新成人のお祝いに。めでたくて美しいガラスの贈り物

1月の成人の日、5月の母の日、9月の敬老の日‥‥日本には誰かが主役になれるお祝いの日が毎月のようにあります。せっかくのお祝いに手渡すなら、きちんと気持ちの伝わるものを贈りたい。

今回のテーマは「成人の日に贈るもの」。

満20歳になった若者をお祝いする成人の日は、実は昭和に入ってから始まった比較的新しい行事ですが、今ではすっかり1月の風物詩です。

大人になったお祝いは、せっかくなので大人にしかできないことにちなんで贈りたいなぁ…と思いついたのが、「富士山グラス」でした。

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2008年のTokyo Midtown Award デザインコンペで審査員特別賞を受賞したのをきっかけに商品化されたこのグラスは、ひとたびドリンクを注げばどこにいても富士山が現れるという、おめでたさとシルエットの美しさを兼ね備えた器。

大人の証であるお酒の時間を一層楽しくしてくれるこのグラスなら、成人の日のお祝いにもぴったりです。富士山のように懐の深い、スケールの大きい大人になってね、というメッセージも込められそう。

それにしても商品の命とも言えるこの富士山型、一体どうやって作られているのか。その秘密を追って製造現場を訪ねたら、ますます成人の日のお祝いにぴったりの、「いい大人」のお話にめぐり会いました。

ふじさん、でなくフジヤマグラス、と読むんですよ。

潮風の吹く九十九里の硝子工房を訪ねて

訪れたのは千葉・九十九里。富士山グラスを製造する菅原工芸硝子株式会社さんの本社と工房がある町です。取材にはなんと菅原裕輔社長が直々に応じてくださることに。

現場をひとつひとつ案内くださった菅原裕輔社長。
現場をひとつひとつ案内くださった菅原裕輔社長。

昭和9年に東京で硝子食器の製造を始めた初代社長(菅原さんのお祖父様)の時代に、工房はこの地に移転しています。なぜ、九十九里だったのでしょう。

「もともと硝子工場って東京の下町に多かったんです。うちも祖父が起業した当初は墨田区にありました。そこが手狭になって移転先を探していた頃に、たまたま祖父が九十九里にお花見に来たんですね。その時にここの温暖な気候と人の気性の良さに惚れたようで」

と菅原さんが話す工房の敷地内には、よく見れば桜の木がたくさん植わっています。春はお花見の穴場スポットだそうです。

春にはきれいに花を咲かせそうな桜並木。
春にはきれいに花を咲かせそうな桜並木。

「硝子づくりは砂を使うので、九十九里浜の砂が硝子に適していたのかとよく聞かれるのですが、決してそういうことではないんです。ものづくりに適していることといえば、熱い窯を焚く仕事なので、潮風で風通しがいいことですかね」

夏には室内の温度が50度にもなるという作業場は、なんと一般の人でも申込めば間近で見学することができます。

菅原工芸硝子さんが販売する商品は年間およそ4000点。その全てが手作りで、この場所で生み出されています。もちろん富士山グラスもそのひとつ。いよいよあの富士山型の不思議なグラスがどう作られているのか、目撃できる瞬間が近づいてきました。

いざ、富士山グラスの生まれる現場へ

はじめに案内いただいたのは、通常は硝子炉の中にあって見ることができない「るつぼ」の原型。工房の入り口に展示されています。

上部から背面にかけての丸みがネコの背中のようなので、ネコツボとも言うそう。今では作れるのは国内に1社だけだそうです。
上部から背面にかけての丸みがネコの背中のようなので、ネコツボとも言うそう。今では作れるのは国内に1社だけだそうです。

この中に硝子の原料を入れて炉の熱で溶かし、トロトロの液状になったところを巻き取って玉にするところから、硝子作りは始まります。

中央に大きな炉が据えられた工房。炉には全部で10個の「るつぼ」の口がある。
中央に大きな炉が据えられた工房。炉には全部で10個の「るつぼ」の口がある。

「硝子って600度くらいで固まってしまうんです。だからそれまでに形を作らなければいけない。安定して量産させるために、商品ごとに班を組んで工程を分担しています。例えば富士山グラスなら4人ひと組です」

暖房が効いているかのように暖かな作業場には、職人さんがざっと20人以上はいます。

それぞれに休みなく動く様子は、よくよく見ると中央の大きな硝子炉を中心に班分けされて、全く別のものづくりが進んでいます。その動きがとても息が合っていて、無駄がない。キビキビとして見惚れてしまいます。

炉を中心に様々な製品づくりが班に分かれて進む。
炉を中心に様々な製品づくりが班に分かれて進む。
のばし:液体の硝子を板状に「のばし」てお皿を作るところ。炉から運ばれてくる硝子の塊はまるで火の玉のよう。
のばし:液体の硝子を板状に「のばし」てお皿を作るところ。炉から運ばれてくる硝子の塊はまるで火の玉のよう。
硝子細工:難易度の高い、型を使わずに作る硝子細工。ベテランさんと今年入社したての新人さんのペアで作っていた。
硝子細工:難易度の高い、型を使わずに作る硝子細工。ベテランさんと今年入社したての新人さんのペアで作っていた。
るつぼの中に浮かぶリング。るつぼは常時口が空いているためどうしても異物の混入が避けられない。そこでこの内側だけは常にキレイにしておくことで、職人は輪の内側から硝子を巻き取ればよく、不良の発生率を抑えることができるそう。
るつぼの中に浮かぶリング。るつぼは常時口が空いているためどうしても異物の混入が避けられない。そこでこの内側だけは常にキレイにしておくことで、職人は輪の内側から硝子を巻き取ればよく、不良の発生率を抑えることができるそう。

ぐるりと作業場を一周したところで、ついに富士山グラスを作る班に辿りつきました。取材のために急きょ生産計画を変えてくれたそうで、通常4人ひと組のところを3人で実演してくれます。

1人少ないはずなのに、やはり流れるような連携プレーがここにもありました。

富士山グラスは「型吹き」という製法で作られています。まず1人が器の素となる塊をパイプの先に作り(1)、炉でその周りにさらにガラスを巻き取って玉状にします(2)。

(1)はじめはこんなに小さな玉。
(1)はじめはこんなに小さな玉。
(2)炉でガラスを巻き取り、ここまで大きくなって「吹き」の担当者に手渡される。
(2)炉でガラスを巻き取り、ここまで大きくなって「吹き」の担当者に手渡される。

運ばれてきた玉を足元の型にセットし、パイプを回しながら均一に空気を吹き込んで、硝子の形を整えます(3)。

(3)吹きの工程。先に少し空気を入れ形を整えてから足元の型へセットする瞬間。いよいよここから「型吹き」です。
(3)吹きの工程。先に少し空気を入れ形を整えてから足元の型へセットする瞬間。いよいよここから「型吹き」です。
(3)こちらが富士山グラスの型。よく見ると、裾野に向かって型が斜めに作られている。
(3)こちらが富士山グラスの型。よく見ると、裾野に向かって型が斜めに作られている。
(3)型に入れた後、パイプを回しながら息を吹き込むことで中で型に沿って整形されてゆき…
(3)型に入れた後、パイプを回しながら息を吹き込むことで中で型に沿って整形されてゆき…
(3)富士山型に!
(3)富士山型に!

型から取り出したものは目視で最初の検品をし、OKのものだけ徐冷炉(じょれいろ)というゆっくりガラスを冷却させる炉に運びます(4)。

(4)底の厚みや異物混入が無いかをチェックして、徐冷炉へ。
(4)底の厚みや異物混入が無いかをチェックして、徐冷炉へ。

ガラスは急激に冷やすと表面だけが収縮して内側とバランスを崩して割れやヒビを起こしてしまうため、全ての商品がこの徐冷炉でゆっくりと冷やされるそうです。

(4)成形された製品が次々と運ばれてくる徐冷炉。
(4)成形された製品が次々と運ばれてくる徐冷炉。

「あまり強く吹くと硝子のハダが悪くなるんです」

と教えてくれたのは吹きの工程の職人さん。ハダ、つまり硝子の表面をきれいに出すために、菅原さんの工房では硝子の玉を流し込む直前、型に水を含ませています。水は熱された硝子に触れた瞬間に蒸発して、型と硝子の間に水の膜をつくります。

使う前にしっかりと型に水を含ませる。
使う前にしっかりと型に水を含ませる。

「これによって、硝子が型に直接触れないため、ツルリとしたハダが生まれるんです。

富士山グラスの場合は、裾野の角を出すためにある程度強く吹く必要があります。ところが強く吹きすぎると、今度は硝子が水蒸気の膜を超えて、型に触れてしまう。そうすると表面に型の跡がついてしまうんです。

あの形は、水蒸気を蒸発させ切らずに裾野の部分の角もきっちり出る、という点がまさにピンポイントで…」

4000種ある製品の中でもかなりの難易度だという富士山グラスの開発秘話を、菅原さんが語ってくれました。

※こちらは、2017年1月9日の記事を再編集して公開しました。

二十歳になった我が子と、いつか行きたい「晩酌の名店」たち

成人式が終わり、二十歳を迎えたとき、お酒好きな父と晩酌できるようになったのがうれしかったなぁと思い出しました。

親と子で晩酌するのって、とても感慨深く温まる景色ですよね。今日は、そんな「とっておきの晩酌」をさらに特別なものにできる名店を紹介します。

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由比ヶ浜の風を感じる古民家で、打ち立ての蕎麦をいただく 鎌倉 松原庵

“蕎麦前”という江戸時代からの粋な蕎麦の食べ方はご存知ですか?
この食べ方をお客様に味わってもらうために一品料理の品揃えに注力したお蕎麦屋さんが、鎌倉・由比ヶ浜からほど近い「鎌倉 松原庵」さんです。さて、どのような食べ方が“蕎麦前”なのでしょうか。地元の美味しいお酒とこだわりの空間と共に味わってみましょう。

場所:鎌倉 松原庵
神奈川県鎌倉市由比ガ浜 4-10-3

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奈良吉野のとろけるあんぽ柿に濃厚バター、一期一会の小皿料理

「奈良の美味しいお酒とお料理を。」
注文は、ただそれだけ。この写真を見る度にその美味しさを思い出して頬がゆるんでしまうような、至福の料理に出合いました。

場所:元林院 京富
奈良県奈良市元林院町8

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80年間変わらぬ味でお客さんを迎える「おでん若葉」

金沢となると北陸の新鮮なお魚が食べたい!‥‥となるところ、実は「おでん」も名物なのだとか。
作家の五木寛之さんも愛した名店で、今夜は一献。

場所:おでん若葉
石川県金沢市石引2-7-11

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宍道湖七珍、最高のシジミ汁で〆る松江の夜

宍道湖七珍、最高のシジミ汁で〆る松江の夜

夕日の美しさで有名な宍道湖には、地元民が「ス・モ・ウ・ア・シ・コ・シ」と覚える7つの珍味があるらしい。
一つは「シジミ」。晩酌に立ち寄ったお店でもう一つ出てきたのは、「モ」で始まるプリップリのあれでした。

場所:やまいち
島根県松江市東本町4-1

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沖縄の晩酌におすすめ、花ずみ

大人の沖縄居酒屋「花ずみ」で未知との遭遇。海ぶどうが水槽を舞う

「ここはね、大人の沖縄居酒屋です。器に使っているやちむんもこだわっています」。
地元の方にそう教えてもらって「花ずみ」の暖簾をくぐったのは18時頃──。

場所:花ずみ
沖縄県那覇市久米2-24-12

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気になった記事はありましたか?読み返してみると、また新しい発見があるかもしれません。

当代随一の刀匠、吉原義人が語る「名刀」の条件とは

吸い寄せられる、という言葉が脳裏に浮かんだ。目の前の日本刀が艶やかに、冴え冴えと放つ光沢から、目が離せない―。

1月某日、僕は葛飾区にある当代随一の刀匠と呼び声高い吉原義人さんのご自宅と鍛錬場を尋ねた。吉原さんが作る日本刀は工芸品として世界的に高い評価を得ており、日本の刀匠として唯一、メトロポリタン美術館やボストン美術館に作品が収蔵されている。

取材の途中で、吉原さんが40年ほど前に手掛けたという日本刀を見せてくれた。刀身が鞘から抜かれた瞬間、あまりの迫力に思わず息をのんだ。

40年前に日本一の評価を得た日本刀の切っ先

「これはね、40年ほど前に作ったもので高松宮賞を受賞した刀だよ」。

そう言われて、え! と声を上げてしまった。日本刀の世界で高松宮賞といえば、日本一の称号を意味する。かつて日本の頂点を極めた刀は40年の歳月を経たと思えぬほど一点の曇りもなく、ただただ凛としていた。

「東の横綱」の祖父・国家

1943年、世田谷区で生まれた吉原さん。その礎は、小学生時代に築かれた。

「小学3、4年生ぐらいの時から、じいさんの手伝いで『ふいご吹き』をやってたからね。刀を作るには火加減がすごく大事で、それで良い鉄ができたり、できなかったりするんです。だから、刀鍛冶は自分でふいごを吹いて火を見ながら仕事をする。その一番大切な仕事を任されたんだけど、目の前で鉄の形が変わったりするのが楽しくて、じいさんが刀を作るのを間近でずっと見ていたんだ」

吉原さんの祖父、国家(くにいえ)さんも全国的に名を知られた刀匠だった。吉原さんの自宅の居間には、戦前に記された「現代刀匠人気大番付」が掲げられている。そこで「東の横綱」の地位にあるのが、国家さんだ。

現代刀匠人気大番付
戦前には刀匠として「東の横綱」と称された国家さん

敗戦により、日本ではしばらくの間、刀作りは禁じられていた。それがようやく解禁されたのが戦後10年ほど経った頃。その間に国家さんは火事の技術を活かしてくぎ抜き(バール)の製造業に転じていたが、解禁されたのを機に、刀作りも再開した。

とはいえ、武器としての地位を失った日本刀を注文しようとする人など、ほとんどいなかったという。吉原さんは「戦前は一番の刀鍛冶だったから、注文がなくても作ってみたくなったんでしょう」と推測する。

敗戦によって職を変えざるを得なかった国家さんだが、刀匠として磨いた腕を衰えさせたくなかったのかもしれない。そして、孫に横綱と評された自分の仕事を見せたかったのではないだろうか。

吉原さんは「ただ孫がかわいいから、そばで手伝わせていただけだと思うよ」と笑うが、国家さんは、自分の隣りでふいごを吹く孫に長年培った技術をしっかり伝えていた。

「炎は1200度を超えると湯が沸くような音がするとか、この音が良い音だとか、大事なところは全部教えてくれたよね」

刺激を受けた弟の受賞

刀作りの手伝いは、小学生時代の2、3年で終わった。ふいごを吹くスペースは狭いので、吉原さんの身体が大きくなると国家さんの作業に支障をきたしてしまうし、ほかの作業は子どもに任せられるようなものではなかった。

だから、国家さんの教えが自分の血となり、肉となっていると吉原さんが気付いたのは、高校を卒業し、家の鉄工所で働き始めて2、3年が経ってからのことだった。

きっかけは、1966年、全国規模の日本刀の展覧会「第2回新作名刀展」で、吉原さんの弟、吉原荘二さんが最年少、初出品で努力賞を受賞したことだった。荘二さんも子どもの頃から、国家さんから刀作りの手ほどきを受けていたそうだ。

これに刺激を受けた吉原さんは、「面白そうだな、俺もやろうかな」と刀作りを始めた。その時に気が付いた。

「いざ作ろうと思ったら、やり方が全部わかるんだよ。子どもの頃に憶えちゃってるから、自然とやるべきことが身に付いたんだな」

23歳で文化庁認定刀匠の資格を得た吉原さんは、24歳の時に満を持して新作名刀展に初出品し、努力賞を受賞した。以降、実家の鉄工所で仕事をしながら毎年出品。弟の荘二さんととも受賞を重ね、「とんでもない兄弟がいる」と話題になったそうだ。

そして1972年、29歳の時に最高賞である特賞と文化庁長官賞を受賞。翌年には、新たに創設された最高賞、高松宮賞も受賞。この時、刀匠として生きていくことを決めた。

「オイルショック(1973年)があって、景気が悪くなったんですよ。鉄の原材料も燃料も高くなって、家の鉄工所を続けようにも採算がとれなくなったんだ。でも、日本刀は何度も受賞して生活していくだけの注文がくるようになっていたから、工場を整理して刀鍛冶になっちゃおうと。刀は機械さえあればひとりでできるし、自分だけの生活を考えればよくて楽ちんだからね(笑)」

尽きせぬ探求心

刀匠として独立した吉原さんはその後も連続して最高賞を射止め、1982年、39歳の時には、史上最年少で「無鑑査認定」を受けた。無鑑査認定とは、財団法人日本美術刀剣保存協会によって認められる刀匠にとっては最高位の称号だ。

20代の頃から「天才」と呼ばれ、その重圧をモノともせずに数々の傑作を生みだしてきた吉原さんだが、そのベースになっているのは、祖父・国家さん譲りの才能だけではなかった。「いいものがわからなきゃ、いいものはできっこない」という思いから、眼力を磨くために時間と労力を惜しまなかった。

「僕が二十代から三十代の頃、毎週日曜になると日本刀を研ぐ人、鑑定する人、研究者のような刀のオーソリティが集まって、あちこちで勉強会が開かれていたんですよ。評価の高い日本刀を持ってきて、それを見比べながら、何が良いのか、悪いのかを話し合う。その勉強会をいくつもハシゴしていました」

吉原さんの自宅の書棚には刀剣関連の本が並ぶ

勉強会のハシゴは、最高賞を受賞してからも続いた。会場でほかの刀匠を見かけることはほとんどなかったというから、かなり目立つ存在だっただろう。その探求心は、とどまることを知らなかった。

「よく博物館や美術館にも行きましたよ。ある博物館には、国宝の日本刀が10本ぐらい、重要文化財の刀は地下室にごまんとあるんだけどね。当時はいまほどうるさくなかったから、訪ねて行ってあれとあれを見せてよって頼むと、いいよって出してくれて、手に取って見ることができたんです。写真とかガラス越しじゃ、良し悪しはわからない。やっぱり自分の手に取って、じかに見ないとね」

当時の吉原さんは、すでに新進気鋭の天才刀匠として業界では名を知られる存在だった。恐らく、博物館の職員も、名声におごることなく熱心に訪ねてくる吉原さんに心を動かされ、便宜を図ったのだろう。

数々の勉強会で、あちこちの博物館や美術館で、名刀といわれる刀を何度も何度も、数えきれないほど見比べているうちに、自分が目指すべき方向性が明確になったという。

「素晴らしいものばっかり見るんだから、だんだん本当にいいものがわかってくる。いいものがわかって、はじめてこういうモノを作ればいいとわかるんだ」

「いい刀」の条件

「いい刀って、具体的にはどういうものですか?」と尋ねると、吉原さんは「まずは、形が美しいこと」と教えてくれた後に、意外な言葉を口にした。「あとは、鉄の質感」。

「金属と呼ばれるものは金でも銀でもプラチナでもコバルトでも、全部溶かして使うでしょう。溶かすと混ざり合って質が均一になるよね。日本刀は砂鉄を原料にした玉鋼(たまはがね)を熱して作るんだけど、一度も溶かさない。溶かさないからこそ、鉄の質感が出る。鉄のことを刀の世界では地金というけど、刀を見た時に、地金がきれいいだとか、地金の質感が素晴らしいと表現するんだ」

吉原さんが言う「鉄の質感」を理解するために、900年前からほぼ変わっていないとされる日本刀の作り方を一通り説明しよう。

日本刀の原料となる玉鋼

最初に玉鋼を熱し、叩いて伸ばす。それを割って、破片に含有される炭素量を目視と鋼の固さで見極める。炭素量が多く硬いものは刀の外側を包む「皮鉄(かわがね)」に、炭素量が少なく柔らかいものは刃の内側の「心鉄(しんがね)」として使用される。

硬度で選り分けた鋼の破片をそれぞれ鉄の棒の上に重ねて、火に入れる。これを「積み沸かし」という。十分に熱してひとつの塊になった鋼を鎚で何度も叩いて伸ばし、折り返す。

この「折り返し鍛錬」という作業で、鋼から不純物がはじき出される。皮鉄で心鉄を包む「造込み」という工程の後、再び熱しては叩き、平たい棒状にしていく「素延べ」という作業に入る。

吉原さんの弟子が「素延べ」をしている様子

次の「火造り」という工程で、鋼を小槌で細かく叩き、日本刀の形に成形していく。ヤスリやセンという工具で削り、研ぎあげると、最終工程の「焼き入れ」に入る。刃の部分に粘土で模様を描き、そのまま刀を700度~800度まで熱した後、水に入れて急冷する。

そうすると、粘土を厚く塗った部分と薄く塗った部分で冷却の速度に差が生まれ、刀の硬度にも固い部分と柔らかい部分ができる。この作用によって、最後に研磨をすると、日本刀独特の「刃紋」が現れる。

刃紋は職人のオリジナリティが表現される部分で、刃紋を見ると作者がわかると言われる。吉原さんの刃紋は桜の花が咲き乱れたような賑やかな「丁字乱れ」が特徴だ。

吉原さんの息子で、同じく刀匠の吉原義一さんの刀。父の「丁字乱れ」を受け継いでいる。吉原さんいわく、「いま一番きれいな波紋を作る刀匠」

この過程を見ると、確かに日本刀は鉄を溶かさず、熱を加えて叩くというシンプルな手法で作られていることがわかるだろう。だからこそ、職人の腕ひとつで「鉄の質感」に大きな違いが出るという。

「折り返し鍛錬で不純物を出して、純粋な鉄の層だけにしてから刀にするから、作り手によって質感がまるっきり違う。例えば、木には木目があるように、よく見れば刀の表面にもそれぞれ違いがある。こういう金属の工芸品は、世界広しと言えども日本刀だけ。その質感を楽しむのが、日本刀なんですよ」

「古刀偏重主義」への反発

吉原さんは、若かりし頃から現在に至るまで「鉄の質感」を徹底的に追及してきた。その成果は、冒頭で記した40年ほど前に高松宮賞を受賞した日本一の刀からうかがえる。

刃の表面をよく見ようと顔を近づけた時に驚いたのは、刃が鏡のように僕の顔を映し出していたことだ。「地金」は非常に肌理が細かく繊細で、極限まで研ぎ澄まされているように感じた。この刀がほぼ手作業で作られるのだから、その技量は計り知れない。

40年前に日本一の評価を得た日本刀の「質感」

ところで、吉原さんはなぜ「鉄の質感」にこだわるようになったのか。そこには日本の「古刀偏重主義」への反骨心がある。日本では「古い刀」の評価が高い。いつの時代に誰が作り、どんな人が所有していたかという物語も付加価値になっている。

確かに古い刀は骨董品として貴重だ。しかし、その作り自体を見れば技術的に拙いものもあるという。その未熟さが顕著に表れるのが「鉄の質感」で、吉原さんからすると「刀が汚い」。ところが日本では、いくら作りが甘くても、その刀が古ければ「味がある」と肯定される。それは違うだろう、という想いが、吉原さんのなかで燻り続けた。

「刀は平安時代ぐらいに作られたものも残っているけど、その頃は鉄の作り方も幼稚で、今の刀と比べたら見られたもんじゃない。それなのに世の中では古いだけで味がある、素晴らしいと評価されていて、刀鍛冶にも同じようなものを作らなきゃいけないと勘違いしているのが多いんだ。冗談じゃないよ。そんなことだからいい刀ができないんだ。骨董的な価値と本当の美しさを混同しているんだよ」

ただ古いというだけで評価されるのであれば、現代の刀匠がいくら技術を究めても同じ舞台に立てない。そのもどかしさが、吉原さんの目を海外に向かせた。

顧客の半数を占める外国人

最初のきっかけは1975年、アメリカで開かれた日本刀の愛好者の会合に参加したことだった。この時にできた縁から、1980年にはテキサス州のダラスにある大学の構内に日本の鍛錬所を再現し、材料や工具もすべて持ち込んで刀作りの実演を行っている。

刀の製作に使用する無数の工具

その時、2ヵ月近く現地に滞在して完成させた刀が美術関係者の目に留まり、メトロポリタン美術館とボストン美術館から「買い取りたい」というオファーを受けた。当時から日本の「古刀偏重主義」にうんざりしていた吉原さんは、この申し出に新鮮な驚きを受けた。

全米屈指の規模を誇り、世界的にも名を知られたふたつの美術館が、どちらにとっても初めて日本刀を収蔵するにあたって、骨董品ではなく自分が作った刀を求めるのか、と。

海外の日本刀愛好者や美術関係者は、フラットな視線で刀の美しさそのものを評価してくれる──。そう確信した吉原さんはその後、サンフランシスコとシアトルに鍛錬所を作り、海外の展示会にも積極的に参加するようになった。

また、これまでに4冊、すべて英語で日本刀に関する書籍を出版している。こうして蒔き続けてきた種が実り、いまでは、顧客の半数以上を外国人が占めているという。

「海外の人たちのほうが、理解してくれるんですよ。比べてみろよ、どっちがきれいだと尋ねたら、古いか、新しいか、関係なく素直に美しいと思うほうを選ぶ。だから、海外で本当の良さとはどういうものかをわかってもらって、それを日本に逆輸入したほうが良いんじゃないかと思ってさ。海外で日本刀のファンはいまも増えているしね。こんなきれいな刃物の工芸品は、日本刀だけですから」

74歳の情熱

海外の美術関係者やファンに支えられて、「本当に美しい日本刀」を追い求めてきた吉原さん。その価値は、着実に日本にも広まっていると言っていいだろう。

伊勢神宮の式年遷宮の際に新調される『伊勢神宮の御神刀』の製作者として3度も指名を受け、2016年には、日本刀として最初に国宝指定された1000年前の名刀「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」の現代版の製作を請け負った。こういった大きな仕事と並行して、1本400万円以上する刀を年間に5本から6本、製作。刀匠専業で生活できるのは30人ほどといわれるなかで6人の弟子を抱え、これまでに作った刀は500本を超える。

現在、74歳。24歳の時に新作名刀展で初出品、初受賞してから50年が経ったが、刀作りに対する意欲は衰えを知らない。

「日本では、刀は最初は武器じゃなかったと思うんだ。弥生時代あたりに日本を統一しようとする勢力が中国に挨拶にいった時に、きっと皇帝から権力の証として刀をもらったんじゃないかな。
それで、刀が大事な宝物として扱われるようになった。三種の神器のなかにも草薙剣 (くさなぎのつるぎ)が入っていたり、伊勢神宮にも御神刀があるでしょう。
神聖なものである刀は、芸術的にも素晴らしくしなきゃいけない。だから昔の刀鍛冶もありったけの想いを込めて造ってきたんだと思う。今でもそういう想いで造らなきゃなきゃいけないし、作ってこそ、はじめて刀の良さが出てくるんだと思うんだ。だから、僕もただ一生懸命やるだけですよ。生きてる限り、まだまだいいものを作れると思うんだ」

吉原義人さん

<取材協力>
日本刀鍛錬道場

文・写真:川内イオ

こちらは、2018年1月29日の記事を再編集して公開しました。

コンマ数ミリが価値を分ける。日本にわずか数人、石の声を聞く職人たち

ハマグリの貝殻から作られる美しい碁石。

宮崎県日向市は、世界中の囲碁ファンから愛される白い碁石の最高峰「ハマグリ碁石」を作り続けている唯一の地域です。

ハマグリ碁石
碁石の最高峰「ハマグリ碁石」

世界でここにしか残っていない技術を守り、最高品質の碁石を追求し続ける。

そんな碁石職人の現場を訪ねました。

最低でも5年。碁石の「山」を作るのが難しい

「碁石の綺麗な“山の形”を作るのが本当に難しい。自分でできるようになるまで、最低でも5年はかかります」

そう話すのは、日向市で100年に渡ってハマグリ碁石を製造してきた老舗 黒木碁石店の下鶴美文(しもづる よしふみ)さん。

宮崎県の伝統工芸士にも認定されている碁石職人です。

黒木碁石店の碁石職人 下鶴美文(しもづる よしふみ)さん
黒木碁石店の碁石職人 下鶴美文(しもづる よしふみ)さん

20以上の細かい工程を経て作られるハマグリ碁石ですが、大きな製造の流れは以下のようになります。

「くり抜き」:原料となる貝から碁石に使用する部分をくり抜く

「厚み選別」:原料の厚みを測定して選別する

「面摺り(めんずり)」:厚みを揃えた原料を砥石で削って碁石の形に整えていく

「サラシ」:天日干しをして汚れや黄ばみを取る

「樽磨き」:砥石で削った後も残る細かい凹凸を研磨する

「選別」:磨き上がった碁石を人の目で選別する

この中でも特に難しく、高い技量を要するのが、原料を削って碁石独特の美しい曲面を作っていく「面摺り(めんずり)」。

下鶴さんの言う、「山の形を作る」工程です。

碁石を削る専用の機械
碁石を削る専用の機械。茶色い円盤型の砥石で削っていく

ハマグリ碁石作りでは、専用の機械にセットされた円盤型の砥石を使い、片面ずつ貝を削っていきます。ただし、砥石が真っ平らな状態では碁石独特の丸みを作ることができません。

そこで、作りたい碁石の形に合わせて砥石自体をあらかじめ加工しておきます。実はこの作業が碁石作りにおいてもっとも難しいのだとか。

下鶴さんは、ドレッサーと呼ばれる道具を3種類使い分けて砥石を加工していました。

下鶴さんが、砥石を削るために使う3種類のドレッサー
下鶴さんが、砥石を削るために使う3種類のドレッサー

1本目のドレッサーで大まかに形を作り、2本目で整える。そして3本目にもっとも硬いダイヤモンドドレッサーを使って砥石の表面を滑らかにしていく。

そうして仕上げた砥石で削ることで、碁石の表面もつるつると滑らかな手触りとなり、美しく仕上がるそうです。

ドレッサーを回転する砥石に当てて、形を作っていく
ドレッサーを回転する砥石に当てて、形を作っていく

石の声を聞く

碁石は、コンマ数ミリの厚みごとに細かく「号数」が分かれていて、それぞれ理想の山の形が異なります。

黒木碁石店で、碁石の理想の形として定められている「マスターストーン」
黒木碁石店で、碁石の理想の形として定められている「マスターストーン」

そのため、碁石の号数に合わせて砥石も加工する必要が出てきます。

いざ碁石を削る際も、号数によって削る時間や当てる位置などが微妙に異なるそう。さらに、砥石は使ううちにだんだんと切れ味が鈍くなってくるため、1日に数回、砥石の研ぎ直しも必要です。

加工した砥石に当てて、碁石を削っていく
加工した砥石に当てて、碁石を削っていく

「職人の世界では、先輩の仕事を“見て盗め”と言ったりもしますが、碁石作りは無理でしょうね。

誰かがそばについてやり方を教えなければ、できるようにならないと思います」

確かに。どうすれば習熟できるのかすら、素人には想像できない世界です。

両面を削り終わった後には「端引き(はびき)」という、碁石の“耳”の部分のわずかな角を滑らかにする工程も。

下鶴さんが形を整えた碁石を受け取り、「端引き(はびき)」作業をおこなっていた職人さん
下鶴さんが形を整えた碁石を受け取り、「端引き(はびき)」作業をおこなっていた黒木碁石店の和田さん

専用の砥石に溝を掘り、その溝に碁石を当てて削る作業で、こちらもやはり、砥石の加工そのものが非常に難しいとのこと。

全ての碁石を厳密にチェックし、こうした状態のものは規格外品となる
全ての碁石を厳密にチェックし、こうした状態のものは規格外品となる

碁石を削る砥石も、その砥石を削る道具も、石。

碁石を通じて心が通じ合うことから、「囲碁」の別名を「手談」と言いますが、碁石作りもまた、石との対話であるといいます。

「慣れれば自分の感覚で作れるようになりますよ」

下鶴さん

下鶴さんは笑いながらそう言いますが、慣れるまでに最低でも5年。

碁石職人になりたいとやってきても、途中で辞めてしまう人が大半という険しい道のりです。

失われつつある「手摺り」の技術

なぜ、そこまで精度にこだわって碁石作りをするのでしょうか。

碁石は厚みがあるほど価値が高くなり、わずかコンマ数ミリの違いで価格にして数十万、場合によっては数百万円の差が出てしまうことも。

必然的に、その原料から作ることのできる最大の厚みで碁石を仕上げることが重要になってきます。

特に、もっとも希少で価値の高い“日向産”のハマグリを使う場合は、コンマ1ミリよりももっと細かい単位で、ぎりぎりまで厚みを調整する必要がありました。

日向産のハマグリは、ひとつの貝から一箇所しかくり抜けない
日向産のハマグリは、ひとつの貝から一箇所しかくり抜けない

そんな時に使われていた、ハマグリ碁石職人 伝統の技が「手摺り」です。

手摺りの道具
手摺りの道具

碁石のサイズに応じた溝を掘った砥石と、貝を固定する「貝棒」という独特な道具。この二つを使って手動で碁石を削る方法で、非常に高い熟練の技と経験を要しました。

貝棒に原料をセットして砥石に当てていく
貝棒に原料をセットして砥石に当てていく

実はこの「手摺り」、工場見学などがあった際に、こんな風にやっていましたと披露することはあっても、実際の碁石作りの中で使われることはもうほとんどありません。

なぜなら、日向産のハマグリ自体が採れなくなってしまったから。

現在、流通しているハマグリ碁石は、メキシコ産のハマグリを輸入して加工したものが大半を占めています。

向かって左が日向産のハマグリ。右はメキシコ産
向かって左が日向産のハマグリ。右はメキシコ産

手摺りによって究極まで精度を高めても、メキシコ産のハマグリではどうしても採算が合いません。そうして、「手摺り」の技術も失われつつあります。

機械摺りでも伝統工芸士

黒木碁石店 5代目の黒木宏二さんは、今の機械摺りの技術も手摺り同様に素晴らしいものだと話します。

黒木碁石店 5代目の黒木宏二さん
黒木碁石店 5代目の黒木宏二さん

「かつては手摺りの技巧において、ハマグリ碁石職人が伝統工芸士と認められていました。

しかし、機械を使うようになったからといって、職人さんの価値が下がるわけではありません。その技術や経験は、依然としてハマグリ碁石作りに必要不可欠なものです。

そうしたことを、県や市に伝え続けたことで、昨年、下鶴さんなど数名の職人さんも、伝統工芸士と認めていただけました」

それが仕事として成り立たなくなっている以上、手摺りの技術を継承していくのは難しい状況です。

しかし、もっとも大切なことは、ハマグリ碁石という産業が存続し、世界で愛され続けること。そのために今の状態で何ができるかが重要だと、黒木さんたちは考えています。

人の手が入るからこそ残り続ける価値

「サラシ」工程。黒木碁石店では原料の段階で一度、削った後の状態をみて再度行う
「サラシ」工程。黒木碁石店では原料の段階で一度、削った後の状態をみて再度行う
樽磨き用の樽
樽磨き用の樽
最後は人の目で厳しい品質チェックを行う
最後は人の目で厳しい品質チェックを行う

いくつかの工程で機械が導入されてはいるものの、原料の選定から途中の加工、最終的なグレードの選別まで、全ての段階に人の手が入って作られる黒木碁石店のハマグリ碁石。

「機械で自動にできるものじゃないから、ここまで続いているんだろうと思います」と下鶴さん。

小さい碁石ひとつひとつに技術とノウハウを詰め込んで手作りするからこそ、価値が認められ、ハマグリ碁石は日向の地に残り続けています。

「黒木碁石店の碁石は全世界で通用します。それが誇らしい。

何より、自分が作った碁石が売れるとやっぱり嬉しいですね。大事に使ってもらえればありがたいと思います」

下鶴さん

自分が作っているものが、最高品質であると世界にも認められている。その誇りを胸に、日本にわずか数人のハマグリ碁石職人たちは、今日も碁石を作り続けています。

ハマグリ碁石の文化・産業がこの先100年続くために。老舗碁石店の挑戦についてはこちらの記事をどうぞ。
「白黒つけない」サクラ色の碁石が誕生、その裏側にある囲碁の未来に関わる話

<取材協力>
黒木碁石店(ミツイシ株式会社)
http://www.kurokigoishi.co.jp/

文:白石雄太
写真:高比良有城

【わたしの好きなもの】麻之実油のリップクリーム/スキンバーム

 

乾いたくちびるに、理想のリップクリーム 

社会人になってから、くちびるの乾燥が気になるようになりました。
 
これまでは、あまり乾燥や肌荒れに悩まされることのなかった私ですが、今年で25歳。「お肌の曲がり角」と言われる年齢に。
 
くちびるがカサカサひりひりしていると、常にプチストレスなんですよね。お客様とお話しするときも頭の片隅で気になっていたり、大きく口を開けて笑ったときに口の端が切れるのを感じたり。  
 
疲れがたまっているのかなと、早く寝るよう心がけ、サプリメントを飲んでみても効果はイマイチ。もしかしたらリップクリームや口紅が原因かも?と思い始めてから、私のリップクリーム探しの日々が始まりました。
 
今までは何も考えずに薬局で一番安いものを買ったり、時には100円ショップのものを使ったりしていたので、なにが良くてなにが悪いのか、てんで分かりません。
 
いろいろ試してみてもなかなかしっくりくるものは見つからず、「もうだめだ・・・、わたしのくちびるは一生カサカサのままなのか・・・?」と思い始めた頃、『麻之実油のリップクリーム』に出会いました。
 
最初は「リップクリームに1,800円・・・」となかなか勇気が出なかったのですが、「最後の手段!」と使ってみたら、これがとってもいい買い物でした。
 


まず、しっかり保湿してくれるのにべたつかない。くちびるがぺたぺたしてるとついなめてしまうのですが(たぶん乾燥の大きな原因はこのクセのせい・・・)、このリップクリームなら大丈夫。つけた瞬間から馴染んで、しっとりふっくらしたくちびるにしてくれるのです。

すっとひと塗りすれば一枚の膜をはったように潤って、上から口紅をつけてもそのまま。夜つければ朝までしっとり。皮がむけることもなくなりました。
 
さらに伸びがいいので意外と長持ち。人生で初めて、リップクリームを最後まで使い切りました。安いものをしょっちゅう失くしていた昔よりずっと経済的かも(これはわたしの性格の問題もありますが。笑)。
 

スキンバームは全身に使える優れもの


そしてあとから発売された『麻之実油のスキンバーム』も、きっといいに違いないと確信を持って購入。こちらはくちびるはもちろん、爪や手、髪など全身に使える優れもの。
 
バームを指に取り、くちびるにサッと塗ったあと、爪の保湿まで済ませています。爽やかな植物の香りに癒されます。

薄くてかさばらないので、いつでもポーチに入れていて、旅先でもこれひとつあればなんとかなると思わせてくれる心強い存在です。

 

麻之実油シリーズは、ほとんどが天然由来成分で出来ていて、合成保存料なども不使用。安心して使えるのも嬉しいポイント。  
 
もうこれらなしの生活は考えられません。 

中川政七商店 仙台エスパル店 白石
 

子どもに芽生えた「やり抜く」気持ち。職人体験で学んだこと

暮らしのなかに溢れているさまざまな工芸品。実用性があり、なおかつ美しい、そんな職人の技に憧れる人も多いのではないでしょうか。

今回は工芸に携わる職人に弟子入りし、ものづくりの奥深さや職人の心得を学んでいきたいと思います!

挑戦してくれたのは、小学五年生のたっくんと三年生のあかりちゃん。兄妹揃って、普段からものづくりが大好きだそうです。

「がんばるぞー! おー!」やる気満々です

ものづくりのまち、河和田でいざ弟子入り!

やってきたのは、福井県鯖江市・河和田(かわだ)地区にある「PARK」。
食堂、シェアオフィス、ものづくり工房が併設された複合施設で、2017年に誕生しました。

河和田地区は越前漆器やメガネフレームの産地として全国でも有名なエリア。半径10キロ圏内にたくさんの工房が集まっている地域で、最近では県外から職人を目指して移住する人も増えています。

PARKのものづくり工房は、職人のたまごたちが自由に利用できるように、工作機器が充実。週末にはワークショップやイベントも開催しているなど、ものづくりを通して多くの人が集う空間になっています。

今回、たっくんとあかりちゃんが挑戦するのは「木のトレーづくり」。
長年木工に携わっていた永富三基(ながとみ・みつき)さんに弟子入りします。

永富さんは大阪府出身。河和田のものづくりに惹かれ、6年前に移住しました

まずは、挨拶から。今日は1日よろしくお願いします。

「頑張って素敵なトレーをつくろうね!」

トレーのつくり方は‥‥
・材料の木に下描き
・糸鋸を使って切る
・材料をはり合わせる
・乾いたらヤスリで磨く
・自由に飾りをつけて完成!

シンプルなつくり方ですが、すべての工程が木工の基礎となり、職人には欠かせない技術が隠されています。

材料は「OSB合板」という種類の木材を使います。通常の木材は木目によって加工しやすい方向とそうでない方向がありますが、OSB合板は短冊状の木片をプレスして接着剤で固めたものなので、加工しやすいのが特徴。はじめての木工にはぴったりの素材だそうです。

「わ〜すべすべしてる〜」と嬉しそうなあかりちゃん

普段から工作が大好きで、家でも端材があれば何でもつくってしまうたっくん。
「これなら簡単にできそう〜」と余裕の表情です。

しかし、今回は職人に弟子入りということで、ただつくればいいだけではありません。職人の心得も永富さんに教えていただきます。

「職人の仕事で大切なのは“丁寧に・早く”つくること。時間を意識しながらつくることにも気をつけてくださいね」

職人によっては、1日に同じ作品を何百個もつくることがあるそう。速さと正確さ、どちらも極めてこそ職人として一人前になれるんですね。

急に不安になってきたたっくん

職人の心得を教えてもらったところで、早速トレーづくりを始めていきましょう。まずは、木材にトレーの下書きを描いていきます。

線がずれないよう、二人で協力して木を支えます。

ここまではまだまだ余裕の様子

電動糸鋸を操る魔法の手

下書きが済んだ後は工房スペースへ。
ドーンと存在感のある電動糸鋸が待ち構えています。

電動糸鋸は初めて使うという二人。まずは永富さんが使い方のお手本を見せてくれました。

両手で木材を支え、切りたい方向に木を押し出すことで、線に沿って切れていきます。永富さんが手を動かすだけで、直線も曲線も、思いのままにするする〜っと木材がカットされていきます。

30センチほどの木材が1分もかからず、真っ二つになりました。
わぁ、滑らか!切り口も美しいですね。

「ちょっとした手の角度や力の入れ具合で、仕上がりは大きく変わるんですよ。直線や曲線を思った通りの滑らかさで自由自在に切れるようになるには、僕も何年もかかりました」と永富さん。

トレーの木材を切る前に、まずは直線と曲線を切る練習をします。

恐る恐る木材を動かしていくたっくん。なかなかいい手つきです。

こんな角度のある曲線にもチャレンジ。
曲線は一気に切ろうとせず、細かく向きを調整して少しずつ切り進めるのがコツだそうです。

練習を重ね、自信もついたところでいよいよ本番!トレーの形に切っていきます。練習用に比べて大きなトレーの木材に、あかりちゃんはちょっと苦戦しているよう。

真剣な様子で作業するたっくん。汗が光ります。

じっくりじっくり木を切っていくこと約20分。
ようやく切り取れました!

無事に切り出せて、ほっとひと安心

次は紙ヤスリで切り口を滑らかにしていきます。
「ここはまだザラザラする」と手触りを確認しては、納得いくまでひたすらヤスリがけをする二人。少しずつ職人らしいこだわりが出てきている様子です。

黙々とヤスリがけ。特に角の曲線が難しそう

ヤスリがけが終わったら、土台となる木材にボンドで貼り付けてしばらく乾燥します。

職人に必要なこととは?

乾くまでの間、職人として大事なことを永富さんに伺ってみました。

「私も小さい頃からものづくりが好きでしたが、職人になって一番変わった点は、“自分のつくったものが世に出て誰かに使ってもらえる”ということ。

使う誰かのことを考えるようになってから、これまで気にならなかったところにもこだわるようになりました。根気強くものづくりに向き合う、それが僕の考える職人の姿だと思いますね」

「昔は今よりもっと職人の数が多く、身近な存在だったと思うんです。ですが、今ではなかなか職人に接する機会がなく、どんな仕事かわかりにくい。

だからこそ、子どもの頃からものづくりにふれる機会を増やすことで、職人がどんなことをやっているのかを知っていただき、“ものづくりってかっこいい!”と思ってもらえるとすごく嬉しいですね」

ようやく出来上がり!

さて、ボンドも乾いたようです。
最後は全体が滑らかになるよう、もう一度丁寧にヤスリをかけ‥‥

じゃじゃーん!完成です!

途中、電動糸鋸で切り口がずれてしまい、少ししょんぼりしていたあかりちゃんでしたが、

「大丈夫、手づくりって少しゆがんでいたりするほうが、味があっていいなあ、と思いますよ」と永富さんの言葉でぱぁっと笑顔に。

曲がった線も味わい深いですね

ものづくり魂に火がついたたっくんは、トレーが完成した後も電動糸鋸の自主練に励んでいました。

自分でつくったトレーを使ってみる!

今回、トレーをつくったPARKの一階には、「公園食堂」というカフェスペースがあります。自分たちでつくったトレーを早速使ってみたい!と、最後はトレーに載せるごはんも自分たちでつくりました。

公園食堂のシェフ、小玉和沙(こたま・かずさ)さんから、イーストで発酵させる、イギリスの伝統的なパンケーキのレシピを伝授していただきます。

「公園食堂」の小玉さん

市販のパンケーキミックスを使わず、2種類の粉を混ぜ、じっくり発酵させてつくるパンケーキ。時間はかかりましたが、こちらも手を抜くことなく丁寧につくりました。

自分たちがつくったトレーにできたてのパンケーキを乗せて、いただきます!

いい笑顔!

苦労してつくったトレーなので、愛着もひとしおです。

普段何気なく使っている道具のなかにも、いろんな職人の技が隠されているかも‥‥と思うと、ますますものづくりに興味が湧いた二人なのでした。


文・石原藍
写真・白石雄太、石原藍