海に浮かぶ世界遺産、広島の嚴島神社で観る「観月能」

こんにちは。ライターの小俣荘子です。

みなさんは古典芸能に触れたことはありますか?

独特の世界観、美しい装束、和楽器の音色など、なにやら日本の魅力的な要素がたくさん詰まっていることはなんとなく知りつつも、観に行くきっかけがなかったり、そもそも難しそう‥‥なんてイメージを持たれている方も多いのではないでしょうか。

気になるけれどハードルが高い、でもせっかく日本にいるのならその楽しみ方を知りたい!そんな悩ましき古典芸能の入り口として、「古典芸能入門」を企画しました。

そっとその世界を覗いてみて、楽しみ方や魅力を見つけてお届けします。

嚴島神社に奉納される「観月能 (かんげつのう) 」

フェリーから降り立つと、鹿に迎えられる宮島。島全体が御神体とされる神域です。世界文化遺産に厳島神社が登録された現在は、海外からの観光客も多くなりました。
フェリーから降り立つと、鹿に迎えられる宮島。島全体が御神体とされる神域です。世界文化遺産に厳島神社が登録された現在は、海外からの観光客も多くなりました

今回の舞台は広島県、秋の宮島。

国の重要無形文化財保持者 、いわゆる「人間国宝」の能楽師、友枝昭世 (ともえだ・あきよ) さんが舞う「観月能」へ。

「観月能」とは、月明かりの元で上演される能です。友枝さんによる嚴島神社での奉納は1996年から始まりました。年に一度、秋の月夜に催されています。その幽玄の世界を訪ねました。

日が暮れて、灯篭に明かりのともる参道
日が暮れて、灯篭に明かりのともる参道
潮が満ちると海に浮かんで見える嚴島神社。普段は夕方に閉門されますが、この日は特別に夜の姿が見られます
潮が満ちると海に浮かんで見える嚴島神社。普段は夕方に閉門されますが、この日は特別に夜の姿が見られます

能は、謡 (うたい) と囃子 (はやし) からなる「音楽」と「舞」で構成されていて、「日本のミュージカル」とも呼ばれる芸能です。

※「能」について詳しくは「古典芸能入門「能」の世界を覗いてみる ~内なる異界への誘い~」をどうぞ。

写真撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota
厳島観月能「玉鬘 (たまかずら) 」。撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota

環境すべてが舞台装置になる

おぼろげな光の中で鑑賞する観月能は、はっきりと観えすぎないことが魅力となります。舞台鑑賞で「観えにくさ」を良しとするのはなんとも不思議ですが、もやのかかった様子が夢うつつの世界をいっそう引き立ててくれるように感じられるのです。さらには、屋外ならではの風や水音、虫や動物の鳴き声などが入り込むことで情緒が加わります。

能舞台にも客席にも屋根がついているので、よほどの荒天でない限りこの場所で実施されます。以前にも、雨降る年に足を運んだことがありましたが、海面を打つ雨音がお囃子のリズムと一緒にビートを刻んでいるようで、舞のクライマックスが盛り上がりました。

世界全体が舞台装置であるかのような中に自分自身も包み込まれる。知らぬ間に物語の中に入り込んでしまったような感覚が生まれることもあります。舞台と客席、現実と物語の世界、それぞれの境界線が曖昧になるようです。

神様に捧げるために建てられた、嚴島神社の能舞台

能鑑賞のために海の上に特設された桟敷席からの眺め。嚴島神社の回廊からの眺め。海の向こうには広島の夜景が広がります。大鳥居を隔てて現実世界がはるか遠くに感じられ、神様のいる異界に立ち入っているような気持ちになります
能鑑賞のために海の上に特設された桟敷席からの眺め。海の向こうには広島の夜景が広がります。大鳥居を隔てて現実世界がはるか遠くに感じられ、神様のいる異界に立ち入っているような気持ちになります

かつては、神職や僧侶でさえ島に渡るのは祭祀の時のみ、島に上陸する際も厳重な潔斎 (けっさい。心身を清めること) が必要な神域とされていた宮島。

嚴島神社は、推古天皇が即位した593年ころの建立と言われ、1400年の歴史を持ちます。島全体が神聖な場所と考えられていたため、島の土の上に社殿を建てることをはばかり、海辺の浅瀬を選んだとも言われています。満潮時には、海水が社殿の奥まで届き、神社全体が海に浮かんでいるように見えます。

平安時代末期、栄華を極めた平清盛により今のような荘厳な社殿となります。平家一族の守護神として篤い信仰を得て、世に広く知られるようになり、平家滅亡後も、源氏、足利氏、毛利氏などによって大切にされてきました。

嚴島の能の起こりは、1563年。嚴島合戦で陶軍に勝利した毛利元就が、仮の能舞台を海の上に作らせて能を奉納したのが始まりと言われています。

歴史上のビックネームが連なる嚴島の歴史。当時の武将たちと同じ風景を見ていると思うと感慨深いものがあります。

写真撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota
撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota

現在の常設の能舞台は、1680年に寄進されたもの。国の重要文化財に指定されています。

海の上にあるため、通常は床下に置かれる共鳴用の甕 (かめ) がなく、足拍子の響きをよくするため舞台の床が一枚の板のようになっているのが特徴なのだそう。十分に音が響くので、現代でもマイクは使われません。

潮の満ち引きで景色が変わっていく

干潮時は大鳥居の足元まで歩いて行くことができます
干潮時は大鳥居の足元まで歩いて行くことができます

舞台の序盤は潮が引いている状態。次第に波音が届き始め、潮が満ちていきます。波打つようになった海面に反射した光は、キラキラと舞台を照らします。

また、水位の変化で音の響きも変わるそう。水かさが増えるにつれて音の反響もよくなり、後半の見せ場となる舞に向かって雰囲気も音も盛り上がります。

潮の満ち引きは日によって異なるもの。毎年、観月能の開催日は「潮位」を第一に選ばれます。なるべく大潮の時で、満月に近く、ちょうど演能時間と満潮時が重なるという条件に合う、限られた秋の夜にだけ生み出される幻想的な舞台なのです。

少しずつ水位が上がっています。撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota
少しずつ水位が上がっています。撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota

さらに、観月能でシテ (主役) として舞う、友枝昭世さんは、水を効果的に扱い美しい光景を描き出します。

これまでの演目では、汐を汲むシーンや、水面を覗き込むシーンなどで、舞台の際まで歩み寄り (海に落ちてしまいそうなほど近づきます) 、その様子を演じていました。想像力を膨らませながら鑑賞している観客にとって、目の前にある水と演者の動きが結びつくと大変な臨場感を感じるもの。そしてその光景のなんと美しいことでしょうか。

撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota
撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota

能面をかけていると、視野が非常に狭く、足元はほとんど見えていないのだそうです。柱を目印に、ためらうことなく一気に歩み寄り、優美に舞う姿に息を飲みます。美しい舞に加え、この場所ならではの様子に出会えるのも楽しみです。

亡霊が降り立ち、舞う

今年の演目は、源氏物語に基づいた「玉葛 (たまかずら) 」でした。

六条御息所の生き霊によって殺されてしまった夕顔、その娘が玉葛です。絶世の美女であったがために、恋に翻弄された玉葛の亡霊が、僧侶によって迷いを晴らして成仏する物語。「夢幻能 (むげんのう) 」という能の代表的な形式のストーリーです。

冒頭で玉鬘の亡霊は、小舟に乗った人間の女として僧侶の前に現れます。

実際に小舟は登場しませんが、さおを差し、その様子を表します。撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota
実際に小舟は登場しませんが、さおを差し、その様子を表します。撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota

秋の初瀬川で出会い、夕霧の絶え間に美しい紅葉を見ながら玉鬘ゆかりの二本の杉までともに行く女と僧侶。

秋の夕暮れ、水辺での出会い。舞台ともリンクします。この日はあいにくの雨で、霧がかかったような視界の先に舞台がありました。風ではらはらとたなびく装束の様子と霧が、異界の者との出会いに臨場感を加えているようでした。

僧侶に玉鬘の数奇な運命を語り、自身が玉鬘であることをほのめかし、弔いを頼んで女は消えます。そして後半では、玉鬘は寝乱れ髪の姿で登場します。

撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota
撮影:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota

昔のことを思い悩み、妄執にひかれて苦悶する有様を見せ、美しく激しく舞う玉鬘。演じる友枝昭世さんならではの、美貌だけではなく、妖艶さすら感じる舞。神がかっているようにも見える姿に魅了されます。

玉鬘が成仏し、静かに終わる物語。公演終了後も、その美しさの残像を感じながら波音を聞いていました。

嚴島神社では、終演後も非日常空間が残ります。少し惚けたまま、余韻にたっぷり浸りながらの帰り道も心地よいものです。

宮島の島内にはお宿もあります。年に一度の幽玄の夜。ぜひ泊まりで訪れてみていただけたらと思います。

<取材協力>
嚴島神社
厳島観月能実行委員会

文・写真:小俣荘子
写真提供:M2 エムニー 横田三彩 misai yokota

動く文化遺産。日光東照宮の美を受け継ぐ、鹿沼の彫刻屋台

こんにちは。さんち編集部の尾島可奈子です。

世界遺産、日光東照宮。紅葉シーズンを迎えてますます多くの人で賑わいを見せています。

「三猿」や「眠り猫」は東照宮を代表する見どころですが、実はこの彫刻美を受け継ぐお祭りが、日光のすぐそばで行われているのをご存知でしょうか。

栃木県鹿沼市で行われる鹿沼今宮神社祭の屋台行事、「鹿沼秋まつり」。2016年にはユネスコの無形文化遺産に登録されました。

鹿沼秋まつりの様子

屋台行事とは?どんなところに東照宮とのつながりが?

年に一度のお祭りを訪ねて、動く文化遺産、美しき彫刻屋台の世界に迫ります。

三猿も見つかる?鹿沼の彫刻屋台

10月8日。東武日光線の新鹿沼駅に降り立つと、駅前には観光案内のテントが貼られ、大勢の人で賑わっています。

大通り沿いにはたくさんの出店も立ち並びます
大通り沿いにはたくさんの出店も立ち並びます

毎年10月、体育の日直前の土日に行われている「鹿沼秋まつり」は、かつて宿場町であった鹿沼の氏神様である鹿沼今宮神社の例大祭に合わせて、氏子さんが執り行う地域のお祭り。

見どころは何と言っても神社から町なかへと巡る美しい「彫刻屋台」です。

駅から神社へ向かう大通りを歩いて行くと、はるか遠くからでもわかる大きな「何か」が、大勢の人に囲まれながらゆっくりと近づいてくるのがわかります。

遠くにまばゆいほどの存在感を放つ「何か」が‥‥
遠くにまばゆいほどの存在感を放つ「何か」が‥‥

道路標識をゆうに超える屋根。その上に、人が数人立っています。乗りものの中にも人が数名。楽器を演奏しています。

屋根の上に人の姿が
屋根の上に人の姿が
勇姿、という言葉がぴったりの立ち姿です
勇姿、という言葉がぴったりの立ち姿です
中には太鼓や笛を演奏する人の姿が見えます
中には太鼓や笛を演奏する人の姿が見えます

次々とやってくる乗り物。一台一台、様子が違います。共通して言えるのは、屋根から柱、人が手で押す土台の際まで、ありとあらゆるところにそれは美しい木の彫刻が彫り込まれていることです。

窓のふちや
窓のふちや
柱にも
柱にも
人が押す台座の際まで彫刻づくし!
人が押す台座の際まで彫刻づくし!
孔雀の羽一枚一枚が流れるように彫り込まれています
孔雀の羽一枚一枚が流れるように彫り込まれています

向かい合う2体の龍といった力強いものから、咲きこぼれる大輪の花のような繊細なものまで、どれも息を飲むような美しい彫刻が施されています。どこかで見たことのあるような、猿の姿も。

大輪の花と唐獅子
大輪の花と唐獅子
この猿はもしかして‥‥?
この猿はもしかして‥‥?

「わっしょい、わっしょい」という景気のいい掛け声とともに目の前に現れたこの乗りものこそが、お祭りの主役、鹿沼の彫刻屋台です。

「禁止」が生んだ芸術

元は神様へ奉納する踊りを舞うための、舞台装置だったという屋台。

江戸時代に当たる1780年にはすでにその記録が見られ、氏子各町から屋台を出して、競うようにその芸を披露したといいます。

華やかな演芸に釣り合うように、当初は簡素だった屋台も次第に黒漆や彩色が施されるように。

「それが幕府の改革で、こうした民間の芝居が禁止されてしまうのです。競うように芸を磨いてきた各町のエネルギーは、自ずと屋台の装飾に注がれるようになりました」

幕府の「禁止」が生んだ美しい彫刻屋台。そこに日光東照宮がどのように関係しているのか。鹿沼市観光交流課の渡辺さんに、お話を伺うことができました。

鑑賞ポイントその1:東照宮とのつながり

「鹿沼は山が近く、水運にも恵まれ江戸からも近距離にあったことから、古くから木工の町として栄えてきました。

日光にも近く、その建設に携わった職人たちが多く住んだとも言われています。たとえばこの屋台は仲町という町の屋台で、江戸時代のものです。一部の彫刻に東照宮の彫刻を彫った職人が携わっていたことが確認されています。

「昔は屋台を分解して箱にしまっていたのですが、箱の墨書に『日光五重御塔彫物方棟梁行年六十四歳 後藤周二正秀(しゅうじまさひで)鑿』と書かれてあるんですね。実在する後藤正秀という彫物師であると確認されました。

最近の例もあります。先ほどの金の龍が印象的な屋台は現存する一番古い屋台ですが、日光東照宮の陽明門や眠り猫の修復をされている鹿沼在住の職人さんが、平成に入って修理をされています」

現存する最も古い久保町の屋台
現存する最も古い久保町の屋台

「モチーフでは、東照宮の水屋にもいる龍や唐獅子、リスなども東照宮の彫刻を彷彿とさせますね」

最も多く彫られているという龍のモチーフ
最も多く彫られているという龍のモチーフ
こちらは屋根に唐獅子が3頭
こちらは屋根に唐獅子が3頭
三猿を彷彿とさせる彫刻は、よく見ると屋根の上の鳥 (大ワシ) が、藤の下に隠れている猿を睨みつけている構図になっています
三猿を彷彿とさせる彫刻は、よく見ると屋根の上の鳥 (大ワシ) が、藤の下に隠れている猿を睨みつけている構図になっています
愛らしいリスの彫刻は、先ほどの猿を彫ったのと同じ、江戸期の職人によるものだそう
愛らしいリスの彫刻は、先ほどの猿を彫ったのと同じ、江戸期の職人によるものだそう

日光東照宮の宮大工が、その技で鹿沼の彫刻屋台を生んだ。そう書けばシンプルですが、どうやら職人さんや技術だけでは、この美しい彫刻は生まれなかったようです。

「職人さんは基本的に、発注者の意向に沿うものをきっちり作るのが仕事ですからね。では誰が彫刻を頼む人かといえば、屋台の所有者、つまり今宮神社の氏子である各町の人たちです。

昔は40年、50年くらいのサイクルで屋台を作り変えていた記録もあります。新たに作る時にはどんなものを作ってもらいたいか、町が彫師さんと相談をします。

その時、すぐ近くにある東照宮の彫刻が、やはり一番参考になったのではないでしょうか。『あの彫刻のリスのようにしてほしい』とか、そういう相談をしていたのではないかと思います」

鑑賞ポイントその2:町のプライドをかけた屋台の「競演」

もうひとつ、鹿沼の彫刻屋台が華やかになっていった理由は、各町同士の「競いの意識」です。

「あの町はこういうモチーフだから、こちらはこうしよう、という検討は、今でも屋台を新調するときに行われていますよ」

もっと美しく、もっと趣向を変えて。よきライバル関係にある町同士の意識と、古くからの木工の町に暮らす職人たちの腕が共鳴して、彫刻屋台の美は極められていきました。

同じ龍でも構図や彫りのタッチで印象が変わります
同じ龍でも構図や彫りのタッチで印象が変わります
繊細なタッチの鳥の彫刻
繊細なタッチの鳥の彫刻
天女さまを思わせる彫刻
天女さまを思わせる彫刻
縁起の良い鶴
縁起の良い鶴
波間の亀
波間の亀

鑑賞ポイントその3:時代で見分ける屋台

ところが、過熱する装飾美に再び幕府の「待った」が。華美になっていく舞台が、質素倹約の施策で禁じられてしまうのです。

全部で27台ある屋台は、大きく3種類に分かれます。簡単にいうと、「古いものほど華美」なのです。

1) 彩色彫刻漆塗屋台 (さいしきちょうこくうるしぬりやたい) (7台)

黒漆塗 (くろうるしぬり) の車体。金属板を加工した錺 (かざり) 金具付き。彫刻には彩色がされている
黒漆塗 (くろうるしぬり) の車体。金属板を加工した錺 (かざり) 金具付き。彫刻には彩色がされている

2) 白木彫刻漆塗屋台 (しらきちょうこくうるしぬりやたい) (1台)

黒漆塗の車体、錺金具付きで、彫刻は白木のまま
黒漆塗の車体、錺金具付きで、彫刻は白木のまま

3) 白木彫刻白木造屋台 (しらきちょうこくしらきづくりやたい) (19台)

車体も彫刻も白木で造られた屋台
車体も彫刻も白木で造られた屋台

各町は幕府の統制下にあっても知恵をしぼり、彩色などの華やかさは抑えながら、彫刻そのものの美しさで屋台の素晴らしさを競ったのでした。

こうした歴史も踏まえておくと、また違った視点で屋台鑑賞を楽しめそうです。

町人文化の粋、彫刻屋台

渡辺さんによると、鹿沼の屋台は車体、車輪、彫刻、漆塗り、彩色、そして錺 (かざり) と、様々な工程を分業で作り上げていくそうです。

大人の腰の高さまである巨大な車輪
大人の腰の高さまである巨大な車輪

「屋台を作るほぼすべての工程を担える職人さんが、鹿沼・日光一帯にいます。錺職人さんにいたっては、全国でも日光と京都にしかいないそうです。自分たちの町の屋台を、自らの町の技術で作れるのが、鹿沼の屋台の何よりの特徴です」

こちらは現役の職人さんが彫った龍
こちらは現役の職人さんが彫った龍

伺うと、鹿沼の屋台は、昔から町内の各家々がお金を出し合って作ってきたとのこと。

「貧しければ貧しいなりに、全員がお金を出し合って全員でこの屋台を引いた。これが鹿沼の伝統です」

世界が認めた彫刻屋台は、江戸と日光の間に位置する木工の町の技術と、「わが町」を愛する町衆の心意気から生まれていました。

また来年も10月になれば、鹿沼の町に「わっしょい」の声が響き渡ります。

屋台を待つはっぴの後ろ姿

文・写真:尾島可奈子

デザインのゼロ地点 第10回:六角棒スパナ・六角穴付ボルト

こんにちは。THEの米津雄介と申します。

THE(ザ)は、ものづくりの会社です。漆のお椀から電動自転車まで、あらゆる分野の商品をそのジャンルの専業メーカーと共同開発しています。

例えば、THE ジーンズといえば多くの人がLevi’s 501を連想するはずです。「THE〇〇=これぞ〇〇」といった、そのジャンルのど真ん中に位置する製品を探求しています。

ここでいう「ど真ん中」とは、様々なデザインの製品があるなかで、それらを選ぶときに基準となるべきものです。それがあることで他の製品も進化していくようなゼロ地点から、本来在るべきスタンダードはどこなのか?を考えています。

連載企画「デザインのゼロ地点」、10回目のお題は「六角棒スパナと六角穴付ボルト」。

組み立て家具や自転車などに必要な、あれ

六角棒スパナは、いわゆる「六角レンチ」のことですが、自身で工具を扱う人であればアーレンキーやヘキサゴンレンチという呼び名の方がしっくりくるかもしれません。ここでは日本工業規格 (JIS B4648) での呼称から、六角棒スパナと呼ぶことにしました。

六角棒スパナ

六角棒スパナは、六角穴付ボルトを締付けるための単一機能工具で、組み立て式の家具や自転車などに多く使われています。六角穴付ボルトのサイズにピッタリ合ったものしか使えないため、ボルトを壊すことなく強い締め付けが可能です。

「六角穴付ボルト (通称キャップボルト)」・円筒形の頭部に六角形の穴が開いているボルト

六角棒スパナは六角形の金属棒を曲げただけのすごくシンプルな道具ですが、ボルト・ナットを留めるスパナや、マイナスドライバー、プラスドライバー等、様々な規格の中で、歴史的には後発として生まれた工具になります。

そもそもボルト・ナットのネジ構造でモノを固定する (締める) という発明は、日本を含めて東洋では独自には生まれなかった工法で、その歴史には一般にもよく知られる多くの偉人が関与しています。

その起源は古代ギリシャまでさかのぼる

ネジ自体が生まれた時期や背景は定かではなく諸説あるのですが、回転運動を直線運動へ変換する螺旋構造の仕組みを最初に機械に使用したのは古代ギリシャの数学者として知られるアルキメデスだと言われています。

円筒状の筒の中に大きなネジを入れた揚水用のアルキメディアン・スクリューと呼ばれる機械を発明し、灌漑 (かんがい) や船底の水の汲み上げ、鉱山に溜まった水を排出することなどに使われていたようで、労力に比べ極めて効率的に揚水することができたそうです。

円周率や対数螺旋で有名な数学者であるアルキメデスならではの発明と言えるのかもしれません。そしてこの方法は現代でも使われるベルトコンベアの原型にもなっています。

古代ギリシャでアルキメデスが考案したアルキメディアン・スクリュー

アルキメディアン・スクリューの発明は、その後、木の棒で作られたネジを利用してオリーブやブドウなどの果汁を搾るネジ式圧搾機などに転用されます。現在わかっている範囲では、それらの螺旋構造を経て、ローマ人がボルト・ナットを建築や構造物に使用しているのが発見されているそうです (ここら辺の発明や使用実績の経緯が諸説ある) 。

そこからさらに時代が飛びますが、レオナルド・ダ・ヴィンチが残したスケッチにも、タップ・ダイスによるネジ加工の原理があるそうです。このことから、おそらく1500年前後には金属製ボルト、ナット、小ネジ、木ネジ類が実用化されていたと予想されています。

そして、日本に伝来したのは戦国時代

日本へのネジの伝来は、1543年に種子島に漂着したポルトガル人の船長から、藩主種子島氏が鉄砲二挺を二千両で購入したことから始まります。

その藩主から一挺の鉄砲を与えられその模造を命じられた刀鍛冶の名人、八坂金兵衛がどうしても造れなかった部品がネジだったといいます。銃底を塞ぐための尾栓ネジの雄ネジ (ボルト側) はなんとか造りましたが、困難だったのは雄ネジがねじ込まれる銃底の筒の中の雌ネジ (ナット側) でした。

1543年に種子島に伝来した鉄砲

金属加工の工具としては、「やすり」と「たがね」しかなかった当時、金兵衛の試行錯誤の末、尾栓の雄ネジを雄型として、火造り (熱間鍛造) で銃底に雌ネジを製作したのが、日本のネジ製造の起源として伝えられています。

産業革命で画期的なネジ製造法が開発される

1600年代に入ると、世界中で時計などの精密機器に様々なネジが使われるようになります。ただ、この頃のネジ製造はまだまだ職人の手作りの世界で、同じ職人やメーカーによってボルトとナットはセットで製造されていて、隣町に行くと大きさや規格が違う、といったことが多くあったそうです。

その流れが大きく変わるのはやはり1700年代半ばの産業革命から。

イギリスのミッドランド地方出身のワイアット兄弟が、手で刃を動かしてネジを切る代わりに、カッターで自動的にネジを切れるような仕組みを考案し、それまで1本の製造に数分掛かっていた作業をわずか6~7秒で作ることができるようにするという画期的なネジ製造法を開発しました。

ワイアット兄弟は「鉄製ネジを効率的に作る方法」で特許を取り、世界初のネジ工場を作りますが、事業は失敗に終わり、その工場の継承者が事業化に成功します。

その後、蒸気機関の活用など各種の改善を経て、船や家具、自動車、高級家具などの需要の高まりとともに大量のネジが作られることになるのです。

そしてこの頃から地域差をなくす規格統一の動きが少しずつ始まります。

27歳のカナダ人、六角穴付ボルトの元祖をつくる

さて、肝心なネジの形状ですが、実は1500年前後から1800年代まで、ネジの頭部は四角か八角形をしていて外側からスパナで留める形状か、1本の溝が入ったマイナスネジのようなものが主流でした。

ただ、溝つきネジは、ネジ回し (今で言うマイナスドライバー) と溝がしっかり噛み合わないため、溝をだめにしてしまうことが多く、この改良のために1860年から1890年にかけて世界中で様々な特許が出願されています。

穴付ネジの種類

六角穴付ボルトに通ずるものが生まれたのは1907年。

カナダ人のピーター・L・ロバートソン (当時27歳) が「四角い凹開口部を持ったソケット付きネジ」の特許を取得し事業化したことが始まりです。

特別に作った四角い先端を持つネジ回しで、すべる事なく、片手で扱える便利なネジとして市場に受け入れられました。

北米で自動車製造が始まり、フォード自動車の木製の車体をカナダで製造していたフィッシャー・ボディ社やフォードT型モデルの生産工場もこの四角い穴のついたネジを大量に採用したそうです。

1930年代以降には、現在でも広く使われるフィリップスネジ (プラスネジ) や、回転方向だけに力をかけやすくして開け締めをしやすくした六角穴付ボルトが自動車産業や軍事産業に広く採用されていきます。

とはいえ、まだまだ各国ごとにそれぞれ異なるネジ規格が存在していたため、国際間の物流の拡大につれて不便が生じ始めます。世界的なネジの互換性の要求が高くなり、第二次世界大戦後の1947年に国際標準化機構(ISO)が設立され、「ISOメートルネジ」規格が制定されました。

日本でも、1949年6月1日に生まれた日本工業規格(JIS)によってねじの標準規格が作られています。

ネジの頭を挟んで締める四角形や八角形のネジから、ネジ頭に溝を入れたマイナスネジ、溝を十字にすることで力のかかり方を分散したプラスネジ、そして、垂直方向へ押し付けるのではなく回転方向だけの荷重で扱えるようにした六角穴付きネジ。

ネジの長い歴史の中で、ボルトへの負担軽減と締め付け強度を求めて作られた六角形状は、見た目はシンプルですが、その裏にはたくさんの試行錯誤と歴史がありました。

今でも広く使われる「六角棒スパナ」。
シンプルなだけに材質の強度や粘り、持ち手の角の取り方や塗装の耐久性など、地味で気付きにくいディテールにデザインの良さが潜んでいる気がします。

今回はその代表的なメーカーを3つご紹介して締めくくりにできればと思います。

スイス、イタリア、日本の代表的なメーカー3社

PB SWISS TOOLS
出典:https://www.pbswisstools.com/ja/

PBは、六角棒スパナをはじめハンマー・ドライバーなどを製造するスイスの工具メーカー。元は農機具メーカーですが、創業は1800年代後半という老舗です。

写真の製品は9本組みでサイズ毎に色分けがされていて見分けがつきやすく (これ、ユーザー視点からはものすごく便利です!) 、10年以上使っていますが塗装も経年で剥がれたりすることがありません。

良質な鋼材はよくしなって適度な締め付けトルクを確保してくれると同時に、折れたり曲がったりする心配がなく、安心して使えます。

Beta T型ハンドルヘキサゴンレンチ

1923年にイタリアで創業されたBeta (ベータ) 、オレンジカラーで統一された商品が特徴です。1970年代にはF1などのモータースポーツのスポンサーとして活躍。

フェラーリのサポーターとしても有名です。

セットではなく、必要なサイズをバラで使うなら最高です。よく見ると、強度保管のために丸棒を六角に削り出して作っているのがわかります。

エイト 出典:http://www.eight-tool.co.jp/

エイトは、六角棒スパナに特化した国産メーカー。六角棒スパナ専門のため、世界中の様々なブランドの製品のOEM先でもあります。増し締めパイプが付いていたり、日本のメーカーらしい気遣いが随所に見られます。

デザインのゼロ地点「六角棒スパナ・六角穴付ボルト」編、いかがでしたでしょうか?

次回もまた身近な製品を題材にゼロ地点を探ってみたいと思います。それではまた来月、よろしくお願い致します。

米津雄介
プロダクトマネージャー / 経営者
THE株式会社 代表取締役
http://the-web.co.jp
大学卒業後、プラス株式会社にて文房具の商品開発とマーケティングに従事。
2012年にプロダクトマネージャーとしてTHEに参画し、全国のメーカーを回りながら、商品開発・流通施策・生産管理・品質管理などプロダクトマネジメント全般と事業計画を担当。
2015年3月に代表取締役社長に就任。共著に「デザインの誤解」(祥伝社)。


文:米津雄介

11月8日「いい刃の日」。庖丁工房タダフサのお肉が“美味しくなる”ステーキナイフ

こんにちは。ライターの小俣荘子です。

表面は香ばしく焼き色をつけて、内側は赤さを残してしっとり焼き上げたステーキ。想像しただけで美味しそうですが、みなさんは、どんなカトラリーを使っていますか?

今回紹介するのは、「ステーキを美味しく、スムーズに切る」ために生まれたナイフ。新潟の「庖丁工房タダフサ」と中川政七商店が生み出したステーキナイフです。

なぜ巷のステーキナイフは切れにくいのか?

ステーキをカットするために、前後に何度もナイフを動かす。よくある光景かと思いますが、もっと簡単に切れないものでしょうか。実は、カトラリーとしての安全性を考慮して、ステーキナイフは「あえて切れすぎない設計」になっているものが多いのだそう。

そして、カリッとしたお肉の表面を切るには、ギザギザのノコ刃 (ノコギリのような刃) が必要です。この「ギザギザしたノコ刃をどう作るか」と「刃先を肉に入れてからスムーズに切るには」を、両立するアイデア戦を、刃物メーカーが繰り広げています。

庖丁工房タダフサのアイデアは、包丁づくりの刃付け (研ぎの工程) の技術を生かして開発することでした。

タダフサ ステーキナイフ

ナイフのように食い込み、包丁のように切れる

肉への刃の入りを良くするための独自の工夫を検討しました。たどり着いたのは、通常より粗目の番手で行う刃付け。

顕微鏡などで見ると、刃先の部分が非常に細かいギザギザしたノコ刃になっています。パン切り包丁の波刃がパンの表面を切るきっかけになるように、ノコ刃の刃先が、肉の表面を切り込むきっかけになっているのです。

拡大すると微細なギザギザしたノコ刃状となっています
拡大すると微細なギザギザしたノコ刃状となっています
こちらは普通の包丁の刃。上の写真と比べてみてください
こちらは普通の包丁の刃。上の写真と比べてみてください

まず、ギザギザのノコ刃でしっかりと捉え、一般的なカトラリーナイフよりも薄い刃が、スッと肉に入っていくので、スムーズに切れるのです。

ナイフを何度も動かさずに切れるので、お皿を傷つける心配も軽減されます。お気に入りのお皿で楽しめるのは嬉しいですね。

さらに、家庭でよく使われている三徳包丁と同じ両刃構造になっており、片面 (表) を粗く、もう片面 (裏) を細かく、表裏で異なる仕様で刃付けを行っています。

両方とも粗目でもよく切れますが、切り口がざっくりとするので、切った時の美しさに欠けます。包丁のように美しくなめらかに切れるよう、片方は細目にしたところがこだわりです。

こうして、よく切れるステーキナイフが実現しました。

鍛えた鋼で錆びにくく、使いやすいデザイン

様々なステーキナイフで検証を行いました (左から、柴田文江さん、タダフサ 曽根忠幸さん)

さらには日常使いしやすいように、素材やデザインにもこだわりました。

カトラリーは、包丁のようにこまめに研ぐなどのお手入れをする方は少ないはず。そこで、一般的な包丁でもよく使われる耐食性の高い、錆びにくい鋼を使用することに。

焼き入れ前に、鋼を「叩く」鍛造作業の工程を加えて、硬く強い鋼に鍛え上げています。

デザインは、他のタダフサの製品と同様にプロダクトデザイナー柴田文江さんによるもの。家庭で女性も抵抗なく使いたくなるような、やわらかみのあるフォルムと質感に仕上がりました。

完成した「ステーキナイフ」
完成した「ステーキナイフ」

このステーキナイフ、「表面が硬いもの」への刃入りが良いので、実はパンを切るのにも向いているのだそう。これ1本で他の食材もよく切れるので、家の中だけでなく、ピクニックやバーベキューでも使ってみたい!そんな気持ちにさせてくれる逸品です。

<取り扱い店舗>
中川政七商店 全店
中川政七商店 通販サイト

文 : 小俣荘子

和菓子でめぐる出雲・松江

こんにちは。ライターの築島渉です。

かつて、雲州 (うんしゅう) と呼ばれた神々の国、出雲国。

今では風光明媚な城下町の風情を残す松江や、日本神話が今も息づく出雲が旅先として人気です。

実はこの一帯、時代とともに人々に愛される甘味が生み出されてきました。松江は、京都や金沢と並ぶ日本三大菓子処のひとつ。出雲は「ぜんざい」発祥の地だと言われています。

今日は歴史をなぞりながら、和菓子と土地の美味しい関係を覗いてみましょう。

「ぜんざい」発祥の地、出雲へ

ぜんざい

旧暦の10月を意味する「神無月」。出雲大社に神様たちが勢揃いすることから、出雲の地だけがこの時期を「神在月 (かみありづき) 」と呼ぶことは、ご存知の通りです。新暦では11月下旬から12月中旬に当たります。

この時に執り行われる神事「神在祭 (かみありさい) 」で、神様へのお供えとして振る舞われてきたのが「神在 (じんざい) 餅」。

この「神在餅」が出雲弁で少しだけ音を変え、「ぜんざい」となって全国に広まったと言われており、江戸初期の文献でもすでに出雲が「ぜんざい」発祥の地だと記されているのだとか。

現在、出雲大社へ向かう参道は「神前通り」と呼ばれ、今も参拝者たちが喉を潤し、出雲神社ゆかりの「ぜんざい」を楽しむ場所として賑わっています。

神前通り
たくさんの甘味処が連なる神前通り

出雲大社までは意外と歩くこともあり、お腹もすくもの。たくさんのお店がその店自慢の「ぜんざい」を振る舞っているので、行き帰りで食べ比べをしてみるのも楽しいかもしれませんね。

お参りの手土産に。創業300年の老舗 來間屋の生姜糖

出雲大社へのお参りが済んだら、一畑電車に乗って一路、松江方面へ。雲州平田駅から徒歩10分、出雲土産として人気の「生姜糖」を300年作り続ける、來間屋生姜糖本舗 (くるまやしょうがとうほんぽ) に到着です。

昔ながらの佇まいを残す店構え

時は江戸時代、松江藩の奉行所務めだったお役人、來間屋文左衛門がお茶に興味を持ったのが名物「生姜糖」の始まり。お役人もやめ、どんどん茶道に熱中していった文左衛門ですが、当時はいわゆる「お茶請け」は生菓子しかない時代です。

日持ちがしてお茶にも合ういいお菓子は無いものか、と考えるようになった文左衛門。当時から出雲で作られていた特産の「出西生姜」を使って試行錯誤の末産み出したのが、「生姜糖」だったといいます。

「文左衛門は、凝り性だったんだと思います」と笑顔でお話を聞かせてくださったのは、來間屋11代目店主の來間久さん。

「材料は、お砂糖と出西生姜だけ。出西生姜は、繊維質が少なく、煮詰めても辛みと香りが変わらないんです。創業時からの製法で手作りしているので、江戸時代の人も、同じものを食べていたんですよ」

銅板に生姜と砂糖を煮たものを注ぎ込んで作られる生姜糖
銅板に生姜と砂糖を煮たものを注ぎ込んで作られる生姜糖

300年以上の間、出雲参りの参拝者たちに、そして地域の人達に愛され続けている生姜糖。かりっとかじると、優しい甘さの中に生姜のすっきりとした香りが口の中に広がります。

生姜糖

「その年の出西生姜の味やその日の天候など、自然との関わりの中で手作りをしています。その時その時に合わせ、作り手側も変わっていないと、受け継がれた味にはならないんです」と來間さん。数百年も続く、老舗だからこその言葉です。

銅板から型を外した板状の昔ならではのものや、キャンディ状になった一口サイズのものなど、レトロで可愛いロゴの入った來間屋さんの生姜糖。今も変わらず、出雲土産の定番となっています。これからの季節、紅茶に入れて楽しむのも、おすすめだそうですよ。

ガチャガチャでしか手に入らない、特別な益子焼。

こんにちは。ライターの岩本恵美です。

古くからの焼物の産地、栃木県益子では、記念すべき100回目の陶器市が今日まで開催中です。皆さん、益子焼というとどんな姿を思い浮かべますか?

皿や茶碗、壺など、素朴な風合いの実用的な器でしょうか。あるいは、民藝を代表する焼物という、どこか渋い、玄人好みのイメージもあるかもしれません。

今回は、そんなイメージを覆す、小さな小さな益子焼をご紹介します。

正真正銘の益子焼がガチャガチャに!?

益子から車で約40分。北関東の玄関口、JR宇都宮駅の宇都宮駅ビルパセオにある丹波屋栃木銘店。1690年 (元禄3年) 創業の卸問屋、丹波屋が手掛けるお店で、今年3月にオープンしたばかりです。

丹波屋栃木銘店
JR宇都宮駅の宇都宮駅ビル パセオ2Fとちぎグランマルシェにある丹波屋栃木銘店

栃木ならではの商品が並ぶ一角にあるのが、益子焼史上初となる同店限定の益子焼のカプセルトイ、通称ガチャガチャです。

丹波屋栃木銘店の益子焼ガチャガチャ
丹波屋栃木銘店限定の益子焼ガチャガチャは2台

小さなカプセルに入った益子焼は、折越窯 (おっこしがま) の名で知られる益子の窯元・大塚幸内 (おおつかこうない) 商店による手づくり。職人さんが一つひとつ手びねりで成形して素焼きし、絵付け、釉薬をかけて焼き上げたものです。

益子焼ガチャガチャ
ここにあるのはほんの一部。すでに出払ってしまっているものもあるほど、種類は豊富だそう

1回400円とはいえ、通常のものとまったく同じ工程で制作した本物の益子焼が手に入ります。

種類はお皿や壺、湯のみなど。

折越窯で普段作っている益子焼も店頭にはあるので、ガチャガチャと合わせて商品を探してみるのも一興。セットになった途端、可愛らしさが倍増します
益子焼ガチャガチャ
並べて置くと、益子焼の親子のよう
益子焼ガチャガチャ
こちらはカップ3兄弟。ガチャガチャのラインナップはお皿が多めなので、もし当たったらラッキー

小さなカプセルに込められた思い

そもそも益子焼をガチャガチャにしてしまおうという発想はどこからきたのでしょうか。この企画を発案した丹波屋の林和央 (はやし・かずひろ) さんと、作り手である窯元の大塚恭子さんにお話を伺いました。

「お店を出すにあたり、栃木ならではのもの、ここでしか手に入らないものとして何かしらのガチャガチャを作りたいと考えていました。今までにないものをと考えていたら、益子焼が思い当たりまして。

僕は神奈川県出身なのですが、家族で益子焼が好きで、小学生のころから毎年陶器市に行っていて、不思議と大塚さんのところでいつも買っていたんですよね。そんなご縁から仕事でも大塚さんとご一緒することがあり、恐るおそるガチャガチャのことをお願いしてみました」と林さん。

益子・大塚幸内商店(折越窯)
益子焼の窯元、大塚幸内商店(折越窯)

林さんには、職人さんが作り上げた益子焼をガチャガチャにするのは失礼になるのではという思いがありましたが、むしろ大塚さんは乗り気になってくれたそう。

「お話をいただいた時、益子焼に関心のない人たちや若い世代の人たちが触れる取っ掛かりになるのではないかと感じました。なんて面白いんだろうと思って、二つ返事で引き受けていましたね。私自身も今まで見たこともない益子焼を見てみたくて」

受け継がれた「用の美」

ミニチュアにするのはさぞかし大変な作業だろうと思いきや、「いつも作っているものが小さくなっただけ。ただただ楽しいですよ」と話す大塚さん。

作り手も虜にするこのミニチュア益子焼、ガチャガチャといってあなどるなかれ。そこにはしっかりと「用の美」が宿っています。

基本的に全て使えるのは大前提。たとえば急須は蓋を開けることができ、水を入れると注ぎ口から水が出てきます!しかも、どの品も電子レンジや食洗機に対応しているというから驚きです。

益子焼ガチャガチャ
大人でも、思わずままごとをしてみたくなる精巧さ

「益子焼は日用雑器。気取らずに、気負わずに毎日使ってもらうのが良さだと思うので、ガチャガチャでもその素朴な部分や実用的な部分を感じてもらいたいですね」と大塚さんは言います。

そんな思いに呼応するかのように、嬉しい反響も出始めているのだそう。

「ガチャガチャを集めている方が窯元まで来てくれるようになったんです。ある人はガチャガチャで当たったお皿に、塩や胡椒、七味などを入れて食卓用の調味料入れとして実際に使っていると話してくれました」

ミニチュア益子焼は飾っておくだけでもいいですが、その使い道を考えてみるのも面白そうです。

ガチャガチャの種類は「四季」と「栃木」

今年の春からガチャガチャを始めて、これまで作った益子焼のミニチュアは既に70~80種類以上。林さんも大塚さんも把握できないくらい、たくさんあるのだとか。

第1弾は益子焼の紹介を兼ねて伝統的なものを、その後は季節ごとに、夏には白やブルーを基調とした涼しげなもの、秋には茶系のものや「実りの秋」をテーマにしたものを展開してきました。

「器は季節とともにあるものだと思うんです。季節ごとに料理を味わい、料理に合わせて器も変える。その関係を意識して、益子焼を日頃からつくっています。それはガチャガチャになっても同じ。器を通した季節感が伝えられたらと思っています」と大塚さん。

益子焼だけでなく、栃木のことももっと知ってもらいたいと、器にまじって栃木にちなんだモチーフの益子焼があるのも、このガチャガチャのもう一つの楽しみ。

初夏にはイチゴ、夏にはかんぴょうに餃子、秋には米どころ栃木を表現したおにぎりの形をした益子焼が登場しました。

益子焼ガチャガチャ
たくさん集めて、こんな風にボックスに飾っても素敵です

この冬にはどんなアイテムを考えていますか?と大塚さんに伺うと、「丹波屋さんとコラボしたカップ&ソーサーのミニチュアを作り始めています」とこっそり教えてくれました。これは、親子ペアでそろえたくなりそうな予感大です。

取材中にも、ガチャガチャに挑戦する人たちがちらほら。何が出てくるかわからない、ワクワクとドキドキがつまった益子焼のガチャガチャは老若男女問わず人気です。皆さんも旅の思い出にひと回ししてみてはどうでしょう?

ただし、1回で済むかどうかはあなた次第ですよ。

<取材協力>
丹波屋栃木銘店
栃木県宇都宮市川向町1-23
宇都宮駅ビル パセオ 2F とちぎグランマルシェ
0286-27-8486

大塚幸内商店 (折越窯)
栃木県芳賀郡益子町益子720
0285-72-2206

文:岩本恵美
写真:岩本恵美、丹波屋 栃木銘店