世にも不思議な郷土玩具「おばけの金太」はなぜ生まれたのか

熊本の郷土玩具「おばけの金太」

「“おどけ”て作ったものが、いつの間にか“おばけ”になってしまったとです」

熊本で代々つづく人形師の10代目 厚賀新八郎さんは、自身がつくる人形「おばけの金太」について、そう笑いながら話します。

おばけの金太
厚賀新八郎さん。自宅兼工房にて

木の板に真っ赤な顔の生首がのっているように見えるビジュアルと、印象的な名前も相まって、全国にある郷土玩具の中でもひときわユニークな存在感を放っている「おばけの金太」。

この不思議な人形は、一体どのようにして生まれたのでしょうか。

おばけの金太
大・中・小の3種類がつくられています

魔除け・金太郎・五穀豊穣 さまざまな願いの詰まった人形

人形師として、節句の人形や、興行用の生人形(いきにんぎょう)などを手がけていた厚賀家。はじめて金太がつくられたのは江戸時代、考案したのは厚賀さんのご先祖である5代目の彦七さんでした。

当初は本業の人形制作のかたわらで「余技(よぎ)」として作られたそう。以来、厚賀家のオリジナルとして今まで繋がれてきています。

首の後ろから出ているひもを引っ張ると、目がぐるりと回転し、真っ赤な舌が出てくるからくりで、初見では怖いと感じる人もいるかもしれませんが、慣れるとだんだんとひょうきんに見えてくる不思議な魅力のある人形です。

おばけの金太
おばけの金太
ベロを出すと比較的ひょうきんに見える
おばけの金太

「みんなを驚かせようと思ってつくったものですが、見た人が、『わー、びっくりした、おばけだ!』と言っていつの間にか『おばけの金太』が通り名になりました」とのことで、元々おばけや妖怪がモチーフになっているわけではありません。

モデルは戦国時代に加藤清正に仕えた足軽の金太だと言われていますが、そこに込められた想いや由来には色々な説が存在します。

厚賀さんは若い頃、実演販売で全国の百貨店などを回る折に大学教授や民俗学者たちからよく声を掛けられたそうです。

「チベット学を教えている教授さんが来て、『チベットでは王族の遺体に朱を塗る風習がある。朱は魔除けの色として使われていて、挨拶の時に舌を出す風習もある』と教えてくれました。

それが日本にも流れてきて、鳥居なんかが朱色だったり、子どもの着物に赤色を使ったり。郷土玩具にも赤いものが多かですよね」

チベットの魔除けとの共通点を指摘する人も。

「牧野玩太郎という郷土玩具研究の第一人者だった方からは開口一番『これは金太郎玩具だよ!めでたいんだよ!』と言われました。

当時は『いや、金太郎じゃなくて金太ばってん‥‥』と思ったとですが、昔は初節句に赤い金太郎を贈る風習もあったし、なるほど、金太郎からきている可能性もあるのかなと思ったり」

日本でもおなじみ、金太郎との関連性まで。

「さらに、能や歌舞伎で舞われる『三番叟(さんばそう)』という演目には、『舌出し三番叟』という種類があって、烏帽子を被って舌を出す様子が金太に非常に似とります。

三番叟は、畑を耕してお米を収穫して、という生きていく上で大切な食べることにまつわる舞で、金太にもそんな想いが込められとるのかもしれません」

おばけの金太

5代目 彦七さんがどんな想いを込めたのか、今となっては想像するしかありませんが、少なくとも子どものための縁起の良いものであることは間違い無いようです。厚賀さんも、子どもに喜んでもらえるようにと、想いを込めて日々制作を続けています。

時代に合わせたものづくりで260年続く人形師

張り子の手法でつくられる金太。特に難しいのが、顔の下地を塗る胡粉(ごふん)の扱いと、ベロを出すからくりの要であるバネの部分です。

烏帽子の中に隠されているバネは竹製で、均一の薄さにけずって、適度にしならせるのは至難の技。バネが固すぎても動かせないし、薄すぎたり不均等だと割れてしまう。

「薄く、“すーっと”削らんといかんのですが、その“すーっと”が、なかなか、大変。刃物を自分で研ぐところから、何年も修行をせなだめです」とのこと。

竹のバネ
竹のバネ
バネのからくり

260年続く厚賀家の人形作り。生人形にはじまり、祭りで使用する纏(まとい)や張り子でできた獅子頭(ししがしら)、歌舞伎の大道具など、時代にあわせてさまざまな形でその技術をふるってきました。

「材料やつくり方は変わらんけど、その時代に求められるものをつくらないかんですよね。こちらから生み出していかんと。

金太は、5代目以降、どの代もほとんどつくってなかったとですが、昭和40年頃からの民芸品ブームで、新婚旅行先に九州が選ばれることも多く、そこでまた需要が増えたとです。

私の時代には、歌舞伎やお祭りの仕事が来んようになってしまって、今は主に金太をつくり続けています」

おばけの金太
過去にはくまモンとのコラボなども

時代の流れの中で、熊本にかつて存在した人形師たちはほとんどいなくなってしまいました。大阪などから人形を仕入れて販売だけに専念する方が楽だと、人形づくりをやめるお店が多かったのだそう。

「6代目のときに、うちの家でもかなり行き詰まって、人形づくりを続けるかどうかという家族会議が開かれました。販売に専念すれば、一時的に儲かるかもしれん。ただ、その波がすぎるときっとなんもかんも無くなってしまう。だから、うちは職人でいくぞ!と決めて、結果、今はうちしか残っとらんですね」

おばけの金太
竹と糸のからくりで、干支ものにも挑戦した
竹と糸のからくりで、干支ものにも挑戦した

自分の一生はここに捧げる。先祖がつないだ一本のパイプ

民芸品ブームの後、需要が落ち込んだこともあり、実は先代は金太づくりをやめようと考えていました。

その考えを聞いた厚賀さんは、家業を継いで自分が金太をつくることを決意。

一旦は別の会社に就職してそちらで頑張ろうとしていた矢先のことだったそうで、当時のことを「その時は正直言って、苦渋の決断だった」と振り返ります。

おばけの金太

「21の時です。会社を辞めてまでこれをやろうと、なんでそぎゃん思ったのか。やっぱり、先祖の想いがあったけんかなと思います」

明治10年に起きた西南の役。当時、激戦地となった熊本城周辺の町は焼け野原になりました。そんな状況の中で、厚賀家の先祖はなぜか金太の顔の型をひとつだけ持って逃げていたそう。その型が残っていたおかげで、オリジナルのおばけの金太を復元することができ、今も当時の形のまま作り続けることができています。

「不思議とですよね。なぜわざわざそれを持ち出したのか。でもその型からいまの金太を復元したときに、先祖の想いを少し汲めたような気がしたですね」

生き死にのかかったさなかに持ち出された金太の型。その裏には先祖のなにか特別な想いがあったのだろうと、厚賀さんは考えています。

おばけの金太

「自分の人生は、先祖がつなげてきたパイプのひとつ。9代つないだパイプのあとに、自分が入ることで、その分だけパイプが伸びる。それが伸びていく限り、この文化はずっと残っていくわけです。

それが一番大事なことだろうと思って、自分の一生はここに捧げよう!と決めてこの道に入りました。

毎日毎日、作る苦しみと産みの喜びを繰り返しながら、10代目としてそれをまっとうしていくだけです」

厚賀さんが、先祖の想いを汲み取り、つないできた一本のパイプ。次に受け取るのは、厚賀さんの息子で、11代目を継ぐ予定の新太郎さん。「おばけの金太」づくりの修行を開始して約6年になります。

「(息子は)子どものころから、ものをつくるのが好きだったですね。私が元気なうちに技術を伝えて、自分のものにしてもらいたい。その先は、金太だけじゃなくても、時代にあわせてものづくりをしてもらえたら」

数年後には、11代目 新太郎さんのつくった「おばけの金太」もお店に並びはじめることでしょう。

76歳になった厚賀さん自身も、まだまだものづくりへの意欲を失っていません。

「大笑いはしなくても、子どもたちにちょっとでも微笑んでもらいたい。少しでも喜び、楽しい気持ちになってもらえたら、本当に嬉しい」

金太のひもを引きながら、しみじみと語る姿が印象的でした。

おばけの金太

取材後、もうすぐ4歳になる筆者の息子に「おばけの金太」をみせて、「あっかんべー!」とやってみたところ、大笑い。どうやらうちの子どもの目には、とてもひょうきんな金太が映っているようです。

<取材協力>
厚賀人形店

文・写真:白石雄太

生き物が躍動するスリップウェア。小島鉄平さんのうつわに宿る「ほんとう」の力

どんな専門分野でも、1万時間かければ一人前になれるという。

この人の場合は、早かった。

2009年から地元・長崎で陶芸教室に通い始め、2011年に長崎陶磁展 審査員特別賞を受賞。

2012年には同展の生活陶磁部門で最優秀賞を獲得。この年、松屋銀座・銀座手仕事直売所に出店し、以降毎年の常連となっている。

小島鉄平さん。

小島鉄平さん

イギリス発祥の「スリップ・ウェア」 (生乾きの素地にスリップ (化粧土) をかけ、上から櫛目や格子などの模様を描く) の技法で作る小島さんのうつわに初めて出会ったのは、取材で訪れていた飛騨高山の「やわい屋」さんだった。

小島鉄平さん_やわい屋
小島鉄平さん

いわゆる「かわいい」で形容しきれない、生き物として躍動するうさぎや鹿の姿にしばらく視線を外せずにいると、後ろから店主の朝倉さんの声がかかった。

「すごいでしょう。明らかに何かに追われて逃げている姿だもんね」

小島さんの作品には生き物のモチーフが多い。

鹿にタコ、うさぎ。

いずれもキャラクターやデザインとして描かれているのではなく、生きる姿を克明に写し取った、どこか古代絵のような雰囲気をたたえている。

小島鉄平さん

なぜ、このような描写になるのだろう?

朝倉さんにタコの平皿と鹿の茶碗を包んでもらいながら、ぜひ取材してみたい、と心に決めた。

長崎の「てつ工房」へ

長崎市内のとあるビルに、小島さんが構える「てつ工房」はある。

小島鉄平さん
看板がわりのにわとりの大皿
看板がわりのにわとりの大皿

ピンポンとチャイムを押すと、どうぞと着物姿で迎えてくれた。

「陶芸家って腰を痛めやすいんやけど。着物は帯をきちんと締めたら腰にいいみたいだよって聞いて、もう半年以上、毎日着とるね」

小島鉄平さん

「そういえば昔の人って着物で作陶しよったから自分もできるんじゃないかって、最近は着物で作業もしてみたら、実際そこまで不便ないんよ。
もとが変人だから、こんな格好してたらますます変人扱いされるやろうけど」

変人、というと不名誉な響きだが、小島さんの経歴は確かに少し、変わっている。

もともと、子どもの頃からものづくりが好きだった。今も、名刺入れや小物入れを革で自作する。

小島鉄平さん

しかしはじめに就職したのは東京のレストラン。激務で職場と家の往復しかない生活に次第に嫌気がさし、長崎に戻る決意をする。

この日も料理場にいた経験を生かしてお手製のご飯をご馳走してくれた
この日も料理場にいた経験を生かしてお手製のご飯をご馳走してくれた

「金は生活できるだけでいいけん、自分がやりたいことをやれる仕事に就こうと思って」

帰ってきてやりたいと思ったのが、素潜りと、陶芸だった。

素潜りは、子どもの頃に父親が教えてくれた。

陶芸は、大学時代に居候先に遊びに来ていた陶芸家の影響が大きい。

「個展帰りに1週間くらい逗留するんです。それでわけが分からないまま、お酒飲みながら芸術論聞かされるわけですよ。

その時に『ものづくりで食えるのは陶芸家だけだ』って言われて。お酒飲んだり釣りしてる姿しか見ていないのに、陶芸家ってすごかとねと思った」

それでも陶芸の道で稼げるようになるには時間がかかるだろう。そう思ってまずは長崎の海で素潜りにいそしんだ。

この時、水中でよく出会ったのがタコだった。

小島鉄平さん

「タコって面白くて、潜っている時に見つけるには、どうすればいいか分かりますか?」

‥‥わからない。

「タコの視線を感じるんです。誰かから見られている感覚があったら、タコがいるということなんよ」

小島鉄平さん

タコは砂や岩の色に合わせて擬態できる能力をもつが、目だけは擬態できない。幼い頃に父親から教わったことだという。

共食いをするタコ、岩棚のなかで卵に一生懸命水を吹きかけ酸素供給する、やせ細ったタコ。色々な姿を見てきた。

海の世界に夢中になるうち、素潜りの腕はメキメキ上がったが、個人で生計を立てるとなると漁業権などクリアしなければならない問題が多く、やむなく素潜りで生きる道を諦めた。

残る道は陶芸しかない。

その消去法的な選択を小島さんは「不純な動機」と語るが、陶芸教室に通う一方、生活のために就いた営業の仕事は早々に向いていないとわかり、陶芸の世界にどんどんのめり込むようになる。

工房の片隅に積み重なっていた釉薬のテストサンプル
工房の片隅に積み重なっていた釉薬のテストサンプル

そののめり込み方が、徹底している。

東京の有名百貨店の店頭に作家として立つほんの少し前までは、昼夜「2部制」の生活を送っていた。

昼の第1部は、サラリーマン。小島さん曰く、「全く売り上げの上がらない営業」だったという。定時で仕事を切り上げると、第2部、陶芸の時間が始まる。

小島鉄平さん
小島鉄平さん

深夜2時ごろまで夢中で手を動かし、翌朝7時には起きて仕事に出かけて行く。昼休みに仮眠をとり、また夕方から土に向かう。そんな生活を繰り返すうちに、テレビも見なくなった。

通う教室とは別にスリップの技法も身につけ、窯の購入、釉薬の研究‥‥あらゆるものを自力で積み上げるうち、作品が評価されるようになる。

はじめはこんなひとしずくから絵が始まる
はじめはこんなひとしずくから絵が始まる
スポイトを滑らすと、すいとタコが現れる
スポイトを滑らすと、すいとタコが現れる

「2部制」生活を続けて2年ほどたったころ、長崎陶磁展で連続しての入賞。これが縁で手仕事直売所出店の声がかかった。

「誘いがあった時、 できれば1週間店頭に立ってほしいと言われて。でもサラリーマンで仕事できない人間が1週間も休めるわけない。これは辞めばいけんと思った。

土日だけ出るという話にしたら、たぶん一生陶芸家になれないだろうなと思って」

こうして小島さんは会社を辞め、陶芸家の道ただ一本を歩んでいくことになる。

代表する生き物シリーズ

現在の小島さんの代表作といえば、躍動する動物たちを描いた生き物シリーズ。

実はタコに限らず、小島さんの半生には折々で動物の「生」との鮮烈な出会いがある。

子どもの頃には、おばあさんが自宅の庭でにわとりやキジなどを飼っていた。

世話を任されていた小島少年はある日小屋のカギを閉め忘れ、鳥たちが脱走して大騒ぎとなった。

「ばあさんに、ごめんちょっと閉め忘れて逃げてしもうたばいって言ったら『よかと』って。

それでばあさんが『小屋に戻れ』って言ったら鳥たち、戻るとやもね。鳥にもそういう感覚があるんだと思って、ちょっと感動したことがあったんやけど」

飼っていた鳥たちは、食用。それでも自分の運命を悟ったように小屋に戻っていく姿は、鮮明に少年の目に焼きついた。

小学校5,6年に上がるころには、うさぎとの思い出がある。

「鉄平、うさぎもらってきたぞって父さんが言うけん、見せてって持ってきたビニール袋の中覗いたら、皮を剥かれたうさぎやった」

大人になってからは、アルバイトで食用に鹿を解体する仕事も経験した。

スリップウェアを覚えてはじめて描いた動物は、鹿だったと言う。

小島鉄平さん
小島鉄平さん

以来、鳥、うさぎ、タコと生き物たちが次々と小島さんの作品に登場し、人気を得るようになる。

この絵は‥‥
小島鉄平さん
親子のにわとりだった
親子のにわとりだった

「生き物のシリーズはなんか知らんけど増えていったよ。意識しとらんのやけど」

自分の体感として掴む、ナマの姿

普段ペットや観賞用としての生き物にしか触れていなかった私にとって、小島さんの話はかなり強烈だった。同時に深く納得した。

想像や理想でない、自分の体感として掴んでいるナマの動物の姿だから、見る人に迫る。

何かに追われているのか、後ろを振り向いているうさぎ
何かに追われているのか、後ろを振り向いているうさぎ

「料理が映える」などの実用を超えた何かがうつわに宿っている。

小島さんが自分で「変人」と笑った着物での生活も、自分の掴んでいるものだけで勝負するという、揺るぎない姿勢の現れなのだとわかってきた。

ほんの一部という着物のコレクションも見せてくれた
ほんの一部という着物のコレクションも見せてくれた

「今、ものづくりってアイディア勝負になってる傾向がある。

でも、おいの見方でいえば『見たことのない新しいもの』って、アートの領域でやればいいと思う。

生活には昔からの歴史の積み重ねがあるわけやから。

そこで使われるうつわは、過去に準拠したうえで新しいものを作り出すようでないと、成り立たないんやないかな」

窯出しの様子
窯出しの様子

「例えばこの前知り合いが、炭が一個しか入らない火鉢を作ったっていうんよ。

たぶん晩酌一杯に、ちょっと肴を炙ったりする用に考えたんやろうけど、その話聞くだけで『こいつ火鉢使ったことないな』と思うわけです。

炭って複数使って、上昇気流を起こして火を起こすものだから。一個だけしか入らなかったら火力は弱くなる。

作るのも使うんも個人の好き好きだけど、本式のこと知ったうえでものづくりをやらないと、お客さんも知らずにいいねって買って、結局使われずに終わってしまう」

一度使って『使いにくいね』で物置に置かれてしまっては、ちょっと悲しい。「だから」と小島さんは続ける。

「だからおいは、自分の生活 トータルでものづくりをやっていこうと思ってる。

もともと日本人ってどういう生活をしとったのかな、と思ったら着物を着てみないとわからんしね。

着物を着だしたら今度は、着物にあうように、持ち物や家具が変わっていくんよ」

小島鉄平さん
小島鉄平さん

今、小島さんは生き物シリーズとは違う新しい作品づくりに挑もうとしている。

小島鉄平さん

着物生活で掴んだどんな「ほんとう」が顔を出すか、楽しみだ。

<取材協力>
小島鉄平さん

*2019年9月10日(火)-9月16日(祝・月)、今年も銀座・手仕事直売所に出展されます。

2019/09/12 (木) には「スリップウェア 豆皿作り」のワークショップもあり。お見逃しなく!


文・写真:尾島可奈子

「TSBBQ ホットサンドメーカー」年間1万個を売り上げる大ヒット商品はいかにして生まれたか?

漁具の金物卸商からのスタート

三条市の山谷産業は、大ヒット商品を持っている。2013年、カラフルなキャンプ用テントのペグ(杭)を企画・製造して自社のオンラインショップで販売。1本300円からするペグが文字通り飛ぶように売れて、一般販売だけで累計で180万本を出荷した。

山谷産業のペグ エリッゼステーク・エリッゼステークアルティメット

その歴史を振り返って見れば、1979年創業の同社は、もともと漁具の金物卸商だった。

初代社長は全国を渡り歩いて漁港の組合員さんに漁具を売り歩いていたが、ある時、妻が重い病気にかかってしまい、長期の出張に行けなくなってしまった。そこで、初代が「なんとかしなくては」と始めたのがオンラインショップだ。

しかも漁師の数が減り、卸売事業は売り上げが落ちていた。そこで初代がオンライン部門へのシフトチェンジを図り、2002年に自社オンラインショップ「村の鍛冶屋」を立ち上げ。とはいえノウハウはなく、最初は「ヤフーオークション」に出品するところから始まった。

その後、ヤフーショッピング、楽天市場、アマゾンと順次出店していくなかで、売り上げがどんどん伸びていった。

そこで人手が足りなくなり、「戻ってきて、手伝ってほしい」と呼び戻されたのが、東京で別の仕事に就いていた長男の山谷武範さん。

山谷産業 代表取締役社長 山谷武範さん
山谷産業 代表取締役社長 山谷武範さん

「村の鍛冶屋では、燕三条でつくられた製品を、伝統的な工芸品や鍛冶職人の刃物などを中心に仕入れて売るようになりました」

ヤフー、楽天、アマゾンと自社サイトで売り上げは伸び続け、それに伴って掲載する品数もどんどん増えていった。今では2万超の商品を取り扱っている。

山谷産業の製品

ヒット商品を出した後の危機感

2012年に跡を継いだ山谷さんは、先述したように翌年、同社初のプライベートブランドとしてペグを投入した。しかし、「満を持して」とか「悲願の」というわけではなかった。

「弟の専務が商品開発を行なっているんですが、たまたまアウトドア好きで、プライベートで使っていた他社製品の使い勝手が良くないということで作ってみたんです。ペグって黒いものが多いんですが、なくなりやすいのでわかりやすいように色を付けました」

山谷産業のペグ

これが、プレスリリースどころか広告も出していないにもかかわらず、3カ月で1万本を売るヒット商品になって、山谷さんは驚いたという。

ペグは消耗品なので、一度、色付きを買った人はまた同じものを買いにくる。気づけば同社の主力商品になり、「山谷産業」と検索すればペグがトップに出てくるほどだった。ペグを求めてサイトを訪れる人が大半なので、アウトドア用品の販売も始め、ペグを打つペグハンマーなども開発した。

2013年、山谷産業の売り上げは3億円程度だったが、2015年には4.6億円と右肩上がり。しかし、山谷さんは危機感を抱いていた。

山谷産業 代表取締役社長 山谷武範さん

「もともとアウトドアメーカーでもないのに、たまたまペグが売れたからアウトドアの商品を作っているという状態で、当時は特に戦略がなかったんです。でも、一般的なメーカーさんは作った商品をいろいろなお店に卸すのに、私たちはどこにどうやって卸すのかも知らなかった。

確かにネットに載せているだけで売れていくのですが、メーカーとしてひと通りの流れを知っておかないと、今後どこかで痛い目をみるだろうと思っていました」

「これからどうしようか」と思っていたところに、三条市から「コト・ミチ人材育成スクール 第1期」開校の知らせが届き、すぐに受講を決めた。

これまでなんとなく進めていた商品開発やブランディング、商品の販売に至るまで一気通貫で学べること、地元のデザイナーやアートディレクターと知り合うきっかけになるということが背中を押した。

敏腕デザイナーとの出会い

講義は全6回。1回目「会社を診断する」、2回目「ブランドを作る(1)」、3回目「ブランドを作る(2)」、4回目「商品を作る」、5回目「コミュニケーションを考える」、6回目「成果発表会」と続く。

実際に地元企業の参加者とクリエイティブディレクター、デザイナーがタッグを組んで新商品、新サービスを開発し、最終日にプレゼンするという流れだ。毎回、宿題もたくさん出るが、山谷さんにとって、半年間の授業は思いのほか楽しかったという。

「自社の弱点や特徴を書きだしたうえで、それをどうしていくかという授業だったので、自分の会社や事業に当てはめて考えられてすごく面白かったですね。

今まで自分の中でモヤモヤしていたことが言葉になって具現化されていって、こういうことをやればいいのか、などなるほどと思うことが多くて」

山谷さんが考えた強みは「この地域(燕三条)に会社があること」。ものづくりに特化した地域だから、作りたいものがあればだいたい作ることができる。弱みは「ネット以外の販売手段がないこと」。そこを出発点に授業のなかで新商品を考案していった。

強力なサポート役となったのが、同じく講座を受講していた「フレーム」のアートディレクター、石川竜太さんだ。三条市出身で、新潟に拠点を置きながらキリンビバレッジ「生茶」、ロッテ「紗々」など大手企業のデザインワークも手掛けており、受賞歴も多い。

「講座のなかでふたり組になってプレゼンをする機会があったのですが、たまたま石川さんから声をかけてくださって。2回打ち合わせをして、『最初のブランドコンセプトを作るまで』を完成させました。

それまで、デザイナーと言えばチラシを頼むぐらいだったんですが、石川さんと話をすると、いろいろ腑に落ちるんですよ。力がある人と一緒に組むとこんなに楽なんだなと思いましたね」

お客さんのDMから生まれた商品

コトミチの授業、石川さんとの出会いを経て山谷さんが新たに立ち上げたのが新ブランド「TSBBQ」。2つの意味合いがあり、『Tsubame Sanjo BBQ』の頭文字と、かっこよくBBQやろう!という意味の『Try Stylish BBQ』からとったものだ。

TSBBQのロゴ

2017年5月には、最初の商品として、塊肉を刺してくるくる回しながら焼いてローストビーフをつくるローストスタンドをリリースした。シュラスコ、バウムクーヘンも焼けるとはいえ、実際に所有している人はレアなローストスタンドは、なぜ生まれたのだろうか?

「たまたま、村の鍛冶屋のお客さんからTwitterで『肉をぐるぐる回して焼くものが欲しいけど、日本で買うには高いから村の鍛冶屋さんで安く作ってもらえませんか?』とDMが送られてきたんです(笑)。それは面白いと思って石川さんに話したら、2時間ぐらいでブランドロゴを作ってくれました」

TSBBQ ローストスタンド

さらに、山谷さんはコトミチの1期生のプロダクトデザイナー、高橋悠さんに「こういう商品を作りたいので、デザインを考えてもらえないですか?」と相談。高橋さんの快諾を得て、商品作りがスタートした。

山谷さんの役割は、高橋さんがデザインしたプロダクトをどう具現化するか。そこは、村の鍛冶屋で培った地元企業とのつながりを活かし、最終的に地元企業4社の協力を経てローストスタンドは完成した。

販売開始にあたっては、石川さんがホームページやプレスリリースもデザイン。プレスリリースを出すことで、雑誌、新聞、テレビなどから注目を集めた。これは、山谷さんにとって驚くべきことだった。

「ペグのようにヒット商品としてメディアに載ることはありました。でも、この時は商品を出したばかりで売れる前のタイミングです。それでも面白いことを考えて発表すればメディアに取り上げてもらえるんだと知りました。露出が増えたことで、ほかの商品の売り上げも伸びましたね」

山谷産業 代表取締役社長 山谷武範さん

ペグに次ぐヒット商品の誕生

この勢いに乗って、半年後の12月には「TSBBQ」シリーズの第2弾をリリース。「ドリッパースタンド」、「ホーローマグ」、「ホットサンドメーカー」の3商品を投入した。

すると、リリース直後からホットサンドメーカーがさまざまなメディアに掲載され、どんどん売れ始めた。その勢いはすさまじく、1年間で1万1千個を超えた。ペグに次ぐ大ヒット商品の誕生だ。

2017年10月期のオンラインショップ売上高は5億8000万円で過去最高を記録したが、18年10月期は7億円弱に達した。人気が衰えないペグに次いで、ホットサンドメーカーも売り上げ増に大きく貢献した。

TSBBQ ホットサンドメーカー

ホットサンドメーカーは他社製品もあるが、「TSBBQ」の商品の特徴は焼き上がるとパンの表面に「TSBBQ」の燕のロゴと「Try Stylish BBQ」という焦げ目がつくところ。

ユーザーがこれをSNSにアップするたびに、ブランドロゴとメッセージが広まる。その宣伝効果は計り知れない。これも、アートディレクターを務めた石川さんの手腕だろう。

山谷さんは同時進行で、2017年10月、「燕三条 工場の祭典」開催に合わせて実店舗「村の鍛冶屋SHOP」をオープンさせた。

村の鍛冶屋SHOP 店内

これは「燕三条 工場の祭典」を監修しているmethodの山田遊さんに商品セレクトや店舗デザインの全体監修を依頼。ブランドの世界観を伝え、お客さんと直接コミュニケーションできる場を作ることで、山谷さんが弱みとして挙げていた「ネット以外の販売手段がないこと」からも脱却した。

山谷さんはコトミチで得た縁と知識をフル活用している。

2018年8月には、コトミチを受講していたプリンス工業の神子島未紗子さん、2期生でアートディレクターの「NISHIMURA DESIGN」の西村隆行さん、同じく1期生のライター丸山智子さんと組み、コトミチの手法を使って、60年前からある商品「Z缶切り」のリブランディングも始めた。

Z缶切り

形状はそのままに、従来2色だったZ缶切りを5色(赤・桜・黄・青・白)に広げたもので、これは「第29回 ニイガタIDSデザインコンペティション」で、大賞、準大賞に次ぐIDS賞を受賞している。

山谷産業

山谷さんは最初、コトミチの15万円という受講料を見た時に「高い」と感じたそうだが、今はこう言っている。

「コトミチでの出会いは本当に大きかったですね。15万円は本当に安いと思います」

山谷産業 代表取締役社長 山谷武範さん

<取材協力>
株式会社 山谷産業
代表取締役社長 山谷武範さん

山谷産業HP http://www.yamac.co.jp/
村の鍛冶屋 http://www.muranokajiya.jp/

TSBBQ ホーローマグ

文:川内イオ
写真:菅井俊之

*こちらは、2019年3月11日公開の記事を再編集して掲載しました。ビジネスの視点から見る、大ヒット商品の裏側にある偶然と戦略はとても興味深いです!

旅館の女将はどんな仕事?1日体験したら、旅館がもっと好きになりました

こんにちは。東海エリアの魅力を発信している広瀬企画のライター・齊藤です。普段は名古屋に暮らしています。

日本の旅の楽しみといえば‥‥温かい温泉。心と体を癒やし、日常を忘れさせてくれる、あの幸福感は何にも代えがたいものがあります。

そんな温泉旅館を象徴する存在が“女将”。旅館の顔として華やかなイメージがありますが、実際のところ、女将ってどんな仕事をしているのでしょう?考えてみると、意外と知らないものです。

ちょっとミステリアスな女将の仕事に迫るため、今回特別に“1日女将体験”をさせてもらうことに‥‥楽しみです!

開湯1300年、歴史的な節目を迎える湯の山温泉

訪れたのは、三重県・菰野町。718年(養老2年)に発見されたと伝えられ、今年で開湯1300年を迎えるという湯の山温泉です。

御在所岳の麓に位置し、名古屋から車で約1時間とは思えないほどの豊かな自然が待ち受けています。特に紅葉シーズンには、多くの観光客でにぎわいます。

山々に囲まれた、湯の山温泉「鹿の湯ホテル」
山々に囲まれた、湯の山温泉「鹿の湯ホテル」

「ようこそ、お待ちしておりました」

「鹿の湯ホテル」女将の伊藤寿美子さん

凛とした着物姿で出迎えてくれたのは、1日女将体験をさせてくれる「鹿の湯ホテル」女将の伊藤寿美子さん。早速、中へと案内してくれました。

鹿の置物と、右にあるのは菰野町名産の植物・真菰(まこも)
鹿の置物と、右にあるのは菰野町名産の植物・真菰(まこも)

まず目に入ってくるのは、旅館の名前にもなっている“鹿”の置物。「鹿の湯」というのは湯の山温泉の別名でもあり、かつて、傷ついた鹿がこの温泉で傷を癒したという伝説からその名がつきました。

温泉だけではなく、客室から眺める四季折々に色を変える山並みや、伊勢湾の眺望も魅力。地元食材を使った、料理長自慢の会席も楽しみの1つです。

ロビーに到着すると気になるのが、ずらりと並んだボトルの数々。他の旅館ではあまり見かけない光景です。

「鹿の湯温泉」女将お手製の果実酢と果実酒のボトル
「鹿の湯温泉」女将お手製の果実酢と果実酒のボトル

実は、このボトル全て、女将お手製の果実酢と果実酒。地元産のものや旬のもの、漬けている果実は約30種。宿泊する方の夕食時に提供しています。

「元々、私自身がお酢もお酒も好きなんです。それをサービスにできたら、お客様にも喜んでいただけるのではと思って始めました。

後ほど、果実酢・果実酒づくりも体験してみてくださいね」と伊藤さん。

表に立つだけが女将の仕事ではない

「鹿の湯ホテル」女将の伊藤寿美子さん

「きっと、私はみなさんが描いている“女将像”ではないと思うんです」

そう話す伊藤さんの女将としてのお仕事は、事務処理などのデスクワーク、予約や電話応対、果実酢・果実酒づくり、お客様のご案内や料理の配膳など。前に出るのではなく、旅館全体を後ろからサポートするような仕事です。

さらに、伊藤さんは12年前からは旅館を横断した女将の集まりである「湯の山温泉女将の会きらら」にも参加。今では会長を務めています。

鹿の湯ホテルの中だけにとどまらず、湯の山温泉全体をサポートしているんですね。

「湯の山温泉は、これだけ自然に囲まれているのに名古屋からも関西からも気軽に来て頂けるアクセスの良さがやっぱり魅力。立地が良いからか、若いスタッフも多いんです」

今年6月には、旅館街や御在所ロープウエイで働く若手女性による、おもてなし隊「湯の山温泉 結びの会 いずみ」が発足。さらなる活気を見せています。「湯の山の未来も明るいですね」と微笑む伊藤さん。

そんなお話を聞きながら、いよいよ女将体験がスタート。

まずは形からです。女将のユニフォーム、着物に着替えます!

「鹿の湯ホテル」女将の伊藤寿美子さんに着付けをしてもらう

伊藤さんの素早い手さばきで、あっという間に着付け完了。

普段は、夏になると浴衣を着るくらいで、なかなか着物を着る機会はないのですが、着物を着ると自然と背筋が伸びる気がします。

しっかり帯を締めてはいても意外と苦しくないので、これなら動き回っても大丈夫そうです。

お客様との会話をつくる、自家製の果実酢・果実酒

姿勢を正したところで早速、果実酢づくりから体験。嬉しいことにはじめに試飲をさせてもらいました。

「今なら、いちご酢が飲み頃でおいしいですよ」

とおすすめされ、私もいちご酢のソーダ割りを試飲。

試飲させてもらったいちご酢のソーダ割

酢の香りが鼻をくすぐり、いちごの甘酸っぱさで爽やかな飲み口。

他に、なかなか珍しいマタタビ酢、よもぎ酢、ブルーベリー酢も試飲させてもらいました。マタタビは、地元の方からいただいたそう。

マタタビというと味の想像がつきませんが‥‥
飲んでみると少し独特の渋味はありつつも、酢の酸味とマッチして意外なおいしさです。

さて、いよいよ自分で果実酒づくりに挑戦です。私が作ったのはオレンジ酢。

果実酒づくりに挑戦

ボトルに果実と氷砂糖を入れて‥‥

果実酒づくりに挑戦

たっぷりと酢を注いだら、フタを閉めて。こうして作った果実酢が、ロビーに並べられます。お客様が試飲することもでき、女将やスタッフと、お客様との交流につながっているのだとか。

鹿の湯ホテル名物、折り紙の箸置きづくりに挑戦!

果実酒・果実酢づくりと同様に、裏方での大切なお仕事が箸置きづくり。

お客様の夕食時に使われる可愛らしい鶴の箸置きは、なんと女将をはじめ、スタッフ総出で全て手づくりしているそうです!

折り鶴の箸置き
折り鶴のアレンジで、背中にお箸を置けるようになっています

私も早速、伊藤さんに教わりながら箸置きづくりに挑戦します。

折り鶴の箸置きづくり風景

できあがったのがこちら。

折り鶴の箸置き
伊藤さんが作ったものが左、私が作ったものが右です

見た目ほど難しくなく、初めてでも綺麗に折れました。ただ、伊藤さんのスピードにはまだまだ追い付けなさそう。

折り鶴の箸置き製作風景

「鶴の箸置きだけではなく、こんなのもあるんですよ」

と、続いて伊藤さんが折りはじめたのは鹿の置物。奈良から訪れたお客様が教えてくれたのだとか。

こちらは折り紙を2枚使うため、少し難易度が上がります。

折り紙でつくった鹿の置物
私が作ったのは左の鹿です

好みの鹿になるよう、角を再現する切れ込みを入れて完成。

これが細かい作業で、なんとか伊藤さんの鹿と並べても違和感なく完成できましたが、ちょっと角を切り過ぎてしまいました。もう1度作るとなると再現できる気がしません‥‥

スタッフのみなさんは、折り方を暗記してどんどんスピードアップしていくのだそうです。

箸置きに込められた、鹿の湯ホテル流のおもてなし

折り紙を続けながら、伊藤さんがこの箸置きづくりを始めた想いを教えてくれました。

「うちはいわゆるラグジュアリーな高級旅館、というわけではありません。例えばこの箸置きを全て有名作家さんの一点ものにする、といったサービスは難しいかもしれない。

私たちができる鹿の湯ホテルらしいおもてなしは何だろう、と考えたとき、手づくりの箸置きはどんなに忙しくても続けようと決めたんです」

この夏は連日満室が続いて、1日約100人が宿泊。つまり毎日100個の箸置きを作らなければなりません。

それでもスタッフみんなで協力して、お客様全員分の箸置きを作り続けたそうです。

食事の際に「手づくりなんですね」と気づいてくださるお客様も多く、旅の記念にと、持って帰られる方もいるのだとか。

箸置き1つとっても、旅館の思いが詰まっているものなのですね。

交流の生まれる宿を目指して

実は一般のお客様も、鶴の箸置き・鹿の置物づくりをロビーで体験することができます。

夕食のあと、ロビーでデザートバイキングがあるので、そのタイミングで挑戦するお客様が多いそう。

お客様用の折り紙作り方見本
お客様用の作り方見本

他にも、ロビーではイベントやコンサートを日々開催。今年の夏は、なんとロビーでスイカ割りをしたそう。スタッフも参加して企画を練り、2017年の年始からは毎日イベントを続けているといいます。

「『来たらイベントがあったから参加した』ではなく、『楽しそうなイベントがあるからこの旅館に決めた』となるくらい、鹿の湯ホテルにしかない魅力としてお客様に届けていきたいです」とのこと。

「旅館にも、色々なスタイルがあると思うんです。

鹿の湯ホテルは、お部屋にこもって過ごす宿というより、共有のスペースに出て交流が生まれる宿。

女将やスタッフと会話したり、お客様同士で交流したり。そんな、鹿の湯ホテルならではのスタイルが作れたらいいなと思っています」

旅館が100軒あったら、100通りの「正解」がある

チェックインされたお客様へのウエルカムサービス

最後に体験させていただいたのは、チェックインされたお客様へのウエルカムサービス。到着されたばかりのお客様に一息ついていただくため、ロビーでお茶をお出しします。

菰野町産の茶葉を使用したほうじ茶に、一口サイズの温泉まんじゅう

菰野町産の茶葉を使用したほうじ茶に、一口サイズの温泉まんじゅう。鹿の焼印にもまた、鹿の湯ホテルらしさを感じました。

伊藤さんが「鹿の湯ホテル」の女将になって、今年でちょうど20年。はじめは不安も大きかったと言います。

「でも、主人に『心配しなくても、自分の好きなやり方で女将をやればいい』と言われて。

女将の仕事って、旅館が100軒あれば100通りのやり方があると思うんです。どれか1つが正しいわけでもない。

だから、私は私のやり方で鹿の湯ホテルらしいおもてなしを続けようと、今は思っています」

老若男女、さまざまな人がくつろぎを求めてやってくる温泉。旅館の数だけいる女将とスタッフが旅館を守り、今日も人々を癒やします。

そして、その裏には旅館の数だけストーリーがあるのでした。

体験を終えて、女将と撮影した記念の1枚
体験を終えて、記念の1枚

文:齊藤美幸
写真:西澤智子

*こちらは、2018年10月6日公開の記事を再編集して掲載しました。女将のおもてなしは、日本独特の風景。旅館を訪れる際は、女将の心遣いに思いを馳せてみてくださいね。

三ツ星シェフを虜にする「自分で作る柚子胡椒」。ヒットは一人の女性の「葛藤」から生まれた

有名シェフや料理人、パティシエらが絶賛する調味料が大分にあります。

大分県宇佐市にある食と向き合える場、生活工房とうがらしの神谷禎恵(かみや・よしえ)さんがプロデュースする柚子胡椒です。

毎年9月にわずか1ヶ月間だけ販売される「ゆずごしょうキット」は、おいしい柚子胡椒が自分で作れると大人気。柚子胡椒作りに最適な旬のゆずと青唐辛子、塩がセットになって届きます。

ゆずごしょうキット商品写真

「ゆずごしょうキット」の紹介記事はこちら:9月は梅仕事ならぬ「ゆず仕事」を。おいしい柚子胡椒を自分で作るキットに出会いました

このキットに欠かせないゆずは、宇佐市院内町余谷 (あまりだに) で佐藤敏昭さん、了子さんご夫妻が無農薬でつくっている「ハンザキ柚子」。舌の肥えた料理のプロたちが「皮がおいしい」と口を揃えて絶賛するゆずです。

ゆずごしょうキット

一度、神谷さんの柚子胡椒を味わうと、そのほとんどの人たちがリピーターとなり、毎年9月を迎えるのを楽しみにしているとのこと。

さらに、この時期、神谷さんはキットの準備をするだけでなく、「ゆずごしょう講座」を各地で開催。産地で受け継がれる本来の柚子胡椒の作り方をしっかりと伝えることで、柚子胡椒のことをより深く知ってもらおうと、日本中を飛び回っています。

神谷禎恵さん

「毎年10月になるたびに『来年はもうやらない』と思ってきたけど、気がつけば10年も経っていたんですよね」と笑う神谷さん。

実は、このキットを手がけるまで、食品の開発などは全くしたことがなかったそう。一体何が、神谷さんを突き動かし、10年のロングセラーとなる「ゆずごしょうキット」を生んだのでしょうか。

ゆずに恋して10年

キットが生まれる院内町はもともと西日本を代表するゆずの産地でしたが、高齢化に伴い、生産者が減りつつありました。

そんな中、2008年に大分県庁から「産地を元気にしてほしい」との依頼があり、生活工房とうがらしで「ゆずプロジェクト」というものを立ち上げた神谷さん。

生まれも育ちも宇佐市ですが、実はこの取り組みを始めるまで、ゆずの産地が同じ市内にあるとは全く知らなかったのだそうです。

「視察に訪れた院内町で初めてゆずの白い花を見たときのことは忘れられません。

町中がゆずの花であふれていたんです。それだけで、なんだかゆずの香りがそこかしこに広がっているように感じました。思えばそれが、私が『ゆずに恋した』瞬間ですね」

ゆずの花
ゆずの花

「ゆずは私」だった

「ゆずを見た瞬間、なぜか『あれは私』とも思いました。

ゆずは熟す前の青い実も使えれば、熟した黄色い実も使えるし、種は化粧水にもなる。さらにその頃、築120年ほどの実家の床柱もゆずの木だとわかりました。樹齢を考えると、200年くらい前からこの土地にはゆずの木があったことになります。

こんなに活用方法がいっぱいあるのに、私を含め地元の人ですらゆずのことを知りませんでした」

そんな「ここにずっとあるのに、まるで存在していないような」ゆずの姿に、神谷さんは自分を重ねたと言います。

「もともと私には、伝承料理研究家の母と父から受け継いだ『生活工房とうがらし』という食と向き合う場がありましたが、料理は得意ではないし、食を仕事にしているわけではありませんでした。

本業は主婦。家事や育児に精一杯向き合いながら、一方で大学院に通ったりして、自分のやりたいことを模索していたんです。

それでも「これだ!」という答えがはっきり出たわけではなく、自分自身に『器用貧乏でくすぶっている』というレッテルを貼っていました」

そんな時に出会った、院内のゆず。

「ゆずは、私だ」

神谷さんには、ゆずの「器用貧乏」な現状と、自分が悩んでいる生き方が重なって見えました。そして次第に、こんな気持ちが湧いてきたそうです。

「ゆずが元気になること=私が元気になること。

ゆずの魅力を、この土地や食文化の背景と一緒にきちんと世の中に伝えていけたら、それは私自身が世の中に存在していくことにもつながるのかもしれない」

おいしい柚子胡椒の先にあるもの

こうして神谷さんの希望を乗せて始まった「ゆずプロジェクト」。特別な予算があるわけでもなく、その中で何ができるかを模索して神谷さんがたどり着いたのが、大分県発祥の調味料、柚子胡椒でした。

「地元の人たちがふだんから手作りしている柚子胡椒を知ってもらいたいと、『ゆずごしょうキット』を作ることにしました。

完成品でなく、手作りするキットで販売することで、ゆずの香りが漂う産地のことや食材をていねいに作ってくれる生産者の方たち、昔から続く地元の食文化にまで思いを馳せてもらいたい。そういった産地の空気をも含んだおいしさを届けたかったんです」

ところが、いざ「ゆずごしょうキット」を出してみると、「いつも目にするチューブ入りや瓶入りの商品とは色や見た目が違う」というクレームの嵐。

手作りの柚子胡椒を知らない消費者との認識の違いを痛感したといいます。

そこで、作り方も含めて大分の柚子胡椒を伝えていくことが大事だと、2012年ごろから「ゆずごしょう講座」を開催することに。

「やってみると、手作りの柚子胡椒の香りや色、味に、皆さんが感動してくれるようになりました。

昔の人たちがやってきたこと、長らく続いていることには意味があって、学ぶこともたくさんあるんですよね。

たとえば、柚子胡椒の塩分が昔から20%が目安なのには意味があるんです。保存が効くし、乾燥による色落ちもしにくい。

ゆずと唐辛子を擦り合わせるのもフードプロセッサーでもいいけど、すり鉢で擦ることに意義があると思っています。もちろん、味もおいしくなりますが、そうやって作ってきたという、成り立ちをきちんと伝えたいんです」

こうして、気づけば10年。「ゆずごしょうキット」の販売や講座を続けてきた神谷さんですが、当初はこんなことになるとは考えていなかったそう。

「たかが調味料が、人と人をつなぎ、産地と料理人をつなぐ。その流れは今や大きなものになっていて、柚子胡椒作りが広く年中行事となってきたことはとてもうれしいです。

でも、私自身はゴールってイメージしたことがないんです。どちらかというと、私は成りゆきで生きているところがありますね。

日々を大切に生きて、目の前のことをしっかりとやれば自ずと道は開けてくるんだと思っています」

これが私の「ゆずごしょう道」

有名三つ星シェフや著名な料理人たちが、神谷さんの柚子胡椒に惹かれるのは「おいしい」以外にも理由がありそうです。

ある時、雑誌の取材で「柚子胡椒を学びたい」と、海外から著名な一人のシェフが神谷さんのもとを訪ねてきました。当時、財布や車など神谷さんの身のまわりのものはグリーン一色で、まさに「ゆずのことで頭がいっぱい」と言わんばかり。

そんな風に神谷さんがゆずに熱狂し、全身全霊を賭けて働く姿を見て、シェフがこう言ったそうです。

「あなたは『マダム ゆず』だね」

神谷禎恵さん

「『ゆずごしょうキット』や講座も、やっている本人が熱量をもって数を重ねていかなければ、きっとすぐに廃れてしまいます」

だからキットに入れる素材選びや、ベストな状態で届けるための下準備には手を抜かない。講座では、できたての柚子胡椒をおいしく食べる方法をたっぷり教えてくれるそう。

「みなさん、そんな私の覚悟に共鳴してくれているんだと思いますね。

大切なことって、すごく小さなことだと思うんです。小さくてもていねいに積み上げたものって、ちゃんと伝わります」

神谷さんの柚子胡椒作りには、毎回新しくアップデートされた「刺激」や「発見」がある。キットや講座にリピーターの方が多いのは、そんな理由があるのかもしれません。

「最初は柚子胡椒の作り方が知りたいと集まってくる人たちも、そこから興味を持つことは、おいしさの追求や大分そのもの、食文化などなど、人それぞれ。

みんな各々の『ゆずごしょう道』を極めていけばいいんだと思います」

もうすぐ9月。神谷さんの季節が始まります。

<関連商品>
「ゆずごしょうキット」

文:岩本恵美
写真:尾島可奈子

日本有数の“社長の町”、新潟三条「本寺小路」ではしご酒

こんにちは、ライターの丸山智子です。

金属加工の産地である新潟県三条市は工場が数多く軒を連ね、必然的に社長さんも多い地域。そうすると、外せないのが打ち合わせや接待などに使われる飲食店です。

「本寺小路 ( ほんじこうじ ) 」と呼ばれる三条の繁華街は、人口当たりの飲み屋さんの軒数が全国有数で、「社長!」と呼ぶと近くにいるみんなが振り返るとも言われてきたエリア。

きっと企業同士の交流を深めたり商談をしたり、また時には息抜きに利用されることで、お店も増えてきたのでしょう。

今日ははしご酒をしながら、そんな三条の美味しい文化を楽しんでみたいと思います。

サバ缶を丸ごとひとつ!全国区でブレイクした「サバサラ」

まず一軒目は、インパクト大なサラダをいただきに、「キネマ・カンテツ座」へ。

※現在はリニューアルして、店名「酒場カンテツ」となっています。

インディーズのショートムービーを上演している飲み屋さんという、ちょっと珍しいお店のスタイルにワクワクしながら扉を開けると、広がるおしゃれなカフェバーの佇まい。

上映する作品は、店主の関本さん自らセレクト

ここに来たら頼まずにはいられないのが、蓋を開けたサバの缶詰ごとお皿に乗せて、粗みじん切りにした玉ねぎをトッピングした大胆なサラダ「サバサラ」です。

缶詰のアレンジにびっくりしていたら、お皿は三条の隣、燕市の伝統工芸品・鎚起銅器 (ついきどうき) であることに気づいて2度びっくり。

「スーパーであらゆるサバの缶詰を集めて、試食して選んだのがマルハニチロのサバ缶。しかもマルハニチロの前身の会社・マルハの創業者は三条の人なんですよ」( 名物店主の関本秀次郎さん )

もう一つの看板商品である「カンテツコロッケ」は、シメジが入ったお米のコロッケ。一口食べるとホワイトソースとお米の甘い風味が口いっぱいに広がって、シメジの食感がいいアクセントに。揚げたて熱々をホクホクしながらいただきました。

新潟県の海の幸・畑の幸をぞんぶんに

さて、もうちょっとしっかり食べたくなったので、「漁師DINING 日本海ばんや」を訪れることにしましょう。

漁師小屋を模した外観。今日のお勧めが書かれたボードに、期待が高まります

こちらはまさに“産地”にこだわったお料理をいただける居酒屋です。

まず出てきたのが、注文してから茹で上げる、三条の農家さんが育てた枝豆。
そして新潟県といえば日本海の海の幸、ということで、同店では佐渡や寺泊から届けられた新鮮な魚をお刺身でいただけます。

看板メニューの生牡蠣も、プリプリしていて、あっという間に食べ終わってしまうのが惜しいほどの美味しさでした。

この日の刺し身5種盛りは、佐渡の南蛮エビ、地物のコチなど

新潟のお酒といえば日本酒、ということで合わせたお酒は三条市唯一の酒蔵・福顔酒造の「五十嵐川」。さらりと飲めて、料理を引き立ててくれるので、さらにお箸がすすむ一杯です。

そして何よりも嬉しかったのが、スタッフのフレンドリーな空気。店長である関本康弘さんを筆頭に、お客さんもスタッフも一緒に楽しめる空間作りが感じられます。

美味しいお料理に厨房から店内に広がる魚を焼く匂い、あちこちから上がる笑い声に、なんとも幸せな時間を噛みしめることができました。

三条のディープな情報とクラフトビールの組み合わせ

最後にもう一軒、締めは三条市で唯一クラフトビールを樽で提供している「Beerhouse3」にお邪魔してみることにします。

こちらの店主・池野泰文さんは実は元三条市の職員で、三条の歴史や金物産業に精通している人物。2013年からスタートした、三条市と燕市の工場や農家を解放して、ものづくりを体験できるビッグイベント「燕三条 工場の祭典」や、食文化や生活技術など地域に根ざした新旧の知恵を再編集し、絶品のスパイス料理を提供する「スパイス研究所」の立ち上げにも関わっていたそうで、お酒と一緒に三条のディープな話もどんどん進みます。

鮮度を保つためにキンキンに冷やしていますが、飲む際は美味しく味わえる温度に調節してくれます

この日いただいたのは「IPA」というホップをたっぷりと使ったクラフトビール。

実は私、ビールの苦みがあまり得意ではないのですが、このビールは本当に香りが芳醇で、美味しくいただけました。もともと池野さんもクラフトビールに出会うまではビールが苦手だったというから驚きです。

5種類のスパイスを使ったチキンピックルやスモークチーズも自家製

「本当に本寺小路は社長が多いのですか?」と確かめてみると、「5割以上のお客さんが社長ですよ」とのこと。ちなみにこの日は、家業が包丁屋さんという次期社長が飲みにいらしてました。

外に出ると、あちこちで代行のタクシーやはしご酒をする人とすれ違い、いつの間にか辺りは真っ暗に。なんとも美味しく楽しい街・三条。この街の楽しみ方がまた一つ増えました。

ここでいただけます

酒場カンテツ
新潟県三条市本町2-13-3
0256-55-4504
https://www.facebook.com/sakabakantetu

漁師DINING 日本海ばん屋
新潟県三条市居島2-26-3
0256-36-7288
http://www.greatcompany.co.jp/banya.html

Beerhouse3
新潟県三条市居島3-15
0256-64-8312
http://beerhousecubed.hatenablog.com

文・写真:丸山智子

*こちらは、2017年8月16日公開の記事を再編集して掲載しました。ものづくりの町として盛り上がりを見せる燕三条。訪れたらぜひご当地でしか味わえないお店で一杯!