世界で愛される越前発のものづくり〜和紙の可能性を広げ、伝える「和紙ソムリエ」〜

こんにちは。ライターの石原藍です。

福井県越前市は越前和紙、越前打刃物、越前箪笥などさまざまなものづくりが集積している国内でも珍しい地域です。今回は2回にわけて、海外から注目を集めている越前発のものづくりに注目。後編は世界のアーティストからも全幅の信頼を寄せられている、「和紙ソムリエ」をご紹介します。

140年以上の歴史を持つ紙問屋

越前和紙の産地である越前市の今立エリア。先日、そのまち歩きの楽しさをご紹介しましたが、歩いていると和紙業者が軒を連ねるなかで、大きな蔵のある重厚な日本家屋がひときわ目を引きます。今回お邪魔する「杉原商店」です。

少し緊張しながら戸を開けると、出て来てくださったのは、和紙ソムリエとして日々国内外を飛び回っている杉原吉直さん。

 

同じ敷地内にある大正時代に建てられたご自宅に案内していただき、どうぞと促された客間には墨と筆が用意されていました。はじめて杉原商店を訪れた人には記念に名前を書いてもらっているのだとか。

普段、筆で書く機会は滅多にないので、かなり緊張しました

杉原商店は明治4(1871)年から続く紙の問屋さん。それ以前は江戸時代の中頃から職人として紙を漉いていたと言います。当時は紙の売買を取り仕切る「紙座」という組合があり、一般の人は気軽に紙を売ることができなかったそう。明治時代になり紙座自体がなくなったことから、杉原家は紙の問屋として歩み始めることになりました。

越前和紙の品質はすでに江戸時代以前から高く評価されており、公家や武家が使う奉書紙として使われていました。明治時代以降も紙幣や公用紙として使われることが多く、なんと杉原商店には天皇即位の礼に使用される和紙を宮内庁に納めた記録も残っています。

越前和紙が世界で有名になった日

ピカソやレンブラントなど、世界の名だたる画家も使っていたと言われている越前和紙。近年再び世界で注目されるようになったきっかけは、2002年に開催されたIPEC(アイペック)というインテリアの展示会でした。

「今でこそ和紙ソムリエと言われることもありますが、昔は問屋が表に出ることはなかったんです。例えばサンプル帳に『杉原商店』と名前が書いてあるだけでもお客様からお叱りを受けるくらいでしたから。あくまで流通の仕組みのなかで和紙を卸していたのですが、ある時知人から和紙をインテリアに使ってみては、と展示会への出展を勧められました」

杉原商店10代目当主、吉直さん

もともと襖紙のような大きな越前和紙も扱っていた杉原さん。しかし、ただ襖として使うのではなく、よりデザイン性の高いインテリアとして装飾すれば、これまでにない新しい和紙の使い方ができるかもしれない、と考えたそうです。

空間のなかで和紙の良さを表現するためにはどうすればいいか。ライトアップなども工夫し、和紙独特の風合いを出すことにこだわった展示会は、大きな反響を呼びました。また、展示会をきっかけに今まで出会うことのなかった分野の人たちとのつながりも生まれました。

IPECで展示した杉原商店のブース

「IPECの後にはフランスの展示会にも出させていただき、現地に住むデザイナーとの出会いにも恵まれました。そこから、海外のレストランやホテル、ギャラリーのインテリアに越前和紙を使っていただく機会も増えていきましたね」

ミラノの店舗デザインにも使われている越前和紙
有名コスメショップのショールームに使われた越前和紙のオブジェはインパクト抜群!

周りの反響を受け、和紙の新たな可能性を確信した杉原さん。
その後もヨーロッパやアメリカを訪れるなかで日本を代表する和紙ソムリエとして知られるようになり、今では海外のアーティストからも「和紙のことなら杉原商店」と厚い信頼を寄せられています。

20年経って評価された漆和紙(うるわし)

杉原商店が扱う和紙のなかでも、特に印象的なものが「漆和紙」。
その名前の通り和紙に漆を塗ったもので、和紙の手触りを残しながらも漆の発色と強度が独特な風合いを生み出しています。

漆和紙を使った商品。紙でできているとは思えません

越前和紙の産地のすぐ近くには越前漆器の産地があったことから、杉原さんは漆器職人との交流もありました。試しに漆を和紙に塗ってほしい、と職人に依頼したものの、出来上がったものを見たら色が濃くてザラザラ。どんな用途に使ったらいいのかも思い浮かばず、「あぁ、これは失敗したな」と当時は思ったそうです。

しかし、それから20年ほど経ったある時、福井を訪れていた東京の百貨店バイヤーにさまざまな種類の和紙を見せていたところ、漆和紙の質感が素晴らしいと大絶賛。杉原さんにとっては想定外の出来事でしたが、2001年には福井のデザイン大賞も受賞し、漆和紙の知名度は一気に高まりました。

「正直言うと、初めて漆和紙を見たときにはたいして良いものだとは思えなかったんです。時代が変わったのか、私たちの感覚が変わったのか、時間が経つことでその良さが評価されることもあるのか、と驚きましたね」

漆和紙は全4色。緑、生(茶色)のほかに赤、黒があります
漆和紙のテーブルマットも海外向けに広く紹介されました

その後も海外のデザイナーとコラボし、文具やテーブルマットなど漆和紙を使ったプロダクトは続々と誕生しています。

パリ在住のドイツ人デザイナー、ヨルグ・ゲスナー氏とコラボした漆和紙のステーショナリー、「JOYOシリーズ」

紙漉きの神様が産地を一つにする

越前和紙の良さとは何なのでしょうか?杉原さんにたずねてみました。

「越前和紙はほかの産地に比べて規模も大きく、職人も多いので、生産する力がある。しかも問屋もメーカーも仲がいいんです。これはきっとこの地に紙漉きの神様がいることが大きいと思うんですよね」

約1500年前、川上から現れたお姫様が村人に紙漉きを教えたことが越前和紙の起源だと言われています

越前和紙には昔から伝わる『紙漉きの歌』というものがあり、職人さんは今も紙を漉きながら歌うそうです。

1.五箇に生まれて紙漉き習うて、横座弁慶で人廻す。
2.神の授けをそのまま継いで、親も子も漉く孫も漉く。
3.七つ八つから紙漉き習うて、ネリの合い加減まだ知らぬ。
4.お殿様でも将軍様も、五箇の奉書の手にかかる。
5.川上さまから習うた仕事、何でちゃかぽか変えらりょか。
6.清き心で清水で漉いて、干した奉書の色白さ。
7.辛抱しなされ辛抱が金じゃ、辛抱する木に金が成る。
8.仕舞え仕舞えと日ぐらしゃ鳴けど、しまい仕事でしまわれぬ。

〜「紙漉きの唄」より〜

『この紙はお殿様も使っているんだぞ』と歌詞にもあるように、職人それぞれが誇りを持ちながら漉いている越前和紙。職人同士の堅い結束を守りながらも、切磋琢磨する風土が昔から根づいているようです。

杉原商店から徒歩5分ほどの場所にある岡本神社に、紙祖神「川上御前」が祀られています

世界に出る産地から“世界を呼ぶ産地”へ

現在、杉原さんは新しい取り組みとして、敷地内の蔵を改装し、和紙の新しい用途を発信するギャラリーをつくろうとしています。

「越前和紙が国内外から注目されるようになり、産地でも海外から来られた方の姿をちらほらと見かけることが増えてきました。神社にお参りし、紙を漉く現場を見ていただき、越前和紙の使い方を紹介する場が必要だと思ったんです」

杉原商店の敷地内にある大きな蔵。2018年を目標に新しい空間へと生まれ変わる予定

越前和紙の魅力を世界に発信するべく、さまざまな取り組みを仕掛ける杉原さんですが、その一方でこんなことも語ってくださいました。

「うちで扱う和紙はたくさんの種類がありますが、私自身はできるだけ和紙に特別な思い入れを持たないようにしているんです。思い入れが強い和紙があると先入観が入り、お客様にとってベストな提案ができないかもしれない。用途、価格、納期などすべてを俯瞰して分析し、フラットな立場で和紙をセレクトする、それこそが和紙ソムリエの役割だと思っています」

和紙の可能性を引き出し、世界中の人に和紙を使ってもらいたい。その想いを胸に、杉原さんの挑戦はこれからも続いていきます。

<取材協力>
杉原商店
越前市不老町17-2
0778-42-0032

文:石原藍
写真:石原藍、杉原商店(一部)

世界で愛される越前発のものづくり〜各国のシェフたちが絶賛した越前打刃物のステーキナイフ〜

こんにちは。ライターの石原藍です。

福井県越前市は越前和紙、越前打刃物、越前箪笥などものづくりの産地が集積している国内でも珍しい地域です。今回は2回にわけて、海外から注目を集めている越前発のものづくりに注目。

前編は世界的な国際料理コンクールで24カ国の審査員の約半数が持ち帰ったという、伝説のステーキナイフをご紹介します。

越前打刃物のはじまり

南北朝時代の1337年、刀づくりに最適な地を探し続けていた京都の刀匠、千代鶴国安(ちよづる・くにやす)は現在の越前市を訪れます。

この地でとれる粘土質の泥と清らかな水を見出した彼は鍛冶をはじめ、その傍ら農民のためにも鎌を作ったことが、越前打刃物の起源だと言われています。

近くには漆器の産地もあり、漆を求めて各地を行脚していた漆かき職人が鎌や刃物を売り回ったことで、全国に「越前打刃物」の名が広まりました。

越前打刃物の特徴は日本古来の火づくり鍛造(たんぞう)技術。鋼を火で熱して柔らかくし、叩いて圧力を加えることで金属同士の組織を頑丈にしていきます。金属を金型に流し込んで作る鋳造(ちゅうぞう)とは違い、形を自由自在に変えられるのも打刃物の特徴です。

800度〜1000度にもなる炎で鋼を熱し、鍛造する越前打刃物
何度も叩き続けることで、強度が増していきます

手仕上げ、磨きなどの工程を経て、1本ずつ丁寧に仕上げられる越前打刃物。千代鶴がこの地に訪れて以来、約700年にわたって育まれた技術は、料理用包丁やハサミ、カスタムナイフなどさまざまな商品に広がり、今では海外の愛用者も増えています。

最高の研磨職人が、最高の刃物をつくるために興したメーカー「龍泉刃物」

60年以上の歴史を持つ龍泉刃物

「龍泉刃物」は福井県越前市に本社を持つ、料理包丁やカトラリーなどをつくる刃物メーカーです。初代の増谷等(ますたに・ひとし)さんはもともと研磨職人として産地のなかでも最高の技術を誇る職人でした。

研磨だけでなく、一貫したものづくりを担うメーカーを目指し、昭和28年に独立・創業。2代目の増谷浩(ますたに・ひろし)さんは刃物組合の理事長として越前打刃物の認知度を高め、国内の刃物産地としては初めての「伝統的工芸品」の指定に大きく貢献しました。

そして、現在の社長を務めるのが3代目の増谷浩司(ますたに・こうじ)さん。代替わりした2008年頃は世界的な経済破綻もあり、産地全体がピンチに陥っていました。商品をつくってもまったく売れず、国内での販売に限界を感じていた増谷さんは海外に活路を見出します。

龍泉刃物3代目の増谷浩司さん

苦い思い出となった初の海外進出

「それまで販売は問屋に任せておけばよかったのですが、これからは自分たちで販路を開拓しなければなりません。海外にまったくツテのないなか、展示会への参加やレストランへの飛びこみ営業を続け、少しずつ龍泉刃物の良さに興味を示す人たちが増えていきました」

海外のレストランを訪ねる際は、事前にシェフの情報をリサーチし、好みや特徴に合った料理包丁を持っていったそうです

手探りの海外進出でしたが、さらに大きな問題が立ちはだかりました。それは、「現地で包丁を研げる人がいない」ということ。

包丁の品質は最高であっても、使い続けるためのメンテナンスができない。この致命的な問題をすぐには解決できず、海外への販路は一旦途絶えてしまいます。

“最高の切れ味を持つステーキナイフ”に大苦戦

2009年12月、雪深い福井にある人物が訪ねてきました。それは「星野リゾート 軽井沢ホテルブレストンコート」で当時総料理長を務めていた浜田統之(はまだ・のりゆき)さん(現在:「星のや東京」料理長)。新しくオープンするメインダイニング「ユカワタン」で使いたいと、“最高の切れ味を持つステーキナイフ”の制作を増谷さんに依頼したのです。

もともと龍泉刃物の愛好者だった浜田統之さん

すぐさま制作に取り掛かり、ほどなくしてナイフのサンプルが出来上がりました。しかし、浜田シェフからの回答は「NO」。

「たしかに肉はよく切れる。しかし、これでは切れ味が良すぎて口のなかも傷つけてしまう」

肉を切るだけではなく、時にはソースをすくうこともあるステーキナイフ。切れ味と安全性の両立は難しく、何度もサンプルを作り直すもOKが出ない状況が3ヶ月以上続きました。

増谷さん自ら試作を続けていました

ピンチの時に訪れた奇跡の再会

レストランのオープンが刻々と近づくなか、制作は思ったように進みません。そんな増谷さんにとって奇跡的な出来事が起こります。それは小中学校時代の同級生・渡辺弘明さん(株式会社プレーン)との35年ぶりの再会。

東京でプロダクトデザイナーとして活躍していた渡辺さんが、増谷さんの制作を手助けしてくれることになったのです。

彼らは世界中のステーキナイフを集め、構造の研究から始めました。本来、ステーキナイフには刃の先にギザギザをつけることで、食材とのひっかかりをつくり、切り込んでいきます。増谷さんはその機能に着目し、再度素材を検討。柔らかい鋼と硬い鋼を何層にも合わせて研ぎました。素材同士の削れ具合の違いがヤスリのような構造となり、食材を当てるだけでは切れず、しかし軽く引けばなめらかに切れる一本を実現したのです。

こうして約2年の歳月をかけて“切れ味と安全性を兼ね備えた”最高のステーキナイフが完成しました。

デザインを担当した渡辺さんは、アシンメトリーな形を提案。龍泉刃物独特の波紋模様「龍泉輪」の美しさが引き立つようなデザインに仕上がりました。

世界中の料理人が絶賛したステーキナイフ

ステーキナイフの完成は、当初目標にしていたレストランのオープンには間に合いませんでしたが、増谷さんには次のチャンスが舞い込んできます。浜田統之さんが日本代表シェフとして出場することになった「ボキューズ・ドール国際料理コンクール」で、龍泉刃物のステーキナイフを日本チーム専用のナイフとして採用したのです。

結果は日本人として過去最高位の3位を受賞しただけでなく、24カ国からなる審査員の約半数が龍泉刃物のステーキナイフを持ち帰ったというのです。この日を境に龍泉刃物の名前は一躍世界中で知られることになりました。

世界第3位を受賞した浜田統之さん(左)と増谷さん

現在、フランス、イタリアをはじめ、アメリカ、ドイツ、オランダ、香港など世界中のレストランで愛用されている龍泉刃物のステーキナイフ。こちらも包丁と同様に定期的なメンテナンスは必要ですが、前回撤退したときの教訓を活かし、現地で対応できる拠点をつくりました。

しかし、1ヶ月につくることのできるステーキナイフは150本と限界があるため、現在も注文は約4年待ちと言われています。

越前打刃物に出会う入り口が増えていく

ステーキナイフ以外にも、ペーパーナイフやショコラナイフなど、龍泉刃物は次々と新しい商品を生み出しています。増谷さんは料理、文具、趣味など、さまざまな入り口をつくることで、越前打刃物を世界中の人にもっと知ってもらいたい、と語ります。

また長年、職人の育成に力を入れてきたかいもあり、最近では20代の若い職人も増えてきたそう。

龍泉刃物の職員は現在8名。地元のものづくりに興味を持つ若者も増えている

「打刃物の現場は夏でも約1000度の炎や、冬でも身を切るような寒さのなかで水を使う厳しい現場なので、若い人たちから敬遠されていた時代もありました。しかし最近では、伝統を継承するという誇りや世界に認められている自信が、若い人たちの大きなモチベーションになっていると思います。これからも世界中に自信を持ってお届けできるものづくりに取り組んでいきたいですね」

伝統の技を継承しながらも新しい技法を生み出し、挑戦を続けている龍泉刃物。「越前のものづくり」は今後も刃物のような鋭い切れ味のごとく、世界を鮮やかに切り拓いていくに違いありません。

<取材協力>
龍泉刃物
越前市池ノ上町49-1-5
0778-23-3552

文:石原藍
写真:石原藍、龍泉刃物(一部)

めがね列伝

こんにちは。ライターの石原藍です。
国産めがねフレームの9割以上を生産している福井県。なかでも鯖江市はめがねの製造会社が集積していることから「めがねの聖地」として全国から注目を集めています。どうしてこの地がめがねの一大産地と言われるようになったのでしょうか。

今回は鯖江のめがねに詳しい方々に話を伺い、過去を遡りながらその背景を読み解いていきます。

めがねのすべてを知るならここ!

北陸自動車道・鯖江ICから車で3分の場所にある「めがねミュージアム」。
めがねの産地、鯖江を代表する建物で、めがねの歴史を学ぶことができるほか、著名人のめがねも多数展示しています。

笑福亭鶴瓶さんのめがね。見るだけでご本人のかけた姿が想像できます
こちらは所ジョージさんのめがね。たしかに見覚えがあります!
石坂浩二さんのめがねはネジを一本も使っていないチタン製

ミュージアムで長年、案内人をされている榊幹雄さんに、めがね発祥の歴史から教えていただきました。

榊幹雄(さかき・みきお)さん/めがねミュージアムの案内人
福井市出身。めがね職人として40年の経歴を活かし、めがねの歴史や素材、製造方法など幅広い知識を持つ

日本最古のめがねは室町時代!?

めがねが発明されたのは、13世紀後半のヨーロッパ。その後海外に広がり、日本には15世紀頃伝わったと言われています。

「16世紀くらいまではレンズに水晶やトパーズが使われていたんですよ。鼻パッドや耳にかける部分はなく、今のめがねと形は違いますが、当時から海外の加工技術は高かったことがわかると思います」

例えば下の写真は15世紀頃に中国で使われていためがねケースですが、鮫皮が貼られ、彫刻と彩色が施されています。何百年も昔のものとは思えないほど美しいですよね。

日本のめがねに関する最も古い記録は1551年。宣教師フランシスコ・ザビエルが山口・周防の大名、大内義隆(おおうち・よしたか)にめがねを献上したことが記されています。現存する日本最古のめがねは室町幕府第8代将軍の足利義晴が使用したものだそう。

また、あの徳川家康も好んでめがねをかけたといわれていて、家康が使用しためがねは今でも静岡県の久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)に残されています。

家康が愛用した「阿蘭陀(おらんだ)眼鏡」

江戸時代のめがねは職人たちの必需品

日本でめがねがつくられるようになったのは、江戸時代初期の頃。朱印船の船長だった浜田弥兵衛(はまだ・やひょうえ)が南蛮でめがねづくりを学んだことがきっかけでした。西洋ではめがねはインテリ階級の人が使うもの。しかし、日本では絵師や彫り師といった職人もめがねを使い、仕事の必需品として一般庶民に浸透していたそうです。

紐を耳にかけ、額と頬骨あたりで固定。通常のめがねより目の少し斜め前にセットされるため、レンズ同士が中央に寄っていても焦点が合うのだとか

むむっ、榊さん、こちらのめがねは?
「これは日本人の顔のつくりを考えためがねです。日本人の顔は西洋の人に比べて扁平だから、そのままめがねをかけると目とレンズがひっついてしまう。当時はまだ鼻パッドが誕生していないので、額の部分に立ち上がりをつくることで、顔とレンズの間に隙間を開けているんですよ」

なるほど。使いこなすにはコツがいりそうですね
こちらは結った日本髪が乱れないようこめかみ部分でめがねを押さえる「頭痛押さえめがね」。すっきりとしたデザインですが、喋ると顔の筋肉が動くため、すぐにずれてしまったそう

明治になり文明開化。一気に西洋ブームへ

明治維新を経て1870年頃から文明開化のスタート。当時は日本橋でめがね専門店がオープンしたり、レンズ制作の技術を海外から持ち帰ったりとめがね業界の動きも活発だったようです。

当時の社交場「鹿鳴館」では貴婦人の間でこんな形のめがねが大流行
双眼鏡をイメージしたこんなユニークなめがねも登場しました。実際はたいして遠くまで見えず、実用性には欠けていたようです

めがねの産地として歩み始めた歴史的な年

1905年といえば、アインシュタインの「相対性理論」が発表された年。福井県麻生津村(現在の福井市生野町)では、村会議員だった増永五左衛門が大阪からめがねフレームの製造技術を持ち込みました。めがねの産地としてスタートするきっかけとなった歴史的な出来事です!

農地が少なく、貧しい暮らしをしていた麻生津村。冬の時期は農業ができないことから、五左衛門は農閑期にできる仕事を考えていました。当時、新聞が普及し始めたことから「これからは活字文化になる(=つまりめがねも必要になるに違いない)」と予想し、めがねの製造職人を工場に招くため大阪へ。優秀な職人の教育に尽力したほか、福井市の隣の河和田村(現在の鯖江市河和田地区)にも工場を開きました。

工場の2階には夜間学校も開設し、地域教育にも力を入れた増永五左衛門

「五左衛門がすごかったのは、親方と弟子でチームを組んで競わせる『帳場制』を採用したこと。職人同士が切磋琢磨するようになり、見込みのある人を次々に独立させたんですよ」

これによって産地として規模がますます大きくなり、技術も飛躍的に向上したそうです。すごいシステムです。

終戦とともにめがねの需要が一気に高まる

その後、東京や大阪をしのぐめがねの産地に成長した福井・鯖江。戦争の空襲で他の産地が壊滅的になったことからますますめがねの製造量が増えます。さらに明治時代から鯖江に駐屯にしていた旧日本陸軍の部隊「三十六連隊」が終戦とともに引き上げたことから、続々と跡地がめがね工場に転用。こうして、鯖江はめがねの産地としてゆるぎない地位を確立していきました。

鯖江が産地として歩みだした背景には、こんな歴史があったんですね。

戦後から現代へ。鯖江のめがねマスターが語る

ここからは場所を変えて、鯖江のめがね業界に携わるお二人に、戦後から現在に至るまでのめがねを取り巻く環境について話していただきます。

田中幹也(たなかみきや)さん/田中眼鏡店主
唯一無二のセレクトで異彩を放つ、鯖江では数少ない小売店「田中眼鏡」を経営。
めがねの知識は鯖江一と言われるほどの勉強家である

増永昇司(ますながしょうじ)さん/(株)マコト眼鏡代表取締役
オリジナルブランド「歩(あゆみ)」の生みの親。
福井の産地にめがね製造を取り入れた増永五左衛門の血を受け継ぐ

3万5千ダースのめがねを燃やした「めがねの火祭り」

(以下、田中さんの発言は「田中:」、増永さんの発言は「増永:」と表記。)

田中:戦後はアメリカの文化が入ってきたので、海外の有名人が使った眼鏡やサングラスが話題になったそうですね。マリリン・モンローやレイ・チャールズ、オードリー・ヘップバーンがかけたサングラスがヒットして日本でもブームになったと聞きました。

増永:でもブームが過ぎ去ったあとは福井でも企業が次々倒産してしまうんです。過剰生産で売れ残ったサングラスをどうするか。本来なら値段を落として売りさばくのが普通なんだろうけど、安売りして産地としての価値を壊してはいけないと、3万5千ダースのめがねをすべて燃やしてしまったんですよ。すごい決断だったと思います。

田中:「めがねの火祭り」と呼ばれているやつですね。でもその結果、だぶついていた在庫が一掃されて新しい商品を製造する余地が生まれたので、産地としてまたうまく循環するようになっていくんですよね。海外にも地道にPRを続けていたので、国外からの注文も多かったと聞きます。

増永:私がめがね業界に入った1980年代は海外ブランドのブームで、めがねの問屋はこぞってブランドのライセンス契約を取得していました。ポロ・ラルフローレンやレノマ、バーバリーなど、鯖江内でも偽物がつくられて問題になったことがあったんですよ。

田中:そんなライセンスブームのなか、自社ブランドを先駆けてつくった金子眼鏡のようなメーカーも現れるなど、鯖江のめがね業界はさまざまなタイプのメーカーが生まれていくんですね。

ここでしかつくれないめがねを求めて

増永:鯖江のめがねの歴史で大きなターニングポイントになったのは、チタン・フレームの誕生です。チタンは軽くて強いし錆びない、そして金属アレルギーも出ない。理想的な素材にもかかわらず、空気中で溶接できないという弱点があったんです。

田中:鯖江がチタンフレームの製造に成功したのは、産地全体で技術開発を熱心に続けてきた賜物ですよね。これまで欧米諸国がめがねづくりをリードするなか、この加工技術が生まれたことで、鯖江は世界と戦える産地になったんだと思います。

昭和56(1981)年、世界で初となるチタンフレームの実用化に成功。独自の加工技術で強くて軽いフレームが誕生しました

田中:1992年には福井県のめがね関連出荷額が1200億円を超えるほどに成長しましたが、バブル後の不況や海外への技術の流出などにより落ち込みました。産地を取り巻く状況は山と谷を繰り返していますよね。

増永:ただ、どんなに不況になろうと“ものづくりの精神”は変わっていなくて、かける人のことを考え抜いためがねづくりを続けているのが日本の良さだと思うんです。海外製の安価なめがねが増えているのは事実ですが、日本製のめがねを手に取ってもらうとその良さが必ずわかるはずです。

マコト眼鏡のオリジナルブランド「歩(あゆみ)」は形状変化に強いセルロイドを使ったもの。そのかけ心地の良さに長年使い続けるファンも多い

田中:これまで矯正器具だったものがおしゃれアイテムに変わり、めがねは多くの人にとってより身近なものになったと思います。わざわざ県外から足を運んでくださるお客様も多く、ありがたい限りです。小売店として、一人ひとりの顔にぴったり合わせられるフィッティング技術に責任を持ちながら、日本のめがねの良さを多くの人に伝えていきたいですね。

増永:つくり手としては、産地として培ったスピリットがめがねにこめられているか。それに尽きると思います。2003年には福井の産地統一ブランド「THE291」が立ち上がり、最近では若いデザイナーによる新しい感性のめがねも誕生しているなど、めがねの新時代が創られようとしています。これからも“産地の力”を集結させ、思わず手に取りたくなる、ずっとかけていたくなるようなめがねを鯖江から届けていきたいですね。

<取材協力>
めがねミュージアム
福井県鯖江市新横江2−3−4 めがね会館
0778-42-8311

田中眼鏡
福井県鯖江市神明町1-2-8
0778-51-4742

株式会社マコト眼鏡
福井県鯖江市丸山町2-5-16
0778-51-5063

<参考資料>
MODE OPTIQUE vol.40 「ニッポンのメガネ 近現代史」

文・写真:石原藍

紙の神様に会いに行く。越前和紙の里でまち歩き

こんにちは。ライターの石原藍です。

北は北海道から南は沖縄まで、日本には全国各地に和紙の産地があります。
日本で初めて和紙が漉かれたとも言われている福井県・「越前和紙」の里は、全国でも珍しい「紙の神様」をお祀りする神社があり、美しい景観、和紙づくり体験など、そぞろ歩きも楽しい町。実際にめぐりながら、その魅力をご紹介したいと思います。

「透かし」技法を生み出した越前和紙

やってきたのは北陸自動車道・武生(たけふ)ICから車で10分ほど東にある、越前市の今立(いまだて)エリア。なかでも大滝町、岩本町、不老(おいず)町、定友町、新在家町からなる五箇地区には、まちを流れる岡本川を中心に、今も多くの和紙業者が軒を連ねています。

昔ながらの日本家屋が立ち並ぶ風情のある街並みは、のんびりとお散歩するのにぴったり

6世紀頃から漉かれるようになったといわれる越前和紙。室町時代は公家や武士の奉書紙として使用され、江戸時代には日本一の紙の証である「御上天下一」の印が押されていたなど、品質の高さには昔から定評がありました。

時代の変化とともに機械漉きも登場しましたが、今も工房をのぞくと、職人たちがせっせと紙を漉く姿を見ることができます。版画に使うものからふすま紙に使われるような大きな和紙まで、種類はさまざまです。

立ち寄った工房での一コマ。大きな漉き桁を動かしながら紙を漉いています
こちらは大きな和紙を二人がかりで漉いていました

実は紙幣に使われる「透かし」の技法を生み出したのも越前和紙。1940(昭和15)年には大蔵省印刷局の出張所が今立エリアに設置され、この地から百円紙幣や千円紙幣が製造されていたそうです。

透かしの技術は卒業証書にも使われています。越前市では卒業を迎えた生徒が、自ら卒業証書用の和紙を漉くそうです。一生の思い出になりそうですね

紙の神様を祀るまちへ

五箇地区の街並みを通り抜け10分ほど東に歩くと、大きな鳥居の「岡太(おかもと)神社・大瀧神社」が見えてきます。

大きな杉の木がそびえ立っています

越前和紙の歴史を語る上ではずせないと言われているこの神社。なんと、紙の神様が祀られています。
今から約1500年前に岡本川の上流に美しい姫が現れ、「この村は清らかな谷川と緑豊かな山々に恵まれているので、紙漉きを生業とすれば生活が潤うだろう」と村人に紙漉きの技を教えたそう。これが越前和紙の発祥とされ、以来、この姫を紙祖神(しそしん)「川上御前(かわかみごぜん)」としてお祀りするようになった由緒ある神社なのです。

凛とした空気が流れる境内。思わず背筋が伸びてしまうような神聖な雰囲気です。階段を登ると現れる荘厳な社殿を一目見ると、きっとため息をついてしまうはずです。

何重もの波が寄せ合うような檜皮葺きの屋根に、本殿と拝殿が連なった珍しい形の社殿は国の重要文化財にも指定されており、その迫力のある佇まいに心を奪われてしまいます。

緻密な彫刻は福井県の有名なお寺、永平寺の勅使門を作り上げた宮大工の大久保勘左衛門によるもの
社殿の側面には中国の「故事」を題材にした彫刻が施されています

じっと目を凝らして見つめていたくなるような社殿ですが、川上御前は普段、背後にそびえる権現山の「奥の院」に祀られています。毎年春と秋にだけ下宮(里宮)にお迎えして五箇地区を巡幸する例大祭が行われるのです。地元では毎年大変賑わうお祭りですが、2018年はなんと1300年祭という記念すべき大祭になるとのこと(2018年5月2日〜5日開催予定)。ぜひとも訪れたいものです。

和紙の里で紙漉きの技に魅了される

紙の神様へのお参りを済ませ、歩くこと約10分。次にやってきたのは同じ今立エリアにある「越前和紙の里」です。

ここでは、およそ230mにわたる「和紙の里通り」を中心に、越前和紙の魅力を体感できる施設が点在しています。

1.昔ながらの和紙づくりを見学できる「卯立(うだつ)の工芸館」

最初に到着したのは「卯立の工芸館」。名前の通り、建物正面の屋根部分には立派な卯立が立ち上がっています。

建物正面の2階部分が壁のようにそびえ建っている卯立。正式には「妻入り卯立」という建築様式で、このあたりの民家ではよく見る形だったそうです

この建物は江戸時代中期のもので、越前市の紙漉き職人だった西野平右衛門の家を移築・復元したもの。伝統工芸士が昔ながらの道具を使って和紙を漉く様子や、屋外で和紙を天日干しする様子など、和紙づくりの一連の工程を見ることができる、全国でも珍しい施設なのです。

江戸時代中期の紙漉き道具も復元しています

実際に見学した流れに沿って、簡単に和紙のつくり方をご紹介しましょう。

和紙の原料は主に、楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)、三椏(みつまた)という植物。刈り取ったものを釜で蒸して、皮を剥いでいきます。

その皮を乾燥させ、表面の黒い部分を削り取り、白皮にしていきます。

次は「塵選り(ちりより)」という作業。煮た皮を水にさらし、細かい塵を取り除いていきます。一つひとつ手作業で白皮をほぐしながら塵を見つけては取り、また見つけては取り……の繰り返し。気の遠くなるような細やかな作業です。

和紙をつくる上で「水」はとても大切なもの。原料の木の皮を水にさらして洗う工程や漉く作業ではきれいな水が欠かせません。水道水で和紙をつくると、塩素などの成分により和紙が変色してしまうこともあるのだとか。

きれいな川が近くにある五箇地区は、まさに和紙づくりに適した場所だと言えます

塵を取り除いた後は「叩解(こうかい)」。皮を木のハンマーのようなもので叩いてほぐしていきます。叩けば叩くほど繊維がほどけてきめ細かい和紙になるため、最低でも2時間、長い場合は4時間近く叩き続けるそうです。

この木は2kg近くあり、叩き続けるのも大変!和紙職人は体力・筋力も必要。大変な作業です

和紙の元が出来上がり、水と繊維を漉き舟(槽)に入れてよく混ぜていきます。

水と繊維だけでは均一な和紙を漉くことはできません。和紙の繊維がうまくからみ合うようにするため、トロロアオイという植物の根から出た粘性の液体、通称「ネリ」を一緒に混ぜていきます。

トロロアオイの液体。すごい粘りです。混ぜ合わせる配合によって和紙の仕上がりが左右されるため、職人の経験で分量を決めるそう

ようやく紙漉きの準備が整い、ここから紙を漉いていきます。和紙の原料を漉き桁に汲み、縦横に動かしながら均一の厚さになるよう、この動作を繰り返します。

「紙の厚さには神経をつかいますね。光の加減によっても和紙の厚さが違って見えるので、とても難しいんですよ」
と伝統工芸士の職人さん。

手際良く和紙を漉き、出来上がった和紙を重ねていきます

この後は圧搾して水分を絞り、乾燥へ。気温・湿度によって乾燥具合も調節が必要なため、職人さんいわく、「和紙は生き物」だと言います。
にこやかに説明してくださった伝統工芸士さんも、漉き桁を手に取った瞬間、キリッとした職人の顔に早変わり。次々に漉き上がっていく美しい紙に思わず見とれてしまいます。私たちが普段気軽に使っている紙も、そもそもを紐解いてみると大変手間のかかるものだということがよくわかりました。

2.越前和紙のすべてがわかる「紙の文化博物館」

職人の技を間近で見た後は、「紙の文化博物館」へ。
ここでは和紙の歴史を学びながら、産地で漉かれたさまざまな紙の展示を見ることができます。

越前和紙の発祥や歴史もわかりやすく説明されています

別館の展示エリアには、産地を代表する和紙約125点が展示されています。一口に越前和紙といっても、真っ白なものもあれば、色のついたものやしわ加工されものもあるなど、まったく異なるので、眺めるのも楽しいです。

墨を水に落とし、できた模様を写し取った「墨流し」の和紙
こんな細かな装飾が施された和紙も

3.かわいい和紙雑貨に心踊る!紙漉き体験もできる「パピルス館」

和紙について深く学ぶと、「自分でも紙を漉いてみたい!」と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。そんな方にぜひ立ち寄っていただきたいのが「パピルス館」です。

ここは子供から大人まで紙漉きができる体験工房で、自分だけの和紙をつくることができます。

色鮮やかな葉っぱや押し花を選び、和紙のなかに閉じ込めます
越前和紙のハガキやうちわ、コースターなどをつくることができます。こんなハガキで手紙を出してみたい!

さらに、パピルス館の1階奥には実際に越前和紙の商品を購入できる「和紙処えちぜん」があります。

ここでは工芸用和紙や和紙を使った雑貨が数多く取り揃えられていて、ついついお土産に買って帰りたくなるものばかり。

越前和紙でつくった風鈴
越前和紙でつくる恐竜は子供にも大人気!

半日かけてめぐった和紙の里。徒歩でも十分回ることができるエリアで、訪れた日も家族づれやグループ、卒論の研究のために東京からやってきた学生など、幅広い年代の人たちが散策していました。紙の神様に挨拶するもよし、職人さんの技に魅了されるもよし、自分だけの和紙を漉くもよし。思い思いの楽しみ方ができる越前和紙の産地で、和紙の新たな魅力に出会ってみてはいかがでしょうか。

<取材協力>
越前和紙の里
福井県越前市新在家町8-44
0778-42-1363


文・写真:石原藍

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RENEW×大日本市鯖江博覧会

9月のさんちは福井県「鯖江・越前」を特集します。
インタビュー記事や見どころ情報を盛りだくさんでお届けします!

伝統食材「山うに」のたこ焼きは、福井の地酒と一緒に楽しみたい

こんにちは、ライターの石原藍です。
旅先で味わいたいのは、やはりその土地ならではの料理。さらに地元のお酒がプラスされると、気分が盛り上がるのはきっと私だけではないはずです。

太陽が傾き始めた夕方4時。晩酌と呼ぶには少し早い時間帯ですが、とあるお店に到着しました。
やってきたのは、JR鯖江駅から徒歩1分ほどのところにある「ほやっ停」。久保田酒店という酒屋さんの敷地内、「ほ」のマークが目印の小さな屋台です。

店名にもなっている「ほやって」は福井弁で“そうなんですよ”という意味。語尾を伸ばすと、福井の人っぽく話せます

屋台と聞くとなぜか気分が高揚します。普通の店舗とは違う、小さな空間で繰り広げられる濃い出会いを期待してしまうからでしょうか。

なかに入ると白木のカウンターに並んだ6脚の椅子。目の前では女性の店長さんがせっせと仕込みの準備を進めています。

「うちのメニューは全部山うにを使っているんですよ」
と、メニューを見ている私に声をかける店長さん。

もしも県外から来た人で「山うに」を知っていたら、かなり通かもしれません。
山うにとは福井県鯖江市のなかでも河和田(かわだ)地区に伝わる薬味。「柚子」「鷹の爪」「赤なんば(完熟ししとう)」「塩」を丁寧にすり、1時間以上かけて練り上げたものです。

三方を山で囲まれた地域で作られていることや、見た目が福井名産の「塩雲丹(うに)」に似ていたことから「山うに」と言われるようになったそうです。

地元のおばあちゃんが丁寧に擦った山うに。機械ではなく、人の手で擦ることでなめらかになるそう(画像提供:越前隊)

地元では鍋に入れたりうどんに入れたりと、さまざまな料理のお供として親しまれている山うに。ほやっ停ではなんと、「山うにのたこ焼」が名物料理として大人気なのです。

山うにを混ぜた生地にたっぷりのネギと鰹節。一口食べると山うにのほのかな柚子の香りが漂います。さっぱりと食べられるのでおつまみにもぴったり。見た目ほど辛くはありません。

山うにのたこ焼き、8個入り(500円・税込)おすすめはしょうゆ味
後づけ用の山うにもトッピングされています。お好みでどうぞ

たこ焼きにビールもいいですが、ここはやはり日本酒を合わせたいところ。
ほやっ停には福井県内の地酒が4〜5種類並びますが、今回は地元・鯖江の加藤吉平酒店が手がける「梵(ぼん)」を選びました。なかでも「梵GOLD」は数々の日本酒コンクールでも高い評価を受けている大吟醸で、飲みやすく、すっきりとしたあと味が和風のたこ焼きにぴったり合うのです。

梵GOLD(1杯400円・税込)

お酒が進み、もう一品頼みたくなった場合は「親鳥の煮込み」(500円・税込)を。
福井は昔から親鳥(卵を産まなくなった鶏)を食べることが多く、若鳥よりもしっかりした歯ごたえや、噛めば噛むほど旨みが出てくる味わいが人気の食材です。鰹と昆布の出汁で煮込んだ親鳥にたっぷりのネギ、そして山ウニを合わせて食べると、親鳥の美味しさが一層引き立ちます。ますますお酒が進んでしまいそう。

河和田は越前漆器の産地としても有名な場所。一品料理には、さりげなく越前漆器の技術を活かした器を使っています

あぁ、日が沈む前からいただくお酒は、なんと格別なのでしょう!
そうこうしているうちに、店内には次々とお客さんがやってきました。小腹が空いた方や一杯飲みたくなった方、鯖江に出張でやって来た方など、それぞれがお店の人との会話を楽しんでいます。時には知らないお客さん同志が意気投合することもあるのだとか。これこそ屋台の醍醐味ですよね。

ちなみにほやっ停はお店が開くまでの時間、バスの待合処になるという別の顔もあります。昼間は学生やお年寄りの方が利用するなど、夜とは違った雰囲気。バスが来るまでの間や買い物帰りにちょっとひと休みしたい時にも、多くの人に利用されています。

日中は待合処。15時からはたこ焼き屋、そして18時からは立ち呑み屋に早変わり。15時から飲んでる方も多いそう

その時居合わせた人たちによって日々新しい出会いが生まれているほやっ停。
地元の食材を活かした料理と地酒、そして人とのふれあいを楽しめるお店として、旅の思い出に加えてみませんか。

こちらでいただけます

ほやっ停
福井県鯖江市旭町1-1-4(久保田酒店敷地内)
定休日 日曜(待合処として自由に利用可能)
070-2251-1991

文・写真:石原藍

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RENEW×大日本市鯖江博覧会

9月のさんちは福井県「鯖江・越前」を特集します。
インタビュー記事や見どころ情報を盛りだくさんでお届けします!

また、来たる10月12日 (木) ~15日 (日) には鯖江市で
「RENEW×大日本市鯖江博覧会」が開催されます。

多彩なコンテンツで“工芸と遊び、体感できる”イベント。
ぜひお見逃しなく!

【開催概要】

開催名:「RENEW×大日本市鯖江博覧会」
開催期間:10月12日 (木) ~15日 (日)
開場:福井県鯖江市河和田地区・その他
主催:RENEW×大日本市鯖江博覧会実行委員会

オフィシャルレセプション:10月12日 (木) 19:00~@鯖江市河和田地区内 PARK

公式サイト : http://renew-fukui.com/
公式FBページ : https://www.facebook.com/renew.kawada
公式ガイドアプリ(さんちの手帖):https://sunchi.jp/app

帰省の手土産に贈る 花ふきん

こんにちは。ライターの石原藍です。

たとえば1月の成人の日、5月の母の日、9月の敬老の日‥‥日本には誰かが主役になれるお祝いの日が毎月のようにあります。せっかくのお祝いに手渡すなら、きちんと気持ちの伝わるものを贈りたい。この連載では毎月ひとつの贈りものを選んで、紹介していきます。

連載第8回目のテーマは「帰省のときの贈りもの」です。もうすぐお盆。夏休みを利用して、ふるさとに帰省される方も多いのではないでしょうか。普段なかなか帰ることができないからこそ、せっかくの帰省は、久しぶりに会う親戚や地元の友人に、心ばかりの、だけどとっておきのものを持ち帰りたい。でも、何を手土産にすればいいか、頭を悩ませる方もいらっしゃるかもしれません。

特に夏場の贈りものは、ほかの季節より気を遣います。気温が高いので食べ物を選ぶといたむのが心配ですし、すぐに冷蔵庫・冷凍庫へ入れなくてはならないものだと、保管に困ってしまうことも。
以前、お酒を手土産に選んだときは、帰省の荷物だけでいっぱいなのに、手土産の重さで移動が大変だったこともありました。

・上質だけど相手に気を遣わせないささやかなもの
・気軽に使ってもらえるもの
・帰省では「電車や飛行機で移動するときにかさばらないもの」
この3つに当てはまるものということで、今月の贈りものには、「花ふきん」を選んでみました。

奈良の蚊帳(かや)生地でつくったふきん

花ふきんは奈良県の伝統産業である蚊帳生地を再生し、ふきんに仕立てたもの。もともと蚊帳は中国から伝えられ、日本では紀元5世紀頃から作られるようになったと言われています。
奈良は蚊帳生産の原料となる麻がよく取れたことから産地として発展を続け、全国で生産される蚊帳の約8割を担っていました。昭和30年代のピーク時には全国で約250万張りもの蚊帳が売れていたそうです。

時代とともに需要は減り、現在では蚊帳を使う家庭がほとんど見られなくなってしまいましたが、蚊帳生地が持つ優れた吸水性、速乾性に着目し、家庭で気軽に使える機能的なふきんとして新たに生まれ変わりました。

用途いろいろ、使うたび手になじむ感触

花ふきんを広げてみると、その大きさに驚くかもしれません。58センチメートル四方のサイズは一般的なふきんの約4倍の大きさ。
食器を拭いたり、台拭きにしたりと、いわゆる普通の「ふきん」として使っていただけるほかにも、出汁漉しや野菜の水気取りといった料理の下ごしらえやお弁当を包む風呂敷代わりにも活躍します。

中川政七商店 花ふきん
程よい目の細かさ
中川政七商店 花ふきん
大判なのでグラス全体をしっかりと拭ける
中川政七商店 花ふきん
鍋つかみにも1枚でしっかり
お弁当包みにも

また、目の荒い蚊帳生地を2枚仕立てにしており、4〜8枚仕立てのものが多い一般的なふきんより薄いのも特徴です。
ふきんは使うたびに衛生面が気になってしまうのですが、花ふきんはたたんで使うとしっかり水を吸い、広げるとすぐに乾くので、いつでも清潔に使うことができるのも嬉しいですよね。

おろしたては、ノリがついているためパリッとしていますが、何度も洗って使い続けることで、くったりとした柔らかい肌ざわりになっていきます。
使っていくと、使いはじめより一回りほど小さくなりますが、その頃には使う人の手になじんだ柔らかい風合いになっているはずです。

中川政七商店 花ふきん
ノリを落とした後は一回りほど小さくなる

暮らしのそばでいつも使い続けたい花ふきん。2008年にはグッドデザイン賞金賞を受賞するなど、今や人気商品になっています。

一度使うと、上質な肌ざわりや、その手軽さ・丈夫さに手放せなくなる人も多いそう。カラーラインナップも豊富なので、用途に合わせて使い分けたい方には、セットで贈っても喜ばれると思います。今度の帰省のおともにいかがでしょうか。

<掲載商品>

花ふきん(中川政七商店)

文:石原藍