自分と家族のための服が、世界に愛されるブランドへ。「リップル洋品店」岩野夫妻が、趣味を仕事にして思うこと

仕事から帰り、息をつく間もなく“ある”作業に入る。没頭するうちに、気がつけば明け方の4時だ。眠い目をこすりながら、今日もまた会社に向かう。

「どうして、できないんだろう」

でも、面白くてやめられない。今まで、何でもそつなくこなすタイプだった岩野開人 (はるひと) さんを虜にしたのは、『服を染めること』だ。どうすれば思い描いたとおりに染まる?何を変えれば欲しい色になる?そんな試行錯誤が楽しくて、仕事終わりの染色作業は1年以上続いた。

染色された洋服のアップ

その姿を見ていた妻の久美子さんは「これだけ失敗しても、まだやり続けられるなら仕事にできるんじゃないかと思っていましたね」と思い出して笑った。

開人さんが染めていたのは、久美子さんが作った洋服。自分たちが着るための、世界でたった一着の洋服だ。

染め始めたきっかけは「ちょうど欲しい色がなかったから」。

「以前から天然素材、特にリネンが好きでした。でもリネンって、生成りか明るい赤や黄色しかなくて。その中間の好みの色が欲しくて、自分で染めてみよう、と。でも、びっくりするくらい、うまく染まらなかったんです (笑) 」

妻の久美子さんがデザインと縫製を手がけ、夫の開人さんが染めた服は今、ふたりが立ち上げた「RIPPLE YōHINTEN (リップル洋品店) 」で買うことができる。服を作り続けて10年、店頭には世界中の色を集めたかのような色とりどりの洋服が並ぶ。

リップル洋品店に並ぶカラフルな洋服
リップル洋品店に並ぶカラフルな洋服

夫婦ふたりが「自分と家族のため」に始めた服作りは、今や世界中にファンを持つ人気ブランドとなった。

個展やコレクションの発表を国内外で行ない、群馬県桐生市にあるお店には国籍を問わず多くの人々が訪れるという。

「まさか、こんなふうになるとは、服作りを始めた当初は想像もしていませんでしたね。ただ楽しい趣味として、服を作っていましたから」

趣味で始めた服作り。それを仕事にしたことでふたりの人生は大きく変わった。夫婦で駆け抜けてきた10年の「服作りが導いてきた道」を聞いた。

家族で楽しめる趣味、ものづくり

昔から、ものづくりが好きだったという岩野夫妻。3人の息子さんを育てるなかで「家族みんなで楽しめること」として、暮らしの道具を手作りし始めた。

「木を削ってスプーンを作ったり、粘土でお皿を作ってみたり。子どもたちも一緒にできたし、自分たちの身の回りの物を作ることが楽しかったんですよね」

そのうちのひとつが、洋服。

もともと布や洋服が好きだったふたりが、自分たちの洋服を作り始めたのは自然な流れだった。久美子さんが思い描いたものをミシンで縫って、開人さんが染めるという、今のリップル洋品店の原型となるものだ。

自宅アトリエに立つふたり
自宅のアトリエ。ここでリップル洋品店の服は生まれる

自分たちの好きな服を、自分たちで作って着る。趣味の世界を突き詰めていったふたりに、小さな転機が訪れる。久美子さんが着ていた洋服を気に入った人のお店に洋服を置かせてもらうことになったのだ。そこから徐々に声をかけられることが増え、オーガニックマルシェなどに出展するようになっていった。

「楽しかったですねえ。週末になると作った洋服を車に積んで、息子たちを連れていろんなところに出展して、そのまま家族でキャンプや温泉に行ったり。家族みんなで作って売って。それがとにかく楽しくて」

笑っている久美子さん

思い出している久美子さんの笑顔を見るだけで、それが家族にとっていかに幸せな時間だったかがわかるようだった。この頃、息子さんが「おかあさんの仕事は何?」と聞いてきたことがあったそうだ。

「洋服作りだよって言ったら『これ、仕事だったの?』って驚いていました」

趣味から「仕事」へ

開人さんは当時、会社員をしながら週末や仕事終わりに作業をする生活だった。しかし、それでは製作が間に合わなくなり、ついに会社員を辞めて、ものづくりで生きていく決意を固めた。

「これだけで食べていくんだから、もうプロなんだって。このときに認識が変わった気がします。まあ実際まだまだだったんですけどね」

話している開人さん

規模を広げず、趣味で続けていく選択肢もあったはず。それでも、「仕事として」の服作りは、ふたりにとってどのような意味があったのだろうか。

「服には私たちが考える以上にたくさんの側面があって、想像もつかなかった人たちとつながることができる。

趣味で作っていたときは、同じ興味を持った人とつながることができて楽しかったけれど、仕事になったら自分たちが考えもしなかった範囲の人たちまで、縁が広がっていったんですよね。

だって、私たちが服を作っていなかったら、こうやって取材するみなさんにもお会いできなかった。こういうことが嬉しくて、本当に楽しい。私たちは服作りを通して、社会とつながっているんです」

「服作り自体は内観にぴったり」とふたりは言う。作業をしながら自分の内側と向き合うことができる。

そして、売るときには気持ちが外を向く。視線を上げて、初めて出会う人たちがいる。それは服作りを仕事にしたからこそ、見つけられた世界だったのだろう。

改めて出会った「織物の町」桐生の人たち

リップル洋品店のものづくりは、3km以内の範囲で完結する。

ふたりが住む群馬県桐生市は「織物の町」として有名な、機織りや縫製、刺繍などの職人が多い場所だ。

「ふたりとも桐生出身なんですけど、『織物の町』って小さい頃から当たり前すぎて意識していなかったんですよね。

自分たちが服を作るようになって初めて、世界的なハイブランドの製品も手掛けるようなプロが周りにたくさんいるとわかりました」

現在、リップル洋品店の縫製を手伝ってくれている縫い子さんは6人。てんやわんやに忙しくなっていく久美子さんを見かねて手伝ってくれるようになったミシンの先生や、開人さんが電話帳で探しだした、小さな縫製工場をやっていた方もいる。

「ある人は縫製工場が廃業になり、違う仕事についていたのですが、ミシンを踏む仕事がしたいと話していました。

技術があるのにもったいないと思って、ぜひうちの商品を縫ってほしいってお願いしました」

自宅アトリエの試作品

定期的に縫い子さんの家を回り、次の依頼分を渡して完成品を受け取る。なんと納品を催促するのは年に1回の繁忙期だけで、普段は納期を指定しない。縫い子さんたちが自主的に進めてくれるそうだ。

さらに久美子さんは、縫い子さん一人ひとりが縫いやすいよう、縫い代の幅など細かいところの仕様を人によって変えているというから驚きだ。ボタン付けの大変さも自分で知っておきたいからと、専用のミシンも買った。

「みんな家族みたいな人たちだから、お互いに働きやすいようにしたい。

距離が近くて、直接顔を合わせてコミュニケーションが取れる環境はとても助かっているんです。仕様書ではなかなか伝わらないニュアンスも、直接会いにいって一緒に作ることでわかります」

自宅アトリエに立つ久美子さん

どんなに人気が出ても、世界へ出ても、ものづくりの拠点は桐生で、と言い切るふたり。

「すごいブランドのものを作っている職人さんでも、私たちにとっては身近にいるおじちゃんやおばちゃん。

それは相手にとっての私たちも同じだと思うんです。等身大の私たちを受け入れてくれて、一緒に服を作ってきた桐生の人たちと、これからもずっと一緒に服作りがしたい」

私たちは、何も知らないから

縫い子さんに限らず、織りや編みを依頼する業者さんにも、ふたりは意見を聞く。今、一緒に仕事をしている人はみんな、ただ言われたとおりに作るだけではなく、プロの視点から「もっとこうしたほうがいいのでは」と提案やアドバイスをくれる人ばかりだそうだ。

服飾学校で学んだり、会社でものづくりを経験したわけではないふたりにとって、洋服作りは常にわからないことばかり。だから周りの意見には必ず耳を傾ける。

「私たちは、アパレルや服飾のこと、本当に何も知らないからね」とふたりは繰り返した。

リップル洋品店の商品を取り扱う卸先のお店にも基準や条件を決めていないという。

ナチュラル系のお店に卸すこともあれば、モードなお店に置いてあることもある。また日本の手仕事という側面で紹介したいと言われれば、もちろん快諾する。

「周りからは『どうして、こんなにも違う雰囲気のお店に卸すのか』と言われますが、お店のオーナーさんが、自分のお店に私たちの服が合うと思ってくれたなら、それでいいと思ってるんです」

リップル洋品店の商品

ふたりは卸先での展示の仕方にも一切、口を出さない。もっと言えば、洋服自体にはブランド名のネームタグすらついていないのだ。

「それぞれのお店には、オーナーさんがいいと思って選んだものが並び、それをお客様が買いに来る。

そこを私たちの服が彩ることができるなら、こちらから何か指定することはないかな、と。ネームタグを付けていないのも、リップル洋品店として有名になるより『仕入れてくれたお店の服』や『買ってくれたお客様の服』になればいいなと思ったんです」

そう話すふたりの服作りに対する姿勢は、自然体だ。見栄を張ったり、無理して大きく見せることをしない。

「ファッションブランドを作る」と聞くと、いかに拡大するかを考えてしまいそうだけれど、ふたりは「自分たちの好きな服を作って、それを着たいと思ってくれる人に届ける」という当初の姿をそのまま残しているように思える。そんなふたりに惹かれて手伝ってくれるのが、縫製や織り、販売などの「プロたち」なのだ。

やりたい方向へ、でも何が起こるかはわからない

リップル洋品店の「リップル」は、日本語で「波紋」の意味だ。その名前のとおり、ふたりの世界は少しずつ、波を打つように広がっていった。

そのひとつが、昨年からスタートした海外向けのブランド『HAMON』。香港、バンクーバー、そしてニューヨークで行われたファッションコレクションにも参加し、これまでのリップル洋品店とは少し違った側面で服作りに取り組んでいる。

「コレクションは半年かけてみんなで作ったものを披露する、たった15分の世界。モデル、メイク、照明の方々と一緒になって作り上げるのは、まるで演劇みたいで楽しい」

リップル洋品店の店内を整える久美子さん

コレクションごとにテーマを決め、洋服を作品として発表する。モデルたちが着ているHAMONの服は、リップル洋品店の要素はありながら、もっとアートや表現の要素が強いように感じる。

「HAMONの洋服はアートで、とても普段の生活では着られないと思うけど、ふと『もっとここをこうしたら着られるんじゃないか』と考えることでリップル洋品店の新商品ができることもあります。『リップル』と『HAMON』は違う言葉で同じ意味を表す、対のようなものですね」

自宅アトリエの試作品

リップル洋品店として洋服を作り始めてから10年。これからの10年の展望を聞くと、ふたりの目の前には、洋服作りが開いてくれた道が何本も広がっていた。

「やりたいことは、たくさんあるんです。だけど実際に何が起きるかはわからない。やってみたい方向に進もうとしながら、あとは縁がどうつながるのか楽しんでいきたいですね」

そんな縁のつながりから、ふたりは活動拠点のひとつを地中海沿岸の国、モナコにも持つことになった。家族全員で移住するのかと思いきや、久美子さんは少しのあいだ日本に残るのだという。

「実は表参道に、桐生に続く2号店のオープンが決まったんです。桐生まで来るのが大変だった人にも、東京で会いやすくなるといいなと思っています」

お店のオープンは12月。長男の響さんのコーヒーショップと共に、東京でリップル洋品店の洋服を楽しむことができる。久美子さんは桐生と東京で世界中のファンを受け入れる拠点をつくり、開人さんはモナコを拠点に世界中を飛び回り、さらなる縁を広げていく。

服作りが連れて行ってくれる場所を楽しみに

常に目の前にある洋服作り、桐生のお店運営、海外コレクション、モナコ移住、そして表参道の開店準備。

目が回るほど忙しいはずなのに、ふたりからはそのすべてが楽しいということばかり伝わってくる。

大好きな服作りが、自分たちをたくさんの人に出会わせ、知らない世界に連れて行ってくれるわくわく感は、ふたりの原動力なのだろう。

店内に立つふたり

久美子さんにはもうひとつ、やりたいことがある。ご縁で繋がったネパールの学校で、縫い物教室を作ることだ。

職業訓練のような服作り学校ではなく、リップル洋品店の服作りで出たハギレなどを使って、自分や家族のための服作りを楽しむ時間を作りたいという。それはまさにリップル洋品店の原点だ。

「今、学校の勉強って音楽や美術などの科目がどんどん減らされているそうなんです。それこそが人生を豊かにするものなのに。

四角い布を縫い合わせて、簡単なスカートを作る。それだけで気持ちは変わるし、人生は豊かになることを感じてほしいなと思います。私自身が、そうでしたから」

笑って話す久美子さん

趣味であれ、仕事であれ、ものづくりと生きていく道の答えは決してひとつではない。自分や家族、一緒に働く人たちが楽しく生きるために、久美子さんと開人さんが作り出した答え。

それが「リップル洋品店」という生き方だ。

これからリップル洋品店が行く先は、ふたりにもわからない。服作りが連れて行ってくれる新しい世界を、ふたりは楽しみながら波紋のように広げていくのだろう。

<取材協力>
「RIPPLE YōHINTEN (リップル洋品店) 」
群馬県桐生市小曾根町4-45
https://www.ripple-garden.com/

リップル洋品店初の単行本
『ひとつずつの色 ひとつずつの形 ひとつずつの生き方 リップル洋品店の仕事と暮らし』
http://www.seiryupub.co.jp/books/2021/10/post-182.html

文:ウィルソン麻菜
写真:田村靜絵

京都の老舗染物屋に嫁いだ現代美術作家。挑戦するのは「ケイコロール」という名の新事業

2009年、ひとりの現代美術作家が京都の染物屋に嫁いだ。それが90年以上の歴史を誇る、「山元染工場」の新たな歴史の幕開けとなる。

京都・壬生(みぶ)。新撰組ゆかりの壬生寺や旧前川邸をはじめ、名所旧跡が数多く残る歴史の舞台と、古くからこの地に住む人々の日常が共存するような独特の息遣いが感じられる。

そんな住宅街の一角に佇むのが「山元染工場(やまもとせんこうじょう)」。今や全国に3軒しかないという「舞台衣裳」を専門にした染め工場だ。

京都・壬生の山元染工場

創業は1930年(昭和5年)。数々の映画や舞台、国民的ドラマでヒロインがまとう着物といった、誰もが一度は目にするであろう作品の衣裳を手掛けるほか、地域の祭りで羽織る法被や、身丈を変えた古い着物の再現など、「染工場」といいつつ、衣裳制作に関わるほぼすべてを請け負っている。

そんな歴史ある染物屋に嫁いだのが山元桂子さんだ。

ケイコロールを主宰する山元桂子さん
ケイコロールを主宰する山元桂子さん

現代美術作家が見た、クリエイティブな世界

大学で現代美術を学んだ桂子さんにとって、舞台衣裳制作の世界は何もかもが新鮮だった。

本来、舞台衣裳制作はデザイン、染め、仕立てそれぞれの工程に専門の職人がおり、完全な分業制で行う。

だが、山元染工場はそれを受注から納品まですべて一括で請け負っている。これが工場最大の特徴であり、舞台衣裳制作の専門店として、京都で最後の一軒になるまで続いている理由といえよう。

舞台衣裳は作品内のキャラクターの人柄や性格、生い立ち、時代背景まで柄で伝える重要な役割を担う。それをひとつずつひもとき、依頼者の漠然としたイメージから、具体的な柄や配色などのデザインにまで落とし込む。

台本もままならない段階で請け負うことも多いその工程を目にした桂子さんは、驚きを隠せなかったという。

「なんてクリエイティブな世界なんやろうと。でも、そうやって相手のイメージを具現化していくことも、染めや仕立てまですべて行うことも、本人たちにとっては当たり前なんです」

しかしどんなに素晴らしい技術を継承しても、それが一般の人々の中で脚光を浴びることはほとんどない。

そんな山元染工場の世界を、「違う角度から伝えたい」と2016年にテキスタイルブランド「ケイコロール」を立ち上げた。

日本映画発祥の地で初代が選んだ道

東映や松竹など名だたる映画会社が撮影所を構えた京都において、初代の山元光は舞台衣裳制作という市場を見出し、それに特化する形で呉服業界との差別化を図った。

数百年の歴史の中で培われた室町一帯の着物文化とは、根本的に違う道を歩むことになったのだ。

呉服とは、朝廷や貴族、武家といった上流階級の人々が身につける装束もあれば、庶民が身にまとう普段着まで幅広い衣裳のことを指す。

一方、舞台衣裳とは限られた人しか身につけない、いわばその道の「プロ」だけがまとう衣裳のこと。同じ和装を手掛けていながら、考え方も技術もまったく異なるのだという。

そして、受注から納品まで一括で請け負うという形でさらなる差別化を図った初代は当時、衣裳用のデザインを手掛ける絵師を出入りさせ、常に新しい柄を制作させたそう。

初代から受け継がれてきた型紙の柄を記したデザイン書
初代から受け継がれてきた型紙の柄を記したデザイン書

現代美術として蘇る、数々の文様

初代からの伝統を受け継ぎ、蓄積された型紙の数はなんと10万枚以上。舞台衣裳の柄は独特で、デザイン性も高く、普遍的なもの。それを生かさない手はなかった。

代々受け継がれてきた10万枚以上の型紙
代々受け継がれてきた10万枚以上の型紙
新選組の「だんだら羽織」でお馴染みのだんだら模様を表す型紙
新選組の「だんだら羽織」でお馴染みのだんだら模様を表す型紙

山元家の家宝ともいえる型紙を駆使し、目の覚めるような色で独自の世界観を表現していく桂子さん。柄の配置や色の組み合わせなども、すべて頭の中で組み立て、その時の感覚で染めていくのだそう。

山元桂子さん
作業風景

ひとつひとつが手作業なので、同じ型紙を使ってもそれが同じ柄になることはないという。すべて一点物のオリジナルだ。

様々な柄の生地

2本の柱で、染工場を続ける

「最初は浮き沈みの激しい舞台衣裳制作を支えるつもりでケイコロールを始めました。でも、もっと欲張ってもいいのかなと。メインとかサブとか思わんと、ひとつの事業としてケイコロールを展開したい」

山元染工場の2本の柱のうちの1本として、ケイコロールを確立する。それが、山元桂子が山元染工場に嫁いだからこそできることだという。

もちろんケイコロールそのものも、初代から培われた技術と、それを受け継ぐ人々の理解があってこそ実現できる。

四代目にあたる夫の宏泰さんと母の久仁子さんは、桂子さんの活動に寛容だ。大学院を卒業し、25歳まで現代美術作家として活動していた桂子さんに「美術活動を続けたらええよ」と言ってくれたのだという。

四代目の山元宏泰さん
四代目の山元宏泰さん。桂子さんの活動を温かく見守る

一方の桂子さんは、歴史ある京都の染物屋という厳格な世界に飛び込んできた「新参者」だ。

長い伝統を持つ家に嫁ぐことに関して、身構えてしまうのかと思いきや、「ほんまにアホやったんで、何も考えてなかったんです」と笑っていた。

宏泰さん親子の寛大さと、桂子さんの適度な鈍感さが、より自由な発想を生み出しているのかもしれない。

「映画自体も減ってきているし、遠慮せんと、新しいことを始めていかんと」と桂子さん。

怖がることなく、時には伝統にメスを入れるように、新しいことに挑戦する。
そうして「ケイコロール」は生まれ、山元染工場には2本の柱ができた。

工場内の様子

舞台衣裳と、テキスタイル。宏泰さんは受け継がれた伝統を、桂子さんは新しい感性を大事にしながら、それぞれの柱を築いてきた。

そしてその2本の柱は、同じ場所で互いを支えあい、共存している。

山元宏泰さんと山本桂子さん

90年以上受け継がれた伝統柄が、カラフルでポップな真新しい表情を見せている。

<取材協力>
山元染工場
京都市中京区壬生松原町9-6
075-802-0555

文:佐藤桂子
写真:桂秀也

プロが愛する京都の仏像6選。東寺や平等院鳳凰堂など、それぞれの楽しみ方

秋の京都で、仏像めぐり

四季折々に違う表情を持つ京都の街。秋には、紅葉を楽しみにお寺めぐりを計画中、という人もいらっしゃるかもしれません。

今年はプロおすすめの京都の仏像めぐりもプランに加えてみてはいかがでしょうか。

おすすめを教えてくれたのは河田喜代治 (かわた・きよはる) さん

仏師 河田喜代治さん
撮影:山口裕朗

滋賀に工房を構える仏師さんです。

「仏師」とは造仏師の略で、仏像を作る仕事。修復も行います。例えば東大寺の金剛力士像で有名な運慶さんも、仏師です。

河田さんは千葉のご出身ですが関西の仏像の魅力にひかれ、修行時代に移住されたそうです。

「修行時代にお世話になった方はみんな、仏師の仕事をするには『とにかくいいものを見ないとだめだ』と。それしかない、と言ってました」

そんな河田さんが「僕個人の好みですけど」と控えめに教えてくれた、京都でおすすめの仏像6つをご紹介します。

「思い出すだけで素晴らしい」東寺 講堂「五大明王」

実は京都の6選の他に、関西5選も伺ったのですが、どちらにも名前が挙がっていたのがこの東寺の五大明王像でした。(関西編はこちら!)

*明王とは‥‥大日如来 (だいにちにょらい) の命によって、悪を退治し仏法を守る諸尊。中でも五大明王は、不動明王を中心に四明王が東西南北を守る。

五大明王といえば東寺、というほど有名なもので、やはり河田さんも仏師の仕事を始める頃からずっと心惹かれていたそうです。

「何度か拝見しましたが、思い出すだけで素晴らしいですね。

講堂の空間そのものや、他の像もまたとても良いんですが、五大明王の中でも不動明王像は、ちょっと何かを超越してるという感じがあります。

静かな怒りの表情と、それを支える体幹は、仏師の仕事をすればするほど、すごさを感じます。

お顔に静かな怒りがうまく存在するように、全体のシルエットの作りが絶妙に調和されてるんですよ。

その表情が引き立つ作りをしてるというか。見事だなと思います」

「仏の理想像」がここに。平等院鳳凰堂「阿弥陀如来坐像」

事前に伺ったアンケートで河田さんが「仏の理想像」と書かれていたのが平等院の阿弥陀如来です。

「平安後期に活躍した定朝 (じょうちょう) という仏師の作とされている像です。

定朝さんは寄木造 (よせぎづくり) という技法を確立させた人と言われていて、彼の作る仏像は、その時代から今に至るまで、理想の仏像とされているんです。

定朝様(じょうちょうよう)といって、仏師は彼の仏像を手本として作りなさいという、型になっているんですね。

実際手がけた仏像を見ていただくと、誰が見ても仏様だなと思うような、とても馴染みのあるお顔をされています。

平等院は建築自体も素晴らしいので、空間との関係性の中でお像を見ていただくのもおすすめです」

怖いけれどもどこか愛らしい。醍醐寺「仁王像」

「今挙げた二つは空間との関係性も気に入っているところですが、こちらは像そのものに注目しています。

平安時代の仁王像ってなかなか残っていないんですよ。木彫って野外に出ているから、傷みも早いし、全国的に平安時代の仁王さんは少ない。

この像は、残っている中でも特殊なんです。仁王像というと怒りの表情のイメージですが、こちらは怖いんだけど愛らしいような、ちょっと笑える、愛嬌のある仁王さんだなと感じます。

また全体の形がいい。平安時代の終わりの頃の作ですが、その頃独特の軽やかな感じが反映されていますね」

端正な顔つきが美しい、清凉寺「阿弥陀如来」

「ここは光源氏ゆかりのお寺です。

平安時代の作ですが、同じ時代の他のお像と違ってちょっと男っぽいというか、力強い感じがあるんですよね。

端正な顔つきも見どころです。お顔立ちが格好いいですね」

中国の色香と祈りの形を体現した姿は必見。宝菩提院「如意輪観音」

「このお像はちょっと特殊で、この6つの中では一番技巧的な感じですかね。中国の色気がけっこう強いんです。

例えば衣紋の作りを見ていただくと、ヒダが本当にふっくらと細やかで、木であるのに布のやわらかさが伝わってきます。

手もとてもきれいですね。

国宝になっていますが、まさに国宝にふさわしい祈りの形という感じです」

花のお寺、勝持寺の小さな小さな「薬師如来座像」

「勝持寺は宝菩提院のお隣なんです。ぜひ合わせて参拝されるのをおすすめします。

花の寺としても知られる勝持寺さんには、素朴な優しさを感じられる白檀の薬師如来座像がいらっしゃいます。像高約9センチほどの小さなお像です。

桜や紅葉を愛でながら勝持寺を拝観し、お隣の宝菩提院の如意輪観音像にも手を合わせ挨拶する。

もちろん仏像がお寺の心なるものですが、それをいろどる境内の自然と花々も、総合芸術として安らぎ与えてくれると思います」


 

東寺の五大明王さまや平等院のお像は空間のなかでの姿の素晴らしさ、醍醐寺の仁王像や宝菩提院の阿弥陀如来は表情に注目。

宝菩提院の如意輪観音は大陸の雰囲気が珍しく、お隣の勝持寺は境内の花々とともにお像に向き合うのがおすすめ。

お像によって見どころが違うのも面白いですね。

仏師さんによっても好みは全く違うとのこと。

皆さんも巡ってみて、ご自分の好みのお像を見つけてみてはいかがでしょうか。

<取材協力>
河田喜代治さん


文:尾島可奈子
メイン写真:清水寺 © ganden クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)
河田さん肖像:山口裕朗

*こちらは、2019年9月3日の記事を再編集して公開しました。

毎月7日間だけ開くリップル洋品店に、 世界中から人が服を買いに来る理由

群馬県桐生市。織物で有名なこの町を訪れるなら、ぜひ月初の「7日間」をお勧めしたい。

なぜなら「RIPPLE YōHINTEN (リップル洋品店) 」が開いている、貴重な1週間だから。

リップル洋品店

緑が生い茂る山道を登ったところに、お店はある。店内の窓からは、桐生の町が一望でき、空気の澄んだ日には東京スカイツリーまで見えるという。

リップル洋品店の店内
窓の外に見える桜の木が、季節を感じさせる

セーター、ワンピース、ストール、靴下。カラフルな洋服がずらりと並ぶ店内は、お店というよりギャラリー。まるで部屋全体がグラデーションをまとった、ひとつのアート作品のようだ。

リップル洋品店
リップル洋品店

ここには、色、素材、形が同じ洋服は、ひとつとして存在しない。一着一着が手作りの洋服たちは、店主夫婦の手で生み出されてすぐに店頭に並ぶ。

そしてお客さんの手に取られ旅立っていくと、その空いた場所にまた別の新しい一着が加わる。そうやって小部屋のなかのアート作品は、常にグラデーションを変えているのだ。

リップル洋品店の店内
色とりどりの洋服が並ぶ店内は、見回すだけで楽しい

「気持ち、かな」

変化し続ける店内の色は、季節や流行も関係ない。一体、何によって変わるのか。尋ねると、デザインと縫製をする岩野久美子さんはそう答えた。夫で、染色を担当する開人 (はるひと) さんも横で頷く。

RIPPLE YōHINTEN(リップル洋品店)の岩野開人さん(左)と久美子さん(右)
RIPPLE YōHINTEN(リップル洋品店)の岩野開人さん(左)と久美子さん(右)

カナダやニューヨークでもコレクションを行う彼らの洋服は海外からの人気も高いが、オンラインで買うことはできない。だからこそ、7日間のオープン時には世界中から人々が駆けつける。

グラデーションを生み出す服作り

車庫を改装した白塗りの店内は、カラフルな洋服と相反するように、いたってシンプル。そこにはブランドの説明もなければ、洋服にはブランドネームのタグすらついていない。

リップル洋品店

「他の洋服と何が違うのかを知ってもらうため、しおりやPOP、ブランドネームなど多くの情報を商品につけることもできると思います。

でも僕たちは、まず『この色、きれいだな』とか『この形が好きだな』とか、そういう直感で服を見てもらえたら嬉しいなと思って」

リップル洋品店の洋服はすべて、久美子さんがデザインし、開人さんが染めたものだ。もともと、暮らしの道具を手作りするのが好きだったふたり。洋服作りもそのひとつだった。

リップル洋品店

自分たちが着るために作り始めた洋服は、着て外を歩くたびに評判を呼ぶように。知人に誘われて週末のマーケットなどで販売を始めると、瞬く間に人気になった。

*10年前、「趣味を仕事に」したきっかけと、これからの10年のお話はこちら:「自分と家族のための服が、世界に愛されるブランドへ。『リップル洋品店』岩野夫妻が、趣味を仕事にして思うこと」

リップル洋品店の店内

なぜ一着も同じ服がないのかと言えば、ふたりのそのときの気持ちによって、デザインも素材も色も変わるからだ。

「服の形や染める色、作るものの順番などは、特に計画を立てていないですね」

一般的にアパレルブランドでは、発表したいシーズンやテーマに向けて生産計画を立て、逆算しながら洋服を作っていく。

しかし、リップル洋品店にはシーズンもテーマもない。ふたりが普段の生活や旅先で感じたことや、「こんなものを作ってみたい」という気持ち、すべてがそのときに作られる洋服に表れるのだ。

まず、久美子さんがイメージをデザインし、近所の縫い子さんたちとともに縫い上げる。そうして形になったものを開人さんが染める。あえて素材の違う服どうしを、一緒に染め上げるという。

「同じ染料で染めても、素材が違えば出る色はまったく違うんですよ」

岩野開人さん
草木染めなど様々な染色技法を、一から独学したそうだ

開人さんから生み出される、色名すら付いていないような繊細な色は、久美子さんのデザインした服の印象を大きく左右する。染色に関して、久美子さんから何かを提案したり指示することはないのかと尋ねると、ふたり揃って首を横に振った。

「そこは全然、口出ししないです。それでも、今まで一度も『ええ、それ変だよ』みたいなことにはなってないですね」

ふたりの合作で生み出される洋服。店頭に並べば、それぞれの色や形が目に留まった人たちの元へと買われていく。

リップル洋品店

「色も形もバラバラだけど、人間と同じです。人それぞれでいいと思っています」

揺れ動く気持ちがそのままお店のグラデーションになって、お店を訪れた人の個性にフィットするのだろう。洋服を選ぶ間が、「自分」という個と向き合う時間になれば、とふたりは語る。

「みんなに会える」7日間

すぐにでも買いに行きたくなるリップル洋品店だが、営業しているのは、毎月1日から7日までの1週間のみ。

「最初は週に1日だったのですが、人によっては仕事を休めない曜日もある。月初めの1週間ずっと開いていれば、どの曜日が休みの人でも1日くらいは来られるかな、と」

毎月の月初7日間が、1ヶ月かけて作り溜めた洋服のお披露目の場となる。それらを求めて、日本中、世界中から人々が桐生の山の上にやってくるのだ。

リップル洋品店横の階段
急な上り坂が続く山道。徒歩でもお店に行くことはできるという

お正月休みや連休ともなれば1000人にも上る来客を相手にしながら、そのあいだもふたりは洋服を作り続け、売れていく側から追加していくという。

リップル洋品店

「7日に来てくださった人にも楽しんでいただきたいので。最終日に新作を出したりもするんです」

7日間のうちにも入り続ける新商品を見るために、複数回に渡って訪れる人も。「お客さんに『こういう色ない?』って言われて『そういえば、昨日染めたかも!』って持ってくることもありますね」

時には染めたばかりの、まだ乾ききっていないものまで「その服が欲しい」と買われていったこともあったそうだ。

RIPPLE YōHINTEN(リップル洋品店)の岩野開人さん(左)と久美子さん(右)
お店が開く7日間の話を聞くと、楽しいエピソードがたくさん

そう言って笑うふたりからは、お客さんとの距離の近さが伺える。洋服作りと店頭で、目が回るくらい忙しいはずの7日間のことを、ふたりは本当に楽しそうに話す。

あまりの忙しさを見かねて、お客さんだった人が手伝ってくれるようになったこと。

飲食店が閉まるお正月には知り合いのお弁当屋さんを呼んで、お客さんが桐生らしい食事ができるようにしたこと。

「おやつ係と称して、いつもお菓子を持ってきてくれるお客さんまでいるんですよ」

久美子さんの言葉に、開人さんも思い出したように笑った。この7日間は、ふたりにとって作品の発表の場であるのと同時に、洋服を通じてつながった多くの人たちと出会い、再会できる時間なのだ。

顔が浮かぶほど、心に留めて

リップル洋品店のグラデーションが変わっていくのには、もうひとつ要因がある。それは前の月の7日間に出会った人やお客さんからの言葉だ。

「『こんな色がほしい』とか『こういうものはないの?』とお客さんに言われたことを、翌月のオープンまでに取り入れることも多いですね。言われたものを作ろうとしているというよりは、そこから受け取ったイメージが、意識に残るんだと思います」

デザイナーや作り手に「もっとこうしてほしい」という要望を使い手から伝えるのは、少し勇気がいる気がする。しかしリップル洋品店では、岩野夫妻のオープンな姿勢がそれを可能にしている。

「僕自身はグレーや茶色の渋い色が好きなのですが、やっぱり女性のお客様だと顔周りが明るく見える色も欲しいって言われたりして、それはお客様と話さなければわからなかったですね。

ものづくりをしていると『自分がいいと思うもの』を突き詰めたくなるんだけど、それが『ほかの人にとってもいいもの』なのかはわからない、と常に思っています」

リップル洋品店の洋服

お客さんとコミュニケーションが取れる7日間、ふたりは洋服を作り続けながらも交代で店頭に立つ。そして見聞きしたお客さんの反応を「あの色、素敵だって言われた」「もっとこんな形があればいいのにって言ってたよ」などとお互いに伝え合うという。

「不思議なもので、7日間のうちに黄色を探している人が何人も続けて現れたりするんです。そうすると『あ、次は黄色なのかな』って、翌月に反映したり」

お客さんの声を聞いて、少しずつ新しい形や色の服ができていく。それはきっと、お客さんの声が、ふたりの心にしっかりと届いている証拠なのだろう。

「服ができあがると、着るお客さんの顔が浮かぶんですよね、『あ、あの人に似合いそうだな』って」

久美子さんが不思議そうに、でもしっかりと言う。

「それは、その人に買ってほしいというわけじゃなくて。一人ひとりの声を聞いて、服に反映する。そういう関係の中で服を作りたいなと思っています」

リップル洋品店の外観
来月の店内は、どんな色になっているんだろうか

月始めの7日間、桐生の山の上に並ぶグラデーションは、その日、そのときだけのものだ。

明日はどんな服があるだろう、来月の小部屋の色合いはどうなっているだろう。それが楽しみで、新しい自分だけの一着に会いたくて、人々はまたこのリップル洋品店に舞い戻ってくる。

<取材協力>
「RIPPLE YōHINTEN (リップル洋品店) 」
群馬県桐生市小曾根町4-45
https://www.ripple-garden.com/

リップル洋品店初の単行本
『ひとつずつの色 ひとつずつの形 ひとつずつの生き方 リップル洋品店の仕事と暮らし』
http://www.seiryupub.co.jp/books/2021/10/post-182.html

文:ウィルソン麻菜
写真:田村靜絵

【わたしの好きなもの】袋が固定できるごみ箱

袋を付ける作業が好きなんです


リビングのごみ箱って、袋をつける派、つけない派って、それぞれの生活スタイルによると思うのですが、
我が家は「つける派」です。
なぜなら、子供がどんなゴミを捨てるか油断ならないから。。
紙類だけにしてと言っても、ずぶ濡れになったティッシュ(きっと飲み物をこぼしたんでしょう…)、
みかんの皮、溶けたチョコの何か…などなど、気付けばあやしいゴミがわんさか。

外側に袋が見えるのが嫌だから、何度か「つけない派」でチャレンジしましたが、
気付くと何かが付いている。。やっぱりこのイライラを軽減するには、「袋をつける派」で解決することにしました。




このごみ箱の好きなところは、見た目もとてもシンプルで、袋を付ける仕組みもシンプルなところ。

大正7年創業『Bunbuku/ぶんぶく』社で昭和30年代後半頃から発売され、
年々少しずつ改良を重ねて作り続けてきたというのだから、
生まれてから今までで、どこかで目にしてきたはず。
なんだか懐かしくて家に馴染むのは、きっと記憶のどこかにその思い出があるのだと思います。


さて、「袋が固定できる」という最大の特徴ですが。
ごみ箱の上から5cmくらいの所にある溝のようなくぼみを利用して袋を固定するリングをセットするというもの。
これがストンとはまる瞬間が「よしっ」と思わせてくれる気持ちよさ。
上からずるずるーっと下げていくと簡単にセットできます。外す際にも、くいっと引っ張れば簡単に外れます。
簡単に外れるけれど、ぴたっとはまっている間は、袋をずらさない頼れるリングなんです。
こういう作業って、毎回なんだか面倒だなって思うものですが、このごみ箱に限っては、ちょっと楽しい作業なんです。



もう1箇所、キッチンにもペットボトル分別用としても使っています。
スーパーなどのリサイクルに出すので、蓋のないごみ箱で、どれくらいたまったか見た目ですぐわかる。
いっぱいになったら袋ごと持っていって、リサイクルコーナーへ。
ペットボトルは洗ってきれいなので、袋はそのまま買い物用になったり、まだ使えそうだったらまたごみ箱にセットされることも。



昔から公共の場でもすんなり馴染むようなデザインのものを作ってきたメーカーだから、
リビングにもキッチンにもすんなり馴染むのは「さすが!」と納得です。
 


編集担当 宮浦


<掲載商品>
袋が固定できるごみ箱

琉球王朝の最高傑作を、未来に。21世紀に蘇った幻の「東道盆」プロジェクト

*こちらは、2018年6月20日に公開した記事です。琉球王朝の美しい漆器文化を、未来に継承していこうと取り組む人たちを取材しました。首里城のこれからの再建を願い、再掲いたします。

色鮮やかな花々に負けず劣らず華やかな器。

これはいったいなんでしょう?

琉球漆器の最高峰と言われる「東道盆(トゥンダーボン)」です。

名前は、中国の歴史書「春秋左氏伝」にある「東道 (主人となって客の世話をする) の主」に由来するという東道盆
名前は、中国の歴史書「春秋左氏伝」にある「東道 (主人となって客の世話をする) の主」に由来するという東道盆

琉球王朝時代、中国の大使をもてなすために使われていた蓋つきの器で、中には伝統料理などを盛り付けます。

主に首里城内でしか使われていなかったため、王朝が消滅してからは、ごく一部で受け継がれてきました。

そんな歴史と伝統ある東道盆を現代に蘇らせた人たちがいます。しかも単なる復刻ではなく、現代の暮らしで使える形に仕立て直して。

いったいどんな人たちが、どのように蘇らせたのか。

発起人であるプロデューサーの宮島さおりさんと、実際に東道盆を手がけた漆職人の森田哲也さんにお話を伺いました。

*以下、宮島さんの発言は「宮島」、森田さんの発言は「森田」と表記します。

中国からのお客さまをもてなす器

沖縄本島の南にある森田さんの自宅兼工房を訪ねると、たくさんの東道盆が出迎えてくれました。

形も様々で、お正月のおせちを入れるお重のようにも見えます。

宮島「東道盆の形は長方形、正方形、六角形、丸といろいろあります。真ん中のお皿も丸や、四角、素材も石、陶磁器、漆器があったりと、決まりごとはあまりありません」

ただ、お皿の数だけは意味があるそうです。

宮島「中国では、5、7、9、11、13といった奇数が縁起のいい数とされています。東道盆は王朝が中国から来るお客さまをおもてなしするための器なので、中国人の方に気持ちよく食事をしてもらうために、縁起のいい数にしてあるんです」

お話を伺った森田哲也さん(左)と宮島さおりさん(右)
お話を伺った森田哲也さん(左)と宮島さおりさん(右)

お皿の数以外は、時代時代によって変わってきたのではないかとのこと。

というのも、資料や古文書が残っておらず、東道盆そのものも減っているため、詳しいことがわからないそうです。

宮島「東道盆が琉球王朝で使われていたことはわかっていますが、いつから使われていたのかもわかっていません。中国に贈ったものが残っており、おそらく17世紀ぐらいにはあったんじゃないかと考えられています」

一生に一回作れるかどうか分からない、沖縄漆器の最高峰

プロジェクトが始まったのは2014年のこと。

宮島さんが代表を務めるNPO法人アートリンクで、学校に琉球漆器を紹介する出前授業をすることになり、若い漆工芸士たちと知り合ったことがきっかけだったそうです。

宮島さおりさん

宮島「その年の忘年会の席で“沖縄漆器の中の最高峰って何?”って森田君に聞いたら、東道盆だっていう話になって。“でも、作ってみたいけれど一生のうち一回作れるかどうか分からない”と言われました」

東道盆はその背景から一般的な需要がなく、依頼がないと作れないもの。

宮島「じゃあ作ってみよう!って。それがきっかけなんです。

どうせ作るなら昔のものをただ復刻するのではなく、今のライフスタイルに合った、新しいものを作ろうと始まりました」

プロジェクトのきっかけを生んだひとり、森田さんは沖縄伝統の琉球漆器の職人として首里城の復元も手がける実力の持ち主。そんな森田さんでも、東道盆を作るのは初めてだったと言います。

普段は漆のアクセサリーなど、小さな作品を作ることが多いという森田さん
普段は漆のアクセサリーなど、小さな作品を作ることが多いという森田さん

森田「普段、作っている器はお椀くらいのサイズのものなので、箱もので足があって、加飾も全部やるということはありません。だから、東道盆を作ること自体が新鮮でしたね」

こうして東道盆プロジェクトが動き出しました。

15世紀から続く琉球漆器の歴史

そもそも沖縄の漆工芸の歴史は古く、1400年代にはすでにあったと言われています。

宮島「沖縄は高温多湿で、漆を塗るのにとてもいい気候なのと、螺鈿に使う夜光貝が生息しているんです。沖縄の夜光貝は光がすごくきれいだというので珍重されていたこともあって、漆器の産地になったんです」

様々な色合いがきれいな夜光貝の螺鈿
様々な色合いがきれいな夜光貝の螺鈿

琉球王朝時代、中国や日本への献上品として漆工芸が発達し、国を挙げて優れた漆器が輸出されていました。その技法はとても華やかです。

森田「琉球漆器の四大技法に螺鈿(らでん)、箔絵(はくえ)、沈金(ちんきん)、堆錦(ついきん)があります。この四つは、今回制作した東道盆にも使われています」

夜光貝の光沢を生かした螺鈿
夜光貝の光沢を生かした螺鈿
漆で文様を描いた上に金銀箔を張りつける箔絵
漆で文様を描いた上に金銀箔を張りつける箔絵
立体的に表現する堆錦。漆に顔料を混ぜた堆錦餅(ついきんもち)を薄く延ばし、文様の形に切り抜いて貼り付ける技法
立体的に表現する堆錦。漆に顔料を混ぜた堆錦餅(ついきんもち)を薄く延ばし、文様の形に切り抜いて貼り付ける技法
模様を彫った中に金粉や金箔を埋め込む沈金
模様を彫った中に金粉や金箔を埋め込む沈金。この器には四つの技法全てが使われている

現代価格にして300万。かつての王族仕様を現代のマンション仕様に

琉球漆器のあらゆる技術を駆使して臨んだプロジェクト。わずかに現存するものを参考にしながら、最初に見直したのは器の大きさでした。

可愛らしい足のついた現代版の東道盆
可愛らしい足のついた現代版の東道盆

宮島「もともと東道盆は床に置いて使うものなので、足がついています。元はもっと背が高いんですよ。しかも、大勢で食事をするので、すごく大きいんです」

華やかな酒席が目に浮かぶようですが、今作れば最高級品で300万はかかるそうです。さすが、王朝で使われてきた琉球漆器の最高峰です!

宮島「ただ、それではとても買えないですよね。今は核家族が多いし食事もテーブルでするので、背を低く、サイズも小さくしました」

手加減しないデザイン

宮島「デザインは商業デザイナーさんにお願いしました。もちろん、職人も自分でデザインはできるのですが、自分ですると加減しちゃうって言うので」

加減するとは、どういうことでしょう?

森田「それぞれ得意な技法があるので、どうしても自分が作れるデザインになってしまいがちなんですよね。それよりも全然やったことがない人に考えてもらった方が、斬新なものが出てくるんじゃないかと」

宮島「デザイナーさん、職人、私と、みんなで相談しながら作り上げました。そうすることでフラットに東道盆の良さをつかむことができて、とてもよかったなと思っています」

昔の人がみたらびっくりするような発色

塗りの技術の進化も、新しい表現を可能にしました。

森田「昔は鉱物顔料しかなかったので、黒、赤、緑ぐらいで色のバリエーションは少なかったかもしれませんね」

森田「こういうカラフルな発色は、昔は難しかったと思います。今は漆に適した顔料が開発されたので、絵の具に近いような発色ができます」

現代のデザインにあった華やかな色使いができるのはうれしいですね。

宮島「昔の人がみたらびっくりするでしょうね」

世界で自分だけの東道盆

こうして2015年、現代に生きる東道盆が完成しました。

価格は30〜40万円。一般的な食卓道具と比べれば値が張りますが、プロジェクト発足以降、オーダーメイドの注文もあるそうです。

宮島「お母さんが自分がデザインしたものを娘に残していきたいとか、息子さんが絵を描くのが好きで上手なので、そのデザインを使いたいとか」

森田「欲しいと思う人は、自分だけの東道盆が欲しいみたいです。おじいちゃんからもらったものをもうちょっと新しくしたいとか、自分好みのデザインがあるんですね。

これからは、今あるものを見本にしながら、もう一回り大きくしたいとか、花を青色にしたいとか、お客さんひとり一人の要望を聞きながら作るのようになるのかなと思います」

宮島「それが工芸の良さですよね。昔も職人さんと話しながら作っていたんだと思います」

一家に一台、東道盆

東道盆は、一人の職人がひとつ作るのに1年かかるという大作です。そんな長丁場のプロジェクトを支えたスローガンがありました。

「一家に一台、東道盆」

宮島「今は大量生産で大量消費の時代。ですが、工芸はそれでは成り立っていきません。少々高いのも、そりゃそうです、全て人の手で作るものだから。

高くても頑張って買って、それを直してずっと使っていくという文化の元で、はじめて成り立つ器です。だから、『一家に一台、東道盆』。家宝を手に入れるつもりで、暮らしに迎え入れてもらえたらと思っています。30万、40万するけれど、車を買うよりは安いですからね」

森田「ひとつ作るのに1年はかかるというのは、個人工房でいくつも仕事しながら作っているためなんですね。平行で作っても2個ぐらいが限界です」

宮島「それが一家に一台という需要が生まれてきたら、自分は親方になって、分業制にして指導をしたりもできる。東道盆で、琉球漆器の産業全体を復興するっていう大それた夢も持ってるんですよ」

家族の思い出を、東道盆に乗せて

漆で文様を描いた上に金銀箔を張りつける箔絵

宮島「今、漆器の代わりになるものがいっぱいあって、漆じゃなきゃいけないものが家に見つからないんです」

漆器は摩擦に弱い、紫外線に弱い、値段も高い、出来上がりに時間がかかる。利便性だけで言えば、他の素材よりかなり分が悪い、と宮島さんは言います。

宮島「じゃあ、この文化を残していくために何が必要だろうって考えたときに、歴史や先代から受け継がれてきた誇りや使命感、アイデンティティーを柱にするしかないと。それが一番色濃く出せるのが、東道盆かなと思ったんです」

東道盆

宮島「作る方も使う方も、琉球にこんな歴史があったんだって、ちょっと誇らしく思うような状況が生まれればいいかなと思っています。

沖縄に住んでいる人はもちろん、沖縄に縁がある人、この土地や文化を好きな人だったらどなた誰でも使って欲しいなと思います。

家族の思い出を東道盆に載せて、未来に運んで行ってもらえたら嬉しいですね」

「いつかは東道盆」と呼ばれる日まで

2014年に始まったプロジェクトも今年で4年目。

今後は海外に持って行くことも考えているそうです。

宮島「販売というよりは東道盆を使った食事会とか、文化的な体験もいいのかなと思っています。

食事会での使い方を参考にしてもらって、自分の暮らしにある姿を想像して欲しいんです。“いつかはクラウン”じゃないけど、いつかは東道盆みたいに、ちょっと頑張って買う、憧れの存在にできたらいいなと思います」

フランスの展示会では、東道盆にお花を入れたり、チョコレートやマカロンを入れたりもしたそうです。

他にはどんな使い方が、と森田さんにたずねると、こんな答えが返ってきました。

「僕は自分が大切だと思うお客さんが来たときに、何でも好きなお料理を盛り付けてくれたらいいと思っています。

何よりもまず、使うことに意義がありますから」

森田哲也さん

現代に蘇った琉球漆器の最高峰、東道盆。

時代から忘れさられそうになっていた美しい文化は、「一家に一台、東道盆」の合言葉とともに、21世紀の沖縄に再び、息づこうとしています。

<取材協力>
NPO法人ARTLINK
木とうるし工房 ぬりとん (森田さんの工房)

文:坂田未希子
写真:武安弘毅
画像提供:NPO法人ARTLINK