【わたしの好きなもの】ぬげにくいくつした

 

私の相棒  ぬげにくいくつした

左は22.5cm、右は22cm。
足のサイズが左右で異なり、しかも小さいことが悩みの種でした。

靴も靴下もなかなかフィットするものが無い中で、どん欲に自分に合う靴下を探していたら、機能の違いや豊富なデザインに魅了されるようになり、気付けば靴下コレクターになっていました。

これまで集まった靴下の数は100足以上になります。

そんな私がとにかくリピートしているのが「ぬげにくいくつした」。



機能性に特化したファクトリーブランド「2&9」の中でも、特にお気に入りの靴下です。

綿のタイプは足裏のパイルで足が痛くなることがなく、かかとをすっぽり包んでくれるので立ち仕事をしていても、足にしっかりついてきます。



そしてなにより細かなサイズ展開が嬉しいポイント。小さなサイズってなかなか無いんですよね。

「靴下もオーダーメイドができたらいいのに」。

その願望を叶える勢いで、私の足にフィットする「ぬげにくいくつした」。高い技術を持った奈良の靴下会社だからこそ、つくることができる靴下です。



奈良は生まれ故郷なので、毎日誇りを持って歩いています(笑)。

日本市 羽田空港第2ターミナル店  村田 



<掲載商品>
ぬげにくいくつした

「モノづくりをしたいなら山形だよ」ロンドンから移住したデザイナーが魅了された、COOHEMのものづくり

「海外でファッションの勉強がしたい」。その一心で日本を飛び出したひとりの女性がいます。

洋装の本場、イギリス「ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション(ロンドン芸術大学)」のニット専攻で基礎を学び、帰国後に出会ったのは山形県に拠点を置く、とある繊維会社。

その時、彼女は気がつきました。「作品をつくることと、多くのひとへ届けるために量産できる製品づくりは全く別物」ということに。

米富繊維の編み機
COOHEM(コーヘン)の編地

イギリス留学後、米富繊維株式会社(以下、米富繊維)に入社し、現在はCOOHEM(以下、コーヘン)デザイナーとして活躍される神山悠子(かみやま ゆうこ)さんに、ファクトリーブランドだから実現できる質の高いものづくりについてお話を伺いました。

募集はしていなかったけど、履歴書を送ってみた

—— 米富繊維・コーヘンと神山さんの出会いについて教えてください。

神山悠子(以下、神山):留学から帰国後、ニットの製作に関わりたいと思い職場探しをしていたところ、知人の紹介で訪ねたイベントでコーヘンと出会いました。それが2013年のことですね。

「こんなすごいことをしているブランドがあるんだ!」と、奥深さに圧倒されて調べてみたところ、コーヘンは山形に本社・東京にオフィスがある米富繊維のファクトリーブランドということを知りました。

米富繊維の本社2階から見える風景
米富繊維の本社2階から見える風景

神山:早速履歴書を送ったところ、社長の大江が「モノづくりをしたいのであれば山形だよ。とりあえず見に来てみて」と。当時、私は山形への行き方すら知らなかったんですけど言われるままに行ってみました。

訪ねたのが6月というのもあって暑くも寒くもなく、しかも本社のある山辺町には駅があった。私は群馬の出身ですが地元には駅がなかったので、駅がある時点で「地元より上だな、全然余裕!」と思ってしまって(笑)

もともと自分の手を動かせる現場を希望していたので、すぐに山形での勤務を決めました。

デザイナーの神山さん

—— 連絡をした当時、会社としても採用活動をしていたのですか。

神山:その時は営業職しか募集していなかったけど、割と新しいブランドだから人手が足りないんじゃない?と勝手に予想して、一方的に履歴書を送りました(笑)

普通だったら「募集してない」と言われちゃうと思うんですけど、運よく働けることに。

—— タイミングが良かったんですね。実際、人手も足りていなかった?

神山:入社してみると、人手は足りてたんですよ。いまは大江と私がコーヘンのデザインを担当しているのですが、その時は大江の下にアシスタントデザイナーがいて。

当時は新人研修用のカリキュラムなどもなく、自分に任されるような仕事もまだなかったので、自主的に原料倉庫の仕分けを行うなかで糸の種類を覚えたり。

とりわけコーヘンは使う糸の種類がすごく多いので、展示会後のサンプル糸の集計や棚の整理は率先してやりました。そこで「この糸と糸の組み合わせでこういう仕上がりになるんだ」と、仕上がりのイメージを掴んで頭に入れていくのが楽しかったですね。

コーヘンの生地づくりに欠かせない様々な糸

—— 品番も糸の種類もきっとものすごい数ですよね。入社してしばらくは担当部署などにつかず、わりと自由に動いていたんですか。

神山:原料レベルでいうと1000種類ではきかないかも。最初はわりと自由に動いていたんですが、その後は編み立ての部署・編地の開発見習い・サンプル班を経験させてもらいました。

2016年に前任のアシスタントデザイナーの子が退職することになったので、シーズンでいうと「2017 春夏」からウィメンズのデザインを担当しています。

—— デザインは、大江社長と一緒に練り上げていくのですか。

神山:そうですね。私から提案することもありますが、シーズンの主要アイテムは彼から「こういうものが作りたい」と発案されることが多いです。

私たちだけでわからない技術的なことは、すぐに現場の技術者にも相談します。

米富繊維の大江社長とデザイナーの神山さん
大江社長(写真右)と常にコミュニケーションをとりながら新たなデザインを探っていく

—— シーズン毎のテーマは、どうやってデザインに落とし込むのですか。

神山:ブランドとしては割と“物”ありきな方だと思います。

テーマを先に決めてやったこともあったんですけど、あまりにも言葉に縛られて窮屈に感じてしまったのと、幸いにもデザイナーが大江と私しかいないので、基本的には大江の頭のなかにあるイメージや気分から膨らませていくことが多いです。

「いま、どんなものが着たいですか?」みたいな感じで話していると、いきなり「俺ライダースが着たい」と言い出したり(笑)、古着屋で買った服からイメージを膨らませたり。

その時選ぶアイテムに次のシーズンの気分が反映されながら進んでいきます。そしてある程度輪郭ができたなかからテーマを編み上げていきますね。

米富繊維の大江社長と神山さん

—— 大江社長のその時の「気分」が各コレクションで表現されているのですね。

神山:はい、トレンドはあまり意識しないです。大江自身、好きな色はずっと好きなタイプ。毎シーズン、ついつい選ぶ色が重なったりするんですけど、2019年 秋冬のコレクションでは珍しく茶色が多くて。

コーヘンの2019年 秋冬のコレクション
COOHEM 2019 AUTUMN & WINTER テーマは「T.P.O」 写真提供:米富繊維株式会社

それまで茶色とかベージュは極端に少なかったので「今回は茶色が多いですね」と大江に言ったら、「なんかちょっと着たいと思って。最近、似合うようになってきたって感じるんだよね」と(笑)

コーヘンのデザイナー神山さんと大江社長
コーヘンのデザイナー神山さん

作品づくりとは違う、量産するための創意工夫

—— イギリスで学んできたこととコーヘンの技術では、何か違いましたか。

神山:ひとつは、ニットを専門に学んできたといっても私が学んできたのは作品だったので量産を目的としていないんです。

それはある意味、見た目をいちばんに考えていてコストや着心地などにはそこまでこだわっていなかった。だから帰国後に米富繊維と出会ったときは、量産を目的とするメーカーとしての創意工夫や、質の高さにまず圧倒されました。

あともうひとつは、応用力みたいなものですかね。例えばたくさんの素材を組み合わせた時に想像していなかった模様の現れ方をするだとか。

コーヘンの生地

神山:学生時代は、想像できる範囲もすごく狭いんですよ。でも米富繊維では、みんなすごく広い視野、長い経験のなかで培った勘を使って無限にニットの可能性を広げていくんです。それはプレーンな天竺編みだけじゃないことをずっとやってきて、積み上がった知識と経験なんだと思います。

なのでいま最新に作っているものも元をたどると、数十年前に開発された編地だったりするわけです。それからずっと応用・応用・応用でやってきた。

—— なんだか細胞分裂みたいですね。応用を続けることによって、想像力が培われていくような。

神山:ほんとうにそんな感じです。開発室長とかをみていると、長年の経験と勘のなかで自然とイメージがつくようになるんだろうなぁと。

逆に「こういう感じにしたい」と相談した時には、ゴールから辿って導いてくれたりもします。何よりも、これだけの開発をこの規模の企業で途切れずにやらせてもらえてきたのもすごいことです。

開発室長の鈴木さん

積み重ねと創意工夫が、モノづくりの質を生む

40年以上に渡って編地開発を続けた結果、米富繊維のテキスタイルアーカイヴはすでに数万枚を越えるそうです。

その思いはどこまでもまっすぐ。

ひとりでも多くのひとへ、ニットの面白さ・可能性の奥深さを届けるために。

T.P.O」2019 A/W
「T.P.O」2019 A/W 写真提供:米富繊維株式会社

「T.P.O」コーヘンの2019 A/W
「T.P.O」2019 A/W 写真提供:米富繊維株式会社

すべての工程が一箇所で完結する希少なファクトリーブランド・COOHEMは、ますます勢いを加速して日本のモノづくりカルチャーを世界に発信していきます。

 

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「軽くて柔らか、丸めてもシワにならない。普段使いのサマーニットができました」

<取材協力>
米富繊維株式会社
山形県東村山郡山辺町大字山辺1136
023-664-8166

文:中條 美咲
写真:船橋 陽馬
メインビジュアル:米富繊維株式会社

ゆとん。それは、江戸時代に生まれた「科学で解明できない」夏の快適グッズ

大人になると夏休みも数えるほど。外に出かけてゆくのも楽しいですが、ただ寝そべって涼む時間も贅沢だなと思う今日この頃です。

涼しく過ごすアイテムを探していて、江戸時代から伝わる夏の敷物があることを知りました。

天然素材の「涼感マット」?

その名は「油団 (ゆとん) 」。エアコンなどの電化製品の普及とともに姿を消しつつありましたが、近年のエコ意識の高まりで、改めて注目されるようになった暮らしの道具です。

床に敷かれているのが「油団」です
床に敷かれているのが「油団」です

聞くところによると、敷いておくだけで部屋が涼しく感じられて、触れるとひんやりと冷たいのだとか。これは試してみたい。

幾重にも張り合わせた和紙にえごま油を塗って作られる油団。かつては全国各地で作られていましたが、製造技術を受け継ぎ、今も作り続けているのは福井県鯖江市の表具店「紅屋紅陽堂」の職人さんのみなのだそう。その技法は、福井県指定無形民俗文化財に指定されています。

さっそく紅屋紅陽堂を訪ねて、実物を見せていただきました。

現在、油団を唯一作っている「表具処 紅屋 紅陽堂」
現在、油団を唯一作っている表具店「紅屋 紅陽堂」
光沢が涼やかな油団
店主の牧野さんのお宅にて、油団が使われているところを拝見。つややかな表面に夏障子が映り込んでいて、なんとも涼しげです

紅屋紅陽堂で知る、「ひんやり」が持続する不思議

「どうぞ、まずは寝そべってみてください」

そう案内していただき、ごろんと横になってみると、本当にひんやり冷たい。金属に触れた時のようなキーンとした冷たさではなく、風の吹く木陰に寝そべったような爽やかさで心地よいのです。さらに驚いたのは、しばらく寝そべっていても背中に熱がこもりにくく、なかなか温まってしまわないこと。

「不思議と涼感が長持ちするんです。お客様の中には『色々な工業製品も試したけれど、これが一番長い間冷たかった』なんておっしゃる方もいらっしゃいました。

一説には『表面のえごま油が熱を逃がし、空気を含む和紙の層が熱を吸収する』と言われていますが、計測器を使った実験をしてみると油団の熱伝導率が良いわけではないのです。

ほかにも気化熱の効果で熱を冷ますなど諸説ありますが、科学的な証明にはいたっていません。それでも、以前テレビ番組の取材で油団の上の温度を測ったら、室温より2度ほど温度が低いという結果も出ました。

理屈はともあれ、昔の人が暑い夏を快適にするために色々と試してたどり着いたものだったのでしょうね」

そんな油団の涼しさには、「油団のうえで昼寝をすると (冷えすぎて) 風邪をひくよ」なんて小さな子供をたしなめる言葉があったほど。

夏の季語にもなっている「油団」

油団の魅力は、感触の冷たさだけにとどまりません。表がつるりとしていて水面のように反射し夏の景色を映し出します。そこに多くの人が美しさを見出し、夏の季語にもなっています。

柱影映りもぞする油団かな 高浜虚子

渋ゆとんくちなしの花うつりけり 室生犀星

また、仕上がり当初は白っぽい色の油団ですが、毎年少しずつ時間をかけて深い飴色に変化していきます。

初めは白い油団が、使うほどに濃い飴色に変化していきます
初めは白い油団 (左) が、使うほどに濃い飴色 (右) に

油団は100年使えると言われていますが、色の変化も楽しみの一つなのです。加えて、使い込むほどに耐水性が上がるというという特徴もあり、長い年月をかけて育てる敷物と言えそうです。

3人がかりで1ヶ月以上、手間をかけて生まれる品質

良質の和紙を多量に使用すること、完成までに多くの時間と労力を必要とすることもあり、油団は高価なものでした。そのため、一般家庭というよりは寺院や料亭、名家などで多く使用されてきました。

現在の価格は、1畳約15万円。最近は部屋全体に敷き詰めるのではなく、1畳か2畳サイズを購入して部分的に敷く方が増えているのだそう。100年使えること、使い込むほどに美しさや性能が高まることも踏まえて購入を決める人も多いようです。エコブームの近年は、メディアで紹介された際などに注文が殺到し、生産が追いつかないことも。

1枚が完成するまで、3人掛かりで1ヶ月を要するという油団。その工程を教えていただきました。

広い空間に台紙を敷いて作業します
工房の中。油団づくりには広い空間が必要です
「墨つぼ」。墨のついた糸を引き、糸を弾くことで和紙の上に直線を引きます
こちらは「墨つぼ」という線を引くための道具です。墨のついた糸を伸ばし、和紙の上に墨を落としてまっすぐな線を引きます
墨つぼを使って直線を引きます
墨つぼを使って直線を引くところ
直角を出して、正確な長方形の枠を作ります
ぴたりと部屋にはまるよう、きちんと直角を出して、正確な長方形の枠を作ります

油団台と呼ばれる大きな和紙の上に、丈夫な雁皮紙 (がんぴし) を継ぎ合わせ、仕上がりサイズに整えたものを配置します。

和紙を張り合わせていきます
台の上に生麩糊 (しょうふのり=小麦粉のでんぷん糊) を使い、楮 (こうぞ) 100%の越前和紙を2〜3ミリメートルほど重なるように貼り合わせていきます
1枚貼るごとに重量のある打ち刷毛で「どんどん」と叩き、和紙の繊維を絡み合わせます
1枚貼るごとに重量のある打ち刷毛で「どんどん」と叩き、和紙の繊維を絡み合わせます

夏が終わると、くるりと丸めて翌年まで片付けておく油団。糊でしっかりと固めてしまうと巻くことができません。そのため、限界まで薄めた糊を使いしなやかさを残し、あとは紙の繊維を絡めることで全体をつなぎ合わせていきます。

最終的に和紙が14〜15層になるまで刷毛で打つ作業を繰り返します。その回数は、8畳サイズで約1万回。しゃがみこんだ姿勢で行うため、肉体的にも大きな負荷がかかるのだそう。

目と勘を頼りに、正確に貼りつけられた和紙
正確に貼りつけられた和紙

貼り終わったら、しばらく寝かせて適度に湿気を取り除き、裏面に柿渋、表面にえごま油を塗って天日干しします。最後に、木綿の布に潰した豆腐をつけて磨き、ツヤを出して完成です。

油団の敷かれた和室

工房では、新作の油団も作られていました。柄の入った和紙を使った「花油団」。「技術を受け継いで、必要な人に届けたい」と、油団を作り続けてきた紅屋紅陽堂。その技術は進化しながら、今年も日本の夏に涼を届けています。

<取材協力>
紅屋紅陽堂
福井県鯖江市田村町2-10
0778-62-1126

文・写真:小俣荘子
制作画像提供:鯖江商工会議所

*こちらは、2018年7月9日公開の記事を再編集して掲載しました。最後にお豆腐で磨くという仕上げの工程にもびっくり。昔の人の知恵は本当に豊かですね。

編物界の革命品。奇跡のニット〈COOHEM〉は2万枚もの試作から生まれた

近年、工場自身がブランドを立ち上げる、「ファクトリーブランド」をよく見かけるようになりました。

アパレル製品をはじめ、私たちの生活を支える様々な“物”の製造拠点が安価な海外へとシフトしていってもなお、日本でつくり続けられる製品の数々。

ものづくりに精通したメーカーならではの強みはどこにあるのか。そして、そこにはどのような想いが込められているのか。

今回は、山形県山辺町(やまのべまち)に拠点を置く、米富繊維株式会社のファクトリーブランド「COOHEM(コーヘン)」誕生の背景に迫ります。

365日、新しいニットを生み出し続ける

ニットの見本として活用する四角い布を「編地(あみじ)」と言います。

山形・米富繊維のブランド、「COOHEM」ができるまで
米富繊維の「編地」

編機。プログラミングによって複雑な編物を実現する 写真提供:米富繊維株式会社

米富繊維では、毎日新しい編地が生まれています。その作業を担うのが、開発室長の鈴木恒男(すずき つねお)さん。入社から40年以上新しい編地を開発し続ける、編物界の第一人者です。

「とにかくやってみないとわからない。柄や色・素材感を考えながら新しいことを毎日繰り返している」のだそう

米富繊維のブランド「COOHEM」の開発室長 鈴木さん

編地のアイディアのインスピレーションは、日常のさまざまな場面から得ています。そうして生み出されたアイディアは、すでに2万枚を超えるほどに。

使用する糸の色や素材を組み合わせ編み方を変えることで様々な模様がうまれる
使用する糸の色や素材を組み合わせ編み方を変えることで様々な模様がうまれる 写真提供:米富繊維株式会社

そうした開発の日々から偶然発見されたのが、業界の常識を覆す「ニットツウィード」でした。

編地開発の段階で偶然生まれた「ニットツウィード」

米米富繊維の最大の持ち味は、独自の「交編(こうへん)」技術を用いて生み出される「ニットツウィード」です。

「交編」とは、2種類以上の異なる糸を使用してニットを形成する編物技術。異なる糸を組み合わせることで、さまざまな風合いや質感のニットを表現できるほか、機能性も付与できます。

「交編」とは、2種類以上の異なる種類の糸を使用して編むこと

「ツウィード」とは羊毛を手紡ぎしてできる太い糸を、さらに手織りで織り上げた毛織物の総称です。織る前に糸を染色するため、さまざまな色彩で表現することができます。

厚みのある生地には温かみ、耐久性があり、コートやジャケットはもちろん、さまざまな製品の生地として人気があります。

米富繊維では、交編の技術を研究していくうちに、機械織りでありながらツウィードのように品があり、美しい仕上がりの編地を生み出すことができました。

写真提供:米富繊維株式会社

COOHEMのニットツウィード
写真提供:米富繊維株式会社

こうした編物技術は、複雑に組み上げられたプログラミングと職人の勘、機械の微調整から生まれた偶然の産物です。

プログラミングソフト

「こんなに美しく複雑な編地は、他社が簡単に真似できるものではない。この技術は米富繊維の確固たるアイデンティティになるだろう」と現社長・大江健さん。この技術で生み出された布地を「ニットツウィード」と名付けました。

COOHEMのニットツウィード生地

そして、これだけ編物の技術を磨いてきた自分たちであれば、OEM や ODM*による生産だけでなく、山辺町発の自社ブランドとして世界に発信できるのではないか、という想いを実現するのです。

*)OEM/ODM:OEMとは、Original Equipment Manufacturingの略語で、委託者のブランドで製品を生産すること、または生産するメーカーのこと。ODMとは、Original Design Manufacturingの略語で、委託者のブランドで製品を設計・生産すること

ニット製造で栄えた山形県山辺町のルーツ

米富繊維のアイデンティティが確立された背景には、山辺町がニットの産地として築いてきた紡績・染色技術の集積があります。

山形の景色
写真提供:米富繊維株式会社

戦時中、庄内平野から米沢盆地まで、山形県を貫くように流れる最上川沿いでは羊の飼育が推奨されていました。当時、この一帯では「ローゲージ」と呼ばれる、羊毛の手紡ぎ・手編みをしており、これが山辺町における編物技術のルーツです。

写真提供:米富繊維株式会社

戦後の復興とともに女性の社会進出や機械技術は進歩をとげ、国内のニット産業は急速に発展していきます。県内には多くの繊維・紡績メーカー、染色業が新たに誕生し、山辺町内だけでも100軒以上の製造工場があったほどです。

米富繊維のほかでは真似できない、編物技術と生産力のヒミツ

その後、時代の変化によって多くの紡績メーカーが廃業を余儀なくされる中、米富繊維は独自の発展をとげてきました。

米富繊維で営業を担当する渡邊あゆみさん
米富繊維で営業を担当する渡邊あゆみさん

「山辺町はもともとニット製造が盛んな土地でした。しかし、バブル景気以降、国内のニット製造が海外へと拠点を移すにしたがって、町内の工場も年々減少し、染め工場もいまでは2軒しかありません。

けれど、車で数分の場所にいまでも染工場があることで、私たちは想い描くものづくりをスピーディーに実践していくことができるんです。

多くの場合、デザインからサンプルを仕上げるまでにはすごく時間がかかります。それは、デザイン・染色・製造する場所が離れているケースがほとんどだから。注文してから完成するまでにかなりのロスタイムが発生します。

輸送するにもコストがかかってしまうし、思いついたときにすぐにカタチにすることは難しい。でも山辺町には、すぐそばに相談できる専門の人がいる。

なので、あれこれ頭のなかで思い悩む前に、思いついたらすぐに行動して『編地』という実際のカタチをつくり出し、米富繊維全体だと年間6千枚以上量産できる体制が整っているんです」

1952年、故・大江良一によって創業された「米富繊維株式会社」。同業他社が競合するこの地で製造を続けていくため、常識にとらわれない新たな表現方法、編物技術を日々模索し、とりわけ編地の開発には心血を注いで取り組んできました。

COOHEMのニット生地
COOHEMの製造現場

奇跡のニットから生まれたファクトリーブランド「COOHEM」

2010年に本格始動した「COOHEM (コーヘン) 」。独自の編物技術で生み出された「ニットツウィード」を取り扱うファクトリーブランドです。

COOHEMのルック
写真提供:米富繊維株式会社

「いまでは会社一丸となり力を注ぐ生産ラインへと成長しました。しかし、立ち上げ当時は、スタッフの理解を得るまでにはかなりの時間を要しました」と渡邉さん。

「立ち上げ当初は、現場の反発もかなり強かったと聞いています。サンプルの製造をお願いしてもなかなかつくってもらえなかったり、OEMが優先で進められるなど、『よくわからないこと』は後回しの状態。

コーヘンを立ち上げて1年くらいは、なんとか現場のスケジュールに入れ込んでやっている感じでした。

初めのうちは社販をとっても、注文するのは3人くらい‥‥(苦笑)スタッフの本音が社販の反応でわかるんですね」

米富繊維の営業・渡邉あゆみさんが当時のことを教えてくれた

「徐々に現場の反応が変わってきたと感じられるのは、本当にここ5年くらい。OEMやODMが主流の時代は、外から褒められる機会はなかったです。それは会社自体の名前が表立つことがなかったから。

けれどコーヘンの立ち上げによって米富繊維自体のブランディングが洗練されて、自分たちがやっていることのすごさをスタッフ自身も認識できるように。

いまではテレビCMなどで有名人がコーヘンのセーターを着ているのを見かけたりすると、誇らしい気持ちになれるみたいで。ものづくりに携わるスタッフ一人ひとりが『私が作ったもの』と自信を持てるのは、会社にとってもすごく良いことだなぁと思います」

米富繊維の製造現場 カット
米富繊維の製造現場

2017年からコーヘンでは、念願のメンズラインをスタート。

「T.P.O」2019 A/W 写真提供:米富繊維株式会社

軽く柔らかく・伸縮性もハリもあるのにシワができない。機能性にも富みながら、着るだけでワクワクできるコーヘンの「ニットツイード」。

「高級なものとして捉えられるよりも、もっと気軽に普段のコーディネートに取り入れてほしい。着ていくうちに身体に馴染んでいくのも、嬉しいです」と渡邉さん。

たくさんの米富愛を感じました。

「競い合い認め合い助け合いyonetomi愛」と書かれた米富繊維のポスター
米富繊維の社屋からの風景

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遊 中川テキスタイル交編

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中川政七商店HP
「軽くて柔らか、丸めてもシワにならない。普段使いのサマーニットができました」

<取材協力>
米富繊維株式会社
山形県東村山郡山辺町大字山辺1136
023-664-8166

文:中條 美咲
写真:船橋 陽馬
メインビジュアル:米富繊維株式会社

京都で「徒歩10分で400年」のタイムトリップ。庭を歩くと、南禅寺エリアはもっと楽しい

京都東山、南禅寺。

京都の庭 南禅寺

「絶景かな、絶景かな」で知られる三門や、春の桜、秋の紅葉で有名ですが、実はこのあたりは名庭がひしめく庭好きあこがれのエリア。

京都の庭 南禅寺
京都の庭 南禅寺
京都の庭 南禅寺
京都の庭 南禅寺

一般公開されている国指定の名勝庭園もあり、庭を知れば、界隈散策はもっと楽しくなります。

「ここから歩いて10分ほどのエリアに、同じ国指定名勝でも全く趣の違うお庭があります。両方めぐって約2時間ほどでしょうか。

この2つの庭を訪ねることで、約400年の時間をタイムトリップすることができるんですよ」

そう語るのは、創業以来171年、南禅寺の御用庭師を務める植彌加藤造園株式会社(うえやかとうぞうえん)知財管理部の山田咲さん。

植彌加藤造園株式会社 山田咲さん。植彌加藤造園株式会社は1848年 (嘉永元年) より大本山南禅寺の御用達を務める。南禅寺大方丈、東本願寺渉成園、無鄰菴、對龍山荘などの文化財指定庭園の育成管理のほか、星野リゾートなど新たに作庭から手がけた庭も多数
植彌加藤造園株式会社 山田咲さん。植彌加藤造園株式会社は1848年 (嘉永元年) より大本山南禅寺の御用達を務める。南禅寺大方丈、東本願寺渉成園、無鄰菴、對龍山荘などの文化財指定庭園の育成管理のほか、星野リゾートなど新たに作庭から手がけた庭も多数

2つの庭を訪ねて、400年もの時間をタイムトリップ?いったいどういうことなのでしょうか。

「お庭をめぐりながらご説明しますね」

山田さんのミステリアスな笑みに心躍らせつつ、それでは、最初の目的地へ。

いざ、「別格」の南禅寺へ

まず向かったのは南禅寺です。正式な名前は、瑞龍山 太平興国南禅禅寺。禅宗のお寺です。

すぐそばの蹴上インクラインとともに、京都でも屈指の観光名所となっています
すぐそばの蹴上インクラインとともに、京都でも屈指の観光名所となっています

歴史は古く、創建は1291年。鎌倉時代までさかのぼります。当時の亀山法皇によって創建されたお寺で、格式は「五山の上」という、文字通り京都でも別格の名刹です。

「南禅寺の現在を語るときに重要なのが、江戸時代のはじめ頃、『南禅寺 中興の祖』と言われる、以心崇伝 (いしん・すうでん) という僧です。

金地院崇伝 (こんちいん・すうでん) とも呼ばれています。この崇伝さんが、じつは家康の政治顧問もつとめたほどの人物なのです」

おかげで南禅寺は徳川家にとって大切なお寺となり、江戸時代を通して隆盛を誇りました。

明治時代になると、政府による上知令で敷地の約7割が没収されましたが、それでもなお、三門、法堂、名勝庭園のある方丈など広い敷地を有し、私たちを迎えてくれています。

「絶景かな、絶景かな」で知られる三門から、枯山水の大方丈庭園へとめぐりましょう。

紅葉と桜の名所になったのは昭和から

松の連なる参道を抜けて境内に入ると、まず最初に目に飛び込んでくるのが、有名な三門の雄姿です。

南禅寺 三門

南禅寺といえば、春は桜、秋は紅葉。絶景写真スポットとしても人気です。その代表格ともいえるのが、この三門。ところが、山田さんから意外な言葉がとびだします。

「ここはもともとほとんどが松だったんですよ。紅葉や桜などの落葉樹を植えるようになったのは、前の東京オリンピック以降。ここ50~60年ほどのことだそうです」

三門から振り返ると、少し赤松が見て取れます
三門から振り返ると、少し赤松が見て取れます

そうなんですか。ガイドブックやポスターで見るのも紅葉や桜の写真が多く、京都が誇る観光名所という印象がありました。

「はい。その観光の影響で、このように植栽も変化してきたんですね。

江戸時代末期の文人である頼山陽(らい・さんよう)は『一帯の青松(せいしょう)道迷わず』と書いており、松ばかりだったことがわかります。いま見ている景色は、じつは新しいんですね」

三門の風景が美しい理由

三門に近づくと、額縁のように切り取られた風景のなんと美しいこと。文字通り絵のような風景で、思わずシャッターを切りたくなります。

京都の庭 南禅寺

「枠で切り取られた風景の美しさにも、じつは秘密があります」

と、言いますと?

「参道からの動線、視界の広がり、三門からの見え方を全て計算してあります。紅葉なら紅葉らしい枝ぶりになるよう、人の手で整えているのです」

京都の庭 南禅寺

そうだったのですか。とても自然な感じに見えるので、言われなければ気づきませんね。

「現代は、自然の自然らしさを表現した庭が好まれますが、これは明治以降の庭のあり方と言えます。

紅葉は紅葉らしく、松は松らしく。庭を見るときは、すべてそのように手を入れて育てている『人為』と思って見ていただくといいと思います」

「滝の間」に隠された職人技

三門をくぐり、法堂にお参りをし、国指定名勝庭園のある「方丈」(禅宗寺院のお堂) へと向かいます。大方丈と小方丈からなる建物で、大方丈は昭和26年に国の名勝に指定されています。

方丈に入って、すぐ右手にあるのが「滝の間」と呼ばれる一室です。窓の向こうには一幅の絵のような滝のある庭が広がっています。

南禅寺 方丈 滝の間

「ここも、山にある滝のような情景を、人為でつくり出しています」

どんな工夫がされているのですか。

「滝の手前に、紅葉の枝があるのがわかりますか」

はい、わかります。流れに手をさしのべるように、枝がさしかかって見えます。

京都の庭 南禅寺

あれは『飛泉障り』(ひせんさわり)といって、伝統的な造園技法のひとつです。

滝の手前に木を配して、枝をさしのべる。それによって、滝に奥行きをもたせ、眺めに深みを与えることを目的としています」

滝との位置関係を計算して植えてあるのですか。庭師の技ですね。

「ただ滝だけあっても、滝らしく見えないものなのです。そこで、良いあんばいで枝がかかるよう、出すぎず、隠しすぎないよう、日々、手入れを重ねています」

南禅寺 方丈 滝の間

滝が滝らしく見える条件があったのですね。作為を気づかせない庭師の技、まだまだたくさん隠されていそうです。

方丈庭園はどこから見るべきか?

南禅寺 方丈の廊下

廊下を進むと、いよいよ方丈庭園が姿をあらわしました。真っ白の砂紋が目にも眩しい枯山水庭園です。

思わず足をとめ、縁側からの眺めに見とれます。そこへ、山田さんのご提案。

「あちら側から見ましょうか」

うながされて、縁側を先まで進むと、‥‥なんだか、お庭の印象が少し変わった気がします。気のせいでしょうか?

南禅寺 方丈庭園

「いえ、気のせいではありません。建物のつくりからして、もともとはこちらからアプローチしていたと考えられます」

現在の園路は、来訪者がスムーズに巡回できるよう配慮された見学用の園路です。そのため、造営当初の想定とは異なる入り口から入るかたちになっているのだとか。一般公開されている名勝庭園にはよくあることだそうです。

「立ったままよりも、ぜひ座って見てみてください」と、山田さん。

床に座ると、立っているのとは目線の高さが変わります。江戸時代の庭園は「部屋から見るもの」でした。とくに上座 (位の高い人が座る席) から最も良く見えるようにつくられているのだそうです。

枯山水の名庭を味わう

では、座敷を背にした特等席から、方丈庭園をながめてみましょう。

白い砂紋。点々と配置された石。木々。そして背後に広がる東山。時間の経つのを忘れそうです。

室内の上座から見た庭園
室内の上座から見た庭園

「ぜひ石をごらんください。庭園では、石の配置が重要です。こうした石を、景色を構成する『景石』と呼んで、島や陸、あるいは象徴的な鶴や亀などの動物などを表現する場合が多いです」

京都の庭 南禅寺

石が島。ということは、白砂は‥‥?

「枯山水庭園の白砂は、水をあらわしています。つまり、このひとつの庭に、大きな海とそこに浮かぶ島の情景を再現しているわけです」

京都の庭 南禅寺

石ひとつで島を表現し、目の前に海を再現する。すごい世界観ですね。

「はい。庭にかぎらず、日本文化は『見立て』の考えを用いる場合がよくあります。ここでは、石を島に見立てているんですね」

この大方丈庭園は「虎の子渡しの庭」と呼ばれているそうですが、それも「見立て」と言えるのでしょうか。

「そうですね。『虎の子渡し』は明治以降に言われはじめたようですから、当時の人がこの庭の姿にそうした情景を見て取ったのでしょうね」

京都の庭 南禅寺

「江戸の庭」から数歩で「昭和の庭」へ

続いては、小方丈庭園、別名「如心庭」です。こちらも大方丈庭園と同様の、白砂に石を配した枯山水庭園です。

小方丈庭園、別名「如心庭」
京都の庭 南禅寺

「じつは、この庭は新しいお庭です」

「新しい」というと、いつ頃のものなのでしょう。

「昭和41年につくられたもので、弊社の先先代が造営させていただきました。続く『六道庭』もそうです」

江戸時代からずいぶんジャンプするのですね!

「その間には、何百年もの時間が流れています。ですが、言われなければ、さっきの大方丈庭園の続きのようにも感じられるのではないでしょうか」

京都の庭 南禅寺

はい。驚きました。まさにタイムトリップですね。

「こうして長い歳月を一気に飛び越えることができるのも、日本庭園のおもしろいところです。いろんな楽しみ方ができますので、何度お越しいただいても発見があると思いますよ」

木の声を聞く

方丈の庭園を満喫して外に出ると、ちょうど庭師さんが松の手入れをしているところに出会いました。

訪ねたのはちょうど新緑の季節。今は何をされているところなのでしょう?

方丈庭園の手入れをする庭師

「芽つみといって、春に伸びる芽をつんでいます。伸びた芽を放っておくと、そのままどんどん伸びていきますから」

なるべく年中通して同じ姿にしておくため、春の芽つみと秋の葉むしりは、松の手入れの大事な作業のひとつだそうです。

作業はもちろんすべて手作業です。ひとつずつ手で丁寧に摘んでいく庭師さん。よく見ると、少しずつ摘み方が違うようです。

松の芽
方丈庭園の手入れをする庭師

「木の上と下。日当たりのいいところと悪いところ。養分のバランスも考えて、弱いところは守り、元気なところを大きく落としてます」

言われてみればたしかに、植物は生きものです。一本の木の中でも枝によって強い弱いがある。それに配慮して、「育てる」という視点を大切に、庭師さんは手入れをしているのですね。

「とはいえ、生きもの相手、自然相手ですから、思った通りにはなりませんし、セオリー通りにもなりません。それが自然というものですから。庭師は、なすべきことを、なすべきように、やっていくだけです」

方丈庭園の手入れをする庭師

まるで木の声を聞いているかのような、庭師さんの姿。そうして何百年もの歳月を超えて受け継がれてきたのが、今目の前にある庭園。

庭師さんの職人魂、人智を超えた「自然」への深い敬意を感じた一場面でした。

 


 

ここまで、まずは江戸時代から現代につづく南禅寺の庭園を堪能しました。

続いては、明治の日本庭園を代表する名庭と言われる「無鄰菴庭園」へと向かいます。

サスペンスドラマロケ地としても有名な、南禅寺敷地内にあるアーチ橋「水路閣」。当日もちょうどロケが行われていました
サスペンスドラマロケ地としても有名な、南禅寺敷地内にあるアーチ橋「水路閣」。当日もちょうどロケが行われていました

<取材協力>
植彌加藤造園株式会社 (Ueyakato Landscape)
https://ueyakato.jp/

文:福田容子
写真:山下桂子

美しすぎて土佐藩が隠した「高知サンゴ」とは?知られざる海の宝石の物語

赤く輝く海の宝石、サンゴ。

アクセサリーや数珠など、全国のサンゴ製品の8割以上が高知県で生産されています。

前回は、高知サンゴ工房さんを訪ね、赤ちゃんのお守り「ベビーブレス」をご紹介しました。

高知サンゴ工房
水分によって色が変わるサンゴの特性を生かした「ベビーブレス」

高知サンゴ工房さんは、高知でも珍しい、工房と店舗が併設されたお店。

今回は、工房でサンゴの加工を見せていただきました。

サンゴにまつわる悲劇を綴った絵本「お月さんももいろ」

国産のサンゴは、1812(文化9)年、高知県月灘沖(現在の大月町)で漁師がたまたまサンゴを引き上げたのが始まりといわれています。

以降、土佐沖でのサンゴの採取漁が行われていたものの、1838(天保9)年、土佐藩によりサンゴの採取、所持、販売が禁止されます。

「江戸幕府に、こういうお宝があることを知られたらいかんということで隠していたんです」

サンゴの話をすることすら許されなかったそうです。

お話を聞いた、高知サンゴ工房二代目の平田勝幸さん

当時のことがわかるものに、土佐に伝わるわらべ唄「お月さんももいろ」という唄があります。

お月さん ももいろ
だれん いうた
あまん いうた
あまの口 ひきさけ

江戸時代、禁止されていたサンゴの秘密をもらした海女の口を引き裂け、という唄だそうです。

唄を題材にした絵本もあります。

『お月さんももいろ』文・松谷みよ子/絵・井口文秀

古くから桃色サンゴが眠っていると知られていた月灘の海辺。そこに暮らす少女が、禁制と知らずに桃色サンゴを拾ったことから起こる悲劇の物語です。

土佐におけるサンゴの歴史と、土佐で採れるサンゴがいかに美しく、人々が魅了されていたかがわかるお話でもあります。

「明治に入って幕府が無くなるとサンゴの採取が自由化されて、そこからサンゴの加工も始まりました。今から170年ぐらい前ですね」

サンゴ漁をするのは許可を得た漁師さんだけで、採る場所も室戸岬沖のわずかな範囲と水産庁によって決められているそうです。

店内のディスプレイにある、サンゴ漁に使われる専用の網

「いいサンゴが採れるところは漁師さんに聞いても絶対に教えてくれんです。サンゴは一攫千金なんで。人に喋ると、どういうルートで伝わるか分からんから」

昔も今もサンゴがお宝であることに代わりはないようです。

原木の形を残さず、元の形が分からないように彫る

では実際、サンゴの原木からどのように加工されていくのでしょうか。

「どんな形にするかは、原木に合わせて。でも、原木の形を残すと彫りが堅くなってきれいにまとまらないので、元の形が分からないような彫りにしています」

「土佐彫りと言って、立体的に直線的に縦方向に彫っていくのが高知県伝統の技術ですね」

バラのアクセサリー

「例えばバラだったら、花びらを寝かさずに、縦に直線的に立体感を出すように彫っていく。関東とか台湾にいくと花びらをぺたっと寝かせた平たいデザインが多いですね」

厚みがあり、本物のバラのように見える

サンゴの正体は植物ではなく虫

ところで、サンゴとはどんなものなのでしょうか。

「サンゴには“八放(はっぽう)サンゴ”と“六放(ろっぽう)サンゴ”があって、加工に使うのは八放サンゴ、宝石サンゴと言われています。サンゴは珊瑚虫(さんごちゅう)と呼ばれる動物なんですよ」

え!虫!?

「珊瑚虫の口の周囲にある触手の数によって、六放サンゴ(6本)と八放サンゴ(8本)に分類されています」

加工に使う八放サンゴは、海底100m以上の深海から採れるもの。サンゴ礁やイソギンチャクは六放サンゴで、種類が違うものだそうです。

「サンゴはまだまだ未知の生物で、研究している大学の教授もいるんですが、詳しいことはよくわかっていません」

サンゴは植物のように思っていましたが、生物だったとは。

当然、寿命もあります。

「今、水揚げされている原木はほとんど死んでいる、枯れたサンゴですね。折れて海底に倒れているものや、昔、網にかけ損ねて折れたものとか」

枯れサンゴでも、ものによっては価値が上がるそうですが、やはり生きたサンゴがいいそうです。

「生きたサンゴは独特な透明感があります。なんか不思議な。たぶんコラーゲンやと思います。枯れたサンゴになると、その成分がなくなっているから磨いてもちょっとくすんだような色になります」

タンパク質。なるほど、生き物だということがよくわかります。

赤、白、ピンク。色の濃さでも価値が違う

加工される宝石サンゴは色も様々。一つとして同じ色はありません。

「桃、赤、白、ピンク、全部で4種類ぐらいですね。採れる海の場所によって色も違います。濃い赤のものばかり採れるところや、白っぽいのばかり採れるところ。昔は室戸沖で、最高品質の赤サンゴが採れました」

赤サンゴは小さくても船が1隻買えるぐらいの値段になるそうです。

「昔は日本人が嫌った色なので一番安い原木やったのに、今はスゴイ価値がある。赤黒ければ黒いほど価値が高い」

こちらの桃色サンゴも最近人気のもの。

「昔は白いところが入ると、皆さん嫌がったんですけど。今は白が入ってるほうが可愛い言うてね」

時代とともに色の好みが変わるというのも面白いです。

歯医者さんと同じ道具を使って加工

作業場にはきれいに道具が並べられています。

実はこれ、歯医者さんが使っているものと同じ道具。

それもそのはず、サンゴはとても硬く、人間の歯とほぼ同じ硬さだそうです。

「少々落としても大丈夫です」

虫眼鏡を覗きながら、細工をしていきます。

こんなに細かな模様!

まん丸のピンポン菊をイメージした「玉菊」というパーツができました。

こちらは、削りながら細工していく「くり抜き」加工を施したもの。

「象牙なんかに似たようなものがありますけど、サンゴでやるのは難しいので、他所にはないものですね」

加工で一番難しいところはどんなところでしょうか。

「原木を切って思い通りにいかないところですね。削っていくと中に大きな穴が開いてたりとか、8割キズが出てくるんです。それを想定して切らんといかんから」

「この原木の場合は、恐らくキズが出んであろうというのは絵付けしているこの部分だけです。大体、又になってるところに大きなキズがあります」

穴の空いているもの

キズを避けてデザインを決めていく。

「残った部分は別のもんに。削って削って、小ちゃい球にしたりとか」

一人前に加工ができるようになるまで30年。

高知でも伝統の細工ができる職人さんは10数人、関東ではいなくなってしまったそうです。

サンゴの成長は1年間で0.3㎜。製品を作るまでには150年以上かかる

サンゴは高知のほか、小笠原諸島、奄美大島でも採れますが、全て加工職人が多い高知に水揚げされます。

その水揚げ量は減っているそうです。

「30年ぐらい前が水揚げ量のピークじゃなかったかな。ずっと安定した採取量がありましたので、いつ入札に行ってもざくざくありました。今は小っちゃな原木が一本だけとか、そんな感じになっていますね」

技術を受け継ぐ人材がいても、材料がどこまで持続できるかという問題があるそうです。

「今、黒潮海洋研究所と宝石サンゴの組合で一緒にサンゴの養殖をしていますが、1年間で0.3㎜。ちょこっとした製品を作るだけでも150年かかるので、なかなか難しいですね」

成長するまでに職人を絶やさずに続けていくには、今たくさん作るのではなく、原木を少しずつ削っていく方がいい。

「うちも昔採った原木があるんですけど、お客さんがどうしても欲しいっていう特注以外は切らないようにしています」

美しく可愛らしい海の宝石、サンゴ。

その美しさのため人々が魅了されてきた歴史、限りある資源を大切にしながら伝統技術を後世につなげていく厳しさも知りました。

身につける方も大切に親から子へと受け継いでいきたい宝石、サンゴです。

<取材協力>高知サンゴ工房
高知市桟橋通4-7-1
088-831-2691

こちらは、2018年4月15日の記事を再編集して掲載しました。