新潟の縄文土器タンタン麺が熱い 店主「凄いものができた」

新潟県十日町市。この地に、ひときわ目を引くご当地ラーメンがあります。

その名は「火焔 (かえん) タンタンメン」。

地元の人々はもとより、評判を聞きつけた他県からの観光客もこのタンタンメンを目当てに訪れるのだそう。

豊かな地元食材をふんだんに

十日町の食材で作った火焔タンタン麺

食欲をそそる真っ赤なピリ辛スープに、もっちりとした弾力のある麺。具材は「何を食べても美味しい!」と言われる十日町で採れた豊かな食材。

豪雪の下で甘みを増す雪下ニンジン、歯ごたえが魅力のエリンギ、ご当地ピクルスとも言われるピリ辛スパイシーな神楽南蛮、まろやかな甘みとシャキシャキ食感がアクセントとなるチンゲン菜、口の中で溶け広がる脂がジューシーな旨味を生む妻有ポーク‥‥など。

勢いよく麺をすすり、後からやってくるピリリとした刺激を楽しみ、具材によって変化する味や食感を堪能する。ほんのりと汗をかきながら夢中で平らげてしまいました。

器に宿る、縄文の存在感

文句なしに美味しいタンタンメンですが、それだけでない「ただならぬ」雰囲気があります。少し視線を下げて、器を見てみましょう。

十日町の赤土を使って作られた妻有焼の丼
力強さを感じる丼

なにやら力強い渦が無数に描かれています。

実はこの丼、十日町で出土し国宝となった縄文土器「火焔型土器」をモチーフに作られたもの。どっしりとしたフォルムに、独特の火焔模様を描きました。この地で取れる赤土を使って作った妻有焼の器です。

燃え上がる炎のような形と文様の火焔型土器
国宝「火焰型土器」 (新潟・十日町市蔵、十日町市博物館保管)
燃えあがる炎を彷彿とさせる装飾

かの岡本太郎も衝撃を受けたという、縄文土器。およそ5500~4500年前の造形が、現代においても色褪せない魅力を放っています。存在感のある炎のモチーフは、燃えるような赤いスープのピリ辛タンタンメンにぴったりの存在に感じました。

火焔型土器のイメージを元に作られたかのように見える火焔タンタンメンですが、実は偶然のめぐり合わせで生まれたのだそう。いったいどういうことなのでしょう。

火焔タンタンメンの生みの親、「手打ちラーメン 万太郎」店主の板場克也 (いたば かつや) さんにお話を伺いました。

十日町の人気ラーメン店「手打ちラーメン 万太郎」
「手打ちラーメン 万太郎」。地元で愛されている同店、背脂の乗ったラーメンが看板商品であったことから「そろそろ万太郎切れ、給油しに行こう!」なんて冗談交じりに誘い合わせた地元の人々が通う人気店です
株式会社麺屋万太郎社長で、十日町ラーメン会十連会長も務める、板場克也 (いたば かつや) さん
十日町ラーメン会十連会長も務める、板場さん

ラーメンで町おこし

「新潟というと、背脂ラーメンが生まれた燕三条が有名ですが、十日町にも多くのラーメン店があります。年々増えるラーメン店の様子をみていて、このままでは地元のお客さんの取り合いになってしまうなと危惧していました。

せっかくなら、みんなで協力しあって外から人を呼び込めないかと、ご当地ラーメンの開発を思いつきました。電話帳でラーメン店を探して、端から順に電話で声をかけて、集まってくれたお店と協力して十日町らしいラーメンを作ることになったんです」

「何を作ろうかと考えた時、試しに地元の越後妻有地域 (新潟県十日町市・津南町) で作られている農作物を集めてみました。エリンギ、ニンジン、神楽南蛮、チンゲン菜、妻有ポーク‥‥と並べていて、これはタンタンメンの具材だなと。

タンタンメンではスープに練りゴマを入れることが多いですが、それぞれのお店のスープの味を消してしまわないように、ラー油のみを使うことにしました。美しいヒマワリ畑が地域の観光名所の一つです。そのイメージが伝わるようにヒマワリ油のラー油を使うことにしました。

同じタンタンメンでもお店によって味が違うので、巡っても楽しめるんですよ」

導かれるようにたどり着いた「火焔」

「地元の食材を使ったご当地ラーメンなので、『妻有タンタンメン』として売り出そうと準備を進めていました。しかし、すでにブランド化されていた『妻有そば』と名前が似てしまうことから、別の名前にしてほしいと要望があり、ネーミングに大いに悩むことになりました。

その頃、相談に乗ってくれていた市役所の方が、『せっかくなら丼もオリジナルのものを作ったら?妻有焼だったら器も地元のものになるよ』と妻有焼センターを紹介してくれたんです。

丼の相談を進める中で、十日町から出土した縄文土器をモチーフにする案が浮上し、タンタンメンの燃えるような辛さに合う『火焔』のイメージに繋がっていきました。名前も『火焔タンタンメン』が良いのでは?と、思いがけず道がひらけました」

火焔タンタンメン

焼きあがった丼を受け取り、さっそく盛り付けてみた板場さん。タンタンメンの魅力が映える1杯に、「凄いものができた」と感激したそう。

「『妻有タンタンメン』でそのまま進めていたら、『火焔タンタンメン』は生まれませんでした。まるで縄文土器に導かれたようです」

国宝「火焰型土器 (新潟県十日町市 笹山遺跡出土)」新潟・十日町市蔵 (十日町市博物館保管)

NHK Eテレの人気番組「びじゅチューン」では縄文土器先生として登場するこの火焔型土器。子どもから大人にまで幅広く愛される国宝の1つです。2020年東京五輪が近づく今、日本文化のルーツとしても世界から注目されています。

今年は火焔型土器を含む縄文土器の一部が、東京国立博物館で7月3日から9月2日まで、また海を渡ってフランスでも2度の公開が予定されています。

もちろん、地元である十日町市博物館でも大地の芸術祭の会期中に公開されています。十日町を訪れたら、本物の縄文土器を鑑賞して、火焔タンタンメンを味わう。今昔の十日町の文化に触れるのも楽しそうです。

<取材協力>

手打ちラーメン 万太郎

新潟県十日町市上島丑735-7

025-757-0398

十日町火焔タンタンメン 公式サイト

http://www.kaen-tantanmen.com/

十日町市博物館

新潟県十日町市西本町1-382-1

025-757-5531

http://www.tokamachi-museum.jp/

文:小俣荘子

写真:廣田達也

7月、謎の天才絵師「絵金」が高知の夜を彩る。

こんにちは。BACHの幅允孝です。

さまざまな土地を旅し、そこでの発見や紐づく本を紹介する不定期連載、「気ままな旅に、本」。高知の旅も4話目になりました。

7月の高知を彩る「絵金」とは?

高知の夏は「絵金」に彩られる。といっても、何のことだか分からないかもしれません。

「絵金」というのは、幕末から明治にかけて高知で活躍した、独自の芝居絵屏風で知られる画家のこと。絵師・金蔵の名をとって「絵金」と呼ばれているのです。

高知県香南市赤岡町にある須溜田八幡宮で毎年7月の14・15日に行われる神祭。そこでは、神社に伝わる18点の芝居絵屏風を暗闇のなかロウソクの灯りだけで鑑賞する風習が続いています。

しかも、それらの絵は神社近くの商店街にある氏子たちの家に点々と置かれ、町全体を使ったインスタレーションのよう。

その日だけは街灯や自動販売機の電気も消し、当時と同じ光で闇に浮かび上がる絵金の作品をみるのです。

祭りの夜の雰囲気を再現した施設「絵金蔵」の様子
祭りの夜の雰囲気を再現した施設「絵金蔵」の様子

残念ながら、僕らは神祭のタイミングとは合いませんでしたが、その絵金の作品と祭りの文化を伝える「絵金蔵」を訪れ、この謎の多い絵描きについて詳しく知ることができました。

絵金
絵金

髪結いの子から土佐藩御用絵師に

まずユニークなのが絵師・金蔵の来歴。

1812年に髪結いの子として生まれた彼は幼い頃から画才を認められ、土佐藩御用絵師の前村洞和に学び狩野派を叩き込まれます。

通常、狩野派の修行期間は10年ですが、彼はわずか3年で免許皆伝。洞和から一字を拝領し、洞意の号を受けました。

髪結いの子が名字帯刀を許される御用絵師、林洞意にまで上り詰めたのです。

絵金
絵金蔵の中の展示資料を見学中

ところが、そんな順風満帆の彼を待ち受けていたのは突然の悲劇。33歳のとき狩野探幽の贋作事件に巻き込まれた彼は、お城下追放になってしまいます。

その時、彼が林洞意として描いた作品のほとんども焼き捨てられました。

後年描かれた狩野風の白描からはその天才的な筆力をうかがい知ることができますが、その優れた筆力が仇となって御用絵師・林洞意は闇の中へと姿を消すことになってしまったのです。

それからの10年間。失意の金蔵が一体どこで何をしていたのかは、未だに謎のままです。

絵金

ところが10年後、土佐に戻った彼は御用絵師の堅苦しい裃を脱ぎ、庶民の中で描きたい絵を自由に描く町絵師として復活します。

当時人気のあった歌舞伎や浄瑠璃の演目を脚色して芝居絵屏風を描き、廻船問屋や商工業が栄えた赤岡の町で庶民の熱狂的な支持を集めました。

それが、絵師・金蔵が誕生したきっかけです。

闇夜で目撃する絵金の筆致

弟子たちの作品を含め「絵金」風の芝居屏風絵は、1枚の絵の中に芝居のストーリーが幾重にも表現されているのが特長です。

絵金の弟子は「絵金さん」と呼ばれ親しまれた
絵金の弟子は「絵金さん」と呼ばれ親しまれた

二曲一隻屏風には赤や緑の鮮やかな色彩が踊り、大胆な構図の躍動感がみる人に「これでもか!」と迫ってきます。

紆余曲折を経た絵師・金蔵の絵にかける執念と描く悦びが屏風に叩きつけられているようなのです。

そんな彼の怨念にも似た筆致が暗闇のなかから浮かび上がる迫力は、実に見応えがあります。

絵金

というのも「絵金蔵」でも神祭の夜に倣って展示室を暗くし、ほのかな光のみで「絵金」を鑑賞できる仕組みがあるからです。
できれば、次回は本当の闇で彼の執念を目撃したいものですが‥‥

展示室では提灯を手に、祭りの夜さながらに暗闇の中で絵金の屏風絵の複製を見学できる
展示室では提灯を手に、祭りの夜さながらに暗闇の中で絵金の屏風絵の複製を見学できる

ちなみに絵金についてもっと詳しく知りたい方は高知県立美術館が発行する『絵金 極彩の闇』がおすすめです。

絵金蔵で関連書籍を手に取ることもできる
絵金蔵で関連書籍を手に取ることもできる

2012年に絵金生誕200年を記念して開催された展覧会図録ですが、大衆芸術として学術的には陽の目をみなかった「絵金」の価値を再認識させるきっかけになりました。

祭りの道具だった「絵金」が芸術として見直され、地域の活性化にも役立っているのです。

《まずはこの1冊》

『絵金 極彩の闇』 (高知県立美術館)

絵金 極彩の闇

<取材協力>
絵金蔵
高知県香南市赤岡町538
https://www.ekingura.com/


幅允孝 (はば・よしたか)
www.bach-inc.com
ブックディレクター。未知なる本を手にする機会をつくるため、本屋と異業種を結びつける売場やライブラリーの制作をしている。最近の仕事として「ワコールスタディホール京都」「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」書籍フロアなど。著書に『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(晶文社)『幅書店の88冊』(マガジンハウス)、『つかう本』(ポプラ社)。


文 : 幅允孝
写真 : 菅井俊之

納豆をおいしく食べるためのうつわ かもしか道具店「なっとうバチ」に惚れた

スーパーでもコンビニでも、手軽に買える栄養食品の納豆。毎日の食卓にのぼるからこそ、この道具を目にしたときは、ときめいた!

三重県菰野町にある山口陶器のオリジナルブランド「かもしか道具店」の「なっとうバチ」は、名前のそのまま納豆のためにつくられました。

そして、使い始めて早数ヶ月。会う人、会う人に紹介したくなる道具になりました。

いつも納豆を食べるとき、どんなふうにしますか?

かもしか道具店,なっとうバチ

パックにタレやからしを入れて混ぜる派もいれば、容器に移し替える派の方もいるはず。それで十分、不足なしと言われれば、その通り。

でも、かもしか道具店の「なっとうバチ」だからこその上質な納豆体験、あるいは「納豆新大陸!」と呼びたくなる時間があるのも、また事実なのです。

かもしか道具店,なっとうバチ
サイズは「ふつう」と「こぶり」、カラーは「黒」と「白」をそれぞれ展開。「ふつう」は市販の納豆が2パック、「こぶり」は市販の納豆1パックがちょうど入る
かもしか道具店,なっとうバチ
素焼きの器の内側に、うずまきのようなミゾ。このミゾが、納豆をおいしくする

混ぜやすい持ち手、掌に収まるサイズ感、注ぎやすい片口つきと、堅実な機能性は見ての通り。

これは何より、内側のミゾが、すごい。ぱっと見ではわかりにくい「内側」にこそ気が利いている、なんとも小粋な道具なのです。

まぜるほどに空気が入って、ふわふわに仕上がる。

かもしか道具店,なっとうバチ

納豆を入れて数回かきまぜるだけで、感じるちがいに箸の先からわくわくが伝わってきます。一回、二回、三回‥‥内側のミゾが空気をふくみやすくして、やわらかい粘り気をまとったふわふわ納豆に仕上がっていくのです。

はじめて食べたとき、その食感に驚きました。なめらかなやわらかさが心地よく、大豆の美味しさの輪郭がより際立つような発見もありました。

ふだんと同じようにかきまぜるだけ。それなのに、ふだんの何倍も美味しくなる。「パックでまぜればいいじゃない」と思っていた過去の自分にはもう戻れない。まるで、小粋な工芸に魔法をかけられたような心持ちでした。

そして、このミゾは洗うときにも真価を発揮。スポンジを沿わせるだけで気持ちよく粘り気が落ちていきます。

贈り物の悩みが減りました。

かもしか道具店,なっとうバチ
納豆だけでなく、ふつうの小鉢としても。洗いやすさが生きる

食べてよし洗ってよし、そして飾らない道具としての佇まい。食卓を選ばない使い勝手の良さが魅力の「なっとうバチ」ですが、それゆえに贈りものにもぴったりでした。

最近は、友人の結婚話を耳にするたび、「ふだんは納豆食べる?」と聞いてしまう私がいます。「納豆が得意ではない妻が、これなら美味しいと言っていた」と聞いたときは、心で深く頷きながら喜んだものです。

正直言って、胸をなでおろしています。これでもう、贈り物に悩むことが減りそうだからです。

電動でもなければ、何かを劇的に変えることはないかもしれない。でも、暮らしの景色をスッと心地よくしてくれる。上等なふだん使いの道具の魅力をあらためて感じながら、今日も納豆を混ぜています。

かもしか道具店,なっとうバチ
ちなみに、片口のおかげで、たまごかけごはんのときにも重宝します

<掲載商品>
かもしか道具店 なっとうバチ ふつう(中川政七商店)
かもしか道具店 なっとうバチ こぶり(中川政七商店)

文:長谷川賢人

世界にたった2人の職人がつくる伝統コスメ。伊勢半本店の「紅」

7月は紅花の季節。一大産地の山形では、6月下旬から8月初旬にかけて紅花摘みが行われます。

この紅花から生まれたのが日本伝統のコスメ、「紅」。

高畑勲監督の作品「おもひでぽろぽろ」にもエピソードが登場するので、ご存知の方も多いかもしれません。

ですが、実際に完成した紅が、こんな姿をしているのをご存知でしょうか?

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まばゆいような緑色!

一体、赤やオレンジのイメージがある紅花からどうしてこんな色が生まれ、そして唇を紅く染めるのでしょう?

今日は不思議な「紅」の魅力に迫ります。

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伊勢半本店 紅ミュージアムへ

訪れたのは東京・南青山にある「伊勢半本店 紅ミュージアム」。

運営するのは日本で唯一、江戸期より「紅」づくりを続ける株式会社 伊勢半本店さんです。

館内には実際の紅作りに使われる道具や昔のお化粧道具(これが美しい!)などが展示されているほか、実際に紅を試せるコーナーやショップも併設されてます。

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伊勢半本店さんの創業は1825年、日本橋にて。時は町人文化の全盛期です。

町行く女性たちのお化粧は、3色で成り立っていました。白・黒・赤。それぞれに白粉(おしろい)、眉墨・お歯黒、紅。

この紅を扱う「紅屋」は、それまで文化経済の中心地だった大阪・京都に多く軒を連ねていましたが、この頃次第に江戸にもお店が出るようになります。

そのひとつが、川越から出てきた半右衛門さんが20余年の奉公の末に伊勢屋の株を購入して開いた「伊勢半」でした。

なぜ、紅花といえば山形、なのか?

全国の産地から、紅花を丸く平らに固めた紅餅(べにもち)が紅屋に運ばれてきます。

中でも質が良いと評判だったのが最上紅花(もがみべにばな)。「おもひでぽろぽろ」の舞台にもなった山形の紅花です。

伊勢半本店さんでつくる紅は、この最上紅花のみを使用しているそうです。

案内いただいた阿部さんによると、紅花は朝夕の寒暖差のあるところでよく育つ植物。

山形の気候がその条件に適していたこと、加えて最上川の流通が古くから発達し、遠く大阪や京都にも物資を運べたこと、さらに他の産地に比べて花弁から取れる赤の色素が多く、生産が安定していたことが、山形の高品質な最上紅花ブランドを生んだそうです。

この赤い色素を紅花から取り出すというのが、大仕事。

日本に3世紀ごろまでに伝わったという紅花は、その色素の99%が黄色です。黄色は水に溶けやすいので、洗い流してたった1%の赤を取り出すところから、紅づくりは始まるのです。

実際の作業工程を少し覗いてみましょう。

産地の仕事、紅花摘みから紅餅づくりまで

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夏至から数えて11日目の半夏生の日 (毎年7月2日頃) 、花が咲き始めます。花の下1/3が赤く色づいた頃が摘みどき。つまり、花によって摘みどきがまちまちです。

摘むのは朝露でトゲが柔らかくなる早朝。花を支えているガクが収穫に混じらないよう、今でも全て手摘みです。

摘んだ花弁を揉み洗いして黄色の色素を流し、日陰で朝・昼・晩と水を打ちながら発酵させていくと、花弁の赤味が強くなります。

程よく発酵したところで臼でつき、丸めながら煎餅状にのばして天日干しすれば、紅餅の完成。

映画でも主人公がこの紅餅づくりの工程を体験していました。情景が思い出されます。

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この紅餅、ミュージアムでもガラス容器に入って展示されていました。蓋を開けると香ばしくツンとした、独特な香りがします。

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産地から紅餅が運ばれて、いよいよここからが紅屋さんの仕事。紅餅から赤い色素のみを取り出す工程に入ります。

紅屋の仕事、紅餅から紅を取り出すまで

お話を伺って感心したのが、その赤い色素の取り出し方。まるで身近なものを使った科学の実験のようなのです。

水に溶けやすい黄色に対して、赤の色素はなかなか表に出てくれません。そこで使われるのが、灰汁(あく)と烏梅(うばい)。

灰汁は灰を水に浸した上澄みの水で、アルカリ性の性質を持ちます。この溶液を紅花に染み込ませ、赤の色素を引っ張り出します。

こうして出来た「紅液」に、今度はゾクと呼ばれる麻を編んだ束を浸します。不思議なことに麻は、赤の色素を吸着する性質を持つそうです。

液の中に溶け出している赤色だけが麻に移しとられ、紅絞り機でしぼると、より濃い紅液が作り出されるという仕組みです。

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濃縮された紅液に、次は烏梅(うばい)を漬けた液を加えます。烏梅は梅の実の燻製。漬けた液は酸性です。

今度は紅液の中の赤色を再び化学反応で取り出して、色素を結晶化させます。この後ていねいに余分な水分を取り除いてゆき、ようやく紅が完成します。

漉されてとろりと泥状にになった紅。
漉されてとろりと泥状にになった紅。

江戸の暮らしと紅

紅屋は紅を、お猪口やお皿の内側に刷毛で塗って売りました。

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写真は有田焼などの紅器。17世紀には海外への輸出がメインだった有田焼は、この頃国内での需要に力を入れるようになり、紅器として用いられることも多かったようです。

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紅の価格はピンキリで、お猪口入りで現代の金額になおすと約6・7万のものから、安いものでは300円程度のものまであったそうです。

中でも質の良い紅は美人の代表、小野小町にあやかって「小町紅」の名で親しまれました。

また、当時の美人画には紅を点(さ)す女性の姿もよく描かれています。筆がわりに指をちょっと湿らせて紅を点す姿はなんとも色っぽいものです。

紅を点すのにちょうど良い薬指は、紅点し指とも呼ばれていました。使い切ればまた紅屋に器を持ってゆき、内に紅を塗ってもらいます。

看板代わりに赤く染めた布を軒先に掲げる紅屋は、江戸の風物として歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれました。

玉虫色の美しさを求めて

メイクに流行があるのは今も昔も同じ。当時は高級な紅を唇にこれでもかと塗り重ねて、玉虫色に発色させる「笹紅(ささべに)」が流行しました。

玉虫色?

そう、内側から光り輝く金色を兼ね備えたような、美しい緑色です。

紅は不思議なことに、純度が高いほど玉虫色に光り輝いて見えます。ですから、お猪口の内側に塗られた紅は、乾くと次第に、こんな風に!

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この玉虫色の紅を、ほんの少し水分を含んだ筆に取るとみるみる艶やかな紅色に変化するのが、まさに紅点しのハイライトです。

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紅が玉虫色に見える理由は未だによくわかっていないそうなのですが、塗り重ねて玉虫色になるのは、純度の高い紅の証。

しかも1度にお猪口1/3以上を使わなければ笹紅になりません。

笹紅は、太夫と呼ばれるような身分の高い遊女や歌舞伎役者が「どう?これだけ贅沢なお化粧をしているのよ」と自らのステータスを誇示するために生まれたお化粧でした。

今の感覚でいうと「緑の口紅‥‥?」と戸惑いますが、笹紅に手の届かない一般の女性は、唇に墨を塗った上から紅を重ねて、玉虫色を真似たそうです。いじらしく、なんだか好感が持てます。

紅を点す日

館内を案内いただく内に、すっかり紅に魅了されてしまいました。私も使ってみたい。

けれど、今ポケットに入っている色つきのリップクリームや鞄の中の口紅も、手軽で便利です。どんな風に付き合ったら良いのでしょう。案内いただいた阿部さんに伺います。

「紅の魅力のひとつは、使う人によって色が変わるところです。地肌の色に馴染んで、自分の似合う色に発色してくれるんです。

ですので、これからお化粧を始めるという若い人や、自分にどんな口紅が合うかわからないという人にも、おすすめです」

これは、実際にミュージアムで試してみるとわかります。私は赤よりもややピンク味がかった色になりました。

人によってはオレンジになったり、真っ赤になるというから不思議です。

併設の紅点し体験コーナー
併設の紅点し体験コーナー

「紅は、紅花の色素だけでできています。究極のナチュラルコスメですよね。

添加物の無いお化粧品を探されている方も、これならつけられる、とお求めに来られたりします」

乾燥が気になる場合は、紅を塗った上からリップクリームを重ねると良いそうです。

さらにもうひとつ、紅にはお化粧以外の役割が。

「赤は昔から、魔除けの色として人生の行事の節目節目に使われてきました。

おめでたいことにはお赤飯を炊きますし、花嫁さんの角隠しは、内側に赤が使われていますね。還暦のお祝いには赤いちゃんちゃんこです。

それで結婚や出産、還暦のお祝いにと、女性への贈りものとして紅を選ばれる方も多いようです」

もうじき結婚する友人の顔が思い浮かびました。お祝いに贈ったら、喜ばれるかもしれません。

「他にも、化粧品の種類が限られていた昔は、口紅に限らず何にでも紅を活かしました。

うすめてチークにしたり、目の縁に塗ってアイメイクにしたり、爪先を紅で染めたり模様を描いたり。

誰でも同じ色にはならないところに、クリエイティビティが生まれるんですね」

今、紅づくりに携わる職人さんは、わずかに2人。その製法は社内であっても公開されない秘伝だそうです。

「明治以降、西洋の口紅が入ってきてから日本古来の紅のニーズは激減し、戦前には京都にも数軒あった紅屋が、今は全国でも弊社1社のみになっています。

紅花を作る農家さんも年々減り、紅づくりは厳しい環境下に置かれていますが、最後の紅屋として紅の魅力を残し伝えていかなければという想いでできたのが、このミュージアムです」

取材を通してその奥深さを知った日本の紅。知るほどに面白く、自分でも使ってみたくなりました。

ちょうど先日、熊野筆の取材で、リップブラシを手に入れたところ。ぴったりの使い時です。

手毬という小ぶりな器のものをひとつ、買い求めました。いいなと思ったものが長く続くように、まずは使い手になってみようと思います。

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<取材協力>

伊勢半本店 紅ミュージアム
http://www.isehanhonten.co.jp/museum/


文:尾島可奈子
写真:尾島可奈子、外山亮一、伊勢半本店 紅ミュージアム

*2017年2月の記事を再編集して掲載しました。紅花の季節、今度はぜひ山形へ紅花摘みに行ってみたいです。

魚沼で越後のミケランジェロ「石川雲蝶」の世界に酔いしれる

石川雲蝶をご存知でしょうか?

江戸末期に越後で活躍した伝説の彫り師。

秀でた腕前から「越後のミケランジェロ」とも呼ばれています。

石川雲蝶・道元禅師猛虎調伏図

これは雲蝶終生の大作といわれる「道元禅師猛虎調伏図(どうげんぜんしもうこちょうふくのず)」。

赤城山西福寺開山堂にある天井彫刻です。

突如、立ち込めた黒雲の合間から龍が現れ、トラに襲いかかる!

そんな迫力のあるシーンが彫り込まれています。

初めて見たのは、東京にある新潟県のアンテナショップに貼られていた観光ポスターでした。

これが彫刻? いったいどうなっているの??

鮮やかな色彩と躍動感あふれる彫刻に一目惚れし、ぜひとも本物を見てみたいと会いに出かけました。

江戸の彫り物師から魚沼へ

石川雲蝶、本名「安兵衛」は、1814年に江戸・雑司が谷の飾り金具職人の家に生まれました。20歳前後で「江戸彫石川流」奥義を窮め、幕府専属の彫り物師(建築装飾の木彫り職人)として活躍。しかし、天保の改革により、贅沢な装飾は避けられるようになり、仕事を失うことに。

32歳の時、越後三条の金物商・内山又蔵と出会い、又蔵の紹介で三条にある本成寺の欄間を手がけたことをきっかけに、越後で数々の作品を手がけ、生涯を過ごしました。

今回訪ねたのは、雲蝶の作品が多く残されている新潟県魚沼市にある赤城山西福寺。あの「道元禅師猛虎調伏図」がある曹洞宗のお寺です。

赤城山西福寺

雲蝶は、1852年に西福寺に招かれ、開山堂の建立に携わりました。

西福寺開山堂。開山堂とは、お寺を開かれた御開山様である初代御住職様をおまつりする御堂のこと。こらには、御開山芳室祖春大和尚と道元禅師がまつられている
西福寺開山堂。開山堂とは、お寺を開かれた御開山様である初代御住職様をおまつりする御堂のこと。こちらには、御開山芳室祖春大和尚と道元禅師がまつられている

副住職の平澤龍彦さんに案内していただきました。

「当時の23世・蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)大和尚様が、この辺りは雪深く貧しい土地なので、地域のみなさんの心の支えになるお堂を建てたいと願い、越後で活躍していた雲蝶さんの噂を知って頼まれたようです」

大龍和尚33歳、雲蝶39歳。ふたりは歳が近いこともあり、意気投合。曹洞宗の開祖、道元禅師の世界を再現したいという大龍和尚の想いを雲蝶が形にしていきました。

いったいどこからノミを入れたのか。見れば見るほど不思議な作品

いよいよ開山堂へ。

本堂から渡り廊下を通り、仁王像がそびえる入り口を入ると、天井にあの彫刻が!

開山堂、道元禅師猛虎調伏
石川雲蝶「道元禅師猛虎調伏図」
……あまりの迫力と美しさに圧倒され、言葉になりません

「これは、道元禅師が天童山への行脚の途中、山中で虎に襲われそうになった時、持っていた杖を投げつけると、杖が龍に姿を変え、禅師を守ったという場面が彫られています」

道元禅師猛虎調伏

勢いよく流れる滝、暗雲立ち込め稲光が走り、虎をめがけて飛び出す龍。その傍らで静に座禅を組む道元禅師。

「静」と「動」が見事に表現され、ただただ見惚れてしまいます。

それにしてもこの立体感、どうなっているのでしょうか。

「透かし彫りという技法で彫られています」

いったいどこからノミを入れたのか。見れば見るほど不思議です。

鮮やかな彩色は岩絵の具を使ったもので、雲蝶独特の技術だそう。当時のままの色がきれいに残っています。

「虎と龍の目はギヤマン(ガラス玉)が使われています。当時はすごく貴重なものだったようですね」

五間四方の堂内は、天井彫刻の他にも雲蝶作品で埋め尽くされています。

雲蝶の彫り師としての技がふんだんに盛り込まれているのが欄間。

道元禅師と白山大権現
道元禅師と白山大権現

「これは、道元禅師が中国での修行から帰る前夜、『碧巖録』という禅書を写経していると、白山大権現が老人となって現れて写経を手伝ってくださるという場面を彫ったものです」

当時では珍しい遠近法を使い、奥の奥まで実に細かく彫り込まれています。

「燭台や、右手の方には布袋様、その奥には香炉もあります」

道元禅師と白山大権現
いやはや、一枚の板からどうしたらこんな風に彫れるのか。驚くばかりです
永平寺血脈池縁起

こちらは「永平寺血脈池縁起」。成仏できない幽霊を道元禅師が諭して成仏するというお話の一場面が彫られています。

「幽霊の顔が角度によっておどろおどろしく見えたり、すごく安らかな表情に思えたり。見るたびに感じ方が違うのが魅力ですね」

永平寺血脈池縁起

雲蝶はどんな人だった?自分の徳より周りのために働く人

石川雲蝶鏝絵

これは左官の技法である鏝絵(こてえ)。漆喰の壁に鏝を使って施す装飾のことを呼びます。ノミだけでなく鏝まで使えるとは、雲蝶はなんて多才なのでしょう。

雲蝶作:漆喰鏝絵「娘道成寺」
雲蝶作:漆喰鏝絵「娘道成寺」

天井彫刻に、欄間に鏝絵。どの作品も素晴らしく、いつまでも見ていたくなり、何度も訪れる方がいるというのもよくわかります。

これだけの作品を作った雲蝶とは、いったいどんな人だったのでしょうか。

実は、雲蝶が暮らしていた住居や菩提寺が火災で全焼してしまったため、詳しいことはわかっていないそうです。

「大龍和尚様と同じように、人のために自分の仕事を役立てたい、そういう人柄を感じます。職人さんはみんな一緒かもしれんけど。自分の徳より周りのためみたいな」

雲蝶作:埋め木細工「アヤメ」。西福寺本堂の大廊下には雲蝶作の埋め木細工が多く残されている。埋め木とは、板の割れ目や節穴に木片を入れて繕うもの。雲蝶の優しさ溢れる心遣いが感じられる
西福寺本堂の大廊下には雲蝶作の埋め木細工が多くあり、歩く人の目を楽しませてくれる。埋め木とは、板の割れ目や節穴に木片を入れて繕うもの。雲蝶の優しさ溢れる心遣いが感じられる
瓢箪の埋め木
瓢箪の埋め木

1857年、約5年の歳月をかけて開山堂が完成。しかし、その翌年に大龍和尚は住職の座を退き、同市内にある正円寺に移ることに。

「貧しい村にこれだけ贅を凝らしたお堂ができたことで、心ない噂も広がったようです。自ら身を引いたのではないかと言われています」

その後も大龍和尚と雲蝶の交流は続き、正円寺にも雲蝶作の仏像が多くまつられているそう。これもまた雲蝶の人柄を表しているエピソードだと思います。

生誕200年でブレイク

雲蝶作品は西福寺のほか、魚沼をはじめ、越後の各地で見ることができます。

神社仏閣だけでなく、雲蝶が滞在した家の欄間や仏像など作品が残されており、その数1000以上とも言われています。

これだけの作品を残した雲蝶ですが、注目されるようになったのは生誕200年を迎えた2014年と、ごく最近のこと。

それまで、雲蝶を研究する人はいたものの、作品が越後から出ることはなく、雪国の人々の間でひっそりと伝わっていたようです。

生誕200年に建立された、西福寺の石川雲蝶顕彰像
生誕200年に建立された、西福寺の「石川雲蝶顕彰像」

現在は、「名工・石川雲蝶の作品をたっぷり堪能するバスツアー」も開催され、全国からファンが訪れるようになりました。

雲蝶をブレイクさせた立役者のひとり、雲蝶バスツアーのガイドをする中島すい子さんに雲蝶作品の魅力などお聞きしました。

お話を聞いた中島すい子さん
お話を聞いた中島すい子さん。著書『私の恋した雲蝶さま』は、数少ない雲蝶資料としても読んでおきたい(写真提供:中島すい子)

中島さんはもともと、東京でバスガイドをしていましたが、結婚を機に南魚沼へ。その後、南魚沼の地域観光ガイドを務めることに。

「地域観光ガイドに転向した時、地元の埋もれた宝を磨くには何をターゲットにしたらいいかと考えて、昔から観光地だった西福寺の開山堂に行ったのが雲蝶さんとの出会いでした」

石川雲蝶・道元禅師猛虎調伏図

初めて、天井彫刻を見上げた時に「絶対この人を深掘りしたい」と思った中島さん。

「最初から感動した訳ではないんです。どちらかと言えば、これはどうやって彫ったのかとか、重ねたのか削ったのか、この奇抜な色は何なんだと、疑問ばかりで頭の中がいっぱいになりました。

不思議でしょうがなかったんです。感動はいろんなことが理解できてからじわじわとやってきました(笑)」

開山堂正面の向拝にある彫刻
開山堂正面の向拝にある彫刻

実際、どのように彫られたのか、技術的なことは今もわかっていません。

「開山堂の天井彫刻は、当時の雲蝶さんの持つ技術の粋を施した作品だと思いますが、細かいことは解体しないとわかりません。修繕する時に限られてしまうので、難しいですね」

作品作りだけでなく、大工仕事もプロの腕前を持っていたという雲蝶。

「江戸時代、堂塔大工(現在の宮大工)という役職がありましたが、雲蝶さんは堂塔大工と同じくらいの腕があり、お堂などの設計から施工までこなしていました」

2004年に発生した新潟県中越地震は、北魚沼地域を震源としたものでしたが、雲蝶の建てたお寺などは被害が少なかったと言います。

「作品も完成から160年経った今も、ひび割れたり折れてしまったというものはありません。木地師のように材を見極める知識もあったようですね」

大工としても確かな腕を持った雲蝶。開山堂の天井彫刻が修繕されるのはまだまだ先のことになりそうです。

お酒好き、バクチ好き、女好き

雲蝶ツアーの様子(写真提供:中島すい子)
雲蝶ツアーの様子(写真提供:中島すい子)

中島さんがガイドを務める、雲蝶作品のバスツアーも今年で6年目。中には、毎年楽しみにしているリピーターも多いとのこと。

中島さん自身が雲蝶作品の残されている地域をまわり、集落のおじいちゃん、おばあちゃんから家に伝わる雲蝶さんの話などを聞いているそうです。

伝わっているのは「お酒好き、バクチ好き、女好き」のエピソード。なかなか豪快な人だったようです。

「雲蝶作品の魅力は、やはりその技術力にありますが、それ以上に作品に隠された遊び心です。観るたびに新しい発見があり、謎に包まれた雲蝶の人生と同様に、その作品の謎解きをしているとその費やす時間が楽しくて仕方ありません」

開山堂にある「蕪をかじる鼠たち」。動物も雲蝶が得意としたモチーフ
蕪をかじる鼠たち(開山堂)

中島さんは今でも見るたびに発見があると言います。

「代表作のひとつ、永林寺(魚沼市根小屋)の“天女の欄間”には刻印がありません。他の代表作には刻印があるので、どこかにあるはずとずっと探していたのですが、一昨年の春、ついに発見したんです。天女の中にあるのですが、これはぜひ実際に見て探してほしいと思います」

天女の中に隠れし刻印。女好きと言われる雲蝶さんならではの場所なのでしょうか。想像するだけでワクワクします。

「雲蝶さんは腕のいい彫り物師でしたが、特別な人ではなく、村の人たちと同じ環境の中で生きていた人だと思います。

雲蝶さんの作品は美術館のように一ヵ所にまとめられていないので、越後に足を運んでいただかないと観る事ができません。でも一度、観ていただくと、予想をはるかに超える感動を味わう事ができます。

何世紀に一人現れるかどうかわからないと言われるほどの彫り師が、山間の越後に残した作品は、他県に流出することなく、越後人の謙虚な人柄にひっそりと守られてきました。雲蝶が人生の後半40年の間に残した作品は、きっと観る人の心を鷲掴みにすると確信しています」

設計から施工まで、雲蝶の技と心意気が詰まった神社

最後に、中島さんおすすめの作品を見に、長岡市栃堀にある「貴渡神社(たかのりじんじゃ)」に出かけました。

貴渡神社は、設計から施工まで全て雲蝶が携わったもので、丸ごと雲蝶作品です。

見どころは、一連のストーリーで構成されている脇障子(わきしょうじ)。

ストーリー性があるのもまた雲蝶作品の特徴です。

この地域は縞紬(つむぎじま)発祥の地で、紬縞をこの地に根付かせた植村角左衛門貴渡翁を祖として奉ったのが貴渡神社です。

脇障子(わきしょうじ)や長押(なげし)には、桑の葉を運ぶ、繭棚に繭を運ぶ、繭を煮る、糸を紡ぐ、機を織る場面など、蚕から布になっていく様子が詳細に彫られています。

貴渡神社、桑の葉を運ぶ場面
桑の葉を運ぶ場面
雲蝶の刻印。お堂は現在、鞘堂(さやどう・雨風から守るためのもの)の中に入っているが、以前は雨、風、雪にさらされていた
雲蝶の刻印。お堂は現在、鞘堂(さやどう)の中に入っているが、以前は雨、風、雪にさらされていたため、施されていた彩色も部分的に薄い色が残っているだけになってしまった
貴渡神社、糸を紡ぎ、機を織る場面
糸を紡ぎ、機を織る場面
繭を煮ている場面。釜戸で頬を膨らませて火吹竹を吹く様子がよくわかる
繭を煮ている場面。釜戸で頬を膨らませて火吹竹を吹く様子が見事に表現されている

小さな神社ですが、作品の素晴らしさだけでなく、雲蝶の心意気が感じられ、雲蝶の世界を堪能できました。

見れば見るほど興味深く、人柄を知るほどにますます他の作品を見たくなる石川雲蝶。

まだ見ぬ多くの作品に思いを馳せる旅となりました。

<取材協力>
赤城山西福寺
新潟県魚沼市大浦174番地
025-792-3032

中島すい子
名工・石川雲蝶の作品をたっぷり堪能するバスツアー

文・写真 : 坂田未希子

「人を呼ぶ」雪山生まれのそうめん。奈良・坂利製麺所が冬にしか麺をつくらない理由

夏の定番食、そうめん。

お中元にも喜ばれるアイテムですが、実は暑い季節のイメージとは裏腹に、寒さ厳しい冬こそが製造のハイシーズンであるのをご存知でしょうか。

今日はそうめん発祥の地といわれる奈良で、山奥に「人を呼ぶ」そうめんのお話です。

奈良県東吉野村へ

「ここから先に、民家はありません」

そこは2月の吉野。

春はお花見でにぎわう奈良の一大観光地も、真冬は一面が銀世界です。

吉野山

車中で履き替えるのは長靴でなくスノーブーツ。どれほどの雪深さかが推し量られます。

降り立ったのは奈良県を流れる吉野川の最上流に位置するところ。水の分配を司る水分 (みくまり) 神社が建っていた
降り立ったのは奈良県を流れる吉野川の最上流に位置するところ。水の分配を司る水分 (みくまり) 神社が建っていた

車を降りて案内された道を進むと、一筋の滝が静かに流れていました。

雪道
滝

弘法大師の伝説が残る傍らの「衣掛 (きぬがけ) 杉」 には、樹齢千年の看板。

滝の傍にそびえ立つ伝説の杉
滝の傍にそびえ立つ伝説の杉
看板

どうどうという水の音以外は何も聞こえてきません。

滝

人の住む世界との境目のような神聖な空気。そんな滝のそばに、今日のお話の舞台であるお宅があります。

民家

坂口家。

玄関には立派なのれんが
玄関には立派なのれんが

古くからこの地で林業に携わり、8代目。しかし今は林業とは別に、もうひとつの事業でもその名を知られます。

手延べそうめん・うどんの製造会社、坂利 (さかり) 製麺所。1984年創業。

坂利製麺所

国内に先駆けて素材に国産小麦を導入。地元吉野の葛をつかったそうめん、業界初のフリーズドライ製法を生かしたマグカップそうめんなど、アイディア商品も人気です。

フリーズドライのにゅうめん
フリーズドライのにゅうめん

山深い東吉野村で何百年と続く材木屋さんがこの地で作り出すそうめんが、今日のお話の主役。実はこの坂利製麺所が始めたのは、「人を呼ぶ」そうめんなのです。

そうめんで過疎を食い止める

「ここ東吉野村は多くの家が林業をなりわいとしています。しかし林業は夏の仕事です。雪が降れば山に入れず、仕事ができません。

安定した収入にならないため、高度経済成長期に都会に出て行く人が急増し、過疎が一気に進みました」

なんとか冬の仕事を作りたい。

現代表である坂口利勝さんの母で当時専業主婦だった良子さんは、従業員たちが次々と自分の子どもを都会へ出す姿をみて、思案しました。

飛び込んだのが、そうめんの発祥と呼ばれる「三輪そうめん」の製麺所。

そうめん

当時、規制緩和により製造した麺を「三輪そうめん」と名乗れるエリアが拡大され、周囲の人たちが次々とそうめん作りを習いに行っていました。

そうめんなら保管がきくので冬につくって夏に売ることが出来る。そこに可能性を感じたそうです。

「おしん」が後押ししたそうめん起業

「最初は楽しかったんですけどね、だんだん、これは難しいかなぁと思い始めたころでした。NHKの取材がはいったんです。

研修に来ている動機を尋ねられて、この村の実情を話して『地域の産業にしたい』と語りました。

そうしたら、放映された直後から『私も手伝いたい』って人からどんどん連絡がきて。

ちょうど『おしん』が大ヒットしている年で、ドラマが始まる直前の時間帯にそのニュースが流れたから、地域の人がみんな見ていたみたいなんです (笑) 」

無理ですよ、失敗しますよと当人の弱気をよそに、冬の収入源に困っていた地域の人は大喜び。周りに後押しされる格好で坂利製麺所はスタートしました。

冬季限定の理由

起業の動機が「冬の仕事をつくること」だったので、坂利さんの工場に年間稼働率という言葉は存在しません。そうめんをつくるのは、10月から4月の7ヶ月間だけ。

そうめんの製造現場

それ以外の期間は商品を包装する仕事がありますが、夏に山仕事を持っている人は、冬場の麺づくりだけ働きにやってきます。

練り上げた麺の原型。この時点ではまだ太さがある
練り上げた麺の原型。この時点ではまだ太さがある
機械でよりをかけて麺を細くしていく
機械でよりをかけて麺を細くしていく
よりをかけながら熟成の工程に向けて麺をセットしていく
よりをかけながら熟成の工程に向けて麺をセットしていく
よりをかけて細くした麺を熟成させる「風呂」に入れているところ
よりをかけて細くした麺を熟成させる「風呂」に入れているところ
乾燥の工程で麺同士がくっつかず均一な太さになるよう整えているところ
乾燥の工程で麺同士がくっつかず均一な太さになるよう整えているところ
そうめん製造の現場

人によって勤務形態もさまざま。良子さん自身が3人のお子さんを育てながらはじめた事業だったので、子育て世代の短時間勤務も歓迎しているそうです。

「一般的な食品メーカーだったら年間稼働率などをまず考えるでしょうから、うちは珍しいケースだと思います。

でも昔から、暑い時期よりも冬につくるそうめんのほうがおいしいと言われているんですよ。価格もはっきり違うくらいです」

実は、夏麺冬麺 (なつめんふゆめん) といって、冬場につくることは地域にとって良いだけでなく、おいしさの理にかなっているのだそうです。

夏麺冬麺

「麺は気温が高いほど早く熟成します。夏は人の作業スピードに熟成をあわせるため、粘りを遅くする塩を多く投入するんです。

すると、ゆがいたときに塩分が流出して、麺の密度がスカスカになる。冬につくった麺は塩分が少なくすむので、その分ゆがいた後も密度を落とさず、コシの強い麺を味わえるんです」

そうめん

そうめんの主成分は小麦粉と水、塩。東吉野には、それらをじっくり熟成させる寒さ厳しい冬と、山からの清らかな水がすでに揃っていました。

滝の水

「原材料表示にこそ載りませんが、この冬山の澄んだ空気と水が製品を支えていると思います」

良子さんから事業を受け継いだ利勝さんはそう語ります。

坂口利勝さん
坂口利勝さん

過疎を食い止めるためのそうめんづくり。まだ、続きがあります。

最近は人を留まらせるだけでなく、新たに「呼ぶ」礎にもなっているようです。

林業とそうめんの町のこれから

「実はこの地域で木工をやりたいという若い子がいて、うちで空いていたそうめん工場を工房に使ってもらっているんです。住まいはうちの寮を提供しています」

元そうめん工場にずらりと並ぶのは木の椅子。ここは家具を製作する「維鶴 (いずる) 木工」の工房です。

維鶴木工
維鶴工房

維鶴木工のお二人は、2017年の年末に工房をこの東吉野に移したばかり。

維鶴木工のお二人
維鶴木工のお二人

「昔から林業が盛んで資源も豊富なこの土地をものづくりの拠点にしようと思った時に、坂口さんに『うちを使ったら』と声をかけてもらいました。元は色々な素材を使っていたのですが、この土地に来て吉野ひのきの面白さを知って、今では吉野ひのきだけを使って椅子を作っているんです」

製作途中の椅子がずらり
製作途中の椅子がずらり

林業の産地の未来を想って始まったそうめんづくり。そのバトンは少しずつ、次世代に受け継がれようとしています。

吉野山

<関連商品>
そうめんくらべ (中川政七商店)
*西日本の5つのそうめん産地の味を食べ比べるセット。奈良代表で坂利さんのそうめんが入っています。

そうめんくらべ

<取材協力> *登場順
坂利製麺所
https://sakariseimensyo.bsj.jp/

維鶴木工
http://izr.jp/

文・写真:尾島可奈子