風呂に入りに来られる方が多いですから、宿から湯かごを下げて歩いて来られます。

———そうなんですね。「湯かご」というのは昔からあるものなんですか?

「湯かご」は、元々は地元の人がお風呂に通うために、竹かごに石鹸や手ぬぐいを入れて持って行ったという実用品です。

うちのお店は竹のものを扱って今年の春で50年目を迎えるんですが、当時の地元の人の需要に応えるために、職人に頼んで「湯かご」になるかごをつくってきました。20年ほど前から、県外から来られた方が地元の人の「湯かご」を見て、かわいいとおっしゃって。

お土産としてうちの店のものが人気になったんです。

青竹を使った「あおゆかご」。職人さんの手によって、サイズもいろいろです。
青竹を使った「あおゆかご」。職人さんの手によって、サイズもいろいろです。
青々とした竹の色が鮮やか。経年で黄色く変化していくのだそう。底は「菊底編み」で、ここを中心として編み上げていきます。
青々とした竹の色が鮮やか。経年で黄色く変化していくのだそう。底は「菊底編み」で、ここを中心として編み上げていきます。

———「湯かご」としてのデザインは、昔からずっと変わらないのですか?

今、主流になっている「湯かご」のデザインは、わたしの父が最初に職人さんにつくってもらった「あおゆかご」です。

でも、「湯かご」の元祖は地元の方がお家にあった手のついた花かごの筒を抜いて、温泉に持っていったのが始まりとも言われているんですよ。

こちらの「しろゆかご」がその元祖のものです。花かごっぽいでしょう?

こちらが元祖「しろゆかご」。細く繊細なひごで編まれています。たしかに、お花が飾れそう。
こちらが元祖「しろゆかご」。細く繊細なひごで編まれています。たしかに、お花が飾れそう。
底は「網代(あじろ)底編み」という編み方で、これまた繊細です。
底は「網代(あじろ)底編み」という編み方で、これまた繊細です。

———「あおゆかご」と「しろゆかご」、印象がずいぶん違いますね。職人さんはたくさんいらっしゃるんでしょうか?

職人さんは、ひごをつくる職人さんと、編む職人さんがいます。

「しろゆかご」はひごの準備が繊細な作業になるんです。「あおゆかご」のように青竹を扱っている方は、だいたい全部の工程を1人でされる方が多いです。個人や家族でされている方がほとんどなのであまり人数はいないですね。

最近はうまく世襲ができず、おじいさんの代からひと世代空いて、その下の若い世代の方ががんばっている印象でしょうか。お父さん世代は、高度成長期にきっと別の仕事に就かれたんでしょうね。

店内は大きなかごや、お弁当箱など、竹を使ったものがたくさん扱われています。
店内は大きなかごや、お弁当箱など、竹を使ったものがたくさん扱われています。

———竹はこのあたりのものですか?

はい、もちろん。

別府の竹細工もそうですが、温泉地で竹細工が発展したのは、昔、温泉のお湯を利用して竹を曲げて細工していたからなんですね。

地熱の関係か、温泉地は温暖で竹が成長しやすいことも発展の理由だと思います。

かつて、聖徳太子がこの地を訪れた際、質の良い「伊予竹」という真竹が生息している竹林を見て「これで産業を興しなさい」と伝えたという話も残されています。

当時は、宮中に献上するすだれをつくったり、竹細工が盛んだったと聞いています。

———献上品だったのですね。質も高くてやはり高価なものだったんでしょうか。

もちろん竹の質は良いですし、手もかかったものですが、竹細工はきっと特別な工芸品というわけではなかったと思います。

農家の人が自分の家の近くの竹を割いて、冬の農閑期に編み、暮らしの道具として使っていたんでしょうね。竹は生息も早かったので、いろいろな道具にされていたようです。

普段使いの台所道具、ざるも揃っています。
普段使いの台所道具、ざるも揃っています。
うなぎを獲る、「竹びく」まで!
うなぎを獲る、「竹びく」まで!
もちろん、伝統的な花かごも色々。
もちろん、伝統的な花かごも色々。

———ところで、このあたりはずっと商店街だったんですか?あと、近隣の宿で「湯かご」を貸し出しはじめたのは割と最近のことなのでしょうか?

このあたりは、昔はお遍路の宿や、湯治場としての宿が多かったんです。お土産物やさんが増えたのもうちの店ができた頃なので50年ほど前。

近隣の宿やホテルで「湯かご」を貸し出し始めたのは10年ほど前で、うちの国産の「湯かご」を使ってもらっていたのですが、貸し出し用ということでやはり痛んでしまうことが多くて。

旅館組合さんのほうで海外産の安価なものを作られたようです。

———ええ、なんだか世知辛い感じがしますね。

でもね、そのおかげでたくさんの方が「湯かご」を手にして道後を歩くようになり、道後の名物というか風物詩のようになったんです。

お客さんがこの土地を楽しんでくださる機会になったので、悪いことだとは思っていません。

観光の方が「湯かご」に愛着をもって、道後温泉で過ごした思い出にうちの国産の「湯かご」をお土産に購入して持って帰られますし、それはそれで、やはり嬉しいので良かったなと。

今でももちろん、うちの「湯かご」を貸し出し用に使って下さっているお宿もあります。

———相乗効果、なんですね。私も「湯かご」が欲しくなりました。明日はマイ湯かごで道後温泉に行ってみます!どうもありがとうございました。

商店街の中の「竹屋」を後にします。お土産物のほか、竹の台所道具など、欲しいものがたくさんありました。
商店街の中の「竹屋」を後にします。お土産物のほか、竹の台所道具など、欲しいものがたくさんありました。

たくさんお話を聞かせていただき、「あおゆかご」を購入して宿に戻ると、貸し出し用の「湯かご」がたくさん並んでいました。

宿泊した宿で貸し出していた「湯かご」。観光客の皆さんは、これを持っていたのですね。
宿泊した宿で貸し出していた「湯かご」。観光客の皆さんは、これを持っていたのですね。

こちらも可愛らしいですが、やはり、つくりは「竹屋」さんのものが抜群にしっかりしています。いい「湯かご」を持っていざ道後温泉へ。楽しみです。

いざ、「湯かご」を持って道後温泉へ

この土地でつくられた「湯かご」を持っている人はあまり多くなく、私はなんだか鼻高々で道後温泉へ。

昼間の道後温泉はわりと空いていておすすめです。
昼間の道後温泉はわりと空いていておすすめです。
発券所に並んで、好きなコースの入浴券を購入。
発券所に並んで、好きなコースの入浴券を購入。

道後温泉は入浴コースがいくつかあり、入浴のみのコースから、浴衣や貸しタオル付き、さらに湯上りにお茶やお菓子もいただけるというコースまでさまざまな楽しみ方ができます。今回はせっかくなのでいちばん贅沢な個室の休憩室がついたコースを選びました。

かつて「上等」と呼ばれた3階の個室。白鷺模様の浴衣に着替えます。
かつて「上等」と呼ばれた3階の個室。白鷺模様の浴衣に着替えます。
浴衣に着替えたら、湯かごを下げて温泉に。いってきます!
浴衣に着替えたら、湯かごを下げて温泉に。いってきます!
壁に砥部焼の陶板画が飾られ、湯釜と呼ばれる湯口が鎮座する「神の湯」、庵治石や大島石の浴槽や大理石の壁面など高級感のある「霊の湯」、2種類のお風呂が楽しめます。
壁に砥部焼の陶板画が飾られ、湯釜と呼ばれる湯口が鎮座する「神の湯」、庵治石や大島石の浴槽や大理石の壁面など高級感のある「霊の湯」、2種類のお風呂が楽しめます。

日本人のきめ細やかな肌にやさしく、湯治や美容に適するという道後温泉の湯。それぞれ温度の違う18本の源泉からバランス良く汲み上げることから、ちょうど42度の適温を保っているそうです。

みなさん、湯船では頭の上にタオルをのせて「いい湯だな〜」と自然と鼻歌がでる感じ。日本人はやっぱり、温泉が好きですね。さて、2種のお風呂を存分に堪能して休憩室に戻ると間もなく、お茶とお菓子が運ばれてきました。

砥部焼の茶碗に、輪島塗の器。3階個室では道後名物「坊っちゃん団子」がいただけます。 
砥部焼の茶碗に、輪島塗の器。3階個室では道後名物「坊っちゃん団子」がいただけます。
開け放たれた窓からの景色も良い感じ。濡れた手ぬぐいを乾かしつつ、私も風にあたりながらお茶をいただきます。
開け放たれた窓からの景色も良い感じ。濡れた手ぬぐいを乾かしつつ、私も風にあたりながらお茶をいただきます。

少しうとうとするぐらいゆっくり休憩したあとは、館内の見学を。

松山の地にゆかりのある夏目漱石に関連した「坊っちゃんの間」や、明治32年に建てられた日本で唯一の皇室専用浴室「又新殿」などを拝見しました。

明治時代の「湯券」などの展示も行われています。
明治時代の「湯券」などの展示も行われています。
広間の2階席はこんな感じ。こちらもわいわいと楽しく寛げそうです。
広間の2階席はこんな感じ。こちらもわいわいと楽しく寛げそうです。

歴史ある道後温泉の地、松山で生まれた「湯かご」。

この「湯かご」もまた、これから多くの人々に愛されてさらに歴史を刻んでいくのでしょう。しかし、職人さんが少なくなっていることや技術の継承が難しくなっていることも事実。

この文化が、流れる時間の中であるべき形でうまく残っていくことを願いつつ、まずはみなさんに「湯かご」文化を知ってもらい、そしてこの地を実際に訪れて楽しく「湯かご」に触れていただければ嬉しいなと思います。

夏の道後温泉も、とても気持ちが良さそうです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

<取材協力>
「竹屋」
愛媛県松山市道後湯之町6−15-1F
089-921-5055
http://www.takeya.com

「道後温泉本館」
愛媛県松山市道後湯之町6-8
089-921-5141
http://www.dogo.or.jp

文・写真:杉浦葉子

*2017年2月の記事を再編集して掲載しました。暑い季節に温泉で汗を流して、浴衣に湯かごで涼しげに街をそぞろ歩くのも、楽しそうですね。

夏の手ぬぐい活用術を、専門店に聞く

夏をイメージした新作手ぬぐいもたくさん。梅酒やビールなどの大人っぽいデザインも人気です。

ハンカチよりも大きくてタオルより場所をとらない手ぬぐいは、汗をたっぷりかく夏のおともにぴったり。工夫次第でいろんな楽しみ方ができるのも遊び心をくすぐりますね。長く使うほど手になじみ、独特の風合いがでるのも手ぬぐいと過ごす喜びのひとつです。

そこで今回は、「手ぬぐい専門店にじゆら」さんに“夏”を入り口にした手ぬぐいの楽しみ方についてお話を伺いました。夏以外の季節にも役に立つ息の長い利用術も。ぜひ手ぬぐいデビューの参考にしてみてください。

大阪の堺に染め工場を持つ株式会社ナカニが運営するにじゆらさん。「注染」と呼ばれる染めの技法で、親しみのある手ぬぐいを作り続けています。今回は東京のお店にお邪魔しました

「注染」は、長いさらしを糊付けしながら何重にも折り重ね、上から染料を注ぎ込んで一気に染め上げる伝統的な技法。店内にはさらしを折り重ねる作業で使用する糊台や、裁断前の長いままの手ぬぐいが置かれ、月に1回体験型のワークショップも行われています。

色とりどりに染め上げられた手ぬぐい生地
工程で使う道具がディスプレイされています

夏から始める、手ぬぐい活用術
<基礎編> 浴衣に合わせる

浴衣と手ぬぐいの色や柄の合わせ方はとても簡単。ポイントは浴衣と同系色にしないことと、なるべく色の濃さを揃えることなのだとか。

「例えば青い浴衣なら白やレモン色、黒や茶色の浴衣なら紫の手ぬぐいなんて良いですね。浴衣を引き立てるためにも、あまり派手すぎない色合いがおすすめです。『古典柄』と呼ばれる昔からお馴染みの柄は浴衣全体のまとまりをよくしてくれますよ」と語るのは、にじゆらの東京店「染めこうば にじゆら」で店長を務める池上 槙吉(いけがみ・しんきち)さん。

「手ぬぐいに何となく難しそうなイメージがある人にも、『いろんな使い方があるんですよ』とやわらかく考えてもらえるようにご提案しています」と池上店長

基本的なルールを抑えれば、組み合わせは自由自在。自分の浴衣に合いそうな手ぬぐいをひとつ手に入れるところから、手ぬぐいのある生活を初めてみるのもいいかもしれません。

<応用編>
その一、涼しげな「ペットボトルホルダー」

「手をぬぐうものだから『手ぬぐい』なんですが、魅力はそれだけじゃないんですよ」と池上店長。

「ペットボトルを手ぬぐいで包んでペットボトルホルダーのように使えば、鞄が水滴でびしょびしょにならずにすみます。タオルで巻いて輪ゴムで留めるよりもずっと見栄えがいいですよ」と語ります。

飲み口の少し下側で手ぬぐいをマントのように結び、そのまま全体を包んで……。
余った部分はねじって紐状に。飲み口の近くでまとめると取手になります。
あっという間にお洒落なペットボトルホルダーが完成! 鞄に入れるもよし、取っ手を鞄の紐に通して携帯することもできる優れものです。

縁日で買った何の変哲もないペットボトルも、忍ばせておいた手ぬぐいを使えば浴衣になじむ和小物に早変わり。鞄の中に入れても水滴がつかないのはもちろん、取っ手付きなので持ち運びも簡単です。

その二、2回縫うだけ、あっという間の「あずま袋」

また、浴衣で出かけるときにおすすめなのが「あずま袋」なのだとか。手ぬぐいを2回まっすぐ縫うだけで完成するシンプルな袋で、浴衣に似合うバッグとして重宝します。

まずは90センチの手ぬぐいを三つ折りにし、片側を開いて上辺の2枚(青色の点線の部分)を縫い合わせます。縫い終わったら下辺はめくっておきます
その後、開いた片側をもう一度折り重ね、下辺(赤色の点線の部分)を縫ってくるっとひっくり返せば完成!

「畳んでおけば邪魔にならないので、外出先で荷物が増えたときにも役に立ちます」と池上店長。エコバッグとしても使い勝手は抜群で、ひとつ鞄に入れておくと一年を通して活躍してくれます。

漬け始めたばかりの爽やかな梅酒柄のあずま袋が完成。浴衣にも似合いそうですね。巾着に比べて収納力も抜群です。

その三、「半襟」に「スカーフ」、ファッションのアクセントに

手ぬぐいは浴衣に合わせる半襟としてもちょうど良いサイズをしています。四つ折りにしてピンで留めるだけで完成する手軽さもさることながら、選んだ色や柄によって浴衣の印象も変えられるのもポイント。

また、浴衣を着ていないときにもスカーフとして使用することで首元が涼しげになり、汗を吸い取ってくれる効果も。いつものファッションのアクセントとして取り入れてみてください。

その四、寝汗対策に「乗せるだけ枕カバー」

「使い道がいろいろあるのはわかったんだけど、折ったり縫ったりするのはなんとなく難しそう……」という人もいるかもしれません(何を隠そう私もそうです)。そこで、夏にぴったりの簡単な手ぬぐい活用法として、「枕に被せる」というとてもシンプルな使い方を教えてもらいました。

寝汗をかきやすいこの季節。菌やダニを繁殖させないためにも、枕を清潔に保つのは大切です。枕カバーを毎日洗濯するのはなかなか手間がかかりますが、枕に乗せた手ぬぐいを取り替えるのはとても簡単。アロマオイルやバスソルトのように、その日の気分で手ぬぐいをチョイスするのも、1日の終わりの新しい楽しみになりそうです。

手ぬぐいのバラエティーはとても豊富。地域限定や季節限定のものもあるので、集める楽しさもありますね

手ぬぐいを育てる、手ぬぐいと育つ

夏に役に立つ手ぬぐいの活用法、いかがでしたでしょうか。池上店長は「手ぬぐいの色が抜けることを、うちでは『育てる』って言い方をしているんです」とのこと。

「デニムでもそうだと思いますが、使えば使うほど味がでるものというのが、手ぬぐいもひとつ最たるもの。『色が抜けちゃった』ではなくて『自分がこういうふうに使ってきたんだな』と、人とは違う経年変化を味わえるのもまた良さなんです」

同じ柄を友達同士で買っても、洗い方ひとつで色合いは全然変わってくるのだとか。育てれば育てるほどに愛着は増すのも、手ぬぐいの奥深さですね。

手ぬぐいとの生活に慣れれば慣れるほど、使い方の幅も広がります。文庫本カバーのアレンジもかわいらしいですね

ぜひ、この夏をきっかけに手ぬぐいのある生活を始めてみてください。

<取材協力>
手ぬぐい専門店にじゆら 染めこうば店

東京都台東区上野5-9-18 2K540 AKI-OKA ARTISAN O-2区画

03-5826-4125

http://nijiyura.com/

文・写真:いつか床子