高知の朝は「喫茶デポー」へ。名物の和洋モーニングとは?

旅の途中で訪れた、思わず愛おしくなってしまう純喫茶を紹介する「愛しの純喫茶」。今回は、高知の人々に40年親しまれてきた老舗喫茶店「喫茶デポー」です。

高知の朝食は、喫茶店で

人口1000人当たりの喫茶店数で日本一を誇る高知県 (2014年総務省統計局調査より) 。そんな高知のモーニングは「ちょっと変わっている」と聞き、朝から出かけてみることに。

高知の路面電車「とさでん」に揺られて菜園場町駅まで。繁華街として賑わうはりまや橋の隣駅ですが、川のせせらぎが聞こえる静かな地域です。電車を降りて2分ほど歩くと、喫茶店の看板が見えてきました。

喫茶デポーの看板

扉のチリンチリンという鈴を鳴らしながら店内に入ると、女性たちの笑い声が聞こえてきます。

時計を見ると、朝の9時をまわったところ。お仕事前の方から、家族を送り出した後とおぼしき主婦の方、年配の方もちらほらと。ひとり客からグループ客まで大勢の方で賑わっていました。

お店をぐるりと見回すと、みなさん朝ごはんを食べている様子。さっそく私もメニューを眺めます。モーニングだけで6種類もありました。

「『高知モーニング Part3』が、高知らしくて一番人気のメニューです。きっと驚いていただけると思いますよ」

お店の方にそう言われ、せっかくなのでこちらをお願いすることに。「驚く」ってどういうことだろう?そんなことを思いながら待つこと数分。

「お待たせしました!」と、トレイがテーブルに置かれました。

高知のモーニングメニュー
なんとボリューミー!

登場したのはトレイいっぱいに器の並ぶモーニング。かなりのボリュームに圧倒されながら、お皿を見ていくと、おや?厚切りトーストの横におにぎり??

さらには、コーヒーとお味噌汁が並びます
さらには、コーヒーとお味噌汁が並びます

パン、ごはん、コーヒー、お味噌汁‥‥朝食のオールスターが一同に!これが高知の人々の間でお馴染みのモーニングセットなのだそう。隣のお皿に盛り合わせられたおかずも豪華です。

目玉焼き、サラダ、ウインナー、ナポリタン
目玉焼き、サラダ、ウインナー、ナポリタン。横にはバナナも添えられていました

ふかふかの焼きたて厚切りトーストをかじったら目玉焼きを。コーヒーを一口飲み、サラダを食べたらおにぎりに手をつけ、お味噌汁をすすります。思いのほか違和感なく食べられるものです。なんだかとても贅沢な気分になりました。

「食べたいもの」を素直に乗せた

このメニューを考え出したのは、デポー専務取締役の池田登志子さん。

「朝食で私の食べたいものを考えていったら、トーストとおにぎり両方になったの。おにぎりだったら合わせるのはお味噌汁でしょう、ということで思い切って一緒に乗せてみました。高知市内でこんな組み合わせを提供したのはどうやら私が初めてだったみたい。これがお客さんに喜んでもらえて人気になりました」

40年ほど前、池田さんは夫婦で喫茶店を始めました。当時は高知でも、モーニングは「トーストにコーヒー」というシンプルなメニューが一般的だったそう。ここに登場した池田さんの「和洋モーニング」がヒットします。

すでに人気店となっていたデポーの7店舗で提供されていたこともあり、その認知は高まり、今ではすっかり高知の朝の定番メニューに。デポーでは改良を重ねて、現在のパート3の内容となっています。

コカ・コーラのランプシェード
店内の内装も楽しみの一つ。コカ・コーラのアンティークグッズがいくつも飾られていました。これも池田さんの好きなもの。かなり古いものもあり、評判を聞きつけた日本コカ・コーラの副社長が訪れたこともあったほど。副社長から喜びのお手紙まで届いたそう

「高知では、昔から女性が元気でよく働くと言われているんです。働く女性が朝食を作るのは大変だからモーニングが広まった、なんて話もあるくらい。みなさん朝から元気なんですよね。

お客さんから『ここに来るとホッとする、ここが一番居心地がいい』と言葉をかけていただいたり、ゆったりされている様子を見ると、まだまだやめられないなぁ、やっぱりこういうお店持っててよかったなぁ、好きだなぁと思うんです」

今では役員としてお店の上のフロアにある事務所にいることの多い池田さんですが、出勤すると必ずお店に顔を出すのだそう。昔馴染みのお客さんに挨拶したり、常連のお年寄りの体を気遣ったり。池田さんに会いに通っていると話すお客さんもいらっしゃいました。

池田さんの集めたアンティークのメリーゴランド
店内に飾られている池田さんお気に入りの小物も、お店とともに長年お客さんを見守ってきました

朝から元気な高知の方々と会って、しっかり朝食をいただいたら、こちらも力が湧いてきますね。今日も1日頑張るぞ!と、お店をあとにしました。

喫茶デポー 菜園場店
高知県高知市菜園場町3-8
電話 : 088-884-4973
http://depot.main.jp/depot/depot.html
営業時間 : 10:00〜17:00
定休日 : 無し※元日を除く
駐車場:あり
※京町、知寄町にも店舗あり

文・写真:小俣荘子

こちらは、2018年4月21日の記事を再編集して掲載しました。その土地やお店のこだわりを感じられる喫茶店のモーニングは、旅先でぜひ訪れたいスポットです。

ご当地お座敷遊び「べく杯」で、高知の宴は二度盛り上がる

可杯と書いて、べくはいと読む。

高知を訪れると、おみやげ物屋さんや宴席でよく見かけるものがあります。

さて、これは何でしょう?

天狗、ひょっとこ、おかめ、独楽
天狗、ひょっとこ、おかめ、そして独楽?

おもちゃのようにも見えますが、実はこれ、宴席の座興で使う杯なのです。その名は「可杯 (べくはい) 」。どうやって使うのでしょうか。

今日は、高知の人々が親しんでいる、楽しくも恐ろしい (?) お座敷遊びの道具をご紹介します。

飲み終わるまで、手が離せない?

「可」の文字は、漢文では「可◯◯〜 (◯◯すべし〜) 」と使い、文末に「可」の文字を書くことはありません。そのことから、下に置けない杯を「可杯」と呼ぶようになったのだとか。

可杯は、円錐状に杯の底が尖っていたり、穴があいていたり、そのままではお酒がこぼれてしまう形をしています。一般的な杯に穴を開けたシンプルなものから、人や動物の姿をモチーフにしたものなどデザインは様々です。

もう一度、さきほどの可杯を見てみましょう。

口のところに穴があいているひょっとこの杯。指で押さえていないとお酒が漏れてしまいます
口のところに穴があいているひょっとこの杯。指で押さえていないとお酒が漏れてしまいます
天狗の杯
こちらは天狗の杯。他の2つより大きめです
こちらは天狗の杯。長い鼻の先までお酒が入る大容量。不安定なので、もちろんお酒を飲み干さないと手を離すことができません
天狗の杯は大きい上に、長い鼻の先までお酒がたっぷりと入ります。不安定なので、もちろんお酒を飲み干さないと手が離せません
おかめの杯は「顔を下にして置くのはかわいそう」という理由で、お酒を入れた状態では手を離すことができません
おかめの杯は「顔を下にして置くのはかわいそう」という理由で、お酒を入れたままでは置くことができないのだそう。なんと‥‥

この3つの面が描かれた独楽を回します。

独楽が倒れました。向かって左手の人が天狗杯で一杯!ですね
止まった時に軸の向いている方角に座っている人が、出た絵柄の杯に酒を注いで飲み干します。この場合、向かって左手の人が天狗杯で一杯!ですね

大勢で輪になって、独楽をかわるがわる回して杯を決めながら飲む、というのが可杯の遊び方です。

高知の老舗酒造が見つけた、宴会をもっと楽しむ道具

高知に可杯を浸透させた立役者の元を訪ねました。高知県の佐川町に酒蔵を構える司牡丹酒造株式会社です。

創業は1603年。江戸幕府が成立した年から続く造り酒屋で、高知に現存するもっとも歴史ある企業なのだそう
司牡丹酒造の創業は1603年。江戸幕府が成立した年から続く造り酒屋で、高知に現存するもっとも歴史ある企業なのだそう
佐川町は江戸時代に城下町として栄え、主に商人が居を構えた地域。伝統的な商家住宅や酒蔵が今も残っています
佐川町は江戸時代に城下町として栄え、主に商人が居を構えた地域。伝統的な商家住宅や酒蔵が今も残っています
社長の竹村昭彦さん
高知の宴会文化に詳しい、社長の竹村昭彦さんにお話を伺いました

「可杯というものは、実は、かつて全国各地にあったようです。ですが、いつしかほとんど見られなくなりました。これを残念に思った先代社長が、ある時このお面の可杯の型を見つけ、商品化を思い立ちます。

そうして、1976年に酒と3面の可杯を詰め合わせたセット商品を発売しました。この商品が好評を博し、またたく間に高知県全域に知れ渡りました。

加えて、高知の料亭では古くから宴会のお遊び歌として『ベロベロの神様の歌』というものが歌われていたのですが、これが可杯と結びつきます。独楽を回したときに、この歌を歌って囃し立てることで一層盛り上がりました」

独楽が回っている間、囃し歌を歌います
「ベロベロの神様は 正直な神様よ お酒 (おささ) の方へと おもむきゃれ エェ おもむきゃれ」 そう歌いながら、独楽が倒れるのを待ちます

「宴席では、この歌の『お酒』の部分を『男前』『助平』『べっぴんさん』などにアレンジして歌います。手拍子をしながら独楽が止まるのを待ちます。独楽に指された人は『男前』であったり、『助平』や『べっぴんさん』というわけで、爆笑の中で当たった可杯を飲み干すんですね。

お酒好き、それも大人数でにぎやかに飲むのが大好きな高知県人にこのお遊びは大歓迎されました。こうして可杯は、『はし拳 (はしけん) 』と並び称されるほどの土佐を代表する宴席のお遊び、土佐の酒文化となったのです」

はし拳
「土佐はし拳」とは、2人で向き合って行うお座敷遊び。双方が三本ずつ箸を隠し持ち、場に出した箸の数の合計を当て合うもの。負けると、杯に満たした酒を一気に飲み干さなければなりません

下戸にも優しい、「おきゃく」文化

高知の宴会には2回の山場があるのだそうです。1回目は、料理とお酒を味わいながら酒量が増えて楽しく賑やかになる盛り上がり。2回目は、「もう飲めない」と思い始めた頃におもむろに始まる、お座敷遊びのとき。

「土佐の人はお酒好きなのに、なぜ勝ったらではなく、負けたらお酒を飲むの?とよく聞かれます。

でも、可杯などの遊びが始まるのは宴会の後半なので、みんなすでにたっぷりお酒を飲んでいる状態なんです。酔った状態でさらに楽しもう、楽しんでもらおうと始めるのですね」

なるほど。とっても楽しそう!と思いつつも、少し不安になってしまいました。というのも、実は私、下戸なのです。

宴会の席の賑やかな雰囲気や食事を共にするのは大好きなのですが、お酒をほとんど飲めない身で、高知の宴会を楽しめるのでしょうか。飲めないことで興ざめさせてしまっても申し訳ない。なんだか怖いような気もします。

「司馬遼太郎の『龍馬がゆく』など読んでいると、かつては千鳥足になってまっすぐ歩けないほど酔わせることがおもてなしであると考えるところもあったようですが、今はそんな時代ではないですよね。いつの時代も考えているのは、来た方に楽しんでいただくこと。

高知では、宴会を『おきゃく』と呼びますが、これもお客さんが来たから宴会をしよう!ということから、転じて宴会そのものを表す言葉になりました。この言葉にも高知の人々のもてなしたい気持ちが表れています」

べく杯

「お酒をたくさん勧めるのは、お客さんを酔い潰すためではなくて、あくまで喜んでもらうためなんです。ですので、飲めない人にはお茶やジュースを用意してお座敷遊びをする料亭もあります。

もちろんどんな席でも『この人お酒弱そうだな』と気づくと、まわりのみんなが喜んで代わりに飲んでくれますよ。期せずして勧められてしまった時も、形だけ口をつけて全く飲まなくてOKです。それで気持ちは伝わりますから、安心してくださいね。

もともと、おきゃくは子どもも参加するものです。お酒が飲めなくてもいいんです。楽しんでもらえたら嬉しいのですから」

竹村さんのお話を伺って安心しました。高知の人たちの歓迎の気持ちが宴を作っているのですね。

1000年前から宴会好き?海と山が生んだ食文化

それにしても、高知の人はどうしてそんなに宴会をするのでしょうか。

「宴会で飲んだくれている様子は約1000年前に書かれたと言われている『土佐日記』にも描かれていますから、かなりの昔から筋金入りの宴会好きですよね。 (笑)

ひとつは、豊かな食環境の影響。海も山も川もある高知では、新鮮な食材がたっぷりと獲れますし、清流から美味しいお酒も造れます。高知のお酒は淡麗辛口が中心です。これは、新鮮な食材を生かしたシンプルな料理との相性を考えてのこと。お酒も食も進みますから、宴会せずにはいられませんよね。

もうひとつは、四国山脈で囲われていてよそからのアクセスが悪いということ。はるばるやって来た人を歓迎して、地元の幸でもてなしたことから『おきゃく』文化が発展していったのではないかと考えられています」

全長80メートル続く司牡丹の蔵。出荷前のお酒が眠るこの蔵は、日本有数の長さなのだそう
80メートル続く司牡丹酒造の蔵。出荷前のお酒が眠っています

滞在中、ふらっと入った先々であたたかく迎えられました。お店の方だけでなく、隣の席の常連さん、はたまた後ろのテーブルの方にまで話しかけられ、おすすめメニューを分けていただいたり、献杯返杯 (交互にお酒を注ぎ合う飲み方) を受けたり。飲めなくても、歓迎してくださる気持ち、心遣いが嬉しいものです。そうして楽しい夜は更けていき、すっかりお酒の席の虜になったのでした。

<取材協力>

司牡丹酒造株式会社

高知県高岡郡佐川町甲1299番地

<掲載商品>

可杯 (司牡丹酒造)

文・写真 : 小俣荘子

こちらは、2018年4月18日の記事を再編集して掲載しました。お盆で人が集まる時期、可杯で盛り上がるのも楽しそうですね。でもお酒はほどほどに。

“よさこいエリート”と振り返る、商店街と共に歩んだ高知「よさこい祭り」66年の全歴史

全長約700メートルの「帯屋町筋商店街」。

高知中心街のシンボル的存在であり、今や全国にその名を広めた「高知よさこい祭り」の花形演舞場だ。

「もともとよさこいは、高知の商店街を盛り上げようとして始まったお祭りです。つまり、その商店街の中核である帯屋町商店街は、よさこいの歴史そのものなんですよ」

そう語るのは、岩目一郎(いわめ いちろう)さん。

66歳の岩目さんは、今年第66回を迎える「よさこい祭り」と同年代。

帯屋町筋商店街に生まれ、物心つく頃には帯屋町筋のよさこいチームに所属、青年時代には地方車(じかたしゃ:音響機材を搭載した車)に乗ってチームを牽引するようになり、当時最年少で、よさこいの運営母体である「よさこい振興会」の委員にもなった“よさこいエリート”だ。

よさこいと共に生まれ、よさこいと共に生きた岩目さんと共に、商店街と歩んだ「よさこい祭り」66年の歴史を振り返ってみよう。

その歩みには、現在の盛況からは想像もつかない苦境や閑散期を経て、高知の人々を鼓舞し続けた祭りの魅力が浮かび上がってくる。

よさこい祭り誕生のきっかけは、商店街の「夏枯れ現象」

「よさこい祭り」が誕生したのは、今から約70年前。終戦直前の大爆撃とその翌年の震災によって立て続けに甚大な被害を受けた高知市が、町に活気を取り戻そうと奮闘していた最中だった。

県庁前から東方を望む、昭和28頃の電車通り(出典:高知市編著(1969)『高知市戦災復興史』)

「商店街はよさこい祭りの“育ての親”。会場を貸し、ルールを作り、スタッフを出し、踊り子の接待を66年続けてきた。でも、商店街だけではこの祭りを誕生させることはできなかったよ。“生みの親”は、商工会議所やね」(岩目さん)

そんな「よさこいの生みの親」高知商工会議所が、当時、大きな課題としていたのが「夏枯れ現象」だった。夏になると暑さで客足が減り、商店街の売り上げも煽りを受ける。長年その問題解消に取り組んできたものの、なかなか妙案は浮かばなかった。

そんな彼らの元に、ある「招待」が飛び込んできたのは、昭和27年のこと。お隣・徳島県からの「阿波踊りの舞台で、高知のよさこい踊りを披露してみないか」というものだった。

「よさこい踊り」は、土佐の民謡「よさこい節」に振りをつけた踊り。現在「よさこい祭り」で踊られている「よさこい鳴子踊り」のベースとなった踊りで、戦後、高知市の復興祭で披露するために作られたものだ。商工会議所は、その復興祭の主催だった。

戦後復興祭として昭和25年(1950年)に開催された南国博の様子(画像提供:高知新聞社)

徳島からの招待を受けることに決めた商工会議所の面々は、昭和28年8月、踊り子隊を引き連れ、阿波踊り会場を訪れた。

その帰途の車中会議が、「阿波踊りに負けんようなものを作るしかない」と熱っぽくまとまったのは言うまでもない。

帰高後まもなく、商工会議所は夏枯れ対策として「よさこい踊り」を活用する方針を決定。この踊りを豪華にリニューアルし、それを目玉とした市民祭を開催することで、商店街へ客を呼びこもうとしたのだ。これが「よさこい祭り」誕生の第一歩であった。

祭りの立ち上げに貢献した、2人の「いごっそう」

「よさこいの立ち上げに関わった人はたくさんいるんですよ。でも、それを取りまとめ、形にしたのは、ほかでもない、浜口さんです」(岩目さん)

プロジェクトの矢面に立ったのは、料亭「濱長」の初代店主で、商工会議所観光部会のメンバーだった浜口八郎(はまぐち はちろう)さん。残念ながら逝去されているが、岩目さんがよさこい振興会の委員になった頃には、まだ現役で活躍中。「若いもんが変えなイカン」と次の世代の背中を押してくれる、おおらかな人物だったという。

祭りの衣装を着た浜口八郎さん(画像提供:濱長)

当時のことを、浜口さんの妻・千代子さんはこう書き記している。

正直申しまして、主人は自分の店の仕事にはそう熱心ではございませんでしたが、人さまに依頼されたり、大勢の人に喜んでもらえることになると大層力をいれました。特に高知県の観光振興には熱心で、高知市の夏の名物行事「よさこい祭り」には、高知商工会議所観光部会の役員だったこともあり、随分と力を入れておりました。(料亭「濱長」サイト内「初代女将・千代子の日記」より

そんな浜口さんが、自分の店のお客でもあった作曲家の武政英策(たけまさ えいさく)さんを尋ね、ある依頼をしたのは昭和29年6月25日のこと。

「実は、市民の健康祈願祭になにか踊りのようなものをやりたいのだが、民衆にヒットするものを考えてみてほしい」(『よさこい20年史』より)

すでに祭りの日程は8月10日、11日に決まっており、7月1日から練習を始めたいと言う。つまり、わずか5日間で曲と歌詞を作ってほしいという依頼である。武政さんは「まことにムチャな話」と驚きつつも依頼を引き受け、その晩からさっそく制作にとりかかった。

作曲家の武政英策さん(画像提供:森田繁広さん / 『よさこい祭り60年史』より引用)

伝統ある阿波踊りに対抗するには素手ではだめだ…、思い付いたのが鳴子。「年にお米が二度とれる土佐において、何かやると言えば、鳴子は最高の圧巻だ。これなら阿波踊りに対抗できる。」(『よさこい20年史』より 武政英策さんの手記)

武政氏が思いついたのは、田畑の「すずめ脅し」として使われていた鳴子(なるこ)を、稲の二期作地帯である高知をイメージした打ち物として利用すること。そうして誕生したのが、現在の踊りのベースとなっている「よさこい鳴子踊り」だ。

よっちょれよ よっちょれよ よっちょれよっちょれよっちょれよ
高知の城下へ来てみいや じんまもばんばもよう踊る
鳴子両手によう踊る よう踊る

土佐の(ヨイヤサノサノサノ)高知の はりまや橋で
坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい

武政さんは、歌詞の着想を『よさこい節』『土佐わらべ歌』『郵便さん走りゃんせ』などの土佐の民謡から得たことをのちに明らかにしている。

「「郵便さん走りゃんせ」の中に「いだてん飛脚だ、ヨッチョレヨ」というのがある。私は、このヨッチョレの言葉が楽しくてたまらない。また、よさこい祭りというからには、昔から伝わる「よさこい節」も入れた方がよいだろう」(『よさこい20年史』 武政英策さんの手記「鳴子踊りの誕生」より)

振り付けに難航した、よさこい祭り草創期の鳴子踊り(画像提供:高知新聞社)

曲と歌詞が完成したら、残るは踊りである。

浜口さんが次に声をかけたのは、日本舞踊の五流派の師匠たち。のちに争いを生まないように、特定の流派への依頼を避けたのだ。

浜口さんも同席の上で制作を始めたものの、振り付けは難航した。お師匠さんたちの振り付けは、回ったり、後ろへ下がったりと、どうしても優雅な舞台踊りになってしまう。しかし、よさこいは街頭での踊りを想定していたため、前へ前へと進む踊りでなければならなかった。

「それは徳島の阿波踊りなど、先進地の視察も十分したうえでのことでしたが、専門家の振り付けを無視するわけにもいかず、あでやかなお師匠さんたちの中に入って、ああでもない、こうでもない、と注文を付けておりました」(料亭「濱長」サイト内「初代女将・千代子の日記」より

しかし、そうしている間にも祭りの日はだんだんと近づいてくる。そこで、一回目は仕方がない、と手を打ったのが「三歩進んで、くるりと回り、一歩下がってチョン」という型だった。

市役所前の本部審査場。左手に四国電力旧社屋、向こうに県民ホールが見える(画像提供:高知新聞社)

こうして、昭和29年8月10日・11日、第1回目の「よさこい祭り」が開催された。

水上ショーや酒の振る舞い、郷土芸能などの出し物も話題を呼び、狙い通りの大盛況。翌日の新聞紙面には「人出八万」という言葉が踊った。

初期のよさこいを支えたテレビ中継

昭和31年開催、第3回よさこい祭りにて、追手門内特別舞台につめかけた観衆(画像提供:高知新聞社)

ほとんど娯楽がない時代に珍しい参加型のお祭りとあって、「よさこい祭り」はあっという間に市民に受け入れられた。期間中は商店街に人がごった返し、老いも若きも大盛況だった。

「顔は知ってるけど普段は交流のないおっちゃんとかも、祭りの日には気さくに話しかけてきてね。もうみんな酒飲んで酔っ払ってるから『おいボウズ! つまみ食うか!』という感じで絡んでくるんですよ」(岩目さん)

しかしそれも、祭りが始まって数年のうちだけだった。

次第に飽きがきたのだろうか、参加者も参加チームもどんどん少なくなり、ついには踊り子に日当が出る始末。岩目さんも、幼少期には「プラモデルの引換券目当てに踊った」と記憶しているそうだ。

昭和34年・第6回の祭り時には、市役所前で踊りの中継がされた(画像提供:高知新聞社)

そんな、初期のよさこい低迷期の救世主となったのは、当時、県内唯一の民放テレビであった「ラジオ高知テレビ」。昭和34年(第6回)から、祭りの生放送をすることになったのだ。

当時は、テレビに自分の姿が映ることが特別で、画面に見切れるだけでも大騒ぎする時代。その効果は絶大で、祭り当日、中継会場である市役所広場には、例年の何倍もの参加者が押しかけたという。

放送時間が残り少なくなって来ると、参加各団体の代表者はけんか腰。終いには司会者の胸ぐらをつかんで「もし自分たちの団体が放送に出なかったら、俺は町内におられなくなる。どうしてくれるか」などと詰め寄られてこづき回された。(『よさこい20年史』元本部舞台司会者・RKCプロダクション社長 武内清氏の手記「司会者とテレビ中継」より)

結局、30分を予定していた放送時間を延長し、47団体、2千5百余人が参加、午後1時から4時までの丸3時間という長時間の生中継になった。その日、家庭のテレビや電気店のテレビの前は、近所の人々や通行人が群がって、「だれやろさんが映っちゅう!」と大騒ぎだったという。

自由化を加速させた「ニースのカーニバル」

祭り期間は気温30度超えの暑さ。踊るのも見るのも体力が必要(画像提供:高知新聞社)

しかし、5年ほどするとテレビ中継も当たり前になり、逆に「家でも見られるから」と観客の数は減っていった。祭りの時期は気温30度を軽く超える猛烈な暑さで、見物も大変。しかも当時は全チームが同じ踊りを踊っていたため、見る方も飽きてしまうのだ。

そんな「よさこい祭り」に、第二の転機が訪れたのは、昭和46年のこと。

フランスのニース市で開催されるカーニバルに「よさこい鳴子踊り」が招待されたのだ。カーニバルには、日本びいきのニース市長の招待で、よさこい鳴子踊りのほか、新潟県の「佐渡おけさ」、山形県の「花笠踊り」、岩手県の「鬼けんまい」が参加するという。

初めての海外遠征に、関係者たちは期待と不安でざわめいた。そこへ、ある「声」をあげた人物がいた。「よさこい鳴子踊り」を生んだ、作曲家の武政英策さんだ。

実は武政さん、当初の踊りは自分の作った曲とイメージが合わず、フラストレーションを抱えていたのである。

「今のままの踊りでは、ニースの人たちに、ほかの踊りとは違うよさこいの魅力を伝えることはできないのではないか」

武政さんは、これを機会に「よさこい鳴子踊り」を、海外の人たちにも楽しんでもらえるよう、サンバのリズムに編曲することにした。

振り付けを務めたのは、若柳流・荒谷深雪師匠。若くて元気いっぱいな踊り娘のひとりだった。諸先輩方からの「日舞の師範が西洋のダンスの振り付けをするなんて!」という批難にもめげず、「受けた仕事は誰に何を言われてもやりきる」と、破門も覚悟でニースに乗り込んだ。

当時の様子を語る岩目一郎さん

昭和47年2月。カーニバル会場に到着したのは、31名の踊り子隊。

フランス国旗にちなんだ、青、白、ピンクの法被の背には、赤い日の丸に「土佐」の文字が誇らしげに染め抜かれていた。

サンバのリズムは、武政さんの予想通り、フランスの人々を夢中にさせた。「ジャパニーズダンス、リズミカル、ベリービューティフル!」と人々は大歓声を上げ、踊り子たちに向かってところかまわず紙吹雪を投げつけたという。

新聞やテレビはその成果を大きく取り上げ、それを見た人たちもまた「よさこいが世界に認められた!」と、何日間もこの話題で盛り上がった。

「ニースから凱旋した踊り子隊は、まさに高知の大スターといった扱いでした。このあたりから、よさこいが市民の祭りから県民の祭りへと変化してきたように思います」(岩目さん)

「よさこいに人生賭ける」と思えた、“青果の堀田の衝撃”

今では禁止となっている、大型トレーラーを使った地方車(画像提供:高知新聞社)

当時、岩目さんが所属していた帯屋町筋踊り子隊は、資金力もあり、踊り子は300人以上(当時はまだ人数制限がなかった)、地方車も20トントレーラーを使用するなど、ほかを圧倒する巨大チーム。チーム内のポジションも上り詰めていた岩目さんは、そのときまさに「よさこいは自分のための祭り」状態だったという。

そんな岩目さんを驚かせる事件が起きたのは、昭和48年(第20回)。

2年連続でニース・カーニバルによさこい鳴子踊りが招待され、県全体のよさこいへの注目度が上がっていた頃のことだった。

「僕らのチームのひとつ前が、『青果の堀田』チームやったんです。代表の堀田イクは小学校の同級生でした。彼らは2トンくらいのちっちゃな車に5〜60人程度の踊り子、僕らは20トンのトレーラーに300人の踊り子で、そのときは正直彼らのことバカにしとりましたね」(岩目さん)

しかし、「青果の堀田」の音楽がスタートした瞬間、その場にいた人たちは皆、凍りついた。それまでのよさこいは、アレンジといっても整列して振りを合わせるマスゲームである点は変わらなかった。しかし、彼らは、音楽……というよりも、生バンドが演奏する、曲の「ビート」に合わせて、自由に飛んだり跳ねたりしたという。

「青果の堀田」の衝撃以降、生バンド演奏をするチームが急増した(画像提供:高知新聞社)

代表の堀田イクさんと音楽担当のジュリアン(通称)は、ニースのカーニバルに参加した踊り子の一員だった。その経験を共有し恋仲となった2人は、現地で感じた熱と興奮を持ち帰り、自分たちの踊りで表現したのだ。

「その表情、迫力たるや、ものすごいエネルギーでしたね。思わず見惚れてしまった。そしたら『ピピー!』と笛が鳴って『帯屋町さん、次! 出番です!』って言われて。正気に戻って『おうみんな! 行くぞ!』って振り向いたら、誰もおらんがです。踊り子たちはみんな、堀田の踊りを追っていってしまったんですよ」(岩目さん)

そのときから岩目さんは「よさこいに人生を賭けてもいい」と思うようになったという。悔しさ以上に、アイデアだけでいくらでも人を惹きつけることができる、よさこいの「可能性」を感じたのだ。

交通渋滞、騒音問題、チーム間トラブル…沸き起こる問題の数々

踊りも衣装も、どんどん自由に変化を遂げる「よさこい祭り」(画像提供:高知新聞社)

「ニース以降、サンバやロックなどいろいろなリズムが登場するようになり、それぞれの連(チーム)がより自由に個性を出すようになったんです。よさこいを自由にアレンジできる! と若者に火がついたね」(岩目さん)

しかし、隆盛と共に、当然さまざまな問題も現れてくる。

昭和54年(第26回)には、多様化の一途をたどる踊りのスタイルや音楽に、関係者だけでなく市民からも活発な賛否両論が出るようになった。高知新聞の「読者の広場」欄では、両論が「激突」の形で展開される状態だった。

昭和61年(第33回)には、伴奏音楽の「ボリューム合戦」について、「祭りだから良いのでは」という意見と「いくら祭りでも行き過ぎ」との声がぶつかり合った。

そのほかにも、交通渋滞や若者のモラル、チームの資金事情やトラブルなど、当時すでに振興会の委員として活躍していた岩目さんのもとには、さまざまな訴えが届いていたという。

盛り上がりは最高潮(画像提供:高知新聞社)

そしてついに、昭和63年(第35回)、事件が起こる。

祭りのムードが最高潮となった、最終日の夜のこと。踊り子たちはいずれも汗にまみれ、興奮し切った表情をしていた。個人賞のメダルを胸に、片肌脱ぎになった女性の踊り子もいた。

そこへ、冷めやらぬ熱を抱えた踊り子の一部が、帯屋町商店街へと流れ込んだ。

地方車まで参加して、音楽のボリュームを上げ、再び踊りはじめたのである。そのときすでに夜10時過ぎ。しかし、その盛り上がりは止まらぬどころか、別の踊り子たちが次々と合流。総勢600人余りとなり、さながら野外ディスコの状態となったのだ。

たまりかねた一般市民の通報で警察の出動となったが、興奮の極みにある踊り子たちの一部は説得を聞き入れなかった。やむなく警察が地方車を強制的に引き離すなどして夜半近くにやっと収めたという。

平成元年7月29日放送、RKC高知放送のオールナイト公開番組『朝まで討論!どうする?よさこい祭り』収録風景(画像提供:高知新聞社)

そのころ、深夜から朝6時まで徹して語る、よさこい祭りの生討論番組が放送された。ゲストは、高知市やよさこい振興会、競演場の代表、警察など。そこに帯屋町代表として岩目さんも参加していた。

どの議題も「良い・悪い」の大激論。結論はまとまらなかったものの、この番組以後、祭りの問題に対して人々の意識は高くなっていった。改善策を考える上で、「規制」を求める声は次第に大きくなる。

「でもね、よさこいの一番の魅力である根幹の『自由さ』を奪っちゃいけないと思ったんですよ。だから、僕からは『規制じゃなくて、リーダーを作ろう』と。要するに、みんなの手本となるチームをこちらから提示して、自覚を促そうと提案したんです。それが『よさこいグランプリ』誕生のきっかけとなりました」(岩目さん)

よさこい祭り、最大の転機「セントラルグループ」の登場

実は、高知の人に「よさこいの転換期はいつ?」と聞くと、ほぼ全員の口から出るキーワードがある。それが「セントラルグループの出現」。

それは奇しくも、岩目さんが提唱した「よさこいグランプリ」が開始された平成3年(第38回)のできごとだった。

「手本となるリーダーを選出するのに、祭りが終わったタイミングでは意味がない。祭りの前日に『前夜祭』を設け、そこでグランプリを選出しよう!」

第一回よさこいグランプリは、本祭前日の8月9日に開催される前夜祭にて幕をあけた。舞台は中央公園。よさこいは街頭踊りがメインだったが、「正面から見る踊りを楽しんでほしい」との意図もあり、ステージを設け、その上で踊りを披露する形になった。

前夜祭のステージで乱舞する踊り子たち(画像提供:高知新聞社)

踊り子たちは舞台上で次々と自慢の踊りを披露し、観客は「どのチームがグランプリに相応しいか」について熱っぽく語り合った。しかし、高知を中心とした総合エンターテインメント企業「セントラルグループ」の踊り子隊 総勢150名が構えをとり、音楽が鳴った瞬間、そのすべてがひっくり返った。

当日、司会役を務めていた岩目さんは、そのときのことを鮮明に覚えているという。

「鳥肌が立ったよね。今までとはまるで違うものだったのよ」(岩目さん)

これまでの踊りは、躍動感すらあれ、ぐるぐる回ったり跳ねたりを繰り返す「動き」を楽しむものだった。しかし、セントラルグループは「動き」に加えて、踊りで「物語」を表現したのだ。4分30秒のなかに、起承転結があり、静と動、明と暗が共存していた。

「すべてのグループが踊り終わったら、投票でグランプリを決めるんです。でも、どの票を開けても『セントラル』。1位と2位の票差が凄まじかった。誰が見ても圧倒的、圧勝やったんです」

平成9年・第44回よさこい祭りにて、恒例となった前夜祭の様子(画像提供:高知新聞社)

かくして、「前夜祭でグランプリを決定し、踊り子たちの手本となるようなグループを選出しよう」との振興会側の狙いは、予想外の形での達成を遂げた。

その他の取り組みも功を奏したのはもちろんだが、この衝撃的なセントラルグループのデビューによって、よさこいが刹那的な楽しみやお金儲けの手段ではなく、「作品作り」へと変化したのだ。

そして、翌平成4年(第39回)、セントラルグループの踊りに魅せられたひとりの青年が北海道で始めたのが、よさこいを全国に広めるきっかけとなった「YOSAKOIソーラン」なのである。

そして、歴史は繋がれていく

「みんな、もっとキレッキレで踊って!!!!」

そんな怒号が響くのは、2018年7月の帯屋町筋商店街アーケード。一ヶ月後に控えた「よさこい祭り」に向かって、帯屋町筋のよさこいチームが練習をしていた。

現在の帯屋町筋よさこいチームのメンバーは、全部で130名ほど。8割以上がリピーターで、中には20年、30年と、このチームで踊り続けているメンバーもいるそうだ。市内からの参加がほとんどであるが、ここ十数年で随分と県外からの参加も増え、130名中30名ほどが県外メンバーだという。

最近では、よさこいのために移住する人も増え、「よさこい移住」という言葉まで誕生しているらしい。

帯屋町筋の踊り指導を務める清水美優(しみず みゆ)さんは、2017年4月、群馬から「よさこい移住」をしてきた。幼い頃に通っていたバレエ教室の縁で、年に一度、高知に来てはよさこいを踊り、気づけば虜になっていたという。

「踊っていると、お客さんがうちわであおいでくれたり、『頑張れ!』と声援をくれたりする。よさこいは、踊り子も観客も、それぞれのチームも、参加者みんなが一丸となって作り上げるお祭りだと感じます。そこがたまらなく好きなんです」

第66回となる今年、参加チームは合計207。県内が136チームで、県外が71チームだ。海外からは、ポーランドなど世界18の国や地域から集まる「高知県よさこいアンバサダー絆国際チーム」が参加する。本場高知の舞台で踊りたいというチームの数は年々増加の一途をたどり、振興会側も苦渋の決断で数を制限しているほどだという。

岩目さんは、変化を続けるよさこいについてこう語る。

「もともと商業祭として誕生したよさこい祭りは『神なき祭り』。つまり、時代と共に生きていくお祭りなんです。トレンドと共に、その時代の人間が作り上げていく、それこそがよさこいの真髄であり、今、全国の人が熱狂する理由なんじゃないでしょうか」(岩目さん)

神仏に奉納する踊りではないからこそ、「よさこい」は市民の変化と共に、柔軟にその形を変えてきた。歴史を振り返ると、まさにその「自由さ」こそが、高知から全国へ、そして世界へと拡がるよさこいのうねりを生み出したのだということが分かる。

最後に、「よさこい鳴子踊り」の作曲者・武政英策さんが予言のように記していた言葉で終わりたいと思う。よさこいがこんなにも自由な変化を遂げ、世界の「YOSAKOI」となることを誰も想像していなかった時代に書かれたものだ。

「郷土芸能は民衆の心の躍動である。誰の誰べえが作ったかわからないものが、忘れられたり、まちがったりしながら、しだいに角がとれシンプル化していくものである。要は、民衆の心の中に受け入れられるかどうかが問題で、よさこい鳴子踊りにしても、時代や人によって変わってきたし、これからもどんなに変わっていってもかまわないと思っている」(『よさこい20年史』より 武政英策さんの手記)

平成19年・第65回よさこい祭りにて、帯屋町筋演舞場での帯屋町筋よさこいチームの演舞(画像提供:高知新聞社)

<参考文献>
よさこい祭り振興会(昭和48年)『よさこい祭り20年史』
よさこい祭振興会(平成6年)『よさこい祭り40年』
よさこい祭振興会(平成16年)『よさこい祭り50年』
よさこい祭振興会(平成27年)『よさこい祭り60年』
岩井正浩(2006年)『いごっそハチキンたちの夏』岩田書院
高知新聞 連載『よさこいの「かたち」』

文:坂口ナオ
写真:二條七海

8月8日は妖怪の日。『付喪神絵巻』に化けて登場する夏の道具といえば?

8月8日 (ようか) は妖怪の日。

河童で有名な『遠野物語』など、日本各地の民間伝承に光を当てた日本民俗学の祖、柳田国男の命日でもあるそうです。

そんな日ですから、やっぱり「さんち」にも現れました。不定期に連載している「さんちの妖怪」

見事、妖怪になった古道具たち

題材にしている『付喪神絵巻』には、100年の命を永らえて妖怪に化けた古道具たちが登場しますが、中にはちょうど今頃、夏に活躍する道具の姿も見られます。

物語の冒頭は、路地に捨てられた古道具たちの様子。「長年お仕えしてきたのに‥‥!」と人を恨み、この後妖怪に化けて大暴れします
物語の冒頭は、路地に捨てられた古道具たちの様子。「長年お仕えしてきたのに‥‥!」と人を恨み、この後妖怪に化けて大暴れします

年の瀬の煤払い (大掃除) をきっかけに、人を惑わす「付喪神 (つくもがみ) 」となった姿がこちら。元は何の道具だったかわかりますか?

この妖怪、元は一体何の道具でしょう?
この妖怪、元は一体何の道具でしょう?

これは簡単ですね。元の道具は「扇子」です。

中国伝来かと思いきや、実は日本の発明品。今日はその「化ける前」の道具としての姿に注目してみましょう。

平安時代に京都で誕生したと言われ、平安末期には中国に伝わり、15世紀には中国経由でヨーロッパにも伝来。17世紀にはフランス・パリを中心に盛んに作られ貴族の間で流行しました。

以前、細萱久美さんの記事で紹介された宮脇賣扇庵 (みやわきばいせんあん) さんは、まさに扇子発祥の地、京都で200年続く老舗です
以前、細萱久美さんの記事で紹介された宮脇賣扇庵 (みやわきばいせんあん) さんは、まさに扇子発祥の地、京都で200年続く老舗です

初期の扇子はヒノキの薄板を束ねて作られていましたが、のちに骨に片側だけ紙を貼った紙扇子が登場。

紙を両面に貼った現在の扇子に近い形が確立したのが、ちょうど『付喪神絵巻』の物語が成立したと言われる、室町のころだそうです。

実は、絵巻には妖怪たちが扇子を持っている姿も描かれています。

扇子を使った舞を鑑賞中
扇子を使った舞を鑑賞中

道具が道具を使っていると思うとなんだかユーモラスですが、その姿からは「涼をとる」以外の扇子の使われ方がはっきり見て取れます。

武士のような格好をした妖怪の手には日の丸の扇子
武士のような格好をした妖怪の手には日の丸の扇子

平安時代には貴族の持ち物だった扇子は、鎌倉・室町時代には武士の、江戸時代には町人の手に。その中で武芸や茶道、祝宴に舞踊に落語にと、扇子は今に至るまで様々な使われ方をしてきました。

時代の主役が変わっても廃れることなく、常に新しい役割を見出されてきたのは、道具としての使い勝手の良さ、佇まいの美しさの証と言えるかもしれません。

古道具たちも自在に体を動かせるようになって、その使い心地を思う存分、謳歌したに違いありません。

文:尾島可奈子
出典:国立国会図書館デジタルコレクション「付喪神記」

こちらは、 2018年8月8日の記事を再編集して掲載しました。捨てられた古道具が妖怪になって現れないように、モノは大切にしようと改めて思いました。

自分好みのひと鉢を作ろう。「自由な盆栽」を目指す塩津植物研究所へ

部屋の中に小さな「景色」が生まれる。

手のひらサイズの小さな鉢でつくる「盆栽」は、
まるで小さな庭を部屋の中に持つように、慈しみ育てることができます。

和室が無くても、窓辺や食卓に。どこに置いても、すんなり似合って、そこに小さな景色をつくります。

人の暮らしに長く寄り添い、人より長生きするものも

今回は、今の暮らしに似合う、誰にでも楽しめる盆栽を研究し、盆栽のおもしろさを教えてくれる奈良県橿原 (かしはら) 市のご夫妻を訪ねました。

盆栽の楽しさを教えてくれる塩津ご夫妻

橿原市は歴史ロマンあふれる古墳や名所、大和三山が織りなす美しい自然景観を持つところ。里山には古来よりの万葉植物など多種多様な植物が息づきます。

塩津植物研究所の塩津丈洋(しおず・たけひろ)さんと久実子さんは3年前に拠点をこの地に移し、展覧会やイベント、ワークショップなどを各地で開いて活躍中。人と植物のよりよい暮らしを研究しています。

塩津丈洋さん

盆栽はとても自由なもの

盆栽といえば松や梅を思い浮かべる人が多いでしょう。

ところが研究所では盆栽のイメージをグッと広げる多様な植物を「わざと、かなり豊富に」常時200種も栽培しています。

「珍しい山野草や実のなるものなど、おもしろいものも揃えています」

たくさんの植物を育てている

塩津さんの盆栽は、和にも洋にも合うものばかり。

可愛かったり、カッコよかったり。

それは、旧来の盆栽のイメージとは異なる、モダンな印象です。

「盆栽は実はとても自由なものなのです」と塩津さん。

バラでもヒノキでも多くの植物が盆栽になり得ます。

自分好みに仕立てる楽しさ

「たとえば松でも剪定次第で自分好みの斬新なデザインに仕立てて良し。自分好みの植物で、新感覚の盆栽を作ることもできます。

モダンがいいと思えばモダンに。クラシックがいいと思えばクラシックに。自分の暮らしにあった盆栽に仕立てていけば良いのです」

盆栽は生き物。買った時点が完成形ではなく、持ち帰った後に自分の好みに剪定し、育てていくことができます。

なにげない樹木や野草がかわいい盆栽になることも

塩津さんの研究所では、植栽の美を引き立てる盆栽の鉢も、自分の好みのものを選ぶことができます。

うつわは全て、丈洋さんが陶芸家に依頼したオリジナルです。

「盆栽はうつわと植栽の総合芸術ですから」

うつわ選びも楽しさのひとつ

とはいえ、盆栽は難しそう。そう思う人もいるかもしれません。

「盆栽は気候の合った日本の植物を日本で育てるものです。だから僕は、『盆栽は優しい』と思っていますよ」

もちろん盆栽は生き物ですから簡単とは言えません。

まずは知ることから。その一歩を踏み出して、育ててみること。

「私たちの盆栽について知りたいこと、分からないことがあれば、どんどん聞いてください」と語るのは、丈洋さんとともに研究所を支える妻の久実子(くみこ)さん。

水やりをする塩津久実子さん

もっと知りたい、触れたい、育ててみたい。ひと目見た盆栽にそんな気持ちが湧いたら、始めどきかもしれません。

豊かな地で「種木屋」に

もともとは東京で盆栽師として活躍していた丈洋さん。奈良の橿原に拠点を移した転機は、他でもない久実子さんが運んできてくれました。

実は奈良出身の久実子さん。ある日、長らく空き家となっていた久実子さんの祖父方の土地を見た丈洋さんは、「ここなら、種木屋がスタートできる」と、確信したそうです。

それはかねてからあたためていた丈洋さんの夢でした。

盆栽の世界では、通常盆栽用の植物を育てる種木屋から苗を仕入れて仕立てます。しかし、丈洋さんが志していた「種木屋」とは、植物を種や挿し木から、「一からまるごと」育てて仕立てる仕事。

丈洋さんは橿原の地を得て、「種木屋」をこの地で始めることを決意しました。

命を感じる小さな芽

「ここは、植物にとっておいしい井戸水が湧き、風が通る。野山に足を伸ばせば、盆栽の材料となるいろんな植物と出会えます」

深く植物と関わって、育てる魅力、仕立てる魅力、そんな植物の魅力のすべてを多くの人に伝えたい。

ずっと胸に抱いていた願いが叶い、今、塩津植物研究所は「種木屋」を名乗ります。

看板に種木屋を示す「種」の屋号

「草木の駆け込み寺」になりたい。

そしてもう一つ橿原で叶えた夢があります。

それは、誰しもの「草木の駆け込み寺」になること。

盆栽のよろず相談所として、育成や培養だけでなく、検診や治療など相談にものります。

「ここに来られたお客様には実生の様子、苗の育成なども見ていただいています」

植物は、定番の松のほかにケヤキやヒノキ、イチョウや楓なども揃えます。

部屋の中でヒノキと暮らす。イチョウや楓と四季を共にする。

塩津さんの盆栽は、森で大樹になるものを部屋に飾ることができるという自由さに気づかせてくれます。

盆栽という小さな世界を通して、人々の思いに沿いながら、人と植物をしっかりつなぎたい。

今の暮らしにあった盆栽を多くの人に楽しんでもらいたい。

そんな思いから塩津さんは、日本の山野草木を題材にした盆栽教室も開いています。

「橿原に来て3年。やりたいことが少しずつ実りだしてきたところです」

植物の種のように、塩津さんの夢もこの地でどんどん膨らんでいくことでしょう。

自然を感じて暮らしたい。そんな人におすすめです

<取材協力>
塩津植物研究所
奈良県橿原市十市町993-1
0744-48-0845
http://syokubutsukenkyujo.com/

文:園城和子、徳永祐巳子
写真:中井秀彦

【わたしの好きなもの】花ふきん

 

奈良の特産品の蚊帳生地を美しく機能的に再生した、中川政七商店の人気商品「花ふきん」。

花ふきんという名前、なんだか可愛いなと思いませんか?

「白百合」「さくら」「菜の花」「すみれ」などなど。ふきんを広げると、その花をイメージさせる色がお家を彩ってくれます。



私が花ふきんを使って思うことは、これは各家庭に一枚は絶対必要だなということです。

色が素敵なのはもちろんのこと、実際に使ってみるとその用途の多様性に驚きました。

たとえば、食器拭きや蒸し物に使う方は比較的多いのかなと思います。私も食器拭きに使っています。



それ以外にもアイロンのあて布に使ったり、刺繍を施してちょっとお洒落な敷物にしたり、汗をかく時に首に巻いてスカーフ代わりにしたり。

この間友人の出産祝いにお家にお邪魔したところ、産まれたばかりの赤ちゃんのよだれ拭きとして活躍していました。

そして最後にはお掃除用品にも変身。細かいところの汚れも取れるので重宝します。



蚊帳生地を2枚重ねで仕立てることで吸収性も良く、目が粗いので乾きも早い。そんな特徴を考えると、まだ他の使い方があるのではないかと模索してしまいます。



「ふきんなんかどれも一緒でしょ‥‥」と思っていた数年前の自分が信じられません。

今では、「このふきんを使ったら他のふきんは使えないです!」というお客様の声に静かに大きく頷いてしまう日々です。


中川政七商店 ルミネ新宿店
川島 理紗



<掲載商品>
よく吸ってすぐ乾く 花ふきん